2007年12月31日(月曜日)
【HR】 方法論などない
晴れ渡っているが、風が冷たい。この冬は、まだ氷が張るような朝はない。暖冬だろうか。
スバル氏がスーパへ行きたいというので、車を運転してつき合った。混雑はまったくしていない。この頃は、正月でも店が開いているから、特に買い溜めすることもない。おせち料理も必要がなくなったわけだが、季節感のメリハリのために残っている習慣である。カレードーナッツを1つ買って食べた。
午後は工作室で木工。寒いので、あまり外では遊べない。パスカルだけが絶好調で走り回っている。やはり気温が低い方が嬉しいようだ。帽子を被っていたら、大喜びして飛びついてくる。帽子を取れと言っているのか。
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今日初めてきいたスバル氏語。自分の部屋へ持っていくお菓子のことを「ネガシ」と呼んでいるのだ。寝ながら食べられるかららしい。誰に通じるのか、と尋ねたら、長女M氏には通じるとのこと。
工作の合間に、小説の仕事。「スカイ・イクリプス」第5話は完成。この短編集は8作を予定していて、5作めまでが単行本発行(6月)まえに公開される(読む人は少数だろうが)。3作が書き下ろしで、これは来年になってから執筆予定。「水柿君」最終話のゲラも読んだ。次は、「別册文春」の「銀河不動産」の連載最終話で、年明けの最初の執筆になる。連載がつぎつぎに終了しているわけで、肩の荷が降りた感じがして嬉しい。連載は「ジャーロ」と、FM東京の携帯サイトの「DOG & DOLL」だけ。
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ビジネスや人生のハウツーものが、書店に並んでいる。多くの人が方法論を求めているのだろう。僕も、これまでにこの種の本の執筆を何度か依頼されたことがあるけれど、どうも今ひとつ書く気がしない。こうすればうまくいく、なんてこと、僕にはわからない。誰にでも適用できる確実な方法なんて存在しない。なにごともケースバイケースである。
考えてみたのだが、僕が持っている唯一の方法論とは、つまり「方法論などない」というものだ。無理に1つ言うとしたら、「方法に拘るな」という方法だろう。したがって、なにを書いても、特定の方法論の否定はできても、代わりの道は示せない。役に立たないのである。
まず知らないうちに成功していた人がいて、その人が、自分は何故成功したのか、と過去を振り返る。そうして生まれてくるものが方法論であり、その信憑性はといえば、その人が成功したというたった一例の立証である。それを信じて、同じ方法によって成功する人も現れるだろうし、その方法では成功しない人も沢山出るだろう。両者の割合は、全体の平均とどれほど違うものか。多少の違いがあったとしても、他者の方法論を参考にしようという積極性がある人は成功する確率が高い、というだけのことではないのか。
僕が言いたいのは、方法論のほとんどは、「過去を振り返って気づいたこと」だという点である。基本的に、将来に目を向けた指針としては、根本的なスタンスが不適切だし、データ不足を感じる。
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さて、一年を振り返ったり、まとめたりしがちな季節。一番楽しかったことは何だろう、なんて考える暇があったら、来年、そしてもっと未来のことをせっせと考えよう。
人も世の中も一時も止まらない。常に進んでいる。問題は、どちらを向いているかだ。黙っていても、向いている方向へ進むだろう。
【図工】 創る力
先日の西尾氏の特別講義で、小説の執筆が学科では図工に一番近い、と述べられていた。これは、つまり「創作」だからである。小学校で習うのは、守るべきルールであったり、共有すべき知識であったり、各種の道具(記号、式など)の使い方であったり、ほとんどのものは自分にインプットするものだ。これに対し、図工だけが、主としてアウトプットの時間なのである。
間違いなくインプットされたか、ということを確かめるためにテストが行われる。この場合、正しいか正しくないかの判定が可能だ。ところが、図工でアウトプットされたものには、「これが正解だ」というものがない。先生が点数をつけるかもしれないけれど、その理由、判断基準は明確に示されない。
どんな絵が素晴らしい絵なのかということも、教えてもらえない。絵をどのように評価すれば良いのか、ルールはないからだ。本当は、作文もそういったものであるけれど、「小論文」という試験科目の悪影響なのか、テーマがどうとか、論理性がどうとか、文法がどうとか、そういった実に些末なことで文章を評価しようとするため、作文において最も大切な創造性は影を潜めてしまいがちだ。そもそも、小学校の先生は、絵や文章に才能がある人がなっているのではないので、教育は不可能、あるいは不充分にならざるをえない。
それ以前に、創作は教育できるものではない、ともいえる。
絵を沢山描くうちに、自分で「うまく描けたな」とか、「どうもこれは駄目だ」という自己評価の目が生まれる。他者の絵を多く見ることによっても、この評価眼は育つけれど、自分で描くことによって、まったく次元の違う視点が生まれるはずだ。これは、「今までにないものを見たい」という気持ちがあるためである。もちろん、作文でも、沢山書き続ければ同様の視点が生じるはずだ。結局、この自己評価の目こそが、創作の力である。
2007年12月30日(日曜日)
【HR】 散歩で考えること
冷え込んだ。7時半に起きたら、パスカルが待っていた。スバル氏がいないのだ。雨が止んだようなので、重装備に着込んで散歩に連れていく。パスカルは服を着ていないのに元気だ。北極でも大丈夫なのではないだろうか。ペンギンに似ている。
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午前中は小説の仕事を片づける。短編の手直しは50%まで。「道具箱」2校は最後まで読んだ。「水柿君」最終話のゲラが届いた。「星星峡」に掲載されるもの。ゲラが少しずつまた溜まってきた。寒いから、一番発熱の多いアンプを使って音楽を鳴らしながらの仕事。
お昼頃には晴れてきたが、風が冷たい。でも、庭に出て少し活動。測量をしたり、落ち葉を拾ったり、線路を見回ったり。その後、工作室で木工。庭園鉄道の駅の柵を作り始めた。アンプは発注してあったシャーシが届いたので、また組める。古いエンジンを分解して、掃除をしているが、部品を洗うための灯油が家にない。灯油って、使わなくなって久しい。買ってこなければ。明日また新しい機関車が届くという連絡があった。大晦日なのに。
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夕方も、パスカルを連れてまた散歩にいった。今のこの家に引っ越してまだ8年ほどだけれど、犬の散歩にいける範囲でも、20軒くらいは新築の家が建った。それだけ森林が減っているのだ。まあ、しかたがない。森林のまま土地を持っていられる人が少ない、ということである。一部の支配者層に富が集中している時代なら自然は破壊されないが、格差がなくなると、支配者層が土地を手放し、細切れになって庶民が家を建てる、という図式だろうか。けれど、日本の場合は、今は森林は減ってはいない。むしろ管理されないことの方が問題になっている。
昨日の温暖化対策の話ではないが、温暖化を進めているのは、工業ばかりではなく、農業や林業もかなり大きな割合を占める。いろいろな技術革新で、大勢の人間が暮らせるようになった、だから人間が増えてしまった、という図式だ。これからどのようにして人口を減らしていくのだろう。政策だろうか、それとも世論だろうか。僕が生きている間には、解決しそうにない。
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夕方にスバル氏と長女M氏が帰ってきた。長女M氏は紅白歌合戦関連の仕事をしていたらしく、ぎりぎりまで忙しかったらしい。スバル氏は天麩羅用の海老を買っていたから、たぶん年越し蕎麦を作るつもりだろう。年が明けると毎年雑煮も作る。季節柄なことが好きなのだ。でも初詣にはいかない(寒いから)。門松も注連縄も森家には無関係。年賀状も数年まえに廃止したし。僕は大晦日はたいてい工作に没頭している。元日だって仕事を休むことはない。
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そういえば、年末年始のTVって一際つまらない覚えがある。生放送が増えるためか、間延びしているし、タレントが酔っ払っているみたいにはしゃぐだけだし、お笑いのネタも同じものばかりでうんざりだし、そういう悪い印象しかないのだ。普段の番組が見たいよなあ、と思った子供の頃を思い出す。
【社会】 正論が通る社会
近頃の社会を傍観して感じることは、昔よりも正論が通る社会になりつつある、ということ。悪いことは悪い、してはいけない、という単純なことが、少しずつ厳しく守られるような仕組みになってきた。かつては、誰もが社会は二重構造だと認識していて、表向きはこうだという建前があって、しかしその実は違う運用を裏ではする、ということが常識だった。陰でこっそり、みんなで少しずつ悪いことをしていたのだ。ただ、悪いことだから、そんなにおおっぴらにはできない。「こんなこと、したくはないんですけどね」と愚痴りながらしぶしぶやっていた人が多かったのではないか。「まあ、少しくらいはしかたがない」とみんなが諦めていた。そういったことが正されてきたわけだ。
一方、正論が通ることで問題も生まれる。そもそも、何故正論が通らなかったのか、と考えればわかるが、まず、個々の正論が全体の正論と必ずしも一致していないこと、また、全体合意の正論であっても、それを実現するには資金や労力が足りないこと、などの問題があった。だからこそ、正論が通らない時代が続いていたのだ。
たとえば、「弱者を救う」というのは正論である。救えるのなら救った方が良いにきまっている。しかし、どこまでが弱者なのかという議論もあり、また、救うための資金はどうするのかという問題が現れる。正論を通すためには、社会にある程度の余力が必要なのだ。そして、その余力とは、つまりは個人の富と力の負担によるものだから、「正論を通すために、あなたはどこまで犠牲が払えますか?」という議論に帰着する。現在、暗黙に問われていることは、まさにこれだろう。
2007年12月29日(土曜日)
【HR】 雨上がり比較的温暖
ずっと雨が降っていたが、今朝は上がった。霧が立ち込めて、気温は低くない。スバル氏が朝から支度をして、タクシーを呼び、東京へ出かけていった。年末に大変なことである。ゲートまで見送りにいったパスカルが、タクシーが走り去ったあとも、しばらくそこで待っていた。呼んでも戻ってこない。犬は健気だ。
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「スカイ・イクリプス」第5話を最後まで書いた。11000文字。推敲は後日。FM東京の携帯サイトのチェックをした。新しい携帯だからもう大丈夫。「道具箱」2校ゲラは75%まで読んだ。これも明日終わるだろう。「スカイ・クロラ」シリーズの単行本5冊を、今後の重版に備えて、ノベルス版や文庫版で手直しした部分を反映させた新しい表記に直すことになった。このため、赤が入った5冊の見本が中公より届いた。1冊で100箇所以上は直るだろう。このチェック作業をしなければならない。
お昼過ぎに、外が暖かそうだったので庭へ出て、機関車を走らせた。バッテリィで動くものとスチームのものだが、いずれも小さい機関車(自分が乗る大きさではない、の意)。このように走らせて遊ぶだけで、必ずなにか発見や発想がある。楽しいことをすると、思考が弾んで高いところへ上がり、視野が広がるようだ。
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アンプのコンデンサを取り替えた。イギリスの充電器を改造して日本でも使えるようにした。スピーカのユニットを1つ入れ替えた。3番めのグレードのスピーカ・ユニットをリビングに貸し出したからだ。テルミンには、パスカルはまったく反応せず。トーマだったら唸ったのではないか。
イギリスの模型を4種ほど新たに注文した。いつ届くかわからないが、楽しみだ。真空管も10本ほど購入することにした。同じ規格のものでも、メーカが違うと全然違う。値段もピンからキリまであるのだ。それを同じナンバで呼ぶところが、不思議な世界である。
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「大人の科学マガジン」で風力発電の巻を読んだ。地球温暖化のために今どんな手が打てるか、というテーマで記事が編集されていた。二酸化炭素を分解して地中に埋める技術がわりと詳しく書かれていたのに対して、何故か原子力発電についてはふれていなかった。僕は原発に賛成でも反対でもないけれど、温暖化対策として、これを外すことはやはりエキセントリックだと思われる。危険性はつきまとうけれど、少なくとも風力発電よりは原子力発電の方が温暖化防止には大きく貢献する(している)。風力発電に対しても、べつに反対しているわけでは全然ない。自分でもトライしてみたいと思うこともある。趣味としてだが。
そういえば、日本ではディーゼルエンジン車がもの凄く減ってしまった。排ガス規制のためだ。しかし、海外では問題を一部解決したディーゼルがかなりの割合になっている。日本のメーカはハイブリッドで強引に推そうとしているみたいに見えるが、そちらの方が将来性は高い、という企業戦略なのだろうか。世界戦略としては、まだ当面ディーゼルも有望なのでは、と心配になる(よく知らずに書いているが)。
そうそう、模型のディーゼルエンジンをいくつか入手したので、今度燃料を買ってこなければ……。
【理科】 ワンセグ
昨年くらいから耳にするようになった「ワンセグ」は、ずばり「ワン・セグメント」を略した名称だ。地上デジタル放送のチャンネルのうち、1セグメントが割り当てられているから、こう呼ばれているらしい。もうちょっとほかに呼び名がなかったのか、と思うけれど。
ようするに、TVの地上波デジタルのうちで、解像度が低い小さな画面向けのチャンネルのことである。解像度が低いといっても、受信が可能でさえあれば、デジタルなのでこれまでのTVよりも画像の乱れは少ない(はず)。
ワンセグのおかげで、携帯電話でTVを見ることができるようになった。これは、電話の回線を使っているのではなく、受信しているのは電波だから、回線の接続料などは取られない。受信機(携帯電話)があれば無料で見ることができる。ただ、NHKの受信料は支払う必要があるみたいだ。また、ワンセグを携帯電話で見ている場合、見ていることを携帯電話会社が知ることができる。これがプライバシィ的にいかがか、という点は問題になるだろう。少なくとも、これまでの受信機にはなかったことである。
まえの携帯電話にはFMラジオが付いていたが、結局一度も使わなかった。新しい携帯電話にはワンセグがついているらしいが、たぶん一度も使わないだろう。なにしろ、地上波のTV放送って、鬱陶しい宣伝は多いし、面白いものが少なすぎる。「結局、無料のものって、こんなものなんだね」と思わせる番組が多い。メディアが目新しくても、コンテンツがつまらなさすぎる。
どこが【理科】なんだ?
