2008年05月02日(金曜日)
【社会】 長続きしなければエコではない
エコバッグをスバル氏も使っている。しかしそのバッグ、いつまで使えるのだろう? 1つのバッグで何年も持ち堪えられるだろうか。重量物を運ぶので、すぐに壊れそうだ。壊れなくても、新しいデザインのものが欲しくならないだろうか。短期間で取り替えてしまったら、それはもうエコバッグではない。少なくとも1年くらいでは元が取れないように思われる。
そもそも、マイバックなんか買わないで、あのポリ袋を何度も繰り返し使えば良かったのではないか。どうして新しいバッグが必要なのか? 何故そんなものをわざわざ作ったのか? それを作って売る姿勢が、全然エコではない。
割り箸は自然破壊だから自分の箸を持ち歩く、という運動がかつて流行った。そのために新しい箸が売れた。その箸を今でも持ち歩いている人がどれだけいるだろう?
環境に優しいハイブリッドカーも、最低でも購入したら10年以上は乗り続けなければ意味がない。新しい車を買うよりは、古い車にずっと乗り続けることの方がエコだ。住宅だって、新しく省エネハウスを建てるよりも、古くなっても住み続けることがエコである。
省エネやエコを売りものにしている商品に飛びつくことは、結局は地球に優しくない。とにかく、新しいものを買わない。そして新しいものを作らない。必然的に、経済はどんどん低迷する。この不況こそが、エコだし、地球に優しい。
環境を考えるうえで、最も重要なことは「維持」や「持続」であって、「導入」や「刷新」ではない。「ビジネスチャンスになる」という発想自体が、既にエコではない。
2008年04月27日(日曜日)
【社会】 社会の先生
先生シリーズ第3弾。
社会の先生は、ほとんどお寺の住職さんだった。学校がそういう伝統のところだったからだ。だから、さすがに落ち着いた感じというか、いかにも穏和で人間ができているような、バランスの良い大人が、僕の社会の先生に対するイメージである。
社会は、最初は地理と歴史の2つだったと思う。歴史は、日本史と世界史で先生が違っていたから、3人いたのかな。僕は社会が不得意で、まったく良い点が取れなかったけれど、とにかく勉強といったら、社会の勉強ばかりしていた記憶がある。テストの前日だけだけれど……。ほかの科目は勉強するようなことがなかった(というより、なにをすれば良いかわからなかった)からだ。
だから、ノートを書くのはほとんど社会だし、テストの前にもノートをもう一度書いて、なんとか覚えようとした。残念ながら、まったく記憶できない、というか、どうも頭がそういうふうにできていなかったようである。
地理のO先生の授業は変わっていて、毎回、生徒が10人くらい、黒板を使って少しずつ先生をするのである。O先生はそれを見ているだけで、間違っていたら訂正し、多少補足をする、というだけだった。自分の順番が回ってくる日には、ちゃんと予習をしていかないといけないので、とても嫌だった。しかし、教えた日にやった分はちゃんと覚えられたので、あの教育方法は、なかなかのものだとは思った。
2008年04月22日(火曜日)
【社会】 保険の将来
スバル氏が、TVで保険のコマーシャルが多すぎて「もの凄く鬱陶しい」とおっしゃっていた。そこで、彼女に話したことを書こう。何度も書いている内容のまとめ。
保険というはそもそも、不幸があった人を周囲の人が助ける仕組みのことだ。分担をする覚悟がある人を募り、お金を集める。そして、確率的には低いが大きな損害を被りお金が必要になった人へ、それを配分する。これは、大変優れたシステムだと思う。僕も若いときは沢山の保険に加入した。自分にもしものことがあった場合に、家族が困らないようにしたわけだ。
このような掛け捨ての保険はとても有意義である。ただし、こういった仕組みを社会全体に組み入れたものが「福祉」と呼ばれるものであり、本来、福祉が充分に発達すれば、保険などは不要になるはずである。また、国が発展し、成熟した社会になるほど、保険の必要性は薄れる。これも、国や社会が個人(特に弱者)を援助する仕組みが構築されるからである。
生命保険は、若いときにこそ入るべきであり、老人になったら必要ない。既に子供は独り立ちしているし、自分が死んだあとの葬式代や配偶者の生活費などは、貯金をしておけば済むことである。若くして死んだ人に対して、生きている人(つまり長生きした人)が負担をする、というのがこの保険の基本なのだ。
これに対して、年金保険というのは、長く生きた人にお金を配分する仕組みであって、これは、構造的におかしい。まず、長く生きる人の数がかなり多い。また、早死にした人は充分な負担ができない。負担だけ目一杯して、年金をもらう寸前で死ぬような人が多ければ成り立つかもしれないが。
本来は、自分で支払った金が蓄積され、運用されて、それが戻ってくる、と個人としては考えたいところだが、けっしてそうではない。国も保険会社も、最初に集めた金の大半を(施設建造、維持、人件費などで)使い切ってしまうだろう。そして、新たな加入者から集めた金を現在の支払いに回す。加入者が減れば、たちまち立ち行かなくなる。
保険の加入者はどんどん減少するだろう。これは必然だと思われる。だからこそ、今あんなに宣伝をしているのだ。掛け捨ての保険以外に加入するのは、ほとんど慈善事業だと僕は思う。なんとも美しい志だとも思う。
保険会社が死亡(倒産)保険に入ったら素敵だが、きっと誰も引き受けないだろう。確率が高すぎる。
2008年04月18日(金曜日)
【社会】 お金はメディア
前回の続きかも。
商売というのは、利潤を求めるための行為であるから、商品の値段は、それを仕入れたり作ったりするよりも高く設定されている。その分が利潤になる。どんなに「出血大サービス」「赤字覚悟で」なんて謳っていても、トータルで損をするようなことは絶対にしない。口では「安くご提供して、お客様に喜んでもらうことが私たちの仕事です」なんて言っているけれど、「安く」すれば、その分、客が増えるから「増収」になる、と見込んでいるだけだ。
もちろん、だからといって、それが悪いわけではない。どんな商売も、いかなる仕事も、この道理で行われている。資本主義の基本だ。
そもそも、持っているものを交換し合うような動物というのは地球上に人類しかいない。共産主義というのは、自然界の動物の群れの営みに根ざしたシステムに近いものを感じるが、資本主義は、まさに人間の頭脳が考え出したもの、というふうに見える。
ものを交換してお互いが得をする、という方法を知ったのは、未来予測が可能な知能があったからだ。「お金」なんて単なる紙切れなのに、これによって交換行為の時間的ずれを克服したし、また、知恵を絞り努力をすれば、生活を維持する水準をはるかに越えた価値を手にすることができ、またその価値を作り出す意味も生じる、という具合に歴史を作ってきたわけだ。
一方では、交換が不当なものにならないように、騙したり、搾取したり、強引に奪い取ることを禁じるルールを作った。
お金のために破滅する人間もいるけれど、お金はあくまでもメディアである。どこに価値があるのか、そのコンテンツを知っている人は、お金で失敗することはまずないだろう。
2008年04月13日(日曜日)
【社会】 値上げと値下げ
商品が値下げをすると、「そんな価値のないものだったのか」とがっかりしてしまい、「安くなったから買おう」というふうには僕は絶対思わない。また、既に自分が買った品物が値下がりをすると、「人気がなかったのだな」と考え、「自分だけが価値を認めてあげられた」という気持ちがして、良い気分だ。
逆に、商品が値上げをすると、「最初からその値段にしておけば良かったものを、きっとなんらかの誤算があったのだな」くらいに思う。「その誤算で損をしただろうに」と悲哀を感じる。自分が既に買ったものが値上がりした場合は、特になんとも思わない。なんというのか、よくある普通のことだからだ。
僕の場合、生活必需品を自分で買わないから、こういうことが言えるのだろう。僕が買うものは、すべて趣味のものであって、なくても生活には困らない。値段が高かろうが、安かろうが、どちらでも良くて、そんなことよりも、それで自分がどれだけ満足できるか、ということだけが価値のすべてである。安い方が良いに決まっているけれど、安いから買おう、とは考えないし、高いから諦めよう、とも滅多に思わない(そう思うほど高い値段がつくことは実際にはないからだ)。
一般に、値上げや値下げでニュースになるようなものは、元の値段のせいぜい10%とか20%の場合が多い。10倍になったとか、100倍になった、なんてことはまずない。けれど考えてみたら、コンピュータなどは、20年くらいで軽く100分の1には値下がりしている。海外旅行だって、軽く10分の1になっている。液晶テレビなんか、ここ数年でもの凄く安くなっているではないか。変な話だが、その年に液晶テレビを買う家庭は、食料品の値上げ分くらい軽くカバーできてしまう。こういうのは、「庶民の味方」だろうか?(皮肉です)
2008年04月09日(水曜日)
【社会】 理由
世の中には数々の申請書類があって、なにをするにもまずは事前に申し込んで許可をもらわなければならない。そして、その書類には「理由」という欄があったりする。
たとえば、学生が大学を辞めるときには、退学届けを出すが、そこにも理由を書かねばならない。教授会に退学届けはすべて上がってきて審議の対象になるけれど、理由は全部「一身上の都合」である。稀に「家業を継ぐため」みたいなのがあるが、それは一身上の都合ではないのか、と不思議に思うほどだ。しかし、実際には単に「怠けていたか、ほかのことに一所懸命で単位を落としすぎたし、今さらもうやる気にならないよ」が本当の理由であることは誰の目にも明らかだ。
出張をするときに「目的」という理由を書くことは当然だと思うが、「休暇」を取るのに理由が必要なのは変だと思う。また、休学に理由は必要かもしれないが、復学にも理由が問われるのはおかしいだろう(休学の理由がなくなった、が理由のはずだ)。
役所の書類は、理由を書かないものが多い。転居届などには理由欄がない。結婚届けにも理由を書くことはない。これらは、是非理由を書きたいという人がいるのではないか。
ときどき、商品を買うと、アンケートみたいなのがあって、「購入の理由」を尋ねられることがある。「欲しかったから」が理由ではないのか、と思うが、使い道をきいているのかな、とも思う。しかし、だいたいの商品は、使い道がほぼ決まっているものだ。たとえば、靴を買った理由をきかれて、「履きたかったから」ではお子さまだ。そうではなく、数ある中から当商品を選んだ理由は何ですか?という質問らしい。「べつに……」とか、「売っていたから」と書いておこう。
2008年04月04日(金曜日)
【社会】 花の街
スイスやドイツの民家には、窓辺などに花が飾られている。そんな写真や映像を見た人は多いだろう。僕は子供の頃に、この印象がとても強くて、ヨーロッパの人はそんなに花が好きなんだな、と感心した。そういう目で見ていると、イギリスの庭園とか、オランダの水車の周囲とか、異様に花が多いのだ。
ところが、現在の日本を観察すると、もの凄く花が多くなったことに気づく。どこの家にもたいてい花が飾られている。庭にも花がいっぱいだ。桜だって僕が子供の頃よりもずっと増えた(そもそも街の緑は昔の何倍も多い)。本当に花だらけである。ホームセンタにも花がいっぱい売られているし、みんながそれを買って、自分の家の庭や玄関先に飾っているのだ。
これはつまり、かつてのヨーロッパに、今の日本みたいな豊かさが既にあったのだろう。べつに日本人は花が特別に好きなわけではない。お腹も膨れないし、なんの利益も産まないのに、「綺麗だから」という理由だけでそれを飾る。そういう「ゆとり」が生まれたのだ。
昔は緑も少なく、また公害で都市は殺伐としていた。その後、「環境」という言葉が使われるようになり、どんどん綺麗になっていった。濁っていた川の水も綺麗になって、生物が棲める環境になった。一所懸命植えた樹が生長し、都市に大木が増えている。さらにそのあと、「アメニティ」という言葉が使われるようになって、より積極的な快適さを求めるようになった。
僕は数年まえまで花が嫌いだった。自分の庭に花を植えるなんて考えもしなかった。今、それができるのは、多少は生き方にゆとりができたおかげだろうか。それ以外の分析は難しい。
2008年03月31日(月曜日)
【社会】 誰が悪いのか?
