2007年10月31日(水曜日)

【HR】 野球に喩えると

 秋晴れ。暖かい。8時に起きて、庭掃除をした。夜のうちに雨が降ったので、水やりも不要。
 パスカルは留守番が多いが、一緒に車に乗るのが大好きだ。乗れるとなると、ちょっと信じられないくらい喜ぶ。自分では乗れないので、ドアが開くと、おすわりをして、早く抱っこをして乗せて下さい、という顔をするし、車内に入ると、鼻を鳴らして、高い声を出し、はしゃぎまくるのだ。

 しかし、車が動き出して5分もすると、さっさと横倒しになって眠ってしまう。目的地に到着するまでに力を温存しておこう、というモードかもしれない。景色を見る趣味はないようだ。
 今日はすぐ近くの公園へ連れていって、散歩をしてきた。気温もちょうど良いし、空も綺麗だし、清々しいのに、誰もいなかった。もったいない。平日だからみんな仕事をしているのか。そのわりに駐車場はほぼ満車で、ほとんどの車に人が乗っていた。車を駐めて休憩しているのだ。

 午後は、修理中の機関車をスチームアップして試験。直したところはOKだったが、別の不具合が発覚。一旦火を落とし、そこを直してからもう一度挑戦したが、また別のところで問題が発生。なかなかうまくいかない。だが、こうしているうちに完成度が高まる気はする。悪くない。

 小説に関する質問で、「自信作はどれですか?」といったものがときどきある。あまり、「自信」というものを認識したことはないのだが、ただ、書いたときに手応えがあった作品というのはある。逆に、「失敗作」というのがない。これはつまり、野球選手に「今まで打った中でどのホームランが失敗だったですか?」と尋ねるようなものだろう。会心の当たりのホームラン、というのはあるけれど、失敗したホームランというのはないように思う。ようするに、失敗したらホームランにはならない。失敗したら作品にはならない、ということではないかと思われる。
 ただ、見ているファンにとっては失敗作というのは存在するだろう。「あのホームランは彼の会心の当たりではない」「らしくないホームランだった」みたいなふうに言う人は多い。
 短編がヒットに近い。ヒットを集めても、ホームランと同じ得点になるが、ホームランの方が好きなファンと、ヒットが沢山あった方が嬉しいファンがいる。打つ方も、それぞれ得意なものがあるだろう。

 欠陥車のように、明らかな失敗作という製品も稀にある。また、まったく期待外れで売れない商品もある。そういったものを失敗作と呼ぶのだろうけれど、少なくとも個人の創作である芸術作品に近づくほど、そういったものはありえない。球場のファン全員が拍手をしたホームランと、誰も手を叩かずに無視をされたホームランがある、というだけだ。観客の拍手の多さで、外野フライがホームランになることはないし、観客の無関心で、ホームランがファールになることもない。ただ、次の打席にまた立てるかどうかが、観客の声援の大小によって多少影響を受けるだけである。

【社会】 苦手な社会

 小学校、中学校、高校を通じて、一番苦手だったのが社会科である。いつも一番点が悪い。勉強をしていなかったのか、というとそうでもなく、一夜漬けだけれど、社会に一番多くの時間を使ったと思う。最大の時間を費やして、最低の点しか取れないのだから、これは「苦手」なのだろう、と認識する以外にない。
 まず、地理というのがつまらなかった。どこにどんな産業があるとか、山脈の名前を覚えたり、行ったこともない遠い場所のことをあれこれ説明されるのだが、自分の人生には関係のないことに思えてしかたがなかった。歴史になると、さらに関係が希薄だ。もう済んでしまったことではないか、と思えた。歴史は繰り返す、だから、過去の過ちを繰り返さないように学ぶのだ、と言われるかもしれないけれど、それにしては、やけに細かいことばかり試験に出る。そこまで知らなくても、過ちはもう繰り返さないのではないか、と思えた。
 政治と経済の授業が始まると、どうもそれらを学問だとは思えない、という感覚に襲われた。必要に迫られたら、調べれば良いことだし、それを知らないと考えることができない問題、というものも周囲にはない。どうせ自分が大人になる頃にはすっかり様変わりしているのではないか、という予感だけがあった。今振り返ると、この政治と経済を小学校の最初で教えてもらった方が良かったのでは、と感じる。そうすれば、もう少し学問らしく認識できたかも。
 社会は嫌いだったけれど、博物館は子供のときから大好きだった。古いものをあれこれ見るのは面白い。やはり、教科書にある文字で入力されることに抵抗があったのだろう。ものを見れば、沢山の情報を知ることができる。たとえば、古い道具を見れば、その当時の工夫、生活、などが見えてくる。その道具に対して最近になってつけた名前を覚えるよりもずっと面白い。学校の社会は、ことごとく「文字」入力なのだ。これが元凶だと思う。


2007年10月30日(火曜日)

【HR】 マックに喩えると

 今日も8時起床。連日の7時間睡眠ですっきり。秋晴れでとても暖かい。
 午前中は仕事に専念。「タカイ〜」の手直しを明日の分まで一気にやってしまい、すぐさま編集部へ発送。「工作少年の日々」のゲラも70%まで見た。明日はオフにしよう。
 お昼はスバル氏と買いものへ。マクドナルドに寄ってハンバーガを買った。ときどきマックだ。ポテトも食べたが、スバル氏は「もう少しポテト系で選択肢が欲しいな」とおっしゃっている。カレー味のポテトとかだろうか。

 埼玉の井上さんから手紙で沢山写真が届いた。井上さん所有の古い模型エンジンを譲っていただけることになって、それらを写したもの。50台以上ある。見たこともないエンジンもあった。それで、お礼の電話をかけた。奥様が最初に出られ、井上さんに替わるまでに待ち時間があったが、庭の離れの工作室にいらっしゃったようだ。お話を伺ったところ、メーカが試作したエンジンも含まれているらしい。11月にまたお目にかかれる日があるのだが、その日のために新しい模型を製作中とのこと。本当に頭が下がる。
 夕方はスバル氏に誘われて、パスカルの散歩に一緒についていった。パスカルは少し遠くまで歩くようになった。「健脚だな」と思ったが、いうほどでもない。帰ってきたら、口の横から舌を出してばてていた。

 保険会社や証券会社や銀行や郵便局から、ほとんど毎日のように手紙が届く。家族の名前や、両親の名前(片方は死んでいるが)が宛名になっているけれど、開けてみると、宣伝なのか、お知らせなのか、ちっともわからない。端的にいえば、「申請して下さい。でも、申請できない場合もあります」といった内容である。こういう手紙を送りつけたら、それでサービスや責任を果たしていると考えられる人間が、これらの組織にはいるのだな、ということがわかるだけだ。迷惑メールならば、一瞬あるいは自動的に消せるが、この種の手紙は確認に時間がかかるうえ、ゴミが増える。宛名の部分はシュレッダに入れないと駄目だし。はるかに迷惑である。
 とにかくわからなかったら問い合わせてほしい、という態度なのだ。実際に問い合わせると、簡単に解決することはたしかに多い。しかしそれでも、もう少しわかりやすくできないものか。制度そのものが複雑になりすぎているのが主原因だが。
 こうしたサービスというのは、マックで喩えると、「ハンバーガは150円だけれど、コーヒーも一緒なら50円引きになって、ポテトも一緒ならさらに50円引きになる。しかし、モーニングサービス時間内はこの限りではない。期間限定のハンバーガの一部はこのセットメニューに対応する場合もあるので問い合わせてほしい。ポイントが溜まった場合は、割引メニュー以外には使える。ただ、一部の店ではその限りではない」みたいな感じ。これが小さい文字でびっしりとメニューに書いてあったり、注文するまえに、早口で説明を受けたりするわけだ。
 こんなのが「きめの細かいサービス」であると言いたがる人が、保険会社や証券会社や銀行や郵便局のトップにいることはまちがいない。ちなみに、役所は全然違う。こんなにわかりやすくはない。 

 リニアモータカーである大江戸線が停電で止まった事故が先日あった。ニュースを見ていたら、深い位置にあったとか、トンネルの断面が小さいとか、起伏が激しいとか、そんな問題点ばかり指摘していた。馬鹿じゃないのか? 人為的ミスで簡単に停電したという、そのシステムが一番問題だろう。マスコミって変なところばかり指摘したがるな、といつも思う。
 インターネットの闇サイトで仲間を誘って起こした事件があった。駅の掲示板で誘ったら、その掲示板を摘発するのだろうか。そもそも「闇サイト」って何だろう? 誰でも見られるものがどうして「闇」なんだ? もっともっと「闇」のものは昔からある。これも、マックに喩えると……(以下略)。

【理科】 好きな科学分野

 理科の中では、だんとつに物理が好きだった。これは、小学校、中学の頃からである(「物理」という言葉は中学で初めて知ったが)。物理には、熱、力、電気、といったものが登場するが、いずれも法則どおりで、きちんとしている。子供心に、その整然さが凄いと思えたのだ。理屈を理解するだけで、名称を覚えたりする必要がない。例外もない。これが、化学になると、どうも理路整然としない部分が見えてくる。化学反応や結合を説明されても、例外が多い。また、覚えなければならない名称が多すぎる。さらに、地学、生物になると、もうこれは社会科ではないか、というほど固有名詞の羅列になって、近寄りたくなくなってしまうのだ。
 こういった状況は、高校生まで続いた。学習内容が試験の対象だったからだと思う。ところが、大学に上がって研究をするようになると、これがまた違っている。つまり、理路整然としていないものが面白い。発展途上であることがわかったのだ。化学、地学、生物などは、人間の知恵がとことん及んでいない領域であり、だから、釈然としなかったり、例外が多くなる。研究をするには、面白い分野だな、と思った。もちろん、物理や数学にも、そういった領域はあるけれど、少なくとも小学校や中学校のときに気づくようなレベルではない。ようするに、数学や物理の理論的な部分は、それだけ先行している。一人の人間が頭で考えるだけで解ける問題だったからだ。大掛かりな実験や調査を伴うものは、どうしても遅れがちになる。


2007年10月29日(月曜日)

【HR】 余韻、掃除、そして仕事

 8時起床。睡眠充分。晴れているけれど、少し曇。週末にお客様が多かったので、お菓子が沢山ある。朝からコーヒーと一緒に食べた。
 午前中に小説の仕事を片づける。「タカイ〜」の手直しは80%まで。「工作少年〜」のゲラは60%まで。契約書が溜まっていて、サインと捺印をして返送の準備など。そのほか、細かいチェック多数。先日の保険の解約は面倒でまだ手つかず。
 昨日片づけるときに暗かったので、ガレージに入れただけだった蒸気機関車の掃除をした。ガレージから引き出さないといけないけれど、手前に電気機関車の列車があったので、さきにそれを庭に出し、ガレージの横で蒸気機関車の掃除を始めた。

 僕がガレージから庭に出ると、母屋でパスカルが吠える。それでスバル氏が出てくる。ちょうど出ていた電気機関車のシートに座って、乗って走りたそうだった。昨日、お客様が散々運転していたからだろう。コントロール方法を教えたら、ぐるりとひとりで1周してきた。パスカルを一緒に乗せようとしたけれど、パスカルは近づかず。スバル氏が鉄道に乗っているなんて、初めて見た光景だからかなり驚いていた。僕としては、スバル氏が乗ってくれると、30人に乗ってもらったくらい嬉しい。
 機関車は、石炭の灰を落とし、ボイラや煙突の煤を取り、ボディを磨いた。駆動部にオイルを差して、掃除は終わり。そのあと、先日イギリスから届いた小さい機関車も点検が終わって、今日火を入れて走らせた。とても快調に走った。素晴らしい。暖かくて、汗ばむくらいの気温だった。

 お昼はスバル氏がスパゲッティを作った。3日連続で昼1食かと思ったが、夜も作るという。だから、控えめに食べた。午後は、研究関係の打合せのために電話を2時間半。図面などはメールで来るし、会議もこれで充分だな、とは思う。わざわざ上京して集まっていた委員会などは、何のためだったのだろうか。不思議である。そんなこといったら、国際会議ってどうなんだ? あ、そうか、すべて懇親が目的か……、あれ? ゴルフと同じ?
 もし、利害関係者とのゴルフを全面的に禁じたら、ゴルフ業界に大打撃だろうなあ。それにしても一番驚いたのは、63歳と69歳の人がその頻度でゴルフができるという体力だ。さすがに、人の上に立つ人は違うな。しかし、ゴルフを禁じるというルールが不思議だ。所定の場所以外で利害関係のある人間と会うな、では駄目なのか(会わなくても、コンタクトはできるけど)。どうして「ゴルフ」なんだ? そういうふうにしか規則が作れない状況がそもそも貧しい。