2007年12月28日(金曜日)
【HR】 たまごヒコーキ
冷たい雨の日。朝は燃えるゴミを13袋出すことができた。
午前中は小説の仕事。「スカイ・イクリプス」は80%まで。「道具箱」2校ゲラは50%まで読んだ。先日の雑誌「編集会議」のインタビューの原稿がメールで届いた。「もえない」の感想メールを既に沢山いただいている。感謝。
もんじゃ焼きをまた作って食べた。今日は少しだけオリジナルの具を入れてみた。なかなか良かった。
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もう一軒の自宅へ行き、たまご飛行機を探してきた。埃をかぶっていたが、沢山あった。とりあえずいくつか持ってきて、ウェットティッシュで掃除をしてやった。パーツが外れているものもあったけれど、おおむね欠品もなく壊れていない。しかし、デカールは変色している。約30年まえに作ったものだが、プラモデルの寿命ってそんなに長くない。おもちゃも、100年くらいまえのものはオール金属製だから、錆びてさえいなければほとんど機能低下しない。それに比べると、数十年まえのものの方が、ゴムやプラスティックが多用されているから、ぼろぼろになって駄目になるものが多い。
たまご飛行機は、「たまごひこーき」が正式名称だったかもしれない。飛行機のプラモデルで有名なハセガワの製品で、この当時はまだチョロQもなく、デフォルメした模型はほとんどなかった頃である(外国には古くからあった)。真面目な日本人も、少しずつゆとりができて、ユーモアを解するようになったのだろう。このあと、ミニカーやロボットや人形にショーティなものが一気に普及していった気がする。最近では鉄道模型もショーティが流行だ。
最初はレシプロの戦闘機ばかりだったが、そのうちジェット機が登場し、旅客機やスペースシャトルもたまご型でラインナップした。今でも購入できるものがあるだろう。ただし、最近よくあるような着色済みのものではない。「プラモデルを作る」というのは、つまり「プラモデルを塗る」という意味だった。それくらい塗るのに手間と時間がかかった。塗らなくても良いプラモデルは、プラモデルではない、といっても良い。今の子供とは無縁の世界になってしまった。
実物にそっくりの緻密な模型が最高峰だ、という考え方は、実はそれほど主流ではない。芸術的であること(つまりオリジナリティ)の方が重きを置かれる。模型を「おもちゃではない」と主張する人も(特に年輩のモデラに)多いけれど、それも、まあ「おもちゃ」の定義の違いのように思われる。
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長男S氏は、小さい頃、SDのロボットを沢山作っていた。100体くらいはあったように思う。今日、彼は「大人の科学」のテルミンを作っていたけれど、「大人の科学の方が、子供の科学よりどうみても簡単だよね」と言っていた。テルミンは、パスカルの反応見たさに作ったようだ。
【算数】 1週間
1週間は7日である。この頃、週休2日になったので、5日働いて2日休んでいることになる。たとえば、1週間を4日にして、月火水日、月火水日で週休1日にしても、6日働いて2日休むので、今よりは働く日が多いことになる。案外こちらの方が能率が良さそうな気がする。
1年の365日は5の倍数だから、1週間を5日にすれば、ちょうど割り切れる。すると、昨年と今年の同じ月の同じ日は同じ曜日になるから、カレンダが閏年が来るまで同じものが使える。この場合、閏年の2月で、曜日が1つずれることになる。366日は、6の倍数である。残念ながら、365も366も4の倍数ではない。365は5×73だし、366は6×61だ(73も61も素数)。
4年分を合計すると、365×4+1=1461で、この数字は3と487でしか割れない。ちょうど良い曜日の数を決めることは難しい。
1日の24時間は、いろいろなもので割りやすい数になっているが、これはそうなるように1時間を定めたからだ。これに比べると、1日や1年は地球の自転や公転で定められているから、きっちりとはいかない(だから閏年なんてものがある)。1カ月はもともと月の運行によるものだった。曜日だけが、人間が勝手に決めた周期である。
もちろん、きっちりと割り切れないため、少しずつずれていくことが重要であって、月日と曜日の両方を伝えることで、間違いを少なくする効果があるので、合理的だともいわれている。東洋には、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)があった。江戸時代までは、曜日というものがなかったから、四日市なら4のつく日に市が開かれるとか、十進法のサイクルで世間は回っていたようだ。
2007年12月27日(木曜日)
【HR】 苔のむすまで
スバル氏と出かける予定だったが、天気も良く、もの凄く暖かい日なので、「こんな天気が良い日に出かけるなんてもったいない」と思い、留守番をすることにした。ちょうど長男S氏がいたので、彼がつき合って出ていった。車で出かけたり、電車で出かけたりする日は、雨や嵐の方が得をした気分になる。晴れているときは、飛行機や機関車で遊びたいからだ。
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庭で落ち葉を吸ってゴミ袋が合計11袋になった。タイミング良く、イギリスから新しい機関車も届き、この試運転もする。パスカルは昨日シャンプーしたので膨らんでいる。工作も少しできた。面白い。庭の日向に座って、洋雑誌を読んだ。隣のおじいさんも、毎日庭で新聞を読んでいる。午前中は鳥が凄く多い。
午後は小説を少し書いた。完成度60%まで。「森博嗣の道具箱」2校を15%読んだ。
スバル氏たちが帰ってきて、ケーキを食べた。最近、あるメーカのレモン・ケーキが少し森家のブーム。留守中にクール宅急便が来たので、受け取ったあと中身を出して冷凍庫に入れておいたら、スバル氏が感心して、「こういうことができるようになったね、君も」とおっしゃった。どういたしまして。まあ、長く生きていれば、適度に世間ずれするでしょう。
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「A rolling stone gathers no moss.(転がる石に苔は生えず)」を、僕たちは「こそこそ動くものに、得はない」の意味で教わったけれど、この頃は、「活動を続けていれば、古くさくはならない」というプラスの意味に(海外でも)なっているらしい。そうなると、ボブ・ディランの歌はどうなるのだろう? ストーンズも健全なグループになってしまうが、良いのか? それより、「君が代」が酷い歌詞にならないか?
日本の諺も、「情けは人のためならず」みたいに、完全に反対の意味に使われているものがある。「煮詰まる」もすっかり反対の意味が定着してしまったし……。べつに良いのだけれど。
「偉そうなこと言うな」というのは、偉い人が偉くない人に向けた言葉だけれど、最近では、偉くない人が偉い人に対して使っている場面を見かける。政治家とかは、もう偉くないのかな。そうかもしれない。でも、少なくとも歳上が多いわけだし、もの凄く忙しく仕事をしているのは確かだと思うから、平均的に見ても、そこそこ「偉い」といっても良いのでは?
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日本のコマーシャルって、タレントが前面に出てくるのだ。タレントに目が行くけれど、どんな商品のコマーシャルだったか、あまり記憶に残らないものが多数ある。こんな宣伝をしていて効果があるのだろうか。外国のコマーシャルの方がアイデアがあるし、少なくとも商品をきちんと説明しているものが多い。日本の雑誌は、表紙に人間(若い女性)が写っているものが圧倒的に多いが、同じメカニズムだろうか。外国人が見たら、車やバイクの雑誌は「プレイボーイ」の類だと思うだろう(と、思って書店で「月刊プレイボーイ」を見たら、凄い真面目な表紙だった。失礼……)。
【国語】 年末年始の注意
12月のことは「師走」という。そこで、人から「先生はやっぱりこの時期忙しいのでしょう?」と言われることが多いのだが、師走の「師」は僧侶のことで、お経をあげる機会が多くて忙しかったらしい。「師走坊主」という言葉もよく聞かれるけれど、ときどき「12月に忙しいお坊さん」という意味に使っているのを見かける。これは間違いで、「貧乏な人」という意味だから注意が必要。忙しいのにどうして貧乏なのか不思議だが、理由は調べよう。
年が明けて、「来年もよろしく」と書いてくる年賀状が必ず1枚はある。まあ、素直というか、正直ではある。普通の手紙では、書いた時点を「現在」として記述し、届く時点を「現在」とするような配慮はなされないので、たしかに特殊といえる。
「一年の計は元旦にあり」という言葉を、元日に善行をすればその一年が恙なく過ごせる、「初めが肝心だ」という意味に使っている人も見かける。「計」は「計画」のことだと思う。初めに計画を立てろ、という意味だ。ちなみに、もう書いたけれど、「元旦の朝」と言わないように。
「一年発起して、今年は頑張ります」という誤字も多い。気持ちはわかるが「一念発起」であり、べつに年始でなくても、いつでも好きなときにすれば良いと思う。
2007年12月26日(水曜日)
【HR】 マニュアルいらず
晴天で風もなく日差しも優しい。庭で森林の中の落ち葉を集めた。まだ半分ほどだが既にゴミ袋で8つくらい。玄関の前でスバル氏に散髪してもらった。そのあと、バスルームでパスカルをシャンプーした。お昼に、スバル氏がパスタを作ったので美味しく食べた。
午後は読書と音楽。工作室を少しだけ片づけた。小説は「スカイ・イクリプス」を1500文字書いた。今、完成度40%くらい。 今日も重版の連絡があって、それで思い出したが、3日まえの【国語】に「重版出来」を書けば良かった。「出来」を読める人は少ないと思う。
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スバル氏は、新しい携帯電話の説明書をだいぶ読んだようだ。「教えてあげないよーだ」とおっしゃっていた。僕は開いてもいない。マニュアルを読まなきゃ使えないような機能は、使い方をどうせ忘れてしまうだろう。機種を変更した理由は、「薄かった」からであって、機能を求めたわけではない。自分から電話をかけることはまずないし、メールもスバル氏から以外は来ないのだ。写真も撮らないし、テレビも見ない。常にマナーモードだから、着信音も関係ない。身に着けていることは滅多にないから、電話やメールの着信はもちろんわからない。あとで見て「あ、来てたな」と思うだけである。
僕は1996年から携帯電話を使っているけれど、当時は周囲で持っている人はほとんどいなかった。途中でPHSと2つ持っていた時期もあったが、今は1つ。使う頻度はむしろこの頃は減っている。パソコンが軽くなったし、どこでもネットにつながるからだ。この10年間で最も素晴らしいと感じたのは、カーナビだと思う。その次が、SuicaとかETCかな。携帯電話とインターネットがランクインしないのは、それ以前からあったから。
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交通事故による死者は年々少なくなっているが、今年は特に減ったそうだ。原因は、飲酒運転の刑罰が重くなったためと分析されている。刑を重くすれば犯罪の抑止になる、と単純に考えることはできないと思うけれど、そもそも刑が軽すぎた、ということはあったかも。
子供が殺される事件は年々減少しているし、未成年が殺人を犯す事件も減少している。銃による殺人も減っているようだ(今年だけ僅かに多いかも)。社会が進むべき道は、まあまあ大きくは間違っていないみたいだ。
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昨日、100円ショップで、小さいタッパ4個セット(ビスを入れるため)とステンレスの計量スプーン2個(機関車のヘッドライトにするため)と指サック(電話でゲラ校正の結果を伝えるとき紙が上手に捲れないから)を買ったけれど、たいてい買ったまま袋にずっと入っているのが、100円ショップで購入したものたちの傾向である。
【社会】 言語と文字
話す言葉は、民族や地域によって受け継がれるものだが、その言葉を表記する文字は、政治(特に、独裁者)によって支配されていることが多い。日本は戦争に負けてアメリカに占領されたけれど、幸運にもローマ字にはならなかった。しかし、海外では、ベトナムとかモンゴルとか、もともとあった文字から新しい文字へ切り換えられたところがある。支配下にあったわけではなく、自発的に変えた国もある。ドイツもナチスによって文字が変わっているし、中国だって毛沢東が漢字を変えてしまった。韓国の今の文字も比較的新しいものだ。人の名前が漢字なのに、もう漢字はほとんど使われなくなった。
こうした文字改革に共通する動機は、「より簡単に」という方向性である。表記が難しいから文字を読めない人がいる。文字が読めない人がいることは、支配者には好ましくないので、改革が推し進められるわけだが、簡単にすることで失われるものも多い。日本語がローマ字ですべて表記されることになっていたら、どれだけ日本人は損をしただろう、と想像すればわかる。しかし、タイプライタしかなかった当時は、その簡単化のメリットが大きかったわけだ。危ないところだった。
英語は、アルファベット26文字しかなく簡単に見えるが、スペルが非常に難しい。話ができる人でも書ける人は少ないし、また読めない人も多い。日本語のようにルビを打つこともできないから、とにかくスペルを覚えて、読み方を聴いて教えてもらうほかないのだ。発音が同じならスペルも同じにしようという英語改革の運動もあったようだが、この「簡単化」はやはり反対が多く、広まらなかった。
いずれにしても、一度簡単になったものは、絶対に複雑な方へは戻らない。これも歴史が証明しているところである。
2007年12月25日(火曜日)
【HR】 自分を怒らせない
クリスマスだ。この頃は、「うちはキリスト教じゃないから」と言う人がわりと少なくなったかな。
朝から曇り空。ゴミの日だったので、気持ち良くゴミを出した。庭掃除も軽くできた。バキュームの掃除機をパスカルは恐れていて、近づかないのだが、スバル氏が抱っこして近くへ連れてきたら、猛烈に暴れて、放してもらったら、わんわん吠えて怒った。よほど恐かったのだろう。スバル氏は大笑いしていた。いじめっ子である。
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「スカイ・イクリプス」を1500文字書いた。ローペース。機関車製作部の今月のレポートを書いた。
お昼過ぎに、スバル氏とショッピングセンタへ。彼女はまたメガネを買ったから、それを取りにいった。携帯電話の店があったので、きいてみたら僕たちが欲しい機種があったので、その場で機種変更。僕は3年ぶりか。スバル氏と同じ機種になった。「お互いに、見かけないマークが突然出たときの消し方がきけるね」と言い合った。しかし、薄くなったなあ、本当に。近頃の携帯の料金体系も理解した。なるほどな、そういうふうに金を取っているのか、と。来年から、携帯サイトでエッセィを連載するが、今までの機種では未対応で見られなかったので、良いタイミングである。
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僕は、もともと言いたいことを言う、書きたいことを書く人間だが、これでも、公表されるときにはもの凄く控えめにしている。仕事の身内や、さらに家族に対しては、もっと歯に衣を着せず言う。親しい方が手厳しいことは確かだ。ずばり言う方が、ものごとが正確に伝わるし、ひいては相手のためになると考えているからだ。
本やネットでわりと辛辣なことを書いているのだが、スバル氏に言わせると「身近にそういう人がずっといることを想像してもらいたい」「みんな、私の身になってほしい」とのことだ。「スバル氏がそう語っていた、とブログに書いておいて」と依頼されたので、今書いている。まあ、そう言われると返す言葉もない。
不満を内に持たない人間なので、ちょっとでも不満があれば、それが小さいうちに伝えることにしている。それが誠意だと思っているのだ。伝えてしまえば、まったく忘れてしまう。根に持つことはない。どうしても不満が消えない相手の場合は、つき合うのをやめて遠ざかる方法を考える。だから、僕の周囲には、もう僕にとってストレスになる人間はいない。素晴らしい。相手から、不満を言われた場合は、もちろん自分にできることは改善をする。これも誠意だと思っている。自分にその改善ができない場合は、やはり遠ざかるしかない。
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僕は、愚痴というものをたぶん言ったことがない(思いつかないから言えないだけだが)。人の陰口も言わない。個人的に人を恨んだこともないし、個人攻撃をしたこともない。怒鳴ったり叱ったりするようなこともまずない。そこまで怒るまえに対処しているからだろう。ようするに、怒らないようにすることが、自分のために一番すべきことだ、と思う。
【理科】 タイムマシンは可能か?