無差別殺人の抑制のために、マスコミが加害者に関する報道を制限すべきだ、と前回書いた。
これは、こうすればこの種の犯罪がなくなる、という意味ではない。少しは抑制する効果があるだろう、という程度だと認識している。
まず、この種の犯罪が発生する主たる原因は「貧困」だろう。貧しかった時代の方が、今よりも凶悪犯罪は多かった。社会が豊かになるほど、1つの動機は消すことができる。ただ、ある特定の人間が豊かになるかどうかまではフォローされていないので、絶対ではない。どんな福祉や慈善で手を差し伸べても、完璧に行き渡るものではない。平均的な効果がある、という意味にすぎない。
戦後などに比べれば、日本の社会は格段に豊かになった。だから、現在起きている犯罪を見て、「社会が悪い」「政治が悪い」というふうにしかものが言えない人は多少問題だと思う。また、「ゲームが悪い」「人間関係が希薄になったせいだ」という方向へ問題を投げかける人が今でもいるけれど、これには少々呆れてしまう。
凶悪犯罪があると、往々にして「政治が悪い」「不況が悪い」「ゲームが悪い」「ケータイが悪い」「ネットが悪い」とコメントする人間が(特にTVに)登場するものだ。ちょっと以前は、「親が悪い」「学校が悪い」だった。
違うだろう。悪いのは加害者だ。そんな人間に誰がしたのかって? ほとんどは自分でなったのだ。本人に最も責任がある。どうして、周辺へさらなる理由を求め、原因を拡散しようとするのだろうか?
つまり、この理屈からすると、マスコミだって悪くない。真実を報道しているだけだ、ということになる。銃だって悪くない。責任は全部本人にある。そのとおり。間違ってはいない。しかし、手が打てるものなら打ってみてはどうか、と僕は思う。政治が悪い、社会が悪い、という声に対しても、なんとか良い政治を、良い社会を、と努力をする(してきた)のと同様に、効果は少なくても、できることはした方が良い、と考える。銃を規制するのも、これと同じ発想だ。
「マスコミの加熱報道が嫌なら、見なければ良いではないか」という意見は的外れである。僕は何十年も日常的にはTVも新聞も見ていない。僕が見るかどうかの議論ではない。また、加害者の予備軍的人間は、たとえTV報道がなくても、ネットなどで情報を得るだろうから、それは防げない。しかし、彼に「一般大衆にメッセージが届くのだ」「世間を大騒ぎさせられる」と感じさせないことが重要なのである。
以上の理由で、マスコミの報道制限を僕は望む。これは報道規制ではなく、自粛してはどうか、という提案だ。最低限の情報を伝えるだけにして、過剰に反応しないでもらいたい。繰り返すが、これでずばり解決するわけではない。
2008年03月27日(木曜日)
【社会】 無差別殺人に対する防御
たまに新聞を読んだりTVを見るときがあって、世間の話題を体感する。
「誰でも良かった」という理由で人を殺す人間がいて、その種の犯罪が起こると、マスコミが大きく取り上げる。しかし、そういう人間は、そうやってマスコミに取り上げてもらいたいから犯行に及ぶのである。「最後に一花咲かせよう」という考えなのだと想像できる。「八つ当たり」というのは、一種の甘えであって、他人に依存した非常に社会的な行動と分析できる。
もう10年もまえから何度も繰り返し書いてきた。この種の犯罪を抑制するためには、犯罪について報道を制限することが必要だと思う。すなわち、加害者の顔写真を公開したり、その生い立ちを紹介したり、親族にインタビューしたり、という報道をしない方が良い。犯行後に自殺をして、遺書を残していても、それを一切報道しない方が良い。何故なら、それらをしてほしいから事件を起こしたのであって、加害者の夢をマスコミが叶えてやっていることになる。
銃の乱射が頻発している某国では、既にそういう見方から報道を制限し、無闇に加害者の情報を出さないようにしている。報道すれば、加害者は「してやったり」と達成感を抱くだろう。なによりも、そういったことに憧れ、「自分もあんなふうに光の当たる場に立ちたい」と考える予備軍的な人間を煽るような真似をしないでほしい、と思う。
マスコミは考えるべきである。マスコミは、こういった事件がもっと起こってほしいのか、それとも、もう起こらないでほしいのか、どちらなのか? 是非とも自問してもらいたい。
2008年03月23日(日曜日)
【社会】 綺麗事の演出
10年くらいまえだったと思うけれど、衛星通信を使って授業をしてほしい、という依頼があった。学内にその設備が導入されたので、それを使用している実績がほしい、みたいな話だ。そこで実現したのは、隣の大学とテレビ電話で話をしながら、双方の学生が講義を受けられる、というものだった。しかし、その隣の大学は、車で15分も走れば行ける距離なのだ。なにも衛星を使ってやらなくても良いのではないか、と思えたが、そういう疑問の声は何故か出なかった。
一方では、大学のコンピュータの端末室は、朝9時から夕方5時までしか使えない。国際化を叫びながら、これでは、地球の反対側とチャットもできないではないか、という意見を述べたことがあるけれど、まったく聞き入れられなかった。
パソコンを使った教育をどのように行っているか、という視察団をアメリカへ送ったりしていたので、そんな金があったら、パソコンかソフトが買えるだろう、と感じたが、そういう意見は出なかったようだ。
僕が若い頃には、1990年代には宇宙ステーションが実現する、と言われていた。それがなんのかんのと遅れて、ようやく今頃になって形が整ってきた。こういうとき、必ず小学生や中学生を何人か集めて公開のイベントを行い、「子供たちの夢」みたいなことを大人が押し付ける光景が見られる。衛星放送を使った講義と同じく、マスコミ向けのサービスなのか、自己満足なのか、わからないけれど、「そんなことをするためのものか?」という声は発するべきであろう。
だいたいが、予算を取って行われる企画は、このように「見せかけ」の綺麗事を演出して、花火のように拍手をして「綺麗だなぁ」で終わってしまうのである。
2008年03月19日(水曜日)
【社会】 チャップリンと綿菓子
有栖川です。三日目も私が好きな社会の特別講義をいたします。
昨日は地理だったので、今日は歴史について。いきなりですが、まず答えていただきましょう。
設問・次の××××に適当な文字を入れよ。
七九四(なくよ)××××平安京
真剣に「ウグイス!」と答えた方、すみません。これは私が好きなギャグでした。
ある事件が西暦何年か答えよ、という問題はあまりにもチープなので、実際のテストではそう出題されないようです。しかし、歴史では事件の前後関係を認識しているかどうか試す問題が頻出しますから、キーになる年号は覚えておくに越したことはありません。
記憶術の第一人者に渡辺剛彰という先生がいました(故人)。私は高校時代にこの先生の本を読み、年号がすらすら暗記できるようになったのです。小文をお読みの方の中にも、同じ本を使った人がいるかもしれません。
効きますよ。今でも「俺、なんでこんな年号をまだ覚えてるねん」と思いますから。たとえば、徳川家康が一里塚築造の指令を発したのは一六〇四年です。ほら、つまらないことを記憶に留めているでしょ。
渡辺式記憶術では、「チャップリンが一里塚で綿菓子を作った」と覚えます。どういうことか、ご説明しましょう。チャップリンは「チ」で始まります。これは五十音で十七番目なので、十七世紀=一六〇〇年代を表します。「綿菓子」の「わ・た」は、ワ行とタ行の音なので、五十音表の十行目と四行目。だから〇と四を表す。一六〇〇と合体させると、一六〇四という数字ができあがり、それは何かというと「一里塚」に関係している。よって「一六〇四年、一里塚設置」となるわけです。
「そんなことで覚えられるか?」と思われるかもしれませんが、すぐに慣れます。そして、手法さえマスターすれば、いくらでも類例が作れます。何世紀かを示す記号をお気に入りのキャラクターにすると愉快。たとえば、「犀川創平が屈辱を受けてママに泣きついた(メモを取り上げられて屈辱を味わった、などでも可)=一〇七七年カノッサの屈辱。その際、「えー、あの犀川先生が!」という奇抜なイメージの方がいい。
歴史の本質とは関係のない話になってしまいましたが、皆さんのお役に立ったり、話のタネになったりしたなら幸いです。
ところで、どうしょう。あなたの頭にチャップリンが登場するシュールな光景が刷り込まれたのではありませんか? 私のチャップリンは、もう三十年近く一里塚で綿菓子を作り続けています。
2008年03月18日(火曜日)
【社会】 『日本沈没』の楽しみ方
有栖川です。二日目は社会。
学生時代、私が最も好きだった科目です。特に小中学校の頃は、地図好きのせいもあって地理が大のお気に入りでした。全国各地の山だの川だの特産物だのを聞くだけで、日本中を旅行している気分になって、わくわくしたものです。中学校になると学習範囲がワールドワイドに広がり、世界旅行になったのでなおさら楽しめました。
そんな私が中学二年の時、ある本が爆発的なベストセラーになりました。小松左京の『日本沈没』です。おそらくわが国で最もよく読まれた長編SFでしょう。私は、この小説が大好きでした。今でもたまに手に取り、拾い読みをすることがあります。
ご存じのとおり、未曾有の地殻変動によって日本列島が海面下に没してしまう、というお話です。SFの巨匠は、当時最先端だった科学知識を動員し(もちろん小説的に誇張が施されていますが)、もっともらしく日本を沈めました。地学や物理学の知識がない者には「なんとなく判る」という程度しか理解できない説明でしたが、それでも充分面白かった。
もとよりこの作品は、科学知識を駆使したハードSFというより、その形式を借りて日本民族の有り様を考察した全体小説です。その意味から、人文社会学的な興味があふれているのですが、十四歳の少年には深く読みきれない。ただ、少し変わった読み方をしていました。
『日本沈没』ほど、たくさんの地名が出てくる小説はまれでしょう。どこでどんな異常が観測され、どこで地震や噴火が起き、どこからどんなふうに沈んでいくのか、という破滅の経過が克明に描かれているからです。同書がお手元にあったら、ちょっと開いてみてください。地名、地名、地名のオンパレード。私は、地図帳と首っぴきで読み進んだほどです。
二〇〇六年に『日本沈没』は再映画化されました。もちろん、観ています。その中で、豊川悦司扮する田所博士はカタストロフを予見して悲痛な叫びをあげます。
「プレートの断裂は北海道の南部から始まる。九州の出水断層帯も危ない。阿蘇が噴火するだろう。四国から紀伊半島に連なる中央構造線が裂けて南側は沈んでいく。日本の活断層はそのエネルギーに耐え切れず次々に割れていく。本州中央部の糸魚川静岡間のフォッサマグナが裂け始めたら、その時はもうおしまいだ。富士山の大噴火とともに、日本は一気呵成に沈んでいく」
うーん、耳に心地よい。
私、これを一度聞いただけでほぼ正確に暗記し、家でよく物真似をしていました。それぐらいの沈没ファンです。地理好きにとって、あの小説はまたとないご馳走なのです。
2008年03月14日(金曜日)
【社会】 予見どおりになる社会
僕が社会人になった頃は、まだ会社を辞めることはかなり特別なことだった。それ以前は、一度勤めた会社に「骨を埋める」ことが一般的であり、会社も社員も、それを当たり前のことだと認識していた。けれど、だんだん転職が一般的になり、会社を辞めることに対する抵抗が、社会的にも小さくなった。20年くらいまえの好景気の時代には、それが美化されたりしたし、いよいよ日本も欧米並みに実力主義になった、ともてはやされたように思う。大学の推薦で就職した学生が、会社を簡単に辞めてきたり、一度就職した卒業生が大学院に入り直す、といった例も増えた。転職も離婚も、あっという間に市民権を得た感じだ(表現が不適切)。
人を使う立場から見ると、単なる「労働力」であれば、誰でも同じであり、人が変わっても問題はない。むしろ、新しくなった方が都合が良かったり、バイトの人間の方がリスクがない、という利点は大きい。一方で、仕事はそういった「労働」ばかりではない。人はノウハウを蓄積する器だ。文字どおり「人を育てる」ことが仕事のうちでもあり、これを無視するわけにはいかない。
安い賃金の労働力が得られることと、ノウハウを持った人間が高い賃金を求めて逃げていくこと。この2つが、完全に定着したのが、その後の20年間だったと思う。トータルとして、安いものが作れるようになったけれど、ノウハウが蓄積しにくく、企業の技術力は衰えたかに見える。ワーキングプアなど、心配されたことも、予想どおり顕在化している。
予想されているのに、手を打たなかったところは、「でも、そのときはしかたがなかった」「いずれなんとか好転するだろう、と思った」と語る。僕が見るかぎり、社会の問題というのは、起こって初めて気づく、というようなものはほとんどなく、必ず何年もまえにそうなることが予見されている。少数の人が予兆から未来を予測して警告する。大多数は「今と過去」しか見ていないので、警告は聞き入れられず、したがって予見のとおりになる。
2008年03月09日(日曜日)
【社会】 やっていけるのか?
