2008年03月31日(月曜日)
【HR】 塗装と円高
朝方まで雨が降っていたが、その後晴れる。風が強くけっこう寒い。
午前中にデッキで塗装をした。昨夜もガレージで一部塗っていたものの続き。1時間ほどで作業が終了し、風が強いため、すぐに撤収した。しかし、日が照っているので気温は高く、乾燥は早い。
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吹き付け塗装をしているときって、塗装している面に、たいていなにか落ちてくる。埃や髪の毛や、屋外だったら葉っぱとか枝から落ちた滴とか、虫がとまることもある。綺麗な塗装をしたい場合は、クリーンな部屋でする必要があるけれど、そんな場所はないし、まあ、気にしないことだ。「あ、駄目だ!」とすぐに触ってしまう方が被害としては大きい。我慢した方が良い。塗料が多すぎて、垂れてしまったときも、放っておいた方が良い。乾燥すれば、そんなに目立たなくなるかも。
これは全部自分に言い聞かせていることであって、ノウハウを教えているつもりは全然ない。とにかく、気が短いからついつい手を出して、失敗をしてしまうのだ。
スバル氏と園芸店へ行き、苗を30鉢くらい買ってきた。2軒寄ったが、いずれも迷うほど沢山の草花を並べていた。
午後は塗装が終わったボディを組み立てた。ガレージで没頭していたら、外でパスカルが鳴いている。スバル氏が水やりをしていたのだ。もうそんな時間か、と思った。
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昨日届いたプリンタでキットの注文書を1枚印刷した。この1枚のためにプリンタを買ったといっても過言ではない。それはポストに入れた。いつ届くだろう。円高のうちに決済してほしいなあ。
円高になると、輸入は得をするが、輸出は損をする、というふうに認識されている。しかしたとえば、イギリスの模型店から僕が機関車を買うとき、向こうはポンドで値段をつけているわけで、円高になると、僕は得をするが、模型店は無関係だ。同様に、日本の商品の値段を円でつけて売っているところへ外国から買い手が来た場合には、円高だと相手は損をするが、こちらは関係がない。
高くなると客に逃げられる(買い控えがある)、というような商品の場合は影響があるわけだけれど、そこにしかないもので、どうしても買わなければならないものなら、為替相場は売る側には影響しないわけだ。
日本の場合、輸出でもドルで値をつけている場合が多くて、この場合は相手は無関係で、こちらが円高の損をかぶることになる。国内で生産していれば、値段は円でつければ良いように思うけれど、なかなかそうもいかないわけか……。
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ドルって、僕が子供の頃は1ドルが360円で(「ハンドルはいくら?」「180円」なんてなぞなぞがあったっけ)、自由化して下がり始め、初めての海外旅行のとき(26歳だったかな)は250円くらいだった。それから、さらにじわじわ下がってきて150円くらいになったとき、「100円以下になるんじゃないですか?」と僕が言ったら、「馬鹿な、100円になんてなるわけがない。なったら、日本経済は崩壊だ」なんて叱られてしまった覚えがある。でも、わりと簡単に100円を割ったし、日本経済もまあまあ存続している。
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麓はもう桜が咲いている。通りの両側に並んで続いているから壮観だった。森家の桜はまだ蕾。明日から新年度か。
【社会】 誰が悪いのか?
無差別殺人の抑制のために、マスコミが加害者に関する報道を制限すべきだ、と前回書いた。
これは、こうすればこの種の犯罪がなくなる、という意味ではない。少しは抑制する効果があるだろう、という程度だと認識している。
まず、この種の犯罪が発生する主たる原因は「貧困」だろう。貧しかった時代の方が、今よりも凶悪犯罪は多かった。社会が豊かになるほど、1つの動機は消すことができる。ただ、ある特定の人間が豊かになるかどうかまではフォローされていないので、絶対ではない。どんな福祉や慈善で手を差し伸べても、完璧に行き渡るものではない。平均的な効果がある、という意味にすぎない。
戦後などに比べれば、日本の社会は格段に豊かになった。だから、現在起きている犯罪を見て、「社会が悪い」「政治が悪い」というふうにしかものが言えない人は多少問題だと思う。また、「ゲームが悪い」「人間関係が希薄になったせいだ」という方向へ問題を投げかける人が今でもいるけれど、これには少々呆れてしまう。
凶悪犯罪があると、往々にして「政治が悪い」「不況が悪い」「ゲームが悪い」「ケータイが悪い」「ネットが悪い」とコメントする人間が(特にTVに)登場するものだ。ちょっと以前は、「親が悪い」「学校が悪い」だった。
違うだろう。悪いのは加害者だ。そんな人間に誰がしたのかって? ほとんどは自分でなったのだ。本人に最も責任がある。どうして、周辺へさらなる理由を求め、原因を拡散しようとするのだろうか?
つまり、この理屈からすると、マスコミだって悪くない。真実を報道しているだけだ、ということになる。銃だって悪くない。責任は全部本人にある。そのとおり。間違ってはいない。しかし、手が打てるものなら打ってみてはどうか、と僕は思う。政治が悪い、社会が悪い、という声に対しても、なんとか良い政治を、良い社会を、と努力をする(してきた)のと同様に、効果は少なくても、できることはした方が良い、と考える。銃を規制するのも、これと同じ発想だ。
「マスコミの加熱報道が嫌なら、見なければ良いではないか」という意見は的外れである。僕は何十年も日常的にはTVも新聞も見ていない。僕が見るかどうかの議論ではない。また、加害者の予備軍的人間は、たとえTV報道がなくても、ネットなどで情報を得るだろうから、それは防げない。しかし、彼に「一般大衆にメッセージが届くのだ」「世間を大騒ぎさせられる」と感じさせないことが重要なのである。
以上の理由で、マスコミの報道制限を僕は望む。これは報道規制ではなく、自粛してはどうか、という提案だ。最低限の情報を伝えるだけにして、過剰に反応しないでもらいたい。繰り返すが、これでずばり解決するわけではない。
2008年03月30日(日曜日)
【HR】 リバーシブル
スバル氏がいないので、早起きをして、パスカルを朝の散歩に連れていった。玄関でリードを付けてやるときに、もの凄い大騒ぎをするので、大変だ。可愛いけれど。
プリンタは午前中に到着した。凄いな、注文してから30時間くらい。インストールは3秒くらいで、たちまち動いた。許せるプリンタだ。しかし、どれくらいもつかな。
京極氏との対談のゲラをチェックし、中公へ即発送。FM東京の「D&D」でも細かいチェックがあった。小説の執筆はまだしていない。
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お昼過ぎにもパスカルの散歩にいった。雨が降りそうだったからだ。帰ってきたら、ちょうどぱらぱらと降りだした。良い勘なのではなく、ネットで雨雲の動きを見ただけのこと。
そのほかは、工作室とガレージで各種作業をちまちまと進めていた。3月にずっと製作していた機関車のボディが完成の域に近づいたので、仮組みに使っていた普通のネジを、本番用の真鍮六角ボルトに交換した。今日は120本取り替えた。これでも全部ではなく、表に露出しているものだけだ。120本のネジがあるということは、少なくとも240個の穴を開けて、しかもねじ切りを120回しているわけで、よくこんな忍耐強いことができるものだと呆れる(自分で)。まあ、しかし、小説を書くときは、何十万回もキーボードを押しているわけだから、同じか。でも、小説は仕事だし。
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先日のよしもと氏、羽海野氏とのおしゃべりではないが、僕は秋から春にかけて、家ではずっとカーディガンを着ている。研究室にいるときも、だいたいカーディガンだ。部屋着として楽だし、暖かいので着心地が好きだ。しかし、カーディガンというのは、古くなると固くなるような気がする。袖口も汚れる。だからこの頃では、秋にカーディガンを1着買って、ワンシーズンで着潰すことにしている。そうすると、工作をしているときに着ていても、食事中にカレーをこぼしても、気にならない(スバル氏は気になるかもしれない)。
あと、リバーシブルの服が最近多い。たいていはジャケットかジャンパだが、このまえ気づいたら、いつも着ているシャツがリバーシブルだった。気づかなかったのは、表も裏も同じ生地だからだ。胸のポケットが裏にもあるので、リバーシブルだとわかった。裏表同じなら、何のためのリバーシブルなのか。答は簡単。裏返しに着ても大丈夫なようにである。安全設計というか、僕のためにあるようなシャツだ。ときどき裏返しに着ていたかもしれない。気づかなかっただけだ。カーディガンもリバーシブルだったら、ツーシーズン着られるかも。
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人の生き方も、あるときひょいと裏返しになっても、全然普通にやっていけると素晴らしい。裏返しになれるというのは、ある意味で裏表があった方が良いわけだし、裏も表と同じくらいしっかりしていなければならない。抽象的かな。
【理科】 パイプ2
棒状のものを曲げたり捩(ねじ)ったりするとき、棒の断面の中心に材料が集まっているよりも、外周に材料がある方が強い。これはモーメントのためで、つまりはテコと同じ理屈である。だからたとえば、同じ量の材料を使うときは、丸い棒よりも、中心部を穴(中空)にして、太くした方が強くなる。これがパイプだ。間違えないでほしいのは、穴があいているから強いわけではないこと。同じ径なら、穴が開いていない方が強い。パイプが強いのは、重さが同じならば強い構造になる、という意味だ。たとえば、鳥類の骨は中空で軽くなっている。金属バットもそうだし、自転車のフレームもパイプで作られている。
パイプを曲げると、拉(ひしゃ)げるように潰れてしまう。そこまでいかなくても、曲げる方向には幅が狭くなり、逆に両サイドに幅が広くなる。つまり、円形を保持できない。加工で、綺麗にパイプを曲げたいときにどうすれば良いのかは、2006年の6/11の【理科】で書いたので、参照されたい。
パイプを鋸で切ると、簡単に切れるものの、形が歪んでしまうことがある。パイプカッタというパイプを切断するための専用の工具があって、周囲を刃が回るようにして切る。ただ、材質や径によって向き不向きがある。ゴム動力の飛行機を作るときに使うアルミのヒューム管は、カッタの刃を当てて、ごろごろ転がして傷をつけてから折ると、綺麗に切ることができる。ガラス管の細いものを切ったことがあるが、このときはダイヤモンドのヤスリを使い、周囲に少しずつ時間をかけて傷をつけてから折った。
ところで、パイプ(pipe)とチューブ(tube)はどう違うのだろう? ほとんど区別がないように思われる。ちなみに、アメリカではpipeというのは標準化さた規格品のことで、径が決まったものを示す。それ以外のものをtubeといい、区別しているようだ。でも、イギリスでは規格品もtubeと呼んでいるように思う。日本では、金属などの固いものがパイプで、ホースのようにフレキシブルなものをチューブと呼ぶことが多いみたいだ。
2008年03月29日(土曜日)
【HR】 今さらプリンタ
風が強い晴天。先週に比べると涼しい。庭掃除をして、水やりをした。スバル氏が東京ドームへライブに出かけていくので、駅まで送った。
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のんびりと細かい仕事を片づけている。主に整理。HP「浮遊工作室」の「近況報告」で書いたけれど、7月のブックフェアで講演(あるいはトークショー?)をすることになった。12日の午前中になる見込み。昨年は、立ち見をしても50人くらいしか収まらない場所に何百人も集まってしまい大混乱になったから、今回は広い会場を用意した模様。
京極夏彦氏との対談のゲラが届いた。とてもよくまとまっていた。これは5/25刊の公式ガイドブックに掲載予定。押井氏の映画の方は、もうすぐ完成したものを見せてもらえるようだ。こんなに早く完成しているなんて、小説家でいったら、森博嗣みたいでは。
4月はGシリーズの第7弾の執筆を予定している。たぶん、月末か、あるいはGWくらいまでかかるだろう。ゆっくりやりたい。タイトルは2つまで絞ったものの、甲乙つけがたく、また今後にも影響するので、迷っている。あと1週間ほど迷おう。
工作室で金属を削る作業をした。相手はステンレスだ。大きな音がする。ネットで注文したパーツが届いたので、そちらの作業も始められる。
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そうそう、プリンタを昨夜ネットで買った。明日届く予定。どうしてかというと、外国のキットを発注するための書類を郵送しないといけなくなったためだ。これがもし仕事だったら、相手に対して別の方法はないのかと主張するところだが、趣味の世界では全面的に相手に合わせる僕である。プリンタがないと困ることが、3カ月に1度くらいあって、今まですべてスバル氏の手を煩わせていた。
たとえば、よしもとばなな邸へ行くための地図なんかがそうだ。メールで送ってもらったものを、ポケットに入れたい。もちろん、頭やiPodに入れる手もあるけれど、紙切れ1枚の方が便利なことが多い。タクシーの運転手さんに見せられる。
プリンタは、MacのOS9でも動くものを選んだ。メーカは新しいOSへの対応に熱心だけれど、こういった需要があることも忘れないでほしい。8割方の製品が古いOSには対応していないのだ。
年輩でネットをされない方へ手紙を出すときも、パソコンで書いた文章をプリントしなければならない。だから、プリンタも少しは利用の機会がある。そういえば、小説を出版社へ投稿するときも、昔はわざわざ紙にプリントしなければならなかった。もしかして、今でもそうだろうか?(もしそうなら呆れるほど遅れているが)
デビューした当時(12年まえ)、僕は既にプリンタなるものをほとんど使わなかったから、「わざわざ紙に出力して送るのか」と酷く面倒に感じたものだ。それどころか、当時の編集者は誰もメールができなかったので、メールができない人は森博嗣の担当になれない、というふうに指導(?)をした。最近でも、まだファックスを使おうとする人がいるので、そのたびに「pdfで添付して」と指示している。
【算数】 かけるかわるか
日本人は、400円のものを買って500円を出したとき、500-400=100という引き算をして、おつりを出すが、海外では、商品が400円で、それに100円のおつりを足し算してみせ、500円と交換します、という動作をする。引き算をしない。
実物を縮尺して模型を作る場合も、これに似ている。日本人は、6分の1というスケールであれば、実物が3mのときには、3÷6=0.5という割り算をして、模型の大きさを求める。外国では、そもそも「6分の1スケール」とは言わない。1フィート(=12インチ)を何インチにするか、というのがスケールなので、この場合は「2インチスケール」と称する。だから、3フィートのものがあれば、3×2=6で、6インチ(=0.5フィート)と求める。割り算をしない。
割り算をしないかわりに、分数はよく使われる。3/8インチとか、7/64インチなんて普通に用いる。小数にしない。これを見た日本人は、1インチを64で割って……、と考えてしまうのだが、そこがもう違う。彼らは割り算をしないからこそ、分数のまま使っているのだ。そして、1/64インチというメモリ(あるいは単位)がちゃんと認識されているから、その7倍としか考えない。これらからわかるように、割り算が不得意なのは、12進法で割り切れやすい環境にいるためではないか、と連想させる。
日本の場合、1/4であっても、2割5分、つまり0.25倍という小数の概念が強い。10進法だし、なんでもすぐに割ってしまうから、小数になるのだろう。
最近、インチを使う工作を積み重ねてきたので、ようやく分数の世界が頭の中で長さや大きさとして直結しつつある。そちら側から見ると、0.125倍なんて難しいことを考えている日本人は凄いな、と思う。
でも、海外でも、税率は分数ではなく小数(パーセンテージだが)だなあ。
2008年03月28日(金曜日)
【HR】 楽しい試運転