 機関車製作部の今月のレポートを書いた。昨日のオープンディは来月のレポートに送った。ちょっと報告事項が多すぎるからだ。それくらい、活溌に活動した10月であった。

【算数】 好きな数

 座右の数というか、この数字が好きだ、というものが人によっては決まっているだろう。そんなものはない、という人もいる。たとえば、「好きなふりかけ」や「好きな湾」や「好きな微生物」や「好きな年号」みたいなものと同様に、決めている必要がないものにはちがいない(こういうことを書くと、必ず「私には好きな微生物がある」というメールが来るが)。
 ただ、たとえば、自動車のナンバ・プレートが好きな数にできるから、その際に何番を選ぶのかとか、マンションを契約するとき、複数同じ条件のものがあったら、何号室を選ぶのかとか、ナンバの入ったTシャツを売っているとき、どれを選ぶのかとか、それくらいの影響しかないのだが、それでも、だいたいは決まっていることが多いのでは?
 ラッキィナンバなどというものもあって、これは、気持ちの問題というか、はっきりいってオカルトである。「そのとき、ちょうど3人いた」「ちょうど3時だった」「落ち葉が3つあった」など、お目当ての数を探して因縁をつけている節もある。
 僕は1桁の数では、「2」と「7」が好きだ。「3」と「8」が嫌いである。意味はない。2桁の数では「13」が好きだ。大きな数になっても、素数がシャープに見えて、感じが良いと思う。生年の1957は、素数ではない。でも、19が57の約数なのが格好良い、といったふうに因縁をつけて好きになる。ちなまないが、1993、1997、1999、2003と、閏年並みに素数の年が多かったのだが、最近ない。2011年までないのだ。


2007年10月28日(日曜日)

【HR】 秋のオープンディ

 8時起床。今日は、欠伸軽便鉄道の秋のオープンディなので、朝から庭の掃除をして、線路の点検をし、車両をガレージから出した。日差しが強く、少々暑くなりそうな晴天。
 スバル氏はミニで1人で買いものへ。1時間くらいで帰ってきたら、お客様も到着。

 参加者は13名で、半分が初めての方だったので、最初に少し庭園鉄道の注意事項などを説明をした。まずは順番として乗客の体験をしていただく(1回だけ)。そのあとは、運転手になってもらい自分で1列車を担当してもらう。交代交代で、2つの列車をつぎつぎ走らせた。みんなが慣れてきたところで、3列車にした。多くなるほど難しくなる。

 運転のし方がそれぞれ違うし、乗り心地も全然違う。イベントなどにあるような見通しの良いコースではないので、運転にとても神経を使う。アップダウンがあり、カーブも急で前が見えないところも多い。線路ぎりぎりに張り出す障害物が多く、よそ見をしていると、躰が接触する危険もある。最初のうちは慎重を期してもの凄くゆっくりしか走れないのだが、だんだん慣れてくると、適度な速度が出せるようになる。しかし、油断をすると脱線事故になる。それでも、乗ってみると、今までになかった視点で風景が見えるし、振動や音などが体感できる。見ていただけでは味わえない楽しさがわかる。

 お昼は、みんなが持ち寄ったものをリビングで食べた。今日も昼の1食。カツサンド、カレーパン、天むす、稲荷寿司、などなど。
 食事のあとは、蒸気機関車をスチームアップした。これはさすがに危険なので僕が運転をし、後ろに1人ずつ乗ってもらって走った(このときも、ほかに電気機関車の2列車が同時運行)。イギリスの石炭なので、最初に火がつくまでに手こずったけれど、走りだせば快調だった。こんなに沢山の人を運んだのは、この蒸気機関車は初めてのこと。
 このように、大勢の人に乗ってもらうと、いろいろ改善すべき部分がわかる。自分一人でやっていると、どうしても自分の方が合わせてしまうのだが、人が不便そうにしているのを見ると、そこをなんとかしなくては、と感じるわけだ。そういう意味で、まさに「オープンディは人のためならず」だと考えている。

 夕方はまたリビングでお菓子を食べておしゃべり。ビスケットやチョコレートやバターサンドなどなど。パスカルは、連日の接待で、少しお疲れ気味だった。
 皆さんが帰ったあと、真っ暗な中で、機関車を片づけたが、夜中に走るのがまた幻想的で素敵だ。気候も今がちょうど良い。低いところに満月があった。たとえば、僕がまだ若かったら、恋人を絶対に乗せて走っただろう。今日もパスカルを乗せて走ったが、ここなら安全という場所へ来たら、飛び降りてしまった。スバル氏は「なんで私が乗らなあかんの」という顔である。
 「タカイ〜」の手直しが70%まで。「工作少年〜」のゲラは50%まで。「MLA8」のゲラがそろそろ届く模様。

【国語】 座右の銘

 色紙なんかに、好きな言葉を書いてほしいと頼まれることがある。あれは、本当に困る。
 小学校4年生のときに、僕が好きな言葉は「未完成」だった。どういうわけか、この言葉の響きが気に入って、好きな言葉を書かなくてはいけない場合には、これを書くことに決めた。だから、友達が転校していき、お別れ会をしたときなんかの寄せ書きにも、「未完成」と書いてやったのだ。習字の時間に、クラスで一番字の上手な女の子に頼み込んで、「未完成」と書いてもらい、それを持ち帰って、自分の部屋の壁に貼っておいたくらいだ。このまま大きくなっていたら、卒業文集にも「未完成」と書いただろうし、友達が結婚するときのメッセージにも「未完成」という言葉を贈ったかもしれないし、小説家になって、「未完成シリーズ」なんて書いていたかもしれないが、残念ながら、その未完成ブームは1年ほどで終わってしまった。
 しかし、それ以来、好きな言葉というものはなくなり、その後は、これだと決めたことはない。座右の銘もない。「もう誰にも止められない」とか、「当たって砕けろ」とか、「一網打尽」とか、「母を訪ねて三千里」とか、そういうのをメッセージに書くと、ちょっと面白いかもしれないけれど、誤解を招くのがオチである。結婚式のメッセージに、「次回も是非呼んで下さい」なんて書くのも気がきいているけれど、冗談のわからない人は多いので気をつけた方が良い。
 そういうわけで、「座右の銘は?」ときかれたときには、「なにものにも拘らない」と書くことにしている。「座右の銘などない」というのが座右の銘だ(数学的に矛盾)。


2007年10月27日(土曜日)

【HR】 お客様多数

 天気予報が昨日になって、急に明日は晴だと報じたので、これは危ないなと思っていたら、案の定一日雨だった。しかし、このところの天気予報って、「よくもここまで外せるな」というほど大外ればかりで感心する。もしかしたら、雑誌なんかに載っている占いの方が当たるのではないだろうか。降水確率よりも、予報的中確率を表示してもらいたいものだ。
 午前中は、小説の仕事をした。「タカイ〜」の手直しは60%まで。「工作少年〜」のゲラは40%まで。「少し変わった子〜」ノベルス版、「星の玉子さま」文庫版のカバー色校をチェック。「工作少年〜」のカバー案を見た。「MLA8」のカバーイラストも羽海野氏から届いた。感謝。

 お昼頃、雨の中をお客様が9人来訪。一緒に食事をしながらおしゃべりをする。パスカルが大喜びして接待。スバル氏が、チキンのコーラ煮を作った。昨日僕が剥いた銀杏はそこに入っていた。タルトもあったし、プリンもあったし、お寿司も各種あった。あと、マカロン、バームクーヘン、マシュマロ、などなど、とにかく沢山食べた。

 夕方、雨が上がって空が明るくなった。庭に出て、小さい蒸気機関車を走らせて遊ぶ。気温が低いため、煙突から出る蒸気がよく見えて面白かった。パスカルもようやく散歩にいけることになり、お客様みんなと散歩に出かけていった。そのあと、大きい電気機関車を出して、長い列車を仕立て、家の周囲を9周した。つまり、お1人1周ずつ走った。だんだん暗くなりつつあって、途中からヘッドライトを点灯して走った。線路が濡れていたこともあって、とても静かに滑らかに走る。雰囲気が良かった。夕焼けが綺麗だったし、ちょっと冷えた空気も素敵だった。
 夜は満月に近い月が出ていて、ガレージの窓からよく見えた。

 FM東京から、またCDを沢山いただいた。ボブ・ディランのベストアルバムもあった。今、これを聴きながら書いているけれど、知らない曲はほとんどない。というか、ディランのアルバムって、曲が被りすぎている気がする。つまり、ベスト・アルバムがそれだけ沢山出ているということか。
 機関車製作部のレポートを作り始めた。写真が多すぎる。この頃、工作を精力的にしている証拠かもしれない。毎日、時間が足りない。もっとやりたいことが沢山あるのだけれど、半分くらいしかできない。まあ、やりたいことが少ない状況よりはずっと良いか。

【体育】 ソフトボール

 小学校4年生のときだったか、初めてソフトボールという競技を体験した。まず、びっくりしたのはボールが大きいことだった。それまでにも、野球に似た遊びは多くやっていた。グローブやバットがあれば、軟式のボールを使ったし、そうでないときは、ゴム鞠のような軟らかいボールで野球をした。グローブがいらないし、バットの代わりに拳骨で打ったり、その辺に落ちている棒を見つけてバットの代わりにした。そうだ、グローブの代わりに野球帽で取ったりもしていた。
 ソフトボールは、このゴム鞠ボールに比べればずっと硬い。バットで打てば遠くまで飛ぶし、やはりグローブが必要だ。しかし、大きいのでグローブからはみ出しやすく、ハンブルしてしまうことが多い。少し軟らかい場合には、打球が楕円形に変形して、不規則な運動をして飛んできたりするから、これも取りにくい。投げるときにも、小さな手では掴みきれないので、コントロールも定まらない。せめて、テニスのボールくらいだったら良かったのに、と思った。
 ラグビィ・ボールは不規則にバウンドするように、わざと変な形をしているけれど、ソフトボールも、わざと扱いにくい大きさと柔らかさになっているのだろう、と想像したのである。ところが、そういった意図がないことがわかって、あとでびっくりした。もう少し小さくできなかったのか、と思ったのだが、たぶん安全性のためなのだろう。
 小学校高学年から中学、高校、大学までに、ソフトボールを何度やっただろう。数え切れない。とにかく、みんながやっていた。そういう時代だったみたいだ。


2007年10月26日(金曜日)

【HR】 クルマが売れないらしい

 久しぶりの固まった雨が降った(実際には液体なので固まっていない)。庭の植物が一気に元気になるのではないか。
 午前中は、スバル氏とスーパへ行った。銀杏を買ってきた。その銀杏は、僕がシャコ万という道具で1つずつ挟んで殻を割った。ペンチでやると実を潰してしまうからだ。秋である。
 「タカイ〜」の手直しは50%。「工作少年」のゲラは35%まで。

 モータ・ショーの関係で報じられているが、この頃、若者のクルマ離れがメーカにとっては深刻らしい。でも、僕に言わせてもらえば、もう10年以上まえから、国内のメーカはどうかしていると思う。RVやワンボックスみたいな「でかい車」ばかり作って、家族団らんの雰囲気をアピールしてきた。「便利さ」「快適さ」「省エネ」くらいしか魅力がない。細かい話をすると、たとえば、昨年ホンダでモビリオを買おうと思ったら、もう赤や青や黄色といったボディカラーが設定されていないのだ。無難で大人しいファミリィカーばかりになってしまった。とにかく、この頃、日本車で買いたいと思わせるクルマがない。ミニクーパならもう1台欲しいが。
 思うに、ユーザの声を聞いていれば良い、と考えたのが敗因ではないか、と思う。既に自動車を使っているユーザの期待に応えようとした。だから、どんどん便利にして、大きくなり、馬力を上げて、省エネになって、車としては洗練されてきた。昔からそのメーカを知っているユーザには、その誠実な姿勢が伝わる。だから評価も高い。でも、これから免許を取ろうという世代には、何のことかさっぱりわからないのだ。GTRなんて知らないよ、という世代なのである。なんとなく、ぼてっとした商用車みたいな地味なクルマ、太ったジープみたいな不格好なクルマばかりが目の前にある。
 この頃、街を走っていて、オープンカーやミニクーパやワーゲンを見ると、ドライバは6割は女性である。ファッションとして選んでいるのかもしれないけれど、オートマではないし、不便だし、乗るのは楽ではないだろう。スバル氏のミニなんかその最たるものだ。デザイナが個性を発揮した粋なクルマは、もうたしかに売れないだろう。しかし、「売れるものだけを作ろう」という姿勢こそが、この結果を招いたのである。

 翻って一方では、独立行政法人など、「売れなくても良い」という精神で金を無駄遣いしているところがある。民間企業ならば採算を気にする。したがって結果的に社会に貢献する。天下りを抱えた半「官」の組織は、「売れなくてもいい」けれど、「業績」を上げるために理屈を捏ねて予算を取る。結果的に、社会から乖離した活動を繰り広げ、芸術的ともいえる浪費を繰り返す。もしかしたら、新しいクルマのデザインは、こうした独立行政法人に任せた方が良いかもしれない。「未来デザイン研究センタ」みたいなものを立ち上げたらいかがか、成績の上がらない各社の部署を幾つか統合して。