「こんなところに、こんなものを作って、やっていけるのだろうか?」と思ったことが誰にもあるだろう。たとえば、田舎に大きなショッピングセンタを作っていたりするのを見たときだ。いろいろな理由がある。
1)一時的には集客があるから、そのときに元を取ってしまう。
2)人気があるうちに、周囲の土地が値上がりし、そこを売って元が取れる。
3)赤字を出すことが目的である。
4)なにも考えていない。
街中に作られるものは1)のケースが多い。かなり短期決戦で計画されている。昔よりもずっと動きが早い。効率が悪くなったときには素早く売ってしまう。その差額を短期で稼ぐわけだ。郊外やリゾートに作られるものは2)が多い。周囲に住宅地が作られたり、別荘地ができたりする。ただみたいな土地が売れるのだ。人口が増えればさらに活気が出る、ということはまずなく、土地が半分も売れたらもう商売としては終わりである。3)のケースは、お堅い博物館や、僻地に作られる美術館などに多い。税金対策として作られているものだから、入館者などはなから期待していない。たとえば、森博嗣が山奥に模型博物館をオープンさせた、みたいな想像をしてみよう。展示物は経費で落とせるし、トータルの事業として赤字が出れば、税金を一銭も払わなくても良いのだ(真似をしないようにしよう)。4)は、ときどき出没するお洒落な雑貨店やペンションなどである。とにかく、「自分のお店を開くのが夢だった」みたいは感じで微笑ましい。こういう人は、「頑張って働けば道は開ける」と考えているようだが、もともと無理なことをしているのだから、滅多なことで道は開けない。一度開きさえすれば、夢は叶ったわけで、もう満足、というスタンスにも見える。
2008年03月03日(月曜日)
【社会】 建前と運用
これはもう何度も書いていることだ。どんな組織にも、規則として文章化されている建前があって、それを実際にどう運用するのかは、また別問題になる。この頃、両者はずいぶん接近してきて、以前よりは明解な社会になりつつあるけれど、官公庁、つまり公務員の組織では、建前と運用はまだまだ隔たりがあるようだ。勤務をちゃんとしていない、なんてことがあちこちで問題になっているし、たとえば、身近なところでは、駐車禁止、スピード違反などの交通違反取締りも、規則は厳しすぎるのに、運用は甘い。これから問題になってくるだろう。
規則ではこうなっているけれど、実際にはこんなふうに運営してきた、それが暗黙の了解事項となっている、ということがとにかく多い(中国なんかはもっともっと多いと聞くが)。
それなりに理屈もある。しかし、それだったら規則を変えて、実態に合わせれば良い。民間の場合にはこうする。公務員は、何故か規則を変えようとしない。前例を重んじるというのか、固執するというのか、面倒くさいだけなのか。それに、規則を甘くすれば、もっと悪い状態になる、なんて信じているのである。それこそ、二重構造が既に前提になってしまった思想である。
規則だけではない。予算を取るために、中央に概算要求をする。このとき捩れた「建前」が生まれる。実態と合っていないのに、アピールをするために作文される。その予算が降りてしまうと、なんとか騙し騙し運用しなければならなくなる。そういう組織がもの凄く多い。一度予算を取ってしまえばもう安泰、という仕組みから生まれるものだ。これも、外部評価を受けることで、しだいに成り立たなくなるだろう。
大きな流れとしては、建前と運用は近づきつつあり、間違いなく良い方向へ進んではいる。昔に比べれば、「二重構造」が「二枚重ね」くらいにはなっているようだ。あともう少しなのか、まだまだなのかはわからない。
2008年02月27日(水曜日)
【社会】 寿命と時間感覚
平和な世の中が続き、医療も進歩したため、平均寿命はどんどん延びている。これは世界的な傾向だけれど、特に日本は増加率が高い。この50年で20歳くらい伸びている。これは、比率にすると、3割以上増えたことになる。
そうなると、50年以上まえに決められた規則で、人間の時間に関するものは、意味合いに変化が生じる。たとえば、成人は20歳だが、もともと成人前後の人生は時間的にせいぜい1:2だったものが、今では完全に1:3になった。しかも、この成人も18歳に引き下げられようとしている(世界的には18歳が普通だ)。
会社の定年は、もともとは55歳だったけれど、もうとてもそんな状況ではなくなってきた。60歳、あるいはそれ以上に、じわじわと上がっているようだ。個人の住宅は、普通は1度建てれば、それで一生が終わりだったが、これもやはりこれからは違ってくるだろう。最も顕著なのは、子供を育てたあとの時間が長くなったということだ。軽く倍増している。これがライフスタイルに与える影響は大きいものと思う。
犯罪を犯した場合の刑期も、人生に対する比率からすれば、3割アップしても良いのかもしれない。昔は15年の刑期といえば、残り人生の大半だった人が、今では、まだまだそのさきがあるので、罰としては相対的に緩くなっているだろう。
話は違うが、サザエさんを見ると、現代の年齢層とかなりかけ離れていることに気づくはずだ。アナゴさんは20代の設定である。キャラクタが今の年齢よりも上に見えるのは、寿命に関する相対的な感覚の差によるものかもしれない。
2008年02月23日(土曜日)
【社会】 土木は不景気に強い?
大学には建築学科と土木学科がある(土木は、土木工学科と工がつく場合が多い)。どこが違うのか、一般の人はほとんど区別をしていない。しかし、両方の分野は明らかに区別されていて、建設会社の中でも、土木と建築は分かれている。
一般に、建築は建物(人が入って利用する構造物)だけを造る。土木は道路、橋、ダム、トンネルなどを造る。鉄道だったら、駅だけは建築が作るが、ほかはすべて土木が作る。
建築は景気に左右されやすい。これは、建築の施主(仕事を依頼するところ)の多くが民間だからだ。一方、土木は不景気に強いといわれてきた。土木の施主はほとんどが官公庁である。景気が悪くなると、内需拡大のために予算が投入される。税金を使い、借金をして、仕事を作る。それだけのお金が業界へ流れ、労働者に仕事が回り、景気が良くなったように見せることができた。今も状況はあまり変わっていない。ただ、多少は問題になりつつあるようだ。いくらなんでも、借金をしてまですることか、と疑問に持つ人は多いだろう。
道路を作りすぎだ、という意見はかなりまえからあった。多少理屈のわかる人間なら、当然気づいていたはずだ。ようやく最近になって、マスコミも政治家も取り上げるようになった。思うに、急に騒ぎだしたのは、なんらかの「重し」が取り除かれたことが理由だろう。その重しとは、景気が良かったときに、その恩恵に浴していたところが、利益の一部で築いた構造だったはずである。だから、重しがなくなったことは、とりもなおさず、もう儲からなくなった証拠ともいえる。
2008年02月19日(火曜日)
【社会】 値上がりが普通
物価が上がりそうな気配である。しかし、振り返ってみると、僕が生まれてから成人するまでの20年間は、それこそ10倍も20倍もものが値上がりする時代だったから、「ものの値段は上がるものだ」という頭がそもそもある。その後の30年間は、まったく物価が上がらないから、なんか不自然だな、とずっと違和感を持っていた。
若い頃に比べて、同じ値段で比べれば、あらゆるものが格段に高品質になっている。食べものなんか、本当に美味しくなったし、機械は高性能になったし、どこもかしこも快適になった。つまり事実上どんどん値下げしてきたようなものだ。
趣味のものは特に安くなっている。よく書いているのは、工具や電化製品だ。10分の1くらい安くなった感覚である。とにかく、昔はとんでもなく高かったのだ。どうしてこんなに安くできるのか、と首を傾げる30年間だった。
こうした値下げは、安い労働賃金を海外に求めたり、あるいは、機械化による合理化を進めたり、そんな工夫がなしえたものである。しかし、それらもいずれは達成されるから、当然頭打ちになる。それが今の状況だ。したがって、また元のとおり値上がりしていくだろう。むしろ今までが不自然だったと考えた方が良い。
省エネについても、僕が大人になってから、もの凄く技術が進歩し、あらゆる分野でどんどん省エネが推し進められた。これは素晴らしいことだ。しかし、これも達成されつつある。もう頭打ちになりつつある。だから、やはりエネルギィ問題はこれから再度深刻になるはずだ。
簡単にいうと、やれることはほとんどもうやってしまったのである。
2008年02月15日(金曜日)
【社会】 大人のコンテンツ
日本の子供の学力の低下が各方面で話題になっている。これについては、何度かここでも書いた(たとえば、2007年の4/16や4/26の【社会】参照)。一言でまとめるなら、「ゆとり教育」の成果であって、僕は悪い状況だとは捉えていない。
さて、小学校から高校、あるいは大学の一部も含まれるが、「教えてもらえること」というのは、つまりは「メディア」なのである。わかりやすくいえば、それは「道具の使い方」なのだ。それを知っていれば、自分の自由のために、面白いことができる、楽しいことに遭える、という手堅い手法を伝授するのが教育である。道具の使い方自体は、そんなに面白いものでも楽しいものでもない。面白く楽しいものだと騙すことには、僕は反対だ。苦労をしてでも、自分に有益なものが得られるはずだ、という予感を与えることの方が大事だろう。
しかし問題は、どんな面白さ、楽しさがあるのか、という点である。ここが実は学問のコンテンツなのだが、それを知っている、あるいは得ている大人がそれほど多くはない。大人たちの多くは、あくせく働いて、子供を巻き添えにしてこじんまりとした楽しみに終始しているだけに見える。子供から見ると、大人になったらどんな楽しみがあるのか、それが想像できない。家族で遊園地へ遊びにいくとか、仲間と飲んで騒ぐとか、それくらいが人生の楽しみならば、それはもう今現在、子供でも手の届くことであって、頑張って勉強して獲得するような目標とは思えない。
学校の先生は、そのコンテンツを持っているだろうか? たとえば、先生がなにか夢中になって研究をしているとか、そういうのがコンテンツである。子供たちに上手く説明ができなくても、本当にコンテンツを持っていれば、子供たちにそれが伝わる。大人や社会は、そんなコンテンツを子供に見せることができるだろうか?
