2008年05月03日(土曜日)
【体育】 危険なスポーツ
スバル氏が、「ハンマ投げ」と「やり投げ」について、「あんな危ないものを、子供が学校でやるわけでしょう? なんか考えたらいいのに」と苦言を呈していた。たしかに、今どき「槍か?」「弓矢か?」みたいな気は少しする。
しかし、そういう見方をすれば、野球のバットだって危ない。ゴルフのクラブはもっと殺人的だ。スポーツで誤って人を殺してしまった、という事故はけっこうあるのではないか。闘牛を見て、「あんな危ないことしなくても」と思う人は多いだろうし、日本古来の祭りでも、「怪我人が出ない方がおかしい」なんてものは珍しくない。もちろん、やりたい人が覚悟のうえでやるのは良い。けれど、関係のない人まで巻き込まれるのは問題だし、それが普通の中学や高校で行われているとしたら、「大丈夫なのか?」という心配も一理ある。
どうして、もっと剣玉とかお手玉とか、怪我をしにくいものがスポーツにならないのか不思議だ。それはたぶん、スポーツの多くが「戦い」を模擬しているし、戦闘能力を鍛えるために生まれたことに関係しているだろう。「平和の祭典」なんていっているが、元を辿れば、そこはかとなく戦争ムードなのだ。
しかし、これはスポーツに限らない。多くのゲームが、戦略的なものを模擬している。それは、現代のゲームでも同じで、内容は全然平和的ではないものがほとんどだ。
もちろん、それが悪いわけでは全然ない。まったく問題ない。気をつけてやりましょう、というだけ。
普通の人がいきなり真似をしたとき、一番危ない(ように見える)のは、スキーのジャンプではないだろうか。あれって、着地のスロープをもっと低く伸ばしたら、いくらでも、何百メートルでも、飛び続けることができると思う。2分くらい滞空していたら、凄いだろうなあ、と思いながら観ているのだが、あまりにも危険すぎるか。
2008年04月14日(月曜日)
【体育】 ボールの回転
一般にボールは回転しながら飛ぶ。回転しないで飛ぶこともあるが、むしろ難しい。ちょっとした力の差で、たいていはどちらかへ回転してしまう。子供の質問で、「何故、地球は回転しているのですか?」なんてのが多いが、止まっている状態の方が奇跡的なだけである。
ボールを普通に投げると、ボールの前から見たとき、下から上へ模様が流れるような回転をしている。ボールから手の指が離れるとき、このような力をボールに与えてしまうからだ。この回転によって、ボールの飛び方は違ってくる。
ボールが回転していると、ボールの表面に触れる空気がこれにつられる。ボールに当たった空気は、ボールの上を通る流れと、下を通る流れに分かれるが(もちろん左右にも分かれるけれど)、この分岐する位置が回転によって移動するし、上下に分かれる空気の量もアンバランスになる。たとえば、飛行機の主翼の断面も上下で非対称になっているため、上下に分かれる空気のバランスをわざと崩して、気圧差を生じさせることで揚力を得ている。これと同じように、上記の方向に回転するボールも空気によって揚力を得る。だから、遠くまで飛びやすい。回転がある方が、伸びが良いボールになる。逆に、この回転を少なくする投げ方をするのがフォークボールなどの「落ちる球」だ。また、回転を横方向に与えたものがカーブやシュートになる。
卓球やテニスでも、カットといってラケットを下げながら打ったボールはこの回転が付き、球が浮いて落ちにくい飛び方になる。逆にラケットを上げながら打つと、ネットを越えて鋭く落ちる回転になる(ドライブをかけるというのかな)。
これは「理科」ではないか、とも思ったが、理屈が詳しく説明されていないので、「体育」にした。
2008年04月05日(土曜日)
【体育】 身についているスポーツ
4教科以外では図工が多いと思う。音楽は最近、FM東京で週刊連載を始めたので、ネタはそちらへ回しているから、ここでは書けない。というわけで体育を書こう。
僕はこう見えても(どう見えるか知らないが)、わりとスポーツをいろいろやった方だと思う。学校の運動部にも沢山所属したことは以前に書いた。数えると10以上ある。だが、今はなにもしていない。たとえば、もう20年くらい泳いでいないし、ゴルフも20年以上やっていない。ボーリングやテニスを最後にやったのも10年くらいまえかな。
ときどき久しぶりにそのスポーツをしてみると、子供の頃にやっていたものの方が違和感なくできる。大人になってから覚えたものは、どうもしばらく上手くできない。昔のことほど良く覚えている、というのが、どうやら躰でも同じらしい。特に僕の場合は、左右両利きなので、左右どちらでやっていたかを思い出すのに時間がかかったりする。これが原因かもしれない。
たとえば、野球系のもので、キャッチボールをしたり、キャッチャへ速球を投げ込んだり、バットで打ったりするのは、すぐにもできるだろう。卓球もなんなくできる自信がある。ところが、ボーリングやテニスは、しばらく勘が戻らないかもしれない。これらは、高校か大学で初めて経験したものだからだ。中学のときは剣道をしていたけれど、今でも素振りなどはすぐできると思う。泳ぎ方を忘れるようなことはないし、歩き方も大丈夫だと思う。海外へ半年ほど行って、戻ってきてから車を運転したりするのも大丈夫だった。車は大人になってから経験したにしては、身についている。毎日しているからだろうか。このまえ公園の鉄棒で逆上がりをしてみたら、意外にもちゃんとできた。