もうとっくに書いたと思っていたが、MLAではまだだった。
大学で力学を教えていたとき、学生から幾度か「タイムマシンは実現が可能でしょうか?」という質問を受けた。そのときは、「タイムマシンとは何だ?」と問い返すことにしていた。いったい、どんな機能をもったマシンなのか、定義をしてもらわないと答えられない。単なる時計だって、タイムマシンだ。
タイムトラベルは可能か? といった文章によく出会う。読んでみると、アインシュタインの相対性理論が出てくる。未来へ行くのは簡単だ。時間はどこでも同じではないから、進み方の差が生じる。いわゆる「浦島効果」だ。しかし、時間を遡ることは無理である。
光速を超えて移動すれば昔の星の光が見える、といったことが書かれているものも多い。でもそれは「過去を観察した」ことにはなっても、「過去へ行った」ことにはならないだろう。観察するだけのことを「旅行」とは言わないはずである。過去へ行き、そこで物体に干渉できなければ、タイムトラベルではない。見るだけなら単なるVTRではないか。
過去へ旅行し、過去の歴史に干渉すれば、現代が変わってしまう、というパラドクスもよく知られている。それによって生じるパラレルワールドの話も周知のところだろう。
時間を超えた旅行をすることは、まったく完全に絶対に不可能と言い切れない。ただ、それにかかるエネルギィは尋常ではないほどもの凄いものになるだろうし、さらに、そんなもの凄いエネルギィを費やす移動によって生じる爆発的な加速度に人間や周囲の環境が耐えられるとも思えない。月へ行くのとはわけが違う。1人の人間が生きているうちに宇宙の果てまで旅行することが可能か、というのと同じくらい困難な問題だと思われる。結局、まあ、簡単に言えば、過去も未来も「身近」ではないことは確かだ。
2007年12月24日(月曜日)
【HR】 名前の大切さ
昨夜も雨が降っていたが、今日は晴天。
絶対買ったと思っていた部品が探しても見つからないので、ホームセンタへ買いにいった。1つ100円くらいのものが3つ。パスカルも一緒。スバル氏もついてきた。書店にも寄った。ミニストップにも寄った。
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帰宅してから、機関庫の工事を少し進める。昨日塗装したドアを取り付けた。年内に格好がついて良かった。でも、まだ完成ではない。2時頃、落ち葉の掃除もした。ガレージではロックをがんがんかけているけれど、一歩外に出るとまったく聞こえない。庭でも音楽が聴けると良いけれど、近所迷惑になるかな。
このまえ参加したイギリスのオークションの店からカタログが郵送されてきた。といっても、機関車の模型の写真は1枚しかなく、あとはすべて美術品(絵画、貴金属、工芸品)だった。交通模型は今度は4月にまたオークションがあるらしい。楽しみ。美術品の中に模型が含まれているところがイギリスらしい。
小説を書き始めた。「スカイ・イクリプス」の第5話となる短編。タイトルをフィックスし、最初の1000文字ほど。
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先日書いた「タイトルを何ヶ月も考える」という話だけれど、古い日記にも幾度か書かれているとおり、以前は半年間くらい考えた。最近それが短くなっているのは、既に使ってしまったタイトルが沢山あるから、選択肢が限られているためだと分析できる。既刊が増えてくると、同じ方向へは行けない、という気持ちから、行く手が遮られ、選べる道は少なくなる。だから考える時間は減る。もうここしか残っていない、みたいになるわけである。このように、経験を重ねてノウハウを蓄積する、とは、ある意味で、選択肢が限られた不自由な状態になっているだけのことだ。初心者は自由なので迷うことが多い、というわけ。
たとえば、「百年シリーズ」では、「ウォーカロン」という言葉を考え出すのに半年以上かかった。友人たちに相談をしたし、外国人の意見も数名きいた。「スカイ・クロラ」では、「散香」という戦闘機の名前を決めるのに、やはり半年近くかかった。誰かが考えてくれるなら、採用時に100万円出しても安いと思っているが、これまで他人の案を採用したことは一度もなく、やはり参考やヒントにしかならない。
名称を決めることはそれくらい重要だ。ものの名前というのはほとんど命だ、と僕は感じている。名前の悪いものは、絶対に良いものにはならないのだ。たとえ、一時的に良くても、歴史に残らない。最後に残るのは名前だけである、といっても良いだろう。
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これまで書いた作品で、タイトルをあとでつけたものは一つもない。必ず、最初にタイトルを決める。タイトルが決まれば、作品はもう半分完成していると自分では感じる。これから書く15作のうち、タイトルがほぼ決まっているのは、わずかに2作。もう何度か「これだ!」と思ったけれど、翌日には冷めてしまう。冷めた目で見ても良いものを思いつくことはとても難しい。これといった手法もない。
【算数】 納得がいかない足し算
1桁の数字を足し合わせると10を越えるものがある。足し算を習っているとき、ここにギャップがある。不思議だ。桁が増えることを何故難しく感じるのだろうか。11や12も、8や9と同じく、1つの数字なのに。ただ、表記が2文字になっているだけのことである。数字を表記する方法の問題なのに、何故計算がややこしくなる(と感じる)のだろうか。そういった疑問を持ったので、小学校1年生のときに担任の先生に質問したところ、僕の質問の意味が、先生は理解できなかったようだった。もちろん、僕の国語能力が不足していたためだろう。
さて、5+5=10は、気持ち良く覚えられる。また、5+6=11もその恩恵によりまずまずだ。6+6=12も手が届く範囲というか、まだまだ人に優しい。ところが、6+7=13がいけない。一気に難しくなる。これが、桁を越える足し算における最初の難関といえるだろう。とにかく座りが悪いのである。ここさえ乗り越えれば、このあとは、7+8=15が、やや釈然としないものの、まあまあ納得のいく世界が続く。特に、9を足す場合は、「1つ減る法則」が適用できるので、むしろ簡単に感じるだろう。
思えば、5を越えるときにも小さなハードルがあったのだ。そのときは、3+4=7がネックだった。これさえ覚えてしまえば、1桁ではもう安泰である。だから、6+7=13も鵜呑みにして覚えてしまえば、なんとかなるだろう、ということは経験的にわかっているのだが、しかし、やはり桁が増えている点が、どうも胡散臭い。13という数は、6と7を足したものにしては、少し小さすぎないか、という印象である。しかし、人に聞いてみると、この印象は理解してもらえないのである。7+8が15になるのが、まだ納得ができる範囲なのと対照的だ。おそらく足し算をするまえから、13という数を知っていたので、この先入観が災いしているのだと思われるが、さて、貴方はいかがですか?
(勝手に自問して下さい。集計がしたいわけではないので、この件で掲示板書き込みやメールをしないように)
2007年12月23日(日曜日)
【HR】 この頃ちょっとメモります
布団を落とさずに寝られた。8時起床。スバル氏がいないので、パスカルが待っていた。大喜びだ。さっそく、散歩に連れていく。天気は午前中から晴れて、風もなく穏やかな感じ。寒くない。
今日も、工作をしながら、庭で機関車を走らせながら、音楽を聴きながら、ペンキを塗りながら、パスカルと遊びながら、えっと、何が本業だったっけ、というようなぼんやりとした生活。執筆予定の短編は、まだタイトルが決まらないので、書き始められない。こういうのを重複表現で「まだ未定」という。
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そうそう、「沢山考えたタイトルの案をノートにメモしているのですか?」という質問メールが多数(17通も!)あったが、幾度か既に書いているように、僕はメモを取らない人間なので、ノートというものはない。ときどき、文字の見え方をチェックするために、画面に出して、タイトルの文字の姿を各種フォントで眺めることはある。けれど、そのあと消してしまう。つまり、何百という案が他人にアウトプットされたことはない。もちろん、いつでもその場で100くらいは思い出して挙げることは可能だと思うけれど、幸い、僕は締切に遅れたことはないので、途中経過を見せなければならないような事態に陥ったことがない。
メモを取らないと、忘れてしまうものも多い。というか、大半をすぐに忘れる。つまり、忘れてしまうようなアイデアは、大したものではないのだ、という自然淘汰に任せている。なかには、あまり良くないと思えるのに、いつまでも引っかかって忘れられないものもあって、そういうのは、いずれ形を変えて花開くことがある。忘れないものは、どこか印象的であり、つまり、使える可能性が高いのだ。
約束やスケジュールもメモをしないで、すべて記憶していたけれど、最近は忘れてしまうことが多くなったので、大事なものはメモをすることにした。模型の設計図も描かないで、寸法をすべて頭に入れているけれど、この頃、間違いが多くなってきたので、やはり主要な部分だけ数字を書き留めることにした。
打合せのときなんかも、僕は手帳などを出さない。そもそも手帳を持っていない。相手は手帳を出して書いている場合が多い。いい加減な態度だ、という印象を与えるとまずいと思って、手帳を出してメモをする振りをしていた時期もあった。最近は、忘れることがあるので、項目が多数になるような場合は、「今の話、あとでメールしてね」と言うこともしばしば。
本当に頭が悪くなったと思う。大学に入った頃に一番それを感じた。一番頭が良かったのは小学生のときだと自分では思っている。子供のときに考えたイメージを今でもときどき使うことがあるくらい、その当時の貯金は多い(利息で大きくなったのかも)。
べつに、メモを取るなという話をしているのではない。人それぞれやり方が違う。ただ、メモを取ることで安心して忘れてしまう傾向が(少なくとも僕には)ある。アイデアを書き留めると、その後あまり思考が展開しない。書くことで固定化し、思考を停止したいためにメモを取っている人が多いと思う。
本当に考えているときのメモは、言葉ではなく、落書きのようなものだ。曼陀羅のようなイメージになることが多い。あとで見ても、何を考えていたのかわからない。言葉や2次元の図になるような思考は、比較的簡単な部類だと思われる。
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夕方、東京からスバル氏が戻ってきて、ピロシキを食べた。パスカルはまたも大暴走。
【国語】 変則的な読み方
漢字の熟語には、ときどき変則的な読み方がある。もちろん、それなりに経緯や理由があるのだろうけれど、こうした例外があるだけで、国語が嫌いになってしまう子供も多いことだろう。
たとえば、「女房」は「にょうぼう」と読むが、漢字からすれば「にょぼう」ではないか。普通「女」は「にょ」なのに、どうしてここだけ「にょう」になるのだろう。「女王」も大勢が「じょうおう」と発音しているが、これは辞書には「じょおう」とある。大勢がそう読んでしまったから「にょうぼう」に変わったのだろうか。
「相殺」は「そうさつ」と読みたくなるが、「そうさい」が正しい。でも、どうして「殺」を「さい」と読むのだろう。「風情」の「風」はどうして「ふう」ではなく「ふ」なのだろう。「読経」は何故「どくきょう」ではなく「どきょう」なのだろう。「遊説」の「説」は、どうして「ぜい」なのだろう。そんなこといったら、「左右」はどうして「さう」じゃないのか。「発足」なんかも、近頃もう「はっそく」が多数になってしまったのは、やはり変則的すぎたからではないか。
まあ、それは良いとして……。
「老若男女」は、「ろうにゃくなんにょ」である。言いにくかっただけかもしれないが、やりすぎではないか。「ろうにゃくだんじょ」でも発音は難しくないと思うのだ。
なんか、わざと読み間違えやすくしている気がしないでもない。けれど、こういうのが、いわゆる「文化」なのだろうなあ(しみじみ)。あんまりこの方面には関わりたくない、と思っていたのに、作家になったりしたので、この歳になって毎日が「国語」の勉強である。小学校の先生よりは、ATOKの方が少し「人に優しい」けれど……。
2007年12月22日(土曜日)
【HR】 見ない人たち
布団が昨日から新しくなった。羽毛で軽い。寝るときは暖かかったのだが、夜中に目が覚めて、ちょっと寒いなと思ったら、毛布の上の掛け布団がベッドからそっくり落ちていた。軽すぎて、なくても気づかないのである。うーん、これもちょっとなあ。
色塗りの仕事は、案の中から選んで、本命を作画。お終い。小説の執筆は明日から。この「執筆」だが、最近は「しゅっぴつ」と言う人が増えたように思う。「十手」もこの頃は「じゅって」なんて言うし。
小雨が降っている。工作室で木工を少しずつ進め、音楽を聴いたり、本を読んだりしている。
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僕は、取材を受けた場合なども最近はほとんど写真を撮らせない。人物が写っている写真を見た人は、その人物にしか焦点を合わせないので、ほかの情報が欠落するからだ。そこに書いてあること、そこで説明されていることが、人物の写真が1枚あるだけで台無しになることが多いと感じている。結局、その人の顔しか見ないし、記憶しない、というのは多数の人の傾向である。
TVなどでも、スタジオに余計なゲストを招いて、番組を盛り上げているつもりなのかもしれないけれど、結局、主題は伝わらない。どんな大切な内容のVTRが流れても、スタジオのゲストの顔とコメントで帳消しになる。その方が視聴率が取れるのかもしれないが、大衆の傾向を利用しているだけのことで、つまり、お酒が好きな人にはお酒を飲ませ、お金が欲しい人にはお金を渡して、話を聞いてもらうようなものだ。視聴率を取ることが目的になっているからこうなるのかもしれないが、どんなに良い話でも、姿勢が間違っているし、非常に下らないものばかりになる。
取材したレポータの姿を映す必要など全然ない。逆効果だ。そいつがいるから、見えるものが見えなくなる。こういうのに慣れてしまった人は、レポータがいないと注目できない、説明がないと写真や映像を見ない、つまり自分から見ようとしない人間になるだろう。もしかして、既に大勢がそうなってしまったのかもしれない、と感じる。