格差がある社会では、教育効果は示しやすい。格差のあるその上へ自分が行けるかもしれない、という目標がわかりやすい。格差がなくなった豊かな社会では、子供たちに、もっと文化的な高みを見せる必要があるだろう。大人は何が凄いのか、を感じさせなければならない。そういった、人生のコンテンツとでもいうべきものを大人が持っていさえすれば、子供たちは自然にそれを感じ取るし、きっと勉学する理由を見つけるはずである。
簡単にいうと、子供に「勉強しろ」と言うまえに、大人がもっと勉強すべきなのだ。
2008年02月10日(日曜日)
【社会】 あらゆるものの価値は下がる
「価値」という言葉は、人間の労力や時間の量を示すものだと考えて良いだろう。つまり、物理の仕事量に近い。品物にも価値があるし、権利や立場、あるいは名前や名誉みたいなものにも価値がある。一番これが数字になって比較しやすいのが「お金」である(「お」をつけたのは、ゴールドと区別するため)。
仕事をすると、その報酬として、なんらかの価値が手に入る。すぐに品物に替えてしまっても良いし、また将来のためにその価値を蓄えることもできる。しかし、貯金をすると、利息はつくものの、しだいにお金の価値は下がってくるのが普通だ。これは、仕事をしたという価値が、時間とともに薄れてくる、と考えれば良い。たとえば、「たった今これをやりました」と「昨年これをやりました」では、同じ仕事量であっても価値が違う。また、時間が経過するほど(経験や機械化によって)簡単にその仕事ができるようになるかもしれないので、古い仕事量の価値は相対的に下がる。品物も古くなると価値が下がるが、これと同じだ。借金をすれば、多めにして返さなければならないのも、(リスクが伴うことと)お金の価値が次第に下がるからだ。こうしてみると、インフレというのは、わりと自然な現象に見える。
だから、若くして大金を手にしたときも、基本的に稼いだその価値は時間とともに低下する。将来に向けて価値を落とさずに持ち続ける「労力」や「リスク」をかければ、価値を下げないことも可能だが、なんの苦労もなく価値を保持することはできない。
お金も品物も(あるいは土地も)どんなものも、時間とともに価値が下がる、と考えるのが自然である。その理由は何か、といえば、それは人間が生産を続けているからだ。新たな価値をどんどん生み出しているためである。
念のために書いておくが、以上のように僕は「想像」している。
お金を長く持っていると価値が下がる、と不安がる人がいるが、当たり前のことであり、損をしているわけではない。そんなことよりも、なにもしないとどんどん落ちていく「自分の価値」を気にした方が賢明である。
2008年02月06日(水曜日)
【社会】 褒美と罰
子犬を躾るには、たいてい褒美を使う。良いことをした場合に食べものを与えたりする。すると、それが良いことだとわかり、いずれは食べものがなくても、それをするようになる。最初は、よしよしするだけでは、なかなか躾はできない。
人間の子供は、食べものよりも、褒められることの方がたぶん嬉しいのだろう(空腹ではない場合が多いし)。褒めてもらいたいから、という動機で良い子になっていく場合が多い。学校も褒美というものは、物体としては与えない。言葉や点数で褒められるくらいだ。
しかし、なかには、「褒められたってしかたがないよな」と考える拗ねた子供もいるかもしれない。そうなると、教育に支障が出る。学ぶ理由を子供は見失ってしまう。本人に将来を見る目があれば、もちろん学ぶ理由はある。つまり、褒美は将来に約束されているのだ。学んだ方が得なことは明らかだが、そんな「遠い褒美」が理解できるのは、それこそ思考力のある子である。特に幼いうちは、目の前の褒美でしか子供たちは動かないだろう。
昔の教育の現場には、「反褒美」すなわち「罰」があった。この頃の教育ではこれが制限されたため、「褒められる」価値を認識しない子に対して、教育者は打つ手がない(限られた)状況に陥っていることはたしかだ。イギリスだったか、小学校でおやつのご褒美を与えるシステムが試行されていたと思う。たぶん、成果は出ているだろうけれど、まるで犬の躾のように、そうまでしてやらせるのか、という議論には当然なるだろう。
TVのクイズ番組では、この頃ご褒美が頻出するらしい(スバル氏談)。正解したら食べられる、不正解だと食べられない、というシーンを1日に何度も見るという。点数だけでは駄目で、目先の具体的な利がなければ動かない(視聴者が興味を持てない)、というのは一種の「年齢退行」のように思われるけれど、つまりは、それほど褒美や罰則が「珍しい存在」になってしまったからではないか、とも推察される。子供のとき、日常的にあるものではなくなってしまったのだ。
僕個人の意見は特にない。人間はそれぞれ違う。その子を見て、その子に合ったやり方が必要だと思うだけだ。
2008年02月01日(金曜日)
【社会】 年金は何が悪いのか
スバル氏が、社保庁の話をしていた。この忙しい時期に、バイトで外国人を雇ってしまい、データのミスが多くて困っている、という話(僕はニュースのソースは未確認)。「こんなときなんだから、もっと有能な人材をどんどん雇ったら良いじゃない。お金をどんどんつぎ込んでさ」と彼女は指摘する。
そこで、僕はこう答えた。「それができないんだよね。国立大学でもそうだけれど、バイトを雇う場合、賃金は年齢によっていくらと決まっている。どんなに有能な人でも一律なんだ。それから、同じ人間を毎日は雇えない。勤務時間の上限が決められているから、毎日来てほしいときは、3人くらい雇って作業を分担してもらうことになる。同じ人が1人でやった方がはるかに効率が良くても、それは認められない」
「どうしてそんな決まりがあるのですか?」と事務方に尋ねると、「いえ、そういう決まりです」という答が返ってくる。もう「前例だ」と言われると、絶対に逆らえない。特別な場合なのだから、という理由は通らない。絶対に無理。したがって、年金がちゃんと正常化されるなんて、絶対にありえない、と思ってまちがいないのである。
65歳なのか、知らないけれど、年金がもらえる年齢になったら、年金が自然に送られてくる、と思っていたら大間違いだ。いくら読んでも意味が全然わからない説明を何度も読んで、ようやくもの凄い沢山の意味のない書類を揃えて、平日の昼間しかやっていないから仕事を休んで、何度も足を運んでいくと、必ず文句を言われ、これが足りないあれが足りないと突き返される、しかもそんな説明はどこにも書いてないし、もちろん明瞭に説明なんかしてくれなくて、しかたなくまた出向いて、という苦労を重ねると、もしかしたらもらえるかもしれない、それが年金だ。「そんな面倒なことできるか!」とまっとうな判断をして諦める人間が少しでも沢山出るようにデザインされたシステムなのだ。あるいは、歳を取って根気がなくなり、半分ぼけてしまった人には支払わなくて良いから、それを見越して成り立っているシステムなのである。少なくとも今まではそうだった。
年金の何が一番悪いのか、それは支払った分の金が戻ってくると期待することである。もらえたら儲けもの、と思っていれば腹も立たないだろう。福祉税だと思った方が良い。
2008年01月26日(土曜日)
【社会】 自転車の交通ルール
自転車の危険性については以前に書いたが、やはり問題になっていたようで、道交法も改正され、そろそろ施行になるらしい。
たとえば、酒を飲んで自転車を運転することが違法だと認識していない人が多い。自分は酒飲みだから、自動車じゃなくて自転車で通っているのだ、という人が周囲にいないだろうか。今までは、ほとんど黙認されていた感じだが、もうそうはいかない。罰金では済まない。懲役もあるし、社会的立場も失うことになるだろう(就職を控えている学生は気をつけるように)。
自転車で歩道を走ることも基本的にできない(例外があるが)。歩道をもの凄い勢いで走っていく自転車は、非常に危険な存在だった。死亡事故も増えていた。きちんと取り締まられることが期待される。ちなみに、自転車に乗って電話をすることも、傘をさすことも禁止されている。
スバル氏によると、TVでは、子供を2人乗せることや、傘を取り付けた自転車が明確に禁止されたことで話題になっているらしい。今まで、いずれも大目に見られていたし、それをするための専用の器具まで売られていたのだ。「雨が降ったときに自転車に乗るなら、合羽を着るしかないのでは」と僕が言うと、スバル氏は「いや、おばちゃんたちは日傘なんだよね」と教えてくれた。
何年もまえから、僕はこれを訴えてきた。自転車は横断歩道に飛び出してくるし、一方通行も逆に走るし、一時停止もしない。街を歩いていて、こんなに恐いものはない。問題になるのは、当然だと思われる。
2008年01月22日(火曜日)
【社会】 形に残る仕事
建設業などのキャッチコピィに、「地図に残る仕事」というものがあった。自分の仕事が形として残ることは、たしかに1つのクレジットだとは思う。ただ、経済が発展している社会では、そうした仕事の割合が多かったけれど、ある程度達成してしまったあとには、そればかりでは困る。
街が発展しているときには、様々なものが必要になる。あの施設は誰が建てた、あの道路は誰が造った、というように形として業績が残る。しかしその時期を過ぎると、新しく必要なものは少なくなる。既に使われている施設も老朽化してくるわけで、それらを修復する必要も生じる。これらの「維持」や「補修」は形にならないので、どうしても業績として捉えにくい。あの建物は誰が直した、というふうには語られないからだ。
名目を無理に考え、さらに新しい施設を作り続けるよりも、既存の施設を直すことに資金を投じるべきなのに、それでは形に残らない、自分の業績として見えにくい、話題性がない、新たな組織が生まれない、などと考える。これは「常に前進したい」積極性のように見えるが、実は、これまでの金の流れを変えたくない、そのことで生じている今の権力を維持したい、という消極性でもある。
新しい建物がどんどん建つわりに、古い建物の修復には予算がつかず、ずっと放置されている。日本では、どこにでも見られる光景だ。官僚の世代が変わるまでは無理だろうか。その世代の頭の中には、まだ戦後の復興という形が残っているのか。
古い世代にまだまだいる。なにかというと、新しい施設を作りたがる人たちは、そういうことでしか元気が出せない人種、つまり、貧しい日本を生きてきた世代なのだ。ご苦労様でした、と言ってあげたい。もう引退した方が良い。
2008年01月16日(水曜日)
【社会】 今思うと……
今思うと、なんだね、モンゴルへ雲隠れしたの、あれが最善の策だったわけだね。
今思うと、なんだね、酒を飲んで酔っ払って御輿を担ぐのは、どうなんだろうか?
