2008年05月10日(土曜日)

【算数】 有名な数学者

 今日、「ダ・ヴィンチ」のI子氏が、「数学の先生」の話が面白かったと語ったので、同じようなものを考えてみた。
 数学が嫌いな人でも、数学者の伝記ならば面白く読めるのではないか、と思う。それは、将棋ができない人でも将棋指しの一生を物語として楽しめるのと似ている。どんなジャンルでも、そのジャンルのプロフェッショナルにならなければ、そのジャンルの天才の人となりに関心が持てない、というわけではない。
 数学は、誰でもが少しは知っているジャンルだ。将棋は触ったこともない、ルールも知らない、という人はいるかもしれないが、数学の基本的なルールは義務教育で習う。だからこそ、しかし、はるか雲の上にまで上り詰めた人、というイメージを抱かせるなにかが「数学者」という言葉にはある、と感じることだろう。現代では、もっと「専門的」なものであり、「マイナ」なものになっていて、数学全般に関する知識を持った人ではない。それでも、「広さ」よりは、その「高さ」、あるいは「深さ」みたいなものが、やはり「はるかな」ものという印象を漂わせることにかわりはない。
 数学に関する読みものは、大きく分けて、この数学者について書かれたものと、数学のある特定の問題について記されたものに分かれるだろう。そして、圧倒的に前者の方が一般的な読みものといえる。そもそも、伝記というのが一般化を目的とした存在ともいえるか。
 古いところでは、ピタゴラスなどが有名だし、名前を思いつくのは、ユークリッド、デカルト、パスカル、オイラー、フェルマー、ガウス、ラプラスなど。ニュートン、ラグランジュ、ガリレイも、数学者に含めても良いと思う。
 ドラマティックといえば、なんといってもガロアだろう。20歳で決闘で死んだ19世紀初頭のフランス人である。20歳ということは、数学者になるまえに死んだわけで、死後に業績が認められた。もし知らない方は、少し調べてみると意外に面白いかも(人にあまりすすめない森博嗣談)。


2008年05月05日(月曜日)

【算数】 ロート

 ロートは、漏斗という日本語だから「ろうと」と平仮名で書くのが正しい。でも、レンガやメガネみたいに、カタカナ表記が多い(ここまで【国語】)。円錐を逆さまにした形で、下に穴があって管が続いている。小さい口の容器に液体を入れるときに使う道具だ。
 お風呂の底の栓を抜くと、お風呂の水が流れ落ちる。このとき、どんなスピードで水は流れるだろう。たとえば、水が半分の深さになるまでの時間と、残り半分がなくなる時間は同じではない。それは、お風呂が深いときの方が、水が流れるスピードが速いからだ。だから、急いで水を抜きたかったら、湯に人が浸かっている方が短い時間で落ちる。
 つまり、容器の深さによって、出口にかかる水圧が決まり、この水圧が、出口から水が流れる速度を支配している。同じ水量のものでも、縦長で深い容器の方が水が早く落ちる。
 水の深さは、流れ出る水量によって変化(減少)する。その流れ出る速度が、水の深さによって変化(減少)する、という相互関係である。数学的には、微分方程式が成立し、これを解くと水位変化曲線が得られる。
 円柱のロートと円錐のロートを比べてみよう。体積が同じで、深さが同じ円柱形のロートと、逆さまになった円錐形のロートにいっぱいに水を入れる。最初は深さが同じだから、流れ出る水のスピードは同じだ。しかし、同量の水が出た場合、円柱の方が速く水位が低くなる。したがって、次の瞬間には、円錐形の方が水が早く流れ出る。水が早く落ちるため、いずれは水位が追いつき、両者は再び同じ深さになる。このときには、水の残量は円錐形の方が少ない。その後は、円錐形の方が水位が低くなり、流れ出る速度は逆転して、円柱の方が速くなる。さて、最終的にはどちらのロートがさきに水がなくなる?


2008年04月30日(水曜日)

【算数】 数学ができる奴

 数学がもの凄くできる奴がいる。僕も、とにかく点を取れるものといったら、数学と物理が頼りで、ほかの暗記科目が全部0点でも、数学と物理で満点を取れば合格できるところを、ということで大学を選んだクチである。
 それでも、そんなレベルではない。もっとできる奴がいる。僕の高校は、実力テストでめちゃくちゃ難しい数学の問題が出る。全校生徒の平均点は10点(100点満点)くらいになる。60点くらいを取ると、もうベスト幾つかに入るくらい上位になれるのだ。たとえば、文系志望だったら、東大を狙える奴でも、50点を取れれば良い方だった。5問しか問題はないから、3問を確実に取れるように時間を配分する、なんて姿勢でみんなが臨んでいた。
 そういう中で、やはり満点を常に取る奴が数人いた。もっと凄い奴になると、万年筆で解答を書く、とか、2時間の試験時間のうち、最初の1時間は答案を伏せたまま見ない、なんて奴も数年に1人くらいいるのである。人間というのは凄いものだ。それくらい幅がある。
 それから、そういう数学の天才は、ほかのことはなにもできないガリ勉タイプでは全然ない。運動部の主将をしていたり、音楽でバンドをしていたり、ほかの分野もむしろ人より秀でている。たぶん、普通の高校にはあまりいない人間かもしれない。
 もちろん、先生よりも確実にできるし、授業を受ける必要もないから、先生は彼に「なにをしていても良いよ」という方針だった。
 計算が速いわけでは全然ない。計算が速い奴はまた別にいた。5桁くらいのかけ算を即座にできるのだが、そいつは、そんなに数学が得意ではなかった。だから、あれはまた頭の使い方が違うようだ。


2008年04月25日(金曜日)

【算数】 数学の先生

 中学に入ると、教科によって別々の先生で、その学科専門の先生が教室へ来る。そんな中で、数学の先生が最も個性的だった。次が理科の先生で、社会や国語の先生はとても常識人に見えた。たぶん、僕の学校がこんなふうに偏っていただけだろう。根拠はまるでない。
 中学1年生のときは、代数のW先生と、幾何のK先生だった。W先生は60代、K先生は70代で、どちらも老人だ。W先生は剣道7段で二刀流の師範だという(僕は剣道部だったので見たことがある)。K先生は、職員室から教室までゆっくり歩いてくるので、職員室を5分もまえに出発するのだ。耳が遠いから、質問をしても一度では聞いてもらえない。
 また、後期は幾何の先生がB先生に替わった。この先生は授業中によく短歌を詠まれた。突然閃いて、黒板にそれを書かれるので、思わずノートを取ってしまうのである。
 それから、数学と理科の先生は、ほとんど東大出身だった。これもどうしてなのかわからない。どこから、そんな噂が流れたのかも知らない。あと、クラス担任は、ほとんど国語か社会か英語の先生だった。やはり常識人だからだろうか。校長や教頭も文系の先生だし。
 高校へ上がると、数学の先生が一気に若返った。高2からは、全校生徒500名のうち成績上位200名がAからD組になる。そしてA〜Cの3クラスは理系志望で、クラス担当は全員数学の先生だった。もちろん全員東大出身だ(噂であるが)。中学のときの数学の先生に比べると、みんな若くて常識人で、「この人は凄いな」と思うことがあまりなく、なんだか少しつまらなかった。 
 僕は、大学で数学の講義を何年か受け持ったことがある。数学はもの凄く教えやすい(というよりも説明しやすい)学科だ。見通しが先々までクリアで、後ろめたい部分がない。けれども、面白い講義をすることは難しい。興味を持たせることが難しい。したがって、まったく関係のない話をついしてしまう。中学のときの先生の気持ちがよくわかった。


2008年04月20日(日曜日)

【算数】 70億

 髪の毛を繋いでみたり、本を積んでみたり、ときどき計算したくなる。
 世界の人口は約67億人で、現在1年で約8000万人ずつ増えている。100年まえには、20億人程度だったので、3倍以上になっている。そのまえの100年でも2倍になっているから、200年で6倍以上になった。
 世界の人々が手を繋いで横一列に並ぶと、約100億mの長さになり、これは1000万kmだから、地球の赤道上を250周する長さ、あるいは月まで13往復半の長さになる。1ページに70人の名前を載せても、1億ページが必要だから、0.1mmの厚さの紙でも、500万mm=5000m=5kmの厚さの名簿になる。
 飲料水は、1人が1年で1tonくらいで充分らしいが、実際には、そのほかの生活用水で100tonほど消費しているし、また、食料を作るために必要な水までカウントすると1人が1年で1000tonも必要だそうだ。こんな生活をしているのは先進国だけであるが、もし世界中の人がこのような水の使い方をすると、7兆tonの水が1年で必要になる。これは容積にすると、7000km3になる。地球上の水は、だいたい14億km3あるので、単純に割り算すると、20万年分はある。しかし、この水の大部分は海水であり、海以外の水は僅かに3%程度。さらに、空気中にあったり、地下にあったり、南極や北極の氷だったりするので、実際に人間が直接利用できる水は、なんと0.0001%だといわれている。ということは、100万分の1なので、結局、0.2年分しかない。つまり2カ月ちょっとしかもたない計算になる。200年まえの人数だったら、なんとか全員が豊かな生活ができたかもしれないが、現在の人口では難しい。


2008年04月16日(水曜日)

【算数】 算数は何故難しいのか?