ヨーヨーとか剣玉なんかも、子供のときにできた人はいつまでもできるようだ。
2008年02月11日(月曜日)
【体育】 風邪の予防
滅多に風邪をひかないのだが、それはたぶん、自分の体調に関して人よりも敏感なのだと思う。とにかく躰が弱いからこうなった。ほんの少し調子が悪くなるだけで、満足に活動ができないため、いつもある程度の体調を維持していたい、と常に意識し、努力をしている。その結果、幸いにも風邪をほとんどひかないでこれまできた。子供の頃はもっとしょっちゅうひいていたが、成人してからは、数回しかない。
少し喉に違和感がある、というくらいで、もう徹底的に養生をする。暑いくらいの格好をして、なるべくじっとしている。気をつけることは、1)食べる量を減らす(水分は取る)。2)なるべく動かない(体力の消耗を防ぐ)。3)早く寝る(睡眠時間を多くとる)。の3点。薬は飲まないし、医者にも行かない。
この対処で、10回のうち9回は回復できる。通常は2日くらいで体調が戻る。大事なのは、最初の兆候に対して、早く手を打つことだ。しかし、この2日の間に、どうしても不健康な活動をしなければならない場合もある。こういったときは、上記の対処が遅れ、結果的に回復が3〜4倍遅くなる。ただ、それでもできるかぎり、1)〜3)を取り入れることには変わりない。
子供のときは、すぐに薬を飲まされた。すると、風邪の症状は一時的に治まっても、どうしようもなく気持ちが悪くなる。お腹が痛くなったり、別の不具合が出る。そして、またすぐに風邪をひくように思われる。
20歳になってから、薬を飲まないようにした。自然に治すように努めた。その結果、少しずつ風邪をひかなくなったようだ。
ただ、感染する風邪は別である。これは、とにかく暖かい空気の人混みを避けること。これに尽きる。
2008年02月02日(土曜日)
【体育】 チームプレィ2
前回、チームプレィが幻想だと書いた。「そんなことはない、仕事でもチームプレィはあるぞ」というメールが殺到するだろうと予想していたが、全然少なくて肩すかしだった。続きを書くのはやめようかと思ったものの、いちおう書くつもりだった続きを。やや難解かも。
「チームプレィ」の定義が人それぞれである。「共同作業」や「団体行動」もチームプレィだと認識している人も多い。この定義では、ほとんどすべての仕事がチームプレィになる。自分1人だけで成り立つ仕事なんて存在しない。
スポーツでいうと、リレーはチームプレィだろうか? 順番に1人ずつ走ったり泳いだりするあれだ。僕の定義ではリレーはチームプレィではない。個人の役割が明確に決められている。バトンを手渡すときに「息が合う」必要はあるが、それだけのことだ。遅い人の分をカバーしたりして、結果を共有するから「共同作業」ではある。また、体操のチーム競技なども、単に点数を合計するだけで、チームプレィではない。
僕が「チームプレィ」としてイメージするのは、チームの勝利のために自分の能力を抑制するプレィである。すなわち、能力を充分に発揮しないプレィのこと。たとえば、ヒットやホームランを狙わず、バントをするような場合だ。「犠牲」とか「貢献」という言葉がよく使われる。
「貢献」は当たり前にしても、「犠牲」は仕事にもたしかにある。しかし、仕事の場合の「犠牲」は、労力をかける方向だ。リレーなどに見られるように、他人が遅れた分をリカバするために頑張る行為である。「ここはひとつ、チームのために全力を出さないでくれ」という場合とは異なる。「代わりに君が謝ってくれ」といった「尻ぬぐい」も仕事にはあるが、バントの「犠牲」とはだいぶ意味が違う。この差がご理解いただけるだろうか?(わかっても何の得もないけれど)
スポーツでは力を注ぐと観客から脚光を浴びる。プレイヤ個人が注目される。それをしないで、チームのために少し自分を殺したプレィをした、というのが僕が定義するチームプレィである。これは首脳陣には評価される(ここは仕事の場合と同じだ)。ただ、ファンには、ホームランやヒットの方がアピールする。ここが違う。記録やファンによる評価、すなわち「個人に対する外部評価」がないため、一般の仕事にはチームプレィなる概念がそもそも存在しない、と思うのだ。したがって、スポーツのように、ファンの評価を受ける仕事(たとえば映画製作とか音楽演奏とか)は例外になる。
2008年01月27日(日曜日)
【体育】 チームプレィ
チームでプレィするスポーツは多い。チームワークが要求される。ときには、個人技で優るプレイヤが大勢いるチームよりも、バランス良くまとまってチームプレィができる方が勝つこともある。たぶん、監督は口を酸っぱくして「チームプレィを」とか、「一つになって」とか、叫び続けていただろう。
でも、ワールドカップやオリンピックなどの国際試合になると、国を代表するチームが新たに結成される。このとき、国内で一番強いチームが選ばれるのではなく、あちこちのチームから良い選手だけをピックアップする。つまり、チームプレィよりは、やはり個人技なのか? チームプレィなんかちょっと練習すればカバーできてしまうものなのか、と思えてしまう。
