2008年01月31日(木曜日)
【HR】 複雑なものほど作りやすい
昨日よりは少し寒い。でも晴天。
スバル氏と一緒に荷造りをして、クロネコへ持っていって発送してきた。パスカルも一緒。朝、「今日は一緒に行けるよ」と教えてしまったため、もうずっとついて歩いて、「さあ行きましょう行きましょう」と煩い。荷造りをしている間も、ぐるぐる走り回っていた(パスカルが)。
![]()
もう10日くらい組み立てていたキットの機関車がようやく形になった。ほとんどの部品を一度は仮付けした、という意味で、完成ではない。もう一度ばらばらに分解して、今度は塗装をしながら組み立てる。これにまた10日くらいかかるだろう。道具がたちまち手許に沢山集まるので、2日に1度はすべての道具を片づけるのだが、気がつくとまた机の上が道具で溢れる。今日はたまたま近くにあった道具を並べて記念写真を撮った。この機関車をここまで組み立てるには、この倍以上の数の道具を使う。
![]()
模型の作品展やコンテストなどを見ていると、若い人(といっても40代くらいだが)の作品はとても複雑である。もの凄く細かい表現に挑戦している。実物にどこまで迫れるのか、というスーパ・ディテールの世界だ。挑戦する対象も、やり甲斐のある複雑なタイプが選ばれる。とにかく細かいし、一般の人が見てもその凄まじさが理解できる。「よくここまでやったな」と感心することになる。
ところが、名のあるベテランの作品になると、複雑さはまったく感じられない。むしろ、シンプルな対象を選んで作る。シンプルなものを作っても、シャープさが表れ、凄みが出るのだ。これは、よく模型を知っている人が見ると驚嘆ものだが、一般の人が見てもわからないだろう。なによりも凄いのは、作品を見ただけで、誰が作ったかわかる点である。
芸術作品というのは、「よくここまでやったな」という「労力」を評価するものではない。労力をかければ誰にでもできることではなく、「これは、こいつにしかできない」と見た人に思わせるものでなくてはならない。
労力をかけた作品は、それを見ただけで微笑ましく、そして作った人を褒めてあげたくなる。「凄い、よくここまでやったね」という祝福をしたくなる。一方、その段階を越えた一流の芸術作品とは、見たときに恐ろしくなる。作った人が恐くなる。褒めようとか、祝福しようとか、そういった気持ちにはなれない。ただただその人間の存在を感じるだけだ。
これはつまり、作り手の欲望の現れだろう。若いときには、「認められたい」「褒めてもらいたい」という気持ちがあるから、それが作品に表れる。その動機が消えて、ただ静かに自分を見つめつつ作られた作品は、そういった媚びがなく、近づきがたい孤独の「美しさ」が表れる。
![]()
自分のことを棚に上げて書いているが、1ついえることは、複雑なものほど作りやすい、褒めてもらえる作品ほど作りやすい、ということだろう。そういったものは、労力と時間さえかければ、ある程度は誰にでもできる。しかし、美はそこにはない。
【理科】 ウィーケスト・リンク
英語の諺だったかな。weakest linkとは、たとえば、鎖の全体強度が、連なっている環の一番弱い1つで決まってしまう、という意味だ。2007年7/18の「社会」でも触れている。
金属などは、引張試験で強度を測定する。その強度とは、最大応力がかかっている範囲に確率的に存在する欠陥によって決まる。直列になっている構造では、1つ弱い部分があれば、そこで破断する。たとえば、同じ鎖でも、短いものと長いものを引っ張って比べると、長いものの方が弱い。応力が作用する範囲が広くなり、弱いものが存在する確率が高くなるためだ。これは、大きな範囲を捉えるほど、材料が見かけ上均質になっていくために強くなる、という作用と相反する寸法効果の1つである。
オーディオを買い揃えたとき、デッキ、プリアンプ、メインアンプ、スピーカとつなげると、一番性能が低いものの音が出る、といわれている。高性能のものが弱い部分をカバーすることはない。これも、直列になっているためだろう。
ウィーケスト・リンクの考え方は、「弱い部分を補強せよ」という思想である。これは、前回に書いた「壊れ方のデザイン」と相反する。どこが違うのか。まず、構造が単純な直列のものはそれほど多くはない。また、「強度」と「安全」のどちらを求めるのか、という選択がある。
建物や橋などの構造物に使われる鋼材は、「軟鋼」と呼ばれる強度の低い鉄である。これは、内部に欠陥が多く、そのため力が強度を超えやすいが、材料内部の構造は鎖のように直列ではないため、微視的な局所破壊が生じても、他の部分に応力がすぐに分担される。強度は出ないものの、こうして力を負担する部分が残っているため、小さな破壊が次々ばらばらに起こって柔軟な変形をする。弱いけれど粘り強い破壊性状を示す。これが「欠陥」を持っている利点だ。
一方、金属の強度をどんどん上げていくと、軟鋼の何十倍も強い鉄が作れる。こういった高強度鋼が必要な分野もある。しかし、これらはほとんど変形せず、つまり伸びにくい。衝撃に弱く、一気に爆発的に破断する傾向がある。
身近な材料では、ガラスがそうだ。ガラスはコンクリートや木材より数倍強度が高い。また、引っ掻いたときの硬さも鉄より高い。しかし、構造が均質なため(だから透明なのだが)破壊が一気に生じる。強度が高いから、とガラスで柱を作った家を想像してみよう。
2008年01月30日(水曜日)
【HR】 運転とお出かけ
寒さが少し和らいだ。暖かい晴天。今日は予想が10℃ということで、体調が良ければ蒸気機関車を運転しようと考えていた。条件が揃ったので、9時半頃から準備を開始。
先日大幅に改良した8号機をスチームアップ。全般的に非常に順調だった。改造した部分は問題がなかったけれど、別の箇所で消耗品の劣化が判明し、今度はこれを取り替えなくてはならない。運転はとても爽快で面白かった。線路も異常なし。日焼けしそうなほど日差しが強かった(最高気温11℃)。
機関車の後かたづけや掃除が終わったらお昼を過ぎ。3時間も遊んでいたようだ。
![]()
1時に中央公論新社のM松氏が来宅。「スカイ・クロラ」シリーズの単行本4冊(本がそのままゲラだったもの)と「クレィドゥ・ザ・スカイ」文庫版のゲラと、yorimo用「スカイ・イクリプス」第5話のゲラを取りにきてくれた。大量である。重いから大変だろう、と思い、車で駅まで送ることにした。そしてそのまま、スバル氏とデパートへ。
僕はハンズで、新しい糸鋸を買った。糸鋸もたぶん、7本は持っている。スバル氏と待ち合わせをしたら、催事場で長蛇の列ができていた。チョコレートの売り場だった。そういえば、うちへも既に幾つかチョコが届いている。そんな季節か。
地下では、最近お気に入りのレモンケーキを大量に購入。知人に送ろうと思ったからだ。このケーキは、本当はレモンケーキとチョコケーキがセットになっている。しかし、味が全然釣り合わない。チョコケーキは平凡だけれど、レモンケーキが抜群に美味しい。だから、購入するときはレモンケーキだけを箱に入れてもらうのだ。
お総菜も買った。あの山盛りになっているオードブルとか、男一人だとなかなか買えない。女性が模型屋で買いものがしづらいのと同じかも。オードブルは小さな山になっていて、それがひと単位に見える。値札には350円とか書いてあるから、当然それが350円かと思うが、実はそうではない。値段は100g当たりなので、その小さな山が250gはあるから、800円以上するのだ。知らない人間はきっと騙されるのでは?(余計な心配) でも、今日は4種類くらい僕が選んで、スバル氏に買ってもらった。
![]()
帰ってきたのは5時頃だが、ずいぶん日が長くなったように感じる。このまま冬が終わってくれたら良いのに。
夜はまた工作に没頭。小説の方は、「ジャーロ」の連載第2話を書き始めようとしている(タイトルを決めた)。
【算数】 計算をする癖
「ちょっと計算したらわかるだろう」ということなのに、そのほんのちょっとの計算をしない人が多いみたいだ。計算をせずに、「安い」とか「お得」とか、そんな言葉のイメージだけで判断していないだろうか。
出かけるごとにタクシーに乗るなんて「贅沢」と思う。だから自家用車を買う。毎週日曜日にタクシーに3000円使ったとすると、1年で15万円だ。自動車の購入費を除外しても、これくらいの維持費(税金、保険、ガソリン代、車検)はかかるだろう。分譲のマンションを何千万円も出して買うけれど、家賃30万円の賃貸なら1年で360万円、10年借りても3600万円だ。諸経費や税金やローンも簡単に計算できる。是非比較してみよう。
一方では、環境のために、あるいは節約のためにこんな工夫があります、といろいろPRされている。1年で1万円の電気代の節約になる、とあれば、それは「お得だ」と感じる。しかし、その装置が50万円する。では、元が取れるのは50年後か(電気代が変わらず、故障もしなければ)。もちろん、元を取ることが目的ではない。環境のためだ。しかし、少なくとも「お得」ではない。スーパのレジ袋の節約なども、ほとんど効果はない。それよりも大事なことは「生産をしないこと」そして「無駄に買わないこと」である。まあ、どれも、気持ちの問題なのだろう。
あの人はどれくらい儲けているだろう、といったことも、その人の行動を観察すればほぼわかる。店を見てみたら、店の売り上げは想像がつく。
1日に500円を貯金したら、1年で18万円になる。僕はこの方法で50万円を2年半かかって溜めたことがある。最初に、蒸気で走る機関車のキットを買ったときだ。実際に500円玉を溜めたので、持っていくのが大変な重さになった。でも、1円玉で50万円溜めると、約500kgだから、トラックが必要になる。
とにかく、「どれくらい?」と思ったら、まず概算をしてみよう。
2008年01月29日(火曜日)
【HR】 夢を楽しむ
昨夜から雨で、今日の午前中まで降り続いた。暖かくはないが、めちゃくちゃ寒くもない。雪にならないのだから、やはり暖冬だろうか。
小説の仕事は、「D&D」のエッセィ4編の推敲。これは終わり、FM東京へ発送。気がついてみると、このMLAといい「D&D」といい、主な2つの連載が雑誌ではなくネットだ。そういう時代である。
スバル氏がミニで出かけていったが、僕は工作室にずっと籠もっていた。厭きたなんて書いたけれど、その後もキットを組み続けている。このくらいのキット1つでも、長編小説の執筆&手直しと同じくらいの時間がかかる。
![]()
僕はよく夢を見る。一晩で3本は見る。それをほとんど覚えている(もっと見ていて忘れているのかもしれないが)。子供のときには、嫌な夢を見ると悲しくなったものだが、近頃では、映画を見るような気分になっていて、「おお、今のはなかなか斬新だったな」というように冷静に見られるようになった。「これは、かなり面白いぞ」という夢は、まあ1週間に1本くらいである。
こんなことちょっと思いつかないぞ、と自分でも感心するようなことを夢で見て、びっくりする。自分で考えたことにはちがいないのだろうけれど、いったい、どこからそんな発想が来たのか、と不思議に思う。
夢で自分の精神状態を分析するようなことは全然ない。そんな分析をしても意味はない。それよりも、何が出てきても面白可笑しく「そう来たか」と楽しむ方が良い。エンタテインメントとして素直に見るのだ。
夢を見るコツは、見たあと目を開けないことである。完全に起きてしまうと急速に忘れてしまう。まどろんだ状態をできるだけ持続して、目を瞑っているうちに、夢の復習をする。そうすると覚えていられるし、また見ることができるだろう。続きを見ることだって可能だ。
でも、起きた直後に面白いと思っていても、1時間もすると、やっぱりつまらないかな、とさらに冷静になる。少なくとも、僕の夢は僕だけのために作られているし、僕はわりと良い観客だと思う。
![]()
ちなみに、夢で見たことが小説に活かせるか、というと、それは大いにある。ただ、トリックとかストーリィとか、そういった具体的なものではない。もっと、その場の雰囲気とか、その概念とか、設定世界のぼんやりとしたフィーリングみたいなものを、「これはいけるな」と思うことが多い。だいたい、そんな抽象的なものが創作のコアなところにあって、それさえ発想できれば、たいていは作品になる。飾りのディテールをいくら思いついても、作品は作れない。
【国語】 新しい諺
素直に普通のことを諺にしてみた。
二階で目薬 (二階で目薬を差しても牛にならない)
長いものは巻ける (比較的巻きやすいというだけ)
能ある鷹には爪がある (鷹にはたいてい爪がある)
蛙の子はオタマジャクシ (卵はまだ子ではないか)
雨降って地ぬかるむ (グラウンドに砂を撒いたり)
腐っても鯛 (賞味期限切れでも別の魚にならない)
帯は長いし襷は短い (帯とか襷とか知らないから)
なにか意味がありそうなふうにしてみた。
二階でも目薬 (同時多発目薬か、という心配に)
長芋にはマカロン (食い合わせでは、と心配に)
能ある鷹は爪を噛む (臍を噛む、といいたいが)
蛙の子がさきか卵がさきか (特に面白くないね)
雨降って血固まる (血の雨が降ったのか、心配)
腐ったら鯛 (腐るまえはもっと凄かった、の意)
ルビは短かし漢字は長し (お化け漢字みたいな)
2008年01月28日(月曜日)
【HR】 もったいない、と思う年寄り
昨夜、工作中に大失敗をした。ちょっと固いかなと思いつつネジを無理に締めたら、パーツがぽきっと折れてしまった。この経験はたぶん13回めくらいだ。「またやっちゃったよ」と思う。たいていの場合すべてがおシャカであるが、今回は、そのパーツを慎重に銀ロウ付けして1時間ほどのロスでリカバした。多少は技術力が上がっていて助かった。二度と無理に締めません、神様。
起きたら10時だった。ぐっすり。昨夜少し頭痛がしたけれど、でも頭痛はいつものことだから、気にせず遅くまで工作をしていた、その疲れか。
![]()
今日は、久しぶりにラジコン模型店へ行く。この頃、ラジコン関係の模型店は量販店ばかりになってしまい、お店の人に相談ができない場合がある。これこれこんなふうに使いたいけれど、それに合うような適当なメカはありますか?といった相談をしても、カタログを持ち出し、ぱらぱらと捲って首を捻るばかりである。つまり、メーカと製品名を言えばなんでも買える(しかも安い)けれど、特別な条件に対処してくれるような、いわゆる工作のノウハウみたいなものは完全に失われている、と感じる。情報を得たり相談をする場所は、今ではネットになってしまったようだ。品物を買うお店は安ければそれで良い、と消費者が望んだ結果なので、悪い状況ではないと思う。
友人が話していたこと。若い頃はもっと物欲があって、あれも欲しいこれも欲しいと思った。この頃は、新製品も、雑誌を見て、どんなふうかわかれば、まあそれで良いかな、とそんなに欲しくなくなってしまう。買っても持っていても、このさきどうなるか、どこへ置くのか、それほど活用できないのではないか、と考えてしまう。若いときよりはお金があるから、買えないこともないのだが、どうも「どうしても自分のものにしたい」という気持ちが弱くなっている。これは年をとった証拠で、この状況に危機感を覚える、という話だった。
「もったない」が美徳だと最近脚光を浴びているが、僕は「もったいない」が絶対的な善だとは思わない。若者に限らないが、ある程度は「浪費」すべきであるとさえ思うし、自分もいつまでも浪費できる若さを持っていたいとも考える。