 このまえ、ダ・ヴィンチのI子氏が、このMLAの学科が順番に書かれていることを知らず、「え、そうでした?」と驚いていた。ほぼ順番を決めている。今日は何を書こうかと考えるとき、できるかぎりジャンルが限定されていた方が書きやすいからだ。社会が一番範囲が広いので考えにくい、また算数や理科が知っているものが多くて書きにくい。そういうわけで、苦手な国語が案外一番簡単かもしれない。
 算数というのは、「わからないもの」の代表選手である(古典的な表現をしてみました)。小学校高学年でもうわからなくなった、とか、中学でついていけなくなった、などとよく聞く。どうして、そうなるのだろう?
 子供にとっては、どの教科も同じく未知のものであるはずだ。何故、多くの人が「算数が難しい」と感じるのだろう。
 これについて、僕は特にこれといった答を持っているわけではない。人それぞれに理由があることと思う。しかし、あまり指摘されていない部分として、「言葉」の問題があるだろう。
 多くの人は、足し算や引き算などの計算はどうにかこなすことができる。算数の最初の壁は「応用問題」や「文章題」と呼ばれるものだ。そしてこれは、文章から事態を把握し、問題がどこにあるのかを抽出し、どんな解決が求められているのかを考えなければならない。「わからない」と感じる人は、まず事態が把握できないし、また何が問われているかがわからないようだ。これは、それまで言葉というものをそこまで厳密に(意味を限定して)使用した経験がないためではないだろうか。
 幼いときから言葉を使っているけれど、片言を話しても周囲の大人が理解してくれるし、また、単語さえ聞き取っていれば、だいたいコミュニケーションは成り立つ。「これがこうなったら、あれはどうなりますか?」といった複雑な文章は、実生活にほとんど現れない。他の教科でも、高学年にならないと現れない表現が、算数の問題中には比較的早くから現れる。
 算数の理解には、かなり高度な言語力が求められると思う。それが「論理性」であり、数学の基本的な部分ではあるし、言葉の厳密な理解力のことだ。
 だから、少し大人になって(充分に言葉に慣れて)から、算数をもう一度やり直すことは、わりと良いアプローチかもしれない。


2008年04月11日(金曜日)

【算数】 時間と角度

 長さと重さの単位は、世界で統一されているようで、実はされていない。何度も書いているが、アメリカでは、メートルもグラムもほとんど通じない。イギリスは、まだフランスに近いためか、インチとミリが併記されているところを見かけるから、多少は柔軟かもしれない。
 さて、しかし、時間の単位は世界で統一されている。それから、角度もそうだ。どちらも、10進法ではなく、小学生に「どうしてこんな複雑なふうにしたの?」という疑問を抱かせるのに充分ないやらしさといえる。
 15分というのが、1時間の1/4で、クオータなのだし、しかも文字盤の目盛りは「3」である。絶対に複雑過ぎるだろう。しかし、大人になる頃には、45分と聞くと、頭の中で時計の文字盤を思い浮かべ、3/4のイメージがすぐ出るようになる。だが、45という数字は10進法では、9/20という半端な数なのである。
 角度も、90度が直角だから、45度や30度などが、その1/2だったり、1/3だったり、きりの良い角度に認識される。しかし、やはり45や30という数字は10進法では半端な数だ。人間はこういう頭の切換ができてしまうのだな、と感心する。
 時計の文字盤や、角度を測る分度器のように、これらは円の分割としてイメージされている。数字はその円盤に刻まれた印なのだ(10進法の数字が書かれているのが複雑さを増すが)。たとえば、時計がデジタルになって数字だけを表示したり、分度器もデジタルになって、角度に合わせると数字を表示するようになったりすると、大勢が勘違いをするだろう。数字はあくまでも10進法だからだ。デジタル時計が普及しない理由は、こんなところにもありそうだ。


2008年04月07日(月曜日)

【算数】 物差しの使い方

 長さを測るときは、つまり2点間の距離を求めるわけだから、物差しの0を一方の点に合わせ、他方の点が目盛りのどこに来るかを読むことになる。
 物差しは手前から当てる場合が多い。目盛りの数字が読みやすいからだ。しかし、場所によっては、反対向きになることがある。また、場所が狭いために、片方に0を合わせられない場合もある。そうなると物差しの途中から途中まで、両方の目盛りを読んで、頭の中で引き算をすることになる。せめて、きりの良い数字に合わせたいから、10とか15といった点を選ぶことが多く、たとえば、10から24までなら14cm、と測るわけだ。
 また、等間隔でネジなどの位置を記すようなときは、距離を等分し、商を足しながら印をつけていく。距離が15cmで、釘を間に5本打つなら、2.5cmピッチで印をつける。最初の位置が10だったら、2.5を足して、12.5、15.0、17.5というように記していく。
 こうした経験を積むと、普段でも0に合わせないようになる。物差しをずらす面倒をかけるよりも、引き算をした方がエネルギィが少ないからだ。物差しが向こう側にあってもそのまま測るようになる。そもそもは、左の点を起点にして右で目盛りを読むのが基本だが、これも逆になって、右を起点にして左で読んだりもするようになる。
 整数のときはほとんどミスがないが、小数になると0.5を右に取るか左に取るかで間違える。このミスが多いのだ。mmの単位で、10, 15, 20と数字が書いてあればこんなミスはないと思うけれど、目盛りの数字はcm単位だ(スペース的な問題だろう)。 穴を開けてしまってから、どうも等間隔に見えないから、と物差しを当てると、(±0.5cmだから)1cm間違っていたりする。
 明らかに今回も、自分に言い聞かせている文章だな。


2008年04月02日(水曜日)

【算数】 どこに誰が座るか

 レストランでテーブルに着くとき、何とおりの座り方があるのか、とつい考えてしまう。
 四角のテーブルの両側に2席ずつある。ここへ3人で座ることになった。ほら、よくあるケースでしょう?
 最初の1人は、4つの席から選べるから4とおりある。2人めは残り3つから選べるから3とおり。3人めは残り2つなので2とおり。だから、4×3×2=24とおりの座り方がある。
 しかし、テーブルや部屋に特徴がなく、人間の位置関係だけに注目すると、テーブルのどちら側かは同じ条件なので、片側の右の席か左の席かの2とおりしか選択がない。その人が右に座ると、その人の前、斜め左、そして左隣と、残り3つの席が区別される。だから、2人めは3とおり、そして3人めは2とおり選べるので、2×3×2=12とおりの座り方がある。これは、さきほどの半分であり、つまりテーブルのどちら側でも同じことに起因している。
 また、左右の区別など気にしない、という場合には、最初の人はどこに座っても同じになり、その人に対して、前か斜めか隣かだけが区別されるから、6とおりしか座り方はない。
 さらに、前も斜めも反対側だから同じだと考える場合には、自分の横の席が空席か、あと2人の誰が座るかの3とおりしかない。これはすなわち、3人の組分けのし方で、誰が1人になるのか、という選び方と等しい。
 逆に、1人と2人の組分けが初めから決まっているときは、座り方は、最初の24とおりを最後の3とおりで割って、8とおりある。
 というようなことを瞬時に考えてからシートに座る人は算数オタクである。僕は、けっこう考える方だ。


2008年03月29日(土曜日)

【算数】 かけるかわるか

 日本人は、400円のものを買って500円を出したとき、500-400=100という引き算をして、おつりを出すが、海外では、商品が400円で、それに100円のおつりを足し算してみせ、500円と交換します、という動作をする。引き算をしない。
 実物を縮尺して模型を作る場合も、これに似ている。日本人は、6分の1というスケールであれば、実物が3mのときには、3÷6=0.5という割り算をして、模型の大きさを求める。外国では、そもそも「6分の1スケール」とは言わない。1フィート(=12インチ)を何インチにするか、というのがスケールなので、この場合は「2インチスケール」と称する。だから、3フィートのものがあれば、3×2=6で、6インチ(=0.5フィート)と求める。割り算をしない。
 割り算をしないかわりに、分数はよく使われる。3/8インチとか、7/64インチなんて普通に用いる。小数にしない。これを見た日本人は、1インチを64で割って……、と考えてしまうのだが、そこがもう違う。彼らは割り算をしないからこそ、分数のまま使っているのだ。そして、1/64インチというメモリ(あるいは単位)がちゃんと認識されているから、その7倍としか考えない。これらからわかるように、割り算が不得意なのは、12進法で割り切れやすい環境にいるためではないか、と連想させる。
 日本の場合、1/4であっても、2割5分、つまり0.25倍という小数の概念が強い。10進法だし、なんでもすぐに割ってしまうから、小数になるのだろう。
 最近、インチを使う工作を積み重ねてきたので、ようやく分数の世界が頭の中で長さや大きさとして直結しつつある。そちら側から見ると、0.125倍なんて難しいことを考えている日本人は凄いな、と思う。
 でも、海外でも、税率は分数ではなく小数(パーセンテージだが)だなあ。


2008年03月25日(火曜日)

【算数】 2人の外国人

 外国人が2人立ち話をしている。背の高い外国人はフランス語を話している。また太った外国人は英語を話している。彼ら2人に質問をしてみた。「あなたはフランス人ですか?」という質問に1人は頷いた。また、「あなたはイギリス人ですか?」という質問にも1人が頷いた。さて、背の高い外国人はどこの国の人でしょうか?
 もの凄く素直に捉えると、背の高い方がフランス人、太った方がイギリス人、という答になるが、少し数学的に捉えてみよう。まず、背が高い人と太った人が別人であるとは書かれていない。つまり、背が高く太った1人と、もう1人がいるのかもしれない(その人の体格はわからない)。すると、1人がフランス語と英語を話している。もう1人はしゃべっていないかもしれない。質問に頷いたのは1人だけで、その人はフランス人でもあり、イギリス人でもあるかもしれない。しかも、それは背の高い太った人ではないかもしれない。したがって、この場合は答は不定である。
 また、フランス語を話すからフランス人だという保証はないし、同様に、英語を話しているからイギリス人であるとは限らない。たとえば、背の高い方はイギリス人で、太った方はフランス人で、2人ともフランス語と英語が話せるとすると、インテリのエチケットとして、相手の国の言葉で会話をするだろう。この場合、背の高い方はイギリス人になる。
 この種の論理クイズでは、黒い毛の羊を見た数学者たちの話や、そっくりな2人の子供に「双子?」と尋ねて否定される話などが有名で、ほとんど同じものが世界中に広まっているように思える。ここ10年ほど、新しいネタを聞いたことはない。


2008年03月16日(日曜日)

【算数】 システム家具

 ホームセンタなどによくある商品で、パーツを自由に組み立てて、自分の好きな形の家具が作れる、というものがある。「システム〜」という名前がつくことが多い。いろいろな種類があるけれど、たとえば、パイプを組み合わせるものを例に挙げて考えてみよう。
 長さが30cmのパイプが1本300円だ。実際には298円などが普通だけれど、ようするに数学的には300円と近似しても問題ない(2円くらいで「お、安い!」と思う人は、数学的でない)。直角に3本が交わるコーナの金具は少し高くて400円だ。それから、30cm×30cmの正方形の板が1枚500円。これを取り付けるための金具が1個で50円で、板1枚につき各辺に(合計4つ)必要だ。
 この場合、たとえば、30cm立方のサイコロの箱を作ろうとすると、パイプは12本、コーナは8個、板は5枚、金具は20個が必要になるから、計算すると、300×12+400×8+500×5+50×20=3600+3200+2500+1000=10300円になる。1万円では作れない。意外に高い。
 このサイコロが3段重なった棚を作ろうとすると、一見3倍かかりそうだが、そんなことはない。パイプは28本、コーナは16個(半数は4本節点だが)、板は13枚、金具は52個なので、計算すると合計23900円になる。2倍ちょっとだから、なんだか割安に感じる。ちなみに、パイプが298円なら56円安くなる。パーツが全部2円安いと……、なんて考えても、影響はほとんどない(当たり前だが)。
 森博嗣らしくもう少しディテールを書くと、是非キャスタを付けたいところだが、これがやけに高かったりする。「こんなの、普通の洒落た家具が買える値段ではないか!」と思えるのである。
 結婚した頃、電話をのせる台をこれで自作して、「え! これが12000円!」とスバル氏を驚かせた経験があるので語ってみました。