【社会】 彼らの業績

 組織が名前を変えることがある。イメージを変える目的で行われる場合もあるが、看板を替えたり、各種の印刷物を替えたり、莫大な費用がかかっても、それに見合う宣伝効果なり、社員の志気の高まりなり、メリットがあるのだろう。
 民間ではなく、公共の組織が名前を変える機会も多い。今どき、まったく新しく発足・設置されるようなこともまずない。既存の組織を統合したり、部分的に再編成して、名前だけを新しく作ったものがほとんどだ。だから、人員は既にいた人間ばかり。建物は新しくても、人は古い。見かけ上、新たな機関ができたように振る舞うものの、実は以前にやっていた仕事を続けているだけだ。たしかに、宣伝効果と、内部の志気の高まりが一時的にはある。
 もし、需要があって、今までなかった組織が必要になったとしたら、それには、新しい人員が必要だろう。そういうものは、ガレージ・メーカが台頭してきたりすることでわかる。既存の仕事をしている人たちが、片手間に方向変更しただけで対処できるものではない。やはり、「新しさ」が決定的に違うのである。
 名前が新しい組織が登場したら、是非その古い「前身」を調べてみよう。たいていは「潰れそうな」左前の組織である。このままでは縮小され、下手をするとお取り潰しになってしまうから、なんとか生き延びようと、「新しさ」を演出し、統合・再編成で存続の道を探る。上手くいけば、予算をもぎ取り、箱(建物)を作ってもらえる。つまり、その名前は、予算獲得のために考えられたものであって、社会の需要に応えたものでは全然ない。
 こういう新しい名前や箱を作るために予算をもぎ取ることが、つまり「公」の人たちが目指す「業績」であって、その後の採算も社会への貢献も、彼らの業績にはまったく響かない仕組みなのだ。「役人は腐っている」の具体的な理由は一言でいえばこの点である。


2007年10月25日(木曜日)

【HR】 セレブパッチ

 雨の予報だったので、一日中ほぼ晴れていた。光が春みたいに軟らかく、これは曇かもしれないな、くらい。でも空は青い。
 パスカルはシャンプーが良かったせいか、さらさらで、スバル氏から「セレブパッチ」と呼ばれていた。僕も、昨日はスバル氏のシャンプーを使ってみた。たしかに泡立ちが良かった。でも、今朝鏡を見たら髪の毛が立ってた。寝方が悪かったようだ。今日は、出かけるときは帽子を被った。

 オークションで落札した機関車が早くも届いた。イギリスの運送屋さんが、今週の月曜日にやっと荷物を引き取りにいって、発送手続きができた。それからは、ネットで荷物がどこにあるのかトレースできるようになったが、4つくらいの空港を経由して、2日後の昨日には大阪に到着した。本日クロネコが持ってきてくれた。そうか、イギリスからでもたったの3日間で届いてしまうのだ。少し昔の国内の普通郵便と同じくらいだな、と感心した。とにかく無事に届いて嬉しい。

 その機関車はとても良い状態で、ラジコンの送信機などもセットになって、運搬専用の木箱に入っていた。まえのオーナが大切にしていたのだろう。まだ走らせていないが、点検して今度運転をするつもり。重さは9kgくらいで、ゲージは45mm。20分の1くらいのスケール。ブタンガスを燃料にして走るもの。ちなみに500ポンドで落札した。日本のオークションだったら、20万円でも落札できなかったかもしれない。もちろん、新品で買ったらこの倍はする。素敵な買いものだった。
 嬉しかったので、庭で写真を撮っていたら、スバル氏が出てきて、「このまえの機関車と同じだね」という。このまえイギリスから来た赤い大きな機関車のことらしい。色が似ている(だいぶ違うけれど)くらいしか共通点はない。形も大きさも全然違う。

 パスカルの遊び場用に先日注文した絨毯が入荷した、という連絡がインテリア・ショップからあったので、スバル氏と一緒に取りにいってきた。真っ赤な明るい色で2畳弱の大きさ。ますますセレブパッチだ。
 午後は工作。今日は、インテリアの置物として売っている市電を改造し、モータを仕込んで線路で走るようにした。ハンズなどでよく見かけるこの種の置物、たぶんアジアのどこかの国で作っているのだと思う。飛行機も車もその他も、とにかく沢山の種類があって、レトロな感じでわりとよくできている。値段は数千円で非常に安い。量産されているためだ。一見すると、ちょっと良いな、と感じるけれど、結局はいわゆる「バッタモン」の部類で、よくよく眺めていると厭きるし、価値は低いし、飾っておくには少々安っぽすぎる。だから、素材として使い、改造して遊ぶのに最適だ。ただ、重いから走らせる用途には一苦労である。

 「タカイ〜」の手直しは40%まで。「工作少年」のゲラは30%まで。「スカイ・クロラ」シリーズ全5巻の韓国版のオファが2社からあった。

【理科】 万有引力

 万有引力というくらいで、引力はどんな物質にもある。地球だけに引力があるわけではない。すべての物体は、その質量に比例して、お互いに引っ張り合っている。
 具体的には、引力は、2つの物質の質量の積に比例し、物質間の距離の2乗に反比例している。つまり、ある物体Aと、1m離れたところにある1kgの物体Bの間に働く引力は、物体Aと1km先にある1000tonの物体Cとの引力と同等である(距離が1000倍で、質量は1000000倍)。
 地球の質量は、約6.0×1024kgであり、また地表面から地球の中心までの距離(つまり地球の半径)は6.4×106mくらいだ。距離を6.4mにすると、106分の1だから、2乗にして、1012分の1の質量でも同等になる。すなわち、6.0×1012kg、つまり6×109tonだ。この60億tonの物体が、6mほどの距離にあれば、地球の引力と同じくらい引っ張られることになる。たとえば、鉄は1m3で7.8tonくらいだから、1km3なら78億tonになる。少し重いがだいたい同じだ。でも、1辺が1kmもあるから、6mも近づけない(近づいても500mくらいが限界である)。600mでは、100倍も遠いから、1万分の1の引力しか作用しないので、重力の0.01%しか感じない。こんなとてつもない物体があっても、ほとんど感じることは不可能だ。
 もしこれくらい重いもので、しかも小さな物体があったら、6mの近さで重力と同じくらい引っ張られるし、3mになれば、体重の4倍の力で引っ張られる。近づいたら最後、引き寄せられて逃げられなくなるだろう。


2007年10月24日(水曜日)

【HR】 小説家になりたい

 枕が良いのか、ぐっすり眠れる。朝から晴天。暖かい。モルタル工事が一段落したので、今日は落ち葉拾い、線路のメンテナンス、ポイントの点検などをした。春に建設したターンテーブル周囲も整備をした。
 「タカイ〜」の手直しは30%まで。「工作〜」のゲラは20%まで見た。

 パスカルをシャンプーした。8月のJAMのときにファンの人からいただいた高級そうなシャンプーを使ってみたら、いつもより泡がきめ細かく、良い感じだった。乾いたら、さらさらしている。そうしたら、スバル氏も「最近、実は私も高いシャンプーを使っている」と言うのだ。「高いってどれくらい?」ときくと、「普通の10倍よりは高い」とのこと。そういう時代らしい。僕は学生のときからずっと同じシャンプーで、安いやつだ。毎日頭を洗うけれど、たまにホテルで洗うと、たしかに髪が良い感じになる。そう彼女に話すと、「ホテルのシャンプーは安物だよ」と言われてしまった。そうだったのか! 僕の知らない世界があったのだ。
 先日の清涼院氏、西尾氏とのおしゃべりのときにも出たが、ファンの方から「今、小説を書いています。自分もいずれ小説家になりたい。」という手紙やメールを沢山いただく、という話。そういう方は、なんらかのアドバイスをもらいたい、ということだと思うけれど、残念ながら、有用なことをちょっと思いつかない。

 押井氏も話していたけれど、「なりたい」と思っていたら、知らないうちに「なっている」ものだ。つまり、「小説を書きたい」と口にするような時点で、もう「書けている」はずだし、「小説家になりたい」と思ったときには、もう「小説家になっている」のではないだろうか。べつにライセンスはいらない。小説を書いたら、小説家だと思う。名刺に「小説家」と書けば、小説家だ。
 しかし、逆の方向で、たとえば「死にたい」と口にする人は、100%まだ死んでいない人である。本当に「死にたい」と考えた人は、もう「死にたい」と思えない状態になっているわけで、ようするに「〜したい」「になりたい」という言葉が口から出るのは、「できない」「なれない」という意味を含んでいると解釈できる。できないからこそ、願うわけだし、憧れるわけだ。

 まあ、そうはいっても、少しは時間がかかる。たとえば、小説を1作書くには、やっぱり数日〜数週間はかかるだろう。だから、「小説を書きたい」という自分の言葉を聞いてから、自分のためにそれだけの時間は待ってあげよう。そして、その猶予を過ぎても小説が書けなかったら、「そんなに書きたかったわけではないのか」とわかる。さらに、小説が書けなかったら、小説家にはなれない。1年後には書けるようになっている、暇になれば書ける、大人になったら書ける、高級なワープロがあったら書ける、コツを掴めば書ける、といったものではないと思う。少なくとも、僕は誰からも書き方を教えてもらわなかったし、また練習をしたこともない。
 お金を貯めないとできないものはある。これはちょっと時間がかかる。でもこれさえも、借金という手法があるわけで、本当に望んでいれば、比較的短時間で夢を実現できるだろう。それなりのリスクが伴うだけだ。

【算数】 数学に特有の表現

 算数や数学には、普段は使わないような言葉が出てくる。僕が子供のときに最初に「へぇ」と思ったのは「ゆえに」だ。どうして「だから」では駄目なのか、と不思議に思った。そのつぎは、集合などで登場する「かつ」である。これも、日常生活ではほとんど使わない。せいぜい「しかも」とか、「どちらも」くらいで事足りる。
 そのうち「任意の」という言葉に出会う。「任意の数」というと、つまり、「どんな数でも良い」とか「無作為に選んだ数」という意味だ。これは、任意保険とか任意出頭というときの「任意」と微妙にニュアンスが違う気がするので、どちらかで認識していると、もう片方が理解しがたい。
 それから、「ここに、aは任意の自然数。」という場合の「ここに」もおかしい。「ここでは」と書けばもっとわかりやすいと思うのだが、何故か「ここに」なのである。
 以前にも書いたが、「代入」という言葉も微妙に現実と違う。xに1を代入するときには、x=1でなければならない。1に2を代入してはいけないのだ。代わりに入れるんだったら、違うものでも良いのでは、と思えてしまう。
 「すべての正方形は長方形である」というような場合の「すべての」というのも、「全部の」と言い換えるとおかしい。つまり、どこかに既に存在しているもののすべてではなく、今はなくても「どんなものであっても」という意味なのだ。また、「正方形は長方形である」というのも、普通では理解しがたいものだが、数学的には正しい。「正方形は長方形に含まれる」ともいえるけれど、これも言葉としては一般には伝わらない(長方形の中に正方形が入った図形を想像されてしまう)。
 もっというと、「箱の重さは考えない」というのも難しい。考えない? いや、べつに考えても、考えなくても、箱の重さには影響がないように思えるのである。


2007年10月23日(火曜日)

【HR】 ササミを食べた

 昨日、インテリアの店で、羽毛の大きな枕を買った。そのためか、良く眠れて、今朝は体調も良い。今、ベッドに枕が6つか7つある。ベッドが大きすぎるのだ。
 今日は雲は高いところにあった。日差しが温かく、24℃くらいまで上昇。素晴らしい秋晴れ。午前中から、小説の手直しをしつつ、庭でモルタル工事をした。「タカイ〜」の手直しは20%、「工作少年の日々」文庫版のゲラは10%まで。「少し変わった子〜」ノベルス版のカバーのチェックをした。「日経パソコン」第51回のゲラ校正をした。

 スバル氏が急にデパートへ行こうと誘ったので、いろいろ片づけて準備までしたのだが、やはり予定をいろいろ立てていたので、謝って断り、彼女を駅まで送っていった。僕の場合、その日にすることは前日にはほとんど決めているので、なかなかこういった急な対処ができない。「また今度ねぇ」みたいな感じなので、大問題というわけでもないが。

 昨日、スーパで買いものをしているとき、スバル氏がササミを買った。パスカルが食べるからだ。頻繁にササミを買っているが、僕が食べる機会はない。だから、「それ、2本だけでいいから、夕飯で食べさせてもらえないかな」と申し出たところ、笑われてしまった。それで、昨日はササミを食べた。それは炒めたものだった。パスカル用は、電子レンジで温めたものをタッパに入れ、冷蔵庫にいつもある。ときどきそれをもらっているようだ。電子レンジで肉を温めたり、野菜を温めたりすることは、人間のための料理ではあまりないように思うが、この場合は「煮る」でも「炒める」でも「蒸す」でも「焼く」でもない。かといって「温める」では、ちょっと温度が足りない感じだ。生ではなくなるわけである。何といえば良いのだろう。「熱を通す」ではなく、動詞として一言の表現がほしい。だから、「チンする」が普及したのか。

 スバル氏は夕方に帰ってきた。彼女がいない間、パスカルは意気消沈で、庭に出るとゲートまで行き、外を黙って眺めている。哀愁が漂っていた。スバル氏は、僕のシャツを何枚も買ってきてくれた。服は、彼女が選ぶと地味な色になり、僕が自分で選ぶと派手な色になる。

 若い頃に入った保険がまだ残っていることに気づき、電話して解約をした。これが最後の保険のはず。掛け捨てだと思っていたが、解約すると50万円も払い戻しがあるという。それって、これまで払った金額の総量とあまり変わらない。まあ、そういう金利が高い時代だったわけだ。僕が若いときは、定期預金にしておくと、10年で2倍になった。20年で4倍、30年で8倍、40年で16倍だ。虚しい数字を書いておく。
 そういえば、最近は株で儲けている、という話をあまり聞かない。ちょっとまえは、ネットでそんなビジネスが凄い、みたいな報道が多かった。もうすぐ大損しそうだという時期になると、「儲かりますよ」という話が出てくるものだ。だから、どうせ始めるならば、今みたいな、なにも話を聞かないときの方が良いだろう。
 TVで全然野球の話をしない。ボクシングの反則の話題ばかりだ。それよりモンゴルの横綱はどうなったんだ?