ただ、年齢を重ねると、今までの経験から将来のシミュレーションができてしまうようになる。いかにして、自分のブレーキをかわして走り続けるのか、という点が勝負だけれど、だんだん難しくなることは確かだ。
![]()
FM東京のエッセイを2回分書き、4回が揃う。推敲は明日。1月のノルマはすべて終わったかな(なにか忘れていたりして……)。2月の仕事を前倒しで片づける予定。
【図工】 工作中の時間
ものを作っている時間というのは、あっという間に過ぎてしまう。経験したことがある人は多いだろう。ほんの少しの工程なのに、気の済むまで加工をしていると、「あれ、もうこんな時間?」と驚くことになる。浦島太郎の気持ちはわからないけれど、竜宮城に工作室があったら、少しは理解できたと思う。
それでもこの頃は体力が落ちたから、躰が警告してくれる。目が疲れるとか、肩が凝るとか、そういったサインだ。若い頃には、2日連続で寝ないとか、食事を4回連続抜いたとか、それくらい没頭できたものだ。
工作はもちろんエントロピィを減少させる。粉々に砕いて細かい粉を混ぜて終わり、といった工作はないわけで、自然にはできない形を作り出すことに意味がある。たぶん、生物自体が、自然の中では奇跡的に整理された状態であって、「生きている」ことを表現するには「作る」しかない、と人間は昔から感じていたのだろうと想像する。そうでなければ、ここまで作らないだろう、と思えるものが沢山残っているではないか。
さてしかし、常々思うし、また何度も書いていることだが、僕は自分が作ったものを「残そう」という気持ちがまったくない。作ったものを飾っておくこともしない。自分の子供たちに、受け継いでほしいといった発想も全くない。そもそも、自分が作ったものを、人から評価されたいとも思わないのだ。ただ作っている時間が楽しい。これは、スポーツや音楽と同じではないか、と最近思えてきた。
2008年01月27日(日曜日)
【HR】 踊らされる人
寒い日曜日。天気は良いが、気温は低い。日中は8℃くらい。
いつものとおり起きて、いつものとおり仕事をして、パスカルと遊んでから、工作に没頭していた。
FM東京のエッセィ2回分を書いた。ノルマの半分。そのほかは細かい確認が幾つか。
パスカルをまた車に乗せて買いものにいった。スバル氏がパスカルを乗せたいのだ。今日はコンビニへ行っただけ。スバル氏が急に店を指定するので、何かと思ったら、プレゼントをもらうために点数を集めると言う。しかし、当のコンビニから出てきたら、その企画が今週いっぱいが期限で、とても欲しいものがもらえるほど点数が溜まらない、1週間おにぎりを食べ続けないといけない、だから、もう諦めた、とがっかりしていた。もの凄く踊らされる人である。
![]()
パスカルは、早く帰りたい。家に戻ると、真っ先に自分が家の中に飛び込み、そこで即座に振り向き「おかえりなさい」と飛びつくのである。ずっと一緒だったではないか、と言いたいが、そういうふうには考えないみたいだ。このへんのメカニズムが面白い。
工作の方は、ハンダゴテが新しくなったため、キットがまた面白くなった。といっても、ハンダゴテを使うような場面は10分に10秒間くらいで、あとの9分50秒はヤスリをかけている気がする。日本のキットのように、組立図というものはなく、そのかわり説明が文章で非常に厳密に書かれている。日本語に訳したら絶対に作れないだろう。日本語ではわけがわからなくなるからだ。少なくとも複数形があるだけでも助かる場面が多い。
![]()
夕方に出かけて、研究関係の人と話をしてきた。トータルで3時間ほど。それから、飛行機関係の友達と会って、お茶を飲みつつ模型談議。こちらは1時間半ほど。後者の方が5倍くらい新しい情報があった。
古い体質の組織というのは、どうしてそんなに頭の固い人間ばかりなのか、と不思議に思うけれど、そういう人間でないと勤まらないのだ。そうでない人間は近づかないし、間違って入っても辞めてしまう。その結果、今の状態になった。慣例とか前例にばかり従って、とにかく恙なく、自分が退職するまではどうか今のままでいてね、という意思の集積なのだから、ちょっとやそっとで変わるはずがない。改革を実行できるのは、抜群の政治的才能を持った人間だけだが、どこか外部から連れてこない限り、そんな人材は内部には一人もいない。
![]()
また機関車が届いた。こんなに買うから置き場所がなくなるのである。いい加減に棚を作るか、少しは部屋の整理をしなければならない。そちらの方面のやる気が出ない理由をつらつらと考えてみたのだが、たぶん、そんなことをつらつら考えているから時間がなくなるのだろう。
【体育】 チームプレィ
チームでプレィするスポーツは多い。チームワークが要求される。ときには、個人技で優るプレイヤが大勢いるチームよりも、バランス良くまとまってチームプレィができる方が勝つこともある。たぶん、監督は口を酸っぱくして「チームプレィを」とか、「一つになって」とか、叫び続けていただろう。
でも、ワールドカップやオリンピックなどの国際試合になると、国を代表するチームが新たに結成される。このとき、国内で一番強いチームが選ばれるのではなく、あちこちのチームから良い選手だけをピックアップする。つまり、チームプレィよりは、やはり個人技なのか? チームプレィなんかちょっと練習すればカバーできてしまうものなのか、と思えてしまう。
たとえば、二人三脚の世界チャンピオンに、陸上短距離の世界1位と2位が組んで挑んだら、勝てるだろうか、というような疑問だ。たぶん、短期間であれば、日頃チームを組んでいる方が強く、練習時間を積むほど、ポテンシャルの高い者が組んだチームが強くなってくるのだろう。また、個人によっても、チームプレィに向いている才能と、そうでない才能があると思われる。
ところで、残念ながら、社会ではスポーツほどチームプレィが際立って大事だという仕事はない。大勢で作業をするときも、個人のノルマや役割が明確に決められている。チームで一丸となるようなことは稀だ。ノン・フィクションではかなり多く描かれているけれど、実際にはまずない。チームワークというものにみんなが「憧れて」いるのだ。「力を合わせれば勝てる」という幻想かもしれない。
2008年01月26日(土曜日)
【HR】 切れたハンダゴテ
昨夜、ハンダゴテが切れてしまった。ヒータの寿命だ。一昨日、ハンズでコテ先だけ買ってきて、取り替えたところだ。気分良く使っていたのに……。今まで何本ハンダゴテを買っただろう。今使っているのは5本かな。それでも同じ大きさのものはない。しかたなく、ワットが同じで小さいものを使ったが、これがやはり熱容量が足りなくて上手くいかない。
だから、寝るまえに「明日は朝一番でホームセンタへハンダゴテを買いにいくよ」とスバル氏に宣言した。こういうふうに言うと、たいていスバル氏はにやりと笑って、「ほう、そうかね、どうしてもハンダゴテが欲しいのかね」と言うのだが、いったい誰の真似をしているのか不明。
![]()
パスカルも一緒にホームセンタへ。ハンダゴテは1200円だった。コテ先が500円だったことを思うと、本体は安い。そういえば、デジカメもこのまえバッテリィを交換したが、3万円のデジカメのバッテリィが1万円くらいだった。しかも、バッテリィを替えたあと、写真にときどき筋が入る不具合がある。ようするに、一部を新しくしても、だいたい機械自体がそれくらいの寿命で設計されている、ということかもしれない。MLAの写真で気づいている人もいると思うけれど、せっかくバッテリィを替えたばかりなので、しばらくこのまま使うつもり。
そういうわけで、工作は新しいハンダゴテのおかげで気持ち良くできた。やっぱり道具は大事だ。そしてもっと大事なことは、道具を壊れるほど使ってやること。今回壊れたハンダゴテも、コテ先だけは残しておく。コードとスイッチも使えるしな、とかいろいろ利用を考えるわけである。ヤスリなんかも削れなくなったら、グラインダで形を変えて、ほかの道具に転用することができる。
ハンダゴテを初めて買ってもらえたのは、小学生のとき。そのハンダゴテが切れたのは、たしか大学生のときくらいだったと思う。黒い柄の60Wのやつだった。それで無線機も作ったし、機関車も組み立てた。最初はあの1本だけでなにもかもやれたのに、今は、30W、60W、100Wが2本、150Wと各種取り揃えている。だんだん不器用になっているのかもしれない。
![]()
工作について、普通の人は「器用ですね」と言うけれど、エベレストの登頂に成功した登山家に向かって「器用ですね」と言うのと同じくらい「的はずれ」だから、気をつけた方が良い。工作と器用さは、登山と器用さと同じくらい、ほとんど関係ないからだ。僕は、他人を見て、自分よりも器用だなと思ったことは何度かあるが、自分の方が器用だと思ったことは一度もない。
今日は、パスカルのR2-D2モードの録画に成功した。カメラに気づいた瞬間に黙ったけれど。
毎年冬になると、近所で大木が2、3本は倒れる。2軒お隣の樹が倒れて、もう少しでお隣のジャガーを潰すところだった。まだ葉が緑の樹だったので、予測不可能だっただろう。
【社会】 自転車の交通ルール
自転車の危険性については以前に書いたが、やはり問題になっていたようで、道交法も改正され、そろそろ施行になるらしい。
たとえば、酒を飲んで自転車を運転することが違法だと認識していない人が多い。自分は酒飲みだから、自動車じゃなくて自転車で通っているのだ、という人が周囲にいないだろうか。今までは、ほとんど黙認されていた感じだが、もうそうはいかない。罰金では済まない。懲役もあるし、社会的立場も失うことになるだろう(就職を控えている学生は気をつけるように)。
自転車で歩道を走ることも基本的にできない(例外があるが)。歩道をもの凄い勢いで走っていく自転車は、非常に危険な存在だった。死亡事故も増えていた。きちんと取り締まられることが期待される。ちなみに、自転車に乗って電話をすることも、傘をさすことも禁止されている。
スバル氏によると、TVでは、子供を2人乗せることや、傘を取り付けた自転車が明確に禁止されたことで話題になっているらしい。今まで、いずれも大目に見られていたし、それをするための専用の器具まで売られていたのだ。「雨が降ったときに自転車に乗るなら、合羽を着るしかないのでは」と僕が言うと、スバル氏は「いや、おばちゃんたちは日傘なんだよね」と教えてくれた。
何年もまえから、僕はこれを訴えてきた。自転車は横断歩道に飛び出してくるし、一方通行も逆に走るし、一時停止もしない。街を歩いていて、こんなに恐いものはない。問題になるのは、当然だと思われる。
2008年01月25日(金曜日)
【HR】 しゃかりきになる暇
朝は氷が張っていたらしい(スバル氏談)。パスカルが喜びすぎ。本当に寒いのが好きみたいだ。遊んでくれ遊んでくれと煩い。「いないいないばあ」をしてほしいのだ。ボール遊びをしてほしいのだ。庭を疾走してみせる。一人で遊べば良いのだが、それはできないらしい。人間の子供にも、一人で遊べる子と、そうでない子がいる。
スバル氏はもともと寒いのが苦手な人だが、毎朝パスカルの散歩に出かけていく。僕が起きる頃には、もう帰ってきたあとだ。「パスカルは寒いと元気だね」と言うと、「パッチィのために軽井沢へ引っ越そうか」なんておっしゃっていた。都会にしか住みたくない、なんて日頃言っているのに、信じられない発言である。
![]()
執筆が終わったので、今日はゲラ校正のみ。「クレィドゥ〜」のゲラは一気に最後まで見た。それから、yorimoに掲載の「スカイ・イクリプス」第5話のゲラも確認。次の執筆はFM東京の音楽エッセィ。もう3回まで公開されているが、5〜8回分を明日から書く予定。
ネタばれを書く。作者が書くものは、いかなるものもネタばれではない、というのが持論であるが、この場合は文庫の解説なので、僕の文章ではない。私だけ……、萩尾望都先生のところにあるのは、「困った炊飯器」ではなくて、「生真面目なブレーカ」だと思う。
今日も3時間ほど、キットを組み立てていた。大半の時間はヤスリをかけている。面白いが、少し厭きてきた。別の工作を始めようと思う(というか、工作は既に10以上同時進行しているのだが)。
![]()
売れっ子スターとか、大儲けした実業家とか、たいていは「忙しくて遊ぶ暇もない」と言うけれど、大衆はそれを本気にして、「そうか、そんなに忙しいなんて可哀相だな。自分はあそこまで金のために働きたくはないよ」と我が身と比較して安心する。このように安心させた方が、不当な反感を買わずにすむ、という自己防衛で「忙しい」と言っておくのだろう。
考えてみればわかるが、金を儲ける目的は、好きなことをするためだ。その目的を見失う人間はいない。したがって、たいていの金持ちは好きなことをしている。金があれば嫌なことはしないでも良くなる確率が高くなるのは事実だ。だから、まちがいなく、みんな好き勝手をして遊んでいるはずである。稀に本当に忙しい金持ちもいるけれど、その場合は、それがその人にとっての「遊び」なのだ。
![]()
えっと、ところで、僕は、全然忙しくない(笑)。毎日遊びほうけている。遊ぶことにすっかり時間を取られ、仕事をする暇も、お金を使う暇も、健康に生きる暇もない。あれ? やっぱり、これ、忙しいっていうのかな……。では、こう言ってみてはどうか。「のんびりすることに忙しくて、しゃかりきになる暇がありません」
まあ、ブレーカって普通、融通が利かない堅物なんだけどね。
【理科】 壊れ方のデザイン
すべての箇所を合理的に作り、つまり全体として最適な強さのバランスにデザインすることは、必ずしも正しくない。むしろ、通常はわざとバランスを崩し、弱い部分を設定しておくものだ。
いろいろなレベルのものがある。少々方向性が違うが、たとえば、ヒューズは大電流が流れた場合に、その弱い部分で断線するようになっている。蒸気のボイラにも、水がなくなり空焚きになったときに溶けて穴が開く箇所が作られている。自動車は衝突した場合に歪む部分が考えられている。建物は柱よりも梁がさきに折れるようにわざと弱く作られる。河川の堤防も、どこも同じ高さではなく、さきに水が流れ出る場所が設定されている。バランス良く軍隊を配置するより、弱い部分を作っておけば、敵はそこから攻めてくる、とおおかた予測できる。相手が人間ではなく、自然現象であれば、裏をかかれることはない。
壊れないことがまず大切であるけれど、万が一壊れるときには、どこがどう壊れるのか、どの順で崩壊するのか、ということが予測できることが「安全」である、という考え方だ。被害を最小限に食い止めるという意味で、古くから工学の基礎的な思想となっている。
人間の場合にもこれがある。躰のどこかに弱い部分があって、具合が悪くなると必ずそこに不調が出る。また、組織においてもこれがある。不況になったり、トラブルがあったときに、問題が出やすい部分が必ずある。
一部を壊すことで、そこがクッションとなり、全体へのダメージを和らげる効果もある。したがって、弱い部分だからといって、そこを補強すると、たしかに強度は上がるものの、どこから壊れるのかわからなくなってしまううえ、壊れ方も爆発的で一気に全体に及ぶような危険なものになる。
2008年01月24日(木曜日)
【HR】 感じ方も他人任せ?