2008年03月12日(水曜日)

【算数】 球とボール

 2006年の12/27に、「円錐と球を足すと円柱になる」という話を書いた(異様に反響があった)。覚えているだろうか。半径と高さが同じならば、円錐と球と円柱の体積比は1:2:3になる。今回も似た話かも……。
 半球の形をしたボール(キッチンにある器)に水を満たす。その水の中にぎりぎり沈められる球がある。この球を沈めると、水が溢れてこぼれる。
 もう少しわかりやすく書くと、球の半径がrならば、ボールの半径は2r。これで計算ができる。球の体積は、4πr3/3。半径が2倍のボールの容積は、球の8倍の半分(半球なので)だから、4倍である。つまり、16πr3/3だ。こぼれる水の量は、球の体積と同じだから、ボールの中に残っている水は、最初にあった量の3/4に相当する12πr3/3、すなわち4πr3となる。分母が消えてすっきりした。これは、ボールと同じ半径2rで、高さがrの円柱の体積に等しい。もちろん、球の3倍である。
 もう1つ同じ球を入れると、こぼれる水の量がちょうど半分になるが、残念ながら球が物理的に水に入らない。そこで、大きさ(直径)が半分の球を(体積が同じになるよう)8個用意して、これらを水に沈めてみよう(中央に最初の球が1個あるところへ、小さい8個を加える)。さて、沈められるかな?
 ミスリーディングし、予想外の方向へトリッキィに出題する例である。けっこう難しいと思う。いつものように、答は各自で噛み締めよう。メールと掲示板への書き込みは禁止。


2008年03月07日(金曜日)

【算数】 和と積がわかっている2数

 2つの数字があって、両者の和と積がわかっているとき、元の2数を求める、という問題を考えてみよう。
 和が20で、積が96だったら? はい、答は、12と8。できましたか? 数がそれほど大きくなくて、2数が整数であれば、ちょっと考えれば思いつけるだろう。
 これは、因数分解のときに役に立つ。(x+a)(x+b)=x2+(a+b)x+abなので、この逆方向に式を変形したいときには、和と積が既知で、元の2数が未知になる。
 和がSで、積がTとし、元の2数xとyを求めることにしよう。
 まず、和を半分にして、その数を2乗してみる。この答えがTに等しければ、x=yである。すなわち、(S/2)2=Tならば、x=y=S/2である。ここで、2値の平均値S/2をuと置く。
 2数が異なるとき、通常、Tはu2よりも小さくなる(そうならないのは複素数の場合)。このとき2数は、平均値からdだけ多いものと、少ないもののはずだから、u+dとu-dと書ける。すると、T=(u+d)(u-d)=u2-d2となるので、d2=u2-T=(S/2)2-Tのように、dを求めることができる。平方根の計算が必要になるのがネックだが、2値が整数であれば、必ずルートが綺麗に外れる(外れない場合は無理数になる)。この計算では、和と積がわかっていれば、確実に2値を求められる。数学が得意な人は、これが2次方程式の解の公式そのものだと気づくはず。
 簡単にいうと、和を半分にして平均値を求め、これを2乗する。そして積との差を取る。その結果をルートにかけて、平均値に足し引きすれば、2数が求められる。最初の例だと、和20を半分にして10。10を2乗して100。この100と積96の差が4。4の平方根は2。だから、平均値10に2をプラス・マイナスして12と8を得る。たぶん、2値が2桁くらいならば暗算でも解けるだろう。


2008年03月01日(土曜日)

【算数】 ミステリィと算数の類似

 MLAの学科の中で、一番書くのが気楽なのが【算数】である。これは、書き始めれば楽という意味であって、何を書くかを決めるまでは、実は【算数】が一番時間がかかる。候補がありすぎるからだ。そして、どれを選んでも、これが上手く説明できるだろうか、伝わるだろうか、と考えてしまい、なかなか決められない。受け手の興味や理解度のばらつきが、国語や社会に比べて多い、という認識のせいもあるかもしれない。
 ミステリィが数学に似ているか、といわれると、全然そうは思えない。ただ、パズル的な要素があることや、問題を出す、というような雰囲気は類似しているかもしれない。たとえば、このMLAの科目の中では、「出題」の形をとっているのは圧倒的に【算数】である(ただ、僕自身は雰囲気さえ全然似ていないと思う。ミステリィの多くは、しいてジャンル分けすれば、【国語】だ。問題は「なぞなぞ」に近い)。
 出題(執筆)する側から捉えると、ミステリィはこの【算数】を書くときとかなり似ている。何を書くかを決めれば、実に簡単に書ける点がまず第一。これは、「コードがある」せいだといっても良い。候補にバラエティが多いため、書く以前に迷う点も似ている。受け手のばらつきを考慮しなければならないのは、その「なぞなぞ」が成立するかどうか、という問題があるためだが、この点でもやはり似ている。
 ほかの科目でも「考えてみて下さい」といった問題提起は多いのに、それは「出題」というイメージでは捉えられない。何故か、【算数】になると、考えた結果をメールで送ってくる人が多くなる(だからこそ防御策を講じている)。「正解」の有無という違いもあるだろう。知識を問うわけではない、という点でもミステリィは【算数】と似ているように見える。
 それでも、やはりミステリィは【算数】ではない。それは、その「正解」が、例外なく万人に受け入れられるものではないからだ。


2008年02月25日(月曜日)

【算数】 確率と履歴

 たとえば、1/10の確率で当たりが出るくじがあったとする。Aさんは、このくじを引いて当たりを出した。Bさんも、このくじを引いたが、はずれだった。くじは引くごとに元に戻すため、確率はいつも1/10である。さて、2人が再度チャレンジした場合、AさんとBさんのどちらが、当たりくじを引く確率が高いだろうか?
 もちろん、これはAさんもBさんも同じである。確率は誰が引こうが、何回引こうが、いつも同じ、1/10だ。
 ところが、こう考える人は多いはずだ。10回に1度しか当たらない。それが「1/10の確率」の意味である。だから、既に当たりくじを引いたAさんは、あと9回は当たらないはずだし、Bさんは、これから当たりを引く可能性がまだ残っているので、今度はBさんの方が当たる確率が高い、と。
 この考え方は、実は世の中にかなり蔓延っている。たとえば、「1度失敗したら、もう大丈夫だ」なんて言う人がいる。あるいは、「幸運を使い切ってしまった」という言葉も耳にする。しかし、将来の確率に、これまでの履歴が影響するかどうかは、履歴によって変化する事象でないかぎり、ありえないのである。
 当たりくじがまだ残っていて、しかも引いたくじを戻さないシステムであれば、はずれを引くたびに、次の確率は上がる。これが「履歴によって変化する事象」である。しかし、たとえば、宝くじのように、全部が配布されてから当たりが発表されるものは、次回はまたリセットされるわけで、いくらこれまではずれが多かったからといって、当たる確率が高くなることはない。
 逆に、過去に当たったものに対して、「ついている」「つきがある」という理由で、確率が高くなるように言う人も多い。「この場所では過去に当たりくじが出ている」とか、「つきがあるうちに勝負した方が良い」といったものである。根拠はまったくない。
 当たり前のことを書いたが、当たり前のことを書いた方が反響があるので、首を傾げつつ。


2008年02月21日(木曜日)

【算数】 対称な数字

 形の話である。1桁の数字で対称な形をしているものはどれか?
 1は、上の庇が無視できれば対称だが、今回は除外することにする。すると0と3と8の3つだけになる(3も8も、フォントによっては明らかに上下が違う場合があるけれど)。このうち、3は、水平軸で上下が対称になる。0と8は、垂直の対称軸もある。
 では、2桁の数字(10から99までの整数)では、対称な形のものはいくつあるだろう?
 まず思いつくのは、30や33や38、で、いずれも上下対称である。さらに、80や83や88もそうだ。このうち、88は、左右対称にもなっている。ようするに、上に挙げた0と3と8の組合せということになる。
 ところが、これらのほかにも対称の形をした2桁の数字が2つもあるという。さて、それは?
(この程度の簡単な問題で、答をメールで送ったり、掲示板に書き込まないようにしましょう)


2008年02月17日(日曜日)

【算数】 テーブルのガタ

 脚が4本あるテーブルや椅子は、脚の長さが不揃いだったり、床が平面でなかったりすると、がたつくことがある。3本しか脚のないものは、どんな場合でもがたつかない。カメラの三脚はこの理屈で成立しているツールだ。これは、同じ直線上にはないいかなる3点も、それらを含む平面が1つだけ必ず存在する、という幾何学法則に基づいている。
 さて、3本脚のテーブルはがたつかないので、立ち方は1つしかない。4本脚のテーブルは、がたついて、立ち方が2つある。すなわち、今浮いている脚が床につくと、2つめの立ち方になる。では、5本脚のテーブル(正5角形の頂点に脚があるとする)ががたつくとき、立ち方はいくつあるだろうか?
 さらに、正n角形の頂点にそれぞれ脚があるn本脚のテーブルについても考えてみよう。(例によって、この問題に関することをメールで書いてきたり、掲示板に書き込まないように)


2008年02月13日(水曜日)

【算数】 いくつ?

 何度も出ているテーマだが、際どいものを幾つか思いついてみよう。

1)メダカが1匹います。そこへクジラが1匹やってきました。さて全部で何匹になったでしょう?
2)富士山が見える公園の砂場で、太郎君は砂の富士山を1つ作りました。富士山は全部でいくつになりましたか?

 ものを数えることは、簡単なようで難しい。「1つ」という状態を定義しなければならないし、それが同じように数えられる対象か、という判断も必要だ。たとえば、

3)ケーキを縦に半分にし、さらに横に半分にしました。ケーキはいくつになりましたか?