人間が写っていない写真が見られない。文章がない写真集を長時間見ていられない。説明がない展示物は見られない。ボーカルがない音楽が聴けない。誰かが解説していないと、自分の感動が確かめられない。そういう人が多いのだ。子供のときの育ち方の問題もあるだろう。
僕は既読の小説は二度と読まないが、絵や映像は何度も見る。展覧会に行けば必ず画集を買う。映画を見れば必ずパンフレットを買う。1枚の絵には、小説1作に等しい情報量があるので、短時間ではとても理解できないし、映画も2時間では、そこに盛り込まれたすべてを見ることができないからだ。
数年まえに「猫の建築家」という絵本を出したのだが、僕はこれを本格ミステリィだと考えている。仕掛けやオチに気づかない人が非常に多く、活字に慣れている人たちが、いかに絵を見ないかということを思い知った。先日、家に遊びにきた小学2年生の子にこの本をあげたら、その子は、ぱらぱらとその場で読んで、たちまち「あれ、ここはどうして?」と質問した。子供の観察眼は、本当に鋭いと思う。文字を読み、人の話を聞くことで、成長するほど目が見えなくなるのだな、と思った。
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中央公論新社のN倉氏が、塗り絵を取りにきてくれた。色のサンプルも決めた。「森博嗣の道具箱」の2校も来た。
【社会】 金券と領収書
プリペイドについては、2006年8/23に、ICカードについては、2007年9/8にそれぞれ【社会】で書いた。プリペイドよりも、ICカードは補充ができる点がアドバンテージである。支払った分をきちんと消費する割合が圧倒的に高いだろう(業者側はその分、損になるが)。
先日、東京でSuicaをチャージしようとしたら、領収書を出せることに気づいた。そうか、やはりこのチャージの時点で、既に支払っているのだ。Suicaにチャージした領収書は、交通費という「経費」で落とせるだろうか。今やSuicaは、どんなものにも使えてしまう。本や漫画も買えるし、弁当も買える。しかし、電車賃に消えた場合との区別は難しい。
デパートなどで売っている商品券はどうか? 商品券を購入するときに領収書がもらえるのか、商品券を使ったときに領収書がもらえるのか。カードだって、銀行から引き落としをせず、商品券で支払うことができるものがある。いったい、どこで本当にお金を使った、と判断されるのだろうか。カードを使って商品を受け取ったとき? 商品券を買ったとき? その商品券でカードの支払いをしたとき? もしかして、領収書はその3回、すべてもらえるのだろうか? 消費税がどこで取られるのかも詳しく知らない。いずれにしても、複雑になることは確かだ。
商品券は、金券ショップで売買できる。若干値段が下がるものの、わりと高い率で回収できてしまう。1万円分の商品券を購入し、その領収書で消費したことを証明し、実は9000円くらいの現金に換えることができるわけだ。税金を5割近くも取られる高収入の人(あるいは組織)ならば、これで4000円の得になる(節税などと言う人がいるはず)。また、この方法でいわゆる「裏金」も作られるだろう。金券だけをチェックしても無駄で、今ではネット・オークションがあるから、物品でも同じように現金化が可能だ。
こういった抜け道を許してしまう(この場合は所得税とか公的予算とかの)システムに問題がある、ということになるのだろうか。
2007年12月21日(金曜日)
【HR】 バックグラウンドの虚実
朝、昨日届いた新しい機関車の運転をした。やはり新しいものは、それなりに良くなっている。工夫と改善が積み重なるわけだ。このサイズでは、今までで一番素晴らしい走りっぷりだった。嬉しい。白いボディの蒸気機関車は、僕のものでは初めてかも。
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遊んだあと、落ち葉拾いをして、そのあと貨物列車でゴミ袋を回収した。機関庫のドアの大工仕事を少し進めた。アメリカの踏切の看板をもらったので、ガレージの外壁に取り付けた。スバル氏は母屋に貼ったら、とおっしゃったのだが、やはり「景観」を考慮して、あまり目立たないところに収まった。
仕事は、まず塗り絵。これは、「スカイ・クロラ」の戦闘機「散香」のカラーリング。何故、そんなことをしているのかというと、ようするに映画に登場するものはフィギュアが当然製作されていて、それとは別に、カラーリングが異なる限定バージョンを作ろうという企画なのだ。明日、N倉氏がそのためにまた名古屋まで来る。
「日経パソコン」のイラストは、スバル氏が最後の第60回のものを仕上げたので、これを発送。2年半に及んだ連載は、これですべて終わった。「yorimo」に連載の「スカイ・イクリプス」の校正も。今日も、重版の連絡が多数。
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多くの作品は、作品自体に価値があるのであって、それがどのような経緯で作られたのか、といった履歴とは切り離して評価されるべきものだ、と僕は考えている。作品に限らない。仕事も同じ。誰がやったのか、どれくらい苦労したのか、はどうだって良い。無関係だ。結果を見て、取るか取らないか、それだけの判断だと常々思う。
だから、苦労話が僕は嫌いだ(聞くだけ時間が惜しい)。成功した人間の一部は、自分が苦労人だと力説する傾向にある。特に、小さな成功の場合ほど多い気がする。けれど、そんなの聞かされても、同じ苦労をすれば成功するなんてことはまずない。それは「ノウハウ」でもなんでもない。多くは、もっと褒めてもらいたい、という心理からなされるものであって、ようするに自慢だ。
ただ、例外もある。たとえば、ちょっとした「言葉」や「意見」がそうだ。論理的に説明するような文章は、その内容に価値があるけれど、短い言葉や意見の場合、それをどんな人物が口にしたのかということで価値が変動する。たとえば、F1ドライバが「雪道は恐いな」と言うと、「おおっ」と思ったりするわけである。つまり、語り手のバックグラウンドが、言葉の価値を左右しているのだ。
小説に登場するキャラの台詞も、こんな具合にきっと増幅されるのだろう。このため、小説を読む人は、フィクションの中に、自分を導く真理を見つけようとする傾向がある。でも、小説を読み慣れない人間からしてみると、架空の人物の台詞なんか、まったく重みがない(どうせ作りものだ)。だから、ノンフィクションの中で真理を探そうとする。両方の人たちからファンメールをいただくので、違いが際立って僕には見える。
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西尾維新氏に特別講義をしていただいたおかげで、5日間のんびり休めました。感謝。
【体育】 小説家的筋力
西尾維新です。
特別講義の最終回となる本日は【体育】です。本当に【国語】をやらなかったよこの人! みたいな感じでしょうか? そうなってるとよいのですが。
それでは予告した通り、小説家であり続けるとはどういうことなのかについて話します。まあまだ6年くらいしか続いていない僕が言うのも変な感じですが、周囲の色んなかたの話も含めて、ということです。
一言で言って、疲れます。どのくらい疲れるかと言うと、他の仕事と同じくらい疲れます。個人業であるがゆえの自由さはありつつ、昨日話したように、サービス業としての不自由さもあります。気楽な部分もあり、憂鬱な部分もあり。そんな感じです。だから『小説家は楽そうだから』みたいな動機、あるいは『小説家という激しい戦いの場に身を投じたい』みたいな動機をお持ちのかたは、何らかの肩すかしを食らう形になると思います。
普通に疲れる。その疲労に相応しい対価を得られるかどうか(その疲労以上の対価を得られるかどうか)が不確定なのも、究極的にはいつでもやめられる(いつやめることになるかわからない)のも、他の仕事と同じです。仕事としての信頼度や各種保険についての問題など、普通に疲れる割には客観的に見てリスキーなのは確かですが……。
まあ結局何が言いたいかというと、 疲れちゃうから身体を壊すようなことはしないほうがいいかもね、ということです。健康管理をしっかりできる人が最終的には生き残るという話ですか? パソコンに向かって打鍵し続けるというのも単純にしんどい行為ですし、筋トレまですることはないでしょうけれども、何をするにもまずは身体が資本です。小説執筆に熱を入れるあまり、身体、そして生活や人生を台無しにすることのないよう、ご注意ください。
さて、こんなところで、僕の行う特別講義はおしまいです。つたなく、またかなり押しつけがましい極論を述べてしまったようでお恥ずかしい限りですが、反面教師としてでも、今後の参考にしていただければ幸いです。
ご清聴ありがとうございました。
2007年12月20日(木曜日)
【HR】 身の毛もよだつ思考経験
朝の布団の中は気持ちが良い。けれど、それよりも、「そうだ、今日はあれをやる日だな」とぱっと布団から飛び出せる毎日だと、幸せだ。毎日楽しく目覚めたいものである。
晴天。まず庭で落ち葉をバキュームで吸う。パスカルが元気。植物もまだまだ緑のものがある。名古屋では日の入りは既に遅くなりつつある。夕方が遅くなったら、外で作業をするのには都合が良い。
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スバル氏とショッピングセンタへ。布団を大量に買った。車まで運ぶのが大変だった。フライパンも2つ買った。模型の雑誌が出ていたので購入。携帯電話の店にも寄り、スバル氏も僕も、同じ機種に変更する決心をしたのだが、在庫がなかったので、また今度にした。あとは食料品。
午後は、工作室で塗装をしたり、穴を開けたり。今月ずっと作っていた信号機がほぼ完成して、夕方には、古いものと交換した。次は機関庫の工事になる。イギリスからの機関車は夜に届いた。
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最近はもうコンピュータのプログラムなんて滅多にしなくなった。一番したのは20代の後半で、このときは自分ほどこの仕事に向いている人間はいないだろう、と思ったほどだ。たぶん県下で自分よりプログラムができる人間はいない、というくらいの自信はあった。なにしろ、当時は人口が少ない三重県にいたから……。
高校生のときに数学の難しい問題(「大学への数学」なんかに面白い問題があった)を解いたが、そのときだってこれほど考えなかったな、と思うことが、プログラミング中に幾度かあった。ほんのときどき、それくらい深いところへ迷い込み、もう考えに考えて考え抜くしか、この迷路を抜け出せない、という体験をするのだ。それは身の毛もよだつほど怖ろしいというのか、素晴らしいというのか、信じられないくらい面白い。「ここまで考えられるのだな」と思う一方で、「そうか、ここが人間の限界か」と垣間見える。
たぶん、将棋やチェスの名人とか、あるいは、チョモランマの山頂を目指す冒険家とか、そういう人たちもこんな限界を見るのだろうな(たぶん僕より日常的に)と思ったりする。
このような深い思考というのは、一度ふっとリラックスしてしまうと、たちまち見失ってしまいがちだ。これは未熟だからだと思う。息を止めていないと考えられないことだってあった。こんな領域へ到達しても、たしかに、思考の途中経過を他人に説明することはできない。言語や図形を超えているからだ。考えている自分でさえ、今なにをどうしているのか、整理して示せないことが多い。
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ところで、難しい頭脳労働をする人にかぎって、約束までに仕事を片づけるものだ。何故なら、できるかできないか予想できない場合、絶対に期日の約束をしない。締切を守る能力とは、つまり、自分の能力と作業量を見切ったうえで、無理な仕事を断る能力にすぎない。前者は思考力の差、後者は常識的な思いやりの有無。だから、締切が守れないのは、頭が悪いか、性格が悪いかのいずれかである。
【社会】 働く小説家
西尾維新です。
昨日は、小説家にとっての仕事とは何かと問題提起したところで締めましたが、これはひょっとすると不思議に思われるかもしれません。小説家にとっての仕事が小説を書くことや小説について考えることでなければ一体何なのかという話です。しかしよく考えてみてください。小説を書く。物語を作る。お話を考える。趣味でしょう、それは。
趣味を仕事にするべきではない、とよく言いますが、しかし普通に考えて趣味はそのままでは仕事になりません。趣味を仕事にするための作業が必要で、そしてその作業こそが仕事なのではないかと僕は考えます。
2日目の講義で小説家になれる確率を企業就職と較べましたが、小説家はある意味において個人的な会社であり、小説家になろうという行為は就職活動以外の何物でもありません。小説家は職人であり芸術家であり、そして社会人なのです。ここを心得違いしていると、痛い目を見ます。要注意。
で、社会人としての小説家の仕事とは具体的に何かという問題ですが、しかしあまり具体的な話をしても逆にわかりづらいだろうと思うので、ここはひとつ、こんな言葉を紹介しましょう。『作家にとって読者や出版社はお客さまである。味方でもなければパートナーでもなく、主人でもなければ部下でもない、まして敵であるはずがない。』……わざわざ説明しなくともぴんと来るかたが大半だと思われますが、つまり小説家とはサービス業であるということです。お客さまである読者や出版社をいかにもてなすかという部分が、いわゆる『仕事』にあたるのだろうと僕は考えます。もちろん、最上のおもてなしを提供するためには、時には期待を裏切ることも必要です。
社会性を有しないがゆえに小説家を目指すという入り口もあるにはありますが、しかし企業も国家も身分を保証してくれないこの個人的な職業を続けていくには、社会的信用を自分で築き上げるほかありません。ある意味、ほかのどんな職業よりも社会常識を求められると言っても決して過言ではないでしょう。
では、最終回となる明日の講義では、小説家であり続けるということについて、話そうと思います。
2007年12月19日(水曜日)
【HR】 楽しい精神論
なんだか、天気が良くて暖かい。東京駅では警官が自殺したそうだが、べつに混乱はなく。