大きな工作がしたくなったので、金属素材を買いにいくことにした。ネットで注文した方が安いし便利だけれど、たまに細かいものを見て揃えたいときがある。繁華街へ車で出かける。スバル氏も一緒についてきた。
真鍮や鉄の板やアングル、それから歯車などを3万円分くらい買い溜め。これ以上買うと、駐車場まで自分の力で運べなくなったので、それがリミット。そういえば、ネットで注文すると、届いたとき門からガレージまで一人で運べないことが多い。
![]()
スバル氏と待ち合わせ、ハンバーガを食べながら帰ってきた。日差しがクリアで、車に乗っている分には暖かい。帰宅したらパスカルが2階にいて、階段を下りてきた。どうやら風でがたがたと音がしたのが恐かったらしく、隠れていたのだ。
「スカイ・イクリプス」第6話は完成。「クレィドゥ〜」のゲラは80%まで。今日の写真の1枚は、1890年製の蒸気機関車のおもちゃ。イギリス製。アルコールを燃料にして走る。
![]()
小説を書いて感じることは、かなり大勢の人たちが「感じ方」を忘れつつある、ということ。変な例だが、凄いものをつまらなく描写すると、素直に「つまらないな」と感じられ、つまらないものを捻って凄いものだと書くと「凄い」と感じる人が多いのである。
過去にも例に挙げているのは、野球漫画で魔球をピッチャが投げたとき、スタンドの観客が「おおこれは!」「出た! 魔球だ!」と叫ぶシーン。このように登場人物に「これは凄い」と言葉で語らせないと、「凄い」ことが通じない。孤島の決闘シーンであれば、それをこっそり見ている人物を登場させ、「あの技はもしかして……」などと呟かせないと駄目なのだ。まるでプロレス中継(古いか)みたいである。
そう、TVの影響も大きいだろう。TVには、「どう感じれば良いのか」という見本を見せてくれる人たちがスタジオにいる。その人たちが「可愛い!」と叫べば、それは可愛いものとして視聴者に伝わる。「感動した!」と言えば、それで感動する人が多い。お笑いものでも、可笑しいシーンには笑い声が演出で入っている。そういうものにずっと慣れてしまうと、自分の感じ方ができない人間になるのではないか。自分一人だと、ここは笑って良いのか、泣いて良いのか、感動するところなのかどうなのか、わからない。同じものを見た人と話し合ったり、ネットで検索してみないと、どう感じれば良いのかがわからず、安心できない。
![]()
一方では、自分の感覚を持っている人たちは、「こう感じなさい」という演出が鼻につく。他人がどう感じるのかということにも興味がない。そんな部分は余分で鬱陶しい。だから、CATVなんかのストイックなドキュメントがとても面白い。それを見て、自分一人で「凄いなあ」と感じたいのだ。スタジオの司会者に「これは凄いですよ、ご覧下さい」なんて紹介されたくないのである。
以下の4パターンがあったとしよう。
A「凄いことを凄く描く」
B「凄いことをあっさり描く」
C「凄くないのに凄く描く」
D「凄くないことをあっさり描く」
自分で感じられない人は、AやCを凄いと思い、BやDをあっさりしていると思う。自分で感じられる人は、Bを凄いと思い、AとDを普通だと感じ、Cには眉を顰める。
さて、創作者はいずれを狙うべきか?
【算数】 応用力
小学校の科目で算数が特異な理由は、答が教科書に書かれていないことにある。つまり、先生から教えてもらえるものが、「答」ではなく、単なる「やり方」に過ぎない、という点だ。他の科目は、テストのときに教科書を見ることができれば(つまりカンニングだが)問題に答えられる場合がほとんどだ。しかし、算数の場合には、計算ならばたまたま同じ式を発見できるかもしれないが、応用問題になると、ほとんど同じものは見つからない。
国語の問題で、「文中の『それ』は何を示しているか?」とあれば、その答は文中にある。教科書にないもの、そこにないものが求められることはまずない。算数ができない子供の多くは、教えてもらっていないものを、何故答えることができるのか、と考えているだろう。
このことは、新入社員にもいえる。「そんな対処のしかたは教えてもらっていない」という新入社員に、「そんなことくらい、考えたらわかるだろう」と腹を立てる上司。これは、算数の問題における「難しさ」に類似している。
一般に、これを「応用力」と呼ぶようだ。
たとえば、細かく書かれた室内のイラストがあって、そこに矢印で示されているものがある。それに対して、「電話でその場所とものを伝えよ」「目の見えない人にそれを説明せよ」という文章題が出されれば、国語でも応用力が問える。選択肢があって、そこから選ぶのでは意味がない。この問題を採点するには、教育者が読解力を持っていなければならない。
解答合わせが楽なように選択問題になった時点で、数学と物理以外では応用力を問うことが非常に困難になった、ともいえる。しかし、既存の情報から選択することは機械でもできる。人間に求められている能力とは、想定外のときに、これまでの経験をどう応用できるか、ではないだろうか。
2008年01月23日(水曜日)
【HR】 段取りに尽きる
久しぶりに雨になった。乾燥していたから、植物はありがたいのでは。
起きてすぐに小説の仕事を片づけた。「スカイ・イクリプス」第6話の推敲50%、「クレィドゥ〜」のゲラは70%まで。
仕事が終わって、スバル氏と買いものへ。今日はパスカルは留守番。「留守番」と聞くと、尻尾が下がり、走り回って喜ばない。帰ってくると、プレーリィ・ドッグのように立ち上がって大喜びする。
昨日のケーキの残りを食べた。「本日中にお召し上がり下さい」とあったので、多少気にはなったのだが、スバル氏に尋ねたら、「そんなもん、気持ちの問題だ」とおっしゃった。それで心強くなり、昨夜食べるのをやめ、今日に持ち越した。その方が自分の体調にも良かったと思う。
![]()
イギリスのキットの組立てはまだ中盤で、説明書を読みながら作っているが、どの項目も、「この段階では仮組みし、確かめるだけにする。まだ接着してはいけない。それはもっと後だ」と書かれているので、どこまで作っても、まったく出来上がらない。このまま最後まで確かめ続けることになりそうだ。しかし、工作というのは、たいていこのとおりなのである。一番難しいのは、どの段階で最終的な(不可逆な)手順を実行するか、ということ。工作に限らない。ほとんどすべての作業が、この「段取り」に尽きる。
仮の作業、確かめるだけの作業はいくらでもできるし、簡単でもある。しかし、仮ではない本番の作業を実行してしまうと、もう取り返しがつかない。それを行ったことで、次の作業が制約され、どんどん動きにくくなる。あるときは、順番が間違っていたことに気づき、最悪の場合は、せっかく作ったものを壊したり、作り直したりしなければならないことになる。これが手順の失敗だ。この失敗をさせないことが、プロジェクトのリーダの役目だが、個々の作業を行うこと(労働)に比べると、その見極めは一般に、はるかに難しい。
ただ、どうすればその順番を間違えないで進められるのかというと、これはもう、めちゃくちゃ考え抜くか、それが無理ならば、仮組みを繰り返し、確認行為を少しでも数多く行う以外にない。
![]()
イギリスから昨日届いた機関車のラジコンのメカを調べた。不調は受信機のようだ。年が明けてから修理をした蒸気機関車3台も出番を待っている。このように地道に工作を進めるうちに遊びのポテンシャル・エネルギィが上がってくるので、そのうち雪が降っていても走らせたりしてしまうのだ。ラジコン飛行機を雪の中で飛ばしたことが何度かある。機が熟すというのは、絶好のチャンスが来るという意味ではなくて、もうこれ以上待ちきれない状態のことらしい。
星野公男氏がイギリスへ旅行されていたが、またお土産が届いた。本当に嬉しい。
【国語】 会話と文章の違い
人と話した内容を録音し、これを文章に起こす機会が、僕の仕事ではわりと多い。たとえば、講演や講義を録音し、それを文章にしたものがある。聴いている人たちがその場にいて、その人たちにわかるように話す。ところが、あとで文章になったものを読んでみると、情報が欠落していたり、代名詞が多くて曖昧だったり、誤解を招きやすい表現だったり、酷いときには、まるで間違っていたりする。しかし多くの場合、その場ではそれで通じてしまっているのである。
記録を前提として話をすることもある。対談などがそうだ。文章になることを意識して話をするわけだが、それでもやはり話したとおりそのままでは、読めたものではない。手を加えて、読める文章に直さなければならない。
書く文章と読む文章に差がない、という人が沢山いる。あるいは、話が上手い人は、そのまま文章も書ける、と考えている向きもある。これらは、完全な思い違いで、書く文章は会話とはまったく別物といって良いし、また、話が上手い人はえてして文章が下手だ。
何が違うのか?