 という問題は一見簡単かもしれないけれど、厳密にいうと、こぼれ落ちる小さな欠片をどうするのか、など、現実的に考えると難しくなるだろう。そもそも「半分」「切る」などの定義、あるいはその誤差をどこまで許容するのか、という議論にもなりかねない。このまま、ナイフを入れる回数を増やしていくと、たちまち欠片との区別もつかなくなる。
 また、これが「ケーキ」ではなく、「1000円札」だったらどうなるのか。あるいは、「人間」や「地球」だったらどうなのか、ということを想像してみよう。対象が違うと、答が違ってくるなんて、算数としては変ではないか。算数とはもっと普遍的なもののはずなのに、と悩んでしまう。
 ちなみに、砂の山と富士山は、1万倍くらい大きさが違うから、重さにすると、1兆(1012)倍ほどの違いがある。これは、ちょうど、キロ、メガ、ギガの次にくるテラである。コンピュータ関連の進歩を見てきた者には、そんなに大した差でもないかも、と思えてしまう。
 むしろ、こんなに大きさが違っても、同じものだと数えられる人間の認識力の方が凄い。


2008年02月08日(金曜日)

【算数】 重心

 物体には重さがある。水平な平面で見たとき、その重さが釣り合う点が存在する。その位置で物体を支えると、どちらへも倒れようとしない位置である。これを重心(center of gravity)という。物体全体に働く重力の合力が作用する点だ。
 たとえば、円であれば、円の中心がすなわち重心である。三角形であれば、各頂点と対辺の中点(二等分点)を結ぶ3本の線分が1点で交わるが、ここが重心だ。
 飛行機がうまく飛ぶためには、この重心の位置が重要で、模型飛行機や紙飛行機を作ったら、必ず指で支えて、重心の位置を確かめる。調節するために、余計な重りを積んだりする。重くなっても、重心の位置を合わせることの方が、飛ぶためには重要だからだ。
 物体を細かく分けて考えたとき、その小さな部分の重さと、ある点からの距離を乗した値(モーメント)を計算し、これを全体について足し合わせていく。すると、この合計がちょうどゼロになる点が重心である。つまり、沢山の腕がある天秤がちょうど釣り合う位置、という想像をすれば良い。
 三角形の重心は、さきほど書いたとおりだが、これは頂点から対辺の中点へ引いた線分*の2/3の位置になる。どんな三角形でもこの比率になる。すなわち、三角形の重心は、どんなふうに三角形を立てても、その高さの1/3にある。
 さて、たまには少し計算をしてみよう。
 重心の位置で水平(底辺に平行)に三角形を切ると、上にできる三角形は、元の2/3の大きさだから、面積は4/9になる。一方、下にできる台形は残りの5/9だ。上の三角形の重心は、さきほど引いた線分*の2/3のさらに(下から)1/3の位置になるので、元の三角形の重心から(線分*を1とすれば)2/9の位置にある。一方、下の台形の重心は1/3の線分のどこにあるだろう? これは、4/9×2/9=5/9×c のcを求めれば良いので、8/81×9/5=8/45と求められる。したがって、1/3の線分の上から8/15の位置に台形の重心があることがわかる。難しかったかな……。


2008年02月04日(月曜日)

【算数】 計算する癖2

 前回、計算する癖について書いた。しかし、計算することでどちらが得かという判断ができるような場面は滅多にない。もしそんな場面があるなら、誰でも計算をしているはずなのだ。
 計算しても無駄だから計算しなくなるのだと思う。では、計算する癖をつけることで何が得られるのか?
 結果だけを求めていないだろうか。計算とは本来は結果を求めるものだが、実は付随するものがある。ここに気づいてもらいたい。
 1つは、計算の途中で表れる数字である。1日にこのくらいと仮定すれば、1年でこれだけになる、という計算をすれば、その仮定した数字が、少なくともデータになる。これを覚えていると、あるとき、その実際のデータに出会う機会があって、「そうか、それだったら……」という発想が瞬時に立ち上がるだろう。自分の中にそのデータを持っていない人は、この発想を逃すかもしれない。
 2つめは、計算の方法に関するものである。何をどう仮定し、どのような精度で(あるいは範囲で)予測ができるか、ということは、実際に計算をしているうちに身につく「感覚」である。こういったバランスは、あるときは「金銭感覚」とも呼ばれるが、もちろん金銭だけではない。たとえば、日曜大工をすれば、「力学的感覚」が有効な場面があるし、時間配分を見積もったり、あらゆる未来予測に役立つ。身近な事象を統計的に捉えることも、非常に有効である。数字に置き換えない限り、予測ができない問題はとても多いことに気づくだろう。
 そして、最も大切なことは、自分のデータや概算の誤差を把握すること、すなわち、客観的な自己評価、つまり「自覚」である。


2008年01月30日(水曜日)

【算数】 計算をする癖

 「ちょっと計算したらわかるだろう」ということなのに、そのほんのちょっとの計算をしない人が多いみたいだ。計算をせずに、「安い」とか「お得」とか、そんな言葉のイメージだけで判断していないだろうか。
 出かけるごとにタクシーに乗るなんて「贅沢」と思う。だから自家用車を買う。毎週日曜日にタクシーに3000円使ったとすると、1年で15万円だ。自動車の購入費を除外しても、これくらいの維持費(税金、保険、ガソリン代、車検)はかかるだろう。分譲のマンションを何千万円も出して買うけれど、家賃30万円の賃貸なら1年で360万円、10年借りても3600万円だ。諸経費や税金やローンも簡単に計算できる。是非比較してみよう。
 一方では、環境のために、あるいは節約のためにこんな工夫があります、といろいろPRされている。1年で1万円の電気代の節約になる、とあれば、それは「お得だ」と感じる。しかし、その装置が50万円する。では、元が取れるのは50年後か(電気代が変わらず、故障もしなければ)。もちろん、元を取ることが目的ではない。環境のためだ。しかし、少なくとも「お得」ではない。スーパのレジ袋の節約なども、ほとんど効果はない。それよりも大事なことは「生産をしないこと」そして「無駄に買わないこと」である。まあ、どれも、気持ちの問題なのだろう。
 あの人はどれくらい儲けているだろう、といったことも、その人の行動を観察すればほぼわかる。店を見てみたら、店の売り上げは想像がつく。
 1日に500円を貯金したら、1年で18万円になる。僕はこの方法で50万円を2年半かかって溜めたことがある。最初に、蒸気で走る機関車のキットを買ったときだ。実際に500円玉を溜めたので、持っていくのが大変な重さになった。でも、1円玉で50万円溜めると、約500kgだから、トラックが必要になる。
 とにかく、「どれくらい?」と思ったら、まず概算をしてみよう。


2008年01月24日(木曜日)

【算数】 応用力

 小学校の科目で算数が特異な理由は、答が教科書に書かれていないことにある。つまり、先生から教えてもらえるものが、「答」ではなく、単なる「やり方」に過ぎない、という点だ。他の科目は、テストのときに教科書を見ることができれば(つまりカンニングだが)問題に答えられる場合がほとんどだ。しかし、算数の場合には、計算ならばたまたま同じ式を発見できるかもしれないが、応用問題になると、ほとんど同じものは見つからない。
 国語の問題で、「文中の『それ』は何を示しているか?」とあれば、その答は文中にある。教科書にないもの、そこにないものが求められることはまずない。算数ができない子供の多くは、教えてもらっていないものを、何故答えることができるのか、と考えているだろう。
 このことは、新入社員にもいえる。「そんな対処のしかたは教えてもらっていない」という新入社員に、「そんなことくらい、考えたらわかるだろう」と腹を立てる上司。これは、算数の問題における「難しさ」に類似している。
 一般に、これを「応用力」と呼ぶようだ。
 たとえば、細かく書かれた室内のイラストがあって、そこに矢印で示されているものがある。それに対して、「電話でその場所とものを伝えよ」「目の見えない人にそれを説明せよ」という文章題が出されれば、国語でも応用力が問える。選択肢があって、そこから選ぶのでは意味がない。この問題を採点するには、教育者が読解力を持っていなければならない。
 解答合わせが楽なように選択問題になった時点で、数学と物理以外では応用力を問うことが非常に困難になった、ともいえる。しかし、既存の情報から選択することは機械でもできる。人間に求められている能力とは、想定外のときに、これまでの経験をどう応用できるか、ではないだろうか。


2008年01月20日(日曜日)

【算数】 仮分数と帯分数

 分数を最初に習ったとき、1/2や1/3、あるいは2/3や3/4のように、いずれも1より小さな数だった。これらは「真分数」と呼ばれている。「分数」は英語で「fraction」で、この言葉自体が、「部分」「破片」という意味なので、「本来あるべき量に満たないもの」というイメージだ。「真分数」は、英語で「proper fraction」、つまり、「適切な」「礼儀正しい」分数ということになる。
 一方、分数の計算をするうちに、分子の数が分母よりも大きくなってしまうことがある。たとえば、3/2などである。この頭でっかちの分数は、日常にはほとんど使われないし、概念としても表れないものだから、子供もなかなか理解できないところだろう。このような分数は「仮分数」と呼ばれている。英語では「improper fraction」、つまり、「不適切な」「行儀の悪い」分数ということになる。
 仮分数は、1よりも大きい。多くの人が「過分数」だと間違えているだろう。それが気持ち悪いというか、大きさが把握しにくいという理由で、整数と真分数の和にして書き直すことができる。これが「帯分数」で、英語では「mixed fraction」という。たとえば、3/2は、1・1/2(本当は・なんかないけれど)みたいに分けて、「1と2分の1」と読む。僕が小学生の頃は、「1か2分の1」と読むように教わったが、いつの間にか変わったらしい。
 僕は、帯分数が嫌いだった。仮分数に比べて、計算が煩雑になるからだ。どうせ仮分数に直して計算しなければならないのなら、初めから仮分数だけにすれば良いではないか、と思ったクチである。
 日本人は、欧米人に比べて分数が不得意だ。生活に密着していないからだろう。ほとんど小数でものごとを片づける。たとえば、インチの図面を見たら、びっくりするほど分数だらけである。


2008年01月14日(月曜日)

【算数】 考えるか考えないか

 1/6の【算数】に、大きな素数について書いた。そのとき、400000001が素数か否か、という問題を出した。電卓を使わないで考えたら素敵だとも書いた。(珍しく、掲示板やメールの書き込みを禁止しなかったので)メールを沢山いただいたが、実際に自分の頭で考えて解いた方が10人ほどいた。解けなかった人がその6倍くらいだった。そして、考えもしなかった人はもっと何十倍もいただろう。
 まともに考えていったら、とんでもなく時間がかかる。事実上無理である。最初から「考えるだけ時間の無駄だ」と思った人が多かったことと思う。
 以下に、解法を示す。こういった解法があるからこそ、「素敵だ」と書いたのである。気づいた人は、ちょっとした素敵な幸せを感じただろう。
 400000000(0が8つ)は、20000(0が4つ)の2乗である。また、20001の2乗は、(x+1)2=x2+2x+1の公式から明らかなように、400040001であり、これは問題の400000001よりちょうど40000大きい。
 さて、この40000もまた200の2乗だ。したがって、400000001=200012-2002と書ける。これに思い至れば、もう簡単。因数分解で一番有名なa2-b2=(a+b)(a-b)の公式を思い浮かべればわかるとおり、2つの数の積となるので、400000001は素数ではないと判断できる。
 蛇足だが、400000001=(20001+200)(20001-200)=20201×19801となる。20201と19801はともに素数だが、その判断はまた時間がかかるだろう。
 思考は、「駄目だもう考えられない」と思うところまで、及ぶ。そこが思考の限界である。人は無意識のうちに、「それは自分にはできない」と諦め、自分の限界を決めている。


