2008年09月30日(火曜日)

【HR】 自由ほど難しいものはない

 今日も冷たい雨。庭師さんの作業は延期。
 昨日と今日で、「もえない」ノベルス版のゲラを20%読んだ。ファン倶楽部の写真コンテストの審査もした。長編執筆のための準備も少し。スバル氏の仕事の関係で、ライトを集めた簡易スタジオを作り、そこで写真撮影をした(何を撮影したかは内緒)。
 先日、書店の在庫切れの話を書いたからなのか、出版社から重版の連絡があった。はっきり書くと、一番悪いのは流通システムだ。書店と出版社がダイレクトにつながっていれば、こうはならないはずである。
 雨のためか、それとも涼しくなったためか、パスカルが家の中で遊びたがる。走り回ってはしゃいでいる。近所の人からは、もの凄く大人しい犬だと思われているけれど、完全な内弁慶だ。
 工作も2時間ほどできた。地道な作業の繰り返し。こういった時間消費は、実に心地良い。理由は考えたことがないけれど。

 4日まえに書いた「引用が多くなった」という話のつづき。
 これはつまり、情報が豊かであるから、自分で作らなくても、自分の気持ちに近いものを探せば良い時代になった、ということだ。昔はものがなかったから、自分で作るしかなかった。服も料理もそうだし、趣味のものだってそうだった。たしかに既成品は完成度が高い。自分で産み出すよりも、はるかに短い時間で、「そうそう、これだよ、僕が欲しかったのは!」というものが見つかるから、わざわざ自分で作るなんてことは馬鹿らしくてできなくなる。
 たまには自分で作ってみようと挑戦しても、既製品と比べると、なんか滑稽に見えてしまう。だからすぐに諦める。そして、どんどん既成の品々、既成の情報を自分の周囲に集めるようになるのだ。
 忘れてはいけないことがある。それらの品や情報は、誰かが作ったものだということ。そして、それを作った人は「与える側」であり、それを使う人は「受ける側」になる。
 受けることは、与えることよりも簡単だ。いつでもできる。受ける側の中では、「選び上手」というくらいの僅かな優位しかない。受け続けることで、知らず知らずのうちに支配されている。一方、与える側には、作り出すことでしか得られないものがあって、それが顕著な「優位」を生むだろう。一線を画するものがここに存在する。

 少し見る角度が違う話だが、創作には、作る対象から入る道と、材料や方法から入る道がある。目的か、あるいはプロセスかだ。作りたいものがあって、それに適する材料や方法を探す場合と、使う材料や方法がさきにあって、それに適する対象を考えて作る場合だ。あらゆる創作がこの2タイプに大別される(もちろん、きっちりと分かれるわけではないが)。映画なら、物語に適する俳優を捜すか、俳優を活かす物語を考えるか。彫刻ならば、作りたいものがあるか、使いたい材料があるか、である。
 そして、情報でもこれがいえる。自分の言いたいことがあって、それに適するものを探してくる場合と、とにかく使えそうな情報をまず探し、そこから言いたいことを発想する場合だ。
 豊かになれば、必然的に素材が世間に沢山出回ってくる。だから、まず材料がある、という創作が増える傾向があるかもしれない。「これが面白いから使おう」「これを活かす場所はないか」とみんなが考えるようになる。そういう時間を長く過ごすと、なにものにも囚われない自由な発想が難しくなるだろう。周囲に支配されている、と感じ、自分が求めているものは何かを、あるとき自問することになるはずだ。
 本当に、自由ほど難しいものはない。

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