会話はその場にいる人にだけ伝われば目的が達成される。相手の顔を見て話ができたり、あるいはレスポンスがすぐにあったりして、話す内容にフィードバックできる。
文章でも、読む相手や読む時間が限定されているものは、会話に近いものでも目的を達成できる。しかし、読み手が特定できない、いつ読まれるかわからない(20年後かもしれない)場合であっても意味が伝わるように書くことは、それなりの難しさが伴う。
相手がどう受け止めるのか、という発想が常になければならない。間違えて読む可能性をいつも考える必要がある。頭の半分は、いかに表現するかを考え、もう半分は、それがどう伝わるのかを予想する、それが文章を書く作業だ。実は、会話でも同様の処理が行われている。ただ、相手の可能性をどこまで広げられるか、という範囲の差が極めて大きい。
2008年01月22日(火曜日)
【HR】 3次元的把握
今日は体調が良い。ということは、ここ数日良くなかったのだとわかる。8時頃に起きて、すぐに小説を3000文字ほど書いてから、庭に出て、燃えるゴミを2袋作った(箱などを解体)。
パスカルは昨夜遅くシャンプーされた。スバル氏がバスタオルを用意し始めたら察知して、最後に庭に出してもらったとき、帰ってこなくなった。呼びにいったら、ゲートの方から走ってきた。シャンプーが嫌なのだ。しかし、洗ってやったら気持ちが良かったらしく、そのあとは熟睡していた。今朝はもの凄く膨らんで、遠くから見ると前後がわからない。
![]()
イギリスからまた機関車が届いた。箱から出して走らせようとしたが、ラジコンのメカが一部不調だった。この種のメカは日本製の方が信頼性が高いようだ。ラジコンのパーツは沢山余っているので今度取り替えよう。
「スカイ・イクリプス」第6話は最後まで書けた。推敲は明日以降。「クレィドゥ〜」のゲラは60%まで。今日は、yorimoに掲載される「スカイ・イクリプス」第5話のゲラが届く。「日経パソコン」第57回のゲラを確認した。夕方には、「θは遊んでくれたよ」文庫版のゲラを、講談社のO村氏が取りにきてくれた。ケーキもいただいたし、パスカルのおもちゃもお土産にいただいた。
![]()
工作は、昨日から機関車のキットの組立て。自分で考えて作るスクラッチビルドに比べると、労働するだけなので、キットはとてもリラックスしてできる。英語の説明書を読んでそのとおり作れば良い。上手くいかないときには、「人のせい」になるから、腹が立っても諦めるしかないが、逆に上手くいったときは「ありがたい」と感じる。なんというのか、王様になったみたいな気分だ。「僕のためによくここまでしてくれた」という感じ。ときどきは、キットで息抜きも良い。
![]()
ところで、物体を3次元的に捉えられる人と、そうでない人がいる。どんな人も2次元的にならば捉えられるだろう。これは、日頃からすべて2次元映像で見ているからだ。3次元の映像は基本的に見ることができない。映像はすべて2次元だが、そこから物体の形を想像して、3次元の形状を頭の中で展開しているわけである。
たとえば、人間でも犬でも良いが、その形状をだいたい把握している物体があるとしよう。そのとき、それを斜め上から見たら、どのように見えるのか、ということが想像できるはずだし、また、斜め上から光が当たったとき、どんな形の影が地面にできるのかも、想像ができるはずだ。これは、形状の情報を知っていれば処理(計算)できることだし、ある意味では、形を知っていることと同義である。
顔は後ろからは見えない、ということも、3次元的な想像の一例である。つまり、3次元的に捉えられる人かどうかは、明確に二分されるのではなく、どこまで想像が及ぶかという差であって、これもやはり、想像をどこで諦めるか、の違いになる。形を把握するのも、思考のうちということ。
どんな形も全体はけっして見えない。見えないものを、見たように人間は脳で処理し、把握する。現実とは、つまりそういうふうにして脳で作られるものだ。
【社会】 形に残る仕事
建設業などのキャッチコピィに、「地図に残る仕事」というものがあった。自分の仕事が形として残ることは、たしかに1つのクレジットだとは思う。ただ、経済が発展している社会では、そうした仕事の割合が多かったけれど、ある程度達成してしまったあとには、そればかりでは困る。
街が発展しているときには、様々なものが必要になる。あの施設は誰が建てた、あの道路は誰が造った、というように形として業績が残る。しかしその時期を過ぎると、新しく必要なものは少なくなる。既に使われている施設も老朽化してくるわけで、それらを修復する必要も生じる。これらの「維持」や「補修」は形にならないので、どうしても業績として捉えにくい。あの建物は誰が直した、というふうには語られないからだ。
名目を無理に考え、さらに新しい施設を作り続けるよりも、既存の施設を直すことに資金を投じるべきなのに、それでは形に残らない、自分の業績として見えにくい、話題性がない、新たな組織が生まれない、などと考える。これは「常に前進したい」積極性のように見えるが、実は、これまでの金の流れを変えたくない、そのことで生じている今の権力を維持したい、という消極性でもある。
新しい建物がどんどん建つわりに、古い建物の修復には予算がつかず、ずっと放置されている。日本では、どこにでも見られる光景だ。官僚の世代が変わるまでは無理だろうか。その世代の頭の中には、まだ戦後の復興という形が残っているのか。
古い世代にまだまだいる。なにかというと、新しい施設を作りたがる人たちは、そういうことでしか元気が出せない人種、つまり、貧しい日本を生きてきた世代なのだ。ご苦労様でした、と言ってあげたい。もう引退した方が良い。
2008年01月21日(月曜日)
【HR】 価値を見る目
予報では暖かくなるはずだが、相変わらず寒い。パスカルは元気。
小説の仕事は予定どおり進め、「クレィドゥ〜」ゲラが50%、「スカイ・イクリプス」短編が70%まで。ちょっとペースがこれでも早めなのだが、まあまあスローで好ましい。とにかく、セーブしないと早くなりがち。ゆっくり進もう。
工作の方も同じで、できるだけゆっくりと進めたい。穴を一つあけるにも、固定の仕方をじっくり考え、必要ならばジグを作るくらいしたい。力を入れないで、軽くヤスリをかけるようにしなければ。このようにいつも意識していないと、どんどん力が入ってしまうのである。
パスカルが車に乗り込むときに、特殊な声を出す。ちょうどR2-D2の出す音に似ている。動画で撮りたいと思い、チャレンジしているが、上手くいかない。デジカメを向けるとき、僕とスバル氏が黙ってしまうので、その間はパスカルも黙ってしまうのだ。みんなと一緒に騒がないと駄目みたいだ。難しい。
![]()
アンプの話で恐縮だが、この1年間ほどで13台の真空管アンプを聴き比べた。一番高いものは70万円くらい(それの中古を買ったのだが)。安いものは(材料費が)3万円くらいである。うち9台は自分で組んだし、残りも部品を替えるなど手を加えている。スピーカ・ユニットは4組あって、これも切り換えて聴いた。アンプもスピーカも、比較をすると高いものの方が音が良いか、あるいは優劣がつけがたい。逆にはならない。特にスピーカは違いが顕著だ。ただし、アンプの中で唯一5万円くらいのキットを組んだものだけが、どう聴いてもベストスリーに入るくらい良い。これだけが値段の順にならない例外である。1つ例外があるというのは、つまり値段の順ではないという結論になる。たまたま好みの問題なのだとは思うけれど、そういった主観を越えている気がしてならない。「良い音」と書いたのは、「好きな音」とはまた別だからだ。
![]()
よく「価値が見分けられるようになるには、どうすれば良いか?」ときかれる。美術品でも骨董品でもそうだが、自分の金を出して買えば、価値がわかるようになる。それだけ真剣になるからだ。ただぼうっと眺めているだけでは、なかなかわからない。自分で買って、ときどき失敗して、つまりそれなりの「勉強」をすれば自然に評価眼が身につく、と僕は思う。
たとえば、絵の展覧会へ行く。あなたは、自分の全財産を、展示されているどれか1枚の絵と交換することになった。そういうシチュエーションで絵を見ていけば、抽象画だろうがなんだろうが、必死になって価値を見る目で吟味することになるだろう。
世間の評価に惑わされてはいけない。見る目がない人間がいくら沢山集まっても正しい評価はできない、ということは自明。どうせ失敗するのなら、自分の目で失敗すべきであるし、自分の目で失敗すれば、少なくとも同じ失敗を繰り返さないだろう。
この場合、失敗というのは、世間では実は価値が認められていなかった(実は安物だった)という意味ではない。自分で選んで、自分が気に入っていれば、それは失敗ではない。自分の目が肥えて、その価値に幻滅した、というような場合のことである。これはときどきある。いつまで経っても、未熟だ。
そうそう、「未完成」という言葉が好きだと以前に書いたが、「未熟」も好きだ。座右の銘にしようかな。
【理科】 速さを感じる
通常、物体が運動しているとき、同じ時間のうちに多くの距離を移動できることを速いという。また、物体でないときにも使われる。たとえば、電磁波などがそうだ。電磁波が伝わる速さがあるし、また、周波数が大きいとは、振動が速いことである。いずれも、時間が基準になっている。
人間の目が捉える電磁波は、ある特定の振動数のもので、光と呼ばれる。振動数が異なると、違った色に見える。だから、色を識別することは振動数、すなわち振動の速さを感知していることになる。
人間の耳が捉える音は、空気の体積弾性による振動である。この振動の速さが、音の高低になって聞き分けられる。耳もまた、その振動の速さを感知している。
人間の皮膚は熱を感じることができる。熱とは分子の運動である。これもまた、かなり限られた範囲しか感じることはできないものの、速さを感知していることになる。
つまり、見えるものも、聞こえるものも、触れるものも、すべて速度の違いを感じることになる。運動しているから、速度がある。空間と時間があるから、速度がある。
当たり前のことを書いたが、ほんの数百年まえには、まだ誰もこれを知らなかった。
2008年01月20日(日曜日)
【HR】 マイナな趣味の世界
曇り空で寒そうな日曜日。外に出るとさほどでもない。今日も起きたら9時だった。よく眠れる。
スバル氏がデパートにバーゲンとカレーが目当てで出かけていく。駅まで送った。パスカルと留守番だが、お昼過ぎには帰ってきたので、ほんの少し。その間に小説の仕事を片づけた。「クレィドゥ〜」のゲラは40%まで、「スカイ・イクリプス」の短編は完成度45%。機関車製作部のレポートもアップした。
![]()
今日の工作は、10年ほどまえに銀座の三越で買った路面電車の木製の置物(たしか3万円くらいだった)の下回りの改造。台車を取り付けて弁天ヶ丘線を走れるようにした。ただ、モータはないから坂を下っていくだけだ。何度か走らせて遊んだが、面白かった。人間が乗ることもできるけれど、重心が高いのでちょっと恐い。
お正月から工作の課題を立て続けに片づけているのが、自分でも凄いと思う。「ばりばり」という音が聞こえてきそうなくらい調子が良い。寒いときにこんなに活動的なのは珍しいので、たぶん暖冬のせいだと思う。
昨夜は、1930〜40年代の模型関係の洋雑誌を読んでいた。80年近くまえだ。雰囲気は、ほとんど学会誌か学術雑誌のようで、記事はどれも論文のようだった。日本はこれから戦争に突入しようとしていた頃だ。当時の日本にも趣味人はいただろうけれど、国内にこれだけの雑誌はなかったはず。やはり、豊かさというのか、余裕の違いが感じられる。
![]()
小説というのは、数十年まえまでは、一般の人、普通の人が誰でも少しは読んでいたものだったけれど、今では完全な「趣味」の1つになった。つまり、「模型」とか「釣り」とか「ダンス」とかと同じホビィの1ジャンルとして「小説」というものがある。ほかの分野に比べると、道具を揃えたり、誰かに教えてもらったりする必要がないので入門が容易い、といった特徴はある。
「小説」を読むことを趣味として楽しんでいる人数は、僕の観測では、「鉄道模型」を趣味にしている人の半分くらいだ。また、年齢層で見ると、若い人の方が多い。歳をとるほど読めなくなるみたいである。ほかのものへ興味が移ってしまい、ときどき思い出したときに読む、あるいは好きな作家だけを読む、という程度になる人も多い。若い人の活字離れがたまに話題になるけれど、どう観察しても、活字離れをしているのは年輩の層である。それくらい高齢者が気軽に楽しめる趣味分野が世の中に増えた、ということだろうか。また、時間がたっぷりある人は、もっと別のことをする、ということかもしれない。案外忙しい人の方が、ちょっとした時間を見つけて小説を読む傾向がある。そういう楽しみ方ができることが特徴ともいえる。
このまえTVで、「若者が本を読まない」という話題になったとき、「今の若者も、せめて夏目漱石くらい読んでほしいですね」なんてコメントする奴がいた。「せめて村上春樹くらい言ってほしい」と思った人は多いのでは……、ああ、そうか、そんな人はTVなんか見ていないか。
まあ、そんなに無理をして読め読めと訴えるほどのものではないのでは? 好きな人がこっそり楽しむマイナな趣味なのだし、マイナでプライベートなものだから楽しいのだ。
【算数】 仮分数と帯分数
分数を最初に習ったとき、1/2や1/3、あるいは2/3や3/4のように、いずれも1より小さな数だった。これらは「真分数」と呼ばれている。「分数」は英語で「fraction」で、この言葉自体が、「部分」「破片」という意味なので、「本来あるべき量に満たないもの」というイメージだ。「真分数」は、英語で「proper fraction」、つまり、「適切な」「礼儀正しい」分数ということになる。
一方、分数の計算をするうちに、分子の数が分母よりも大きくなってしまうことがある。たとえば、3/2などである。この頭でっかちの分数は、日常にはほとんど使われないし、概念としても表れないものだから、子供もなかなか理解できないところだろう。このような分数は「仮分数」と呼ばれている。英語では「improper fraction」、つまり、「不適切な」「行儀の悪い」分数ということになる。
仮分数は、1よりも大きい。多くの人が「過分数」だと間違えているだろう。それが気持ち悪いというか、大きさが把握しにくいという理由で、整数と真分数の和にして書き直すことができる。これが「帯分数」で、英語では「mixed fraction」という。たとえば、3/2は、1・1/2(本当は・なんかないけれど)みたいに分けて、「1と2分の1」と読む。僕が小学生の頃は、「1か2分の1」と読むように教わったが、いつの間にか変わったらしい。
僕は、帯分数が嫌いだった。仮分数に比べて、計算が煩雑になるからだ。どうせ仮分数に直して計算しなければならないのなら、初めから仮分数だけにすれば良いではないか、と思ったクチである。
日本人は、欧米人に比べて分数が不得意だ。生活に密着していないからだろう。ほとんど小数でものごとを片づける。たとえば、インチの図面を見たら、びっくりするほど分数だらけである。
2008年01月19日(土曜日)
【HR】 多いほど良いのか
この頃、朝起きると9時だ。地球の時間が少し進み気味ではないだろうか。天気は良いが、風が冷たそう。
午前中に小説の仕事を片づける。「クレィドゥ〜」のゲラを30%まで。「スカイ・イクリプス」第6話は1500文字書いて完成度25%。FM東京のサイトのチェックが少し。スバル氏は「銀河不動産」のイラストを描いていた。
ホームセンタへパスカルを連れていった。久しぶりにカートに乗せて店内を一緒に回ったが、とても大人しくしていた。ときどきカートに乗った犬と出会うけれど、吠えたりはしない。むしろ、カートに人間の赤ちゃんが乗っていると、少しだけ鼻息が荒くなる。今日もミニストップへ寄った。
スバル氏が最近、煎餅に凝っていて、毎日いろいろ食べている。「これだけ食べて、よく太らんと思うわ」と高笑いしていた。子供の頃は、この世に煎餅なんてものがどうしてあるのだろう、と僕は思っていた。それくらい美味しくないものだと感じたからだ。この頃は、お茶を飲んだとき1枚くらいなら食べる。ちょっと美味いなと思うことはたしかにある。でも、まあ、なくても良いかも……。饅頭よりはまだ僕寄りだが。
![]()
一生のうちに一度も触らないもの、一度も見ないもの、一度も概念にさえならないものが、沢山あるはずだ。自分が関わるものの方がずっと少ない。そういったものが存在するのは、自然の一部にしか自分が踏み込まないからだし、自分以外の大勢の人間がいて、人によってさまざまだし、そんな人たちのためにあるものだったりするからだ。
よく「できるだけ多くのものに触れたい」という言葉を耳にする。「多い」ことの方が「少ない」ことよりも上位である、という価値判断は常に正しいだろうか? 例は悪いが、たとえば、結婚相手は多い方が良いだろうか? 犬が好きだったら、できるだけ沢山の犬を飼う方が楽しいだろうか? 友達は少しでも多い方が良いのだろうか? 子供は沢山生まれた方が良いだろうか?