2008年01月10日(木曜日)

【算数】 自然な数え方について

 地球では、数が同じ分量で増えていく数え方をするのが一般的だ。つまり、自然数は1, 2, 3, 4 ……、というように、同じ間隔で増えていく等差数列である。我々はこれが当然のことだと思っているけれど、そうでもない。たとえば、1, 10, 100, 1000 ……、のように同じ比率で増えていく数列もあって、自然界ではむしろこの方が自然だと思えるものも多々ある。
 1の次がいきなり10だったら、2や3や4はどうなるのか? それは、1の次がいきなり2だけれど、1.2や1.3や1.4はどうなるのか、という疑問と同じだ。単に半端な数になるだけのこと。もちろん、10倍というのはあまり自然ではない。2倍が最も自然な係数で、すなわち、1, 2, 4, 8, 16 ……、と増えていく数列だ。
 数が大きくなるほど、数の間隔を広くした方が、量の把握には適している場合が多い。自分の身近なものを測るときはmm単位だけれど、遠い星の測定をするときはmなんて使っていられない、といった例を想像してもらいたい。数自体が等比数列になっていれば、大きな数に対して違う単位を使ったり、「約」なんてアバウトな表現をする必要も少なくなる。大きくなるほど自然にアバウトになっていくからだ。
 たとえば、地面に沢山の銀杏が落ちているとする。我々の自然数ではとても数える気にならない。でも、等比数列なら、全体の面積を半分にして指を折り、さらに半分にしてまた指を折り、と数えていくと、そのうち銀杏が1つだけ落ちている狭い面積になる。これで、ほぼ全体の数を指で数えて把握できるのだ。
 当たり前のことが、どこまで当たり前なのか、と考えてみることが面白い。


2008年01月06日(日曜日)

【算数】 大きな素数を探せ

 最初が1で、そのあと0がいくつか続き、最後が7になる数が、素数かどうかを調べてみた。0が7つ並ぶ9桁までやってみよう。
  17=17(素数)
  107=107(素数)
  1007=19×53
  10007=10007(素数)
  100007=97×1031
  1000007=29×34483
  10000007=941×10627
  100000007=100000007(素数)
 9桁までいって4勝4敗である(ちなみに、この次の1000000007も素数)。このうち、8桁の10000007の素因数分解はなかなか手強いだろう。どの数も2つ以下の素数の積になった。
 次に同じく7で始まり0が続き最後が1になる数を調べてみよう。
  71=71(素数)
  701=701(素数)
  7001=7001(素数)
  70001=70001(素数)
  700001=700001(素数)
  7000001=197×35533
  70000001=43×61×26687
  700000001=700000001(素数)
 今度は、6勝2敗である。けっこう素数が多い(ちなみに、9桁の600000001も素数)。
 この9桁で、最初がn、0が7つ続き、最後が1の数、n00000001では、素数は600000001と700000001だけだろうか? 一番怪しいのは、400000001であるが……。計算機を使わずに考えた方が面白いし、できれば頭の中だけで考えると素敵だ。
 え、どうでも良いって?
 こういう話題を、恒久的で、グローバルで、どんな時代にも、どんな地方でも、誰にでも(たとえば地球人以外でも)通じるジェネラルなテーマだと考える人が比較的少ないのは不思議なことである。


2008年01月02日(水曜日)

【算数】 一般解

 「一般」というのは、わかるようで、わからない、変な言い回しである。子供のときはさっぱり理解できなかった。
 いろいろな分野で使われている。たとえば、「一般に」といえば、「普通は」とか「多くは」とか「だいたい」といったような意味だ。「一般人」は、関係者ではない普通の人のことである。ようするに、「特殊」でないことだ。英語では、general、common、universal、popularなど、いろいろ訳される。
 数学でも、「一般解」といった言葉が登場する。説明にも「一般に」という表現が頻出する。数学によく使われる言葉といえるだろう。
 数列でn番目に来る数を、nを用いた式で表したものを「一般項」という。たとえば、2, 4, 8, 16 ……と来れば、n番目は、2nになる、と予測できる。これが一般項だ。また、1+3+5+7のように奇数を順番に4個足すと和が16になるが、では、n個足すといくつになるか、というのが一般解である。奇数をn個足していくと、その和は、n2という一般解で求められる。
 しかし、こんなに簡単には式で表せないものが多い。そういう場合は、「一般解が得られない」という。
 さて、年月日がわかっていれば、曜日は確定できる。つまり、カレンダのことだ。ならば、a年b月c日の曜日として、月曜日なら1、火曜日なら2……、土曜日なら6、日曜日なら7が計算できる式が、a, b, cを使って書けるはずである。その式に3つの数字を代入すれば、たちどころに曜日が計算できるわけだ。これがあれば、カレンダなんかいらない。何故、この曜日を求める公式、すなわち一般解が一般に普及しないのだろうか。
(各自自問して下さい。掲示板書き込みとメールは禁止)


2007年12月28日(金曜日)

【算数】 1週間

 1週間は7日である。この頃、週休2日になったので、5日働いて2日休んでいることになる。たとえば、1週間を4日にして、月火水日、月火水日で週休1日にしても、6日働いて2日休むので、今よりは働く日が多いことになる。案外こちらの方が能率が良さそうな気がする。
 1年の365日は5の倍数だから、1週間を5日にすれば、ちょうど割り切れる。すると、昨年と今年の同じ月の同じ日は同じ曜日になるから、カレンダが閏年が来るまで同じものが使える。この場合、閏年の2月で、曜日が1つずれることになる。366日は、6の倍数である。残念ながら、365も366も4の倍数ではない。365は5×73だし、366は6×61だ(73も61も素数)。
 4年分を合計すると、365×4+1=1461で、この数字は3と487でしか割れない。ちょうど良い曜日の数を決めることは難しい。
 1日の24時間は、いろいろなもので割りやすい数になっているが、これはそうなるように1時間を定めたからだ。これに比べると、1日や1年は地球の自転や公転で定められているから、きっちりとはいかない(だから閏年なんてものがある)。1カ月はもともと月の運行によるものだった。曜日だけが、人間が勝手に決めた周期である。
 もちろん、きっちりと割り切れないため、少しずつずれていくことが重要であって、月日と曜日の両方を伝えることで、間違いを少なくする効果があるので、合理的だともいわれている。東洋には、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)があった。江戸時代までは、曜日というものがなかったから、四日市なら4のつく日に市が開かれるとか、十進法のサイクルで世間は回っていたようだ。


2007年12月24日(月曜日)

【算数】 納得がいかない足し算

 1桁の数字を足し合わせると10を越えるものがある。足し算を習っているとき、ここにギャップがある。不思議だ。桁が増えることを何故難しく感じるのだろうか。11や12も、8や9と同じく、1つの数字なのに。ただ、表記が2文字になっているだけのことである。数字を表記する方法の問題なのに、何故計算がややこしくなる(と感じる)のだろうか。そういった疑問を持ったので、小学校1年生のときに担任の先生に質問したところ、僕の質問の意味が、先生は理解できなかったようだった。もちろん、僕の国語能力が不足していたためだろう。
 さて、5+5=10は、気持ち良く覚えられる。また、5+6=11もその恩恵によりまずまずだ。6+6=12も手が届く範囲というか、まだまだ人に優しい。ところが、6+7=13がいけない。一気に難しくなる。これが、桁を越える足し算における最初の難関といえるだろう。とにかく座りが悪いのである。ここさえ乗り越えれば、このあとは、7+8=15が、やや釈然としないものの、まあまあ納得のいく世界が続く。特に、9を足す場合は、「1つ減る法則」が適用できるので、むしろ簡単に感じるだろう。
 思えば、5を越えるときにも小さなハードルがあったのだ。そのときは、3+4=7がネックだった。これさえ覚えてしまえば、1桁ではもう安泰である。だから、6+7=13も鵜呑みにして覚えてしまえば、なんとかなるだろう、ということは経験的にわかっているのだが、しかし、やはり桁が増えている点が、どうも胡散臭い。13という数は、6と7を足したものにしては、少し小さすぎないか、という印象である。しかし、人に聞いてみると、この印象は理解してもらえないのである。7+8が15になるのが、まだ納得ができる範囲なのと対照的だ。おそらく足し算をするまえから、13という数を知っていたので、この先入観が災いしているのだと思われるが、さて、貴方はいかがですか?
(勝手に自問して下さい。集計がしたいわけではないので、この件で掲示板書き込みやメールをしないように)


2007年12月18日(火曜日)

【算数】 小説家になれる確率

 西尾維新です。
 昨日、小説を書けることと小説家になることはまったく別の話だと締めましたが、では、ここにひとりの若者がいたとして、彼または彼女が小説家になれる確率はいかほどなのかを計算してみましょう。確実な方法はなくとも確率は予想できるはずです。ちなみに夢を抱く若者のやる気を削ぐもっとも効果的な方法は、その夢の困難さを説くのではなく、『そんなことは簡単だ。適当にやっていればできる。あんまり頑張るな』というように、その夢を実現容易なものとして語ってしまうことだそうです。確かにこんなことを言われたら挑戦意欲はなくなりますよね。そういう意味では、これから述べる考察は、ともすれば若者のやる気を削いでしまう結果になるのかもしれませんが、小説家になること、これ自体のハードルはそう高くはありません。人によっては、小説を書くことのほうが難しいくらいでしょう。
 まず、競争率が低い。これが重要です。小説家になりたいという人は多くとも、小説家になろうという人はごくわずかなのです。新人賞の総応募数に気圧されてはいけません。新人賞の応募作品の大半はそもそも小説としての体をなしていないそうですから、事実上カウントせずに計算することが可能です。すると小説家になるための競争率は、たぶん企業就職や公務員試験の競争率とトントンか、あるいはちょっと低いくらいの数値に落ち着くでしょう。
 そして再挑戦が許されていて、かつ年齢制限がない。これが他の職業と大きく違うところです。極端な話、80歳になってからでもデビューすることが可能で、むしろそれが売りになったりさえします。長期間挑戦し続けていれば、彼または彼女に時代が追いつくという可能性もあります。さすがにそれは考え過ぎでしょうが、書き残した小説が死後にブレイクするかもしれません。
 まあその他もろもろ総合的に見て、任意のひとりの若者が小説家になれる確率は、一生(死後含む)を通して3割くらいはあると思います。
 面白い小説を書けなければ小説家にはなれないだろうって? いえ、書く小説が面白くなくとも小説家にはなれます。ただ、小説家であり続けることが難しいだけです……逆に言えば面白い小説が書けるからと言って小説家になれるわけでもないのですが、でもまあ面白い小説が書けるなら小説家になんてなれなくてもいいじゃないですか。
 明日はそのあたりを。