昨夜は、ガレージで遅くまで機関車の前に座っていた。レディ・マドキャップのポンプ取り付けの最終チェック。すべてを組み直し、ボルトの緩みなどを確かめた。
今日は、風が強い。晴れているものの、そんなに暖かくはならないようだ。庭の落ち葉が多くなってきたので、バキュームで掃除をした。そして、レディ・マドキャップをガレージから出して、石炭を入れて火をつけた。圧力が上がってくると、あちこちから蒸気が漏れたり、水が滴り落ちたりするので、スパナでその部分を締め直していった。
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スチームアップして、走行試験もまずまず快調。新しいポンプも試してみたが、非常に好調だった。素晴らしいコンディションで、いうことなし。お隣の人が遊びにきたので、トレーラを連結して、乗せてあげたりした。最後はスバル氏も乗車した。パスカルも誘われたが「おうちに入る」とドアの方へ行ってしまった。
良かった。このところ集中して工作してきた結果だが、どこも不具合がなく、今夜手直しする箇所もない。掃除をするだけだった。こんなに一回で上手くいくなんて、滅多にないことだ。
お昼は、スバル氏とダイエーへ買いものに。ダイエーはなんの市でもなかったので空いていた。スバル氏はこの頃、レジでマイバッグ(というのかな?)を出して、そこに買ったものを入れてもらう。「レジの人がバッグに詰めるのが大変だから、このシステムには無理があるんじゃないかな」というのが彼女の意見である。僕はわからない。今度はプラスティックの籠を買って、そちらで試してみる、とも話していた。
たとえば、家族が4人くらいで、普通に食料品を買いにいくと、毎日行っても、ほとんどあの籠はいっぱいになる量だろう。2日に1度の買いものをすると、女性1人では持ち運べないくらいの量になることが多い。どうしてこうなったのかというと、お茶などの飲みものをスーパで買うようになったせいだ。以前は、お茶は液体では買わなかったし、お米も飲みものも、配達されるのが普通だった。
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車を運転していると、工事中の道などで交通整理をしているガードマンみたいな人が立っている。スーパの駐車場などにもいる。そのおじさんが「来い来い」と手引きをするから出ていくと、そこへ自転車がつっこんできたり、人が飛び出てきたりすることがかなり多い。つまり、おじさんを信用してはいけない、ということ。そういうぼんやりした交通整理のおじさんが増えたのかもしれない。気をつけよう。事故があっても、責任は運転者にある。
麓で桜が咲き始めた。森家の庭の桜はあと1週間くらいさきかな。昨年に比べると、庭の緑は圧倒的に早い。
【国語】 本の並べ方
棚に本を並べるとき、右からか左からか、どちらから並べるだろう。やはり左から右へ並べる人が多いかな。
書店では、どちらも見かけるけれど、左から右へ並べている方が多いと思う。CD屋ではほぼ例外なく左から右へ並んでいる。しかし、これは、縦書きの文章の並びと反対である。縦書きは右から左へ書く。この方向は日本古来の並びである。日本語の本は、背表紙に縦書きの文字が書かれているわけだから、本来は右から左へ並べる方が相応しいかもしれない。
たとえばの話、1巻が「わたしは」で、2巻が「あなたを」で、3巻が「愛している」というタイトルのシリーズものだったら、右から左へ並べると背表紙が「読める」ことになる。
また、本を右から左へ並べると、背表紙が横文字で書かれているとき具合が良い。頭を右へ傾けて、背表紙の横文字を読むわけだが、こうすると、右は上になり、左は下になるから、上から下へ流れる方向になる。シリーズ1巻から4巻までの本を4冊まとめて棚から取り出したとき、背表紙の文字が読めるように水平にすると、上から順に並ぶ。逆に、左から右へ本を並べた洋書をまとめて棚から出して背表紙の文字が読めるように水平に置くと、下から1、2、と上へ並んでしまう。
漫画のコマは、日本の縦書きの方向に準じて、右から左へ流れるが、これは国際的なフォーマットではない。美術館の絵は、どちらへ並んでいるだろう。いわゆる「順路」である。右から左だろうか、左から右だろうか。気になりだすと、いろいろな並びが気になる。
僕は雑誌を沢山購読している。最初はベッドなどの横に積んでいく。そのとき、やはり自然に表紙を上にして積むのだ。すると、古い号は下に、新しい号は上になり、これをそのまままとめて棚に立てて入れると、左から右の順になる(僕の読む雑誌が、例外なく横書きで左綴じだからだ)。しかし、雑誌をまとめてバインダで綴じる場合は、中のページの順番が並ぶようにするから、結果的に右から左へ並ぶ。
横書きの左綴じの本では、本の背から見ると、ページは右から左へ流れている。逆に縦書きの右綴じの本は、背から見ると、中は左から右へ流れている。この流れに従うと、洋書は右から左へ並べ、和書は左から右へ並べるのが、良いだろうか?
結論は出ない。
2008年03月27日(木曜日)
【HR】 ときどき拘る
ちょっとまた涼しくなったというか、普通の3月らしくなった、みたいな感じ。タクシーに乗ったら、ラジオで高校野球が流れていて、そうか、そんな季節か、と思った。
今日は東京駅で書店がなくなっていたのがショックだった。新しい場所へ移動するらしいが、まだそこはオープンしていない。鉄道関係本を取り揃えている店なので、ときどき立ち寄るのだが……。春休みで人が多いから、構内の人混みを歩くのが面倒だった。
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帰宅したら、自分で送った荷物が沢山届いていて、「いや、これはね、けっこう安いものなんだよ」とスバル氏に優しく語りかけながら箱を開けた。
「スカイ・クロラ」シリーズの文庫5冊の掛け替え用アニメ版カバーのラフが届いた。映画のキャラ・デザインの西尾鉄也氏が、このためにわざわざ描き下ろしてくれるもの。6月に登場する予定。それから、単行本の限定バージョンにセットされる飛行機フィギュアの試作品の写真が届いた。みんなはどう思うか知らないけれど、僕は本よりもこっちが欲しい。
そして、バンダイナムコのゲーム「スカイ・クロラ(仮)」のサイトが既にオープンしている(こちら )。31日にはトレーラが公開されるようだ。
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ここ数日、書店に何度か入ったので、世間で今どんな本が出回っているのかを見た。また、お客さんがどんな本を手に取っているのかを観察できた。ビジネス書は相変わらず多い。多すぎると思う。読んでみようかな、と思わせるようなものがあまりない。タイトルを見ただけで、内容がだいたい想像できてしまうというか、むしろ面白そうに見えないものばかりだ。人目を引くようなキャッチ的なタイトルは、そろそろ古いというか、多すぎて目立たないように思う。もう少し真面目なタイトルに戻した方が、内容が的確に示せるだろうし、効果があるのでは?
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方法論を求める姿勢は、重要なことだし、それ自体は素晴らしいことだけれど、しかし、方法論に拘ってはいけない。これさえ知っていれば成功するといった完全な方法はないのだ。それどころか、ほとんどのケースに通用できる方法もない。すべてケースバイケースで、今までの成功に囚われず、その場その場で考え、新たな方法も常に模索しながら進むのがベストだと思う。
僕のポリシィは「なにものにも拘らない」と常々書いているけれど、この言葉には、「ときどきは拘った方が良い」という意味が含まれる。なにしろ、このポリシィにさえ拘らないからだ。
【社会】 無差別殺人に対する防御
たまに新聞を読んだりTVを見るときがあって、世間の話題を体感する。
「誰でも良かった」という理由で人を殺す人間がいて、その種の犯罪が起こると、マスコミが大きく取り上げる。しかし、そういう人間は、そうやってマスコミに取り上げてもらいたいから犯行に及ぶのである。「最後に一花咲かせよう」という考えなのだと想像できる。「八つ当たり」というのは、一種の甘えであって、他人に依存した非常に社会的な行動と分析できる。
もう10年もまえから何度も繰り返し書いてきた。この種の犯罪を抑制するためには、犯罪について報道を制限することが必要だと思う。すなわち、加害者の顔写真を公開したり、その生い立ちを紹介したり、親族にインタビューしたり、という報道をしない方が良い。犯行後に自殺をして、遺書を残していても、それを一切報道しない方が良い。何故なら、それらをしてほしいから事件を起こしたのであって、加害者の夢をマスコミが叶えてやっていることになる。
銃の乱射が頻発している某国では、既にそういう見方から報道を制限し、無闇に加害者の情報を出さないようにしている。報道すれば、加害者は「してやったり」と達成感を抱くだろう。なによりも、そういったことに憧れ、「自分もあんなふうに光の当たる場に立ちたい」と考える予備軍的な人間を煽るような真似をしないでほしい、と思う。
マスコミは考えるべきである。マスコミは、こういった事件がもっと起こってほしいのか、それとも、もう起こらないでほしいのか、どちらなのか? 是非とも自問してもらいたい。
2008年03月26日(水曜日)
【HR】 散策と打ち上げ
午前中に、とあるラウンジで講談社のK北氏と打合せ。「カクレカラクリ」のゲラを手渡した。5月刊の講談社ノベルスである。カバーイラストは、「探偵伯爵と僕」に引き続き、山田章博氏が引き受けてくれたとのこと。そういえば、もう何年も山田氏に会っていない。スバル氏は山田夫人にはよく会っているらしいけれど。
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午後は、銀座と秋葉原と新橋付近を巡り、いろいろちょっとした買いものをした。初めての模型屋さんにも2軒立ち寄った。荷物が重くなるので、いずれも自宅へ直接送ってもらうことにした。
天賞堂にも久しぶりに寄ったが、残念ながら出物はなく、またも洋雑誌を3冊購入しただけ。しかしこの頃では、模型屋に入って1つでも買いたいものが見つかることは幸運といえる。逆にいえば、店にあるほとんどすべての品物は、欲しくないもの、僕には興味のないもの、なのだ。買いたいものが多くて、どれを買おうか迷う、なんて状況が子供から若い頃にはあったはずだけれど、最近ではまずない。つまりは、それだけ欲しいものが特化されてきた、あるいは明確になってきたわけだ。
古い友人にも会った。向こうは勤務時間中だったので、1時間ほどお茶を飲んで話をしただけ。面白い仕事をしている人間なので、興味深い話を聞いた。もちろん裏事情なのでここには書けない。
今日は沢山歩いた。日差しはとても強い。しかし、まだ暑いということはなく、花粉さえなかったら良いコンディションで、歩き回るのには適している。これでも、僕は中学生のときはワンダーフォーゲル部だったのだ(笑)。
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夕方は、「日経パソコン」のK田氏と会い、六本木で日本料理をご馳走になった。同誌で4年半連載を続け、それが終了したので打ち上げみたいな会。昨日も日本料理だったが、全然方向性の違う料理で、これまた美味しかった。最近、東京では日本料理が増えた気がする。少しまえはイタリアン、その次は創作系がブームだったけれど、少々厭きられての反動かな。
夜は久しぶりにTVを見た。カストロ将軍のインタビュー番組が流れていたからだ。数年まえの映像だろう。面白かった。カリスマの目、というものがよくわかった。どことなく、僕の親父に仕草が似ているのが妙に恐かった。
【理科】 howかwhyか
理科というのは、自然の観察と、そこにある道理の発見、といった分野であるけれど、どのレベルまで掘り下げるのか、という点において、立ち位置が各分野でかなり異なってくる。
たとえば、大学には理系の学部として、理学部や工学部がある。あるいは医学部や薬学部、またさらには農学部などもある(もっともっとあるが)。
歴史的に見ても、まず人間は、自然に対してどう対処すれば良いのか、という方法論から学習しただろう。生きていくことに直結していたからだ。つまり「How」である。何故そうなっているのか、という部分は「神様」のせいにひとまずして、自分たちがどう切り抜けるのか、を考えた。ここに、医学や薬学、あるいは工学の基本的な動機がある。
しかし、どうすれば良いのか、を学ぶうちに、それが何故そうなのか、という興味が当然強くなるだろう。つまり「why」である。これが、新しい科学の方向性になった。生活とは直結していないものの、いずれは工学や医学を通して、社会に還元されることになる(もちろん、還元されないものもあるが)。
このことは文系の学問でも同じで、何故なのかを考える学問と、どうしたら良いのかを考える学問がある。一般に、後者を「実学」といったりする。また、どこまで深く追求するのか、という点で、何故という理由のレベルも、一線が引けるような明確な境界はなく、両者は連続している。ただ、両極には明らかに違う2つの動機、「how」か「why」がある、という意味だ。そしてこの両極は、文系と理系の差よりも、格段に離れた位置にあるように僕には見える。
2008年03月25日(火曜日)
【HR】 よしもとさん宅訪問
暖かい。名古屋では桜はまだだけれど、東京ではもう咲き始めている。どういうわけか、西の名古屋の方が毎年、桜は遅い。それだけ、冬が寒いということか。
「ダ・ヴィンチ」のI子氏と待ち合わせをして、打ち合わせをした。このMLAの残り9カ月の展開についてと、今年の後半に執筆する予定の長編について。雑誌の連載でいくか、書き下ろしでいくか決めていないが、仕事としてはかなり以前に受けているもの(発端は5年ほどまえになる)。どちらかというと、書き下ろしに僕自身は傾いている。連載という形態が自分のやり方に少々マッチしないからだ。
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夕方、下北沢へ。よしもとばなな氏のお宅を訪問。初めてである。羽海野チカさんもいらっしゃっていて、彼女とは昨年の今頃、名古屋の拙宅で対談をしたので、約1年ぶり。よしもとさんの方は、4カ月ぶりくらい。さっそく、お茶をしながらおしゃべり。
よしもと邸は、可愛い小物が沢山飾ってあって、「水平な場所には必ずものを置く」というポリシィは僕と似ている。犬も猫も2匹ずついて、足許にすり寄ってくる。下の写真は、よしもとさんの家の玄関に飾ってあったもの。
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それから、近所のお店などへ繰り出す。アンティークやおもちゃの店を何軒か回り、最後は、有名な(日本唯一らしい)プレィ・モビル専門店へ。一番欲しかったのは、お店の入口に立っている人間大の巨大人形で、僕のガレージに2体あるものの別バージョン。30万円くらいで売ってくれないだろうか、と思って、いちおうきいてみたが、売りものではもちろんない。しかたなく、ちょっとしたものを2箱ほど購入。このため、大きな荷物を持ってその後不自由に歩くことになってしまった。
料亭に到着。ここで、巨大ヒラメ1匹をみんな(5人いた)で食べた。お刺身にしたり、蒸したり、唐揚げにしたり、お味噌汁に入れたり、炊き込みご飯にしたり。握り寿司になっても出てきた。満腹になった。
何の話が多かったかというと、カーディガンを着ている人の魅力についてとか、人材募集の方法についてとか、お父さんが刑事の家の娘がいかに嘘をつくかとか、熊の頭が重すぎるとか、まあ、そういうアカデミックな……。
そのあとも、もう1軒場所を変えて、コーヒーを飲みながらおしゃべりの続き。帰ってきたら12時近かった。
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「どきどきフェノメノン」文庫版(4/25発行予定)の解説を女優の多部未華子氏よりいただいた。「そう、こういう解説が欲しかった」と感じる一文だった。感謝。4月は「クレィドゥ・ザ・スカイ」文庫版で押井守氏の解説もあって、対照的ながら、しかもいずれも大変面白い。
【算数】 2人の外国人
外国人が2人立ち話をしている。背の高い外国人はフランス語を話している。また太った外国人は英語を話している。彼ら2人に質問をしてみた。「あなたはフランス人ですか?」という質問に1人は頷いた。また、「あなたはイギリス人ですか?」という質問にも1人が頷いた。さて、背の高い外国人はどこの国の人でしょうか?