たとえば、二人三脚の世界チャンピオンに、陸上短距離の世界1位と2位が組んで挑んだら、勝てるだろうか、というような疑問だ。たぶん、短期間であれば、日頃チームを組んでいる方が強く、練習時間を積むほど、ポテンシャルの高い者が組んだチームが強くなってくるのだろう。また、個人によっても、チームプレィに向いている才能と、そうでない才能があると思われる。
ところで、残念ながら、社会ではスポーツほどチームプレィが際立って大事だという仕事はない。大勢で作業をするときも、個人のノルマや役割が明確に決められている。チームで一丸となるようなことは稀だ。ノン・フィクションではかなり多く描かれているけれど、実際にはまずない。チームワークというものにみんなが「憧れて」いるのだ。「力を合わせれば勝てる」という幻想かもしれない。
2007年12月21日(金曜日)
【体育】 小説家的筋力
西尾維新です。
特別講義の最終回となる本日は【体育】です。本当に【国語】をやらなかったよこの人! みたいな感じでしょうか? そうなってるとよいのですが。
それでは予告した通り、小説家であり続けるとはどういうことなのかについて話します。まあまだ6年くらいしか続いていない僕が言うのも変な感じですが、周囲の色んなかたの話も含めて、ということです。
一言で言って、疲れます。どのくらい疲れるかと言うと、他の仕事と同じくらい疲れます。個人業であるがゆえの自由さはありつつ、昨日話したように、サービス業としての不自由さもあります。気楽な部分もあり、憂鬱な部分もあり。そんな感じです。だから『小説家は楽そうだから』みたいな動機、あるいは『小説家という激しい戦いの場に身を投じたい』みたいな動機をお持ちのかたは、何らかの肩すかしを食らう形になると思います。
普通に疲れる。その疲労に相応しい対価を得られるかどうか(その疲労以上の対価を得られるかどうか)が不確定なのも、究極的にはいつでもやめられる(いつやめることになるかわからない)のも、他の仕事と同じです。仕事としての信頼度や各種保険についての問題など、普通に疲れる割には客観的に見てリスキーなのは確かですが……。
まあ結局何が言いたいかというと、 疲れちゃうから身体を壊すようなことはしないほうがいいかもね、ということです。健康管理をしっかりできる人が最終的には生き残るという話ですか? パソコンに向かって打鍵し続けるというのも単純にしんどい行為ですし、筋トレまですることはないでしょうけれども、何をするにもまずは身体が資本です。小説執筆に熱を入れるあまり、身体、そして生活や人生を台無しにすることのないよう、ご注意ください。
さて、こんなところで、僕の行う特別講義はおしまいです。つたなく、またかなり押しつけがましい極論を述べてしまったようでお恥ずかしい限りですが、反面教師としてでも、今後の参考にしていただければ幸いです。
ご清聴ありがとうございました。
2007年11月13日(火曜日)
【体育】 大勢で見る
若い頃はけっこう野球を見た。球場へ行ったことも少なくない。そもそもスポーツは、大勢が一箇所に集まって観戦するものだった。それが、TVが発展したおかげで、プライベートな場所で、ひっそり一人だけで楽しめるようになった。場所も時間も自由になったけれど、ここでなにかが欠落したことはまちがいない。
音楽でも同じことがいえる。もともとは、王様でないかぎり、音楽は必ず大勢で聴くものだった。それが、録音技術の発展でプライベートなものになり、どこでも好きな音楽が自由に楽しめるようになった。しかし、やはりライブに足を運ばないと得られないものがあるはずだ。抜け落ちているものがある。
臨場感という言葉で表されるものは、映像や音の質だけではない。場の雰囲気の大部分は、自分のほかにも同じことをしている(あるいは感じている)人間がいる、という感覚だ。同時であり、同所であるがゆえに感じやすい。この感覚は、たぶん人間が「群れ」をなそうとする習性に根づいているものだろう。見て、聴いて、感動している自分を、同じものを見て、聴いて感動しているだろう他人と比較して、確認したいのだ。一緒に楽しみ、一緒に笑いたい。
この傾向は、インターネットでも随所に見られる。プライベートが基本の世界なのに、「一緒にいたい」気持ちがそこかしこに現れていて、掲示板やブログでも周囲を気にしている人たちが大勢観察できる。おそらく、20世紀後半のプライベートな文化の反動として、また群れをなしたい心理の再燃が今のムーブメントなのだろう。
2007年10月27日(土曜日)
【体育】 ソフトボール
小学校4年生のときだったか、初めてソフトボールという競技を体験した。まず、びっくりしたのはボールが大きいことだった。それまでにも、野球に似た遊びは多くやっていた。グローブやバットがあれば、軟式のボールを使ったし、そうでないときは、ゴム鞠のような軟らかいボールで野球をした。グローブがいらないし、バットの代わりに拳骨で打ったり、その辺に落ちている棒を見つけてバットの代わりにした。そうだ、グローブの代わりに野球帽で取ったりもしていた。
ソフトボールは、このゴム鞠ボールに比べればずっと硬い。バットで打てば遠くまで飛ぶし、やはりグローブが必要だ。しかし、大きいのでグローブからはみ出しやすく、ハンブルしてしまうことが多い。少し軟らかい場合には、打球が楕円形に変形して、不規則な運動をして飛んできたりするから、これも取りにくい。投げるときにも、小さな手では掴みきれないので、コントロールも定まらない。せめて、テニスのボールくらいだったら良かったのに、と思った。