生きている時間は限られているから、多いほど1つに関われる時間は短くなる。では、時間が多ければ、それで良いのだろうか?
![]()
今日は、古い機関車の一部を分解整備。すぐに手が真っ黒になってしまう。ガレージでは水しかない。お湯で手が洗えない。だから、母屋まで行って石鹸で手を洗わなければならない。ガレージでお湯を使えるようにすべきだったかな。
【国語】 「その」と「あの」
「見かけない人を見たら、その人は誰?と声をかけ合いましょう」という標語を街で見かけた。これは、たぶん「あの人」の間違いだと思う。英語だったら、「その」なのだが、日本語ではおかしい。
「その」と「あの」あるいは、「そこ」と「あそこ」は、どう違うのか?
子供のとき、自分に近いものは「この」「ここ」であり、少し離れていれば「その」「そこ」であり、ずっと遠くだったら「あの」「あそこ」を使う、と習った。しかし、これは正確ではない。
たとえば、電話をしているとき、相手のすぐ近くにあるものは、「それ」である。自分からはるかに遠いところにあっても、「あれ」ではない。
上の標語の例では、怪しい人が、お隣の人と話をしているとき、少し離れたところから、お隣の人に「その人は誰?」と尋ねたイメージになる。その2人のところまで自分が近づくと、「この人」になる。いずれにしても、お隣の人と怪しい人は距離的に近い。「あの人」になるには、話している相手から対象が遠くなければならない。
自分が名古屋にいて、東京にいる相手と電話をしているとき、名古屋は「ここ」であり、東京は「そこ」である。静岡の話をすると、「あそこ」になる。この場合、「そこ」よりも「あそこ」の方が距離的に近い。
自分と相手が川の両側にいれば、「こちら」と「そちら」しかない。相手も自分と同じ側にいれば、「こちら」と「あちら」しかない。
2008年01月18日(金曜日)
【HR】 布教活動はいかがか
パスカルのパン問題で険悪な空気になったが、長女M氏が教えてくれた子犬の動画で家庭は円満に戻った。パスカルの足はこれでもまだ細い、という話に問題がすり替わったせいだ。
「クレィドゥ〜」文庫のゲラは20%まで読んだ。「別册文春」のゲラも確認して発送。終わり。カバーやその他、確認が多々あった。今日は執筆をする時間は取れず。機関車製作部の今月のレポートを書いている。
![]()
お昼頃、スバル氏とショッピングセンタへ。本とCDを購入。
工作は一段落したところで、今はガレージ内にもう1つ工作台を作る計画を練っている。大きな機関車を整備するためだ。スケッチを描こうかなという段階。イギリスから小さな機関車のキットも届いた。海外のものが本当に手軽に買えるようになった。素晴らしい。
![]()
明日から暖かくなるそうなので、今日もなるべく外に出ないことにした。でも、パスカルが庭で高い声で吠えているので、見にいったら、スバル氏が水やりしていて、パスカルがそれに飛びつき、びしょ濡れになって走っていた。冬にやることか、と思ったが、パスカルは大好きなのだ。
![]()
今日は宗教について少しだけ書こう。僕は宗教にはまったく興味がない。無宗教である。自分も墓に入るつもりはないし、葬式も含めて一切の儀式をするつもりはない。さて、それでも宗教が嫌いなわけではない。毛嫌いしているわけでもない。たとえば、観光地へ行けば、宗教がなければ作られなかったであろう造形、美術に触れる機会は多い。
誰が何を信じようが自由である。だから、宗教の存在は自由だ。宗教がもしマイナスのイメージを僕に与えるとしたら、唯一それは、他人に対して勧誘をする行為、つまり布教活動である。これだけは眉を顰めたくなる。
宗教に限らない。趣味でもそうだ。どんな趣味を持っていても自由だ。でも、誰彼かまわず会う人にその話ばかりして誘う人間は少し鬱陶しい。自分の子供、自分の妻、自分の夫、自分の恋人を溺愛し、また信じるのも自由だ。けれど、それを他人に理解してもらおうと熱心に語りかけることだけは控えた方が良いだろう。馬鹿だと思われるだけだ。つまり、宗教の場合もこれと同じような気がする。布教活動を目にすると、たちまちその宗教が胡散臭く感じられる。
なにも語らなくても、信者が幸せそうにしていれば、周囲から人が集まってくるはずだ。どうして布教活動なんかするのか? どうして幸せだと訴えるのか? 黙っていれば良いではないか。それが元で戦争になったりしている歴史もある。現代の宗教は、多少はこの点を学習したように見えるが。
![]()
今日は新人作家とメールを少しやり取り。なんか悩んでいるみたいだった。まあ、一言だけアドバイスをと頼まれたので、「人気を維持したいのなら、読者の期待をことごとく裏切ることです」と書いた。もちろん、期待どおりでいるよりも、期待を裏切り続ける方がはるかに難しいとは思うけれど。
【図工】 沢山ある道具
同じ道具なのに沢山持っているものがある。ドライバ(ねじ回し)は50本くらい。ペンチも30丁くらいはある。ヤスリも30本はあるだろう。ノコギリも20丁以上はあるにちがいない。サイズや形状の違いもあるし、使用条件によって適材適所、いろいろなものが必要になるからだ。
非常に限られた場面でしか使われない道具も多い。金属のパイプを切るものとか、チェーンを切るものとか。もちろん、ドリルの刃などは、0.1mm単位でサイズが決まっているから50種くらいは持っていないと仕事にならない。タップやダイス、リーマも同様だ。たとえば、特定の穴を開け、リーマで整えたり、あるピッチでネジを切ろうと思うと、その道具代だけで5000円くらいは飛んでしまう。穴1つに5000円だ。将来、同じ大きさの穴を開けることがもう1度あれば、2500円になるけれど、そうそう何度もないだろう。
捨てるものはないので、道具はどんどん溜まっていく(なくなることもあるが)。出来上がるものよりも道具の方が総重量が多いのではないか、という状況になってしまう。僕の場合、たぶん軽く1tonは道具を持っているだろう。
それでも、毎日の工作で、「駄目だ、ちょうど良い道具がないな」と思うことがあるのだ。モンキィレンチなんか、ほんのちょっとの形状の違いで、使えるときと使えないときがある。ドライバも、柄が長すぎてスペースに入らないときもある。こうして、また新しい道具を買ってしまうのだ。
さて、一番よく使う道具は何だろう? それだけはまちがいない。万力(バイス)である。これを使わない日はまずないといっても良い。驚くべきことに、素晴らしい活躍をしているにもかかわらず、たった1つしかないのだ。たぶん、コストは既に1回1円以下になっているはずである。
2008年01月17日(木曜日)
【HR】 時間を多く取ること
ここ数日が冷え込むという予報なので、外で遊ぶのを自粛。週末は暖かくなるだろうか。朝、スバル氏が自分の食べているパンをパスカルにやっているのを目撃し、ちょっとした議論になった。まえからその疑惑はあったのだが、ついに問題が表面化した。話し合いの場が持たれるだろうか。決着はいかに。
![]()
「クレィドゥ・ザ・スカイ」文庫版のゲラがきた。4月発行予定のものだ。単行本発行の5カ月後にノベルスを出し、さらにその5カ月後にはもう文庫化、という他に例を見ないスケジュール。このシリーズは、もともとノベルス化も文庫化も通常より倍も早かったわけだが、今回は映画のためにさらに早い。ノベルスや文庫が出ても、単行本が売れなくなることはない、という証明はできた。このシリーズの単行本は、文庫が出たあとに重版している。以前に書いたことがあるけれど、単行本、ノベルス、文庫を同時に出す、というのが個人的には最良と考えている。ただ、出版社にも事情があることだろうから、強くは主張しない。
先日送った「銀河不動産」最終話のゲラが「別册文春」から到着。こちらはスバル氏がイラストを描くので、彼女がさきに読んでいる。今日は「スカイ・イクリプス」の第6話の短編を書き始めた。完成度10%。「クレィドゥ」のゲラもさっそく読んで10%まで。
![]()
工作は3時間ほどできた。かなり満足。毎晩寝るまえに洋雑誌を眺めながら、今後のプロジェクトの構想を練るのだが、眠ってしまって、朝起きたらたいてい忘れている。それが、翌日寝るときにはまた思い出す。そうして、だんだんアイデアが具体的になり、実現可能なほど煮詰まってくるし、そういった段階になると、ようやく朝起きたときにも覚えている。それで、そのプロジェクトに関連する、資料や部品集めの段取りをしたりする。このように、ものごとには準備期間というものが必要だ。とにかく、時間をケチること、目前になって焦ることが最も悪い。品質を落とす原因のほとんどは時間不足である。そして、ここでいう「時間」とは、考えたり作業をするトータルの時間ではない。考え始めてから実行するまでの期間の長さである。ほかのことを同時進行していてもかまわない。とにかく、早く始めることが大事だと思う。
締切間際になって体力を消耗したことを、努力した証拠のように言いたがる人がいるが、その種の時間は完成度とは無関係であって、単なる個人の趣味だ。神輿を担いでいるようなもので、好きでやっていることだから、「楽しそうだね」と言ってあげれば良い。しかし、仕事の完成度には絶対に結びつかない。
「やる気」というものも、仕事の完成度には無関係である。それで良い仕事をする人間もときどきいるけれど、やがて「やる気」が消えてしまって駄目になる。これも、趣味だと思われる。社員を消耗品として扱う管理者は、「やる気」を社員に持たせて、その場限りのエネルギィを搾取しようとするだろう。たとえるならば、一種の覚醒剤のようなものだ。
良い仕事をしたかったら、余裕が必要だし、やる気を出さなければ乗り切れない事態になる以前に手を打つべきである。
【図工】 手作りは何が良いのか
「手作り」という言葉が良い意味を持ち始めたのは、いつ頃だったか。30年くらいまえだっただろうか。手作りと聞いただけで高品質なもの、と感じてしまう人が多いみたいだ。考えてみたら、根拠のない期待である。
言葉は古い。江戸時代には、地主が自分のために耕作することだったらしい。また、陶器などを型を用いないで作ること、手で造形されたものも示す。「自分で作る」という意味で使われていた言葉で、人に売るために作ったものではない、というイメージが込められていた。「手料理」などもこれに近い。
必ずしも手で触れて作る場合だけではない。道具や機械を使っている場合でも手作りというようだし、また、必ずしも大量生産しているものを除くわけでもない。ケーキ職人は一度に大量のケーキを手作りしている。境界は曖昧だ。
また、機械で作ったものよりも人間が手で作ったものの方が品質が高い、という保障はまったくない。たとえば、「手作りの飛行機」や「手作りの鉄橋」を想像してみよう。ちょっと不安になるのでは? 手作りには「まごころ」が籠もっている、という付加価値はあるかもしれないけれど、「まごころの籠もったパソコン」は、発売されてもきっと売れないにちがいない。
実は、手作りが有利な点はほとんどない。人件費がかかって高くなるし、ばらつきが大きくなり品質が安定しない。作る人間が交代すると同じものができなくなる。
手作りの有利さとして、一つだけいえることは、作っているときにフィードバックがあることだ。作り手にそれを受け止める才能があれば、さらに良いものが作られる可能性が生まれる。したがって、手作りされた製品それ自体の価値というよりは、将来の製品への期待が持てる。
2008年01月16日(水曜日)
【HR】 文字系と映像系
晴天。気温は10℃くらいまでしか上がらなかったが、風は弱く寒くない。午前中に、パスカルも一緒に書店とホームセンタへ行く。花の苗を30個くらい買ってきて、スバル氏が植えた。元気だ。マックにも寄ってハンバーガなどを購入。これも庭で食べた。それくらい日差しが暖かかったということ。
![]()
午後は工作をしつつ、小説の仕事。今日の一番の作業は、「編集会議」のゲラの確認。インタビュー記事は8ページもある。けっこう詳しい特集だった。ゲラが2つ、明日届く予定。
「工作少年の日々」文庫版の見本が届いた。18日くらいに書店に並ぶらしい。解説は萩尾望都先生である。昨年の「悠悠おもちゃライフ」に続き、エッセィ集の文庫の2冊め。2月には、さらに「森博嗣の道具箱」が出る。たぶん、これらが森博嗣の3大エッセィ本になる。僕が人にあげたりすることがあるのは、この3冊にくわえて、絵本くらいだ。3冊はいずれも「工作系」と紹介されることが多いが、分類をすると、「悠悠」は趣味系、「工作少年」は文芸系、「道具箱」は工学系である。つまり、それぞれ「ラピタ」「小説すばる」「日経パソコン」に連載したものだから、当然そういった方面の読者を想定して書かれている。別の表現をすれば、「中派」「軟派」「硬派」になるだろうか。
![]()
話は変わって……。読者が、「文字」を認識しているのか、それとも「映像」を認識しているのか、ということがわかるときがある。たとえば、何度か「芥子色」と書いておいて、あるとき「黄色」と一度だけ書くと、文字系の読者から「あれ、黄色だったのですか?」とメールが来る。「芥子」が読めなかったのかもしれないが、それでも文字で認識しているのだな、と理解できる。
一方、映像で認識している人は、「芥子」が読めない場合は、イメージに色がつけられないから、そのさきへ読み進めない。
「右手でカップを取り、コーヒーを飲んだ」とあり、その数行後で「カップを持ったまま、メモを書いた」と書かれていると、この時点で間違いなく左利きだと映像系の人には伝わるが、文字系の人には、「左利き」とか「左手で字を書いた」という文字がないかぎり認識されにくい。
そもそも、「左利きの人」が必ず左手でなんでもすると考えるところが文字的思考ともいえる。一般に、右利きの人よりも、左利きの人の方が利き手でない方の手も利く。探偵の前で容疑者が左手でペンを持った。探偵が「ほら、これが動かぬ証拠だ。貴方が犯人です!」と指摘したら、犯人はこう言えば良いだろう。「あ、たまにはちょっと左で書いてみようかなって……」
![]()
スバル氏が「AirMacが出たよ!」と教えてくれた。薄いノートが出ることは知っていたが、名前が「MacBook Air」だとは知らなかった。紛らわしいぞ。そりゃあ、間違えるだろう、みんな(注:AirMacは無線LANの名称)。ま、とりあえず1台は買うけれど。
【社会】 今思うと……
今思うと、なんだね、モンゴルへ雲隠れしたの、あれが最善の策だったわけだね。
今思うと、なんだね、酒を飲んで酔っ払って御輿を担ぐのは、どうなんだろうか?