もの凄く素直に捉えると、背の高い方がフランス人、太った方がイギリス人、という答になるが、少し数学的に捉えてみよう。まず、背が高い人と太った人が別人であるとは書かれていない。つまり、背が高く太った1人と、もう1人がいるのかもしれない(その人の体格はわからない)。すると、1人がフランス語と英語を話している。もう1人はしゃべっていないかもしれない。質問に頷いたのは1人だけで、その人はフランス人でもあり、イギリス人でもあるかもしれない。しかも、それは背の高い太った人ではないかもしれない。したがって、この場合は答は不定である。
また、フランス語を話すからフランス人だという保証はないし、同様に、英語を話しているからイギリス人であるとは限らない。たとえば、背の高い方はイギリス人で、太った方はフランス人で、2人ともフランス語と英語が話せるとすると、インテリのエチケットとして、相手の国の言葉で会話をするだろう。この場合、背の高い方はイギリス人になる。
この種の論理クイズでは、黒い毛の羊を見た数学者たちの話や、そっくりな2人の子供に「双子?」と尋ねて否定される話などが有名で、ほとんど同じものが世界中に広まっているように思える。ここ10年ほど、新しいネタを聞いたことはない。
2008年03月24日(月曜日)
【HR】 何故スポーツだけが
朝一番に出かける用事があって、6時半に起きた。予定どおり用事が済んで、お昼頃に帰宅した。体調はまあまあ。
今日は、仕事はデータのバックアップと、これからの仕事の準備。執筆は今週はしない予定。
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午後は、ガレージで板金工作。この頃の円高で、海外からの買いものが多い僕としては非常に嬉しい。しかし、ドルではなく、たいていポンドなので、いうほどでもない。そういえば、昨年の前半はポンドが高かった。注文したときにこれくらいだな、と思った金額より、それが入荷して支払うときは50万円も高くなっていた、なんてこともあったほど。50万円といえば、小さな機関車なら1台買えるではないか、と思ったものだ。しかし、得をしたときには、ありがたみはさほど語られない。みんな黙っているのである。
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長男S氏が、「テレビのニュースって、どうしてスポーツばかりをこんなに熱心に取り上げるんだろう?」と不思議がっていた。彼に言わせると、ほかにも音楽や映画など、エンタテインメントのジャンルは沢山あるのに、何故かスポーツは定番として枠が作られているのだ。僕もそれは気になっていた。
僕の友人の会社は、かなりお堅いところなので、会社のパソコンでウェブを見ようとしても、一般のサイトを見ることはできない。芸能関係なども見られない。しかし、ニュースとスポーツのサイトはOKだという。スポーツは手放しで健全なものである、という認識らしい。
1つには、スポーツはたいていマスコミがスポンサになっている、ということがあるだろう。だから、自分たちの利益のために取り上げているのだ。もう1つは、戦後しばらくの間は、大衆が楽しめるものがスポーツくらいしかなかった、という歴史的な経緯がある。いずれにしても、あまりにも大きく取り上げられすぎている、という感じは否めない。
誤解されても良いのだが、いちおう書いておこう。僕はスポーツが嫌いではない。歌謡曲を聴くよりは、スポーツを観る方が楽しい。自分でもスポーツをすることが嫌いではない。この頃はもうそんな時間と体力がないし、みんなほど多趣味ではないだけのことだ。
どうせ観るならプロの一流のプレィが観たい。どちらが勝ってもまったく気にならない。良いプレィが出たら、味方でも敵でも凄いと感心するし、拍手をする。高校野球などは観ない。悪い喩えをするなら、中学生が書いた小説を読むようなものだと思う。スポーツにそういった爽やかさや裏のドラマを求めているわけではないので。
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昨夜から朝方にかけて雨が降ったおかげで、水やりがない。緑はどんどん伸びている。毎日、庭を見回って、昨日とどこがどう違うのかを見つけるのが楽しみだ。
【国語】 お任せ下さい
街にある看板でときどき見かけるものに、「○○ならお任せ下さい」というフレーズがある。しかし、よく読んでみると変なものが多い。たとえば、うちの近くには、「交通事故ならお任せ下さい」という保険会社のものと、「雨漏りならお任せ下さい」という修繕業者の看板がある。べつにおかしいと感じない人も多いだろう。これが、「交通事故に遭ったときはお任せ下さい」「雨漏りの場合はお任せ下さい」なら少し和らぐ。「ならば」だったら良いようにも感じる。しかし、「ならば」が良くて、「なら」だったら変なのも、おかしい。
「○○ならお任せ下さい」は、○○に入る名詞の商品を売る用意がある、あるいはそれをすることができる、という意味に普通は使われる。だから、「交通事故のときの処理ならお任せ下さい」「雨漏りのときの修繕ならお任せ下さい」が正しい記述である。これを省くから、まるで、アタリ屋のように交通事故を請け負っているみたいに聞こえるし、また屋根に穴をあけて雨漏りを演出してくれるみたいに想像してしまうのだ。
おかしくない、という人はたぶん、「あなたがお困りのことが交通事故なら、(当社に)お任せ下さい」という読み方をしているのだろう。こうなると、たしかにおかしくない。
微妙なものもある。たとえば、歯医者さんが「虫歯ならお任せ下さい」という看板を立てた場合、これは変だろうか? 「虫歯」は商品ではないが、しかし、そんなにおかしくない。でも、たとえば病院が「病気ならお任せ下さい」という看板を出したら、これはかなりおかしい。
「お部屋探しならお任せ下さい」はおかしくないが、しかし、ただ探してくれるだけで、貸してくれない、売ってくれない、では困る。これも、「お部屋探しのときはお任せ下さい」の方が誤解がない。
車に乗ったとき、カーナビが「道案内ならお任せ下さい」としゃべったら面白いが、「当たり前だろう」「だから買ったんじゃないか」とつっこみたくなる。カーナビは、「目的地周辺」で突然案内を放棄してしまうから、任せっ放しにできないと思うし。
2008年03月23日(日曜日)
【HR】 またバーベキュー
少し曇空だったが、風もなく暖かい。
朝から小説の仕事を片づける。「D&D」を見直して、5回分をまとめて発送。「カクレカラクリ」のゲラも最後まで読んだ。お終い。3月の主なノルマはこれで片づいた。明日からは4月分の仕事を前倒しで進めるつもり。
長男S氏と長女M氏がいるので、バーベキューをすることになった。午前中に食材を買い出しにいく。帰宅後、デッキで準備を始めた。バーベキューのセットはガレージにあるので、すべてを鉄道でデッキまで運搬した。木炭に火をつけて、すぐに肉を焼き始める。蒸気機関車に比べたら簡単なものだ。
パスカルもデッキに出てくるけれど、つまらないので、庭の方へ行ってしまう。ときどき、電車に乗って庭を一周してくる。暑くもなく寒くもない、ちょうど良い気候である。デッキの横には桜の大木があるけれど、まだまだ咲きそうにない。
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今読んでいる小説は文庫本で250ページくらいだが、僕はこれくらいの厚さで読むのに1週間ほどかかる。それくらい読むのが遅い。たぶん、2時間以内に読んでしまえる人もいるのだろう。しかしやっぱり、200ページ、多くてもせいぜい250ページくらいの厚さが良いなあ、と思う。僕の小説はまだまだ厚い。Gシリーズから入った人が、昔の本を読んでくれることがあるのだけれど、むずかしくて読めない、という感想をいただく。
出版社から来た手紙で困ったことが2つ。1つは、支払い明細なのだが、何項目もあって、金額が並んでいる。何日にいくら振り込まれます、ということはわかる。しかし、いったい何の支払いなのか書いてないのだ。使用料とか、小説その他といった抽象的なことしか書いてない。以前からこうなので、「何のお金ですか?」と尋ねると、「はい、調べます」という返事が来るだけ。信じがたいシステムである。もう1つは、「この住所には出さないように」と何度もお願いしている宛先を何度も書いてくる出版社。そのデータを消してくれ、とお願いしても、担当者が違ったり、部署が違ったり、結局しばらくすると同じことを繰り返し。これも信じられない。
何だろう? もしかして喧嘩をしたいのだろうか? こんな些細なことで怒りたくはないのだけれど、でも怒らないと話が伝わらない人たちは、たしかにいる。
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雑誌が何冊か届いたので、午後はのんびりとそれらを読んだ。体調は良くなった。夜は工作。
【社会】 綺麗事の演出
10年くらいまえだったと思うけれど、衛星通信を使って授業をしてほしい、という依頼があった。学内にその設備が導入されたので、それを使用している実績がほしい、みたいな話だ。そこで実現したのは、隣の大学とテレビ電話で話をしながら、双方の学生が講義を受けられる、というものだった。しかし、その隣の大学は、車で15分も走れば行ける距離なのだ。なにも衛星を使ってやらなくても良いのではないか、と思えたが、そういう疑問の声は何故か出なかった。
一方では、大学のコンピュータの端末室は、朝9時から夕方5時までしか使えない。国際化を叫びながら、これでは、地球の反対側とチャットもできないではないか、という意見を述べたことがあるけれど、まったく聞き入れられなかった。
パソコンを使った教育をどのように行っているか、という視察団をアメリカへ送ったりしていたので、そんな金があったら、パソコンかソフトが買えるだろう、と感じたが、そういう意見は出なかったようだ。
僕が若い頃には、1990年代には宇宙ステーションが実現する、と言われていた。それがなんのかんのと遅れて、ようやく今頃になって形が整ってきた。こういうとき、必ず小学生や中学生を何人か集めて公開のイベントを行い、「子供たちの夢」みたいなことを大人が押し付ける光景が見られる。衛星放送を使った講義と同じく、マスコミ向けのサービスなのか、自己満足なのか、わからないけれど、「そんなことをするためのものか?」という声は発するべきであろう。
だいたいが、予算を取って行われる企画は、このように「見せかけ」の綺麗事を演出して、花火のように拍手をして「綺麗だなぁ」で終わってしまうのである。
2008年03月22日(土曜日)
【HR】 師匠のいる幸運
暖かくて、20℃を越えた。こんなに暖かい3月は珍しいのでは。庭の草木がもの凄い速度で育っている。2日ほど体調が悪かったけれど、今日はだいぶ良くなった。朝からマスクをしているし。振り返ってみると、連日飛行機を飛ばしにいった、その疲れかもしれない。
「D&D」5回分の推敲をした。「カクレカラクリ」のゲラを90%まで。
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ガラス管を購入するため、ネットで検索をして発注の段取りをしていたのだが、掲示板でガラス管が割れたと書いただけで、佐藤氏から、当方にある10mm径のガラスを切って送りますから長さを知らせて下さい、というメールがあった。ひええ、どうして10mmだとわかったのだろう、とびっくり。工作の途中経過を掲示板にリアルタイムでアップしているので、逐一アドバイスをいただく。それがまた的確なうえ、目から鱗の指摘で、「え、本当ですか? 知らなかった」ということがある。たとえば、工学が専門なのに、銅を軟らかくするためには、鉄の焼き入れのように加熱後急冷した方が良いと初めて知った。鉄とは反対である。これこれこんな不具合があるから、ここをチェックしてみようと思う、と話せば、いや、これこれこういう理由で問題はそこではない、と即座に言われてしまうこともあった。チェックをするには、もの凄い労力がかかるわけで、おかげで、見当違いのところにエネルギィを注がずに済む。
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僕は、子供の頃からずっと、周囲に工作の好きな大人が一人もいなかった。中学には技術課程がなく、大学でも、建築学科なので、機械工作の教育を受けていない。飛行機の関係では30歳を過ぎてから、機関車の関係では45歳くらいから、ようやく仲間と呼べる人に出会った。それまでは、とにかく、すべて本から学んだ知識だけだったのだ(ここ10年ほどはネットから学んでいる)。
苦労は今となっては楽しい思い出だし、うまくできなかったからこそ、こんなに長続きしているのだとも思うけれど、でも、もうこの歳になったら、そんなに時間はないわけで、ずばり知りたいと思うノウハウは多い。独学も楽しいものだが、師匠がいる状況は幸運だ。同好の人と出会ったのも、すべてインターネットのおかげである。
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今日は、工作室で金属のパーツを作っていた。昨日、体調が悪かったので、久しぶりに小説を読んでいる。今年の1冊めかな。海外の作品。そう、小説ってこんなふうだったよな、と思い出させてくれるような良作。まだ半分だけれど。
【理科】 音響
劇場などの設計をするとき、ステージの音が観客にどう届くのか、ということが問題になる。音響の良い劇場、そうでない劇場、というものがある。これは、身近なところでは教室などでも同じで、教壇の声が聴き取りやすく全員に伝わるために工夫がされている。
実験室の2階にある部屋を、ゼミ室として使っていたけれど、壁がコンクリートにペンキを塗っただけのものだったので、そこで話をしていると、洞窟の中にいるような、変な感覚だった。音響が専門の先生が、片方の壁の一面にカーテンを設置することを提案され、そのとおりにしたところ良好な環境に一変した。つまり、カーテンによって音を吸収して、反響を減じたわけである。
劇場では、壁には吸音する板が用いられる。小さな穴が沢山あいているものをよく見かけるだろう。また音を乱反射させるような変な形のものがぶら下がっていたりする。それ以外にも、いろいろなノウハウがあるようだ。コンピュータを用いて、音のシミュレーションを行い、どの座席にどんなふうに音が届くのか、という計算もする。そうした結果を基にデザインが行われている。