新幹線に乗って名古屋へ戻ったら、こちらも好天で暖かい。タクシーもSuicaで支払えたら良いのになあ。
パスカルが庭で待っていて、飛び跳ねて喜ぶ。リビングへ入ったら、またソファでひと暴れ。そんなに嬉しいのだろうか。それとも、これが彼の仕事なのか。
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体調が良く、疲れもない。庭の落ち葉掃除を1時間くらいした。思ったほど落ち葉は多くなかった。3袋ほど集める。メールのリプライは少し遅れている。
イギリスから機関車が明日届く、という連絡があった。嬉しい。注文したのは、半年以上まえになる。クリスマスプレゼントかな(勝手に)。
仕事はまあまあ。細かい確認などが多数。重版が多数。小説の執筆は数日後から。「日経パソコン」第55回のゲラを校正。スバル氏が第59回のイラストを仕上げた。あと1枚だ。角川から「もえない」の見本が届いた。21日発行予定だが、連休だし、全国に行きわたるのは25日頃の予測。
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音楽を久しぶりに聴いている。ときどき聴かない時間があることは、聴くことに良い効果があるようだ。もしかして、読むこともそうだろうか。感じるもの、受けるものは、そういう絶食期間みたいなものは、有効かもしれない。
この頃だいぶ減ってきたのだけれど、まだまだ日本の各種の現場で、精神論がまかり通っているようだ。まあ、なんというのか、今どき、「必勝!」の鉢巻きをして受験するような奴いないよ、とは思う。でも、一部の塾なんか、まだそんなことをしている。子供騙しだから、それで良いのだろうか。
スポーツの解説なんか聞いていると、ほとんど精神論だ。監督って、そんなことしか言えないの、みたいに思うことが多い。でも、精神論を崇め奉る人も多いし、そういった文化は日本には本当に根強いと感じる。合理主義の人は、なんとか騙し騙し自分の手法を見つけていくしかないのだ。
僕なんか、たとえば、「美しい日本語はワープロでは書けない」なんて聞くだけで、ぷっと吹き出してしまって、心が温まる方だから、反論もしたくない。
夜は久しぶりに工作を再開。
【理科】 小説家の生態
西尾維新です。
前回、面白い小説を書けなくとも小説家にはなれる(面白い小説を書いたところで小説家になれるとは限らない)という話で締めましたが、しかしせっかく書く以上は面白い小説を書きたいものです。では、面白い小説を書くためにはどうすればよいのでしょう。これはもう、平凡極まりない答ですが、時間をかけるしかありません。
しかし、時間をかけると言っても、日時歳月をかけるということではありません。もっと短期的な視点で、1日24時間のうち、どれくらいの割合を、小説のことを考えるため、また小説を書くために割けるかということです。
小説を書くための時間、これは1日あたり3時間〜4時間も割ければ上等です。なぜなら、書いているとき、つまりはパソコンに向かって打鍵しているときというのは基本的にアウトプットの状態であり、真に創造的な時間ではないからです。強いて付け加えるなら、このアウトプットの作業は午前中に行うのが効率的だということくらいでしょうか。創作活動は夜中に行うべきだとする説が強いですが、どうでしょう、大抵のことは面白くなる夜中のテンションでの執筆は、筆が滑りそうなので個人的には怖いです。また、1日の最後に作業を残して置くのも精神的によくありません。それよりも、やるべきことは早めに済ませて、すっきりした気分で1日に臨むほうがよいように思われます。まあ夏休みの宿題みたいなものですね。
そして、午前中の作業を終え、すっきりした気分で、1日の残り時間を小説のことを考えるための時間に当てれば完璧です。考えることは何をしながらでもできますから、理想的には午前中の作業中も、睡眠時間も、このために当てたいところです。まあ現実問題、人間には生活というものがありますから、そうそう24時間は割けないでしょうけれども、しかし残りの、小説のことを考えない時間は、考えたことを熟成させるための時間であると心得てください。
1日中仕事のことを考えるなんてぞっとしませんか? いえ、上に述べたようなことは、厳密には小説家にとって仕事ではありません。では小説家にとっての仕事とは?
明日はそのあたりを。
2007年12月18日(火曜日)
【HR】 スカイ・クロラ制作現場
晴天、暖かい日差し。
ぶらぶらと秋葉原へ。それから、日本橋方面へ歩き、モデルエンジニア関連工具の販売で有名な某ショールームを訪問。1時間ほど社長とお話をした。イギリスの模型事情などを伺う。
銀座へ出て、天賞堂へ。中古品をちょっと買いもの。新製品では興味を引くようなものはなし。古い洋雑誌を60円で購入。近所の喫茶店でコーヒーを飲みながら、それを読む。
東京駅でN倉氏と待ち合わせ。3日連続だ。中央線で国分寺へ向かう。プロダクションI.Gを訪問。1年ぶりである。前回は、長女M氏も一緒だった。あれからもう1年か。
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今回も面白いものを沢山拝見できた。会議みたいな場にも参加した。大勢で出来上がったカットを確認していくのだ。僕が一番感じたのは、飛行機の動きでこんなにリアルな映像は初めてだ、ということ。「誰も見たことがない映像」というのは大袈裟ではない。本当に凄い。まるで、飛行機の重量まで計算したかのような、見事な加速度表現だった。音も聞かせてもらった。非常に質が高くて、びっくりした。こんな音、みんな聴いたことないだろう。日本にはなかった音だ。何度でも見たくなる作品になると思う。
散香(「スカイ・クロラ」に登場する戦闘機)をタマゴ飛行機(チョロQみたいなSDバージョン)にしたイラストが、パーティションに貼ってあって感動的だった。西尾鉄也氏が描かれたものだったので、タマゴ飛行機の話をした(実は、彼の実家が名古屋でご近所だとか)。僕は30年まえに、プラモデルのタマゴ飛行機をシリーズで全機作ったくらい好きなのだ。実家のどこかにまだあるはず。今度探しておこう。写真の奥が西尾氏のワークショップ。
押井氏は、グアム帰りらしかったけれど、相変わらずのご様子。散香の実物大レプリカを作りたいとおっしゃっていた。これまで、数々の宣伝プランを聞いたなかで、最も効果があると僕は思った。でも、いろいろ利権(笑)もあることだろうし、どうなるのかな……。
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写真のジャンパは、作画のために使われていたものらしく、絵を描く人が、ときどきこれを見にきていた。どんなふうに皺が寄るのか、といった感じを掴むためのものだとか。押井氏とは、飛行機のマーキングの話もした。作業風景も見られた。試行錯誤がどんなふうに行われ、どのように決定されていくのか、具体的にわかった。いずれにしても、非常に沢山の具体案の中から選ばれていく。不採用になったものは膨大だろう。
声のキャストや、主題歌の担当なども聞いた。もちろん、今はまだ書けない。すぐ近くのお店でフランス料理をご馳走になった。非常に美味しかった。
マニアックなグッズも沢山企画されているようだ。ファンの人たちは、来年のために、お金を貯めておいてね、と余計なことを書いておく……。
【算数】 小説家になれる確率
西尾維新です。
昨日、小説を書けることと小説家になることはまったく別の話だと締めましたが、では、ここにひとりの若者がいたとして、彼または彼女が小説家になれる確率はいかほどなのかを計算してみましょう。確実な方法はなくとも確率は予想できるはずです。ちなみに夢を抱く若者のやる気を削ぐもっとも効果的な方法は、その夢の困難さを説くのではなく、『そんなことは簡単だ。適当にやっていればできる。あんまり頑張るな』というように、その夢を実現容易なものとして語ってしまうことだそうです。確かにこんなことを言われたら挑戦意欲はなくなりますよね。そういう意味では、これから述べる考察は、ともすれば若者のやる気を削いでしまう結果になるのかもしれませんが、小説家になること、これ自体のハードルはそう高くはありません。人によっては、小説を書くことのほうが難しいくらいでしょう。
まず、競争率が低い。これが重要です。小説家になりたいという人は多くとも、小説家になろうという人はごくわずかなのです。新人賞の総応募数に気圧されてはいけません。新人賞の応募作品の大半はそもそも小説としての体をなしていないそうですから、事実上カウントせずに計算することが可能です。すると小説家になるための競争率は、たぶん企業就職や公務員試験の競争率とトントンか、あるいはちょっと低いくらいの数値に落ち着くでしょう。
そして再挑戦が許されていて、かつ年齢制限がない。これが他の職業と大きく違うところです。極端な話、80歳になってからでもデビューすることが可能で、むしろそれが売りになったりさえします。長期間挑戦し続けていれば、彼または彼女に時代が追いつくという可能性もあります。さすがにそれは考え過ぎでしょうが、書き残した小説が死後にブレイクするかもしれません。
まあその他もろもろ総合的に見て、任意のひとりの若者が小説家になれる確率は、一生(死後含む)を通して3割くらいはあると思います。
面白い小説を書けなければ小説家にはなれないだろうって? いえ、書く小説が面白くなくとも小説家にはなれます。ただ、小説家であり続けることが難しいだけです……逆に言えば面白い小説が書けるからと言って小説家になれるわけでもないのですが、でもまあ面白い小説が書けるなら小説家になんてなれなくてもいいじゃないですか。
明日はそのあたりを。
2007年12月17日(月曜日)
【HR】 鉄道博物館と京極書斎
朝、駅でN倉氏と待ち合わせ、大宮へ向かう。大宮駅は、なんだかすっかり綺麗になっていた。「埼玉県の県庁所在地って、大宮? それとも浦和? でも、最近、さいたま市っていうのもあるよね」なんて話しながら電車に乗っていた。周囲の人たちはいらいらしたことだろう。
地元の井上氏と星野氏に会い、いきなり天丼をご馳走になった。ここで、プレゼントの交換会になる。それから、鉄道博物館へ直行。
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平日だというのに、来場者がいっぱい。賑わっている。鉄道模型のジオラマを見るために行列ができていた。そういうものは普段見慣れている我々なので、そちらに興味はない。古い機関車、電車などを見てまわる。普通では見られないような下回り(シャーシの内側)をじっくり観察した。しかし、方々で記念写真を撮りまくる4人組。館内では、食堂が大混雑だった。そうか、だから、天丼をさきに食べたのか。さすがに段取りが良いベテラン勢。おみやげ物売り場も混んでいて、なにも買わず。人気のシミュレータも長蛇の列だったけれど、見ることはできた。2時間ほど観覧し、まあこれくらいで良いかな、というところでお終いに。
井上氏、星野氏とは大宮でお別れし、N倉氏と再び電車に乗った。
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午後3時頃、京極夏彦氏邸へ到着。京極氏とは10年ぶりだ。噂の書斎を一度拝見したかったのだが、なかなか機会もなく……。増え続けるものをどのように収納するのか、という悩みは誰しも同じだと思う。参考にさせてもらおう、と思って伺った。
仕事場を見せてもらったわけだが、置いてあるものは全然違うものの、僕のガレージと非常に状態が似ている。特にデスク周りにあるディスプレィの配置なんか、そっくりだった。雑誌などで紹介されていたコーナではなく、デスク周り、それから全体のストラクチャ、そしてディテールが一番見たかったところ。種々理解した。
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そこで2時間ほど「スパイ大作戦」を見ながらお話をして、今度は丸の内ビルへ車で移動。京極氏は着物だから寒そうだけれど、寒さを感じない人らしいので、周囲が寒がるしかない。
日本料理(創作系?)をいただきながらおしゃべりが続く。だいたいは、時代劇か西部劇か怪獣ものなどの話が多かったのでは。なかなかこういう方面で話が弾む人は少ない(年代が限られるし)。
さらに店を移動して、カフェでおしゃべりが続く。驚くべきことに、けっこう仕事っぽい話もあった。結局、閉店の時間までいたので、お開きは11時。8時間しゃべりづめ。お疲れさまでした。感謝。
本日から特別講義。講師は西尾維新氏です。2カ月もまえに原稿をいただいておりました。よろしくお願いします。
【図工】 小説工作
みなさん、こんにちは。本日より5日間、特別講師を担当させていただく西尾維新です。以前よりこの教壇に立つ日を夢見ていましたので、こうしてその夢が実現し、とても嬉しく、また光栄に思います。
とは言え、僕はまだまだ若輩者であり、人に何かを教えられるほどの人生経験を積んできてはおりません。そこで今回の特別講義では、僕の職業であるところの『小説家』について、語ることにしようかと思います。将来的に小説家になりたいというかたはもちろん、そうでないかたにも楽しんでいただけるような授業になるよう、頑張らせてもらいます。
では始めましょう。
1時間目はプレゼンも兼ねてということで、【図工】です。小説、あるいは小説家について語るならば、それは【国語】であるべきではないのかと思われるかもしれませんが、僕の考えでは、【国語】【算数】【理科】【社会】【体育】【音楽】【図工】の中では、【図工】にこそ、小説の執筆という作業は含まれるものです。それどころか、最近では【国語】こそ小説の執筆からもっとも遠い科目ではないのかとさえ思いますが……ここではとりあえず【図工】の話をしましょう。
森先生の工作趣味は今や周知の事実ですが、先生の小説家としての高い能力はその工作趣味にこそ裏付けされているものだと僕は考えます。『作家』とはよく言ったもので、小説家とは、職人または芸術家としての側面をどうしても持たざるを得ません。では、一本の小説を工作(創作)する上で最低限必要なものは何でしょう。それはまず第一に語彙です。と言うか、語彙がなければ文字通り話になりません。逆に言えば、語彙さえあれば小説を作ることは可能です。語彙という材料を感性という工具で組み立てること。それが小説工作です。
語彙の増やしかたについては、まあ国語辞典の通読が一番手っ取り早いですが、単純に読書量を増やすほうが身に付きやすいようです。