【国語】 間違ったカタカナ表記

 英語をカタカナで表記する場合、書き方がいろいろあって困る。検索するときに特に困る。「ミステリー」も「ミステリィ」も「ミステリ」で検索できるから、まだ被害が少ない。
 「アタッシュケース」は、本当は「アタッシェケース」が正しいが、たいていの人は「ュ」の方を使っているようだ。僕もそうだと思っていた。小説を書き始めた頃、校閲から指摘されて初めて知った。
 「エンタテインメント」は、「エンター」と伸ばす方が多い。「エンターテーメント」と「ン」を省いて言う人も多数だ。戦闘機や車の名前にある「マスタング」は、昔は「ムスタング」だった。もっといえば、「フィルム」を、年輩の人は「フイルム」と言う。でも、「イギリス」とかはそのままだ。天使の「ガブリエル」は、「ゲイブリエル」だろうか。お金の「ドル」は、どうしてドルになったのか不思議だ。どう聞いても「ダラ」だと思う。
 よく間違えに出会うのは、「シュミレーション」である。正しくは「シミュレーション」。「コミニュティ」も、「コミュニティ」が正しい。
 映画のことを昔は「キネマ」といったようだ。cinematographのことだが、これは、kinematographという単語がちゃんとある。英語で「ch」なのに、「チ」ではなく「シ」と読むものも多い。たとえば、「Chicago」がそうだ。どうして、「チカゴ」じゃないのだろう。
 ビールを飲むときの「ジョッキ」が、「ジョッキー」か「ジョッキィ」かどちらだろう、と思ってスペルを探したら、そんな英語がなかった。これはまったくの和製語らしい(水差しのjugが語源)。


2007年10月22日(月曜日)

【HR】 1食をいつ食べるか

 天気予報は秋晴れの晴天の予報だったのに、秋晴れの晴天になった。屋外で活動するには非常に贅沢な季節だ。

 昨日はお客様と一緒に昼に食べたので、夕食はなしにした。スバル氏も食べなかったので、どうしてかと尋ねたら、夜はべつに食べなくてもいい、とおっしゃる。では、今まで僕につき合って食べていたのか。彼女は、朝をしっかり食べる人なのだ。一緒にホテルに泊まったとき、朝食のバイキングにつき合うと、それがよくわかる。そうか、それは悪いことをしたな、と少し思った。いっそ昼食をメインにする生活に切り換える手がある、と検討中。
 それで思い出したが、先日ホテルに5泊くらいしたとき、最後の日にスバル氏と合流することになっていて、彼女が、朝食付きでツインの部屋を予約してくれた。僕がチェックインしたら、朝食券が10食分あった。僕は最初の4日間は8食分を1度も使わなかった(たぶん1食2000円くらいだ)。もったいないことだと思ったけれど、スバル氏はそれくらいアバウトだし、僕もそれくらいで食べたりはしない。
 午前中は小説の仕事をした。「タカイ〜」の手直しを10%まで。「工作少年の日々」のゲラを5%だけ見た。そのほかは、カバーのチェックなど。

 ときどき庭に出て、モルタルを練り、レンガを並べる。今日は6つくらい並べた。ほぼ1周並べ終えたので、明日からは仕上げ作業をする。もう線路はのっているので、いつでも機関車を走らせることができる。水平が出たから、走りやすくなったはず。今後、駅や建物などを造ったり、さらに線路を延ばしたり、少しずつ発展させていこう。シムシティみたいだ(古いな)。
 スバル氏と、インテリアのお店へ行って、小さな絨毯を注文してきた。パスカルが遊ぶところに敷いてあったものが汚れたので取り替えることになったのだ。ソファへ飛び乗ったり、飛び降りたりする位置なので、滑らないものが良い、と気遣ってのこと。
 落ち葉が増え始めた。デッキに黄色い葉が沢山落ちている。もちろん、まだほとんどの樹の枝には緑の葉があるけれど、色づき始めているものも幾つか。この時期に成長して、花を咲かせたりする草もあるのに、植物も様々だ。というか、明らかに動物よりはバラエティに富んでいる。
 いつの間にか繁殖して、いたるところに広がっている草があって、それと同じものがホームセンタで売られていたりすると、少し嬉しい。「これ、うちに1万円分はあるね」とスバル氏と話す。お百姓さんの気持ちのサブセットか。

 スバル氏は赤福でショックを受けている。僕は子供のときに、○○煎餅は売れ残った赤福餅でできているんだ、と聞いたことが何度もあるけれど、「だから○○煎餅は美味いんだよ」という意味だった。「少し古くても、美味しかったらいいじゃん」と思う人も多いだろう。けれど、正直に作れば、さらにもっと美味くなるかもしれない(僕は餡は嫌いだけど)。内部告発した労働者を保護する公益通報者保護法が施行されて1年半。世の中、どんどんクリアになるなぁ。

【音楽】 合唱

 小学校のときの音楽は、歌いたくない、はっきりいって嫌いな曲ばかり歌わさせられたり、演奏したくない、はっきりいって馬鹿みたいに退屈な曲ばかり演奏させられたり、という押しつけがましい行為に耐える時間だったから、楽しくもなんともなかったけれど、中学生になったら、意外に音楽の授業が楽しくなった。
 これは、一つには先生に才能があったからだ。音楽の専任だったため、ピアノも自由に弾けたし、作曲家や曲に纏わる面白い話も沢山聴けた。歌ったり演奏することはほとんどなくて、レコードを聴いたりする時間の方が多かった。つまり、音楽を受ける側の姿勢を学習したように思う。
 そういった聴く能力を覚える以前に、幼稚園や小学校低学年では、どうして大勢で声を揃えて歌わせるのか。そういえば、リズムに合わせて踊らせるとか、つまり協調性を養う訓練としてプログラムされているように思われる。成長するほど、大勢で同じことをする訓練が減ってくるようだ。
 とにかく、大勢が同時に同じ曲を歌う、という合唱を学校では散々やらされた。国歌を合唱することが問題になった時期があるけれど、国歌じゃなくても、歌いたくない曲って誰にでもあるだろう。そもそも歌いたくない人も多いだろう。
 たしかに、声が集まってハーモニィになるから、音として綺麗だな、と思うときもある。好きな人は好きみたいだ。合唱部なんてのもあるし、趣味としてなら良いと思う。でも、全員でやらなくても良いのではないか。
 世の中に流れている曲のほとんどは、1人の人間が歌っているか、多くてもデュエットか、せいぜい数人で歌っているものだ。大勢の人間による大合唱が大ヒットすることはあまりない。何故だろう? やはり、没個性ということだろうか。それとも、子供のときに歌わさせられたトラウマかも。
 この、みんなで同じことをやらされる、という同じテーマで【体育】も書ける。


2007年10月21日(日曜日)

【HR】 作家友達来訪

 雲ひとつない素晴らしい秋晴れの日曜日だった。朝から庭の掃除を軽くして、電気機関車を2台出動させ、鉄道を運行した。最初はそれぞれ1台ずつで走らせ、そのあと連結して重連(ダブルヘッダ)にして長い列車を引かせた。ダウンのベストを着ていたけれど、日向は温かく、だんだん必要がなくなる。庭園鉄道に最適の季節。

 昨夜ドラゴンズが巨人に3連勝したらしいので、スバル氏が喜んでいた(本当は阪神を応援していたが、アンチ巨人なので中日に荷担)。ところが、今朝のTV番組ではどこもその話題をやっていない。まあ、マスコミというものが、いかに不公平かがわかる。落合監督が空気が読めない人みたいに言われているにちがいない。

 午前11時頃、お客様が2人いらっしゃった。清涼院流水氏と西尾維新氏である。清涼院氏は、お会いするのは今回が初めてだが、実は、よしもとばなな氏の次にメールのやり取りが多い作家は彼なのだ。まちがいなく親しい作家さんといえる。また、西尾氏は今回がもう4回め、拙宅へいらっしゃるのも2回めになる。
 パスカルが大喜びして飛びついたが、2分ほどでたちまち熱が冷めて、すぐにごろんと昼寝を始めた。例によって、まずは庭園鉄道に乗ってもらった(パスカルにではなく、お客様に)。気候が良く、光も綺麗で、ゆったりと走るだけで本当に気持ちが良いトラベルができる。

 スバル氏が、名古屋名物のスパゲッティを作って、それを食べながらおしゃべり。清涼院氏は、僕とほとんど同じキャリアだし、西尾氏も既にデビュー6年。出している本の数も3人は同じくらいで、非常に環境というか条件が類似している。もちろん、メフィスト賞の出身だし、たとえば、最初にタイトルを決めてから書くとか、執筆は朝からするとか、なんてことでも一致している。一応、20代、30代、40代ではあるけれど、お2人はまだ若い。引退しようとしている森博嗣だけ、一歩遠いかも。
 ワープロは何を使っているのか、バックアップはどうしているか、入力はローマ字かひらがなか、どんな手順で小説を書くのか、ゲラ校正はどうか、ファンメールはどう処理しているのか、確定申告をどうしているのか、などなど作家活動に関するマニアックな話を5時間ほどした。ぴりっとスパイスが利いた濃い話題だった。

 夕方、お2人が帰ったあとも、1人で列車に乗って何周か走った。パスカルはスバル氏と散歩にいこうとしていたので、散歩のまえに鉄道に乗せてあげようとしたら、これまでになく抵抗した(スバル氏ではなくパスカルが)。さすがに、庭園鉄道よりは散歩の方が大事みたいだった。
 体調がとても良くなった。明日から「タカイ×タカイ」の手直しを始める。今月末までに仕上げる予定。

【社会】 懐かしい昭和

 少しまえから、レトロなものが流行ったりしている。レトロといっても、数十年くらいの「ちょっと昔」で、戦後の復興期くらいの懐かしさが多い。
 僕は、東京オリンピックがあったときは小学1年生だった。一番覚えているのは、コーラの王冠とお金を持っていくと、オリンピックの競技別フィギュアがもらえたこと。真っ白のプラスティックで、着色などしていないけれど、なかなかディテールが良かったと思う。これをいくつも集めていた。フェンシングの人形が一番お気に入りだった。今から40年以上まえの話だ。
 ところで、この時代のもう1つの思い出は「公害」である。とにかく、街は排気ガスの臭いが酷かった。川の水は汚れ、魚もどんどん死んでいく。森林は伐採され、街にも緑は少ない。本当に殺伐としていた。食品の問題も多数あって、合成甘味料が問題になったり、薬害なども明るみに出始めていた。子供の誘拐事件があったり、治安も悪かった。
 それに比べると、今は空気が本当に綺麗になった。川の水も澄んでいる。街は緑でいっぱい。特に、この数十年で育った大木が増えた。海外へ行くたびに、街にある大木が良いな、と感じたが、日本もそうなってきた。いろいろな面で、少しずつ安全でクリーンになりつつある。
 この頃、北京オリンピックがらみで中国を槍玉に挙げる報道が目につくが、それを見るたびに、子供の頃の日本を思い出す。昔は懐かしいけれど、けっしてあの当時に戻りたいとは思わない。


2007年10月20日(土曜日)

【HR】 オビはいらない

 土曜日は北風が吹いて一気に寒くなる、という予報だったが、そのとおり、ぽかぽかの快晴となった。庭で作業をしていると、午前中に上着を一枚脱ぎ、午後になったらシャツも脱いで、Tシャツでいられるほどになった。北風とお日様が賭をしたのではないか。

 「スカイ・イクリプス」第4話は推敲して脱稿。この作品はあと4作。ちょうど半分だ。カバーなどのチェックを幾つか。「工作少年の日々」文庫版の初校が届いた。これは1月刊。もうそろそろ来年の本の仕事が多数になる。
 「クレィドゥ・ザ・スカイ」ノベルス版の見本が届いた。鶴田謙二氏、会心のカバーと、そして折込のイラスト。最後は予定どおり仕上げてもらえた。感謝。これで、ノベルス版も5冊出揃った。文庫版は、1カ月後に4冊め「フラッタ・リンツ・ライフ」が出る。

 繰り返し書いていることだが、日本のブックデザインの元凶は、オビである。オビなんかやめたら良いのにと僕は思う。少なくとも、僕はオビをすぐにゴミ箱に捨てる。本を開くときに邪魔だし、書いてあることは余分な情報ばかりだし、表紙が見えないし、良いことが一つもない。自分の本でも、可能ならばオビはなくしたい。編集者にもそう言い続けてきたが、願いは滅多に叶わない。オビがないと「売れない」と彼らは恐れているのだ。
 僕は文庫を買うことが多い。新刊を買うようなことはまずないので、オビがない本がほとんど。すると、カバーの下が間抜けにスペースがあいている馬鹿なカバーデザインの本が多数だ。デザイナはきっとこのジレンマに苦しんでいるだろう。編集者は、文字しか目に入らない活字人間だから、あまり気にしていない。営業の人はオビの「フェア」の文句しか見ていないし、オビで本が売れると信じている。もし、オビで本が売れているのが本当なら、「作者は怒れよ」と思う。
 まあ、嫌なら外せば良いものだから、我慢している。けれど、オビのために余分に費用と労力がかかるし、カバーデザインが駄目になるのは、本当に気持ちが悪い。しかし、本は読者のものだから、読者がこれで良いというなら、しかたがないかと思う。これ以上主張しない。
 だいたい、タイトルの文字で、イラストが部分的に隠れて見えなくなることが、僕はもう嫌だ。

