2008年02月06日(水曜日)
【HR】 書店と脱サラ
冬空。曇っている。今日のゴミ出しは、なんでもありの日だったので、ガレージのゴミが片づいた。
午前中にまずペンキ塗りをして、それから小説の仕事。「MLA9」のゲラを40%まで見た。「ジャーロ」の連載も4000文字書いた。あと2日くらいで書き上がるかな。このほか、細かい確認が多数。
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お昼過ぎに、税理士さんが来宅。スバル氏が揃えた書類を出して、確定申告の打合せ。自分ですべてやっていたときのことを思い出すと、これほど大変な作業を人に任せられるのだから、嬉しくてしかたがない。ただ、どうしてこんなに複雑なシステムになってしまったのか、という税制の不合理さは、毎年思うところだ。いつまで続くのだろうか。
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パスカルを乗せて書店へ行った。もちろん、パスカルは駐車場で待っていた。特に欲しい本はなかったけれど、雑誌を1冊購入。
書店では、雑誌コーナでは立ち読みをしている人が多い。じっと同じページを開いて見ているから、明らかに内容を読んでいる。買うために内容を確かめる、というのではない。これは「万引き」と同じ行為になるのでは。たぶん、立ち読みしている大半の人はその自覚がないだろう。でも、これを黙認しないと書店はやっていけない、という意見もあるらしい。きっと、スーパの試食みたいな感覚だろう。まあ、雑誌自体が、売れても売れなくても関係ない(つまり広告料で成り立っている)メディアになってしまったから、これで良いのかも。
それから、「成功の秘訣」が書かれているかのようなタイトルの本がやたらと多い。僕が「こういう本、多いね」とスバル氏に言うと、「こんなのを買うというだけで、もう成功の望みはないよね」とばっさり、森博嗣みたいなことをおっしゃった。僕はそこまでは思わない。少なくとも本を買って読もうとするのは、それだけ向上心があるのだから、成功する確率は幾分高いのではないだろうか。さて、どちらだろう。
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帰りの車の中では、いくら稼いだら脱サラする気になるのか、というテーマで話し合った。たぶん、確定申告の影響だろう。600万円くらいの年俸を安定的にもらっている人を想定して、この1年間だけで副業によって稼いだ額がいくらだったら、本業の会社を辞めるか、という問題だ。僕は「1000万や2000万では辞められないと思う」と言ったが、彼女は「案外、500万円くらいでも辞めちゃうんじゃない?」という意見だった。本業、副業いずれも、収入の安定度というファクタが大きいし、自分の年齢や家族構成も影響するだろう。今の仕事に不満があるかどうかも支配的だ。
しかし、スバル氏の意見は一理ある。この頃の人は、仕事に生き甲斐を求めているから、金銭的に少々リスクがあっても、自分のやりたいものへ向かう、という傾向はあるだろう。僕だったら、年俸の10倍を副業で稼いでも辞めない。20倍でも、定年まで20年だったら、まだ迷うな。
【社会】 褒美と罰
子犬を躾るには、たいてい褒美を使う。良いことをした場合に食べものを与えたりする。すると、それが良いことだとわかり、いずれは食べものがなくても、それをするようになる。最初は、よしよしするだけでは、なかなか躾はできない。
人間の子供は、食べものよりも、褒められることの方がたぶん嬉しいのだろう(空腹ではない場合が多いし)。褒めてもらいたいから、という動機で良い子になっていく場合が多い。学校も褒美というものは、物体としては与えない。言葉や点数で褒められるくらいだ。
しかし、なかには、「褒められたってしかたがないよな」と考える拗ねた子供もいるかもしれない。そうなると、教育に支障が出る。学ぶ理由を子供は見失ってしまう。本人に将来を見る目があれば、もちろん学ぶ理由はある。つまり、褒美は将来に約束されているのだ。学んだ方が得なことは明らかだが、そんな「遠い褒美」が理解できるのは、それこそ思考力のある子である。特に幼いうちは、目の前の褒美でしか子供たちは動かないだろう。
昔の教育の現場には、「反褒美」すなわち「罰」があった。この頃の教育ではこれが制限されたため、「褒められる」価値を認識しない子に対して、教育者は打つ手がない(限られた)状況に陥っていることはたしかだ。イギリスだったか、小学校でおやつのご褒美を与えるシステムが試行されていたと思う。たぶん、成果は出ているだろうけれど、まるで犬の躾のように、そうまでしてやらせるのか、という議論には当然なるだろう。
TVのクイズ番組では、この頃ご褒美が頻出するらしい(スバル氏談)。正解したら食べられる、不正解だと食べられない、というシーンを1日に何度も見るという。点数だけでは駄目で、目先の具体的な利がなければ動かない(視聴者が興味を持てない)、というのは一種の「年齢退行」のように思われるけれど、つまりは、それほど褒美や罰則が「珍しい存在」になってしまったからではないか、とも推察される。子供のとき、日常的にあるものではなくなってしまったのだ。
僕個人の意見は特にない。人間はそれぞれ違う。その子を見て、その子に合ったやり方が必要だと思うだけだ。