今思うと、なんだね、郵政民営化に命をかけて反対した人、みんなまだいるんだ。
今思うと、なんだね、ネットで株を買って大儲けって話、いったいどうなったの?
今思うと、なんだね、耐震偽装問題、あれは、あそこだけのことで終わったわけ?
今思うと、なんだね、愛知万博って、いつやったんだっけ? もう終わったよね。
今思うと、なんだね、日本の場合、結局、良い政治は好景気にすることなんだな。
今思うと、なんだね、安倍総理が辞めたのは自民党には起死回生だったのかもね。
2008年01月15日(火曜日)
【HR】 オビについて念のため
この寒さがこの時期の平均らしい。今朝は氷が張るほど冷え込んだものの、日差しは暖かく、日中はぽかぽかとした陽気だった。パスカルと庭で遊んだし、久しぶりにバキュームで掃除もできた。ホームセンタへ行き、また鉢や苗を買い込んだ。
![]()
この頃、工作に没頭できて幸せだが、このようになにかを作っているときは、それに関連する本を読みたくなる。一度読んだ古い文献でも、再読すると新しい発見ができる(小説では情報量的にこういったことがまずない)。興味がそちらへ集中し、役に立つものはないかと探す、自分がそちらへアンテナを向けている姿勢が、このような発見につながるのだろう。ただ考えているだけではこうは絶対にならない。手を使って作っていると、それだけ長い間ずっとそこに集中していられる。結局、もの作りの面白さはこんな「無心」にあるみたいだ。
![]()
修理をした機関車の水タンクの試験をした。まだ走らせてはいない。アルコールで走る小さい機関車で遊んだ。今日も工作室ではしこしこ金属工作。そういえば昨日、左手に怪我をした(笑)。音楽もばんばん聴いている。
小説の仕事は、「スカイ・イクリプス」の第6話のタイトルを昨日から考えているが、まだ決められない。そのほか、細かいチェックなどが多数。
![]()
先日書いた「オビがいらない」という話だが、自分の本でも、小説では今までこれを強く主張したことがない。何故かというと、自分の小説を手にすることが僕の場合まずないからだ。人にあげることも滅多にない。こんな言い方はどうかと思うけれど、僕には「どうでも良い(関係性が薄い)」本なのだ。それらは、読者のために生産されるものであって、僕のものではない。読者がオビがあった方が良い(あるいは、あっても良い)と感じているのなら、それで問題はないと思う。
ただ例外として、たまに「これだけは」と思う渾身の一冊があるわけで、そうなると、自分でも多少愛着がわく。そんな例外的な本が「スカイ・クロラ」だったということ。また、エッセィや絵本は、小説よりはずっと大切な本だと感じているし、自分でも手にすることも多いし、また友達にプレゼントする機会もあるわけで、できれば気に入った装丁であってほしい、と思う。
念のために繰り返すが、オビが悪いのではない。オビのためにカバーデザインが影響を受けることが悪い。だから、たとえオビに隠れてしまって見えなくなっても、オビを外した状態で正常に見えるデザインがなされれば、基本的に問題はない。その場合、オビ付きで新刊を買う人たちには、一番良い見せ方ができない(したがって売れないかもしれない)だけだ。オビの煽り文句で本が売れる効果があるのかどうかは、僕にはまったく興味がない。そんな微々たるもののために経費や頭を使うのが惜しいと感じるだけである。ビジネスだからやむを得ないとは思うので、その点に関しては強い意見はない。
【理科】 Oリング
Oリング(オーリングと読む)を知っている人はどれくらいの割合だろうか。工学系の人、ちょっとDIY系の人なら普通に知っているはずだ。黒いゴムのシール用パーツ(パッキング)である。多くの機械、特に液体や気体を扱うような機械では、まずまちがいなく使われているパーツだ。ホームセンタでもハンズでも売っている。消耗品なので、ときどき取り替えることになる。そういえば、スペースシャトルの悲劇的な大事故が、このOリングのせいだったと報道されていたように記憶する。
Oリングの「O」は、リングの形のことではない。ゴムの部分の断面が円形であるため、この名前がついている。つまり円形ではない形の断面のリング材と区別しているわけだ。
耐圧、耐熱、また耐油性などがパッキング材には要求され、その条件を越えては使えない。不具合があってOリングを交換するときは、たいていゴムが劣化して、切れていたりする。隙間ができて用をなさなくなるまえに交換しなければならない。
ゴムではない材質のものあって、僕はシリコンのリングをよく使う。黒いゴムでないものまでOリングと呼ぶのかどうかは知らない。耐久性はシリコンの方が優れていると思う。ただ、摩擦が大きくなるのでピストンのリングなどには使いにくいようだ。工作室には、よく用いるサイズを20種類くらいは常備している。
最新鋭の機械でも、このOリングが1つのウィークポイントになっているものが多い。かなり頻繁に交換しなければならないほど劣化の早い材料なのに、これを使わなければならないことが、である。
2008年01月14日(月曜日)
【HR】 発見と理解とネタばれ
今日はまた少し冷え込んだ。天気は良い。午前中から、機関車の整備。それから工作もけっこう重いものを。
この頃、昔に読んだ模型工作の名著を読み直しているのだが、当時は理解できなかったことが、今はわかる、という発見が多い。小説などの物語で生じる新しい感覚ではなく、あるかないかの顕著な違いだ。情報量と精密さの差ということだろうか。
![]()
古い機関車には、外見だけではどうしても機構が充分に理解ができない部分がある。動かしてみても、その意図が見えないものもある。だが、いずれも気まぐれでそうなったものではなく、なんらかの理由が必ずある。それが思わぬところからわかったとき、実に面白い。つまり、自分の思考がそこへ回らなかったことが愉快なのだ。
たとえば簡単でわかりやすい一例を挙げよう。真っ直ぐに作れば良いところが、少し斜めになっている。力学的に考えれば有利なことはない。工作もむしろ面倒だ。きっと風変わりなデザインにしたのだな、とその場は解釈する。修理をする段になって、そこにスパナを入れると、ボルトを締め付けるときのストロークがぎりぎりだ。当の部分が斜めになっているおかげで、やっとスパナが使える、ということに気づく。なるほど、人間というのは頭が良いな。簡単に作り直せる部分ではないので、設計図面の段階でここまで思い至ったのだ。これは凄いぞ、と感心する。
![]()
別の話題。10年くらいまえに、このインターネットが普及し始めたとき、本を読むことが好きな人たちが書評なるものをアップして、本の案内をするようになった。しかし、ミステリィの場合「ネタばれ」がある。これが非常に警戒され、うっかり書評を読んでしまい、ネタばれ部分を知ってしまった人が怒って抗議をする、なんてトラブルが方々であった。だから、みんなとても神経質になって、ネタばれがあるときは警告をし、別ページにするなどの工夫をしたものだ。
ブログが一般化した現在では、この「ネタばれ」という概念さえ知らないと思われる人が、感想をアップしている。あらすじを後半まで丁寧に書いてしまう人も多い。「自分の日記に何を書こうが勝手だ」と考えているのだろう(これは明らかな思い違いだが)。
それでも、トラブルの話はあまり聞かなくなった。僕も、この頃は腹も立たない。どうせ個人の書評なんか一般の人は誰も読まないのだ。みんながせっせと自分のブログを書いて、友達のページはタイトルと写真だけざっと眺めて適当にコメントする。そのほかは検索結果の関連する数行だけ読む。今のネットは、噂はもの凄くゆっくりとしか伝達しないし、ほとんどの情報は広まらなくなった。ようするに、ネタばれの実害は、昔のネットに比べればはるかに小さくなった、といえるだろう。良いか悪いかの意見ではない。
![]()
さて、繰り返すが、ネタばれとは、狭義ではトリックや犯人やオチを語ってしまうことだが、僕はもっと広義に捉えていて、誰が登場するのか、何が起こるのか、どの場所なのか、とにかく読まなければ語れないものを明かすことは、すべてネタばれだと考えている。
この仕事を11年してきて知ったことは、読者の過半数はネタばれを望んでいて、内容を知った方がその本を読みたくなり、したがってネタばれをした方が本が売れる、という事実である。繰り返すが、良いか悪いかの意見ではない。
【算数】 考えるか考えないか
1/6の【算数】に、大きな素数について書いた。そのとき、400000001が素数か否か、という問題を出した。電卓を使わないで考えたら素敵だとも書いた。(珍しく、掲示板やメールの書き込みを禁止しなかったので)メールを沢山いただいたが、実際に自分の頭で考えて解いた方が10人ほどいた。解けなかった人がその6倍くらいだった。そして、考えもしなかった人はもっと何十倍もいただろう。
まともに考えていったら、とんでもなく時間がかかる。事実上無理である。最初から「考えるだけ時間の無駄だ」と思った人が多かったことと思う。
以下に、解法を示す。こういった解法があるからこそ、「素敵だ」と書いたのである。気づいた人は、ちょっとした素敵な幸せを感じただろう。
400000000(0が8つ)は、20000(0が4つ)の2乗である。また、20001の2乗は、(x+1)2=x2+2x+1の公式から明らかなように、400040001であり、これは問題の400000001よりちょうど40000大きい。
さて、この40000もまた200の2乗だ。したがって、400000001=200012-2002と書ける。これに思い至れば、もう簡単。因数分解で一番有名なa2-b2=(a+b)(a-b)の公式を思い浮かべればわかるとおり、2つの数の積となるので、400000001は素数ではないと判断できる。
蛇足だが、400000001=(20001+200)(20001-200)=20201×19801となる。20201と19801はともに素数だが、その判断はまた時間がかかるだろう。
思考は、「駄目だもう考えられない」と思うところまで、及ぶ。そこが思考の限界である。人は無意識のうちに、「それは自分にはできない」と諦め、自分の限界を決めている。
2008年01月13日(日曜日)
【HR】 元来が短気だから
スバル氏が出かけるときはたいてい雨だ。もの凄い雨女で、嵐を呼ぶ女とも自称している。台風になったり、雪になったりする。新幹線がストップして、車内で数時間待たされたことも一度や二度ではない。僕が一緒のときは、一度もそういった被害に遭わないのだが。
今日は、日曜日の晴天。数日まえにスバル氏が今日出かけることに決めた。珍しく晴だな、と思っていたら、もの凄い強風だ。でも、電車は動いたみたい。
![]()
朝から小説の仕事を片づける。「銀河不動産」は完成。編集部へメールで送った。この作品は6月に単行本になる予定。文藝春秋では小説は2冊めになる。「θ」文庫の手直しも終了。こちらは3月刊。ゆっくりやっていたつもりだが、予定よりいずれも1日早いし、締切よりは数週間早い。
![]()
工作は機関車(サファイア)の改造の続き。今日でほぼ完了した。コーキング材が乾いてからテストをすることになる。楽しみだ。次は、レディ・マドキャップにポンプを取り付ける改造工事になる。その次もその次も、そのまた次ももう決めてある。やりたいことがいっぱいだ。こんなことではなかなか死ねない。
![]()
工作をしていて気づくことは、その日の最初に行う工程が一番慎重で丁寧だ、ということ。時間が経って調子に乗ってくるほど雑になりやすい。全般を見ても同じ傾向で、初めは丁寧にやっていたのに、どんどん近道を思いついたり、早く完成させようとしてしまう。ゴールが見えてくるほど、ラストスパートしようとするわけだ。注意が必要である。もっと職人のように、心静かに目の前の作業だけに没頭した方が、良い仕事ができると思う。僕の場合はであるが……。
![]()
一方では、この反対のことが世間で多く観察される。もっと先を見て、合理化したらどうなのか、いつまでもこつこつ同じ作業を続けて、それで満足している。仕事をしているのだ、努力しているのだ、というつもりになっている、と思われことが多々ある。元来、僕がそういう短気な人間なのだろう。
昨日の【社会】で書いた「罪と罰」の件でもそうだ。僕はたぶん、悪人に対しては徹底的に仕返しをしてしまう短気な人間なのだ。だから、冷静にならなければならない、といつも考えてしまう。自分を律する道理がないか、といつも探しているのだと思う。
【国語】 文字の不完全性