ラグビィ・ボールは不規則にバウンドするように、わざと変な形をしているけれど、ソフトボールも、わざと扱いにくい大きさと柔らかさになっているのだろう、と想像したのである。ところが、そういった意図がないことがわかって、あとでびっくりした。もう少し小さくできなかったのか、と思ったのだが、たぶん安全性のためなのだろう。
小学校高学年から中学、高校、大学までに、ソフトボールを何度やっただろう。数え切れない。とにかく、みんながやっていた。そういう時代だったみたいだ。
2007年09月28日(金曜日)
【体育】 野球と相撲の衰退
もう10年近くまえに将来の予想として書いたことだが、野球と相撲の人気はじり貧である。その当時は、まだ相撲は人気があって、満員御礼を続けていた。サッカーの台頭でプロ野球が少しだけ人気を奪われたが、一時的なものだといわれていた。巨人が強くなりさえすれば、野球の人気は戻る、とさえいわれていた。
当時、僕がそう感じたのは、自分の子供たちが、野球や相撲にまったく興味を示さなかったからだ。彼らは、相撲などとったことがない。野球もしたことがない。小さいボールは顔に当たると危ないから学校でも禁止されていた。グローブなど持っている子供はまずいない。小さいボールの投げ方も知らなかったのだ。相撲や野球をTVでときどき見ても、ルールがまったくわからない。アナウンサも解説者もルールの説明をしない。球場へ連れていったこともあるが、そこでも、もちろん初心者に対するフォローは皆無だ。見ていても、退屈な時間があまりに多すぎるし、つまらないと彼らは言った。ああ、もうこれらのスポーツの人気も長くはないな、と思うのに充分だった。
かつては、スポーツといえば相撲か野球だった(もう少しまえには、プロレスが大人気だった)。そのあと、一時的にはボーリング、そしてゴルフもだんだん盛んになった。しかし、大衆が一方向を見て同じものに注目している社会は、つまり「貧しかった」ということ。したがって、これまでの人気が異状だっただけで、将来どんどん人気が落ち、落ち着くところが、そもそも相応しいレベル、ということになる。
僕は高校野球は大嫌いだが、プロ野球は好きだ。この頃は見ないけれど、見れば面白いとは思う。ただ、やはり何時間もそれにかけるほど暇ではない。もっと楽しいことが自分にはある。そういう人が増えた、ということだろう。当然ながら、嘆くような状況では全然ない。
2007年09月26日(水曜日)
【体育】 自責点
自責点は、野球の用語で、ピッチャがどれだけ点を取られたかをカウントするもの。ただ、エラーがあったときは、ピッチャの責任ではないので加算されない(厳密に知りたい人は調べよう)。ピッチャ自身がエラーをしても自責点にならない。
たとえば、ぼてぼてのピッチャゴロだったのに、3回も連続でハンブルしてしまいアウトにできなかった。これでノーアウト満塁になってしまった。3人のランナは、エラーによって出たので、ピッチャの責任ではない。エラーしたのがピッチャ本人であっても、それは内野手としてエラーをしたわけで、ピッチャとしては打ち取っていた、と見なされる。ここで満塁ホームランを打たれて4点を献上しても、自責点はゼロだ(あまり自信がないが、たぶん)。さらに、そのあと連打されて10点が入っても自責点はゼロである。つまり、3アウトを取っていたはずなので、ピッチャとしてはそのイニングは0点に押さえた、と見なされる。
ただし、上記のノーアウト満塁の時点でピッチャが交代し、同じように満塁ホームランを打たれると、そのピッチャの自責点として1点がカウントされる。打たれたホームランの分だけだが、そのピッチャはまだアウトを取っていないからだ。
防御率というのは、こうしてカウントされた自責点を9イニング、つまり1ゲーム当たりに平均したもので、1試合でだいたい何点取られるピッチャかを示す数字である。この数字が小さい方が良いピッチャなのに、「防御率」というネーミングはいかがと思うが。
年金問題とかは、明らかに安倍内閣の自責点ではない、という具合に優しく見てあげるようなスポーツマンシップは、マスコミにも国民にもなかったみたいだ。
2007年09月13日(木曜日)
【体育】 の戯曲 by 太田忠司
○夏の終わりの午後、喜蔵と妻の妙子が縁側に出て蝉時雨を聴いている。
喜蔵「昨日の野球のテレビ中継、あれは、いささかつまらなかったな」
妙子「あら、ご贔屓のチームが勝ちましたのに」
喜蔵「勝敗の問題じゃない。最後まで試合をしてくれなかったのが不満なんだ」
妙子「そうでしたの? 雨でも降ったんですか?」
喜蔵「いや、9回の表まで試合をしたら、それでゲームセットになってしまった」
妙子「それはでも、先攻のチームが負けていたからではありませんの? 最終回でも逆転できなかったら、もう勝敗は付いてますもの。それ以上試合を続けても意味がありませんわ。だから9回の裏はしないで終わらせる。そう決まっていると聞いておりますけど」
喜蔵「おまえの言うとおりだ」
妙子「でしたら……」
蝉の声が止む。喜蔵はグラスの麦茶を一口飲む。
喜蔵「勝敗が決まったら、それ以上試合を続ける意味はないことくらい、わしもよく知っとる。これでも五十年以上、野球を見続けてきた人間だ。だがな、この頃そういうことが、妙にその、気に入らんのだよ」