今思うと、なんだね、郵政民営化に命をかけて反対した人、みんなまだいるんだ。
今思うと、なんだね、ネットで株を買って大儲けって話、いったいどうなったの?
今思うと、なんだね、耐震偽装問題、あれは、あそこだけのことで終わったわけ?
今思うと、なんだね、愛知万博って、いつやったんだっけ? もう終わったよね。
今思うと、なんだね、日本の場合、結局、良い政治は好景気にすることなんだな。
今思うと、なんだね、安倍総理が辞めたのは自民党には起死回生だったのかもね。
2008年01月12日(土曜日)
【社会】 罪と罰
専門ではないので、どんなふうに考えたら良いものかな、とときどき一人で考える。
罪を犯したとき、その人の責任はどのように評定されるのか。たとえば、酒を飲んで車を運転し、事故を起こす。相手の車に1人乗っていた場合と、5人乗っていた場合では、結果が異なってくる。同じ行為でも、1人を殺した場合と5人を殺した場合では、やはりその人が負うべき罰は違うのだろうか。そもそも、運良く事故を起こさなかったときは、罰を受けないのだから、問われる罪に「偶然」が介入することは事実である。
当然ながら、ケースバイケースだからこそ、法律が定める罰にも幅があるわけだし、個々に裁判も行われる。なるべく客観的に判断すべきであるけれど、やはり判決は「意図」や「行為」だけでなく「結果」に左右される。同じことをしても、運悪く最悪の「結果」になってしまったときには刑罰も重くなる。
たとえば殺人の場合、被害者がどれほど世間的に良い人だったかということが、加害者の罪に影響するだろうか? どんな命も価値は等しいという立場ならば、被害者に関する(加害者との関係以外の)情報は無用だ。遺族がどれだけ可哀相か、ということで犯人の刑罰が左右されるのは正しいだろうか?
生きているときはこうだった。死ぬ直前までこうだった。これから、こんな楽しみがあったのに、といった情報によって、「こんな幸せを奪った悪人は許せない!」と憎悪を増幅させること、それによって罪を重くしようとする行為は、「仕返し」あるいは「リンチ」の精神に近づいていないか。それ自体が罪の一種ではないのか?
あまり自信はないけれど、裁判ではそういった人情的なものを含まない判断をすることが、法治社会として僕は正常だと感じる。陪審員(量刑を決めるから裁判員?)の制度が始まると、この点については多少心配になるところだ。
2008年01月08日(火曜日)
【社会】 趣味の界隈観察
前回、新年にちなんだ社会観察を書いたが、今回は翻って、趣味の世界を見てみよう。そうしないと不公平だ。
先日、BSで日本の蒸気機関車の紹介をしていた。スバル氏が珍しく一緒に見ていた(たぶん、ほかにすることがなかったのだろう)。彼女には、どの機関車も全部同じ形に見えるはずだ。C57はそのスマートなフォルムから、マニアの間では「貴婦人」と呼ばれている、と紹介があったら、ぷっと吹き出していた。悪い冗談に聞こえたようだ。また、C56は「高原のポニィ」と呼ばれている、と聞くと、もうあっけにとられていた。福袋を買う神経よりは、こちらの方がはるかに常軌を逸している、と言いたげであった。
そういわれてみると、ビッグサイトに長蛇の列を成す人たちの数は、福袋に群がる人たちの比ではない。もしかして並ばない人間の方が間違っているのか、と思わせる勢いがたしかにある。
模型の飛行場へ行くと、雪が降り積もって滑走路が使えないのに、ちゃんと趣味人が集まっていて、なにをすることもなく、携帯コンロでコーヒーなんか沸かして飲んでいるのだ。「何をしにきたんですか?」と尋ねる気にもなれない。自分も来たのだから。
飛行機も機関車もだいたい同じであるが、若い人は、趣味の集いにガールフレンドや奥さんを連れてくる。そのうち一緒に来なくなる。子供も小さいうちは連れてくるけれど、そのうち来なくなる。こうして、一人前の趣味人ができあがる。
このように考えると、福袋に命をかける人たちを、孤高の趣味人と讃えても良い気がしてきた。
2008年01月04日(金曜日)
【社会】 新年の社会観察
初詣の客のため、神社の近辺は路上駐車が増えて非常に迷惑だ。正月からああいう悪事を働くのは、いったいどういう了見なのか。そんな人間たちに参られて、金を集める神様も相当レベルが低い。神様なら「いつでもどこでも、手を合わせればわかる。わざわざ正月に来るな」と絶対言うだろう。
福袋が不思議だ。並んで買う人の何割かはオークションで売るためだと思うけれど、ああいうものを争って買う人間は、安ければなんでも良い、という人なのだろうか。たとえば、模型屋が福袋を出して、価格の100倍の商品が入っていても、僕は絶対に買わない。たぶん、趣味人ならばこれがわかるだろう。欲しいものは高くても買う。そうでないものは、いくら同じメーカのものでも、いくら安くても絶対に欲しくない。だから、福袋を買う神経が信じられないのだ。売る方も売る方だ。客を並ばせ、何十万円もする福袋を出すような商売は、まちがいなく「信用できない店だな」という印象を僕に抱かせる。
仕事初めに「鏡開き」というものがある。もともとは鏡餅を食べたのだと聞いたが、今は酒樽の蓋を割って、みんなで酒を飲む。役所関係でもこのイベントがあるが、あの酒代はどこから出ているのだろう。「ああ、裏金か……」という声が聞こえてきそうだ。
この時期、路上でマラソンがよく行われる。学生が走る駅伝もある。主催者にとっては、場所代もかからないし、ギャラもいらないし、安上がりなイベントなのかもしれないが、みんな何を求めて長時間あんなものを観るのだろうか。善良で平和な人間が多いということか。豊かな社会になったな、と毎年思う。
2007年12月30日(日曜日)
【社会】 正論が通る社会
近頃の社会を傍観して感じることは、昔よりも正論が通る社会になりつつある、ということ。悪いことは悪い、してはいけない、という単純なことが、少しずつ厳しく守られるような仕組みになってきた。かつては、誰もが社会は二重構造だと認識していて、表向きはこうだという建前があって、しかしその実は違う運用を裏ではする、ということが常識だった。陰でこっそり、みんなで少しずつ悪いことをしていたのだ。ただ、悪いことだから、そんなにおおっぴらにはできない。「こんなこと、したくはないんですけどね」と愚痴りながらしぶしぶやっていた人が多かったのではないか。「まあ、少しくらいはしかたがない」とみんなが諦めていた。そういったことが正されてきたわけだ。
一方、正論が通ることで問題も生まれる。そもそも、何故正論が通らなかったのか、と考えればわかるが、まず、個々の正論が全体の正論と必ずしも一致していないこと、また、全体合意の正論であっても、それを実現するには資金や労力が足りないこと、などの問題があった。だからこそ、正論が通らない時代が続いていたのだ。
たとえば、「弱者を救う」というのは正論である。救えるのなら救った方が良いにきまっている。しかし、どこまでが弱者なのかという議論もあり、また、救うための資金はどうするのかという問題が現れる。正論を通すためには、社会にある程度の余力が必要なのだ。そして、その余力とは、つまりは個人の富と力の負担によるものだから、「正論を通すために、あなたはどこまで犠牲が払えますか?」という議論に帰着する。現在、暗黙に問われていることは、まさにこれだろう。
2007年12月26日(水曜日)
【社会】 言語と文字
話す言葉は、民族や地域によって受け継がれるものだが、その言葉を表記する文字は、政治(特に、独裁者)によって支配されていることが多い。日本は戦争に負けてアメリカに占領されたけれど、幸運にもローマ字にはならなかった。しかし、海外では、ベトナムとかモンゴルとか、もともとあった文字から新しい文字へ切り換えられたところがある。支配下にあったわけではなく、自発的に変えた国もある。ドイツもナチスによって文字が変わっているし、中国だって毛沢東が漢字を変えてしまった。韓国の今の文字も比較的新しいものだ。人の名前が漢字なのに、もう漢字はほとんど使われなくなった。
こうした文字改革に共通する動機は、「より簡単に」という方向性である。表記が難しいから文字を読めない人がいる。文字が読めない人がいることは、支配者には好ましくないので、改革が推し進められるわけだが、簡単にすることで失われるものも多い。日本語がローマ字ですべて表記されることになっていたら、どれだけ日本人は損をしただろう、と想像すればわかる。しかし、タイプライタしかなかった当時は、その簡単化のメリットが大きかったわけだ。危ないところだった。
英語は、アルファベット26文字しかなく簡単に見えるが、スペルが非常に難しい。話ができる人でも書ける人は少ないし、また読めない人も多い。日本語のようにルビを打つこともできないから、とにかくスペルを覚えて、読み方を聴いて教えてもらうほかないのだ。発音が同じならスペルも同じにしようという英語改革の運動もあったようだが、この「簡単化」はやはり反対が多く、広まらなかった。
いずれにしても、一度簡単になったものは、絶対に複雑な方へは戻らない。これも歴史が証明しているところである。
2007年12月22日(土曜日)
【社会】 金券と領収書
プリペイドについては、2006年8/23に、ICカードについては、2007年9/8にそれぞれ【社会】で書いた。プリペイドよりも、ICカードは補充ができる点がアドバンテージである。支払った分をきちんと消費する割合が圧倒的に高いだろう(業者側はその分、損になるが)。
先日、東京でSuicaをチャージしようとしたら、領収書を出せることに気づいた。そうか、やはりこのチャージの時点で、既に支払っているのだ。Suicaにチャージした領収書は、交通費という「経費」で落とせるだろうか。今やSuicaは、どんなものにも使えてしまう。本や漫画も買えるし、弁当も買える。しかし、電車賃に消えた場合との区別は難しい。
デパートなどで売っている商品券はどうか? 商品券を購入するときに領収書がもらえるのか、商品券を使ったときに領収書がもらえるのか。カードだって、銀行から引き落としをせず、商品券で支払うことができるものがある。いったい、どこで本当にお金を使った、と判断されるのだろうか。カードを使って商品を受け取ったとき? 商品券を買ったとき? その商品券でカードの支払いをしたとき? もしかして、領収書はその3回、すべてもらえるのだろうか? 消費税がどこで取られるのかも詳しく知らない。いずれにしても、複雑になることは確かだ。
商品券は、金券ショップで売買できる。若干値段が下がるものの、わりと高い率で回収できてしまう。1万円分の商品券を購入し、その領収書で消費したことを証明し、実は9000円くらいの現金に換えることができるわけだ。税金を5割近くも取られる高収入の人(あるいは組織)ならば、これで4000円の得になる(節税などと言う人がいるはず)。また、この方法でいわゆる「裏金」も作られるだろう。金券だけをチェックしても無駄で、今ではネット・オークションがあるから、物品でも同じように現金化が可能だ。