 今日は、庭でモルタルを練って、レンガ並べを2時間ほどした。セメントのアルカリで手がかさかさしていたが、もう3日めなので、慣れてきて、手が普通の状態に戻った。
 庭で大きくなる雑草が1本あって、垂直にぐんぐん伸び、たちまち2m50cmほどまで伸びた。あまりに見事な成長なので、そのままにしておいたが、昨日の雨で倒れてしまった。しかたがないので根本から切った。花も咲かせなかった。
 スバル氏と書店へ行き、雑誌を何冊か購入。明日お客様があるので食料品も買い出し。この頃は、クロテッド・クリームのブームは去って、現在これといって凝っていない。スバル氏が塩煎餅を食べているくらいだ。

 靴下左右色違いに関してメールを50通ほどいただいた。よしもとばななさんからも写真添付で「あるのだ」というメールをいただいた。ネクタイとスーツでも、そういう靴下が履ける社会になってほしい(願望)。

【理科】 エレベータが落下したとき

 あわや子供が自動車に轢かれる、というとき、鉄腕アトムが猛スピードで飛んできて救い出す。そういった場合、自動車よりもアトムの方がスピードが速いわけで、子供はアトムに抱かれた瞬間に即死するのではないか、という疑問を、少し科学的な想像ができる人は抱くはずだ。
 よく話題になるのは、エレベータのロープが切れて落下したとき、地面に着く直前にジャンプしたら助かるのではないか、というもの。
 まず、落下しているエレベータがもし抵抗なく自由落下していたら、箱の中では相対的に無重力状態になり、人間は床に立っていられないから、ジャンプすること自体が難しいだろう。
 しかし、レールと車輪の摩擦があるから、自由落下よりは遅いと考えれば、僅かに下向きの重力があり、充分にジャンプが可能かもしれない。
 ちょっとしたジャンプでは、落下速度を到底打ち消せない。たとえば、落下速度は1秒ごとに約10m/s加速するので、3秒で30m/sに達する。秒速30mといえば時速100kmにもなる。
 「地面に着く寸前にジャンプしよう」と考える余裕があるわけだから、少なくとも3秒くらいは落下していると思われる。ちなみに、この間に落下する距離は約45m。ちょうど12階くらいの高さだ。つまり、時速100kmの速度で飛び出すようなジャンプをしなければ、速度を打ち消せない。ちなみに、地上でこのジャンプができる人は、12階建てのビルディングくらいの高さまで到達できる計算になる。
 こんな凄いジャンプをしたら、(少しタイミングが早すぎるだけで)下手をするとエレベータの天井に激突することになるので、エレベータが地面に到着するまえに即死する恐れがある。ジャンプして、天井に達するほんの僅かな時間、具体的には、0.1秒くらいの間に、エレベータが地面に到着して急停止しなければならない。まさに絶妙のタイミングというやつだ。
 しかし、まだ問題はある。はたして、時速100kmのジャンプという加速に耐えられる躰であるか、という問題だ。自分のジャンプの加速で即死するほど弱いなら、ジャンプなどとうてい無理だ、という意見もあるだろう。そのとおりである。あるいは、そのジャンプに耐えられる躰なら、そのままジャンプしなくても激突に耐えられるのではないか、という意見もあるだろう。もっともである。
 ロケットエンジンを背負っていて、これが完全にコンピュータ制御で精密に作動するものだったら、助かる可能性はある。少なくとも、エレベータの箱の高さと同じ厚さのクッションの上へ落下するくらいの加速度に押さえることは物理的には可能だ。確実なのは、まず天井を破壊し、エンジンによるジャンプでそこから飛び出すことだろう。


2007年10月19日(金曜日)

【HR】 読書と統計と税金

 午後から雨になる予報だったが、朝から雨だった。小雨なので、庭に出てモルタルを1回だけ練り、レンガを2つ並べた。このあと本格的に雨になると都合が良い。スバル氏と午前中にホームセンタへ行き、苗をまた30個ほど買ってきた。帰ってきて雨の中、それらをすべて植えた。これも、午後から雨がもっと降ったら都合が良い、との判断で。
 短編は105%で書き終わった。推敲は後日。
 98%と書いたばかりだが、昨日半日ほどTシャツを前後ろに着ていたようだ。絵がある方が前のものと後ろのものがあって紛らわしい。このTシャツの件は、沢山のメールをいただいたが、同じ悩みを抱えている人に希望を与えるために書いたつもりはない。

 久しぶりに、小説を1冊読んだ。1週間以上かかった。いつも、本を持ち歩き、時間があると少しずつ読む。1日に、たぶん1時間半くらいトータルで読む。だから、10日ならば15時間だ。1時間でせいぜい20ページくらい。1ページに3分。僕は再読はしないけれど、1つの文章を何度も読み直すことはある。その文章が頭に入ってこない、つまり、情景が思い浮かばない場合に、そうなる。そこで1、2分でも止まって、先へ進まなくなる。そういう読み方をしている。
 しかし、一度読み進んだら、二度と戻って読むことはない。同じ本を再び開くこともない。小説を再読したのは、人生で5回ほどしかなく、そのうち3回は同じ小説だ。しかも20年くらいまえの話で、今はもうしない。必要をもう感じない。
 もう一度読むと、違うふうに読めるから楽しい、と言う人もいる。しかし、それは読まなくても同じように楽しめる。自分に変化があったとき、小説を思い浮かべれば良いだけだし、最初に読んだときに既にさまざまな可能性を思い浮かべるから、そのいずれかであることが多い。
 この頃、一番沢山読んでいるのは自分の書いた小説だ。書いてから、手直しをするときに1度読む。ゲラになって2回読む。だから、3回読んだら本になる。ノベルス化でゲラを読む。文庫化でまたゲラを読む。だから最低でも5回は読むことになる。文庫になったあとは、もう読まない。
 スプリングスティンのマジックは50回は聴いたと思う。どうして音楽は繰り返し聴けるのだろう。でも、トータルの時間は小説に直すと3冊分くらいだから、まあ、ちょっとしたシリーズものと同じ程度。映画は、面白いものは2回見る。これでも、たったの4時間だ。制作にお金がかかっているわりに、短時間で消費されてしまう。そうか、小説好きの人は、1冊を2時間くらいで読んでしまうのだ。ついつい、自分の尺度で測っていた。なんでも、自分の尺度で測った方が良いが。

 昨日だったか、TVのニュースで「子供が被害者になる殺人は、減っていません」と言っていた。さすがに「増えています」という嘘はつけなかったのだろう。マスコミは、治安が悪化していると不安を煽っているけれど、子供が殺される事件は統計によれば、ここ30年間でも顕著に減少している。子供の数が減っているが、人口比で比較しても半分以下に減っている。小学生、幼児、乳児、どの年齢でも減少している。ただ、減少傾向は底を突きつつあって、ここ数年は変化があまりない。だから、「減ってはいない」という言い方になるのだろう。
 消費税が早く上がってほしい。いくらなんでも5%は低すぎる。増税になると、必ず出るのは「そのまえに税金の無駄遣いをやめるべきだ」という意見。たしかにそうだ。労働者が賃金値上げを要求したら、会社側から「そのまえに無駄遣いをやめろ」と言われたり、恵まれない人のために募金活動をしたら、「そのまえに無駄遣いをやめろ」と言われたり、宝くじが当たりますようにと神様にお願いしたら、「そのまえに無駄遣いをやめろ」と言われたりする場合を考えてみよう。立場を入れ替えて考えることは大事だ。研究費を国に申請すると、「そのまえに無駄遣いをやめろ」と言われそうな気がする。

【算数】 かけて等しく

 紙を使わないで、頭の中で考える比較的軽いエクササイズ。
 1桁の数字が書かれたカードが10枚ある。同じ数字のカードはない。ここから、6枚を選び、3枚ずつの2組に分ける。さて、それぞれの3つの数字を掛け合わせた積が等しくなる組合せ(たとえば、2×3×6=1×4×9など)はいくつあるだろう?
 では、カードを8枚選び、4枚ずつ2組に分け、それぞれの4つの数字を掛け合わせた積が等しくなることはあるだろうか? もしないならば、その理由を述べよ。
 後者の問題は、成立する組合せが1組もない。証明は以下のとおり。
5、7、0がどちらかの組に入ると等しくならない(5や7は、その倍数になるため。0は、積が0になるため)。したがって、残りのカードは7枚しかなく、8枚を選べない。
(答を掲示板に書き込んだり、森博嗣にメールをしないように。)


2007年10月18日(木曜日)

【HR】 弁当の選び方

 秋晴れで洗濯日和の天気予報だったので、そのとおり小雨がぱらついた。
 朝から庭でモルタルを練って、レンガを並べる工事を始めた。玄関の横に新しい線路を敷く、その基礎工事がまだ仮だったので、本格的に固定することにした。レベルを出して、少しずつ進めるため、毎日やっても1週間はかかるだろう。

 5インチゲージの線路も、水平機を見ながら走ったところ、カーブでかなり傾いている箇所があった。脱線はしないけれど、修正が必要だ。
 セメントがなくなったので、スバル氏とホームセンタへ出かけた。彼女は花の苗を20個ほど買った。僕はセメントのほかに、安売りしていたバッテリィを2個購入。これは、庭園鉄道の電気機関車に使うもの。
 今日は庭掃除を1時間くらいしたし、よく働いた。体調が良くなってきた証拠か。

 夕方から小説の仕事をした。執筆はあまり進まず、短編の完成度は75%まで。「日経パソコン」の2つめのイラストを送った。yorimoの連載第9回までの校正もした。第1話が9回で終わる。つまり、短編1作に2カ月かかる。このペースだと、来年5月まで続けても4作だ。1作は「C★N25」に掲載。単行本に8作掲載されるので、書き下ろしが3作になるだろう。yorimoは、もの凄く細切れの連載で、小説を読む人はこんなペースでは満足に読めないことと思う。日頃、小説を読まない人向けの設定なのだろう、きっと。

 お弁当を選ぶとき、スバル氏は、自分が食べたいものが入っているものを選ぶ。僕は、自分が嫌いなものが入っていないものを選ぶ。この話は、幾度か書いたことがある。プラスで選ぶか、マイナスで選ぶか、という違い。僕の場合、出された料理は全部食べなければならない、という強迫観念を持っているせいかもしれない。そういう時代だったこともある。一方のスバル氏はかなり自由だ。小食だから、どうせ全部は食べられないし、ということかもしれない。
 さて、小説雑誌やアンソロジィを買う人は、自分が読みたい作家がいれば買う、というスバル氏のようなタイプだろうか。たぶん、そうだと思う。僕は、アンソロジィを買うことはない。やはり、純度が低いものだ、という印象があるためだ。それよりは、好きな作家オンリィの短編集の方を選ぶ。実際にどうなのだろう。雑誌やアンソロジィが、そこに作品を発表している作家の本よりも多数売れているとは思えない。むしろその逆ではないか。ということは、僕の弁当選びと同じタイプの人の方が多数、と分析しても良いだろうか。
 話は少し違うが、僕は特定の小説家の次作を待ったり、ある小説が文庫になるのを待ったり、ということがない。つまり小説に関して、「待つ」というような行為はしないし、その概念さえない。小説というのは、読みたいときに書店で買えるもののことなのだ。それ以上のものを望んだり、想像したことすらない。小説は無限にこの世にある。読めない作品の数が圧倒的に多いのだから、これから書かれる作品にまで気が回らない。
 小説以外ではどうか。たとえば、趣味関係の本や技術書では、早くこんなものが出ないかな、という希望は常に持っている。書店へ行っても、趣味の分野ではいつも買うものがほとんどない。出たらすぐに買うのに、と思うばかりだ。きっと、小説を待ち望んでいる人たちはこんな気持ちなんだろうな、と想像する。