妙子「そういうこと、と言いますと?」
喜蔵「勝敗が決まったからといって、さっさと止めてしまうことだ。なんというか、不公平な気がする。お互いがそれぞれ9回ずつ戦って勝敗を決するというのが正しい姿じゃないかと思えてならんのだ」
再びグラスを口に運ぶ喜蔵。空になったグラスに妙子が冷えた麦茶を注ぐ。
喜蔵「わかっとるよ。わしが理屈に合わんことで文句を言っとるのはわかっとる。だがな……だがなあ……」
空を仰ぐ喜蔵。
妙子「あなたの仰ること、わかりますわ」
喜蔵「追従を言わんでもいい」
妙子「いいえ、追従なんかじゃありません。わたし、あなたと四十年も一緒におりますもの。きっとあなたと同じようなことを思っているひとも、他にいると思いますわ。昨日の試合を見て不満に思ってるひとが」
喜蔵「いるかな?」
妙子「いますとも」
喜蔵「そうか、いるか」
喜蔵の顔がほころぶ。
蝉の声が再び始まる。老夫婦を包み込むように、蝉は鳴き続ける。
2007年08月31日(金曜日)
【体育】 走り高跳びの不思議
いちゃもんをつけるつもりはまったくないので、心静かに読んでいただきたい。単なる、素朴な疑問です。
陸上競技の走り高跳びでは、ほとんどの選手がバーに対して真っ直ぐに向かっていかない。横から回り込むように、斜めにバーを跳び越える。ハードル競技では、跳ぶときには、走る方向に対して直角に障害物が置かれている。棒高跳びでも真っ直ぐにアプローチする。走り高跳びも、本来はそうだったはずだが、なにかの理由があって、斜めに跳び越える方が有利だということになったと思われる。
真っ直ぐ(バーに直角に)跳ぶ場合、選手が走った軸に沿って、垂直の断面を考えると、バーは1点(正確には小さな円)になる。選手は自分のジャンプの最高地点をここに一致させることが課題になるだろう。一方、斜めにアプローチしたときは、断面は同じ1点(正確には楕円形)だが、バーの前後が同じ高さで障害として存在することになる。極端な話、バーに対してもの凄く小さな角度でアプローチしたら、バーが低くても跳び越えられなくなってしまう。
たとえば、ボールを投げて、バーを越える競技をした場合は、明らかに正面から真っ直ぐに(バーに直角に)投げる方が有利だ。斜めになると、ボールの大きさの分、ボールが越える部分のバーが見かけ上長くなり不利である。
この考え方のどこに誤りがあるだろう? つまり、人間がジャンプして跳び越えるときには何故バーに対して斜めにアプローチするのか、と考えてみよう。即答できますか? というよりも、どうして誰もこの疑問を口にしないのか、という点も不思議だ。
(答を求めないし、メールおよび掲示板書込み禁止)
2007年06月18日(月曜日)
【体育】 特別講義1「給食」
って。おい。「特別講義」のはずが、いきなり「給食」かいっ。と自分にツッコミを入れてる西澤保彦です。そもそも小・中・高と、わたしが通っていた学校に給食はなかったにもかかわらず。従って「給食係」なるものも経験したことがありません。ただ「牛乳係」なら、やったことがあるんですね。牛乳係とは、その言葉通り、昼休みになるとクラスの生徒全員に牛乳を配る係です。生徒たちは毎日、持参した弁当か、もしくは学校指定業者が売りに来るパンを、牛乳といっしょにいただかなければいけないことになっていたのでした。
自分で言うのもなんですが、わたしは当時から至って素直な子供で(単に思慮に欠けてるだけとも言えますが)大人の言うことはすべて正しいのだと鵜呑みにしがちでした。ところが、そんなわたしですら「牛乳は身体にいい」とは、とても信じ難い。こんなまずいもの、しかも無料ならともかく、お金まで払って飲まなきゃいけないなんて。絶対になにか、まちがってる。不条理に思いながらも、表立って反抗もできず、ただ苦行に耐えていたのでした。いまでこそ、他の動物の乳を人間が横どりするなんて不自然じゃないか、といった理屈も思いつきますけれど、当時は「食べ物の好き嫌いは悪であり、ワガママ」といったお題目に反論できる術はなかったのです。しかし、あのマズイものをむりやり飲まされたという恨みは、大人になっても消えるどころか、いや増すばかり。そんなわたしの興味を惹いたのが「牛乳は身体に悪い」という説です。
牛乳はカルシウムが豊富で、骨が丈夫になるとされている。ところが、その牛乳のカルシウムを吸収するためにはラクターゼという酵素が必要で、日本人の腸にはこれが少ないらしいんですね。おまけに世界一の牛乳消費量を誇るノルウェーでは、骨粗鬆症の発生率が、なんと日本の五倍。骨が丈夫どころか、弱くなるんじゃねえかって話です。これが正しいか否かはともかく、恨み骨髄のわたしは現在、大いばりで「牛乳は嫌いだ、身体に悪い」と公言するようになってます。そんなこと言いながら実はチーズなどの加工食品はけっこう口に入れたりしてるので、言行不一致と非難されても仕方がないんですけれど。要するに、これも「喰いものの恨みは怖い」ってことですね。って。意味がちがいますかそうですか。
2007年06月17日(日曜日)
【体育】 病気と薬
またまた「保健」である。
病気で一番確率的に多いのは風邪だろう。僕も何度か風邪をひいた。これは本当に辛い。