また今日では、構造物は音をすべて吸収し、反響は電子的に作り出すことも可能である。この技術は、今に家庭のオーディオにも普及するだろう。周波数ごとに、反響をコントロールできるようになる。部屋の状態による効果を補正し、劇場で聴いている音が楽しめるわけである。
ところで、こうなると、はたして劇場は必要なのか、と考えてしまう。そんなこといったら、美術館だっていらないのでは、なんて話になる。そうかもしれないし、いや、無駄なものこそアートだ、とも思う。
2008年03月21日(金曜日)
【HR】 不調と未熟
今日は晴れ渡った。風が強い。しかし、昨日から体調が非常に悪い。花粉のせいだと思うけれど。
マスクをして、スバル氏とホームセンタへ。僕はパスカルと駐車場で待っていて、その間にゲラを読んだ。
「D&D」は2回分を書いて5回分が揃った。推敲は後日。もうこれで17回分も書いたことになる。2年の連載なので100回くらいの見当。「カクレカラクリ」のゲラは80%まで。
体調が悪いわりに工作はできた。山積みの課題の中から簡単そうなものを選んで片づけたせいだ。このようにしていくうちに、ついには本腰を入れて取り組まなければできないものが掘り出され露わになる。それをせざるをえなくなるわけだ。
機関車のメンテナンスもしていて、ガラス管が一部割れているのを発見した。これを修理するためには、同じ寸法のガラス管を購入する必要があり、その算段をした。ネットのおかげで、以前に比べれば格段に便利になったけれど、それでもまだ珍しいものは、どこで入手したら良いのか、と探すことがときどきある。
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佐藤氏からいただいたポンプを機関車に取り付ける工事も、昨夜から始めて、まだ序盤戦。配管を行っている。少し進めるとなにか問題が起こり、そこで考え込む。写真を撮って、佐藤氏に送って相談したりしている。一番の問題点は、この機関車がすべてインチ規格で作られていることだ。ネジも違えば、パイプの太さも違う。少しずつインチ規格の工具や材料も揃えているものの、やはりここぞというときには足りない。
写真のレディ・マドキャップという機関車は、今の家に引っ越すまえに中古で手に入れたものだ。引越で持ってきたものの中で、これが一番重かった。大人2人でやっと持ち上げられるくらい(上がるだけで歩けない)。当時はまだ線路がなかったから走らせられなかった。線路工事に数年かかり、それからこの古い機関車を直した。最初に走ったのは2年まえの春だ。その後も、改造を重ねている。
機関車に比較してみると、飛行機というのは本当に簡単な機械である。エンジンさえ回れば(これが技術的にけっこう難しいが)、あとは木や紙で作れるようなものばかり。ギアもないし、サスペンションもない。舵はワイヤで引けば良い。手作りの飛行機で空を飛ぶ趣味は、アメリカなどでは一般的であるが、それだけ簡単だということ。ただ、ミスをすると1回で終わってしまうけれど。
メカニズム的な難しさは、自動車>機関車>飛行機>船の順だろうか。自動車は自作するとしたら大変である。
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さて、5日間、とても楽をさせていただきました。有栖川有栖氏の特別講演は今日で最後です。どうもありがとうございました。
【音楽】 セピア色の歌声
有栖川です。もう五日目ですか。
二日目から四日目まで、学校の想い出話になりました。科目別に話題を考えたせいでしょう。最終日は音楽の授業について、ノスタルジックに書くことにします。体育もからめて。
学校では、色々と意に沿わぬことを強いられます。私は、できないと判っているのに跳び箱をやらされるのが嫌でした。水泳が苦手なのでプールも嫌い(泳ぐ以前に、濡れることが嫌い。猫科ですね)。小学六年ぐらいから算数にうんざりし始め、版画を彫ったり(絵を描くのは好きでした)ラジオを作ったりするのもノー・サンキュー(森さんとは大違いですね)。まあ、学校はそういうところで、人生は甘くありません。
ある時、学校でやらされることで最も不愉快なのは何か、と考えてみました。もちろん、人には得手不得手がありますから、答えは人それぞれでしょう。条件つきで考えなくてはなりません。私が出した結論は、「音痴が歌わされること」でした(それにしても音痴というのはきつい表現ですね)。
学校の先生はアレをやれコレをやれと迫ってきますが、できないものはできない。私は鉄棒の逆上がりもできませんでしたが、「挑戦したけれど無理だった」というところを見せればすむので、精神的な痛痒はさして感じませんでした。
歌は事情が違いそうです。音痴なクラスメイトがいました。音程がまるで取れず(すべての音がラ)、みんなが笑ったりからかったりしたわけでもないのだけれど、テストではつらそうでした。今、彼がどうしているか知りませんが、カラオケに誘われるのを迷惑がっているのでは、と想像します。
私はというと、音楽の時間は気分転換ができるので好きでした。さしてうまくなくても歌うことは楽しい。テストの時は、気持ちよく歌い上げました。人間にはおかしな習性があって、「照れくさいわ」「そんな気分じゃねーよ」と思っていても、いったん歌いだしたらみんな真剣になります。だから歌のテストを見るのは面白かった。友だちが一人ずつ前に出て、大真面目で個性がにじんだパフォーマンスをする、という儀式ですからね。体育のテストはつまらない。できない者は一様にできないだけだし、私みたいに最初からふてている。
懐かしいですね。高校の歌のテストでは『愛の賛歌』を熱唱したこともあります。先生が関西歌劇団のバリトンで、いい声をしていました。それにしても、みんなで『愛の賛歌』とは。笑いますね。男子校ですよ。
ほんの雑談でしたが、これで特別講義はおしまいです。鼻歌とともにフェイドアウトしましょう。皆様、さようなら。ご機嫌よう。
2008年03月20日(木曜日)
【HR】 SDのフィギュア
昨日に続いて雨だったが、お昼過ぎに上がった。今日は春分。パスカルが散歩で沢山歩いた。雨が降ると、草が元気良く出てくる。雑草も多い。なにもないときは、雑草でも緑だからと放っておくけれど、本命が出てくると、雑草は抜かれてしまう。
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「カクレカラクリ」のゲラは70%まで。「D&D」は2回分書いて、あと2つ。
既に方々で書かれているので、公開して良いだろう。昨年からの極秘プロジェクトの1つは、Wiiのゲーム「スカイ・クロラ」だった。昨年、既にシナリオもコントロール系も出来上がっていて、実際に操縦もさせてもらった。非常に良いフィーリングだった。インメルマン・ターンを試してみたくなるだろう。また、シナリオについて説明を受けたときも、「よく考えられましたね」という感想を述べたくらい。その後もシナリオのチェックや、ほかにもちょっとした協力をしている。完成したら、存分に遊びたい。楽しみだ。
フィギュアのピンキーも楽しみ。プロダクションI.Gの製作現場にSD(ショート・デフォルメ)のキャラや、タマゴ型の散香のイラストがあったので、「これ良いですね!」と話した。散香のイラストの方は、DVDのオマケになっていた。
こういった頭でっかちのキャラが商品化されると、眉を顰める人がいるみたいだけれど、どうしてだろう? 不思議だ。僕はまったくOK。監督だって、たぶん同じだろう(嫌なら許可をしないはず)。僕の場合、どちらかというと、実写で人間が演じたときのギャップの方に抵抗があるし、シリアスな絵やフィギュアの方が、デフォルメしたキャラよりも、ちょっとしたギャップが目立ったとき不愉快さを感じる。それでも、もともとこういった映像化に際して「イメージが崩れる」なんてことは、ほとんど考えたことがない方だ。
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ガレージで工作を3時間ほどしていた。ガスバーナを使ったり、ドリルを使ったり。これだけ工具もあるし、材料もあるし、経験もそれなりに重ねてきたのに、それでもまだできないことが沢山ある。そういうできないことを回避して、どうにか作っている。何故できないのか、というと、工具がないか、材料がないか、技術がないからである。少しずつ、不可能を少なくしていきたい。不可能がなくなることが、つまり自由だと思う。
問い合わせが多いので、ここに書いておこう。毎年8月に行われているJAM国際鉄道模型コンベンションであるが、今年は欠伸軽便鉄道はブースを出さない(不参加)。
近況を書いたり、取材を受けたりするのも今年が最後なので、その後はもう皆さんの前に現れることはなくなるはず。ただし、ファン倶楽部関連のものは例外。ちなみに、ファン倶楽部は今年が10周年になるらしい。誠実な活動を続けていることに、僕は大変感謝をしている。したがって可能なかぎり誠意をもって応えたい。
【理科】 根源的な驚き
有栖川です。四日目は、理科を文系くさく語ってみましょう。
学校で色々な知識を得て、「ほお」とか「へえ」とか驚いたり感心したりしました。その中で最大のワンダーは何か、と考えているうちに、「あれかな」というものが浮かんできました。ワンダーは理科にあり。中学一年で習った原子や分子の構造です。
物質はすべて原子からできていることは、小学生の頃から知っていたはずです。が、理科の教科書であの図を見た時の「えっ」という感じは忘れられません。原子の結合を描いた分子のモデルです。パチンコ玉のようなのが短いバネで縦横につながって、小さく震えていました。「何これ?」です。
物質を繰り返し分割していけば、それ以上は分けられない究極の微粒子になる。私が抱いていた原子のイメージは、ただそれだけでした。だから、その原子が整然と結合して、細かく振動しているだなんて(何故震える?)、想像だにしなかったのです。
たちまちモノを見る目が変わってしまいました。自分の手や机を撫でさすっては、「これも振動する原子の固まりなのか」と不思議がり、家に帰ってコップでジュースを飲もうとしては、「こいつは原子の結びつきが弱いから液体の状態をとっているのか。だからコップを傾けると、原子がずるずる動いて水面が斜めになるのか」と瞠目する始末。「知らんかったあ!」です。目に映るものすべてが、真新しく見えましたね。社会の授業で共産主義とは何かを教わった時も知的興奮を覚えましたが、原子の秘密に触れた時ほどのインパクトはありませんでした。
中学校では、原子核のまわりを電子が回っているかのように聞きましたが、その後、電子は観測不能の状態で確率的に存在していることを知って驚き、原子核がさらに分割されることを知って驚きます。何故、正負の電荷を帯びた原子核と電子は引き合わないのでしょうね。また、原子核の大きさを一センチとすると電子は一ミリで、原子そのものの大きさは百メートルだと聞き、だったら何もかもスカスカではないか、と驚愕して……現在に至っています。
万物の根源はそれより小さく分割できないもの=アトモスである、という仮説は、紀元前五世紀からギリシャの科学者によって唱えられていました。もちろん、アトモスを観測するなんて不可能でしたから、直観だけで真実に到達していたわけですね。人間の想像力に対して、畏敬の念を覚えてしまいます。
しかし、見方を変えると、世界の姿は人間の直観が及ぶ範囲内なのかもしれず、万物が「ある」理由も、すでに私たちは知っているのかもしれません。
2008年03月19日(水曜日)
【HR】 みんなが王様
天気予報のとおり、午前中は曇、午後から雨。
小説の仕事を朝方に。「カクレカラクリ」のゲラは60%まで。「D&D」は4月分の5編を書き始める。まずは何を書くかを決めた。これが一番の仕事である。ついでに1編だけ書き上げた。それから、スバル氏とダイエーへ買いものに出かけた。ダイエーはたまに行くのだが、「なんとかの市(これがいろいろある)」にぶつかると、「あぁあ」と残念に思う方だ。人混みが嫌いだから。今日はなにもなくて空いていてグッド。
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午後は、工作室で軽工作をする。昨日、重工作が一段落したため。3時間ほどで完成できる簡単なものを作った。面白かった。夜は機関車をまた少しいじる。雨で庭仕事がない分、時間が多い。
パスカルは雨の中へ散歩に出かけるため、ラガーシャツを着て、もの凄く不機嫌な顔をしていた。着痩せするタイプだ。
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昨日、車にガソリンを入れたのだが、4月になるまで待てば、数百円得をする可能性があるから、この際、半月くらい乗る車を変えて、今日はミニで出かけようか、とも考えたのだけれど、スバル氏にそれを話したら、「そんな数百円のことで」と鼻で笑われたのでやめた。
しかし今日、彼女はスーパでハーゲンダッツのアイスを3個も買っているのだ。「どうしてそんなに買うの?」と尋ねたら、「もうすぐ値上げだから」と言う。そんなの数十円のことじゃないか、と思ったけれど、黙っていた。
このまえも、インテリアショップで見た2万円の時計が気に入ったのだけれど、既に時計はあるわけだから、どうも今ひとつ買う気になれなかった。スイスで1万円で買ったスウォッチをずっと使っていて、つい先日も自分で電池を入れ替えたばかりだ。電池がなかなか手に入らなかったので、スバル氏から「この際だから新しいのを買いなよ」と言われたが、もったいないと思う。鞄も毎日使っているものは、もう10年くらい使い続けていて、すり切れて変色しているほどだ。でも、便利だし。
つまり、生活の役に立つものには、お金をかけることを渋るのが、僕の特徴らしい。生活の役に立たないものになると、いくらつぎ込んでも抵抗を感じない。「生きることに関係がないのに欲しい」という純粋さを、自分で勝手に評価しているのである。そんな気がする。
しかし、だんだん世の中、そういうものが増えているのだ。音楽も映画もファッションも、生きること(生命活動)には直接関係がない。生きることから、どんどん遠ざかっているといっても良い。みんなが王様になったみたいだ。
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明日も雨らしい。こうしてみると、良いときに飛行機で遊んだ。
「言っていることと行動が一致しない?」「一致する人間っているの?」と外と内の声。王様って、そういうタイプでは?