もっとも、小説を書けることと小説家になることは、まったく別の話です。確実に小説家になれる方法は、まず存在しません。
明日はそのあたりを。
2007年12月16日(日曜日)
【HR】 来年はラッシュか
スバル氏と朝から一緒にデパートへ出かけた。日曜日なので凄い混雑ぶり。どうして出かけたのかというと、彼女が年末の新幹線の切符を買うためと、妹一家が正月にやってくることになったので、急におせち料理でも予約してくるか、という話になったためだ。
ちょっと寒くなったかもしれないが、人ごみの生ぬるい空気ほど気持ち悪いものはない。苦手だ。
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午後、講談社のK城氏ととあるホテルのラウンジで会った。今後の出版計画について再確認など。来年は講談社から、かつてないほど沢山本が出る予定。全部で11冊だ。出ない月は、2、4、6月の3月だけで、あとは、すべて1冊か2冊講談社の新刊がある。来年は今のところトータルで24冊の予定で、もちろん毎月どこかからは出る。ラッシュというか、最後のピークというか(24冊は今年と同じで、歴代3位)。
それから、庭園鉄道の本の編集についても打ち合わせた。この本は、今回ボランティアの人たちに編集のお手伝いをしてもらうので、その人たちとも同じテーブルで続けて打ち合わせをした。レイアウト案が6種類くらい出てきて、それらの中からだいたいこれでいこう、と決定した。あとは、作業をするのみ。来年の7月と、再来年の夏の2回に分けて出版する予定で進んでいる。
夜は、今度は中央公論新社のN倉氏と待ち合わせ、とあるレストランへ移動。そこで、バンダイビジュアルのT梨氏と会ってお食事しながら、打ち合わせなど。T梨氏とは8月以来である。オーディオの話題が多かった。なかなか詳しそうで、これからもっと教えてもらえそうだ。
近頃多い「泣かせる」話や、「感動を誘う」話。こういうのは、昔からあった。許されない恋愛のパターンがあったり、死別があったり、子供や動物が健気(けなげ)だったりするのだ。多くの人は、「涙が出るもの=感動するもの=素晴らしいもの」と信じているようだ。僕の場合、涙を流させることほど簡単なことはないし、そんなの誰がやってもできることだと思っているので、たとえ自分がそれを見て泣けてしまったとしても、「あぁあ、つまらないもので泣かされて、無駄な時間を過ごしたな」と思うくらいにはひねくれている。そういうありきたりの話だったら、誰が創ってもある程度のものはできる、というお気軽コースであって、そんな「作品」ばかり作っていたら、どんどんつまらない世界が広がっていくし、新しい才能が発揮されないように思う。日本のドラマや映画、ちょっと安易すぎないだろうか、という話もした。
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昨日書いた、「まとまっていない案を出せよ」という姿勢について補足。完成していないもの、自分の納得がいかないものを人に見せるなんて、クリエータたるもの、絶対にできない、というのはあるだろう。僕だって、未完成のものを見せることは大きな抵抗を感じる。ただ、締切を過ぎているのならば、そんなこと言える立場ではない。失敗作を見せてでも、依頼者を納得させるくらいのことはプロだったらしてほしい。学生はプロじゃないから、しかたがないが、失敗案でも出してくれれば、それで議論もできるし、アドバイスのしようもある、ということ。以上。
【理科】 本能
動物の生態に関する本を読んでいると、「本能」という言葉が頻繁に登場する。また、日頃の会話でも、よく使われるタームだ。「本能的に」などと表現される行動も多い。いったい、本能とはいかなるものだろうか。子供のときから、これが不思議だった。どうも、理由がわからないものは、すべて本能のせいにしているような気がしたからだ。
専門ではないので、まったくわからない。この言葉の定義さえ知らずに書いている。生まれてから学習したものではない。親から教えてもらったものではない。そういった習性や能力のことをいうようだ。
たとえば、ある動物がある植物を食べる、パンダなら笹を食べる、これは本能なのか。親が食べているから真似をして食べただけだろうか。生まれたときに、親たちから離しても食べるなら本能だろうか。
もし、生まれながらに持っている情報ならば、それは、細胞に受け継がれたものになる。遺伝子に組み込まれた情報ということになる。しかし、先祖が好んで食べたもの、という情報が遺伝子に入っているとしたら、その先祖は、生まれたあとに自分の遺伝子に情報を入れた(加えた)ことになる。では、生まれたあと、遺伝子は学習によって変わっているのか?
というようなことを子供心に不思議に思ったのだ。最近、生物学を専門にしている友人に尋ねたところ、「そういえば、この頃は、もう本能なんて使わない言葉だね」などと話していた。
2007年12月15日(土曜日)
【HR】 本当に考えたの?
朝は天気が良かったけれど、午後は暗い空になった。北で雪が降っていそう。
午前中は庭で落ち葉掃除をした。ゴミ袋6杯分を集めた。バキュームで吸い取る感覚が面白い。
スバル氏がスーパへ行き、その間に僕はホームセンタで買いもの。今日は工具の消耗品ばかり。お昼にスバル氏が焼きそばを作ってくれた。
工作室では信号機の塗装作業。機関庫のドアを付ける工事も少しだけ始めた。
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今日は、色鉛筆を出して、塗り絵の仕事をした。まだ案を練っている段階で、今日だけでは決められない。5種類のカラーリング案を作ったが、続きはまた今度。
このまえ、雑誌のインタビューで、「タイトルをどうやって考えるのか?」と質問された。どうやって考えるのか、というようなことが言葉で「こんなふうです」と説明できるとはとても思えないが、「まあ、そうですね、3カ月くらいかけて、200や300の案を考えて、そこから絞り込みます」と答えたら、驚かれた。
「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。
こういうのは、僕の場合「考えた」とはいわないのである。
「いろいろ考えてはいるんですけどね」と言い訳する人には、その「いろいろ考えたものを見せてくれ」と頼む。ところが、たいていは、せいぜいあっても1つしか案がない。1つの案しかないのに「いろいろ」なんて言うなよ、と思う。1つでは選べない。これでは何を考えていたのか、問いたくなる。
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「どうしても、思いどおりに小説が書けません。どうしたら、良いでしょうか?」と尋ねられることも少なくないのだが、そういうときは、「思いどおりに書けなかった小説を見せて下さい。何作くらいあるんですか?」ときき返す。1作も書けていない人が多い。1作も書いてないのに、どうして思いどおり書けないなんて言うのだろうか? 書いてから悩めば良いではないか。書けない書けないと悩む人がいるけれど、書けないなんてことはない、なにかは必ず書ける。幼稚園児だって書ける。100時間も1000時間も悩めば、必ず書けるだろう。5作くらい書けば、自分の才能が小説に向いているか向いていないか、多少はわかるのではないか。
多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のことらしい。同様に「悩んだ」も「悩もうとした」である。否、たとえ考えようとするだけでも、100時間くらい考えようとしていれば、なにかは実際に考えるだろうし、そして、考えれば、なにかは思いつくだろう。きっと具体的な案がいくつか出てくるはずだ。ほんの一瞬だけ考えようとしたくらいで「考えた」なんて言わないでほしい。
沢山の具体案を考えることは、無駄なようでけっして無駄ではない。採用されなかった案が、その人の将来の持ち駒になるからだ。
【算数】 文字改変
タイプライタには、数字の「1」を打つためのキーがない。それは、「L」の小文字の「l」を使うからだ。このように、必要がない文字というものがある。
アルファベットの大文字の形をしたビスケットがあるが、このうち、作らなくても良い文字が2つある。それは「M」と「Z」である。否、人によっては、「C」もいらないと言うかもしれない。
そのビスケットを並べて、子供たちは言葉を作るわけだが、文字の一部をかじってしまえば、別の文字にすることができるので、たとえば、「B」があれば、「P」や「R」を作り出すことができる。これを見越して、ビスケットのメーカは不要な文字を作るのをやめた。さて、いったい幾つまで文字を減らすことが可能だろうか(正解はないが、半分以下にはできるはず)。ただ、「A」をかじって「V」を作るのは至難の業である。
ペンで名前を書いても、別の名前に変えられるものも多い。たとえば、「田口」は簡単に「町田」に変えられる。「山口」も「山田」や「田口」に変えられる。「林」も「森」に変えられる。数字では、「1」を「4」や「7」に変える偽装が容易いため、こうされないように「1」の最初の短い棒を下から長く書き、「7」は「ヌ」のように書くことが海外では多い。しかし、「0」を「6」や「9」に直される恐れはある。
「油」という文字を「シ由」と書いたりする似非倍角漢字みたいな遊びもときどき見かける。「頭」を「豆頁」と書いたり、「知的」を「矢口白勺」と書いたりする。「I田E」や「ヨ田I」と書いて、「山田一」の縦書き表現もできる。
2007年12月14日(金曜日)
【HR】 変身したブタ
久しぶりに気持ちの良い晴天。朝は冷え込んだものの、日中は暖かい。庭で落ち葉を4袋ほど集めた。
午前中は、工作室で信号機を作っていた。だいたい金属加工は終わり、あとは塗装を残すのみ。次は、また機関庫の工事に戻って、明日から扉などを作るため、測量を行った。
お昼に、スバル氏とパスカルを乗せてドライブに出かける。書店とコンビニに寄った。今日も温かいチキンサンドを買って食べた。パスカルは車に乗るだけで嬉しいみたいで、特に散歩にいきたいわけではない。むしろ家に帰ってきたときに一番喜ぶ。
「日経パソコン」の残り2枚のイラストを下描きして、ペン入れも終了。これですべて終わった。スバル氏は第58回のイラストを仕上げたので、あと2枚。「水柿君」最終話は結局そのまま幻冬舎へ送った。PHPからエッセィの依頼があって引き受けた。締切は2月。あと、塗り絵の仕事(つまり、カラーリングを決めろとの依頼)があるので、明日はそれを考える予定。
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「庶民の味方」については幾度か既に書いたが(2006年4/6と2006年9/19)、再び。
安売りの店のことを「庶民の味方」と呼ぶことが多い。たとえば、何万円もする超豪華なレストランと、下町の商店街にありそうな小さな定食屋を比べてみると、前者は、金持ちしか相手にしていない。つまり、金持ちから金をがっぽり取っている。後者は、比較的貧乏な人たちから金を取っている。石川五右衛門は、「義賊」などと呼ばれ、金持ちの家にしか盗みに入らなかったというが、これはどちらかというと、前者の高級レストランみたいなものではないだろうか。そうなると、こちらの方が「庶民の味方」のように思えるのだ。安い店は、貧乏な人からなけなしの金を搾取しているようにも考えられる。競馬場やパチンコ屋のそばにある飲み屋や屋台などを見るたびに、「あれがなかったら家に帰るかもしれない人から、まだ金を取る仕組みなのだな」などと思えてしまう。こういうふうに考えるのは、ひねくれているのだろうか。
スバル氏がデッキへ出るドアのロックを壊してしまった。折れてしまって直らない。しかたがないので、別の部屋のドアのものと取り替えた。そちらのドアは開かずのドアになってしまった。古い家なので、こういったことが頻繁に起こる。
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トイレにブタの置物が5つある。うち4匹はKISSのメイクをしているが、1匹はパンダ模様だった。今ひとつ可愛くないな、と思えたので、こっそり工作室へ持ってきて、まず一度サーフェイサを吹き付け、次に白を吹き付けてから、塗り直してみた。3日ほどかかったけれど、完成したものをまたこっそりトイレに戻しておいたところ、スバル氏が気づいて、しばらく笑いが止まらなかった。見ているだけで笑えてくるようなものを作りたい、と常々思うのだが、こういうのは反則だろうか。スバル氏は、「ロフトで買い占めてくるから量産して」とおっしゃっている。
【国語】 中毒と禁断
「私は活字中毒です」と自称する人が、この分野には多い。どちらかというと、あまり文字を読まない人の方が世間では大多数で、そういう人は、ときどきなにかの気まぐれで本を読もうとしても、ちょっと活字が目に飛び込んできただけで気持ちが悪くなったりする。こっちの方がむしろ「活字中毒」に相応しいような気もするがいかがか。いや、これは「急性活字中毒」かもしれない。あるいは、「活字あたり」といった方が良いか。
「活字中毒」は、「アルコール中毒」や「ニコチン中毒」と同じようなイメージで使われているようだ。つまり、活字を摂取していないと落ち着かなくなる、という症状を訴えたいものと思われる。しかし、辞書によると、「中毒」というのは、「飲食物または薬物などの毒性によって生体の組織や機能が障害されること」とある。だから、やや意味がずれているような気がする。「活字依存症」の方が伝わるのではないか。活字を読まない人には、特に伝わりにくいと思う。たぶん、活字を読み過ぎて目が痛くなる症状のこと、くらいに想像されてしまうだろう。
「禁断症状」などもよく使われるフレーズだ。つまり、「活字中毒」の人が、忙しくてなかなか本が読めないときに、禁断症状になるらしい。摂取を中断することで起こす症状のことだ。一方、「禁断の実」というときの「禁断」は、神様が禁じていた、との意であるけれど、転じて、「今までになかったほど魅惑的な」というイメージで使われている。つまり、神様が禁じていたのは「快楽」である、という信仰心の欠如した解釈だ。だから、「禁断症状」も「禁断の症状」というだけで、なんだか人知れず素晴らしい感じになってしまう。
2007年12月13日(木曜日)
【HR】 どうして紅白なの?