僕は十代までもの凄く病気が多く、入院も何度かした。いつも医者にかかっていた。風邪もよくひいた。体力がないから、ちょっと体調が悪くなるだけでなにもできなくなってしまう。逆にいえば、ほんの少しの兆候をいつも気にするようになった。
大人になってから、とにかく自分の体調を維持することがとても大事だと考えた。仕事をするためには、これが第一だ。そこで、それまでの治療方法を疑うことにした。注射を打たれ、薬を飲むが、そのせいで体調が悪化するような気がしていたのである。
またあるときは、医学部の中国留学生(50歳くらいだったけれど)が、風邪薬を飲んで風邪を治すと、それが躰に残り、20年後くらいにいろいろな障害として現れる、と教えてくれた。さらに、スバル氏がその頃ぜんそくに苦しんでいて、いろいろ薬を試していたが、そのうちにアスピリンのアレルギィになってしまい、大変なことになった。薬は恐いものだ。
それで、僕は薬を飲まないことに決めた。以来30年間、薬を飲んでいない。例外として、2回だけ、どうしても出席しなければならない学会のために、通常は2、3錠の風邪薬を割って、半錠飲んだ。それだけである。頭痛薬も飲まない。胃腸薬も一切飲まない。そうして以来、一度も医者にかかっていない。幸い、大きな怪我もしていない。歯医者は28歳のときに通ったけれど、それで懲りて、毎日欠かさず歯を磨くことにして、その後、一度も行っていない。
風邪をひいたときはどうすれば良いか。そのまえに、まず、ひかないことだ。ひきそうなときに、すぐに休むこと。睡眠が一番効果的である。そして、具合が悪くなったら食事をしない。水分だけを取る。消化で体力を消耗しないためだ。元気を出そうとして食べようと考えるけれど、それは逆。病気になったときはなにも食べない。動物はみんなそうしている。そもそも動物は皆、病気を治す力を持っている、と信じよう。
大事なことは、自分の躰の調子に注意することだと思う。幸いにも、自力で治せないような大病には、その後かかっていない、というだけのことだが。
2007年06月10日(日曜日)
【体育】 睡眠
今日も保健である。
「どうも寝足りない」とこぼす人が多い。もっと寝ていたかったのに起こされた、それが体調が悪い原因だ、と考えているようだ。これは、僕もそのとおりだと以前は思っていた。そして何度か、思いっきり、もうこれ以上寝たくない、というまで寝ていよう、と実際に試したことがある。しかし、どの場合もやはりすっきりはしなかった。どちらかというと、寝過ぎると体調が悪くなる。そのあとリズムが狂うし、全然良いことはない。
何時間眠ったか、と時計を見て計算することも、あまり良いとは思えない。それよりも、寝たいときに眠り、目が覚めたときに起きる、という方が自然だ。動物は、時計など持っていない。時計を持っている方が健康的、ということはないだろう。
ただ、そうはいっても、やはり体調を長く維持することが、この社会では要求される。疲れたからといって、いつでも休めるわけではない。そうなると、そこそこのコンディションを維持することが必要だ。最高のコンディションを週に1度だけ実現すれば良い、といった仕事は、プロ野球のピッチャのような特殊な職業だけで、たいていの人は、最高ではなくても、週の5日はそこそこの状態を保ちたい、というところが希望だろう。
いろいろ試してみて、僕が至った結論が1つある。それは、毎日を同じパターンで過ごすことだ。寝る時刻、起きる時刻を、毎日ほとんど同じにするのが良い。それは時計を見つめた生活ではないか、というと、そうではない。同じパターンを繰り返すうちに時計などいらなくなる。同じ頃に眠くなり、同じ頃に目が覚める。「規則正しい生活」なんていうと、いかにも説教臭くなってしまうが、これがどんなものよりも有効だ、と今は考えている。土日も同じパターンで通す方が良い。特別な日を作らない。特別なことをしない。
つまらない生活だな、と思われるかもしれない。しかし、面白いかつまらないかは、生活のパターンではない。そのパターンの中で何をするか、ではないだろうか。
もちろん、そんな毎日はつまらないと感じる人は、しない方が良い。昨日書いた食事法も、今日の生活法も、けっしておすすめしているわけではない。
2007年06月09日(土曜日)
【体育】 朝ご飯抜き
「体育」だが、雨降りなので「保健」になった、と思ってほしい。そんな懐かしいディテールは無用か……。
朝ご飯を抜くことは健康に良くない、あるいは、活発な生活のためにもマイナスだ、と聞く。なかには、頭が働かないとか、頭が悪くなるとか、かなり極端な意見も耳にする。
しかし、僕の周囲では、朝ご飯を食べる人はかなり少数派である。ほとんどの人が、朝ご飯を食べない。しかし、誰も仕事ができないとか、頭が回らない人はいない。朝ご飯を食べなくても有能な人ばかりだ。
僕自身、朝ご飯を食べるのをやめてから30年近くになるが、それ以前と比べて、圧倒的に健康になった。食べない方が調子が断然良い。ときどき食べてみると、すぐに駄目になる。
そもそも3食きちんと食べなければならない、という理由がどうも納得がいかない。僕は現在1日に1食だが、これは、すべてを試してみて、最も自分に合っているとわかったからである。それぞれ、数年間も試した。
