2008年03月16日(日曜日)
【HR】 工作的経験
暖かい日曜日。ぽかぽか。車も窓を開けて走る。パスカルを連れてホームセンタへ。また苗を50くらい購入。だいたい毎年この時期は、草花にかかる費用が食費の数倍になる。団子より花。
帰ってから、スバル氏と2人でせっせと植えた。リシマキアがあちらこちらで新しい葉を出しているのを発見した。これはもう枯れているだろう、という茎からちゃんと芽が出てくるから凄い。植物は動物に比べるとはるかにしぶとい。パスカルは果敢に水遊び。
午後はのんびりと金属工作。工作室でコーヒーを飲みながら、次の段取りを考えるのが楽しい。
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先日、「アウトプットをしてみては」という文章を書いたところ、沢山メールをいただいた。少し補足しておきたい。アウトプットというのは、自分の内側から外側に出す行為であるが、僕の場合、必ずしも「他人に見せるもの」とは認識していない。自分だけのためのアウトプットというものがある。自分のためだけなら、アウトプットしなくても頭の中にあるままで充分ではないのか、と思われるかもしれないが、そこが少し違う。
たとえ話をしよう。なにかの設計をする。頭の中で考える。自分の理解のために図面を引く。この図面はアウトプットだ。人に見せるわけではない。また、たとえそれを実際に製作しても、誰にも見せず、自分だけで確かめることがある。これも立派なアウトプットだ。図面を描いて初めてわかることもあれば、実際に作ってみてわかることも非常に多い。
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話題は変わるが、何故作ってみないとわからないのか? これは1つには未熟だからである。
こうした製作の経験を重ねると、図面を描かなくても良くなるし、また実物を作らなくても良い、なんて境地に達する可能性はある(僕は経験がないが)。それはそれで素晴らしいことだと思う。僕の尊敬するモデラの平岡幸三氏は、1台の機関車の作り方の詳細図と解説を1冊の本として出版されている。もう何冊か出ている。それを見て、世界中で何百人(何千人かも)という人が、その機関車を作っている。しかし驚くべきことに、平岡氏は、この頃ではご自身ではその機関車を作られないのだ。作らないのに、それだけの詳細図が描ける、ということが超人的といえる。最初からそうだったのではなく、以前は作られていた。そうした経験を重ねたのちに達することができる領域なのだろう。そのモデルを実際に製作した誰よりも、平岡氏ご本人は、設計の過程で工作を楽しまれたことはまちがいない。
もちろんこの場合も、図面はアウトプットされている。図面を描かないでもすべてを思い描ける頭脳を持っている人もいるだろう。この場合、思い描くことが既にアウトプットである。
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ものを作り上げるときの最大の難関は、作り始めること。最初の第一歩である。しかし、もし作ることでなにかが得られるとしたら、それは完成したときが最も大きいようだ。小説でも同じで、最後まで書き上げ、もう直すことがない、作者の手を離れる、というときに、作者は初めて一歩前進すると思う。作ったものから手を離す経験こそが重要だし、こうするしか「完成」という現象を観察できない。
人に見せるということは、この「完成」というものが見やすくなるだけのことであって、それ以外にはあまり意味はない。
人と対話するために作るのではない。人がなんと言おうと気にならない。なにしろ、それを作った経験は、自分しかしていないのであって、他人から指摘されることなんて、製作中に自身が感じたことに比べれば無視できるほど微々たるものだろう。褒められたいから作る、認められたいから作る、というのは、動くものを作る、役に立つものを作る、と同じように、要求される条件あるいは機能の1つにすぎない。