2007年12月15日(土曜日)

【算数】 文字改変

 タイプライタには、数字の「1」を打つためのキーがない。それは、「L」の小文字の「l」を使うからだ。このように、必要がない文字というものがある。
 アルファベットの大文字の形をしたビスケットがあるが、このうち、作らなくても良い文字が2つある。それは「M」と「Z」である。否、人によっては、「C」もいらないと言うかもしれない。
 そのビスケットを並べて、子供たちは言葉を作るわけだが、文字の一部をかじってしまえば、別の文字にすることができるので、たとえば、「B」があれば、「P」や「R」を作り出すことができる。これを見越して、ビスケットのメーカは不要な文字を作るのをやめた。さて、いったい幾つまで文字を減らすことが可能だろうか(正解はないが、半分以下にはできるはず)。ただ、「A」をかじって「V」を作るのは至難の業である。
 ペンで名前を書いても、別の名前に変えられるものも多い。たとえば、「田口」は簡単に「町田」に変えられる。「山口」も「山田」や「田口」に変えられる。「林」も「森」に変えられる。数字では、「1」を「4」や「7」に変える偽装が容易いため、こうされないように「1」の最初の短い棒を下から長く書き、「7」は「ヌ」のように書くことが海外では多い。しかし、「0」を「6」や「9」に直される恐れはある。
 「油」という文字を「シ由」と書いたりする似非倍角漢字みたいな遊びもときどき見かける。「頭」を「豆頁」と書いたり、「知的」を「矢口白勺」と書いたりする。「I田E」や「ヨ田I」と書いて、「山田一」の縦書き表現もできる。


2007年12月11日(火曜日)

【算数】 三角形の合同

 僕はこれを中学1年生で習った(「ビヤ樽」という渾名の先生から習ったが、名前を思い出せない)。三角形がそっくり同じ形で同じ大きさであることを、「合同」というのだ。大きさは問わないで、形だけが同じ場合は、「相似」という。
 2つの三角形が合同であると判断できるのは、次の3つの条件のいずれかが両者の間に成立しているときだ。
1)3辺がそれぞれ等しい。
2)2辺とその間の角がそれぞれ等しい。
3)2角とその間の辺がそれぞれ等しい。
 「辺が等しい」とは、辺の長さが同じだということである。つまり、2つの三角形があったとき、3辺の長さがそれぞれ一致すれば、同じ形で同じ大きさの三角形だ。ぴったりと重ねることができる。そんなの当たり前では、と言われそうだが、たとえば四角形では、4辺がそれぞれ等しくても形が同一であるとは限らない。
 さてでは、ここで応用問題。
 絨毯屋の山田さんは、加藤さんから電話で注文を受けた。加藤さんは、部屋の絨毯の一部を汚してしまい、その部分を三角形に切り取った。そこにぴったり収まるように絨毯を継ぎ接ぎしてほしい、という。山田さんは、三角形の合同の条件を知っていたので、電話でその三角形の3辺の長さを聞いてメモを取った。その絨毯は以前に山田さんが納めたものだったから種類はわかっている。同じ布を倉庫から探して、三角形に切ることにした。ただ、余裕を見て、3辺の長さをそれぞれ10%ずつ長くして切った。山田さんは、それを持って加藤さんの家へ行ったのだが、しかし残念ながら、持ってきた三角形ではどうしても絨毯の修理ができなかったのである。さて、どうしてだろうか?
(解答を掲示板に書き込んだり、メールで送らないように。ビヤ樽も思い出したいわけではないので、お気遣いなく)


2007年12月07日(金曜日)

【算数】 どんな問題なのか、それが問題だ

 前回、解けない問題について書いたが、本当はもっと大きな問題がある。それは、目の前にある問題が、算数なのか、理科なのか、あるいは社会なのか、国語なのか、それとももしかして図工なのか、ということの見極めだ。
 これは算数の論理で取り組むものだ、これは理科の理屈で解き明かすものだ、いや、これは社会の知識を当てはめて考えるべきものだ、というように、子供たちに与えられる問題は、最初からジャンルがはっきりと決まっている。ところが、現実はそういった問題ばかりではない。問題を解決しなければいけない、というときに、技術的なアプローチもあれば、もっと人間関係的なアプローチもある。さまざまな可能性があるのだ。どれだけ視野を広く持てるか、ということはとても大事な姿勢といえる。
 理科では、物理、化学、生物、地学とジャンルに分けず、それらを組み合わせた科目は実際にあるが、かなり無理のある問題設定で、わざとらしく個々のジャンルを平均的に組み合わせてあるだけだったりする。そんな無理をせず、まず第一歩として、すべてのジャンルを一度に同じ問題用紙で出題すれば良いのではないか。問題を読んで、「あ、社会か」と判断するだけでも、1つのステップを上がらせたことになる。頭の切り換えが必要になるし、思考の柔軟さが養われるだろう。
 教科が分かれているのは、実は、教育する側の事情なのである。専門家も分かれているし、教科書を作るのも大変だ。採点の問題もある。教える側の能力が不足しているから、クロスオーバな問題が提供できないだけだ。ここは反省すべきだと思う。
 少なくとも、他のジャンルとの関連を常に意識させ、あるいは深く連想させるよう指導する姿勢が大切である。


2007年12月03日(月曜日)

【算数】 解けるか解けないか、それが問題だ

 算数・数学の問題には2とおりある。解ける問題と解けない問題だ。
 入学試験の問題を作成するとき、解けない問題は絶対に許されない。入試要項に「解けない問題は出題されません」と明記されているわけでもないのに、どうしてだろうか。入試委員で何度も数学を担当したが、とても不思議だった。
 解けない問題であっても、解答はできる。その解答を見れば、その受験者の学力を評価することは充分に可能だ。それなのに、解けない問題を出すと方々から「解けない問題なんか出して」と非難されたりする。解けない問題は、即「不手際」だと判断されてしまうのだ。解けないことを知っていながら出すことは選択できないのである。いつから、こんなルールができたのだろうか。
 そもそも、社会で直面する問題の多くは、解けないものである。ちょっとものごとに取り組めば、それがわかるだろう。解けないという状況は、わからない状況とは異なる。解けないことがわかった状況だ。解けない理由がつきとめられ、何がどう不足して問題を解決できないのかを把握した状態である。これは、社会では一応の成果であり、ある意味では、その場における問題解決ともいえる。何故なら、解けない理由がわかれば、問題を解く道を切り開く糸口になるときがあるし、またそうでなくても、別の方策へ時間と労力を向けられる。解けないと知ることは、大いに価値があるのだ。
 問題を正確に解くことよりもさらに重要なことは、その問題が解けるか解けないかを判断することだ。子供たちに、必ず解ける問題しか与えないことは、教育的にいかがかと僕は思う。


2007年11月29日(木曜日)

【算数】 宝くじにおける究極の奥の手

 宝くじと聞くと、学校の授業で確率を習った幸運を思い出す。宝くじよりも、確率の計算ができることの方がずっと価値があるだろう。
 宝くじを買う人におすすめなのが、確実に当たる確率が高くなる方法。それは、ずばり「沢山買う」ことである。最低でも100万円は買うのがおすすめだ。できるなら1000万円くらい買うと良い。1万円買う場合の1000倍も当たる確率が高くなる。実際、1億円なんて大当たりを当てた人は、ほとんどこれくらい買っているのである。え、本当かって? 調べたわけではない(調べられない)が、数学的に考えて、その確率が非常に高いことならば証明できる。
 宝くじの期待値は、だいたい半分弱だ。簡単に言うと、300円の宝くじは単なる紙切れではない。150円も価値があるものなのだ。つまり、1万円買えば5000円近くは当たるし、1000万円買えば、なんと500万円近くは当たる。特に、買う枚数が増えるほど、期待値に近い額が当たる場合が多くなるはずなので、絶対に大損をしないで済む。むしろ、1枚だけ買ったときが丸損する確率が高いのだ。
 期待値が約半分ということは、当選者に支払われる倍の額をみんなで協力して支払ったことになる。だから、1億円の当選者がいれば、2億円をみんなで援助したのだから誇らしく思おう。しかも、差額の1億円は日本宝くじ協会の収益となり、当選者に代わって税金まで納めてやったも同然なのである。
 義務教育で確率を習うけれど、そのとき、「どのくじも当たりの出やすさは同じである」ということを表現するため、「当たりが出ることは、同じくらい確からしい」という変わった表現を使っていた。この「同じくらい確からしい」の「確からしい」という部分だけが頭に残り、日本人はみんなこぞって宝くじに駆り立てられるのかもしれない。


2007年11月24日(土曜日)

【算数】 算盤のメカニズム

 もう通じなくなりつつあるが、「そろばん」と読む。ほとんど見かけなくなった。串刺しの玉が並んでいて、それをスライドさせて計算を行う。これについて少し考えてみよう。
 1+2=3の計算を頭の中ですると一瞬だ。これを算盤ですると、まず1という数字を認識し、その同じ数の玉を動かす。動かした1のことは忘れて、次は足す数である2を認識し、その同じ数だけの玉を動かす。その状態でまた2のことは忘れる。そして、盤上にある玉の位置を見る。3つの玉が移動していることを認識し、そして、答が3であることを知るわけである。
 この場合、計算はどこで行われているだろう?
 算盤に考える力がないことは自明である。人間が玉を移動させて、勝手にそれを計算行為だと決めつけているだけだ。算盤は、人間が覚えるべき数を記録しているにすぎない(一種の記号である)。1とか2を記憶するかわりに玉を動かしたのである。
 しかし、足し算をするという意思は人間のもので、それは、まだ移動していない玉を選んで、同じ方向へ動かしたことに現れている。足し算するという計算の動作は、その判断によって起動している。引き算をするときは、既に動いている玉を選び、それを元に戻す方向へ移動する。すなわち、このような認識が計算行為の本質である。具体的には、数をかぞえる行為と、「どの玉が移動した玉で、どの玉がまだ移動してない玉か」を認識することだといえる。
 こうして計算が無事に行われる。これはコンピュータだって変わりはない。単に、人間の認識と設定のとおりに、玉が電気で動いているだけである。そんなことをいったら、人間の頭脳だって同じかもしれないが、少なくとも人間の頭脳は、自分で考えないで算盤やコンピュータを使った方が早くて確実だ、と発想した点がコンピュータや算盤より優れている。
 人間から発想を取れば、コンピュータや算盤になる。考えるのをやめれば、考えられなくなる。なにごとも、「自分にはできない」と諦めたとき、本当にできなくなる。