朝から雨模様。でも、まだ寒くはない(といって暖房は使っているけれど)。雨の日は庭掃除がないから、持ち時間が長い。
午前中から、スバル氏と高島屋へ出かけていく。コーヒーとお茶を買うのが目的。僕はハンズで材料と工具を買った。一番高かったのはヤスリで1本3500円。スバル氏は化粧品を買ったようだ。それから、細々としたもの(人形とか縫いぐるみとか帽子とか)を沢山買ったので、帰りは2人とも両手に紙袋をいっぱい持っていた。暖かい紅茶を飲みながら、車で帰った。
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午後は、小説の仕事。「水柿君」の手直しは終わり。もう送っても良いが、締切より1週間もまえだから、もう少し直すかも。執筆は、次は「スカイ・イクリプス」で来週の後半から月末にかけて書く予定。「森博嗣の道具箱」の2校がもうすぐ届くそうだ。今抱えているゲラは、あとは「θ」の文庫の初校のみ。
夕方は、研究関係の電話で2時間ほど取られた。しかたがない。昼間に工作ができなかったので、夜にエアコンで工作室を暖かくして、こそこそと。
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スバル氏が、今年の紅白歌合戦の話をしていた。僕はもう20年くらい見たことがないのでよく知らないが、今も続いているらしい。不思議なのは、どうして男女でグループが分かれるのだろう、という点である。東西で分かれるものは、わりと多いけれど、男女に分かれて対戦するものって、けっこう少ないように思う。昔の番組を振り返ると、NHKのゲーム番組にはわりと男女対戦のものがあった。つまり、NHK的発想なのだろうか。もちろん、遊びなのだから全然文句はないのだけれど、とても奇妙には感じる。
大学説明会のときに、高校生が大学へ大勢やってくる。たとえば、50人いたとき、10人のグループ5つに分けて、それぞれを案内したりするわけであるが、そのとき、そのグループ分けを、男女比が偏らないように分けてほしい、と主張した学科があった。僕はそれを聞いて本当にびっくりしたのだ。何だろう? トイレなどの設備的なことを心配しているのだろうか、と。理由を尋ねたら、年輩の教授が、「やっぱり、女の子がいないと寂しい」と言うので、呆れてしまった。それって、セクハラじゃないのか(笑)。
まあ、そういったことも今は昔か。紅組が良い、白組が良い、と自己申告するのが良いのではないかと思うし、将来はそういう方向にきっとなるだろう。そのまえに男女の性が、そういうものになるかもしれないし。
【社会】 道路を造るべき時代か
ガソリン税が議論になっているが、新しい道路や橋を通ったりすると、この道路はガソリンや自動車の税金で作られました、といったことがよく書かれているのを見かける。べつに財源がどこであっても良い。お金とは、元がどこであっても無関係だ。それよりも、問題は使われる額だろう。
たしかに、この頃、田舎に立派な道路が沢山できているように感じる。トンネルも橋も、「こんな田舎に、どうしてこんな立派なものが」と思うようなものが多い。日本も豊かになったな、とは感じる反面、これからの時代、道路の需要は増えるのだろうか、と疑問にも思う。
今まで増加してきたから、これからも増加する、という単純な発想だろうか。もちろん、そうではない、これまでそれで儲けてきた業界があって、同じ方法で景気を良くしていかなければ安定した社会は維持できない、と思い込んでいる人たちが多いのだ。
将来的に見て、多くのものはネット(通信網)に移行しつつある。物流だけは無理だが、それ以外のもの、たとえば、人間が移動しなければならない機会は限りなく減少させることができる。エネルギィ事情にも環境にも合致している方向性だ。
まだ電話の電波が届かないところ、デジタル放送がないところ、ケーブルテレビがないところ、そういったところへ高速道路を通し、橋を架ける行為は、誰の欲望なのだろう。
2007年12月12日(水曜日)
【HR】 機械のせいにする
落ち葉も峠を越えて、今日は暖かい晴天。明日から少し寒くなるらしい。それにしても、あらゆるものが、いずれは峠を越えるのだろうか。
「水柿君」最終話は手直しを50%。「スカイ・クロラ」関係で塗り絵(?)の仕事が来た。色鉛筆を出そう。
FM東京の連載は、携帯電話(携帯端末というのかな)で確認をしないといけないが、僕は携帯をほとんど使っていないので、教えてもらいながらやっている。普段、携帯電話へはスバル氏以外からはかかってこないし、メールもスバル氏以外からは来ない(迷惑メールは来るけれど)。そもそも、携帯電話を僕は携帯していない。出かけるとき用のバッグに入ったままだ(たまにバッテリィ切れになる)。そういう使い方なのである。長いURLを携帯で入力したけれど、全然駄目だった。どこか打ち間違いがあるのだろう。しかたなく、パソコンにあるものを携帯へメールで送って、それを使った。ああ、ちゃんとURLが選択・クリックできるようになっているんだ、とわかる。
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歳を取ったからいうのではなく、若いときからそうなのだが、僕は、機械がうまく使えないと、必ず機械のせいにする。自分が悪いとは絶対に思わない。機械の使い方を間違えたときも、それは機械のデザインが間違っていると思う。パソコンのソフトでもそうだ。使いにくいものは、すべて僕のせいではない。このあたりが、エンジニアの基本的な姿勢だと自分では考えているし、エンジニアになる以前からもそう考えていた。そう考えていたからこそ、エンジニアになったのかもしれない。
地震で家が崩壊したら、それは地震が悪いのではない、家の設計が悪いのだ。酒を飲んで車を運転するのは人間が悪いが、しかし、誰にでも運転できてしまう車にも問題がある。ただ、技術的に発展途上のものを使わざるをえない、という状況はあるだろう。機械の過渡的な機能不足は人間がカバーするしかない。それはいつか解消されるべきものだ。
現在の携帯電話は、携帯性重視のために操作性が犠牲になっている。これは過渡的な問題だ。僕のガレージは、空間を有効に使うために、入口は全部ドアの高さが150cmになっている。背の低い僕でも屈まないと頭を打つ。これは、過渡的とはいいにくく、妥協だろうか。犠牲になる性能というものは、どうしてもあるということか。この場合は、頭を打ったからといって、設計が悪い、とはいえないかな。ぶつぶつ……。
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スバル氏が美容院へ行った。このまえ、新しく届いた「MLA」を読んだらしく、「私がこの頃美容院へよく行くのはね……」と理由を説明してくれた。「いや、理由が知りたくて書いたわけじゃないよ。話題として取り上げただけで」と弁解しておいた。
【理科】 金属の長所と短所
工作でよく使う金属というと、僕の場合は、真鍮(黄銅)、鉄、ステンレス、アルミ、銅の5種類だと思う。このほかにもあるけれど、使う量が極めて少ない。ステンレスは鉄だが、いちおう分けてみた。
鉄が一番安いし、加工も楽だけれど、とにかく錆びるから耐久性に問題がある。ステンレスは錆びないけれど、加工がかなり大変だ。アルミも錆びない。しかも、軽いし、加工も楽だ(溶接ができないが)。ただ、強度がないし、熱にも弱いという欠点がある。一番、バランスが取れているのが真鍮で、これは模型には多用される。加工もしやすいし、強度もまあまあ。値段がやや高いくらいか。銅は、軟らかいけれど、耐久性が高い。機関車のボイラなどは銅で作ることが多い。
木材やプラスティックと比べると、金属は高強度で抜群の耐久性を有している。品質も安定している。昔から機械や構造に多く使われてきたわけである。
ところで、金属ではどうしても作れない部分もある。まず、思いつくのは重量的な問題。金属は一般に重い。飛行機などでは、重さの割に強い(比強度という)材料が望まれる。金属の中ではアルミの合金が多いし、この頃は複合材料(グラスファイバなど)が多用されつつある。
それ以上に、金属では絶対にできないもの、というと、光を通す必要がある部分、つまり、透明でなければならない部分だ。これは、ガラスやプラスティックしか今のところない(かつては雲母なども使われたか)。それから、電気を通しては困る部分、つまり絶縁性が必要な場合である。金属並みに強度や耐久性があって、透明だったり、絶縁体だったりするものが、現代でも非常に限られている。
2007年12月11日(火曜日)
【HR】 早起きゴミ出しの日
昨日少し早寝をして、今朝は7時過ぎに起きた。ゴミ出しのためだ。なんという高き志。
燃えないゴミをスバル氏と一緒に持っていった。これは5袋くらい。帰ってきてから、燃えるゴミを家の前に出したが、こちらはなんと11袋もあった。ほとんど落ち葉だ。パスカルが喜んで、庭をぐるぐると一人で走り回って見せる。ネジを巻いた直後みたいに朝は元気だな。
8時くらいから雨がしとしと降りだした。今日はどこへも出かけない。
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作ったばかりのアンプで音楽を流しつつ(エージング中)、工作室で作業をした。ときどき書斎へ上がって小説を書く、というお決まりのパターン。「水柿君」は6000文字書いて完成。明日と明後日で推敲する予定。このシリーズもこれで終了である。4月に単行本のシリーズ3冊めが出る。Xシリーズ既刊2冊がともに重版で第3刷と第2刷になる。「タカイ×タカイ」は、2校ゲラを電話で伝えて校了。カバー折返しの写真も撮って、ポエムも書いて送ったので、これもすべて終わり。ほかにも6冊ほど重版の連絡があった。「日経パソコン」の第57回のイラストをスバル氏が仕上げたので発送。僕は第58回の下描きとペン入れをした。あと2枚。仕事がいろいろ片づいて嬉しい。その反動のように、趣味のものは散らかっていくばかり。
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誕生日のメールのリプライがようやく終わったところなのに、今日はまたメールが多い。7日のブログが公開になったせいだが、べつに特にショッキングな内容は書いてない。今まで何度か繰り返し書いてきたことを少し具体的に示しただけだ。メールを送ってきた人の半分以上が、ブログを読んではいない。友達からの噂で知った、とある。まあ、そういう時代なのね、と……(笑)。
今までに、長編を何作書いたのか、実は数えていない。「長編」の定義や数え方にもよると思う。だいたい50作くらいだろう。11年かかって50作だから、1年に4、5作の執筆ペースだったことになる(もちろん、このほかに短編を書いている)。これを、あと15作も書くといっているのだから、急な予告でもないだろう。僕としては、まだそんなに書くのだな、という気持ちが強い。来年には、トータル発行部数が1000万部を超えるから、1作で平均20万部も売れたのか? あれ? そんなに売れているかな、変だなあ……。長編以外のもの、小説以外のものは部数的にはほとんど無視できる程度だと思っていたが、塵も積もれば、ということか……。
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ここ数日、とても良いことが続いている。体調が良いし、工作は捗るし、試みることはうまくいくし、パスカルは可愛いし、スバル氏はそこそこ機嫌が良いし、ゴミは出せたし……。
【算数】 三角形の合同
僕はこれを中学1年生で習った(「ビヤ樽」という渾名の先生から習ったが、名前を思い出せない)。三角形がそっくり同じ形で同じ大きさであることを、「合同」というのだ。大きさは問わないで、形だけが同じ場合は、「相似」という。
2つの三角形が合同であると判断できるのは、次の3つの条件のいずれかが両者の間に成立しているときだ。
1)3辺がそれぞれ等しい。
2)2辺とその間の角がそれぞれ等しい。
3)2角とその間の辺がそれぞれ等しい。
「辺が等しい」とは、辺の長さが同じだということである。つまり、2つの三角形があったとき、3辺の長さがそれぞれ一致すれば、同じ形で同じ大きさの三角形だ。ぴったりと重ねることができる。そんなの当たり前では、と言われそうだが、たとえば四角形では、4辺がそれぞれ等しくても形が同一であるとは限らない。
さてでは、ここで応用問題。
絨毯屋の山田さんは、加藤さんから電話で注文を受けた。加藤さんは、部屋の絨毯の一部を汚してしまい、その部分を三角形に切り取った。そこにぴったり収まるように絨毯を継ぎ接ぎしてほしい、という。山田さんは、三角形の合同の条件を知っていたので、電話でその三角形の3辺の長さを聞いてメモを取った。その絨毯は以前に山田さんが納めたものだったから種類はわかっている。同じ布を倉庫から探して、三角形に切ることにした。ただ、余裕を見て、3辺の長さをそれぞれ10%ずつ長くして切った。山田さんは、それを持って加藤さんの家へ行ったのだが、しかし残念ながら、持ってきた三角形ではどうしても絨毯の修理ができなかったのである。さて、どうしてだろうか?