【国語】 へとに

 場所を移動する場合の目標地点を示す助詞として、「へ」がある。「学校へ行く」の「へ」だ。しかし、この頃ではこれを「学校に行く」と言う人が多数になった。僕が観察したところでは、ほとんどの人は、「へ」ではなく「に」を使っているようだ。「外へ出る」か「外に出る」か、「ポストへ入れる」か「ポストに入れる」か、ちょっと考えていただきたい。意識すると、どちらでも良いと思えるほどだし、べつに「へ」を使っているよ、と思うかもしれない。でも、実際の会話では、思いのほか使われていないのだ。
 どうしてだろう。1つ思いつくのは、「へ」という文字表記であるのではないか、ということ。発音は「え」なのに、文字は「へ」と書く。これは、子供たちには非常にわかりにくい約束事だ。もともとは、「へ」に近い発音をしていたのに、その名残はもうほとんどなくなった。文字だけを残したのは、「へ」と書いた方が平仮名ばかりの文が読みやすい、という利点があったからだろう。同様のものに「を」がある。これは今でも、「お」の発音とは違い、「wo」と発音する人が多いと思う。
 僕は、最初に小説を書き上げたあと、もう一度読んで手直しをする。そのとき、「に」を「へ」に直すことが多い。1作のうち、10箇所以上直す。つまり、ついつい「に」を使ってしまうけれど、「へ」の方が、日本語として美しいな、とまだ思っているためだ。
 ただ、会話では、「へ」はあまり使えない。さらに、会話のほとんどは、既に助詞が省略されている。「東京へ行ってきた」ではなく、「東京行ってきた」と言う人が増えた。助詞をきちんと入れることが、「丁寧語」に聞こえる昨今である。


2007年10月17日(水曜日)

【HR】 ネット視聴率の低下

 朝方雨が降り、その後晴天。水やりなし。爽やかな一日だった。
 朝から短編を書いて、完成度は50%まで。スバル氏は、「日経パソコン」の第52回のイラストを仕上げている。この連載、60回以降さらに12回の延長を編集部から打診されたが、謹んでお断りした。1冊の本の分量として多すぎるため。もともとは48回(2年間)の仕事で受けたもので、既に1度12回分延長し、現在はその延長期間中である。
 「野性時代」で連載を2作続けて、これが先日終わった。「別册文春」も現在2作めを連載中で、あと3回で終了の予定。今後は、連載の仕事も減らそうと考えているが、「ジャーロ」のZシリーズの3作めだけは、次号から連載開始の予定。しばらくは、小説はこれだけにしたい。

 お昼まえから研究関係の用事で出かけて、2箇所ほど回ってきた。帰宅したのは夕方。少々疲れたので、30分ほど昼寝をした。体調は悪くはないが、まだ本調子手前。
 「迷宮百年の睡魔」の台湾版の見本が届いた。タイトルほか、レタリングをすべて横向きにしている斬新なデザイン(中身は日本と同じ縦書き)。この尖端出版は「S&M系列」「V系列」「空中騎士系列」「女王百年系列」などとシリーズを名づけている。今回はたぶん21冊めになる。

 インターネットが普及し始めた頃は、多くの人があちらこちらのサイトに注目していたし、掲示板も大勢が閲覧し、情報が伝わるのも速かった。最近は、サイトも爆発的に数が増え、情報に溢れかえり、多くの人たちは自分のブログを書き、仲間数人のサイトを斜め読みするのがやっとだ。とにかく、娯楽は増え、時間がない。情報収拾にかける時間は減っている。したがって、情報伝達にとにかく時間がかかる社会になった。
 某元アイドルタレントが、離婚したことを自分のブログで発表したのに、半年間も芸能関係のマスコミは誰も気づかなかった。ファンは読んでいただろうが、その噂はまったく広がらなかった。
 押井映画の発表は6月だったが、これを知って「びっくりした!」とブログに書いている人が、4カ月も経った今でもいて、毎日そんなブログを数カ所発見できる。ネットでは、情報はじわじわと広がるのだ。
 宣伝は間際になって、花火のように打ち上げる、といった考えは完全に古いという話を、昨年のコカコーラ・キャンペーンのときに、電通の人たちに話した。ゲーム業界はこれをよく知っているみたいで、半年以上もまえから宣伝を流し始める。
 新聞やTVで宣伝すると、「発売されたという噂を知っている」という人が増えるが、「それを買い求めよう」という人はほとんど増えない(そういう人が新聞やTVを見ている)、ということもわかった。とにかく、これからの宣伝は、不効率な手段しかなく、それらをハイブリッドで組み合せるような複雑さを強いられる。

 TVのニュースがどうしてあんなに、「物騒な世の中になった」と主張するのかというと、それは不安を煽った方が視聴率が取れる、と考えているからかもしれないし、今後セキュリティ関連の事業が大きくなってくるから、そういったところが働きかけているのかもしれない。またこれとは逆に、どうして郵便局や保険会社に関する将来不安は見逃すのかといえば、それらがTVのスポンサだから、かもしれない。これは複雑か、それとも単純か……。

【図工】 自分のために作る

 工作が大好きだったので、学校で工作ができる日はとても楽しみだった。教科書をさきざきまで見て、どんな課題が出るのか、などをよく考えていた。
 絵を描くことも大好きだったのだが、何故か学校の授業では上手く描けなかった。まず、これを描きなさいというテーマが決まっていることが不自由だったし、時間内に仕上げなくてはいけないことが難しかった。時間が迫るから、途中で気に入らなくなっても描き直すことができない。急ぐと絵の具は混ざってしまうから困った。しかし、楽しくない最大の要因は、先生に絵の良さを見る目がないことだった。
 工作も時間を充分にかけることができない。時間内にやっつけ仕事で作らなければならないのだ。じっくり取り組めば面白いテーマなのに、何十時間もかけて作らせてはもらえない。家で準備をしていくことも、そんなにおおっぴらにはできない。残りを家でやってきたりすることも許されない。学校以外ですると、「親に手伝ってもらった」と叱られてしまう。
 夏休みの工作などは、適度に手を抜いていかないと、自分だけで作ったものだと先生に信じてもらえない。小学校4年生のときに作ったロボットが、どうしても自分一人で作ったと信じてもらえなかったので、以後は、手を抜いてわざと下手に作っていくことにした。本当の仕上げは、学校から持ち帰ったあと、自分のためだけにした方が良い、と知った。
 こういった教育によって、人に認めてもらうよりも自己満足の方がずっと難しいことを学んだのである。


2007年10月16日(火曜日)

【HR】 非対称の流行を果敢に予測

 体調がまた良くなってきた。ようするにここ数日の不調は、先週までのハードワークの疲れが出たのではないか、と都合の良い解釈にしておく。今日も、研究関係で3時間ほど電話で時間を潰した。まあ、出かけるよりは楽だ。これくらいしかたがない。

 「スカイ・イクリプス」の第4話を2000文字ほど書き始めた。完成度20%。「日経パソコン」の残り3回分のイラストを下描きして、ペン入れもした。これは、第52〜54回になる。あと6回で、2年半にわたった連載がついに終わる。

 夕方には時間ができたので、庭に出て小さい機関車で遊んだ。アルコールを薬屋さんで買ってきたばかりで、アルコールが燃料の機関車を2台走らせた。30年以上まえの製品だが、今でも快調に走る。このあと、レールバス(これは大きい)を出して、ライトをつけて庭を一周させた。昨日バッテリィを入れ替えたので快調。
 しかし、このように走らせれば、どこかが壊れていたり、気になる場所が見つかるので、あとで修理をするのがいつもの日課。毎日こんなことをして一人で遊んでいる。

 昨日、Tシャツのことを書いたけれど、続報。スバル氏がユニクロで買ってくれたジャージのパンツを昨夜穿こうとした。お風呂上がりに僕は必ずすぐに靴下を履いて、昼間よりも温かい格好をすることにしている。それで、ジャージのことを思い出して穿こうとした。ところが、前後ろの区別がつかない。Tシャツの首のタグは後ろだが、ズボンは前のような気がした。穿いてみても違和感はない。スバル氏のところへ行き、「ズボンの場合は、タグは前?」と念のためにきくと、「ポケットに手を突っ込んでみなさい」とのアドバイスを得た。突っ込んでみたら、後ろへ向かって手が入る。明らかに逆である。
 以前に、タグが前だったことがあるような気がするのだが、統一されていないのだろうか……。ポケットがあるものだったらポケットでわかるが、タグしか頼るものがない場合もある。それより、パンツも前後対称に作ってくれたら良いのに、と思う。

 靴下のことで補足しておくが、近い将来に、絶対に左右で色違いの靴下を履くことが流行するだろう、と確信している。袖の色が左右で違うシャツやジャケット、裾が斜めになったスカートなど、左右非対称のものが最近増え始めているので、兆しはある。また、シャツを裏返しに着たり、パンツを後ろ前にだらしなく穿くことも、反社会的なファッションとして、きっと流行するにちがいない。そうなれば、僕の肩の荷も下りることだろう。

【社会】 ヘッドライトの常時点灯

 昨年だったか、タクシーが昼間でもヘッドライトをつけるようになった。運転手にきいてみると、つけなさいという指導が上からあったとのこと。「上」というのは、会社なのか協会なのか、それとも運輸局なのか知らないが、とにかく、ヘッドライトをつけていると事故防止につながる、という理屈らしい。
 たしかに、タクシーは近道をするために、細い道へ入り込み、かなり高速で走り抜ける。そんなひやひやする場面に何度か出会った。ライトをつけていれば、歩いている人間が早く気づくから、多少は安全なのだろうか。でも、ライトをつけるよりも、もっとゆっくり走ってもらいたいものである。
 ライトをつけて走れば、それだけ燃費が悪くなるし、炭酸ガスも余計に出る。省エネに反するし、地球環境にもマイナスだ。これはまちがいない。
 その後、しばらくそのままだったが、最近ではほとんどライトをつけているタクシーを見かけなくなった。効果がどれくらいあったかを検討し、やはりやめることになったのだろうか。
 タクシーというのは、非常に安全な乗りものだった。プロのドライバが運転するので、普通の車よりもずっと事故率が低い。しかし、最近では運転手が高齢化しているし、賃金の問題で人材が不足していると聞く。ヘッドライトを点灯させたくらいで安全になるとは、どうも思えない。安全性を高める一番効果的な方法は、運転手の賃金を上げることだろう。これは、トラックなどの運送業にもいえることだ。そのためならば、タクシー料金や運送料が値上がりしても良い、と思う。


2007年10月15日(月曜日)

【HR】 自己改善の心得

 昨日は遊びすぎて、夜は疲れて体調が悪かった。頭痛がずっとしていたし、躰が重かった。一昨日の予期せぬ焼きそばのせいではないか、と回顧している。昨夜は早めに寝たので、睡眠充分で今朝はだいぶ良くなった。

 気がついたら、今、見るべきゲラがない。びっくり。こんなこともあるのだ。短編を執筆するための引用を探した。細かい処理も幾つか。
 午前中は、研究関係の雑事が4時間。昼過ぎに帰宅して、パスカルを車に乗せて出かける。スバル氏が買いもの中、駐車場で待っている時間に読めるものを探したら、ゲラがないことに気づいたのだ。だから、普通の本を持っていった。
 コンビニで、お好み焼き風味のパンを売っていたので、「これは駄目だと思うけど」とスバル氏と話して買った。食べてみたら、本当にお好み焼きみたいだった。お好み焼きは好きだけれど、パンはどうしても食べられない、というお子さんをお持ちのお母さんには朗報だろう。

 人間、絶え間ない努力が必要であるが、最近、自分に対して改善したことがある。Tシャツを正しく着られるようになったのだ。着るまえに、まず裏か表かを確かめる。それから、首の穴のところにあるタグを確認する。この二重のチェックで、まず98%はまちがいなくTシャツを着られる。振り返ってみると、僕はこれまでこれらの確認を怠っていた。けれども、何度も書いていることだが、Tシャツを前後対称にし、リバーシブルにしてもらえば、こんな努力は無用だったのに、と今でも恨めしく思っている。
 靴下を裏返しに履くことは、ほとんど実害がないので、問題視していない。靴下に関する最大の問題は、左右で別の靴下を履いてしまうことだ。このトラブルをなくすには、全部同じ靴下を買うことである。そうすれば、どれとどれを履いても問題がない。しかし、人生なかなかここまで徹底できないという現実がある。似たような靴下に統一していると、逆に違いに気づかず、思わぬ失敗をする。それくらいなら、赤、白、黄色など目立つ色にした方が間違いに気づく可能性が高い。
 僕は、この靴下問題については半ば諦めていたのだが、スバル氏が洗濯後、引出に入れるときに左右の組が離れないように片方に片方を織り込んでくれるようになったので、今は問題は解消した。ありがたいことである。彼女にとっても切実な問題であったことがよくわかる。

 飲むヨーグルトを牛乳と間違えてコーヒーに入れてしまうミスもこの頃なくなった。僕が飲むヨーグルトを飲まないことに決めたからだ。スバル氏がときどき買うが、冷蔵庫の奥に隠してあるから、僕の目につかない。今は、もうコーヒーに牛乳は入れないけれど、紅茶に入れることはある。紅茶に飲むヨーグルトならば案外飲めるかもしれないが、まだ試していない。