こういった抜け道を許してしまう(この場合は所得税とか公的予算とかの)システムに問題がある、ということになるのだろうか。
2007年12月20日(木曜日)
【社会】 働く小説家
西尾維新です。
昨日は、小説家にとっての仕事とは何かと問題提起したところで締めましたが、これはひょっとすると不思議に思われるかもしれません。小説家にとっての仕事が小説を書くことや小説について考えることでなければ一体何なのかという話です。しかしよく考えてみてください。小説を書く。物語を作る。お話を考える。趣味でしょう、それは。
趣味を仕事にするべきではない、とよく言いますが、しかし普通に考えて趣味はそのままでは仕事になりません。趣味を仕事にするための作業が必要で、そしてその作業こそが仕事なのではないかと僕は考えます。
2日目の講義で小説家になれる確率を企業就職と較べましたが、小説家はある意味において個人的な会社であり、小説家になろうという行為は就職活動以外の何物でもありません。小説家は職人であり芸術家であり、そして社会人なのです。ここを心得違いしていると、痛い目を見ます。要注意。
で、社会人としての小説家の仕事とは具体的に何かという問題ですが、しかしあまり具体的な話をしても逆にわかりづらいだろうと思うので、ここはひとつ、こんな言葉を紹介しましょう。『作家にとって読者や出版社はお客さまである。味方でもなければパートナーでもなく、主人でもなければ部下でもない、まして敵であるはずがない。』……わざわざ説明しなくともぴんと来るかたが大半だと思われますが、つまり小説家とはサービス業であるということです。お客さまである読者や出版社をいかにもてなすかという部分が、いわゆる『仕事』にあたるのだろうと僕は考えます。もちろん、最上のおもてなしを提供するためには、時には期待を裏切ることも必要です。
社会性を有しないがゆえに小説家を目指すという入り口もあるにはありますが、しかし企業も国家も身分を保証してくれないこの個人的な職業を続けていくには、社会的信用を自分で築き上げるほかありません。ある意味、ほかのどんな職業よりも社会常識を求められると言っても決して過言ではないでしょう。
では、最終回となる明日の講義では、小説家であり続けるということについて、話そうと思います。
2007年12月13日(木曜日)
【社会】 道路を造るべき時代か
ガソリン税が議論になっているが、新しい道路や橋を通ったりすると、この道路はガソリンや自動車の税金で作られました、といったことがよく書かれているのを見かける。べつに財源がどこであっても良い。お金とは、元がどこであっても無関係だ。それよりも、問題は使われる額だろう。
たしかに、この頃、田舎に立派な道路が沢山できているように感じる。トンネルも橋も、「こんな田舎に、どうしてこんな立派なものが」と思うようなものが多い。日本も豊かになったな、とは感じる反面、これからの時代、道路の需要は増えるのだろうか、と疑問にも思う。
今まで増加してきたから、これからも増加する、という単純な発想だろうか。もちろん、そうではない、これまでそれで儲けてきた業界があって、同じ方法で景気を良くしていかなければ安定した社会は維持できない、と思い込んでいる人たちが多いのだ。
将来的に見て、多くのものはネット(通信網)に移行しつつある。物流だけは無理だが、それ以外のもの、たとえば、人間が移動しなければならない機会は限りなく減少させることができる。エネルギィ事情にも環境にも合致している方向性だ。
まだ電話の電波が届かないところ、デジタル放送がないところ、ケーブルテレビがないところ、そういったところへ高速道路を通し、橋を架ける行為は、誰の欲望なのだろう。
2007年12月09日(日曜日)
【社会】 どこまでが?
収賄の取締りが厳しくなると、「しかし、どこまでが収賄で、どこまでが単なるお礼なのか、線引きが難しい」という声を聞いた。ヤラセが問題になると、「どこまでがヤラセで、どこまでが演出なんだ?」という声が上がる。セクハラのときだって、「どこまでが良くて、どこからがセクハラになるのだ?」という声が多かった。
しかし、多くの場合、「どこまでが」なんて言っているようなものは「すべて悪い」と考えるのが正解である。自分がどう認識しているか、自分がどう処理しているかが問題なのではない。そこが決定的に間違っている。当事者の誰かが「収賄だ」「ヤラセだ」「セクハラだ」と感じれば、あるいは当事者でなくても多数が感じれば、それは「クロ」なのだ。
いずれも、長く当たり前のように行われてきた慣習だ。ときには、ものごとを滑らかに進めるシステムだった。やっている側にはまったく罪の意識はない。「何がいけないんだ?」と首を捻るばかりで、「まったく、やりにくい世の中になったものだな」という嘆きしか聞こえてこない。つい10年まえなら、「談合は絶対になくならない。これは必要なシステムだ」と胸を張っていた人がまだ大勢いた。
では、何故問題になったのだろうか? こういった慣習に対し、「ちぇ、嫌だなあ」と眉を顰めている人間が大勢いたのである。これまで、そういう大勢の大人しい人たちが無視されていただけのことだ。わかりやすい例でいえば、禁煙運動もこれである。
昔ほど、少数が大勢の気持ちを知らなかったか、無視していた。ゆっくりではあるけれど、世の中は、大勢が望む方向へ進んでいる。
2007年12月05日(水曜日)
【社会】 領収書
商売の家だったから、「領収書」というものが大事な書類だということは子供のときから知っていた。しかし、「たしかにお金をいただきました」なんていう証書がどうして必要なのか不思議だった。というのも、ものを買うときには、品物をもらい、代金を渡す、という「交換」がその場で行われるわけで、そこでもう釣り合いは取れているように思えたのだ(どちらかが遅れる場合は証書が必要だろう)。もし金を受け取ったという領収書が必要なら、どうして客は、品物を受け取ったという証書を店に渡さないのか、と思った。それに、「たしかに領収書をもらいました」という証書はいらないのか、なんて考えた。
金が何に使われたのかを示すものだった、とわかったのは大人になってからだ。しかし、領収書なんて、単なる紙切れであって、そこに書いてあることがどこまで真実か、という疑問はある。
会社の金を持って、会社のための物品を買いにいく。1000円の品物を買ったが、領収書を1200円と書いてくれと店の人に頼む。そうしてくれたら1100円出しましょうと。店の人も100円儲かるし、この社員も100円を自分のポケットに入れることができる。さて、誰が損をしたの? もちろん、会社が200円損をしたのである。
もっとエスカレートすると、品物自体が不要になる。500円出すから、1000円の領収書を書いてくれ、と頼めば良い。これで、お互いに500円を横領できる。「購入したのは消耗品で、もう使ってしまった」と言えば済むことだ。
この「会社」が「国」だったら、どうだろう? 議員にいくら領収書を提出させても、この種の誤魔化しは発覚しないだろう。
さらにいろいろ形を変え、はるかに多額になって、架空の領収書があちらこちらで作られているはずだ。その場にいるみんなが得をするような仕組みになっているから、内部告発も出にくく、表に現れない。役所の裏金も、この仕組みで作られることが多いはず。さて、いったい誰が損をしているかな?
2007年12月01日(土曜日)
【社会】 刑の重さ
専門でないので、不適切な用語の使用があるかもしれないが、普段から気になっていることを書いておこう。
日本にはないけれど、アメリカやヨーロッパなどの国では、酷い犯罪者には、懲役1000年とか、そんなとんでもない年数の判決が下って、それはつまり「終身刑」なのだろうな、としか思えないが、恩赦などの減刑のときに利いてくる数字なのだろうか、と想像する。
日本の場合、「終身刑」というのはなくて、「死刑」の次は「無期懲役」というやつだと思う。無期懲役というのは、刑期に満期がないという意味のようだが、「無期限営業停止」などと同様に、事実上は「永遠にずっと」という意味ではなくて、そのうち仮釈放になるけれど、それがいつかはわからない、ということみたいである。僕が知っている範囲では、無期懲役でも、十数年で刑務所から出てこられる例はけっこう多い。つまり、よほど老人でないかぎり、一生刑務所にいるわけではない。多くの人が、「無期懲役は終身刑のことだ」と考えているが、大きな間違いである。死刑と無期懲役は雲泥の差なのだ。
もの凄く酷い罪を犯しても、死刑にならない場合がわりとあって、「ちょっと刑が軽くないか」と思うことの方が、あの程度のことで「そんなに重い刑なのか」と思うことよりも、ずっと多い。特に、日本の場合はそうだ。
個人の犯罪に限らず、会社がらみ、あるいは公職にある人間の刑なども、軽すぎるように思う。それどころか、たいていの場合、頭を下げたり、役を退くだけで責任を取ったことになるのが日本の常である。これでは「社会的倫理」が守られないのも不思議ではない、という見方もあるだろうし、逆に、この程度の抑制で、ここまで平和にやってこられたのが、日本人のジェントルさだ、ともいえるかもしれない。しかし、将来的にどうだろうか?
2007年11月26日(月曜日)
【社会】 河は川よりも大きい?
人の名前で、河辺と川辺があるし、河口と川口もあるし、河上と川上もある。河と川は何が違うのか。いちおう、「地理」だと思うので、【社会】で取り上げてみた。
一般には、河の方が川よりも大きいという印象であるが、日本の川は、全部「川」が最後につく。河がつくのは、中国の黄河か、宇宙の銀河くらいだ。「大河」という言葉がある一方、「大川」というのは名前でしか使わない。反対に、「小川」はあるが「小河」はほとんど見かけない。やはり、河は大きいものばかりだ。もっとも、中国には、揚子江のように江がつく川もあって、河より江はさらに大きいらしいから、さすがに大陸的である。
ちなみに、「大きい」というのは、つまり流域面積のことだろう。「銀河」の流域面積って何だ?という疑問は置いておいて。
アマゾン川とか、ミシシッピ川は、大きさからいえば、河を使った方が相応しいような気がするが、今のところは中国以外は全部「川」を使うようにしているみたいだ。昔は河を使ったものを見かけたことがあるように記憶するけれど。
しかし、「運河」という言葉もあって、これは人間の作ったものだから、そんなに大きくないものもあるはず。もともと「河」の文字は、水が曲がりくねって流れている、という意味らしいから、そういう形のものに使われたのだろう。それから、河童がいるところは、そんなに大きな川ではないような気がする。
ちなみに、湖の小さいのが沼で、これは自然のもの。池は人間が作ったものだ。英語のpondは、イギリスでは日本と同じ人工池、アメリカでは自然の沼の意味になる。
もう完全に、【国語】になっているが、では、「河川」は、「河」や「川」とどう違うのか? 広辞苑を引いたところ、「河川」とは「河」のこと、と書かれていた。もしかして複数形?