2007年11月20日(火曜日)

【算数】 複利と単利

 利息のつき方の違い。元金だけに利息がつくのが単利。元金と利息を加えたものが次期の元金となるのが複利。現在みたいに利率が低いとあまり関係がないが、たとえば、定期預金の年利が7%もあるとかなり違ってくる(僕が若い頃はこれくらいあった)。少し計算してみよう。
 1年で1.07倍になるから、1万円を預けると、1年で700円の利息。10年間預けた場合、単利だと、7000円の利息なので、つまり、17000円になる。これが、複利だと、2年めには、1.07×1.07=1.1449、3年めにはさらに1.07をかけて、約1.225になる。単利でも、3年めには、1.21なので、まだそんなに違わない。このまま計算を続けると、1.311、1.403、1.501、1.606、1.718、1.838、1.967と概算できて、つまり10年後には、19670円くらいになるから、2670円くらい違いが出る。もし元金が1000万円なら、267万円の違いだ。
 年利7%で複利の場合、10年でほぼ倍になるので、20年で4倍、30年で8倍、40年で16倍になる。単利では、10年で1.7倍、20年で2.4倍、30年で3.1倍、40年で3.8倍であり、結局、複利と単利では、40年で元金の12倍以上の違いが出る。
 「○○基金」などと呼ばれるものがあって、それを運用して賞金や奨学金などを出す仕組みがある。たとえば、1億円の基金があれば、年利7%であれば、毎年700万円の支出をしても、元金が減らず、ずっとそれだけの金額を毎年使えることになる。ただ、年利が下がると、元金を減らすことになる。もし、利率が変わらないとしても、毎年支出した額の合計は、支出しないで蓄え続けた場合に増える額より、ずっと少ないことになる。もちろん、お金の価値自体が時代とともの変化するので、金額という数字だけの話でもなくなってしまうが。
 そんな高い利率は関係ないよ、という人は多いと思うが、借りる場合の金利はけっこう高い。30年ローンとかになると、元金の何倍も支払わないといけなくなる。借金では、こんな計算が現実的になるわけだ。


2007年11月15日(木曜日)

【算数】 真偽の証明

 それが正しいか、間違っているか、を証明する場合、どちらが難しいかということがよく話題になる。
 たとえば、「彼には嫌いなものがある」を証明するためには、彼が嫌いなものを1つ見つければ良い。これが見つかれば、正しいことが証明できる。逆に、間違っていることを立証するためには、「彼には嫌いなものがない」ことを証明する必要があり、すべてについて嫌いではないことを確認する必要があるため容易ではない。
 「AはすべてBである」の証明は、すべてのAについて検証する必要があるが、この反証は「BでないA」を1つ見つければ良い。つまり、例外を示すことで立証できる。
 たとえば、犯行が可能であったことを示しても、その人物が犯人であることの証明にはならないが、犯行が不可能であったことを示せば、その人物が犯人でないことの充分な証明になる。これは、犯行が可能な人の集合に犯人が含まれているからで、犯行が可能な人がすべて犯人ではないが、犯人はすべて犯行が可能な人だからだ。
 こんなことは当たり前の簡単な論理だと思われるかもしれないけれど、推理小説の中では、沢山の要素が特定の人物を示せば、それだけその人物が怪しくなる、という理屈がまかり通っている場合が多い。明確に証明しているものはほとんどない。「偶然がこれだけ重なるとは思えません」と探偵は口にする。でも、偶然が重ならない証明をしていない。


2007年11月10日(土曜日)

【算数】 「数」という抽象概念

 「数」は、地球上では人間しか認識していない。高等な動物が、2つより3つが多い、と判断する場合があったとしても、それは数えたわけではない。また、リンゴが2つあることと、バナナが2本あることが、同じ2個という個数であることを理解するには、かなり高度な抽象化が要求される。2つのリンゴと2本のバナナは、どう見たって同じ存在ではないからだ。人間であれば、普段から「数」というものを意識しているから、そんな当たり前のこと、と感じるかもしれないが。
 では、もう少し高度な量として、たとえば「面積」という概念を考えてみよう。面積を測ったり、意識したりすることは、日常生活では稀だ。どちらの面積が広いか、という判断を迫られることは滅多にない。でも、ペンキ屋さんが仕事量を計算したり、畑の収穫量を比較する場合には必要になる。
 2つの土地があって、どちらが良いか、という判断を迫られたとき、現地を見て比較をすることになるが、この場合、普通の広さならば、見ればだいたい把握できる。どちらを選ぶかは、むしろ土地の立地や雰囲気、状態などで決まるだろう。面積を意識するのは、値段とか、そこでなにかをする計画をしたときである。つまり、面積の数字だけを比較するようなケースはまずない。ほかのものがまったく同条件ではないからだ。つまり、これは、面積というものが非常に抽象的な概念であることを示している。
 抽象的な「量」が必要となるのは、主としてそれを計算に用いる場合だけだ。計算という行為が、抽象の1つの目的ともいえる。これは、言葉という抽象化が行われ、それによって伝達や思考が行われるのとまったく同じである。リンゴを2つ、と数える以前に、その2つの果物が同じ「リンゴ」という存在だと見なしているのだから。
 では、「言葉」がないところには「数」の概念がない、といって良いだろうか?


2007年11月06日(火曜日)

【算数】 ドラマの中の数学者

 ドラマの中で数学者がときどき登場する(記憶で比較的新しいのは、古畑任三郎とか<新しいか?)。そういう人間が、数式を書く場面があるのだが、たいてい全然関係のないデタラメなのだ。これは何だろう、つまりTVを観ている人たちは、みんな数式が読めない人なのだろうか? もちろん、ドラマを作っている人たちはみんな文系なのだろう。だから、「数式ならばなんでも良い」「雰囲気が伝われば良い」くらいに考えているのである。しかし、「英語なら良い」「外国だという雰囲気が伝われば良い」とばかりに、外国人の台詞を全部「アップル、バナナ、ショートケーキ、ドラゴンズ」みたいに言わせているのと同じで、英語が少しでもわかる人間が見たら、「これは、ギャグなのか」「もしかして、笑わそうとしているのか」という「超寒い場面」になる。素晴らしい場面が一転、台無しになるのだ。これに類することは、8/11にも書いたので、関心のある方はご参照を。
 科学者なんかが登場しても、むちゃくちゃのことを口走ったりしている。文系の言葉で喩えるならば、「芥川龍之介は天安門広場でまさに晴天の霹靂の小野妹子だったのだ!」みたいな台詞を肝心のところで叫ぶのだ。こういう台詞を聞いて「雰囲気は出ている」と思えるだろうか?
 存在する専門用語を無理に使わないで、すべて空想の言葉で埋めてしまえばまだ良いものを、と思う。海外のドラマを見ていると、上手にそうやって切り抜けている。やはり「考証」が違う。日本の場合でも、映画だったらそういったレベルまで気を遣う(あるいは金を使う)だろう。TVドラマだけが、「どうせ観ているのは、わからない奴ばかりだから」あるいは「すべてギャクとして受け取ってもらえば、それでけっこう」というスタンスを取っているとしか思えない。


2007年11月02日(金曜日)

【算数】 かけ算でよく使う公式

 たとえば、15×25をするときは、15と25の中間値である20を2乗して400、そこから5の2乗の25を引いて375と求める。この方法は、因数分解で習う、(a+b)(a-b)=a2-b2という公式を利用したもので、わりと応用範囲が広い。ただ、2つの数字の平均値が、キリの良い数字にならないと、その2乗を求めること自体が難しくなる。
 少し例を挙げると、18×22=202-22=396とか、21×39=302-92=819とかで、暗算でできる。数が大きくなっても98×102=1002-22=9996とすぐに求められる場合がある。特に、b=1の場合は、(a+1)(a-1)=a2-1なので、これは利用価値がある。ちなみに、この公式は、周囲の長さが同じとき、正方形より長方形の面積がどれくらい小さくなるのかを示している。
 一方、大きな数の2乗を求めるとき、(a+b)(a+b)=a2+2ab+b2が使える。2abがあるだけちょっと計算がややこしい。たとえば、25×25であれば、400+200+25を頭の中でしないといけない。でも、104×104ならば、10000+800+16=10816と比較的簡単だ。また、b=5の場合は、a2+10a+25になるから、105×105であれば、10000+1000+25=11025と計算が速くなる。もっとも、数を2乗にするような暗算の機会は滅多にない。そんなことをいったら、暗算をする機会が滅多にないか……。


2007年10月29日(月曜日)

【算数】 好きな数

 座右の数というか、この数字が好きだ、というものが人によっては決まっているだろう。そんなものはない、という人もいる。たとえば、「好きなふりかけ」や「好きな湾」や「好きな微生物」や「好きな年号」みたいなものと同様に、決めている必要がないものにはちがいない(こういうことを書くと、必ず「私には好きな微生物がある」というメールが来るが)。
 ただ、たとえば、自動車のナンバ・プレートが好きな数にできるから、その際に何番を選ぶのかとか、マンションを契約するとき、複数同じ条件のものがあったら、何号室を選ぶのかとか、ナンバの入ったTシャツを売っているとき、どれを選ぶのかとか、それくらいの影響しかないのだが、それでも、だいたいは決まっていることが多いのでは?
 ラッキィナンバなどというものもあって、これは、気持ちの問題というか、はっきりいってオカルトである。「そのとき、ちょうど3人いた」「ちょうど3時だった」「落ち葉が3つあった」など、お目当ての数を探して因縁をつけている節もある。
 僕は1桁の数では、「2」と「7」が好きだ。「3」と「8」が嫌いである。意味はない。2桁の数では「13」が好きだ。大きな数になっても、素数がシャープに見えて、感じが良いと思う。生年の1957は、素数ではない。でも、19が57の約数なのが格好良い、といったふうに因縁をつけて好きになる。ちなまないが、1993、1997、1999、2003と、閏年並みに素数の年が多かったのだが、最近ない。2011年までないのだ。


2007年10月24日(水曜日)