もちろん、自分が良いと信じる生活をすれば、それで良い。「朝ご飯を食べるな」という話をしているのではない。どうか他人に対して、「朝ご飯は食べるべきだ」なんて押しつけがましいことを言わないでもらいたいだけである。食べても食べなくても、どちらでも良いではないか。
ただし、過酷な肉体労働をする人の場合はエネルギィが必要だろうし、また、成長期の子供も3食きちんと摂るべきだと思う。動物でもそうだが、子供のときはたいてい大人の3倍くらい食べる。だから、人間も大人になったら、子供のときの3分の1程度に減らすのが自然だろう、というのが僕の意見。
大勢が食事の回数を減らすと、それは経済的なダウンに繋がるはずだ。農業、工業、サービス業、あらゆる産業が不況になる。きちんとした食事をしよう、というキャンペーンは、こんなところから発しているのではないか、と思えるほどだ。しかし、食事を減らすことは、自然環境には明らかに良い。大食いは地球環境を破壊している、といっても過言ではない。
自信を持っていえるのは、食欲がないときに無理に食べるな、ということ。食欲がなくなったときに飲む薬があるが、あれが信じられない。食べたくないときに、薬を飲んでまで、無理に食べるなよ、と思うのだが……、まあ、これも個人の勝手か。
2007年05月10日(木曜日)
【体育】 スポーツウェア
スポーツの中には、明らかにその環境に適していないファッションのものがある。その最たるものといえば、フィギュアスケートだ。あれはスポーツではないのだろうか? 冬のスポーツのはずだ。氷の上にいるのだし、ジャンプなんかして転んだりするのだから、もっとプロテクトするなり、それ相応の服装があるだろう、と思うのだが……。
長いパンツを穿いて脚を出さない方が良いだろう、と思われるものはほかにも幾つかある。たとえば、バレーボールがそうだ。ビーチバレーなんか、巫山戯ているとしか思えない。
野球のユニフォームも、ズボンの裾を靴下の中に入れるから変だなあ、と子供の頃に思っていたが、今の子供たちは、シャツをズボンの中に入れるのが変だな、と感じているだろう。シャツを出していた方が涼しくて良いのでは?
剣道の防具も、もっと最新素材を取り入れて、違った形にした方が良いと思われる。相撲も、そろそろ考えた方が良い。べつに、服装なんかで伝統を守る必要はないのではないか。大事なのは見た目ではなく、心であり、精神なのだから。
まあ、きっと、こういうことを考える人は、スポーツ界にはいないだろうから、しばらくは安泰だ。
2007年03月31日(土曜日)
【体育】 自由形
どんな泳ぎ方をしても良いから一番速い人が勝ち、というルールが、世界一泳ぎが速い人を決めるものだと思う。しかし実際には、スポーツ競技には、いろいろな制約があるようだ。たとえば、身に着けるものが限られている。足にフィンなどを着けて泳いだら速くなるけれど、それはルール違反だ。
「世界最速の男」と言われている人も、それは、ドーピングをしない、という制限下での話だ。なにをしても良い、という無制限のルールではない。もちろん、無制限にすると、「ではホットロッドに乗った人でも良いのか」という話になる。「これは車ではない。靴だ」と主張してもきっと駄目なのだろう。
あるいは、長さが90mのロッドアンテナがついた帽子を被っていると、10m走るだけでゴールできるが、これもきっと駄目なんだろう。こんなふうに頭を使って工夫をする方がむしろ面白いように思われるし、人間味溢れる競技になるものと予想されるが、スポーツとはもっと動物的なものらしい。
実際の社会は、法律などの最低限のルールはあるものの、スポーツよりは制約が少ない。頭を使って、これまでにない戦略をあみ出した者が少ない力、少ない労力で勝てるチャンスがある。窮屈なスポーツマン精神にのっとらなくても良く、非常に自由である。
2007年03月10日(土曜日)
【体育】 高飛び
悪いことをして逃げたいわけではない。陸上競技の高跳びである。
たとえば、スポーツは男女で記録を別に扱う。それは、体力の差があって、生まれながらのハンディだから、ということだろう。しかし、たとえば高跳びの場合、男女の差以上に、躰の大きさのハンディが大きいのではないか。世界中の人種が一同に介して競うのならば、自分の身長の何倍を飛べるのか、といったルールにした方が公平だと思われる。
もちろん、高さ(大きさ)以外にも、重さがある。物理量で表すならば、バーの高さと躰の重心高さの差に、競技者の体重をかけた値が、ポテンシャル・エネルギィあるいは仕事量の観点から評価値に適切であろう。この値が大きい人が勝者であり、記録として認めるべきではないか。体重が2倍の人は、半分の高さを飛べば良いことになるので、どんな人でも、記録に挑戦してみようか、という気になるだろう。しかしまあ、体重は身長と違って、個人でコントロールできるものだから、考慮に入れるべきではない(つまり、挑戦するなら痩せろ)、という考え方もあるかもしれない。
同様のことは、幅跳びにもいえる。また、水泳などでタッチの差で1位2位が決まってしまう場面を見ると、「でも、スタートのとき、足が離れる瞬間で見ると、身長が高い人は、最初からその分リードしていたのだから、実は2位の方が泳ぐことだけでいえば速かった可能性があるな」などと考えてしまうわけである。
こういうことを考えている人間はきっとスポーツ界にはいないから、まあ安心してよろしい。
2007年02月04日(日曜日)
