2008年02月15日(金曜日)

【HR】 新しいデジカメ

 朝から車で出かけたが、2時間ほどで戻った。風邪は良くなりつつあるけれど、まだ全快ではない。必要以上に着込んで、暖かくしている。
 今日から新しいデジカメに切り換えた。標準で4GBもメモリがある。こんなことで驚くなんて時代遅れだけれど、今まで使っていたものの32倍だ。普段撮っている小さい写真だと、10年分くらい入ってしまう計算になる。パソコンと繋ぐときに、充電も同時にできるデッキ(アダプタ付きスタンド)をこれまで使っていて、今回もそれが欲しいと思い、さっそくネットから注文しておいた。5000円くらいのものだ。それがないと、バッテリィをいちいち取り出して充電しなければならないという不便さ。まえの機種では手振れの写真が多かったが、補正機能があるとどれくらい違うものか、と期待。

 僕の場合、写真というのは人に見せるためのものなので、ネットで取り扱う場合が多く、大きなサイズは不便だ。いつも一番小さい画像サイズで撮っている。高解像度はまったく必要ない。
 自分のための写真というものをほとんど撮らない。自分の目で見た記憶で充分だからだ。たとえば、ブログで公開しないような場所へ行くときにはカメラを持っていかない。趣味のもので写真を撮り始めたのも、ネットで公開を始めてからのことだ。だから、昔の写真もほとんどない。
 それから、写真集を作るとか、雑誌などで依頼されたとか、そんな場合も、20枚使うのなら20枚しか撮らない。大めに撮っても1枚か2枚だ。いつか使えるだろうから、というストックはしない。必要になれば、カメラを持ってその日に撮りにいく。過去に撮ったものを再利用することはあるけれど、将来のために撮り溜めることはない。だから、このMLAが今年で終了したら、デジカメを使う機会は激減するだろう。

 新しいデジカメはボタンが少ない。タッチパネルなのだ。機関車を運転すると、手に油がついているから、ちょっと触りにくい。そういえば、昨年お客さん用のトイレをリフォームしたが、そのトイレの操作ボタンの文字が、半年くらいで消えてしまった。それだけ、手が油っぽい人が沢山触れたのではないだろうか。庭園鉄道で遊んでいるときは、そのトイレを僕も利用している。庭に一番近いからだ。

 天賞堂で塗料を買ってきたので、塗装がしたいのだが、気温が低すぎる。工作室をエアコンとファンヒータで暖め、少しだけピースコンを使ってみた。スプレィ缶とピースコンでは、全然感覚が違う、別ものといって良いのに、同じ「吹き付け塗装」と説明されてしまうのは、ちょっと解せない。

【社会】 大人のコンテンツ

 日本の子供の学力の低下が各方面で話題になっている。これについては、何度かここでも書いた(たとえば、2007年の4/16や4/26の【社会】参照)。一言でまとめるなら、「ゆとり教育」の成果であって、僕は悪い状況だとは捉えていない。
 さて、小学校から高校、あるいは大学の一部も含まれるが、「教えてもらえること」というのは、つまりは「メディア」なのである。わかりやすくいえば、それは「道具の使い方」なのだ。それを知っていれば、自分の自由のために、面白いことができる、楽しいことに遭える、という手堅い手法を伝授するのが教育である。道具の使い方自体は、そんなに面白いものでも楽しいものでもない。面白く楽しいものだと騙すことには、僕は反対だ。苦労をしてでも、自分に有益なものが得られるはずだ、という予感を与えることの方が大事だろう。
 しかし問題は、どんな面白さ、楽しさがあるのか、という点である。ここが実は学問のコンテンツなのだが、それを知っている、あるいは得ている大人がそれほど多くはない。大人たちの多くは、あくせく働いて、子供を巻き添えにしてこじんまりとした楽しみに終始しているだけに見える。子供から見ると、大人になったらどんな楽しみがあるのか、それが想像できない。家族で遊園地へ遊びにいくとか、仲間と飲んで騒ぐとか、それくらいが人生の楽しみならば、それはもう今現在、子供でも手の届くことであって、頑張って勉強して獲得するような目標とは思えない。
 学校の先生は、そのコンテンツを持っているだろうか? たとえば、先生がなにか夢中になって研究をしているとか、そういうのがコンテンツである。子供たちに上手く説明ができなくても、本当にコンテンツを持っていれば、子供たちにそれが伝わる。大人や社会は、そんなコンテンツを子供に見せることができるだろうか?
 格差がある社会では、教育効果は示しやすい。格差のあるその上へ自分が行けるかもしれない、という目標がわかりやすい。格差がなくなった豊かな社会では、子供たちに、もっと文化的な高みを見せる必要があるだろう。大人は何が凄いのか、を感じさせなければならない。そういった、人生のコンテンツとでもいうべきものを大人が持っていさえすれば、子供たちは自然にそれを感じ取るし、きっと勉学する理由を見つけるはずである。
 簡単にいうと、子供に「勉強しろ」と言うまえに、大人がもっと勉強すべきなのだ。

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