2008年01月24日(木曜日)

【HR】 感じ方も他人任せ?

 大きな工作がしたくなったので、金属素材を買いにいくことにした。ネットで注文した方が安いし便利だけれど、たまに細かいものを見て揃えたいときがある。繁華街へ車で出かける。スバル氏も一緒についてきた。
 真鍮や鉄の板やアングル、それから歯車などを3万円分くらい買い溜め。これ以上買うと、駐車場まで自分の力で運べなくなったので、それがリミット。そういえば、ネットで注文すると、届いたとき門からガレージまで一人で運べないことが多い。

 スバル氏と待ち合わせ、ハンバーガを食べながら帰ってきた。日差しがクリアで、車に乗っている分には暖かい。帰宅したらパスカルが2階にいて、階段を下りてきた。どうやら風でがたがたと音がしたのが恐かったらしく、隠れていたのだ。
 「スカイ・イクリプス」第6話は完成。「クレィドゥ〜」のゲラは80%まで。今日の写真の1枚は、1890年製の蒸気機関車のおもちゃ。イギリス製。アルコールを燃料にして走る。

 小説を書いて感じることは、かなり大勢の人たちが「感じ方」を忘れつつある、ということ。変な例だが、凄いものをつまらなく描写すると、素直に「つまらないな」と感じられ、つまらないものを捻って凄いものだと書くと「凄い」と感じる人が多いのである。
 過去にも例に挙げているのは、野球漫画で魔球をピッチャが投げたとき、スタンドの観客が「おおこれは!」「出た! 魔球だ!」と叫ぶシーン。このように登場人物に「これは凄い」と言葉で語らせないと、「凄い」ことが通じない。孤島の決闘シーンであれば、それをこっそり見ている人物を登場させ、「あの技はもしかして……」などと呟かせないと駄目なのだ。まるでプロレス中継(古いか)みたいである。
 そう、TVの影響も大きいだろう。TVには、「どう感じれば良いのか」という見本を見せてくれる人たちがスタジオにいる。その人たちが「可愛い!」と叫べば、それは可愛いものとして視聴者に伝わる。「感動した!」と言えば、それで感動する人が多い。お笑いものでも、可笑しいシーンには笑い声が演出で入っている。そういうものにずっと慣れてしまうと、自分の感じ方ができない人間になるのではないか。自分一人だと、ここは笑って良いのか、泣いて良いのか、感動するところなのかどうなのか、わからない。同じものを見た人と話し合ったり、ネットで検索してみないと、どう感じれば良いのかがわからず、安心できない。

 一方では、自分の感覚を持っている人たちは、「こう感じなさい」という演出が鼻につく。他人がどう感じるのかということにも興味がない。そんな部分は余分で鬱陶しい。だから、CATVなんかのストイックなドキュメントがとても面白い。それを見て、自分一人で「凄いなあ」と感じたいのだ。スタジオの司会者に「これは凄いですよ、ご覧下さい」なんて紹介されたくないのである。
 以下の4パターンがあったとしよう。
 A「凄いことを凄く描く」
 B「凄いことをあっさり描く」
 C「凄くないのに凄く描く」
 D「凄くないことをあっさり描く」
 自分で感じられない人は、AやCを凄いと思い、BやDをあっさりしていると思う。自分で感じられる人は、Bを凄いと思い、AとDを普通だと感じ、Cには眉を顰める。
 さて、創作者はいずれを狙うべきか?

« 1つ古い記事「応用力」 | 1つ新しい記事「壊れ方のデザイン」 »