【体育】 楽しいスポーツ
そういえば、【体育】はまだ過去に1回しか書いていなかった。
小学生のときは、スポーツが好きだったので、遊びといえば、ほとんどスポーツだった。走ったり、投げたりといったものである。マラソン以外、スポーツで苦手だと思ったものはない。
プールで遊ぶのもとても楽しかった。夏休みなど、プールが開放される日があったから、楽しみにしていたし、たいてい出ていって泳いでいた。ところが、体育でプールの日というのは、全然楽しくない。どうしてかというと、ばた足だけをするとか、苦しくて泳げなくなるまで泳ぐとか、いろいろ制約があるからだ。
ほかの体育の授業でも同じで、どうも授業になったとたんに楽しくなくなる。あれは、本当に不思議だ。大学になるまで、この印象は変わらなかった。もっとも、ほかの学科の授業もだいたい同じである。授業になると、多くはつまらなくなる。
学校にはクラブ活動というものがあって、いろいろなクラブに入った経験がある。スポーツ関係でも、10種類ほど思い浮かぶ。文化クラブの方が断然少ない。工作とか、鉄道とか、飛行機などのクラブに入ったことは一度もない。
それが今では、躰を動かすことが嫌いだ。プールに行って泳ぐなんて、ありえない。海になんか全然入りたいと思わない。不思議である。
大学生までは、ボーリングくらいはした。今はしたいと思わない。どう考えても、僕にとってスポーツは躰に悪いし、不健康なのだ。知り合いでも、スポーツが好きだという人に限って、いつもなにか不具合を訴え、病院や薬のやっかいになっている。偶然だろうか。
2006年12月13日(水曜日)
【体育】 身体の話
今日の講義に入る前に、昨日の答えを書いておきましょう。
それは「左上の1から桂馬飛びで進んで行くと、64マス全ての数字を順番にたどることができる」でした。本当に凄いですね。
さて今日は「体育」というか「算数」というか「社会」というか……そんな話です。
みなさんもご存じのように、昔からバイオリズムという考え方があります。人間の体にはリズムがあって、体力が約23日、感情が約28日、そして知性が約33日で、絶好調・絶不調の間を周期的に揺れ動くというものです。
ぼくたちが生まれた瞬間は、もちろんプラスマイナスゼロの状態です。そしてここから、3種類の異なるサインカーヴが派生するわけです。そのカーヴは、絶好調・絶不調の間を往復しながら、緩やかな波を描いて流れて行きます。
そこでふと思ったのですが……。このバイオリズムの波が、生まれた時と同じように3本ともゼロ点で重なるのは、一体何年後のことでしょうか?
答えは非常に単純で、23と、28と、33の最小公倍数を取ってみればすぐに分かります。そしてそれは、21,252日後になります。ということは、約58年後です。
びっくりしますね。何がびっくりするといって、わずか数年違いで「還暦」と重なるからです。
還暦というのは、干支(十干十二支)つまり、甲(きのえ)乙(きのと)丙(ひのえ)……などの十干と、子丑寅卯辰……の十二支の組み合わせがひと回りして、生まれた年の干支に戻ることです。満60歳です。そしてこの年には、人は新たに生まれ変わるのだといわれていて、赤いチャンチャンコなどを着てお祝いするのです(なぜ「赤い」チャンチャンコなのかというその意味に関しては、また機会があったらにしましょう)。
つまり、バイオリズム、還暦、ともに60年目のあたりで人間は生まれ変わるといっているのです。西洋で生まれたバイオリズムと、東洋の還暦という考え方が──双方ともに、科学的根拠が怪しげなのに──なぜかほぼ一致するというのは面白い話ですね。単なる偶然なのでしょうか。それとも、どこかに接点があるのでしょうか。
2006年11月17日(金曜日)
【体育】 野球
僕たちが子供の頃は、スポーツといえば野球だった。みんなが野球を見ていたし、野球をしていた。野球をしない子供はいないくらいだった。小学校の高学年になれば、男子はほとんど全員グローブを持っていた、という時代だ。
ところが、僕の子供たちの世代は、あんな小さなボールを投げたことがない。どうやって投げれば良いのかわからない、というほどになった。たまにTVを見ても、ルールがわからない。TVでは、ルールの説明などしない。だから、どんどん見る人口も減っていった。サッカーが代わりに台頭するのか、と思っていたら、そうでもなさそうだ。ただ、多様化しただけに見える。
野球は、広い場所や、バットやグローブが必要だし、硬球は危ない。小学生たちは軟球という少しソフトなボールを使った。ソフトボールも、今よりもっとメジャで、みんながやっていた。バットやグローブを使わないハンドベースボールなるものもあったし、大きなボールを使ったフットベースボールなどもあった。亜流が沢山生まれたが、いったい誰が考えていたのだろうか?
フォースアウト、フィルダースチョイス、ボーク、インフィールドフライ、サイクルヒット、コールドゲーム、セーフティバント、パスボール、ワイルドピッチ、ダッグアウト、スクイズ、スリーバント、フルカウント、ナックル、スライダ、ブロックサイン、セットポジション、ヒットエンドラン、マウンド、振り逃げ、隠し球、四球、犠打、遊撃手。これらの意味が全部いえれば、野球ファン一歩手前の普通の人。ちなみに、僕の広辞苑には、すべて載っていた。