英語にも、riverとstreamとbrookがある。大きさでいえば、river>stream>brookだろうか。
2007年11月22日(木曜日)
【社会】 どこまでが誇大広告?
「誇大広告」という言葉はよく耳にするのだが、どういう定義なのかは知らない。それがいけないことで、規制はされているのだろう、と想像する。
たとえば、最近、食品や工業製品に関して、不正な表示をしていた、といった問題が毎日のようにニュースになっている。つまり、これまでは、そういったことが公然と行われていたし、不正がまったく問題にならない社会だったわけで、このように明るみに出てくることは、非常に良い兆しである。嘘をつけば見つかって、かえって大損をするのだ、という危機感を持たないと、人間はついつい悪いことをしてしまうのだろう。困った問題だが、規制をして罰することで改善されるのは、結局は、損を避け得をする方向へ動く、という人の習性を利用しているにすぎない。
広告を見ていて、化粧品などの表現が明らかに「誇大」だと僕は思うのだが、あれはイメージなのだろうか。「その美しさが貴女のものに」というのは、良いのかな。どうせなら、「貴女だけのものに」と言った方がまだ嘘ではないかも。
それから、占い師とか、霊媒師なども、本を書いたりして、ある意味で宣伝をしているけれど、あれは良いのだろうか? 薬なんかだと、科学的根拠が示されていないと問題になる場合があるのに、占いや祈祷は、科学的根拠など示されていない(というか、根拠はない)。そういう特殊技能があるかのように見せかけることが、既に詐欺ではないかと僕は感じるが、どうなのだろう。そんなことをいったら、神社なんかどうなんだ、という話になる。伝統的に行われてきたものだから、目を瞑るのかな。ユーザが信じていればそれで良い、という意味では同じ部類なのか。
それから、どんな詐欺的行為でも、それで本を書くことは規制されていないみたいだ。ダイエットの本とか、投資の本とか、死後の世界の本とか、は全部OKだ。嘘とはいわないが、根拠が薄弱なことを書いても、読んで信じる奴の責任だ、という理屈なのだろう。
「宝くじの当て方」なんていう新書を書いたら、売れるかも。これまで、宝くじに当たった人に取材するだけで書けるはずだ。え、それはおかしいって? でも、ダイエットの本とか、癌から生還した人の本とか、全部同じ部類だと思うのだけれど……。
2007年11月17日(土曜日)
【社会】 車を駐めやすいところ
名古屋は車の街なので、喫茶店やコンビニはもちろん、書店なども車で入りやすいところに人気が集まる。駐車場は、いつも空きがなくてはいけない。満車なんてことがあってはならない。そういう店はドライバの信用を失うといっても過言ではない。そもそも、東京では行列ができる店が人気だが、名古屋では「混んでいて入れない店など誰が行くものか」という考え方が一般的なのである。
駐車場はゆったりとしていて、駐めやすいことが大事。狭くて余裕がないとか、何度も切り返さないといけないとか、エレベータ式の立体駐車場は敬遠される。
コンビニなどで重要なことは、道路の左側にあること。右側にある店は、入りにくいし出にくいので問題外。また、交差点の手前にある店は、信号で車が続くから、出にくい。交差点を少し過ぎた場所が一番良い。昔は商売は交差点の角が良いとされていたけれど、車は入りにくい。ガソリンスタンドなどでも、交差点の角にある店は(交差点や店の大きさによるが)便利とはいえない。駅の近辺やバス停の近くも駄目だ。
スーパやホームセンタなどは、帰りの荷物があるから、車で行くのが普通。駐車場の中でも入口に近い場所から車が埋まる。しかし、カートに荷物を載せて戻ってくるわけだから、カート置き場の近くが次に便利である。
携帯電話がなかった時代には、車を駐めてそのまま電話ができるドライブスルーの公衆電話があった。ドライブスルーの書店もある。名古屋では女子大でも学生のための広大な駐車場(数百台?)があるところが多い。車が駐めやすいということが、あらゆる施設を選ぶときの大事な要因の1つになっている。
2007年11月12日(月曜日)
【社会】 国庫
国から出る金、というものが沢山ある。もちろん、もともとは税金として集められたものであるけれど、それを使う人間には、そんな意識はない。たとえば、道路を作る建設業の人たちは、国からの仕事を請けているし、教育も医療も国からの補助が出ている。税金の無駄遣いをするな、と言いながらも、たとえばの話、自分の不注意でちょっと風邪を引いたくらいで病院へ行ったとき、「税金の無駄遣いしているな」とは誰も自覚していないだろう。
何度も書いたが、全体の母数が多いから、自分が使うくらい微々たるものだ、と考えがちである。つまり、国からのお金は、温泉のお湯のように湧き出るものだ、という感覚が誰にもある。湧き出てくるものは、使わなくては「もったいない」となる。残してはいけないものだ、と考えてしまう。
予算を取るために、多少大袈裟に理由を作文して申請書を作る。これがどんどんエスカレートする。また、それを審査する側も、自分の権限で金が動くことが、自分の力だと錯覚できる(現に人事など各種の見返りがある)。無駄なものでも良いから、とにかくその金を使おうとする。使うことが「業績」なのだ。けっして残してはいけない。金を使いきることが自分の立場を守るに等しい。金が残らないから、黒字には絶対にならない仕組みである。国の機関が赤字になるのは、無理をして努力をして赤字にしてきたからだ。
今ある「補助金」なるものの多くは、財政赤字を増幅するための補助にしか働いていない。
2007年11月08日(木曜日)
【社会】 ボーダレス
スバル氏がTVを見ていて、急にリモコンを操作し、番組表を画面に出した。「ほら、こんなことができるんだよ」と言う。たぶん、子供たちに教えてもらったのだろう。うちは新聞を取っていないから、TVはかつては雑誌を買って番組を調べていた。この頃はケーブルTVから番組表が届く。画面で見られるなら、もうなにも必要ない。
メディアが混ざっている。かつては、新聞、ラジオ、TVだった。インターネットが加わり、携帯電話が加わり、TVはケーブルになり、デジタルになった。街角では、無線でネットがつながるところも増えている。いったい自分は今、電話をしているのか、インターネットをしているのか、それともTVを見ているだけなのか、わからない状況、否、わからなくても良い状況になりつつある。
使用料がどう取られるのか、といった問題は過渡的なものだろう。あっという間に、電気や水道と同じように普及する。情報の場合は、基本料金と簡単なレベルだけの使用料になるのではないか。今の携帯電話の使用料の複雑さは異常である。近い将来、ジョークの種になるだろう。
電子技術がこれを成し遂げた。僕は子供の頃からこの発展を見てきて、本当に素晴らしいと感じる。人と人がつながり、いろいろなところにあった境界が取り除かれていく。言葉が違い、文化が違っていても、信号がつながれば、あとは端末のインタフェイスの問題となる。こういった方向で世界が一つになっていく道があるのだな、と最近よく想像する。
2007年11月04日(日曜日)
【社会】 エンゲル係数
この頃、この言葉をあまり耳にしなくなった。エンゲル係数というのは、家庭の食費が、全支出のうち何パーセントを占めるか、という割合のことで、これが低いほど、所得水準が高い傾向にある。つまり、貧しいほど、食べることに費やされる割合が多くなる、という数字だ。収入に対する比ではなく、支出に対する比なので、貯金する額や、借金する額は関係がない。
戦後、日本人のエンゲル係数は60%くらいだったが、10年後には50%、さらに10年後には40%、とどんどん低下し、最近では20%に近づくほど下がっている。
もちろん、豊かな生活をしている家庭でも、グルメで食材にはとことん凝る、という家もあるだろうし、逆に、大金持ちだが、食べるものは質素なところもあるだろう。住んでいる場所や、年齢層、そして、物価などにも影響を受ける数字である。
森家は、グルメでは全然ないし、食べる量がそもそも少ないので、同収入の家に比べてもエンゲル係数はかなり低いものと思われる。スバル氏は、「お菓子やおまんじゅうは、食費に入れるの?」とおっしゃっていた。それを入れるか入れないかで大違いだ、ということらしい。最近では、食玩というものがあって、あれは食費に含まれるのだろうか。ペットのフードは食費だろうか。豪華なウェディングケーキは食費だろうか。彼女を誘ってレストランでワインを飲んで5万円使ったら、エンゲル係数は上がったことになるのだろうか。いろいろ興味はつきないところである。
2007年10月31日(水曜日)
【社会】 苦手な社会
小学校、中学校、高校を通じて、一番苦手だったのが社会科である。いつも一番点が悪い。勉強をしていなかったのか、というとそうでもなく、一夜漬けだけれど、社会に一番多くの時間を使ったと思う。最大の時間を費やして、最低の点しか取れないのだから、これは「苦手」なのだろう、と認識する以外にない。
まず、地理というのがつまらなかった。どこにどんな産業があるとか、山脈の名前を覚えたり、行ったこともない遠い場所のことをあれこれ説明されるのだが、自分の人生には関係のないことに思えてしかたがなかった。歴史になると、さらに関係が希薄だ。もう済んでしまったことではないか、と思えた。歴史は繰り返す、だから、過去の過ちを繰り返さないように学ぶのだ、と言われるかもしれないけれど、それにしては、やけに細かいことばかり試験に出る。そこまで知らなくても、過ちはもう繰り返さないのではないか、と思えた。
政治と経済の授業が始まると、どうもそれらを学問だとは思えない、という感覚に襲われた。必要に迫られたら、調べれば良いことだし、それを知らないと考えることができない問題、というものも周囲にはない。どうせ自分が大人になる頃にはすっかり様変わりしているのではないか、という予感だけがあった。今振り返ると、この政治と経済を小学校の最初で教えてもらった方が良かったのでは、と感じる。そうすれば、もう少し学問らしく認識できたかも。
社会は嫌いだったけれど、博物館は子供のときから大好きだった。古いものをあれこれ見るのは面白い。やはり、教科書にある文字で入力されることに抵抗があったのだろう。ものを見れば、沢山の情報を知ることができる。たとえば、古い道具を見れば、その当時の工夫、生活、などが見えてくる。その道具に対して最近になってつけた名前を覚えるよりもずっと面白い。学校の社会は、ことごとく「文字」入力なのだ。これが元凶だと思う。
2007年10月26日(金曜日)
【社会】 彼らの業績
組織が名前を変えることがある。イメージを変える目的で行われる場合もあるが、看板を替えたり、各種の印刷物を替えたり、莫大な費用がかかっても、それに見合う宣伝効果なり、社員の志気の高まりなり、メリットがあるのだろう。
民間ではなく、公共の組織が名前を変える機会も多い。今どき、まったく新しく発足・設置されるようなこともまずない。既存の組織を統合したり、部分的に再編成して、名前だけを新しく作ったものがほとんどだ。だから、人員は既にいた人間ばかり。建物は新しくても、人は古い。見かけ上、新たな機関ができたように振る舞うものの、実は以前にやっていた仕事を続けているだけだ。たしかに、宣伝効果と、内部の志気の高まりが一時的にはある。