【社会】 チャップリンと綿菓子
有栖川です。三日目も私が好きな社会の特別講義をいたします。
昨日は地理だったので、今日は歴史について。いきなりですが、まず答えていただきましょう。
設問・次の××××に適当な文字を入れよ。
七九四(なくよ)××××平安京
真剣に「ウグイス!」と答えた方、すみません。これは私が好きなギャグでした。
ある事件が西暦何年か答えよ、という問題はあまりにもチープなので、実際のテストではそう出題されないようです。しかし、歴史では事件の前後関係を認識しているかどうか試す問題が頻出しますから、キーになる年号は覚えておくに越したことはありません。
記憶術の第一人者に渡辺剛彰という先生がいました(故人)。私は高校時代にこの先生の本を読み、年号がすらすら暗記できるようになったのです。小文をお読みの方の中にも、同じ本を使った人がいるかもしれません。
効きますよ。今でも「俺、なんでこんな年号をまだ覚えてるねん」と思いますから。たとえば、徳川家康が一里塚築造の指令を発したのは一六〇四年です。ほら、つまらないことを記憶に留めているでしょ。
渡辺式記憶術では、「チャップリンが一里塚で綿菓子を作った」と覚えます。どういうことか、ご説明しましょう。チャップリンは「チ」で始まります。これは五十音で十七番目なので、十七世紀=一六〇〇年代を表します。「綿菓子」の「わ・た」は、ワ行とタ行の音なので、五十音表の十行目と四行目。だから〇と四を表す。一六〇〇と合体させると、一六〇四という数字ができあがり、それは何かというと「一里塚」に関係している。よって「一六〇四年、一里塚設置」となるわけです。
「そんなことで覚えられるか?」と思われるかもしれませんが、すぐに慣れます。そして、手法さえマスターすれば、いくらでも類例が作れます。何世紀かを示す記号をお気に入りのキャラクターにすると愉快。たとえば、「犀川創平が屈辱を受けてママに泣きついた(メモを取り上げられて屈辱を味わった、などでも可)=一〇七七年カノッサの屈辱。その際、「えー、あの犀川先生が!」という奇抜なイメージの方がいい。
歴史の本質とは関係のない話になってしまいましたが、皆さんのお役に立ったり、話のタネになったりしたなら幸いです。
ところで、どうしょう。あなたの頭にチャップリンが登場するシュールな光景が刷り込まれたのではありませんか? 私のチャップリンは、もう三十年近く一里塚で綿菓子を作り続けています。
2008年03月18日(火曜日)
【HR】 生温い業界
連続で、今日も飛行機を飛ばしにいく。昨日よりも少し風があって、むしろ操縦は面白かった。友人がオートジャイロを持ってきていたので、途中で少し操縦をさせてもらったけれど、普通の飛行機とほとんど同じ感覚だった。ただ、姿勢がわかりづらい。のんきで長閑な話をしてきた。花粉が凄いので、ずっとマスクをしている。
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お昼過ぎに戻り、今度はスバル氏と繁華街へ出かける。彼女は古着を見るため。僕は、パーツの買い出し。といっても、スイッチや電池ボックスくらいで、大したものではない。スバル氏と合流してからハンバーガを買って、公園で食べた。本当に暖かい。
昨夜、突然20年くらいまえの出来事を思い出し、今考えると、あれは自分が悪かったな、と反省をしたので、今日それをスバル氏に謝ったら、彼女もしっかり覚えていて、けっこう本気で腹を立てていた。昔の自分にたちまち感情移入できるようだ。
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昨日、出版社の人たちとおしゃべりしていたとき、僕が言ったこと。
1)どうして、同じ文庫でカバーだけ掛け替えて、複数の出版社から同じ本を出すような方式がないのか。あるいは、同一作家の文庫は、どの出版社でも同じデザインにすべきではないのか。どういう理由で出版社別のラベルにそんなに拘るのか? (といって、僕自身はべつに不満は全然ない。将来的な問題として)
2)小説もエッセィも、原稿料が同じなのがおかしい。小説でも、長編、短編、ショートショートの区別なく、原稿用紙の枚数で原稿料が決まっているのは変ではないか? (といって、僕はべつに不満はない。もうどうだって良い)
たとえば、各方面から「書いて下さい」という熱心な依頼を受け続けてきたが、この10年で一度として「当社は原稿料を高くできます」「印税のパーセンテージを上げられます」と提案してきたところはなかった。そういう概念が、そもそも出版社にはないのだ。なんというジェントルで生温い業界だろうか、と初めは思った。
電子出版がこれから爆発的に普及して、ついには出版社や書籍の流通システムが不要になる時代が来る(たぶん10〜20年以内に)、ということをまだ本気にしていないみたいだ。
アメリカでは脚本家がストライキをしたが、日本も、現在の電子出版の印税15%は絶対に低すぎる。まだ数が少ないから問題になっていないだけだ。またシステム立ち上げにイニシャルコストがかかるから、現在はしかたがないにしても、少なくともこの倍にはしておかないと、出版社は作家に逃げられるだろう。人気のある作家ほど印税を上げる必要がある。作家が自分でネット配信したら100%が収入になるのだから。
「小説とエッセィと、どちらをお書きになりたいのですか?」という質問を受けた。うーん、どちらもべつに書きたいとは思わない。これまでも、書きたいから書いていたわけではないし、趣味でもない。きっと、書きたい人が書き、本を作りたい人が作っている、というのがこの世界の常識で、書ければ幸せ、本が出れば嬉しい、そういう趣味の世界だったのだ。大変居心地は良いけれど、遠からず破綻するだろう、少なくともビジネスとしては。
【社会】 『日本沈没』の楽しみ方
有栖川です。二日目は社会。
学生時代、私が最も好きだった科目です。特に小中学校の頃は、地図好きのせいもあって地理が大のお気に入りでした。全国各地の山だの川だの特産物だのを聞くだけで、日本中を旅行している気分になって、わくわくしたものです。中学校になると学習範囲がワールドワイドに広がり、世界旅行になったのでなおさら楽しめました。
そんな私が中学二年の時、ある本が爆発的なベストセラーになりました。小松左京の『日本沈没』です。おそらくわが国で最もよく読まれた長編SFでしょう。私は、この小説が大好きでした。今でもたまに手に取り、拾い読みをすることがあります。
ご存じのとおり、未曾有の地殻変動によって日本列島が海面下に没してしまう、というお話です。SFの巨匠は、当時最先端だった科学知識を動員し(もちろん小説的に誇張が施されていますが)、もっともらしく日本を沈めました。地学や物理学の知識がない者には「なんとなく判る」という程度しか理解できない説明でしたが、それでも充分面白かった。
もとよりこの作品は、科学知識を駆使したハードSFというより、その形式を借りて日本民族の有り様を考察した全体小説です。その意味から、人文社会学的な興味があふれているのですが、十四歳の少年には深く読みきれない。ただ、少し変わった読み方をしていました。
『日本沈没』ほど、たくさんの地名が出てくる小説はまれでしょう。どこでどんな異常が観測され、どこで地震や噴火が起き、どこからどんなふうに沈んでいくのか、という破滅の経過が克明に描かれているからです。同書がお手元にあったら、ちょっと開いてみてください。地名、地名、地名のオンパレード。私は、地図帳と首っぴきで読み進んだほどです。
二〇〇六年に『日本沈没』は再映画化されました。もちろん、観ています。その中で、豊川悦司扮する田所博士はカタストロフを予見して悲痛な叫びをあげます。
「プレートの断裂は北海道の南部から始まる。九州の出水断層帯も危ない。阿蘇が噴火するだろう。四国から紀伊半島に連なる中央構造線が裂けて南側は沈んでいく。日本の活断層はそのエネルギーに耐え切れず次々に割れていく。本州中央部の糸魚川静岡間のフォッサマグナが裂け始めたら、その時はもうおしまいだ。富士山の大噴火とともに、日本は一気呵成に沈んでいく」
うーん、耳に心地よい。
私、これを一度聞いただけでほぼ正確に暗記し、家でよく物真似をしていました。それぐらいの沈没ファンです。地理好きにとって、あの小説はまたとないご馳走なのです。
2008年03月17日(月曜日)
【HR】 基本方針の重視
暖かい日が続いている。特に今日は風がない、ということを前日に予測し、朝早起きをして、飛行機を車に積んで出かけた。飛行場までは1時間半ほど。もの凄い晴天で、花粉以外は完璧な飛行日和。三葉の古典機を2回フライトした。ふわふわと飛んで、ローパスが素晴らしかった。気持ちが良い。疲れないうちに早々に引き上げて帰宅したら、まだ午前中だった。
「カクレカラクリ」のゲラを45%まで見た。ほとんど直すところがない。順調。
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スバル氏がまた花を買ってきた。しかし、まだまだ植える場所がある。今度はこの辺を花壇にしよう、という話をした。春になるとそういう話題に突然なる。でも、結局は立派になっている植物はすべて何年もまえに植えたもので、その何倍もが枯れて消えていった。弱肉強食である。暖かくなって、みるみる育っているものを眺めていると、枯れたもののことなど思い出せない。朝と夕方で大きさが違うのがわかるくらい成長するから、三脚にデジカメをセットし、インターバルを置いてシャッタを切り、あとでそれが動画として見られる、という機種があったら良いな、と思った。ビデオカメラならあるだろうか。
午後は角川の人が3人来宅。「野性時代」で担当だったK子氏は既に異動になっている(しかし、連載が終わるまでは担当をしてもらった)。「どきどき〜」のゲラを取りにきてくれたのだ。もう小説の連載はしないし、長編も何をどこに書くのかは決めている、という話をした。
夕方は庭仕事。掃除をしたり、土いじりをしたり、水やりをしたり。パスカルもずっと一緒。金属工作も2時間ほどできた。今はずっと真鍮が相手。
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佐藤氏からいただいたポンプを機関車に取り付ける段取りをしている(考えているだけだが)。どの位置に、どのような方法で取り付け、また配管をどうするか、という図面を頭の中で描いた。昨日と今日で、だいたいまとまってきた。
そういった基本方針が決まると、次はどんな部品が必要か、という詳細計画になる。手持ちの部品がある場合には、それを活かすために、基本設計を変更することもある。昔はこれが多かった。でも、最近は基本方針をできるだけ変えないで進めることにしている。部品や材料を惜しみなく買える大人になったからだ。
また、工作過程を思い描き、工事の段取りをするわけだが、このときも、もっと簡単にできないか、と考えて基本方針を変更することが多かった。これについても最近は反省をして、基本方針を重視し、少々面倒でも最初に決めたものを目指すことにしている。時間を惜しみなく使える大人になったからだろう。ようするに、若いときよりは柔軟性を排除し、頑なになったわけだ。結局は、その方が満足できるものになる、とわかってきたこともある。
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本日より、特別講義。講師は、有栖川有栖氏。デビューしたばかりの頃、京都で最初にお会いし、また、「メフィスト」で対談をしたこともあった(星新一がテーマだった)。どうかよろしくお願いします。
【国語】 言葉の出入り
有栖川有栖です。お招きいただき、モリログにお邪魔します。五日間、どうかお付き合いください。
初日は国語にしました。テーマは言葉の出入りについて。出入りというのは、新しい言葉が生まれたり、古くなった言葉が消えていったりすることです。森博嗣さんと私には、「助教授」を探偵役にしたシリーズを書いている、という共通点がありますが、この「助教授」が学校教育法の改定に伴って、あれよあれよという間に「准教授」に変わってしまいました。言葉に出入りが生じたわけです。