【算数】 数学に特有の表現

 算数や数学には、普段は使わないような言葉が出てくる。僕が子供のときに最初に「へぇ」と思ったのは「ゆえに」だ。どうして「だから」では駄目なのか、と不思議に思った。そのつぎは、集合などで登場する「かつ」である。これも、日常生活ではほとんど使わない。せいぜい「しかも」とか、「どちらも」くらいで事足りる。
 そのうち「任意の」という言葉に出会う。「任意の数」というと、つまり、「どんな数でも良い」とか「無作為に選んだ数」という意味だ。これは、任意保険とか任意出頭というときの「任意」と微妙にニュアンスが違う気がするので、どちらかで認識していると、もう片方が理解しがたい。
 それから、「ここに、aは任意の自然数。」という場合の「ここに」もおかしい。「ここでは」と書けばもっとわかりやすいと思うのだが、何故か「ここに」なのである。
 以前にも書いたが、「代入」という言葉も微妙に現実と違う。xに1を代入するときには、x=1でなければならない。1に2を代入してはいけないのだ。代わりに入れるんだったら、違うものでも良いのでは、と思えてしまう。
 「すべての正方形は長方形である」というような場合の「すべての」というのも、「全部の」と言い換えるとおかしい。つまり、どこかに既に存在しているもののすべてではなく、今はなくても「どんなものであっても」という意味なのだ。また、「正方形は長方形である」というのも、普通では理解しがたいものだが、数学的には正しい。「正方形は長方形に含まれる」ともいえるけれど、これも言葉としては一般には伝わらない(長方形の中に正方形が入った図形を想像されてしまう)。
 もっというと、「箱の重さは考えない」というのも難しい。考えない? いや、べつに考えても、考えなくても、箱の重さには影響がないように思えるのである。


2007年10月19日(金曜日)

【算数】 かけて等しく

 紙を使わないで、頭の中で考える比較的軽いエクササイズ。
 1桁の数字が書かれたカードが10枚ある。同じ数字のカードはない。ここから、6枚を選び、3枚ずつの2組に分ける。さて、それぞれの3つの数字を掛け合わせた積が等しくなる組合せ(たとえば、2×3×6=1×4×9など)はいくつあるだろう?
 では、カードを8枚選び、4枚ずつ2組に分け、それぞれの4つの数字を掛け合わせた積が等しくなることはあるだろうか? もしないならば、その理由を述べよ。
 後者の問題は、成立する組合せが1組もない。証明は以下のとおり。
5、7、0がどちらかの組に入ると等しくならない(5や7は、その倍数になるため。0は、積が0になるため)。したがって、残りのカードは7枚しかなく、8枚を選べない。
(答を掲示板に書き込んだり、森博嗣にメールをしないように。)


2007年10月14日(日曜日)

【算数】 微積分の明

 ものごとが変化するときには、変化する要因がある。たとえば、車のスピードが変化するのは、主としてアクセルやブレーキの作用だし、このほかにも、坂道や風の影響を受ける。スピードはそれらの作用の結果として現れるものだが、ブレーキを一番強く踏み込んでいるときが、一番スピードが遅いときではない。ブレーキを強く踏んだときは、スピードの低下が一番激しいときである(ブレーキの強さは速度の微分と比例している)。踏み続けると、スピードはどんどん落ち、やがてゼロになるが、その後はブレーキを踏まなくても、ゼロのままである。つまり、停まっているからといって、今ブレーキが踏まれているわけではない。
 植物が枯れる原因は、植物が枯れたときにはもうないかもしれない。景気が悪くなったときには、既に景気を悪くさせた要因は解消されているかもしれない。このように、変化するものを我々は積分値で捉えることが多いため、対処が遅くなる。また、対処自体も、効果は積分になって現れるので、それを見越して早めに手を打つ必要がある。
 大まかに見れば、ものごとの変化は、サインカーブか、その組合せになる。成長し続ける場合も、サインカーブに上り勾配の直線が加えられているだけだ。また、その上り勾配も、大局的にみれば、より周期の長いサインカーブの上昇部である。
 一般に、絶好調とは、既にブレーキがかかっている状態で現れる現象だ。したがって、最も調子が良いときに、悪くなったときの対処を始めるのでは遅すぎる。もちろん、悪くなり初めてから対処するよりはずっと良い。かなり低下した段階で慌てて対処をしても間に合うことはまずない。枯れかけた花に肥料をやるようなものである。


2007年10月10日(水曜日)

【算数】 論理的、数学的、物理的

 推理小説を読んでいると、ときどきこの「論理的」という言葉が出てくる。「論理的にいって、これこれでなければ説明ができません」みたいなふうに使う。「純粋論理によって」みたいな表現もあった。「純粋論理によって導かれた解答」といったふうだ。これは何かというと、「実験や調査などによらず、単に考えただけで」の意味である。警察が足を使い人力をつぎ込んで調査するのに対して、探偵は考えただけで犯人を言い当てる、みたいな感じだ。はっきりいって子供騙しである。個人が考えただけでは証拠不充分なので、たとえ犯人を言い当てていたとしても事件は解決しない。小説やドラマでは犯人が自供したりするのだが、自供しても有罪にはできない。手掛かりを分析し、調査をし、実験をする警察のやり方が真に「論理的」なのだが、物語の中で登場する警察は非常に無能に描かれがちである。
 さて、論理的と似ている言葉に、「数学的」や「物理的」がある。違っているようだが、明解な境界はなく、単に「明らかに」と同じく強調の意味で使われていることがほとんどのように見受けられる。
 論理的は、論理学的な雰囲気があって、AならばB、BならばC、ゆえにAならばC、の三段論法などが頻出する。実は、これは数学的でもある。また、集合論などを持ち出し、「集合論的に」という言い回しも「ちょっと洒落ている」くらいの感じで用いられるようだ。
 一方、「物理的」になると、自然現象として起こる可能性があるのか、というようなときに用いられる。もっと広範囲になると「科学的」、狭い範囲では「力学的」という表現もある。しかし、物理的な証明は、ほとんど論理や数学に則っているので、これも、論理的あるいは数学的といえる。単に個々の命題に物理現象の法則が適用されるだけの違いである。
 推理小説の探偵が披露する推理は、例外なく論理的に不充分であり、そういった可能性がある、という程度の予測でしかない。完璧な論理によって、と書かれているものでも、その可能性が高い、という程度のものだ。


2007年10月06日(土曜日)

【算数】 ペットボトルの形

 ペットボトルの形は、非常に多種あるようだ。ラベルしか見ていないと気づかないが、個々にデザインされたものもあれば、同じ形のボトルを使っているものもある。持ちやすい形、並べやすい形、凹みにくい形、個性的な形、材料を節約できる形、などなど、いろいろな工夫の跡が見られる。
 一例を挙げて観察してみよう。
 僕は、サントリーの烏龍茶(500ml)をよく飲むが、このボトルは上から見ると、9角形だ。8角形ではないところが珍しい、と最初は思った。
 中央の手で持つ位置にラベルがあって、ここは断面が6角形である。上下が9角形で途中が6角形だ。断面形が変化する部分では一度円形になる。しかし、9角形の部分は、それぞれ3角形が側面に並ぶので、3角形の頂点では、9角形が半分ずつずれる。ようするに、18角形が現れる。これで、6角形の倍数になってパターンの整合が取れる。
 ここから読み取れることは、まず、手で持つ部分が6角形であることを決めた。つぎに、上下の部分を1.5倍である9角形に決めたのである。
 ペットボトルの中には、持つ位置が4角形断面のものもある。これらは、円形と結ぶ部分に8角形が現れる場合が多いだろう。
 ガラスで作られた瓶は、ほとんど円形断面である。これに比べると、ペットボトルは直線や平面が多く、多角形が現れやすい。


2007年10月02日(火曜日)

【算数】 工作中の暗算

 工作をしているときは、足し算やかけ算を頻繁に行う。書くものを持っていて、書ける場所があるならば、数字を書いて筆算する場合もあるけれど、両手に材料や工具を持っているときも多く、少々のことはだいたい暗算になる。
 たとえば、あるパイプの周りに、薄い金属の板を巻きたい。その場合のその板を何mm切り出せば良いだろうか?
 まずパイプの直径を測る。これが25.5mmだったとしよう。巻きつける板の厚みは0.5mmだ。すると、板の厚みの中心が通る円周は、26mmの直径になるから、26に円周率3.14をかければ良い。
 頭の中でまず26を3倍にする。25の3倍が75だから、78だ。これに1割である2.6を足して、80.6。さらにその半分1.3を足して81.9、と概算する。3.14ではなく、3.15倍になるから、0.26mmくらい長めになるけれど、材料に巻きつけるわけだし、長ければヤスリで削って修正すれば良いので、81.9mmになるように材料を切断する。ちなみに、ノギスを使えば、100分の5mmくらいの精度は軽く出せる。こんな具合だ。
 円周率はやっぱり、3.14である。この有効数字3桁が最も使いやすい。これで必要かつ充分だ。
 3次元なので、直交する座標で、位置を把握しているけれど、ときどき斜めに横切るものが必要になる。この場合は、ピタゴラスの定理で計算するが、しかし、平方根を暗算で求めることは面倒だ。こういうときは、作図をするか、あるいは直角に曲がっている定規(金尺)で実測して対角線の長さを求める。これは幾何学になる。数の暗算はしない。
 特殊なギアなどを自作する場合には、三角関数も必要になるようだが、もちろん、そんな高精度な工作はしたことがない。理論ではなく、技術が追いつかないからだ。


2007年09月20日(木曜日)

【算数】 交換法則

 2の3倍と、3の2倍は、同じ数になる。つまり、2×3=3×2である。これを不思議に思ったことはないだろうか。このように、演算の前後にある数を入れ替えても結果が同じになることを「交換法則が成り立つ」という。普通の数であれば、足し算とかけ算は交換法則が成り立つ。
 足し算の場合には、なんとなく理解できる。右にリンゴが2つあって、左にリンゴが3つある。右に寄せても、左に寄せても、合わせれば5つになるので、どちらをさきに認識しても同じだとわかる。
 2つあるものが、3倍になるときと、3つあるものが、2倍になるときは、何故同じなのだろうか。考え始めると、これはなかなか難しい問題だ。リンゴが2つのっている皿があって、これを3皿並べると、リンゴは6つだ。同じように、リンゴが3つのっている皿があって、これを2皿並べると、リンゴはやはり6つである。しかし、皿の数は違う。何故結果が同じになるのだろう?
 引き算と割り算では、交換法則は成り立たない。また、行列どうしの足し算は、交換法則が成り立つけれど、行列どうしのかけ算では、前後を入れ替えると結果が異なったものになる。つまり、かけ算だからといって、いつも交換法則が成り立つわけでもない。
 実際の現象でも、硫酸と水を混ぜるときは、どちらにどちらを注ぐかを気をつけないといけない。ご飯にふりかけをかけるのか、ふりかけにごはんをかけるのかは、だいぶ違う。カレーライスとライスカレーも議論になるところだ。え、同じですか?

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