もし、需要があって、今までなかった組織が必要になったとしたら、それには、新しい人員が必要だろう。そういうものは、ガレージ・メーカが台頭してきたりすることでわかる。既存の仕事をしている人たちが、片手間に方向変更しただけで対処できるものではない。やはり、「新しさ」が決定的に違うのである。
名前が新しい組織が登場したら、是非その古い「前身」を調べてみよう。たいていは「潰れそうな」左前の組織である。このままでは縮小され、下手をするとお取り潰しになってしまうから、なんとか生き延びようと、「新しさ」を演出し、統合・再編成で存続の道を探る。上手くいけば、予算をもぎ取り、箱(建物)を作ってもらえる。つまり、その名前は、予算獲得のために考えられたものであって、社会の需要に応えたものでは全然ない。
こういう新しい名前や箱を作るために予算をもぎ取ることが、つまり「公」の人たちが目指す「業績」であって、その後の採算も社会への貢献も、彼らの業績にはまったく響かない仕組みなのだ。「役人は腐っている」の具体的な理由は一言でいえばこの点である。
2007年10月21日(日曜日)
【社会】 懐かしい昭和
少しまえから、レトロなものが流行ったりしている。レトロといっても、数十年くらいの「ちょっと昔」で、戦後の復興期くらいの懐かしさが多い。
僕は、東京オリンピックがあったときは小学1年生だった。一番覚えているのは、コーラの王冠とお金を持っていくと、オリンピックの競技別フィギュアがもらえたこと。真っ白のプラスティックで、着色などしていないけれど、なかなかディテールが良かったと思う。これをいくつも集めていた。フェンシングの人形が一番お気に入りだった。今から40年以上まえの話だ。
ところで、この時代のもう1つの思い出は「公害」である。とにかく、街は排気ガスの臭いが酷かった。川の水は汚れ、魚もどんどん死んでいく。森林は伐採され、街にも緑は少ない。本当に殺伐としていた。食品の問題も多数あって、合成甘味料が問題になったり、薬害なども明るみに出始めていた。子供の誘拐事件があったり、治安も悪かった。
それに比べると、今は空気が本当に綺麗になった。川の水も澄んでいる。街は緑でいっぱい。特に、この数十年で育った大木が増えた。海外へ行くたびに、街にある大木が良いな、と感じたが、日本もそうなってきた。いろいろな面で、少しずつ安全でクリーンになりつつある。
この頃、北京オリンピックがらみで中国を槍玉に挙げる報道が目につくが、それを見るたびに、子供の頃の日本を思い出す。昔は懐かしいけれど、けっしてあの当時に戻りたいとは思わない。
2007年10月16日(火曜日)
【社会】 ヘッドライトの常時点灯
昨年だったか、タクシーが昼間でもヘッドライトをつけるようになった。運転手にきいてみると、つけなさいという指導が上からあったとのこと。「上」というのは、会社なのか協会なのか、それとも運輸局なのか知らないが、とにかく、ヘッドライトをつけていると事故防止につながる、という理屈らしい。
たしかに、タクシーは近道をするために、細い道へ入り込み、かなり高速で走り抜ける。そんなひやひやする場面に何度か出会った。ライトをつけていれば、歩いている人間が早く気づくから、多少は安全なのだろうか。でも、ライトをつけるよりも、もっとゆっくり走ってもらいたいものである。
ライトをつけて走れば、それだけ燃費が悪くなるし、炭酸ガスも余計に出る。省エネに反するし、地球環境にもマイナスだ。これはまちがいない。
その後、しばらくそのままだったが、最近ではほとんどライトをつけているタクシーを見かけなくなった。効果がどれくらいあったかを検討し、やはりやめることになったのだろうか。
タクシーというのは、非常に安全な乗りものだった。プロのドライバが運転するので、普通の車よりもずっと事故率が低い。しかし、最近では運転手が高齢化しているし、賃金の問題で人材が不足していると聞く。ヘッドライトを点灯させたくらいで安全になるとは、どうも思えない。安全性を高める一番効果的な方法は、運転手の賃金を上げることだろう。これは、トラックなどの運送業にもいえることだ。そのためならば、タクシー料金や運送料が値上がりしても良い、と思う。
2007年10月12日(金曜日)
【社会】 将来を考えて
保険や年金が近頃いろいろ問題になっている。昔の日記を読んでもらうとわかるが、10年もまえから書き続けてきたことだ。掛け捨ての保険は、不幸があった少数を大勢で助けるシステムとして成り立っている。それに比べ、将来の自分のためにある貯蓄型の保険は、具体的なメリットが少ない。自分で貯金をした場合よりも、受けられるサービスは低い。だから、掛け捨て的保障を上手く組み合わせているのだ。社会のために弱者を救うものとは思えない。なにしろ、慈善事業をしていたのでは、保険会社が成り立たない。保険会社の社員を養い、ビルを建てるお金は、誰が払っているのか。
30年後に支払われる年金であれば、最初の30年間は、金を集めるだけで払わなくて良い。この30年間はぼろ儲けである。その後は、新規の加入者の金を支払いに回せば良い、と考えている。もし、新規加入者が減少して立ち行かなくなったときは、保険会社が倒産するだけのことだ。倒産すれば、それで終わりである。現に、既に潰れた大手の保険会社がある。
しかし、だからといって、自分で貯金すれば良いのかというと、貯金だってまったく安全とはいえない。株だってリスクがあるし、金や土地に替えても、それで安心というわけにはいかない。いずれも「賭け」である。そういう賭けだと思って、保険や年金を認識すれば、そんなに損をすることはないだろう。比較的安全な部類の「賭け」ではある。賭けという言葉が嫌なら「投資」といえば良い。
TVなどの保険会社の宣伝は、「これはイメージ映像です」の最たるものだ。
掛け捨ての保険も、若いときに加入すると安い掛け金になるが、そのうち値上げされる。「値上げはない、一生同じ金額だ」と説明を受けたとしても、「これではやっていけない」という理由で値上げになる。潰れるよりはましなので、そこで承諾するか、解約するしかない。
僕が学んだことは1つ。さきざきのことを考えて保険を選ぶな。
2007年10月08日(月曜日)
【社会】 ベッドタウン
もう何十年もまえになるが、「ベッドタウン」という和製英語が流行った。これは、大都市の郊外(少し離れたところ)にある住宅地のことだ。もともとそこには町がなく、つまり産業などもなかったのに、住宅地だけが人工的に作られた。ようするに、「寝るために帰る町」という意味である。
「通勤圏」という言葉もこの頃にできたのかもしれない。鉄道を利用すれば、かなり遠くからでも大都市にアクセスができる。こうして、土地の安い田舎に住宅を求める人が増え、大都市になるほど、遠くにベッドタウンができた。
当時は経済も成長し、都市もどんどん発展し、大きくなっていくイメージをみんなが抱いていた。田舎だと思っていた場所が、いつの間にか賑やかな町になっている。そういうシーンを見ていると、田舎の住宅地でも、買っておけばいずれは地価も上がるから損はしない、と多くの人が想像しただろう。
しかし、人口は増えない。核家族化の過程で、一時的に住宅の戸数は増えたが、もうそれも頭打ちである。土地を切り開いて、新しい住宅地を作れば、古い住宅地は必然的に寂れていく。特に、ベッドタウンというのは、「通勤」という理由で作られた場所であって、それ以外に必然性のない町だ。住人がリタイアし、通勤しなくなったときには、存在価値を失い、非常に不自然な状態になる。そういったことを、現在、日本の社会は学びつつある。
2007年10月04日(木曜日)
【社会】 多数が必ずしも多利益ではない
20世紀は大量生産の時代だった。工業が発達したことで、製品を沢山製造することが可能になったし、また、マスコミが普及したことで、多くの人にその情報が行きわたるようになった。新しいものを作り、それを宣伝し、流行を作れば、巨額の利益が上がる、というノウハウが確立した。富はそういった仕組みで形成されるものだ、とみんなが学んだが、しかし、これはいつまでも続くものだろうか?
良いものを開発すれば、それだけ多く売れる。宣伝をすれば、それに応じて人気が出る。これらは確からしい。そういった努力によって、より多くの人が商品を手にする。しかし、開発や宣伝にかかる費用が増えた分、それに見合った利潤が上がるかどうかは疑わしい。これは、どれだけの人間が関わったのか、とも似ている。100億円を売り上げても、社員が2000人いたら、1人当たり500万円だ。給料を払ったら終わりである。
総売上や売れた個数などを聞くと、大衆はその絶対量で「儲かっている」「人気がある」と感じてしまう。また、多くは、TVなどで頻繁に取り上げられるから、くらいでもう信じてしまう。TVに頻繁に現れるのは、宣伝費を投じているからであって、むしろ売れないから必死になっている商品だ、と見た方が当たっているかもしれない。
10億円かけて11億円儲けるよりも、1000万円かけて1億円儲ける方が、ずっと凄いことだが、このように本当に儲かっているものは、目立つところには出てこない。目立たない方が有利だと知っているからである。調子の良い話には、必ず裏がある。
2007年09月30日(日曜日)
【社会】 住宅の選び方2
9/22に書いた「住宅の選び方」に関して、メールを多数いただいた。この種の反響があるのは、わりと年輩の層もこのMLAを見ている証拠だろうか。
多かった質問の1つは、「防犯や災害を考えるべきだ」と書かれていたが、具体的にどう考えるのか、というもの。
まず、防犯。たとえば、泥棒に入られやすい条件かどうか、である。外の道は人が立っていたら目立つ場所か。家の窓は外からどれくらい見えるか。照明が灯っていることが見えるか。塀の中が見えるか。隠れる場所、逃げやすい場所か。火をつけられやすいような場所か。自分が犯罪者になったつもりで考えてみよう。裕福そうな家が狙われるのではない。泥棒は入りやすい家を狙うのだ。
災害については、まず地震。その土地は、地質的にどうか。たとえば、洪積層ならば、かなり安全といえる。削られた土地か、盛られた土地かも、地震時に差がある。一般に山手の方が地震には強い。しかし、山の麓は土砂崩れの危険がある。平野は水害の可能性がある。川のそばの風光明媚な場所は、昔は大雨のとき水が溜まるバッファだったところが多い。
次に多かったのは、死ぬまで住むつもりで買いたい、いったい住宅の寿命はどれくらいなのか、との質問である。これは、その人の年齢による(笑)。しかし、一般に木造だったら30年くらいが限界だろう。それ以前にも、方々が傷んでくる。10年もすれば、簡単な修復が必要になるし、20年もすれば大掛かりな補修工事もしなければならない。長く住むことは可能だが、それなりに金をかけてメンテナンスが必要だ。木造の方が痛みは早いが、修理や改築はしやすい。しかし、もちろん、もともとのグレードによるし、お金のかけ方もピンキリである。
死ぬまで住むと考えている人が多いようだが、自分一人になって、歩くことも、車の運転も覚束ない年齢になっても、人間は生きている場合が多い。そうなっても、その場所に住めるかどうか考えて、はじめて、「一生住む」といえるのではないか。