言葉は生き物ですから、新陳代謝は必然です。しかし、世の中には意図して「自分が新しい言葉を創ってやろう」と考える人がいます。自然科学で新しい事実や知見が見出された場合、発見者・発案者による名づけが行なわれるのは当然のことです。が、社会科学や人文科学の場合は、そうとは限らない。生煮えの仮説を提示した上で「私はこれを×××と呼んでいる」なんていうのを聞くと、「いい気なもんだ」と鼻白んでしまいます。本人は「このタームが流行ったらいいな。定着するとすごいなと」思っているのでしょうけれど。
本当に「いい気」になれるかどうか試してみましょう。マスコミを通じて広まり、ある程度の期間、新語として流布しそうな言葉を二つ考えました。
その一。安全性を欠いた工業製品や農産物を輸出したり、毒性を帯びた黄砂を撒き散らしたり、資源を確保するため他国(たとえばスーダン)の政情を混乱させたり、このところ中国発のトラブルが増えています。中国政府の責に負うものもあれば、大きな国が急速に発展することで生じる悩ましさもあるでしょう。それやこれやをひっくるめて、「私はこれをチャイナ・ハザードと呼んでいる」。
その二。人口減少社会に突入したというのに、まだ「道路や橋を作ってくれ」「空港や新幹線を」と求める声があります(無論、中には必要なものもあるでしょうが)。利用者も税収も減少することが目に見えているのに。そのうち「新しいものはいらないから、せめて今の道路を維持させてくれ」となりそう。そんな事態が予想されるので、言葉を用意しておきましょう。「私はこれを維持苦と呼んでいる」。
……実際に流行らないと、いい気にはなれませんね。
そうそう。国際化が進み、海外からの移民の子供たちの増加が見込まれていますが、教育の現場では、言語の問題をどう解消するかがすでに課題となっています。ある言葉の出入りが避けられないでしょう。将来、「国語」の授業の呼び名は「日本語」に改められると思います。
2008年03月16日(日曜日)
【HR】 工作的経験
暖かい日曜日。ぽかぽか。車も窓を開けて走る。パスカルを連れてホームセンタへ。また苗を50くらい購入。だいたい毎年この時期は、草花にかかる費用が食費の数倍になる。団子より花。
帰ってから、スバル氏と2人でせっせと植えた。リシマキアがあちらこちらで新しい葉を出しているのを発見した。これはもう枯れているだろう、という茎からちゃんと芽が出てくるから凄い。植物は動物に比べるとはるかにしぶとい。パスカルは果敢に水遊び。
午後はのんびりと金属工作。工作室でコーヒーを飲みながら、次の段取りを考えるのが楽しい。
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先日、「アウトプットをしてみては」という文章を書いたところ、沢山メールをいただいた。少し補足しておきたい。アウトプットというのは、自分の内側から外側に出す行為であるが、僕の場合、必ずしも「他人に見せるもの」とは認識していない。自分だけのためのアウトプットというものがある。自分のためだけなら、アウトプットしなくても頭の中にあるままで充分ではないのか、と思われるかもしれないが、そこが少し違う。
たとえ話をしよう。なにかの設計をする。頭の中で考える。自分の理解のために図面を引く。この図面はアウトプットだ。人に見せるわけではない。また、たとえそれを実際に製作しても、誰にも見せず、自分だけで確かめることがある。これも立派なアウトプットだ。図面を描いて初めてわかることもあれば、実際に作ってみてわかることも非常に多い。
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話題は変わるが、何故作ってみないとわからないのか? これは1つには未熟だからである。
こうした製作の経験を重ねると、図面を描かなくても良くなるし、また実物を作らなくても良い、なんて境地に達する可能性はある(僕は経験がないが)。それはそれで素晴らしいことだと思う。僕の尊敬するモデラの平岡幸三氏は、1台の機関車の作り方の詳細図と解説を1冊の本として出版されている。もう何冊か出ている。それを見て、世界中で何百人(何千人かも)という人が、その機関車を作っている。しかし驚くべきことに、平岡氏は、この頃ではご自身ではその機関車を作られないのだ。作らないのに、それだけの詳細図が描ける、ということが超人的といえる。最初からそうだったのではなく、以前は作られていた。そうした経験を重ねたのちに達することができる領域なのだろう。そのモデルを実際に製作した誰よりも、平岡氏ご本人は、設計の過程で工作を楽しまれたことはまちがいない。
もちろんこの場合も、図面はアウトプットされている。図面を描かないでもすべてを思い描ける頭脳を持っている人もいるだろう。この場合、思い描くことが既にアウトプットである。
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ものを作り上げるときの最大の難関は、作り始めること。最初の第一歩である。しかし、もし作ることでなにかが得られるとしたら、それは完成したときが最も大きいようだ。小説でも同じで、最後まで書き上げ、もう直すことがない、作者の手を離れる、というときに、作者は初めて一歩前進すると思う。作ったものから手を離す経験こそが重要だし、こうするしか「完成」という現象を観察できない。
人に見せるということは、この「完成」というものが見やすくなるだけのことであって、それ以外にはあまり意味はない。
人と対話するために作るのではない。人がなんと言おうと気にならない。なにしろ、それを作った経験は、自分しかしていないのであって、他人から指摘されることなんて、製作中に自身が感じたことに比べれば無視できるほど微々たるものだろう。褒められたいから作る、認められたいから作る、というのは、動くものを作る、役に立つものを作る、と同じように、要求される条件あるいは機能の1つにすぎない。
【算数】 システム家具
ホームセンタなどによくある商品で、パーツを自由に組み立てて、自分の好きな形の家具が作れる、というものがある。「システム〜」という名前がつくことが多い。いろいろな種類があるけれど、たとえば、パイプを組み合わせるものを例に挙げて考えてみよう。
長さが30cmのパイプが1本300円だ。実際には298円などが普通だけれど、ようするに数学的には300円と近似しても問題ない(2円くらいで「お、安い!」と思う人は、数学的でない)。直角に3本が交わるコーナの金具は少し高くて400円だ。それから、30cm×30cmの正方形の板が1枚500円。これを取り付けるための金具が1個で50円で、板1枚につき各辺に(合計4つ)必要だ。
この場合、たとえば、30cm立方のサイコロの箱を作ろうとすると、パイプは12本、コーナは8個、板は5枚、金具は20個が必要になるから、計算すると、300×12+400×8+500×5+50×20=3600+3200+2500+1000=10300円になる。1万円では作れない。意外に高い。
このサイコロが3段重なった棚を作ろうとすると、一見3倍かかりそうだが、そんなことはない。パイプは28本、コーナは16個(半数は4本節点だが)、板は13枚、金具は52個なので、計算すると合計23900円になる。2倍ちょっとだから、なんだか割安に感じる。ちなみに、パイプが298円なら56円安くなる。パーツが全部2円安いと……、なんて考えても、影響はほとんどない(当たり前だが)。
森博嗣らしくもう少しディテールを書くと、是非キャスタを付けたいところだが、これがやけに高かったりする。「こんなの、普通の洒落た家具が買える値段ではないか!」と思えるのである。
結婚した頃、電話をのせる台をこれで自作して、「え! これが12000円!」とスバル氏を驚かせた経験があるので語ってみました。
2008年03月15日(土曜日)
【HR】 頭の良い悪い
晴れ渡った。気温も19℃まで上昇。昨日の雨のおかげか、あちこちで新しい緑が広がっている。
「スカイ・イクリプス」第8話の手直しが終了。編集部へまとめて発送した。非常に珍しいことだが、yorimoに連載していたときと、引用文を変更することにした。こんなに長期間かけて作品を書いた経験がないためだろう。書いているうちに、当初の予想と若干違う空気になったため、バックグラウンドミュージックを変更する、というような感じ。「カクレカラクリ」のゲラは30%まで見た。今年の最初の大仕事が終わったので、明日はオフにしよう。
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庭で少しだけ機関車を走らせたが、遊ぶよりも作りたい、と思う。これは、飛行機で特に感じる。天気の良い日は、つい飛ばしにいきたくなるけれど、結局は工作をしている方が楽しいのだ、とあとになってわかる。せっかくの天気だから「遊ばないと損だ」という気持ちがあるわけだが、これはやはり間違っている。せっかく旅行で遠くへ来たのだから、観光スポットを回らなくては損だ、みたいなのも同じだろう。珍しいシチュエーションになると、つい「今しなければ」という強迫観念に襲われるのが人情である。仕事じゃないのだから、そんなにチャンスをものにして「得」を稼ぐ必要などどこにもないのだ。
工作室で3時間ほど過ごした。相変わらずの作業。実に面白い。今日は、大阪の佐藤氏から新しい装置が届いた。機関車のポンプだ。これを取り付ける工作を、明後日くらいから始めよう、と思う。
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僕は、「頭が良い」という表現をわりと使う方だ。これは、どういうことを示すのか、と少し考えてみた。というのも、「目が良い」のように数値として簡単に表すことができない。実は、「目が良い」も、視力だけの問題ではないので、簡単には表現できないのだが、「頭が良い」はさらに複雑だ。たとえば、テストをして点数を出しても、そんなことで評価・比較ができるとはとうてい思えない。
それから、僕の場合、「頭が良い」というのは、他人と比較して使うよりも、自分に対して、たとえば「ああ、今日は、ちょっと頭が良いかな」というように用いる。これは「体調が良い」に似ている。たとえば、「この頃、頭が悪くなってねぇ」みたいな感じだ。
「足が良い」という言葉はない。「足が速い」ならある。だから、「頭の回転が速い」は、これに似ているだろう。でも、「速い」ことなんて、大した能力とは思えない。それだけを評価する競技があれば、人と競うことが可能だけれど、それでプロになって食べていけるわけでもない。たとえば、「足が速い」人だって、日本で一番速いくらいのレベルにならないと、プロになれない。しかも、すぐに衰えてしまうから、一生それで身を立てることも難しい。
つまり、何がいいたいのかというと、「頭が良い」というのは、そのときその場における一時的な状態を表現したものだと思うし、その人間の能力だとしても、せいぜい「顔が良い」くらいの感じで、「個性」や「好み」があり、また「相性」があるものだ。子供のとき、若いとき、歳をとってから、と常に変化もするだろう。
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「私は頭が悪いから〜」と口にする人がけっこういるけれど、そのわりに「私は顔が悪いから〜」というのはあまり聞かない。何故だろう? 見たらわかるから?
小さい頃に「お前は頭が悪いな」と言われて、そう思い込んでいる人も多いかも。たぶん、顔のように鏡で見ることができないから、そう思い込んだままなのだ。もし本当にそのとき一時的に悪いことがあったとしても、絶対にそのままということはない。そう思い込んでいることこそ、一番頭が悪い部分では?