(解答を掲示板に書き込んだり、メールで送らないように。ビヤ樽も思い出したいわけではないので、お気遣いなく)
2007年12月10日(月曜日)
【HR】 散らかる言い訳
昨日よりもっと暖かい晴天だった。朝はゆっくり起きて、庭掃除をして、さあ仕事でもするか、と思ったらもう11時だった。落ち葉を入れたゴミ袋が8つくらい溜まっている。ゴミの日は明日。
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仕事のまえにスバル氏とホームセンタとショッピングセンタへ。年末の工作の材料を沢山仕入れてきた。今日はパスカルは留守番。月曜日だったけれど、どこも賑わっていた。日差しが暖かく、模型飛行機が飛ばしたくなるような空を見ながら帰ってくる。
工作室で作業をしながら、ときどき書斎へ上がって、小説を書いた。「水柿君」は4000文字進んで、完成度は80%。「タカイ×タカイ」2校ゲラは最後まで読んだ。 「工作少年の日々」は夜に電話で伝えて校了。
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このところ、工作は快調で、やる気が充実している。そのかわり、ガレージも工作室も目一杯散らかっている。なんとか、少しでも片づけて、場所を有効に使いたいのだが、なかなかそんな時間もない。片づけるような時間が惜しい。まあ、整理というのは、パソコンでいったら、バックアップみたいなものだろう。バックアップが得意だとか、好きだとか、そんな人間がいても良いが、バックアップを取るもの自体がなければ活かされないし、価値のないものをバックアップしてもしかたがない。ようするに、価値あるコンテンツを生産して初めて、そのバックアップを取ることに価値が生じるのだ。整理整頓をすれば、すっきりとしてやる気がわくことはある程度は事実だけれど、整理されているからといって良い仕事ができるというものでは全然ない。バックアップをちゃんと取っていれば良い小説が書けるのか、というのと同じだ。だから、整理術みたいな些末なことを大袈裟に言うのは、ちょっといかがかと僕は思う。情報を出し入れするだけの仕事しかしていない人間には有効かもしれないが、と思えてしまう。創作とは混沌から生まれるものだ。
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お歳暮の時期で、出版社から次々と届く。それでも、日本のこの習慣、そろそろ下火になっているのではないか。そのうち、お歳暮を贈ったり受け取ったら犯罪になったりしないかな、と想像したりもする。ちなみに、スバル氏は送られてきた品物を見て、森家で消費できそうにないものは、すぐに彼女の実家へその箱のまま転送している。このまえ、「いっそのこと、うちの実家へ直接送ってもらうようにしようか」などとおっしゃっていた。たしかに、そうしても「気持ち」だけは受け取れるが……。いわゆる、大阪的合理化である。
【国語】 熟字訓
1字の漢字ではなく、熟字(熟語ともいうが)の漢字に訓読みをつけたものをいう。たとえば、よく例に挙げられるのは、「今日」と書いて「きょう」と読むようなもの。「今」が「きょ」で「日」が「う」と、文字に読み方が当てられているのではない。ここが特徴だ。ほかにも、「大和(やまと)」「七夕(たなばた)」「欠伸(あくび)」「煙草(たばこ)」などがあり、地名や人名にもかなり多い。また、名詞以外でも、「可笑(おか)しい」「相応(ふさわ)しい」など、小説によく登場するような例も多数。熟字訓は、当て字とは違う。また、訓読みが漢字ごとに明確に分割できるものも、熟字訓ではない、とされている。
音読みができるものもあるが、訓読みしかないものも多い。外国人にとっては、例外的な読み方と捉えられるから、「日本語は難しい」というときに、よく槍玉に挙げられるところだけれど、日本人にとっても難しいだろう。特に、音読みすると、少々意味が異なるような場合もあって困る。「今日」を「きょう」と読むか「こんにち」と読むかで意味が違う。あるいは、「浴衣」を「ゆかた」と読むか「よくい」と読むかでも違う。
自分の書いた小説がゲラになると、編集部がつけたルビがある(基本的に、最初の原稿の段階でルビを振るようなことは僕の場合はほとんどない)。このとき、小さなルビが、漢字の横のどの位置にあるか、という細かい点に着目すると、熟字訓が意識できることがある。つまり、熟字全体に均等に割り振られているか、それとも1字ごとにルビが振られて間隔が不揃いか、の違いだ(もちろん、わからない場合もある)。
僕の登場人物の名前には、熟字訓がけっこう多いかも。小鳥遊(たかなし)や海月(くらげ)がそうだ。
2007年12月09日(日曜日)
【HR】 たちまちリベンジ
昨日の機関車の対処については夜に思いついた。朝起きてまず1時間ほど落ち葉をバキュームで吸ったが、そのあとすぐに機関車の修理を始めた。脱線で折れたパーツも交換する。手持ちのものがあったから、すぐに直せたわけだ。やはり、ストックをしておかなければならない。2時間ほどで復旧。外は風があるものの眩しいくらいの晴天。どうしようか迷ったが、思い切って試運転をすることにした。
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昨日と同じ手順だから手際が良い。すぐに走らせることができた。今日は、万が一脱線をしてもダメージが最小限になるよう低速で走った。調子がとても良い。脱線もなかった。やはり、ほんのちょっとしたことが原因だったようだ。しかし、別の原因でいつ脱線するかわからないし、脱線したら例のパーツが折れる確率は極めて高い。
10周ほど走ったが、一箇所軽微な蒸気漏れが見つかったほかは満足できる結果だった。火を落とし、機関車の掃除をする。この古い機関車は7月に手に入れて以来、今までずっと、トラブルがあって運転を中断する日ばかりだったのだが、今日は初めて、トラブルなく運転を終えることができた。ここまで来るのに5カ月かかったか。
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午後は音楽を聴きながら、小説の仕事をこなす。「水柿君」は5000文字書いて、完成度66%に。「タカイ×タカイ」の2校は80%まで見た。「工作少年の日々」2校もチェックをした。校閲が表記の統一を指摘してくれるのだが、意味によって表記を使い分けているので、またもルールについて説明をしなければならない(面倒)。しかし、すべてが順調。
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スバル氏が話していたこと。僕たちの世代は、高度成長期で大人は仕事に忙しく、子供はあまりかまってもらえなかった時代に育った。いじめがあるとか、登校拒否があるとか、そんなのは、僕たちより少しあとの時代だ。僕たちのときにも、それらは当たり前のように存在していたが、騒ぎにもならなかった。辛い思いをしても、我慢しなさい、としか大人は言わなかっただろう。社会がまだ注目もしていなかったのだ。「いじめ」「引き籠もり」といった言葉が聞かれるようになったのは、それを問題視し、注目したからであり、対処の始まりだった。問題になるよりもまえは、状況はもっと酷かったのだ。
しかし、そういう時代だったからこそ、自分の自由をこんなに重要視する人間になったわけで、また、ある意味で、自分本位ではあるけれど、この自由さは幸せだ。今の子供たちは、大人から目一杯注目され、可愛がられているから、逆にいつまでも自由になれないだろう。可愛がられすぎるから、その愛情の元から離れられないのだ。愛情や注目が自身の束縛になっている。悪い状況ではないものの、自覚あるいは自戒すべきかもしれない。
【社会】 どこまでが?
収賄の取締りが厳しくなると、「しかし、どこまでが収賄で、どこまでが単なるお礼なのか、線引きが難しい」という声を聞いた。ヤラセが問題になると、「どこまでがヤラセで、どこまでが演出なんだ?」という声が上がる。セクハラのときだって、「どこまでが良くて、どこからがセクハラになるのだ?」という声が多かった。
しかし、多くの場合、「どこまでが」なんて言っているようなものは「すべて悪い」と考えるのが正解である。自分がどう認識しているか、自分がどう処理しているかが問題なのではない。そこが決定的に間違っている。当事者の誰かが「収賄だ」「ヤラセだ」「セクハラだ」と感じれば、あるいは当事者でなくても多数が感じれば、それは「クロ」なのだ。
いずれも、長く当たり前のように行われてきた慣習だ。ときには、ものごとを滑らかに進めるシステムだった。やっている側にはまったく罪の意識はない。「何がいけないんだ?」と首を捻るばかりで、「まったく、やりにくい世の中になったものだな」という嘆きしか聞こえてこない。つい10年まえなら、「談合は絶対になくならない。これは必要なシステムだ」と胸を張っていた人がまだ大勢いた。
では、何故問題になったのだろうか? こういった慣習に対し、「ちぇ、嫌だなあ」と眉を顰めている人間が大勢いたのである。これまで、そういう大勢の大人しい人たちが無視されていただけのことだ。わかりやすい例でいえば、禁煙運動もこれである。
昔ほど、少数が大勢の気持ちを知らなかったか、無視していた。ゆっくりではあるけれど、世の中は、大勢が望む方向へ進んでいる。
2007年12月08日(土曜日)
【HR】 達成感は被支配の証
昨夜遅く、アンプ(何号機になるのかな)が出来上がり、これを鳴らした。思いのほか素晴らしかった。本当に良い一日だった。今日も寝覚めが良く、朝から庭掃除。燃えないゴミと燃えるゴミもまとめた。日差しがとても暖かい。
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パスカルをシャンプーした。バスルームでスバル氏と二人がかりで洗うのだ。パスカルは大人しくじっとしているので、難しいことはない。気持ちが良かったのではないだろうか。
思い切って、昨日直したばかりの蒸気機関車の試運転をすることに。石炭を燃やしてしばらくすると圧力が正常に上がり、蒸気漏れもない。修理した部分が完璧だったので嬉しくなる。これで、しばらく走って遊んでいたが、途中で脱線した。その後も走っていたら、また同じ場所で脱線。この衝撃でシリンダの下のパーツが折れてしまった。これは、簡単に直せるけれど、調べてみたところ、脱線した原因がこの機関車の特有の致命的欠陥だと判明した。どうしたら良いものか、と新たな問題が浮上。このように、はてしなく次から次へと問題が持ち上がるところが面白い。いつまでたっても達成感はない。まるで研究と同じだ。とにかく、今日は最高に楽しかった。
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子供たちにドミノを並べさせたり、世界記録に挑戦させたりして、ものごとを達成したときの感激を味わわせようとしているのを見かける。けれども、本当の達成というのは、そういった「終わり」ではない。終わりがあるのは、それが「与えられたもの」だからである。
自分で問題を見つけて解決してくとき、自分で考えてものを作り上げていく場合には、けっして達成や終わりはないだろう。1つ解決したときには、新たな問題が目の前に現れるからだ。そして、よしこの次も乗り越えてやろうという決断をする、ここが一番エキサイティングな瞬間である。
「終わった!」と嬉しくなるのは、それが仕事であり、与えられたノルマである証拠だ。「できた!」と嬉しくなるのは、それを誰かに見せようと思っているせいだ。まだ誰か他者に支配されていることを思い知ろう。達成なんてその程度のものだ。
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お昼に、スバル氏がもんじゃ焼きを作った。僕も彼女も初めてだった。ホットプレートが新しくなったため、初挑戦したのだ。もんじゃ焼きの素を買ってきて、説明書のとおりに作った。まあ、適度に美味しかった。
午後は少し曇った。工作室で吹き付け塗装など。夕方は、また庭掃除を1時間ほどした。池の掃除もしたし。
「水柿君」は5000文字書いて、完成度50%に。「タカイ×タカイ」2校は60%まで。「θ」のゲラが来た。それから、「工作少年の日々」2校も届いた。後者は校閲のチェック箇所だけ見る予定。スバル氏が「日経パソコン」第56回のイラストを仕上げたので発送。残りあと4枚である(僕はあと3枚)。「MLA8」の見本が届いた。今回のカバーは水色。レーシングカーは40年くらいまえの懐かしい形で素敵だ。
【理科】 身近な測定器
生活の中に最も溶け込んでいる測定器は、物差しだろうか。一番メジャだ(駄洒落か)。ものの長さ、距離を測る器具である。この頃は、レーザを使った距離計がかなり安くなってきたから、そのうち携帯電話くらいに組み込まれてしまうかもしれない。
その次は、重さを測る装置だろう。これはキッチンにあるもの、あるいは、体重計(ヘルスメータ)などである。
次は何だろう? たぶん、温度を測るものがきっとあるはず。そして、もう少しマイナなものでは、湿度を測るものもある。
さらに、電流、電圧を測るもの、明るさを測るもの、音の大きさを測るもの、加速度を測るもの、とだんだん趣味的になってくる。もちろん、要求される精度によって装置の規模はまったく異なる。機械的なものから電子的なものまで、いろいろな測定器具が存在している。
重要なことは、物体の存在も含めてあらゆる事象が、測定によって観察されている、ということだ。人間の躰にも、目や耳といった測定器があって、これによって感じている。声が聞こえるのは、空気が振動したからであって