2007年12月06日(木曜日)
【HR】 心配性の年寄り
朝は寒かったけれど、ぽかぽかと日が差して、日中はわりと暖かくなった。パスカルを乗せてスーパへ行き、駐車場で待っている間、僕はゲラを読んだ。途中でパスカルが暑いみたいだったので、窓を開けたくらい。
「タカイ×タカイ」の2校を20%まで。カバーのあらすじなどのチェックも終わり。この本が2008年の最初の新刊になる。「日経パソコン」の第57回のイラストの下描きとペン入れ終わり。あと3枚だ。「水柿君」は3000文字書いて、完成度20%まで。今日は仕事量が多い。
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午後、月刊「Web&Publishing編集会議」のU野氏が来宅。そういう名前の雑誌があるのだ。知らなかった。そこのインタビューを受けた。2月1日発売の号に掲載される。この雑誌の読者は、雑誌、テレビ、Webの編集者、ライタ、企業の広報担当者が多いらしい。話題は、創作のことや、出版界のことなど。今までここで書いてきたことが多いかも。
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工作は、また金属(アルミ)を切ったり削ったりする作業。信号機を製作している。地道な作業で面白い。それから、新しいアンプも組み始めた。かなり久しぶりだ(といっても、8カ月ぶりかな)。あまりこの件で大袈裟に書くのはよそう。模型飛行機のこともできるだけ書かないように努力しているが、アンプもシークレット側にした方が良さそうに思えてきた。
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ここ数年、庭に落ちている葉っぱが気になって、よく掃除をしているわけだが、これは僕が歳をとった証拠だと思う。街を歩いていても、落ち葉掃除をしているのは例外なく年寄りである。若者は、落ち葉なんてもの、気にならないのだろう。どうしてかというと、年寄りほど「このまま放っておいたら、あとで酷いことになるぞ」というふうに考えるのだ。自分が生きている時間がこのさきそんなに長くないのに、将来のことを心配する。不思議ではないか。
スバル氏にその話をしたら、彼女の意見は、「年寄りはこれは自分がしなければならない、と考えるけど、若者の場合は、きっと誰かがしてくれるだろうって、思うからじゃない?」とのことだった。つまり、責任感の違いだろうか。放っておいても結局は誰もやらないということを、年寄りは知っている、ということかも。
マスコミも、非常に年寄り臭い。「こんなことで日本はどうなる?」「子供たちが大きくなったときが心配だ」と額に皺を寄せて深刻に深刻に話すのだ。僕としては、「いやあ、幸せな世の中になっちゃったよねぇ」とにこにこしている年寄りの方が好きだし、少なくともそういう人となら一緒にいられる。趣味の世界の先輩たちは、全員がこのタイプである。自分もそういう年寄りになりたい。
【国語】 会話の表現
会話文を「」の中に入れて書くことは、小説を読む人ならばごく当たり前だと認識しているだろう。しかし、慣れていない人間にとっては、ちょっとしたギャップがあるものだ。たとえば、
「青天の霹靂という漢字が書ける人はいますか?」と先生が言った。
という書き方は、まあおかしくないだろう。しかし、
「先生、青天の霹靂って、何ですか? どんな意味なんですか?」と太郎は尋ねた。
というのは、どうだろう? 太郎はこの言葉を知らないのに、難しい漢字で書いても良いものだろうか?
「先生、セーテンノヘキレキって、何ですか?」
と書くべきではないか。しかし、この文章を書いている人間が、その言葉を認識しているのであって、太郎の知的水準が文章に反映するのも変な話だ、という見方も当然ある。ただ、もしそうだとしても、
「bubble」とタラちゃんは言った。
などと書いておいて、タラちゃんが英語のスペルまで知っているわけではないが、観察者にはそう聞こえたのだ、と主張できるだろうか。そもそも記述者はその場にいるとは限らない。では、誰かからの伝聞であるか、想像かもしれない。その場合は、どの時点でその言葉を認識したのか。
記述者の認識で表記が決まるのであれば、記述者が誤解をしたとき、その時点ではそのとおりに書くべきだ。たとえば聞き間違えた場合も、そのまま書かねばならなくなるが、それは事実に反する記述でであり、ミステリィとしてはフェアかどうか、という議論になる。聞いた時点と書く時点を分けるべきなのか。それがいつ観察し、いつ記述されたものなのかが明記されていない文章では、フェアもアンフェアも議論できなくなる。
外国人が、一つ覚えの日本語で、「ありがとう」と言った場合、彼は平仮名も認識していないのだから、「arigato」と書くべきだろうか、というのも同様の問題だし、さらに、なにも認識などしていない動物や機械がしゃべった場合は、どう表記するのか、なども興味深い。