英語は話すことは簡単だが、書くことが難しい。発音ができても、スペルが不規則で間違いやすい。とにかく覚えるしかない、という点では、日本の漢字に近い。しかし、日本には平仮名や片仮名があるから、この点では有利だ(発音記号がこれに相当するが)。仮名さえ知っていれば、言葉の発音どおりほぼ文字にすることができる。単純な表音文字がないところでは、文字の読み方の教育は、人間(あるいは機械)が発音して聴かせるしかない。日本人は、仮名を覚えれば、あとは独学で漢字の勉強ができるし、ルビがあれば、少なくとも漢字を読むことはできる。文字の読み書きができない人の比率が、世界でも日本は圧倒的に少ないが、これは平仮名のおかげである。
さて、しかし厳密にはこんなに簡単ではない。たとえば、「先生」「宣誓」は同じ「せんせい」だが、アクセントが違う。関東と関西でも読み方は違う。また、同一の言葉であっても、単独の「切符」と「記念切符」の「きっぷ」はアクセントが違う。前後にあるもので発音は変化するのだ。これらは、文字には表れない。アクセントを独学で習うことは日本の場合はとても難しい。
文字は、「意味を伝える」ことが主目的であるため、その方面では分解能を高め、情報量が多い。発音された言葉よりも、書いた文章の方が意味的にはより厳密になる。「せんせい」と聞いても「宣誓」か「先生」かわからないが、漢字にすればその誤解はない。しかし、実際は、前後の関係やアクセントによって、聞き分けられている場合がほとんどである。
アクセントは時代とともに変化している。若い人の話し方を観察していると、いつも新しいものに出会う。でも、それらを文字では表せないことが多く、残念だと思う。
もちろん、歌をうたっていても、そのメロディは文字には表れないわけで、元来文字は不完全な記号といえる。
2008年01月12日(土曜日)
【HR】 パスカルの不思議
雨。しかし冷え込んではいない。パスカルはシャツで着痩せして散歩に出かけていった。
早く工作がしたいので、まずは小説の仕事を片づける。「銀河不動産」の手直しを50%。既に15000文字になっていた。それから、「θ」の手直しは90%まで。あと1日。「θ」はオビのコピィをチェックした。「道具箱」のカバーネーム(裏表紙のあらすじのこと)も確認した。「D&D」の注釈も連絡があった(親切にもエッセィ中のワードに説明を付けてくれるのだ)。「タカイ×タカイ」の感想メールがもう沢山届いている。毎度のことだが、感謝。
JAMの事務局からバッジが届いた。機械・金属産業労働組合のことではなく、日本鉄道模型の会のこと。僕は会員ではないけれど、過去3年、コンベンションに参加しているからである。2008年のコンベンションのエントリィの案内も来た。今年は参加するかどうか、まだ迷っている。
![]()
午後からようやく工作開始。昨日の続きで、蒸気機関車の整備作業。だんだんプロジェクトが拡大し、ほんの少しの手直しだったものが、ちょっとした改造になってしまった。まだ、2日ほどかかるだろう。「そうやって少しずついじっていくうちに本当に自分の機関車になる」とベテラン氏から言われたことが、最近よくわかる。自動車の改造なんかをする人も同じ感覚だろう。恋人や奥さんは改造できないから、なかなか自分のものにならない、なんて言わないように。その場合は心配は無用だ。知らないうちに自分が改造されているから。
![]()
パスカルが、2階のスバル氏の部屋の前で、彼女のスリッパを守る話を書いたが、これについて、少し実験を行い、その真相に迫ってみた。
スリッパを前にしてじっと伏せているパスカルを呼んでも、なむなむと唸ったまま来ない。そこで、僕は少し後退して3mほど下がった位置から呼んでみた。すると、尻尾を振って駆け寄ってくるのだ。とても嬉しそうだ。もう一度、3m前進して同じことをすると、また唸ってしまう。どうも僕がいる場所に原因があるらしい。
ちょうどそこは階段を上がった場所で、僕は階段のステップに足を下ろして腰掛けている。ここでパスカルをよく抱き上げていた。もしかして、高いから恐かったのかもしれない。その場所で呼ばれると、そこで抱っこをされる。それを恐れているのかも。スリッパは単なるシンボルかもしれない。なおも、実験は続く……。
【社会】 罪と罰
専門ではないので、どんなふうに考えたら良いものかな、とときどき一人で考える。
罪を犯したとき、その人の責任はどのように評定されるのか。たとえば、酒を飲んで車を運転し、事故を起こす。相手の車に1人乗っていた場合と、5人乗っていた場合では、結果が異なってくる。同じ行為でも、1人を殺した場合と5人を殺した場合では、やはりその人が負うべき罰は違うのだろうか。そもそも、運良く事故を起こさなかったときは、罰を受けないのだから、問われる罪に「偶然」が介入することは事実である。
当然ながら、ケースバイケースだからこそ、法律が定める罰にも幅があるわけだし、個々に裁判も行われる。なるべく客観的に判断すべきであるけれど、やはり判決は「意図」や「行為」だけでなく「結果」に左右される。同じことをしても、運悪く最悪の「結果」になってしまったときには刑罰も重くなる。
たとえば殺人の場合、被害者がどれほど世間的に良い人だったかということが、加害者の罪に影響するだろうか? どんな命も価値は等しいという立場ならば、被害者に関する(加害者との関係以外の)情報は無用だ。遺族がどれだけ可哀相か、ということで犯人の刑罰が左右されるのは正しいだろうか?
生きているときはこうだった。死ぬ直前までこうだった。これから、こんな楽しみがあったのに、といった情報によって、「こんな幸せを奪った悪人は許せない!」と憎悪を増幅させること、それによって罪を重くしようとする行為は、「仕返し」あるいは「リンチ」の精神に近づいていないか。それ自体が罪の一種ではないのか?
あまり自信はないけれど、裁判ではそういった人情的なものを含まない判断をすることが、法治社会として僕は正常だと感じる。陪審員(量刑を決めるから裁判員?)の制度が始まると、この点については多少心配になるところだ。
2008年01月11日(金曜日)
【HR】 オビと申請
晴天で暖かい。夕方から雨になる。珍しく予報どおり。
元日に来た妹G氏がお土産に持ってきたレーズンサンドと月餅が、一箱ずつある。前者は僕しか食べず、後者はスバル氏しか食べない。しかし、1日1つ食べていても、けっこう減ってくるものだ。いずれも残り少なくなった。
![]()
午前中に小説の仕事。「銀河不動産」第8話は4000文字書いて終了。推敲は明日以降。「θ」文庫のゲラは80%まで見た。「日経パソコン」第56回の2校も終わり。
昨夜、「森博嗣の道具箱」のカバーのデザイン案が届いた。今回僕が撮影した写真が表紙に使われることになったが、A案はその写真の一番良いところがオビで隠れる。B案は写真全体を上へずらしてオビに隠れないようにした案だった。どちらが良いかといえば、断然A案が良い。だから、「オビをやめてほしい」とお願いした。編集部や営業部で話し合われた結果、僕の要求が通った。非常に嬉しい。文庫でオビがない本を出すのは初めてのことだ。
![]()
オビがあることで、日本の本のカバーデザインの8割は腑抜けになっている。単行本ならわかるが、いずれオビが取れ、長く書店に置かれる文庫まで、上に偏った馬鹿なカバーデザインなのだ。ちょっとデザインのわかる人が見れば、日本にはまともな装丁家はいないのか、と思うだろう。外国の本が格好良く見えるのもこの影響が大きい。事実、新刊を買わないから、オビのない文庫ばかり読んでいた僕は、ずっと「なんだ? このデザインは」と気分が悪かった。
これほどまでオビが出版界で重要視されているなんて作家になるまで知らなかった。どんな本にもオビが絶対の必需品だなんて馬鹿なシステムになったのは何故なのか? 本を作る人は、ちょっと自問してほしい。絶対に間違っている。誤解のないように書いておくが、「オビを廃止しろ」といっているのではない。「オビを付けない選択ができるようにしてほしい」という意味だ。
「オビをやめてほしい」という要求をして、初めてそれが受け入れられたのが、同じ中央公論新社の「スカイ・クロラ」(単行本)である。厳密にはないわけではない、透明カバーがオビなのだ。あれでもまだ僕は邪魔だと感じている。2月に発行されるこの「森博嗣の道具箱」は、単行本のとき(「森博嗣のTOOLBOX」)もオビがなかった。これ以外にオビなしの本はなく、今回の文庫が(同じ本で)2冊めになる。尊敬する平岡氏に解説をいただけたし、この本は僕にとっては大切な一冊になるだろう。
![]()
午後は、8号機の蒸気機関車を工作台の上にのせて分解・整備をすることにした。大変なのは、そこまで持ち上げること。この機関車が一番軽いから、まだできる。自分の体力や健康も考え、機関車を持ち上げるリフト設備を整えたい、とスバル氏に今日ようやく切り出した。「やったら?」というありがたいお返事だった。
区役所へ住民票と印鑑証明を取りにいった。1時間ほどの待ち時間。カウンタの中では職員が一所懸命働いている。公務員試験に合格した優秀な人たちが、資料を調べ、コピィを撮り、お金を受け取ったりするような作業をしているのだ。コンピュータ化すべきである。スバル氏にそう話したところ、「社保庁がそれで失敗したからねぇ」とおっしゃっていた。コメンテータとしては合格だと思うが、正論ではない。
帰ってからも機関車。分解して整備したほか、一部配管を変更して、機能アップし、さらに運転がしやすいようにもしたい。この機関車は弁天ヶ丘線で最初に走った蒸気機関車だ。4年まえの年末年始にこれにトライしていた。そうか、たった4年しかキャリアがないのか。まだまだ初心者である。楽しみがこれからもっともっとあるだろう。
【理科】 コンクリート3
生コン(固まるまえのコンクリート)を型枠の中に流し入れることを「打設(だせつ)する」あるいは「打ち込む」という。「流し込む」とか「注入する」とはいわない。かつては生コンが固かったので、棒で突いたり上から叩いたりして、ちょうどアスファルトみたいに締め固める作業をした名残だといわれている。
昔は、生コンを軟らかく(流動性が高く)するためには、水を多くする必要があった。そうなると強度が落ちる。水を増したしゃぶしゃぶの生コンを「しゃぶコン」などと呼んで不良品扱いした。
しかし、これは現在ではもう古い認識である。今のコンクリートは、微量の薬剤を混入して、生コン時の柔らかさを調整できるようになった。水を増やさず、つまり固まったあとの品質を落とさずに、軟らかい生コンが作れる時代になったのだ。
コンクリート工事の多くは、ポンプを使って生コンを送る。高いところへも上げることができる。なんと、地上200mくらいまでも1機のポンプで上げた例があるくらいだ。高層ビルは、普通よりも強度の高い、すなわち水が少ないコンクリートを使わなければならないうえ、パイプで垂直に高所まで圧送できるような軟らかい生コンが必要になるが、この両立が可能になった。これらの技術が実用化したのはまだ最近(90年代)のことである。
軟らかい生コンは品質が悪い、と思っている人がまだ多い(特に年輩の建築関係者に)。流動性の悪い生コンを使う方が、型枠の隅々までコンクリートが行き渡らず、むしろ欠陥となるため、この誤解を早く改めること。
ちなみに、建築には「打ち放し」と呼ばれるコンクリート面を剥き出しにする仕上げがある。あれは経済的だと思っている人が多いが、これも間違い。打ち放しは、綺麗に作るために型枠や施工に高度な技術が必要で、むしろ大変シビアな工事になる。また、打ち放し仕上げの長所は特にない。耐久性など、短所は多々ある。あれを好んで採用するのは、単に「見た目が格好良い」とデザイナが思い込んでいるから、といっても良いだろう。そういう僕も、打ち放しが好きだが。
2008年01月10日(木曜日)
【HR】 おつかいブル公
朝方冷え込んだものの、またも暖かい晴天。午前中からスバル氏と郊外へドライブに出かけた。
トイザらスに寄ったら、閑散としていた。ゆっくり見たもののなにも買わず。スバル氏が食料品を買っている間、僕はホームセンタにいた。プラスティックや金属の素材を購入。お昼頃帰宅し、スバル氏は昨日買った花を植えた。僕はバキュームで庭掃除。パスカルは元気に走り回っていた。
![]()
昨日のおもちゃ修理の続き。まず、リモコンのスイッチはすべて再生不可能だったので、100円ショップで4個セットで売っている7cmくらいの小さなタッパを使用して、リモコン自体を作り直した。割れていたギアは3つで、1つは同じものが偶然あったので交換し、残り2つは瞬間接着剤とエポキシで修復。一番大変だったのは、昨日の写真にもあったドラムに当たっている6本の端子。ベースのプラスティックがぼろぼろだったので新しく作り直した。そのほか、配線のハンダ付けはすべてやり直し。なんとか機能的には元どおりに修復できた。
![]()
これは、グリコの景品だった「おつかいブル公」というおもちゃ。リモコンで自由な方向へ走らせることができ、地面にあるものを口にくわえて拾い上げ、運ぶことができる。動かしたときのギア音が煩いため、パスカルが怖がって近づかなくなったので、横に置いて記念写真を撮るのが大変だった。
![]()
