2008年01月10日(木曜日)
【HR】 おつかいブル公
朝方冷え込んだものの、またも暖かい晴天。午前中からスバル氏と郊外へドライブに出かけた。
トイザらスに寄ったら、閑散としていた。ゆっくり見たもののなにも買わず。スバル氏が食料品を買っている間、僕はホームセンタにいた。プラスティックや金属の素材を購入。お昼頃帰宅し、スバル氏は昨日買った花を植えた。僕はバキュームで庭掃除。パスカルは元気に走り回っていた。
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昨日のおもちゃ修理の続き。まず、リモコンのスイッチはすべて再生不可能だったので、100円ショップで4個セットで売っている7cmくらいの小さなタッパを使用して、リモコン自体を作り直した。割れていたギアは3つで、1つは同じものが偶然あったので交換し、残り2つは瞬間接着剤とエポキシで修復。一番大変だったのは、昨日の写真にもあったドラムに当たっている6本の端子。ベースのプラスティックがぼろぼろだったので新しく作り直した。そのほか、配線のハンダ付けはすべてやり直し。なんとか機能的には元どおりに修復できた。
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これは、グリコの景品だった「おつかいブル公」というおもちゃ。リモコンで自由な方向へ走らせることができ、地面にあるものを口にくわえて拾い上げ、運ぶことができる。動かしたときのギア音が煩いため、パスカルが怖がって近づかなくなったので、横に置いて記念写真を撮るのが大変だった。
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午後は小説のノルマを片づける。「銀河不動産」は3000文字書いた。100%になったが、いつも130%くらいの長さになる。明日最後まで書いて、そのあと推敲の予定。「θ」のゲラは65%まで見た。講談社ノベルスの「タカイ×タカイ」の見本が届いた。スバル氏が珍しく表紙のデザインを褒めていた。彼女のタイプなのだろう。今年の1冊めである。
FM東京の携帯サイトの連載が今日から始まった。既に、「読みました」というメールも幾つか届いている。携帯電話が古いタイプだと見られない。僕も、まえの型では駄目だった。だから新しくした、というわけではないのだけれど。
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昨夜、ゆうパックの着払いの荷物が届いた。ゲートまで出ていくと、年輩のおじさんが、ハンディの端末を睨んだまま黙って立ち尽くしている。話しかけてもものを言わないのだ。どうやら、端末の使い方がわからなくなったらしい。しばらく待ったら、ようやく顔を上げた。お金を渡したところ、荷物と領収書をくれた。ところが、どうもまだ端末の操作ができない。そこで一度手渡した領収書を返してくれ、と言いだした。「明日、領収書を持ってくるから」と言う。そこで、「領収書が明日なら、お金も明日渡すから返してくれ」と当然の主張をしたら、「では、荷物も今日は持って帰る」と言いだした。まあ、ある意味当然の主張かもしれない。しかし荷物は「本日指定」なのだ。「端末がうまく使えないのは、そちらの事情なのだから、覚え書きの領収書を書いて下さい」と提案したが納得しない。その後、五分ほど寒いところで端末の操作をし続け、最後はうまく処理ができたので、荷物も領収書も無事に受け取ることができた。このように、「たとえシステムが新しくなっても人間(あるいは体質)が古い」というのが、今の郵便局の問題だろうか。まったく、笑いごとである。
【算数】 自然な数え方について
地球では、数が同じ分量で増えていく数え方をするのが一般的だ。つまり、自然数は1, 2, 3, 4 ……、というように、同じ間隔で増えていく等差数列である。我々はこれが当然のことだと思っているけれど、そうでもない。たとえば、1, 10, 100, 1000 ……、のように同じ比率で増えていく数列もあって、自然界ではむしろこの方が自然だと思えるものも多々ある。
1の次がいきなり10だったら、2や3や4はどうなるのか? それは、1の次がいきなり2だけれど、1.2や1.3や1.4はどうなるのか、という疑問と同じだ。単に半端な数になるだけのこと。もちろん、10倍というのはあまり自然ではない。2倍が最も自然な係数で、すなわち、1, 2, 4, 8, 16 ……、と増えていく数列だ。
数が大きくなるほど、数の間隔を広くした方が、量の把握には適している場合が多い。自分の身近なものを測るときはmm単位だけれど、遠い星の測定をするときはmなんて使っていられない、といった例を想像してもらいたい。数自体が等比数列になっていれば、大きな数に対して違う単位を使ったり、「約」なんてアバウトな表現をする必要も少なくなる。大きくなるほど自然にアバウトになっていくからだ。
たとえば、地面に沢山の銀杏が落ちているとする。我々の自然数ではとても数える気にならない。でも、等比数列なら、全体の面積を半分にして指を折り、さらに半分にしてまた指を折り、と数えていくと、そのうち銀杏が1つだけ落ちている狭い面積になる。これで、ほぼ全体の数を指で数えて把握できるのだ。
当たり前のことが、どこまで当たり前なのか、と考えてみることが面白い。