【理科】 まぶたとまつげ

 まぶたは「瞼」や「目蓋」と書く。まつげは「睫」や「睫毛」と書く。何のことかはわかると思う。
 子供の頃に、初めて子供だけ数人で映画を観にいった。小学校4年生のときで、バスと地下鉄に乗っていったし、たしか弁当を作ってもらった覚えがある(どこで食べたか覚えていないが)。その映画が「ガッパ」だった。タイトルは忘れたが、ガッパという怪獣が出てくる。鳥とカッパが混ざったような怪物で、一番びっくりしたのは、ガッパが目を閉じるときに目蓋が下から上へ目を覆ったことだった。そうか、鳥の目はああいう具合なのか、しかし、何故だろう、と思った。その後、は虫類なども同じだとわかったし、目蓋のような皮膚ではなく、もっと膜のようなものだとも知った。
 目蓋は目を守る役目のものだ。脂肪が充分にあれば一重になるが、脂肪が不足して皺ができると二重になる。したがって、生物学的には一重の方が健全だと思われる。ただ、危険が少なく、目を守る必要がない場合は二重でも良いわけで、つまり、二重の方がおっとりしているように見えるのは、このためかもしれない。
 睫毛は、目の上と下にあるが、たいていは上の方が多い。この毛は、目に埃が入るのを防いだり、目に異物が接近したことを感知して、瞬時に目蓋を閉じるためのセンサの役目をしている。「瞬時」の「瞬」の字からもわかるように、人間の躰の中でも、トップクラスに反応や運動が素早い箇所だ。
 乾燥している土地や砂漠などに住んでいる人種は、睫毛が長くなる。砂埃などのせいだ。日本人は睫毛が短いが、それだけ目には良い環境だったともいえる。こういったこともあって、睫毛が長いことは、ものごとに敏感であるイメージを与える。実際に、アレルギー体質の人は睫毛が長い、という話も聞いたことがある。


2007年10月14日(日曜日)

【HR】 慣れるよりも環境を変えたい

 曇り空の日曜日。雨の予報だったが、降りそうにない。起きたらすぐに、庭で機関車の試運転。昨日、工作室で修理をしたので早く試したかった。アルコール・バーナは調子が良くなった。そのあとも昨日の続きで、大きな機関車を運転した。徹底的に乗りたかったので、疲れるまで走ってみた。たぶん何kmも走ったと思う。水は12リットルくらい消費したし、石炭も2kgくらいなくなった。機関車の調子はとても良い。最初は、蒸気を無駄遣いしていたが、だんだん最適化されて、後半は効率の良い走りができた。機関士によって燃費が3倍くらい違ってしまうマシンだ(シマウマが死んだわけではない)。今日は、これまでで一番満足のいく走りだった。

 このようにして遊んでいて、気がついたら午後1時になっていた。スバル氏と長女M氏は10時頃ミニで出かけていった。パスカルはもの凄く拗ねていて可愛かった。小説の仕事は、今日は「星の玉子さま」文庫の2校ゲラのチェックのみ。色校正がメイン。明日から、「スカイ・イクリプス」の短編を執筆。来週は「タカイ×タカイ」の手直し。再来週は、「銀河不動産」の連載。その次の週は「ジャーロ」の新連載、と延々と続く。

 小説をよく読む人がときどき言う意見に、「誰の発言かわかるように書き分けるのがプロ」「台詞の中に情報を入れて、読者に説明するのが上手いやり方」「読みやすい会話を書くのがテクニック」などがある。
 僕はこの逆で、書きたい話し言葉があれば、それをそのまま書く。もしわかりにくい場合は、別の方法で解決すべきだと考えている。たとえば、10/9の【国語】で書いたように、読点を多用する。新しい記号をあみ出しても良いだろう。
 小説のマニアは、その世界の約束事に慣れ親しんでいる。それは、歌舞伎を知らない人が「何を言っているのわからない」と訴えるのに対して、「何度も観ていれば、そのうちわかるようになるよ」と言うのと同じだ。小説は、そこまで伝統芸能だとは僕は考えていない。
 小説を読んで、「こんなふうに話す人はいない」とか「どうして、こんな持って回った言い方をするのだろう」と疑問に思う。もっと現代を捉えるべきだと思う。慣れれば良い、という姿勢では、慣れるまえに新しいファンは去ってしまうだろう。
 書きたいことがあって、それが記述方法や伝達方法で制約されるとしたら、書きたいことを修正するのではなく、記述方法や伝達方法を見直すべきだ。

 これは、もっと抽象すると、「我慢ができない」ということかもしれない。自分がしたいことができないと、自分を変えるのではなく、できるように周囲の環境を変えようとする。そこまでいうと、ちょっと極端かもしれないが、基本的にそういう姿勢だ。
 協調性がないともいえる。ルールが正しくて納得がいけば、自分を修正して従うが、どう考えても、ルールが間違っているという場合であれば、そのルールを変えるように努力をする。その努力の過程で新たな問題が生じたり、他者からの抵抗にあったりするわけだが、不可抗力である。

【算数】 微積分の明

 ものごとが変化するときには、変化する要因がある。たとえば、車のスピードが変化するのは、主としてアクセルやブレーキの作用だし、このほかにも、坂道や風の影響を受ける。スピードはそれらの作用の結果として現れるものだが、ブレーキを一番強く踏み込んでいるときが、一番スピードが遅いときではない。ブレーキを強く踏んだときは、スピードの低下が一番激しいときである(ブレーキの強さは速度の微分と比例している)。踏み続けると、スピードはどんどん落ち、やがてゼロになるが、その後はブレーキを踏まなくても、ゼロのままである。つまり、停まっているからといって、今ブレーキが踏まれているわけではない。
 植物が枯れる原因は、植物が枯れたときにはもうないかもしれない。景気が悪くなったときには、既に景気を悪くさせた要因は解消されているかもしれない。このように、変化するものを我々は積分値で捉えることが多いため、対処が遅くなる。また、対処自体も、効果は積分になって現れるので、それを見越して早めに手を打つ必要がある。
 大まかに見れば、ものごとの変化は、サインカーブか、その組合せになる。成長し続ける場合も、サインカーブに上り勾配の直線が加えられているだけだ。また、その上り勾配も、大局的にみれば、より周期の長いサインカーブの上昇部である。
 一般に、絶好調とは、既にブレーキがかかっている状態で現れる現象だ。したがって、最も調子が良いときに、悪くなったときの対処を始めるのでは遅すぎる。もちろん、悪くなり初めてから対処するよりはずっと良い。かなり低下した段階で慌てて対処をしても間に合うことはまずない。枯れかけた花に肥料をやるようなものである。


2007年10月13日(土曜日)

【HR】 食事と体調

 昨日だったか、涼しくなったなあ、と思っていたのに、ラジオで「10月なのに、この残暑」みたいな言い方をしていた。街はそんなに暑かったのだろうか。今日はもう、寒いといっても良いほどだ。午前中は、予定どおり対談と短編のゲラ校正をした。勢いに乗って、「フラッタ〜」文庫の2校もチェック。校閲の鉛筆チェックは100%「ママ」だった。つまり、訂正箇所なし。こういうのも初めてだ。
 パスカルを乗せてスーパへ買いものに出かけ、駐車場でパスカルと一緒に待っていた。車の中で読書。それだけ涼しくなった証拠。気持ちが良い。
 お昼頃、小さい機関車2台と、大きい機関車1台の運転をした。自作の小さい機関車は、アルコール・バーナの調子が今一つで、走っているうちに何度も火が消えてしまった。調整が必要。大きい機関車で走っているところに、ちょうど中央公論新社のN倉氏が来て、さっそく乗ってもらった。初めて2人を牽引して走ったが、快調だった。でも、ボイラへの給水機構が1つ不調。これも調整が必要。

 N倉氏にゲラを渡し、「スカイ・クロラ」関係の今後の打合せを幾つか。来月は、プライベートな会で対談がある(一般の参加はできない)。
 長女M氏が久しぶりに帰ってきたので、スバル氏が焼きそばを作った。午後3時頃である。「これは夕食?」と質問してから食べた。N倉氏も食べた。変な時間に食べたから、調子が悪い。

 朝食や昼食を普段は食べない。朝食を食べないと、朝からいきなり仕事ができる。朝は、体調が悪いことが多いのだが、でも仕事はできる。調子が悪いときにできるのは仕事くらいだ。
 朝食を食べたり、昼食を食べたりすると、躰が温まって、自分では調子が良くなった気分になれる。つまり錯覚できる。けれど、眠くなったりして仕事はできなくなるし、数時間後か、翌日には、体調がもっと悪くなる。朝食を食べていた時期もあったのだが、そのときは、朝は今よりずっと体調が悪かった。午前中はほとんど仕事にならなかった。

 知的活動ではなく、運動を伴う活動をする人は、朝食を食べて躰を暖めた方が良いだろう。午前中にゆったりと寝転がってうたた寝をしたい人も朝に食べた方が良いだろう。ようするに、「体調が良い」というのがどういう状態か、人によってそれぞれ異なる。気持ちが良くて眠りたくなる状況のことをいっている場合が多く、これでは仕事にならない、という場合もある。たとえば、「満腹」などがそうだ。その状態になりたい人はいるだろう。満腹が気持ち良いと感じる人もいるだろう。でも、活動には適さないのが普通だ。
 酒を飲んだ方が体調が良く仕事ができる人がいる。それと同じように、食事をした方が仕事ができる人もいる。しかし、そうでない人間もいるのである。躰が欲するものが、必ずしも躰に良いわけでもない。くれぐれも、思い込みだけで自分に無理に食べさせないように(自分に対する忠告)。

【国語】 「出す」か「だす」か

 走り出す、思い出す、吹き出す、逃げ出す、など、ほとんどの動詞には「出す」をつけることができる。これは、大きく分けると2つの意味がある。1つは、「出す」の意味が含まれ、どこかから外へ出ていく動作を表現するもので、「走り出す」であれば、「走って」「出ていく」という意味だ。「思い出す」ならば、「思って」記憶を頭から「出す」ことを示している。
 そうでない意味もある。たとえば、「突然彼は笑い出した」のような場合。これは、笑うことを表に出したわけだが、つまりは「笑い始めた」という意味である。「走り出す」は、「出る」動作が伴わず、単に「走り始める」の意味で使われる場合が多い。「雨が降り出した」という場合も、降って出ていくわけではなく、「降り始めた」ことを表している。また、「思い出す」でも、「話を聞き、そのときから少し変だな、と思い出した」という場合は、「思い始めた」という意味だ。
 僕は、この両者を区別するために、前者は「出す」と漢字で書き、後者は「だす」と平仮名で書くことにした。同類のものでは、「食べて行く」と書かず、「食べていく」のように書く。「書いて来た」も「書いてきた」と書く。これらも同じ理由である。


2007年10月12日(金曜日)

【HR】 デジタルな仕事

 秋晴れ。清々しい。スバル氏が珍しくゴミを出し忘れた。パスカルと遊んでいたのだ。
 「タカイ×タカイ」は121%で終わった。やれやれ。「日経パソコン」の4回分を推敲し、スバル氏が描き上げたイラスト1枚と一緒に送った。次の仕事は、荻原氏との対談と「スカイ・イクリプス」第3話のゲラ。明日、N倉氏が来るから、ぎりぎりだが、明日の午前中に片づけよう。
 角川書店のK子氏とH原氏が来宅。12月刊の「もえない」のゲラを取りにきてくれた。「野性時代」は今月号から鈴木成一氏のデザインになった。そんな話をあれこれ。

 小説は、裏表紙などに物語のあらすじが書かれている。あれは、担当編集者が作文するものだが、一応、僕はチェックをしている。しかし、内容を的確に表しているものは少ない。的確に示すとネタバレになるから、という理由もある。また、面白そうな内容に書こうとするあまり、非常に滑稽な文にもなりやすい。真剣に読むと、笑えてくるものがある。作者自身が書いても良いのだが、そもそも「あらすじ」なんてものを書くことが間違っているというか、的確に内容を言い表すことは作者でもできないだろう。もしそれができるとしたら、あらすじだけ書いて、それで終わりにすれば良い。読者も、それを読んで長編に思いを馳せるだけにした方が良いだろう。絶対にそっちの方が面白いはずだ。

 読書感想文にあらすじを書く人がいる。おそらく、「ちゃんと読みました」と自己主張したいのだろう。贔屓目にみても、書いた本人の自己満足以外の価値はないし、あらすじが書けただけで「ちゃんと読んだ」と思える種類の人間であることを示しているにすぎない。そういう人のために、あらすじというものが存在するのかもしれない。あらすじが書きたい人は、音楽のあらすじ、絵画や彫刻のあらすじも書いてみたらどうだろう。小説よりは書きごたえがあると思うし、みんなも注目してくれるかも。少なくとも、小説というのは、あらすじを知るために読むものではない、と僕は考えている。

 話は違うが、小説の執筆はデジタルな作業だ。体調が悪くて、頭が痛くて、目が霞んでいて、意識朦朧であっても、もの凄くゆっくりでも、とにかくキーボードで文字を打てば、いつもと同じ作品ができてしまう。それを読む人には、「これは調子が悪かったのだな」とはばれない。ここが、ほかの多くの芸術やスポーツなどと決定的に異なっている。文字という「記号」を出力するせいである。震える手でふにゃふにゃの文字を書いても、デジタルなので活字になれば劣化はない。書道や絵は、こうはいかない(絵もCGならある程度は可能か)。歌や演奏は、ゆっくり出力することができない。
 このように、体調万全でなくても、できてしまうのが小説家である。漫画家の友人が、忙しそうにしているのを見るたびに、大変な職業だなあと思う。それに比べて……、と考えたこと。

