2008年02月06日(水曜日)
【社会】 褒美と罰
子犬を躾るには、たいてい褒美を使う。良いことをした場合に食べものを与えたりする。すると、それが良いことだとわかり、いずれは食べものがなくても、それをするようになる。最初は、よしよしするだけでは、なかなか躾はできない。
人間の子供は、食べものよりも、褒められることの方がたぶん嬉しいのだろう(空腹ではない場合が多いし)。褒めてもらいたいから、という動機で良い子になっていく場合が多い。学校も褒美というものは、物体としては与えない。言葉や点数で褒められるくらいだ。
しかし、なかには、「褒められたってしかたがないよな」と考える拗ねた子供もいるかもしれない。そうなると、教育に支障が出る。学ぶ理由を子供は見失ってしまう。本人に将来を見る目があれば、もちろん学ぶ理由はある。つまり、褒美は将来に約束されているのだ。学んだ方が得なことは明らかだが、そんな「遠い褒美」が理解できるのは、それこそ思考力のある子である。特に幼いうちは、目の前の褒美でしか子供たちは動かないだろう。
昔の教育の現場には、「反褒美」すなわち「罰」があった。この頃の教育ではこれが制限されたため、「褒められる」価値を認識しない子に対して、教育者は打つ手がない(限られた)状況に陥っていることはたしかだ。イギリスだったか、小学校でおやつのご褒美を与えるシステムが試行されていたと思う。たぶん、成果は出ているだろうけれど、まるで犬の躾のように、そうまでしてやらせるのか、という議論には当然なるだろう。
TVのクイズ番組では、この頃ご褒美が頻出するらしい(スバル氏談)。正解したら食べられる、不正解だと食べられない、というシーンを1日に何度も見るという。点数だけでは駄目で、目先の具体的な利がなければ動かない(視聴者が興味を持てない)、というのは一種の「年齢退行」のように思われるけれど、つまりは、それほど褒美や罰則が「珍しい存在」になってしまったからではないか、とも推察される。子供のとき、日常的にあるものではなくなってしまったのだ。
僕個人の意見は特にない。人間はそれぞれ違う。その子を見て、その子に合ったやり方が必要だと思うだけだ。