午後は小説のノルマを片づける。「銀河不動産」は3000文字書いた。100%になったが、いつも130%くらいの長さになる。明日最後まで書いて、そのあと推敲の予定。「θ」のゲラは65%まで見た。講談社ノベルスの「タカイ×タカイ」の見本が届いた。スバル氏が珍しく表紙のデザインを褒めていた。彼女のタイプなのだろう。今年の1冊めである。
FM東京の携帯サイトの連載が今日から始まった。既に、「読みました」というメールも幾つか届いている。携帯電話が古いタイプだと見られない。僕も、まえの型では駄目だった。だから新しくした、というわけではないのだけれど。
![]()
昨夜、ゆうパックの着払いの荷物が届いた。ゲートまで出ていくと、年輩のおじさんが、ハンディの端末を睨んだまま黙って立ち尽くしている。話しかけてもものを言わないのだ。どうやら、端末の使い方がわからなくなったらしい。しばらく待ったら、ようやく顔を上げた。お金を渡したところ、荷物と領収書をくれた。ところが、どうもまだ端末の操作ができない。そこで一度手渡した領収書を返してくれ、と言いだした。「明日、領収書を持ってくるから」と言う。そこで、「領収書が明日なら、お金も明日渡すから返してくれ」と当然の主張をしたら、「では、荷物も今日は持って帰る」と言いだした。まあ、ある意味当然の主張かもしれない。しかし荷物は「本日指定」なのだ。「端末がうまく使えないのは、そちらの事情なのだから、覚え書きの領収書を書いて下さい」と提案したが納得しない。その後、五分ほど寒いところで端末の操作をし続け、最後はうまく処理ができたので、荷物も領収書も無事に受け取ることができた。このように、「たとえシステムが新しくなっても人間(あるいは体質)が古い」というのが、今の郵便局の問題だろうか。まったく、笑いごとである。
【算数】 自然な数え方について
地球では、数が同じ分量で増えていく数え方をするのが一般的だ。つまり、自然数は1, 2, 3, 4 ……、というように、同じ間隔で増えていく等差数列である。我々はこれが当然のことだと思っているけれど、そうでもない。たとえば、1, 10, 100, 1000 ……、のように同じ比率で増えていく数列もあって、自然界ではむしろこの方が自然だと思えるものも多々ある。
1の次がいきなり10だったら、2や3や4はどうなるのか? それは、1の次がいきなり2だけれど、1.2や1.3や1.4はどうなるのか、という疑問と同じだ。単に半端な数になるだけのこと。もちろん、10倍というのはあまり自然ではない。2倍が最も自然な係数で、すなわち、1, 2, 4, 8, 16 ……、と増えていく数列だ。
数が大きくなるほど、数の間隔を広くした方が、量の把握には適している場合が多い。自分の身近なものを測るときはmm単位だけれど、遠い星の測定をするときはmなんて使っていられない、といった例を想像してもらいたい。数自体が等比数列になっていれば、大きな数に対して違う単位を使ったり、「約」なんてアバウトな表現をする必要も少なくなる。大きくなるほど自然にアバウトになっていくからだ。
たとえば、地面に沢山の銀杏が落ちているとする。我々の自然数ではとても数える気にならない。でも、等比数列なら、全体の面積を半分にして指を折り、さらに半分にしてまた指を折り、と数えていくと、そのうち銀杏が1つだけ落ちている狭い面積になる。これで、ほぼ全体の数を指で数えて把握できるのだ。
当たり前のことが、どこまで当たり前なのか、と考えてみることが面白い。
2008年01月09日(水曜日)
【HR】 おもちゃの修理屋さん
朝から好天でまたも暖かい。昨日も今日も14℃まで上がったらしい。春みたいだ。
朝は、まず庭でパスカルと遊ぶ。パスカルはこの頃、散歩にいっても早く家に帰りたがる。帰って自分の庭で遊びたいのだ。
小説は、「銀河不動産」を3000文字書いた。「θ」のゲラは50%まで。ゆったりとしたペースで好ましい。今日も契約書に3つほど捺印した。
お昼頃にスバル氏とホームセンタへ。あまり暖かいので花の苗を買ってしまった。明日植えるとスバル氏はおっしゃっている。明日雪が降ったらどうしよう。
![]()
昨夜から、古いおもちゃを直している。1967年3月製造とあるので、約41年まえのものだ。見たところ未使用で非常に綺麗な状態だった。当時はお菓子に入っている応募券を集めて送るとこれが当たった。つまり景品だったもの。売っていたわけではないが、売られていたら、たぶん数千円の品だろう。小学生だった僕は、これが欲しくてしかたなかったけれど、残念ながら応募券が揃わず手に入れられなかった(たいてい少ない種類が1枚あるものだ)。先日オークションで9万円で手に入れたというのはこれである。
当時、ラジコン(無線)で動くものとリモコン(有線)で動くものがあったはず。今回手に入れたのはリモコンの方。ラジコンでは電子回路が40年もすると作動しない可能性が高く、直すことが非常に難しい。リモコンは、中を見ればメカニズムがわかり、直すことができるからだ。
電池を入れてみたがやはり動かない。景品になるようなおもちゃはパーツも低品質で、まずスイッチが駄目になることが多い。中を開けてみると、ハンダづけは劣化して剥がれているし、絶縁の接着剤もぼろぼろ。またプラスティックのギアもオイルで劣化して割れていた。
![]()
モータは3つ。つまり可動部は3箇所。しかし、そのうち1つは同時にオルゴールのようにドラムを回転させ、そこに接する6本の端子へのスイッチングを行う。このドラムの回転によって、3つのモータが決められたタイミングで動いたり止まったりする機構だ。
![]()
多少複雑なので、まず回路図を書いた。ハンダが取れていたところが多く、想像しながら再現。だいたい動作が理解できたので、修理を行うことにした。一番大変だったのは、最初にボディを開けて、中の機械類を取り外すとき。接着剤でプラスティックが固定されているため、簡単には分解できない。どの工程も逆戻りできないような作り方がしてあった。プラスティック自体が脆くなっているので、細心の注意が必要である。
スイッチはすべて駄目みたいなので、リモコンは新たに自作するしかない。明日につづきます……。
【国語】 「たしか」の信頼度
会話によく登場する「たしか」という言葉、皆さんもよく使われることと思う。
「え、本当にそうなの?」ときかれて、「ええ、たしか、そうでした」と答えるのと、「ええ、たしかに、そうでした」と答えるのと同じだろうか。後者の方が信憑性が高いように感じる人は多いはず。
「たしか」は、もともとは「たしかに」と同じ言葉だっただろうし、もちろん「確かに」という意味だから、「確実に」と言い換えられる意味だったはずだ。それが現在では、「たしか、このまえの日曜日じゃなかったっけ」と言ったときの「たしか」は、「たぶん」や「おそらく」と言い換えても同じくらい「不確か」である。
「たぶん」も、「多分」だから、「多分に」から来たものと思う。これも、もともとは「多くの場合」とか「かなりの確率で」という意味だが、今では「たぶん」はかなり頼りない感じに成り下がっている。そもそもは推量を述べる言葉ではなかったはずだ。「たいてい」や「おおかた」も似ている。「おそらく」は「恐らく」であって、もともとは「思うに」とか「心配するのは」みたいな感じの言葉だったのでは、と想像する。
こうなると、確率が高いことを伝えるには、「きっと」になる。これは「屹度」と書いてあるものを見かけるが、当て字かもしれない。睨みつけるときにも使うけれど、そういう意味では「しっかり」とも似ていると思う。
「明日、頼むよ」と言われたとき、返事が「たぶん」「おそらく」では叱られる。「たしかに」なら大丈夫だろうか。
2008年01月08日(火曜日)
【HR】 今日は溶接工
雨上がりで暖かい日になった。今日はどこへも出かけず。
小説の仕事では、まず「銀河不動産」は2000文字書いた。完成度40%。「θ」のゲラは40%まで見た。「日経パソコン」の第56回のゲラ校正もあった。散香のフィギュアのカラーリングのチェックも来た。
外が暖かいので、森の中へ入って掃除を少しだけ。それから線路を見回って、バラスト(線路の下に敷いてある砂利)を直した。そのあと、チェックのために電気機関車を2周ほど走らせる。
![]()
工作は、昨日のフライスに続き、今日はアーク溶接。デッキに出て火花を散らした。作業服に着替えないといけないので、少し面倒。普通の服では、火花が飛んで焦げ穴があいたりする。溶接のセットを写真に撮った。このヘルメットみたいなのを頭からすっぽり被る。従来の溶接では、真っ黒なグラスのメガネやゴーグルをかけたものだが、そういう濃い色のフィルタだと、普通の光では真っ暗でなにも見えない。溶接の閃光があって初めて見えるように設定されているからだ。したがって、火花が散る直前までは裸眼で見て、光ると同時に目をフィルタで保護する、なんて離れ業が要求された。光るところを直接見てしまうと、夜寝るとき天井に幻が見えるくらい目に焼きついてしまう。失明にもつながる危険な状況だ。最近は技術の進歩で、強い光を感知し瞬時に濃くなるフィルタがヘルメットに装備されている。これはもの凄く便利で、目にも優しい。溶接もぐっと簡単になった。少し高いけれど、これから溶接をする人は、絶対に買った方が良いアイテムの1つ。
![]()
昨夜、寝るまえにイギリスの有名なモデラが書いた本を読んでいたら、今一つ機構が不明だったレディ・マドキャップの給油装置のことがずばり説明されていた。ちょっとした発見で嬉しい。なるほどそうだったのか、という感じ。日々発見である。
アンプのテストも良好。次の工作にもう頭が行っているが。毎晩少しずつやっていた写真の整理も終わった。仮想空間の整理は簡単だ。現実の空間もこれくらい整理ができたら良いのに。
![]()
夕方、とても明るくて暖かい風景だった。ちょっと日が長くなった気がする。もう芽が出ている枝も多い。まだまだ、これから寒くなるはずなのに。
近所でまた新しい家の工事が始まった。森林が減るのは残念だが、工事そのものは、見ていて面白い。仕事にもいろいろあるけれど、「もの作っていく作業」というのは基本的な楽しさがあるように思える。幼稚なのかもしれない。
【社会】 趣味の界隈観察
前回、新年にちなんだ社会観察を書いたが、今回は翻って、趣味の世界を見てみよう。そうしないと不公平だ。
先日、BSで日本の蒸気機関車の紹介をしていた。スバル氏が珍しく一緒に見ていた(たぶん、ほかにすることがなかったのだろう)。彼女には、どの機関車も全部同じ形に見えるはずだ。C57はそのスマートなフォルムから、マニアの間では「貴婦人」と呼ばれている、と紹介があったら、ぷっと吹き出していた。悪い冗談に聞こえたようだ。また、C56は「高原のポニィ」と呼ばれている、と聞くと、もうあっけにとられていた。福袋を買う神経よりは、こちらの方がはるかに常軌を逸している、と言いたげであった。
そういわれてみると、ビッグサイトに長蛇の列を成す人たちの数は、福袋に群がる人たちの比ではない。もしかして並ばない人間の方が間違っているのか、と思わせる勢いがたしかにある。
模型の飛行場へ行くと、雪が降り積もって滑走路が使えないのに、ちゃんと趣味人が集まっていて、なにをすることもなく、携帯コンロでコーヒーなんか沸かして飲んでいるのだ。「何をしにきたんですか?」と尋ねる気にもなれない。自分も来たのだから。
飛行機も機関車もだいたい同じであるが、若い人は、趣味の集いにガールフレンドや奥さんを連れてくる。そのうち一緒に来なくなる。子供も小さいうちは連れてくるけれど、そのうち来なくなる。こうして、一人前の趣味人ができあがる。
このように考えると、福袋に命をかける人たちを、孤高の趣味人と讃えても良い気がしてきた。
2008年01月07日(月曜日)
【HR】 本を本棚に入れない人生
朝は晴れていたが、雨が少し降った。夕方には上がる。久しぶりに冬らしい暗い空。元日から毎日庭園鉄道が運行されたが、今日は運休。雪はまだ降らない。スバル氏が楽しみにしているのだ。なんでも、雪だるまの新作の構想を練っているらしい。そういうことにエネルギィを使う人だ。
朝は、長女M氏を駅へ送っていった。今日から出勤らしいが、朝が遅い会社である。パスカルも一緒にドライブ。自動車に乗ったときのパスカルのハイテンションは、ちょっとほかに例を見ないほど凄い。車が走りだしてしばらくすると落ち着いて、もう寝たりしている。
午前中に小説の仕事を片づける。「銀河不動産」の連載は今日も1000文字だけ。まだ完成度20%。「θ」文庫のゲラは25%まで読んだ。樋口氏の「θ」のカバーの案も見た。それから、「道具箱」の修正箇所を電話で伝えて、こちらはほぼ校了。出版社も今日くらいから動きだしているようだ。方々からメールが来た。
お昼頃、スバル氏と出かけて、郵便局とスーパへ。郵便局は彼女が税金を納めるため。スーパでは食料品だけ。