2007年12月30日(日曜日)

【HR】 散歩で考えること

 冷え込んだ。7時半に起きたら、パスカルが待っていた。スバル氏がいないのだ。雨が止んだようなので、重装備に着込んで散歩に連れていく。パスカルは服を着ていないのに元気だ。北極でも大丈夫なのではないだろうか。ペンギンに似ている。

 午前中は小説の仕事を片づける。短編の手直しは50%まで。「道具箱」2校は最後まで読んだ。「水柿君」最終話のゲラが届いた。「星星峡」に掲載されるもの。ゲラが少しずつまた溜まってきた。寒いから、一番発熱の多いアンプを使って音楽を鳴らしながらの仕事。
 お昼頃には晴れてきたが、風が冷たい。でも、庭に出て少し活動。測量をしたり、落ち葉を拾ったり、線路を見回ったり。その後、工作室で木工。庭園鉄道の駅の柵を作り始めた。アンプは発注してあったシャーシが届いたので、また組める。古いエンジンを分解して、掃除をしているが、部品を洗うための灯油が家にない。灯油って、使わなくなって久しい。買ってこなければ。明日また新しい機関車が届くという連絡があった。大晦日なのに。

 夕方も、パスカルを連れてまた散歩にいった。今のこの家に引っ越してまだ8年ほどだけれど、犬の散歩にいける範囲でも、20軒くらいは新築の家が建った。それだけ森林が減っているのだ。まあ、しかたがない。森林のまま土地を持っていられる人が少ない、ということである。一部の支配者層に富が集中している時代なら自然は破壊されないが、格差がなくなると、支配者層が土地を手放し、細切れになって庶民が家を建てる、という図式だろうか。けれど、日本の場合は、今は森林は減ってはいない。むしろ管理されないことの方が問題になっている。
 昨日の温暖化対策の話ではないが、温暖化を進めているのは、工業ばかりではなく、農業や林業もかなり大きな割合を占める。いろいろな技術革新で、大勢の人間が暮らせるようになった、だから人間が増えてしまった、という図式だ。これからどのようにして人口を減らしていくのだろう。政策だろうか、それとも世論だろうか。僕が生きている間には、解決しそうにない。

 夕方にスバル氏と長女M氏が帰ってきた。長女M氏は紅白歌合戦関連の仕事をしていたらしく、ぎりぎりまで忙しかったらしい。スバル氏は天麩羅用の海老を買っていたから、たぶん年越し蕎麦を作るつもりだろう。年が明けると毎年雑煮も作る。季節柄なことが好きなのだ。でも初詣にはいかない(寒いから)。門松も注連縄も森家には無関係。年賀状も数年まえに廃止したし。僕は大晦日はたいてい工作に没頭している。元日だって仕事を休むことはない。

 そういえば、年末年始のTVって一際つまらない覚えがある。生放送が増えるためか、間延びしているし、タレントが酔っ払っているみたいにはしゃぐだけだし、お笑いのネタも同じものばかりでうんざりだし、そういう悪い印象しかないのだ。普段の番組が見たいよなあ、と思った子供の頃を思い出す。

【社会】 正論が通る社会

 近頃の社会を傍観して感じることは、昔よりも正論が通る社会になりつつある、ということ。悪いことは悪い、してはいけない、という単純なことが、少しずつ厳しく守られるような仕組みになってきた。かつては、誰もが社会は二重構造だと認識していて、表向きはこうだという建前があって、しかしその実は違う運用を裏ではする、ということが常識だった。陰でこっそり、みんなで少しずつ悪いことをしていたのだ。ただ、悪いことだから、そんなにおおっぴらにはできない。「こんなこと、したくはないんですけどね」と愚痴りながらしぶしぶやっていた人が多かったのではないか。「まあ、少しくらいはしかたがない」とみんなが諦めていた。そういったことが正されてきたわけだ。
 一方、正論が通ることで問題も生まれる。そもそも、何故正論が通らなかったのか、と考えればわかるが、まず、個々の正論が全体の正論と必ずしも一致していないこと、また、全体合意の正論であっても、それを実現するには資金や労力が足りないこと、などの問題があった。だからこそ、正論が通らない時代が続いていたのだ。
 たとえば、「弱者を救う」というのは正論である。救えるのなら救った方が良いにきまっている。しかし、どこまでが弱者なのかという議論もあり、また、救うための資金はどうするのかという問題が現れる。正論を通すためには、社会にある程度の余力が必要なのだ。そして、その余力とは、つまりは個人の富と力の負担によるものだから、「正論を通すために、あなたはどこまで犠牲が払えますか?」という議論に帰着する。現在、暗黙に問われていることは、まさにこれだろう。

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