【図工】 キャスト
castというのは、鋳造(ちゅうぞう)のことで、溶かした金属を、鋳型(いがた)に流し込み、冷えて固まってから取り出し、目的の形を得る。金属の加工の中では、切削よりは簡単であり、古来多くのものがこの方法で作られた。できたものは、鋳物(いもの)と呼ばれている。鋳物は、最初は木材などで目的の形を作り、それを細かい砂に当てて型を取る。そこへ溶けた金属を流し込んで作る。見たことはあるけれど、残念ながら自分でやったことはない。
金属以外でも、たとえば、石膏やコンクリートなど、化学反応によって硬化するものを、液体のうちに流し込む。これも、キャストという。この場合は「鋳造」という表現は抵抗があって、日本語に適当な言葉がない。「型に流し込んでその形を作る」としかいえない。コンクリートでは、castは「打設」や「打ち込み」と訳す。最近では、レジン系の材料も流し入れる素材として用いられる。
金属のおもちゃ(特に、ロボットやミニカーなど)に、ダイキャスト(ダイカストとも)というものがある。die-castは、アルミなどを融解し、鋳造時に圧力をかける方法で、押し込むことによって精度の高い仕上がりになる。したがって、鋳造後に仕上げの切削や研磨をしなくても(まあまあ)使える、ということで大量生産に多用される。仕上げをしないことが大幅なコスト削減になるわけだが、そこがやや「安っぽく」見える部分ともいえる。しかし、僕が子供の頃に比べたら、最近のダイキャスト製品の精巧さといったら、本当に凄まじいレベルだと感心する。
自分で鋳造をするならば、比較的低い温度で融解するアルミなどを用いるのが簡単だ。ただ、問題は型を作ること。高熱にならない材料はその点簡単で、硬化するゴムやシリコンで型を取り、そこへ流し込んで同じ形のものを量産することができる。
僕の研究室では10年ほどまえに、1つのウルトラマンの貯金箱からシリコンで型を取り、その型にモルタルを流し込んで、20個ほどモルタル製ウルトラマンを量産したことがある。実際にやってみると、泡が入って不充填部ができてしまったり、型から外すときに欠けてしまったり、けっこう技術的に難しい。
2008年03月14日(金曜日)
【HR】 感情移入の必要
朝から大雨。お昼頃が一番降ったかな。夕方には一度止んだけど、夜も雨。庭の緑が増すだろう。今日も、パスカルは「たっち」ができた。
「スカイ・イクリプス」第8話の手直しを50%。「カクレカラクリ」のゲラは20%まで。
午前中は、インテリアショップへスバル氏と出かけていく。イラストを飾るための額を2つ買ってきた。1つは、先月発行になった「森博嗣の道具箱」で解説をいただいた平岡幸三氏が描かれたもの。この解説にのために描き下ろされた原画をいただいたのだ。もう1つは、萩尾望都先生のイラスト。実は、カラーの原画を1枚秘蔵しているので、ついにこれを飾ろうと決心した。今までずっと隠し持ってきた宝物だ。「ポーの一族」の頃のもので、公開する(人に見せる)つもりは全然ない(笑)。
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お昼過ぎに、中央公論新社のW辺氏とN倉氏が来宅。「スカイ・クロラ」関連の企画について、沢山話を聞いた。近づいてくれば、嫌でも露出するだろう。しかし、企画があまりに沢山ありすぎて、たとえば、コアなファンの人が関連グッズをコンプリートしようとしても、不可能ではないか、と思えるほどだ。押井氏が強く推していた実物大の散香の企画も、まだ完全には立ち消えていないらしい。是非実現してほしい(声援)。
中公が計画している最初のムック本は5/25の発行になる見込みで「スカイ・クロラ オフィシャルガイド Surface」というらしい。発行が遅くなったから少し時間的に楽になる。京極氏との対談のゲラもまだこれからだ。
このまえ書いた6月に出る特別バージョン、これが入る箱のプロトタイプも見せてもらった。その箱に、「スカイ・イクリプス」か「スカイ・クロラ」のいずれか1冊が入り、さらに飛行機のダイキャスト・モデルが入ったセットになるわけだが、この飛行機を取り出すと、ちょうどシリーズ全巻が綺麗に箱に収まるようにできている。なかなかのアイデア。箱のデザインは、もちろん鈴木成一氏で、買った人にだけわかる、「おお」と唸りたくなるもの。
写真はまもなく発売される公式ガイドDVD。
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思い出話。「スカイ・クロラ」を書いたときは、もの凄くエネルギィを消耗した。この作品が、それまでで最も書くのが大変だった。あまりに大変だったので、シリーズの他編をすぐに書けなかった。
僕は、読者は作品に感情移入する必要は必ずしもない、と考えている。世の中には、感情移入できる作品と、できない作品がある。感情移入できるものが優れているわけではない。感情移入を拒む作品でも、読む価値があるものは非常に多い。僕は、小説にかぎらず、どちらかというと、感情移入できない作品の方が好きだ。
しかし、それを書く立場になると、作者は感情移入しなければならない、と僕は考えている。ならない、というよりは、そうしなければ書けないだろう、と感じる。作者というものは、そういうものだ。だから、いかに感情移入を拒む作品であっても、作者は感情移入して書かなければリアリティ(あるいは説得力)を帯びない。
普段の自分であれば受けつけないような人格でも、その人間を動かそうと思ったら、その心理の中心へ、自分を持っていく必要がある、ということ。これは、大変危険な行為かもしれないな、とときどき思う。
けれど、仕事って、どんなものでも、ある程度のリスクを伴うものだし、「身を削って」働くから身銭になるのだし……。
【社会】 予見どおりになる社会
僕が社会人になった頃は、まだ会社を辞めることはかなり特別なことだった。それ以前は、一度勤めた会社に「骨を埋める」ことが一般的であり、会社も社員も、それを当たり前のことだと認識していた。けれど、だんだん転職が一般的になり、会社を辞めることに対する抵抗が、社会的にも小さくなった。20年くらいまえの好景気の時代には、それが美化されたりしたし、いよいよ日本も欧米並みに実力主義になった、ともてはやされたように思う。大学の推薦で就職した学生が、会社を簡単に辞めてきたり、一度就職した卒業生が大学院に入り直す、といった例も増えた。転職も離婚も、あっという間に市民権を得た感じだ(表現が不適切)。
人を使う立場から見ると、単なる「労働力」であれば、誰でも同じであり、人が変わっても問題はない。むしろ、新しくなった方が都合が良かったり、バイトの人間の方がリスクがない、という利点は大きい。一方で、仕事はそういった「労働」ばかりではない。人はノウハウを蓄積する器だ。文字どおり「人を育てる」ことが仕事のうちでもあり、これを無視するわけにはいかない。
安い賃金の労働力が得られることと、ノウハウを持った人間が高い賃金を求めて逃げていくこと。この2つが、完全に定着したのが、その後の20年間だったと思う。トータルとして、安いものが作れるようになったけれど、ノウハウが蓄積しにくく、企業の技術力は衰えたかに見える。ワーキングプアなど、心配されたことも、予想どおり顕在化している。
予想されているのに、手を打たなかったところは、「でも、そのときはしかたがなかった」「いずれなんとか好転するだろう、と思った」と語る。僕が見るかぎり、社会の問題というのは、起こって初めて気づく、というようなものはほとんどなく、必ず何年もまえにそうなることが予見されている。少数の人が予兆から未来を予測して警告する。大多数は「今と過去」しか見ていないので、警告は聞き入れられず、したがって予見のとおりになる。
2008年03月13日(木曜日)
【HR】 いかに書かないか
晴れているし、暖かいのだが、どんよりと空気が霞んでいる。スバル氏は「私には花粉が見える」とおっしゃっている。パスカルは再び「たっち」ができるようになった。気が散るとできないみたいだ。
いつもより1時間早く起床。そろそろ生活時間を1時間ずらしても良いかも。スプリング・タイムである。朝から小説の仕事を片づける。「スカイ・イクリプス」第7話の手直しをした。2日かけるつもりだったが、終わってしまった。続けて、第8話の手直しを明日から。「カクレカラクリ」のゲラを読み始めて、10%まで。講談社は、数年まえにDTPを採用してから、ゲラの完成度が一気に高くなり、見るのが大変楽になった。中央公論新社はもっとまえから、DTPだった。表記の統一や、検索・置換を気軽に依頼できる。作家側の労力軽減は計り知れない。
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4月、5月、6月は、小説の新刊が続く。「工学部・水柿助教授の解脱」、「銀河不動産の超越」、「スカイ・イクリプス」である。その間にも、4月は文庫化が2冊、5月はノベルス化が1冊、6月には文庫が1冊、という小説ラッシュ。もちろん、そのあとも毎月2冊以上の発行が10月まで続く予定だから「ゆーほどでもない」。
しかし忙しいはずである。でも、今年出るもので、まだ書いていないのは、9月刊の講談社ノベルスだけ。これは4月に書く予定。
スバル氏と園芸店へ。ここで苗を60くらい買った。それ以上になると、車まで2人で運べなかったからだ。書店に行き、スーパにも寄ってから帰宅。すぐに苗を全部植えた。明日、雨が降りそうなので今日のうちに、と考えてのこと。
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小説を書いているとき、2種類の状態がある。
1つは、浮かんだイメージがシンプルすぎて、たちまち文章になってしまうけれど、文字として少ない、このままでは読み飛ばされてしまう、だから、なんとか書くことを見つけて、つまり「書き足して」、読み手を時間的に拘束する効果を狙おう、と考えるとき。
もう1つは、逆に浮かぶイメージがやや複雑で、逐一文章にすると長くなる。このままでは読み手の時間を奪い、スピードが失われる。だから、なんとか書かないで良いものを見つけて、文章を削っていく(実際には、書いてから消すのではなく、書かないようにする)とき。
いずれが多いかというと、僕の場合は圧倒的に後者である。書き足すようなことはまずなく、書くことを探すこともない。とにかく、意識せず、自然に書いていると長くなる。だから、いかに書くかなんて考えたことはなくて、いかに書かないかばかりを考えている。小説を書き始めた頃に、これに気づき、以来ずっと、どこまで削れるか、というチャレンジを続けている。
そして、たぶん最終的には、「なんだ、最初から書かなければ良いのか」と納得できるときが来るような気がする。
【理科】 プロペラ推進
プロペラで走るボートや車両の話を前回書いた。その続き。
スクリューで推進するボートと、プロペラで推進するボートがある。両者は、静止した水上において、同じ速度で走ることができる。では、水が流れていた場合はどうなるだろうか? たとえば川の流れに逆らって川上へ走るとき、どちらが速いか?
もし、川の流れがボートの(静止場における)速度と等しい場合、スクリューボートは、川上へ向かって走っても、川の流れと釣り合って、見かけ上静止してしまう(空気抵抗を無視)。では、プロペラボードはどうだろう?
次は、車で考えてみよう。ベルトコンベア(あるいは動く歩道)のように、車道が一定速度で反対側へ動いているとする。ここを普通の自動車が走ると、道の動きと釣り合えば、見かけ上静止してしまう。では、プロペラで推進する車の場合はどうだろう?
プロペラ推進の車は、車輪があるけれど、それは空回りするだけの機構である。この車輪の回転抵抗は極めて少ないと考えると、道が反対へ動いていても、車輪が空回りする回転数が増すだけだ。もし、この車輪の回転抵抗が完全に無視できるなら、車は浮いているのと同じ条件になり、道路の動きの影響を受けない。したがって、プロペラの風の力で通常と変わらない速度で前進することになる。ホバークラフトみたいに浮いているものは、水の流れにも、道の流れにも、影響を受けない。
車輪にも多少は回転の抵抗があるし、ボートの場合は水の抵抗がかなりある。しかし、そのボートの場合でも、川上へ走るときは、プロペラボートの方が速いはずである。また逆に、川下へ走るときは、スクリューのボートの方が速い(川の流れがプラスされる)。
同様に、風がもの凄く強いとき、地上から見て、飛行機が空中に停止することがある。実機では、風速が機体の失速速度より速くなることはまずない(そんな暴風の中ではフライトしない)が、模型飛行機ではよく観察され、特にグライダは失速速度が遅いので頻繁に停止(ホバリング)することがある。グライダはプロペラがないが、この場合は重力が推進力になっている。
最初の条件で、強い向かい風のとき、スクリューボートとプロペラボートはどちらが速いか、考えてみよう。
2008年03月12日(水曜日)
【HR】 ガーデニング日和
今日も朝からとても暖かかった。あっという間に「寒い」という感覚を忘れそうなくらい。
「スカイ〜」第8話は2500文字書いて終了。2編まとめて、手直しを4日ほどかけて行う予定。完成は16日頃か。「どきどき〜」のゲラも終了。それから、秘密プロジェクトのノルマも片づけた(この秘密プロジェクトについては、公表ができるのは10日後くらいになるかな)。引き続き、ゲラ読みは明日から「カクレカラクリ」に。来週はFM東京の「D&D」を書く予定。
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庭できゃんきゃんという悲鳴のような高い犬の声が聞こえる。これは、パスカルが水に飛びついて遊んでいるときの声だ。スバル氏がホースや如雨露を使うと、横から鼻を突っ込み、水を奪いにくる。僕ではあまりやらない。また、スバル氏が水をやっていても、僕がカメラを向けているときはやらない。したがって、写真がなかなか撮れないのだ。一瞬のチャンスでシャッタを切らなければならず、イリオモテヤマネコの撮影くらい困難を極める。プロジェクトX並みだ。
スバル氏とホームセンタへ。土を6袋と、苗を30近く買ってきた。帰ってきて、たちまち植えてしまった。草花は、毎年様子が違う。昨年と同じ場所に同じものが出てくるわけではない。毎年、何が繁栄するのか、という楽しみがあるけれど、なかなか期待どおりになってくれない。ただ、いえるのは、人間が植えたものよりも、自然に生えてきたものの方が「様になる」こと。格好が良い。さすがに「自然」なのである。こうしてみると、毎年同じものが生えてくる畑や田というものが、いかに不自然で、人為的なものかがわかる。
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そろそろ、今年も1/5(20%)が終わった。もう夏休みくらいまでは、だいたい仕事のスケジュールを決めている。小説の仕事の大半はゲラを読む時間で、まったく楽しくない。これに比べると、執筆はまだいくらか面白い。ストーリィなど決めずに書くから、書いている本人が「おお、こんなふうになるのか」と驚きつつ進められる。スリリングだ。でも、今日で1つ終わってしまった。次の執筆は4月の予定。Gシリーズの第7弾になる。
新しいデジカメは調子が良い。たしかに手振れが少ないように思う。接写が優れているし。まだ動画は試していない。まえのは小さな画面の動画が撮れたが、今度はそのモードがないようだ。メモリが大きくなってしまうのが難点だけれど、まあ、そういう時代なのかな。
【算数】 球とボール
2006年の12/27に、「円錐と球を足すと円柱になる」という話を書いた(異様に反響があった)。覚えているだろうか。半径と高さが同じならば、円錐と球と円柱の体積比は1:2:3になる。今回も似た話かも……。
半球の形をしたボール(キッチンにある器)に水を満たす。その水の中にぎりぎり沈められる球がある。この球を沈めると、水が溢れてこぼれる。
もう少しわかりやすく書くと、球の半径がrならば、ボールの半径は2r。これで計算ができる。球の体積は、4πr3/3。半径が2倍のボールの容積は、球の8倍の半分(半球なので)だから、4倍である。つまり、16πr3/3だ。こぼれる水の量は、球の体積と同じだから、ボールの中に残っている水は、最初にあった量の3/4に相当する12πr3/3、すなわち4πr3となる。分母が消えてすっきりした。これは、ボールと同じ半径2rで、高さがrの円柱の体積に等しい。もちろん、球の3倍である。
もう1つ同じ球を入れると、こぼれる水の量がちょうど半分になるが、残念ながら球が物理的に水に入らない。そこで、大きさ(直径)が半分の球を(体積が同じになるよう)8個用意して、これらを水に沈めてみよう(中央に最初の球が1個あるところへ、小さい8個を加える)。さて、沈められるかな?
ミスリーディングし、予想外の方向へトリッキィに出題する例である。けっこう難しいと思う。いつものように、答は各自で噛み締めよう。メールと掲示板への書き込みは禁止。
2008年03月11日(火曜日)
【HR】 ようするに天の邪鬼
朝から出かける用事があって、3時間ほどで帰ってきた。もの凄く暖かい。
「スカイ〜」第8話は1500文字書いた。あと1日。「どきどき〜」のゲラは85%まで。契約書など、細かい処理を幾つか。スケジュール調整も若干。4月刊の「クレィドゥ・ザ・スカイ」文庫版は、解説を押井守氏にお願いしていた。その原稿が今日届き拝読。切れのある論理的な文章で素晴らしかった。感謝。再度書くが、この本で文庫もシリーズ5冊が出揃う。これまでのシンプルなデザインのカバーで4月に書店に並ぶが、6月頃には映画版のカバーに変わる。そのときは他の4冊もすべて映画版のカバーになる。また元の普通バージョンに戻るのは1年くらいあとらしい。したがって、これまでの4冊と同じカバーで文庫を揃えたい人は、最初の2カ月間に買うか、あるいは1年待っていただくことになる。ご注意を。
それから、もうすぐ書き終わる短編集「スカイ・イクリプス」は、6月に発行。このとき、特別版が出ることは既に書いたが、同時に「スカイ・クロラ」の特別版も出る模様。両者に付属するのは金属製の飛行機のフィギュアで、単体で発売されるものとはカラーリングが異なる(特別バージョンが2種ある、という意味)。ありがちなあざとさで困ったことだが(僕は困らないけれど)、誰かに迷惑をかけるものでもないし、あしからず。
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梯子をかけ屋根に上って、雨樋の落ち葉を回収した。パスカルが下で吠えていた。「怪しい人!」と言っているのか、「危ないです!」と言っているのか。
庭に新しい線路を敷いているが、今日は引き込み線を作り、機関庫を移動した。コンクリートブロックを運ぶ作業で汗をかいた。金属工作では、糸鋸の刃を1本も折らなかった。成長したか……。
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僕はたぶん少数派に属すると思う。自分が良いと思うものと、社会で人気が高いものがまったく一致しない。むしろ逆である。子供のときにこれに気づいた。だから、人からすすめられたり、大勢が注目する、いわゆる流行を避けている。ようするに天の邪鬼なのだ。大人になってからはほんの少し丸くなって、たとえば、全然知らない人がブログで「これは良い」と書いているのを読んだりすると、ちょっと興味を抱くことはある。けれども、自分の知っている人が「これは良い」と書いていたり、誰かが僕に向かって「これは良いですよ」と言ってきた場合は、それだけで直ちに優先順位が下がる、もしくは、選択肢から外す。例外として、ほんの一部の僕が認める(つまり僕と同族と勝手に見なした)人物が言ってきた場合は、すぐに手に取るけれど。
TVや新聞ですすめられているものは、全部コマーシャルであって、それだけで僕の中の候補からは除外される。しかし、僕が海外のサイトで偶然見つけたようなものは、ちょっと取り寄せてみようかな、と思う。ようするに、向こうからこちらへアプローチしてきたものは無視し、自分からアプローチしたものだけに注目する、というポリシィだと分析できる。
どうしてこんなふうになったのか、よくわからないが、そのくらい、「独自性」というものに価値があるときっと信じているのだろう。まったく協調性のないことである。片意地を張り大勢に逆らって、いったい何が得られたのか、というと、まあ、せいぜい現在の森博嗣くらいか。
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「MLA9」の見本が届いた。表紙は今回は京極夏彦だ(嘘)。さあ、これがラスト5!
【国語】 ぶつ
「ぶっちゃけ」について、かなりまえになるが、2006年4/20に書いているので参照のこと。
「ぶつ」というのは、「叩く」とか「殴る」の意味だ。ときどき、「演説をぶつ」というのも聞くけれど、これも「打つ」という意味で、同じだろう。
「ぶつ」を動詞の前につけて動作を強調した言葉が多い。「打ち壊す」が「ぶち壊す」になり「ぶっ壊す」と使われる。これは、「ぶっ殺す」、「ぶっ放す」、「ぶっ飛ばす」、「ぶっ込む」などが同じだ。「ぶち」が「ぶっ」にならないものもある。「ぶち当たる」、「ぶち抜く」、「ぶちまける」などがそうだ。発音しにくいからだろう。
逆に「ぶっ」しかないものもある。「ぶった切る」は、「打ち手切る」なんだそうだ(「ぶっ切る」もある)。「ぶちたぎる」は聞かない。「ぶっちぎる」は「打っ千切る」だが、これも、「ぶちちぎる」は言わないようだ。
関西では、「ぶっちらかす」なんてよく耳にする。お嬢様なら「打ち散らかす」と言った方が良い。「ぶっこく」なんていうのも聞くが、これは下品な響きである。
紛らわしいのは、きざっぽく演説をしている人に、「ぶってんじゃないよ」って言った場合だ。この「ぶって」は、「きどる」の意味の「振る(ぶる)」なのか、「演説をする」の「ぶつ」なのか区別できない。きざっぽく演説しながら頭を叩いている人に、「ぶってんじゃないよ」といった場合は、さらに紛らわしい。
2008年03月10日(月曜日)
【HR】 入力ばかりだと
朝は雨。植物には恵みの雨だし、水やりもしなくて良い。お昼まえに晴れた。天気予報のとおり。今どき見上げた天気予報である。
「スカイ〜」第8話は今日も1500文字。あと2日くらいで完成か。「どきどき〜」のゲラは70%まで読んだ。これもあと2日。「カクレカラクリ」ノベルス版は、やはり1段組にすることにした。その新しいゲラが本日届く。3日後くらいから読み始められる。インタビューの依頼が2件あったが、いずれも1カ月以内のもので、スケジュールの調整がつかないのでお断りした。取材自体を受けるのも、もうあと8カ月くらい。
スバル氏とパスカルを車に乗せて郵便局とコンビニへ。僕はどちらも車で待っていただけ。お昼には、幻冬舎のS儀氏が、「工学部・水柿〜」のゲラを取りにきてくれた。小説のハードカバーは久しぶり(数カ月ぶり)だ。これは4月刊。
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午後は、スバル氏と長男S氏が区役所へ出かけた。「きっと時間がかかるよ」と忠告したのだが、あっさり1時間半くらいで戻ってきた。
長男S氏は、このまえ室内ラジコン飛行機を買ってきて、僕が予告したとおり、その日のうちに壊してしまったが、昨日は室内ラジコンヘリコプタを買ってきた。「すぐに壊れるよ」とまた僕は予告したが、昨夜は壊さずに遊んでいた。でも今日壊れた。致命傷で直らない。我ながら見上げた予報だが、飛ぶ模型とは、元来そういうものだ。数千円のおもちゃがまともに飛ぶはずがないし、練習もしていない素人が最初から上手く飛ばせるものではない。
工作室でのんびり金属を切る。このところ、易しい重工作を進めている。糸鋸の刃をこの1週間で5本ほど折ったが、なんだか少し切り方が上手くなったような気がする。
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相変わらず、若い人から人生相談のようなものを受ける。どうして森博嗣なんかに相談するのか気がしれないが。多くの場合、突き詰めると「この頃、なにをしても面白くない」というような傍から見ると平和な悩みだ。今までいろいろなものに興味を示し、それをつぎつぎ試してみたけれど、もうどれをやっても同じに思えてしまって、やる気が起こらない。これからの人生、こんなにつまらないままなのか、みたいな雰囲気だ。
いろいろ要因はあると思うし、本当のところはよくわからないのだが、たぶん、いろいろ試してみた、というのは「受けた」だけなのでは、と想像する。観たり、聴いたり、読んだり、と自分の中に取り込むこと、すなわち「入力」を試したにすぎない。ゲームなんかの場合も多かれ少なかれ、受け入れるものだ。そう見えないように工夫されているが、基本的に自分から「出力」するような行動ではない。
だから、「なんでも良いから一度、自分で作ってみたら?」とすすめる。本当になんでも良い。なにか1つを作りあげると、それは自分から出力したものだし、それによって視点が変わるかもしれない。1つ出力すれば、それに関連したこと10を受け入れたくなることも多いし、きっと入力もまた楽しくなるだろう。
作るものがない、お金がかかる、と渋る人は、たとえば自分の部屋を徹底的に片づけてみよう。綺麗な部屋を「作る」のである。そもそも、ブログがこんなに流行っているのも、この「出力」への渇望によるものではないか、と分析できる。でも、そのブログだって、出力しているようで、実は入力しかしていない人が散見される。
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面白いものはないか、楽しいものはないか、と大勢が自分の外部を探している。自分の内部を探す人は少ない。
【図工】 ボール盤
ドリルの大きいやつである。材料を台の上に固定して、回転するドリルの刃を垂直に下ろし、押しつけて穴をあける。最初にボール盤に出会ったのは、大学の実験室だった。かなり頻繁に使用する道具だった。穴をあけたい機会がそんなにあるのか、と思うかもしれないけれど、材料に穴をあければ、そこにボルトを通して固定することができるので、利用価値は高い。
手で持って使う電動ドリルもあるけれど、これとボール盤の違いは、1つは垂直の精度、もう1つは押しつける力が強いことである。特に、後者の効果は絶大で、金属に穴をあける場合には、効率が全然(数倍も)違う。
20年ほどまえに自宅で使うためにボール盤を買った。1万円くらいの小さなものだ。これがあるだけで、工作の範囲がもの凄く広がった。しかし、サイズの限界を感じ、数年まえに大きいものを購入した。今は2台を使っている。こういった工作機器は、大は小を兼ねるというか、大きいものの方が剛性が高くて使いやすいので、小さい方をあまり使わなくなってしまう。
あける穴の位置の精度を出すために、正確な位置にポンチで凹みをつける。そこにドリルの刃を下ろすのだ。このポンチの精度を上げるためには、罫書きといって、正確なラインを材料に記さなければならない。穴は数秒であくが、ラインを罫書き、ポンチを打つ作業に大半の時間を取られる。
これも、やはり多くの作業に共通している。位置決めには測量(現状を把握)が必要だし、設計(見通し)も大事だ。ここだと印をつけるまでが、実は完成度を左右する大半の作業といえる。穴をあける行為自体は大した技術ではないし、その機械に「技術力」があるわけでもない。
僕の場合、今でも、「あ、ちょっと上手くなったかな」とときどき感じる。それくらい技術はまだ途上だ。
2008年03月09日(日曜日)
【HR】 視点と台詞
朝から暖かい。いよいよ本当に春か。
「スカイ〜」第8話は今日も1500文字。毎日ここで止めている。ゆっくり書こうというチャレンジ。「どきどき〜」のゲラは55%まで。どうも変なゲラで、ルビがやたら不自然なのだ。編集部に問い合わせ中。だいたい、ゲラ校正というのは、禁則処理をし、漢字の表記を直すことがほとんどの作業だが、これに今回はルビのチェックが加わって作業量倍増である。文庫化に際して文章を書き直すようなことは、僕の場合まずない。
暖かいので、庭で水やりをしてから、機関車を出して走らせた。線路には異常なし。ポイント関連もすべて点検できた。3月はまだないが、4月になれば乗客が急増するだろうから、車両の点検もそろそろしなければならない。夕方の5時になっても太陽が眩しく、暖かかった。
お昼頃、スバル氏が子供たちとショッピングへ出かけていった。スバル氏のミニではなく、長男S氏の車で。僕はパスカルと留守番。パスカルは「たっち」ができなくなってしまった。犬にもスランプがあるようだ。工作室で金属に穴あけとねじ切りを多数こなす。暖かいだけで、作業が進む。
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小説を書いていて、あるいは読んでいて、頻繁に「あれ?」と思うのが視点である。どこから見ているのか、というカメラの位置だ。漫画ではこれがわかりやすい。コマごとに視点が変化するが、たとえば、AとBの2人が話をしているときに、Aが話す場面は、BからAを見た構図なのか、それともAの後ろからBを捉えた構図なのか、でだいぶ違ってくる。映画やアニメでも同じ。
漫画の場合は、話している人間をコマに入れないとわかりづらい。音声が使える映画やアニメは、話している人物を画面に入れなくても良い。つまり、Aが話しているとき、それを聞いているBをずっとカメラで捉えることができる。
このように、ドラマや小説で視点を意識してしまう人は、それを作る側に回ってもやっていけるかもしれない。
ちなみに、映画を作りたかったら、小説を書きたかったら、映画を見るよりもドキュメンタリィ映像を、小説を読むよりもエッセィなどを、すなわち映画や小説以外のものに多く接した方が、視点や転換の技法を学ぶという意味では勉強になるのではないか、と僕は思う。その理由は、僕がそういったもので学んだからだ。
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ところで、TVドラマ(あるいは吹き替えした洋画)は、映画に比べると台詞が聴き取りやすい。お芝居に近い明瞭な発声だ。アニメも、TVのアニメはお芝居に近いしゃべり方をする。わかりやすく、また感情が籠もっている(ように聞こえる)。しかし、そうとうオーバなのだ(特に、「はっ」というようなリアクション)。映画になると、話し方がより自然になる。抑揚がない、相手だけに聞こえる音量の普通の話し方になる。聞き取りにくいけれど、格段にリアリティがあって、僕はこちらが好みだ。聞き取れなくても、字幕を出してくれれば良いとさえ思う。一般に、第三者が話している言葉って、かなり聞き取りにくいものだ。洋画の吹き替えやTVアニメのしゃべり方は、お芝居を見ているみたいで、伝統芸能としては認められるけれど、僕にはリアリティが感じられず、感情移入の障害になることもある。
【社会】 やっていけるのか?
「こんなところに、こんなものを作って、やっていけるのだろうか?」と思ったことが誰にもあるだろう。たとえば、田舎に大きなショッピングセンタを作っていたりするのを見たときだ。いろいろな理由がある。
1)一時的には集客があるから、そのときに元を取ってしまう。
2)人気があるうちに、周囲の土地が値上がりし、そこを売って元が取れる。
3)赤字を出すことが目的である。
4)なにも考えていない。
街中に作られるものは1)のケースが多い。かなり短期決戦で計画されている。昔よりもずっと動きが早い。効率が悪くなったときには素早く売ってしまう。その差額を短期で稼ぐわけだ。郊外やリゾートに作られるものは2)が多い。周囲に住宅地が作られたり、別荘地ができたりする。ただみたいな土地が売れるのだ。人口が増えればさらに活気が出る、ということはまずなく、土地が半分も売れたらもう商売としては終わりである。3)のケースは、お堅い博物館や、僻地に作られる美術館などに多い。税金対策として作られているものだから、入館者などはなから期待していない。たとえば、森博嗣が山奥に模型博物館をオープンさせた、みたいな想像をしてみよう。展示物は経費で落とせるし、トータルの事業として赤字が出れば、税金を一銭も払わなくても良いのだ(真似をしないようにしよう)。4)は、ときどき出没するお洒落な雑貨店やペンションなどである。とにかく、「自分のお店を開くのが夢だった」みたいは感じで微笑ましい。こういう人は、「頑張って働けば道は開ける」と考えているようだが、もともと無理なことをしているのだから、滅多なことで道は開けない。一度開きさえすれば、夢は叶ったわけで、もう満足、というスタンスにも見える。