 パスカルが口でくわえたボールを、こちらへ投げて寄こすようになった。ほんの50cmほどしか飛ばないが、人間の真似をしようとしているのは明らかだ。

【社会】 将来を考えて

 保険や年金が近頃いろいろ問題になっている。昔の日記を読んでもらうとわかるが、10年もまえから書き続けてきたことだ。掛け捨ての保険は、不幸があった少数を大勢で助けるシステムとして成り立っている。それに比べ、将来の自分のためにある貯蓄型の保険は、具体的なメリットが少ない。自分で貯金をした場合よりも、受けられるサービスは低い。だから、掛け捨て的保障を上手く組み合わせているのだ。社会のために弱者を救うものとは思えない。なにしろ、慈善事業をしていたのでは、保険会社が成り立たない。保険会社の社員を養い、ビルを建てるお金は、誰が払っているのか。
 30年後に支払われる年金であれば、最初の30年間は、金を集めるだけで払わなくて良い。この30年間はぼろ儲けである。その後は、新規の加入者の金を支払いに回せば良い、と考えている。もし、新規加入者が減少して立ち行かなくなったときは、保険会社が倒産するだけのことだ。倒産すれば、それで終わりである。現に、既に潰れた大手の保険会社がある。
 しかし、だからといって、自分で貯金すれば良いのかというと、貯金だってまったく安全とはいえない。株だってリスクがあるし、金や土地に替えても、それで安心というわけにはいかない。いずれも「賭け」である。そういう賭けだと思って、保険や年金を認識すれば、そんなに損をすることはないだろう。比較的安全な部類の「賭け」ではある。賭けという言葉が嫌なら「投資」といえば良い。
 TVなどの保険会社の宣伝は、「これはイメージ映像です」の最たるものだ。
 掛け捨ての保険も、若いときに加入すると安い掛け金になるが、そのうち値上げされる。「値上げはない、一生同じ金額だ」と説明を受けたとしても、「これではやっていけない」という理由で値上げになる。潰れるよりはましなので、そこで承諾するか、解約するしかない。
 僕が学んだことは1つ。さきざきのことを考えて保険を選ぶな。


2007年10月11日(木曜日)

【HR】 変なボランティア活動

 曇り空。この頃は天気予報の裏をかいて、どんでんがえしの天気になる。これこそ「本格天気」だ。最高気温も5℃以上予報と違っていたりする。こういうときは、「明日の天気は予測困難です」と発表した方が信頼を得られると思うが、いかがか。
 「タカイ〜」は10000文字書いて完成度115%。まだ終わらない。もうちょっと。「日経パソコン」のイラストを1枚下描きした。そのほか細かい処理が多数。取材の依頼を2つお断りした。理由は〆切が近すぎるため。

 海外オークションの落札品を送ってもらうため、イギリスの運送屋さんに依頼メールを送った。日本のオークションより手続きがやや面倒だが、しかたがない。荷物さえ無事に届けば良いのだが。
 書店と園芸店とスーパへスバル氏と出かけた。書店では雑誌を、園芸店では今日も苗を購入。スーパは1カ月くらいまえからハローウィンのカボチャを飾っているが、いったいいつなんだろう。まだこれからなのか。ちょっと期間が長くないだろうか。

 そのスーパで変なことがあった。レジを通ったあと、おばさんたちがボランティア活動をしていて、説明を始める。耳の不自由な人のために募金を集めているという。それで、レジでもらったばかりの明細書を渡すと、その金額の1%がスーパ(イオンである)から支払われることになっている、と説明する。つまり、レシートを渡すだけで50円くらいの募金をしたことになるらしい。見ると、透明の箱の中にレシートが沢山入っている。
 だが、レシートは記録のために必要だ。必要だからもらっているのである。渡すわけにはいかない。そこで、レシートを渡さずに募金をする方法はないのか、と尋ねると、それはできないという。変な話ではないか。
 そもそも、人のレシートを集めるという行為が怪しい。不正な経理のためレシートが欲しいところは多いだろう。政治家の事務所なんか、最近レシートを少しでも沢山集めたいのではないか。もちろんそうではなく、大勢の人が善意で参加した証拠として集めたいのだろうけれど、いかにも不注意な企画である。

 スバル氏はこのあと、「私、ボランティアって言葉で良いイメージを持ったことがない」とおっしゃっていた。尋ねてみると、「募金とか署名活動とか」などの例を挙げていた。まあ、無償で労働をするボランティアは彼女の前には現れない。人に賛同を求めるようなボランティアのイメージが強いのだろう。僕は意見がない。
 今日も旋盤を回して工作をした。古い車輪を削ってぴかぴかにした。バーナで銀ロウづけもした。庭で機関車も走らせた。けっこう充実していた一日。夕方は久しぶりに、苗を植え、水やりや草取りをした。日が短くなった。すぐに夕方になってしまう。

【理科】 馬力

 馬力というのは、エンジンが発明されてから作られた指標である。動力として馬がメジャだった時代には、誰も「馬力」なんて気にしなかった。力の弱い馬と力の強い馬がいたはずだが、何倍強いのかを測定をして、その評価値で馬の価値を統一的に定めたりはしなかった。
 エンジンで動く車が作られたとき、馬車に比べてどれくらい仕事の能力があるのか、というPRの一環で、馬の2倍なら2馬力、3倍ならば3馬力と呼ぶことにした。このとき、馬の平均的な能力を測ったものと思うが、多数のサンプルで精確な測定が行われたわけではないだろう。だいたいこれくらい、と決めた。もちろん、馬は何時間も連続では働けない。そういった持続力は、この値には反映されていない。したがって、1馬力のエンジンが24時間回り続ける能力を持っていれば、馬よりも沢山仕事をする。馬力は、のちに物理的な数値で定義され、測定もどんどん精確に行われるようになった。今では、100馬力のエンジンも全然珍しくない。スポーツカーになると何百馬力もある。
 自動車の場合、馬力が大きいものは速いのだろうか? これは、だいたいそうだ。もちろん、ほかにも足回り、タイヤ、ボディの形状など、沢山のファクタがあるが、馬力は支配的な要因である。
 自動車通の人が、「馬力よりもトルクだよ」という意見をよく口にするけれど、トルクが大きくても車は速くはならない。また、加速が良いともいえない。トルクとは、ある回転数のときの出力(モーメント)であって、ギア比によっていくらでもトルクは変えられる。いくらトルクが大きなエンジンでも、馬力がなければ、車は速くもならないし、加速も悪い。トルクは、エンジンの特性の1つとして、エンジンの扱いやすさや、車の運転のしやすさに関係すると思った方が良い。
 ところで、人間はどれくらいの馬力があるのだろう。よく「あの人は馬力があるね」などと言うが、1馬力も出せる人間はまずいない。もちろん、運動の種類によって全然異なる。たとえば、競輪選手が自転車に乗って出せる馬力がせいぜい1/4馬力くらいだと聞いたことがある。しかも、馬よりもさらに人間は疲れやすく、力を持続できない。


2007年10月10日(水曜日)

【HR】 ダイエット

 朝から晴天。秋晴れ。ぽかぽか。小春日和には少し早いから、小夏日和というべきか。朝はパスカルを散歩に連れていった。リードをつけてやるとき、自分から胴輪に手を通すのが面白い。もこもこと元気良く歩く。
 修理に出していたD/Aコンバータが戻ってきた。保証期間だったようで無料だった。さっそく繋いだら、やっぱりこっちの方が良い音がする。もう一度、スプリングスティンとか、ジョニ・ミッチェルとか最近届いたCDを聴き直した。
 「タカイ〜」は10000文字書いて、完成度は105%に。まだ終わらない。佳境だ。

 海外のオークションで、入札していたものが落札できた。嬉しい。無事に荷物が届くと良いな。日本のヤフーのオークションでは、1000回くらい取引をしたが1度もトラブルはない。ネットオークションは素敵なシステムだと思う。海外の銀行へも、ネットで振り込めるようになったら、もっと嬉しい。数年のうちに実現してほしい。
 先週、青の6号を運転しようと思ったら、バッテリィが上がっていた。充電しても駄目なので、寿命らしい。2度めだ。もう10年になるから、しかたがないか。ネットで探したら、純正でも凄く安いところがあったので、そこで購入してみた。今日届いたのでさっそく交換。スペアタイヤなどを降ろさないといけないので、けっこう大仕事だ。しかし、ボロボロとエンジンが回ると嬉しい。久しぶりにひたひたと走らせて楽しかった。新しいポルシェはまた目が丸くなっていて可愛いけれど、でも水冷だから今ひとつ惹かれない。この頃、大型バイクも水冷になっているみたいだ。

 今日はダイエットの話を書こう。べつに、ダイエットをしているわけでもないし、興味があるわけでもない。スバル氏がしょっちゅうダイエットをしていて、いつも「痩せた」と口にするけれど、もしそれが本当なら今頃体重がなくなっているはずだ。世間でも、今こんなダイエット法が大流行、なんて大宣伝しているし、つぎからつぎへと、新しいダイエット法や、食品や、アイテムが売り出されているけれど、そんなにもダイエットの需要があるのは、つまり、大勢の人がダイエットをするためにわざと日頃から太ろうと努力をしているにちがいない。そうでなければ、こんなにダイエットの需要があるはずがないではないか。少なくとも僕の観察では、世間の人がどんどん痩せていく傾向は観察できないので、効率的なダイエット法が発見されるのに比例して、みんながどんどん太っているのだ。
 思うに、太る原因は明らかである。それは食べ過ぎ。地球環境的にも食べ過ぎは好ましくない。だから、食べないようにする、というのが一番簡単なダイエットの王道だと思われるが、この方法があまり話題にならないのが不思議である。まるで、もうそんなダイエットは古い、といわんばかりのものが多い。そのうち、「痩せるなんてもう古い。これからは痩せずにダイエットする時代です」となりそうな勢いに見える。
 器具にお金をかけたり、毎日食べるものや、薬を買ったりしているようだが、そうしないと、そのお金を全部お菓子やケーキにつぎ込んでしまうので、その抑止効果を期待しているのかもしれない。だから、お金をかけるダイエット法が流行るのだろう。カロリィを記録したり、グラフを描くだけで痩せるという話も最近聞いたが、たぶん、ノートが400mトラックくらい大きいのだろう。
 「そんなもので痩せられるものか」という何事にも懐疑的で神経質な人は、そもそも太らないのである。ダイエット産業は、人間の大らかさに支えられている。
 冗談はさておき、ダイエットで最も重要なことは、「何故痩せるのか」「痩せて何をしたいのか」という「痩せる目的」だ。これは、「健康」でも同じ。「何故健康になりたいのか」という疑問を持つべきだと僕は思う。自分の存在価値にそこまで自信を持てることが、僕には驚異である。

【算数】 論理的、数学的、物理的

 推理小説を読んでいると、ときどきこの「論理的」という言葉が出てくる。「論理的にいって、これこれでなければ説明ができません」みたいなふうに使う。「純粋論理によって」みたいな表現もあった。「純粋論理によって導かれた解答」といったふうだ。これは何かというと、「実験や調査などによらず、単に考えただけで」の意味である。警察が足を使い人力をつぎ込んで調査するのに対して、探偵は考えただけで犯人を言い当てる、みたいな感じだ。はっきりいって子供騙しである。個人が考えただけでは証拠不充分なので、たとえ犯人を言い当てていたとしても事件は解決しない。小説やドラマでは犯人が自供したりするのだが、自供しても有罪にはできない。手掛かりを分析し、調査をし、実験をする警察のやり方が真に「論理的」なのだが、物語の中で登場する警察は非常に無能に描かれがちである。
 さて、論理的と似ている言葉に、「数学的」や「物理的」がある。違っているようだが、明解な境界はなく、単に「明らかに」と同じく強調の意味で使われていることがほとんどのように見受けられる。
 論理的は、論理学的な雰囲気があって、AならばB、BならばC、ゆえにAならばC、の三段論法などが頻出する。実は、これは数学的でもある。また、集合論などを持ち出し、「集合論的に」という言い回しも「ちょっと洒落ている」くらいの感じで用いられるようだ。
 一方、「物理的」になると、自然現象として起こる可能性があるのか、というようなときに用いられる。もっと広範囲になると「科学的」、狭い範囲では「力学的」という表現もある。しかし、物理的な証明は、ほとんど論理や数学に則っているので、これも、論理的あるいは数学的といえる。単に個々の命題に物理現象の法則が適用されるだけの違いである。
 推理小説の探偵が披露する推理は、例外なく論理的に不充分であり、そういった可能性がある、という程度の予測でしかない。完璧な論理によって、と書かれているものでも、その可能性が高い、という程度のものだ。


2007年10月09日(火曜日)

【HR】 抽象的な意気込み

 今日も朝は雨だったが、すぐに止んだ。予報では28度だったのに、全然そんなに暑くはならなかった(22℃くらい)。スバル氏がいないので、朝起きたら、パスカルが寝室の前に座って待っていた。さっそく散歩に連れていく。帰ってきても、とても甘えてくる。
 午前中に音楽を聴きながら小説を書く(毎日同じだ)。「タカイ〜」は10000文字書いて、完成度95%まで。100%では終わらないけれど、もう2日もあれば完成しそう。「フラッタ〜」の2校ゲラが到着。見るのは後日。「日経パソコン」の残りの3回分を書いた。推敲は後日。「スカイ・クロラ」がまた重版。映画化のおかげである。北海道へ取材旅行をして雑誌の記事にしたいという素敵な依頼があったが、来月の話で、ちょっとそんなことをしている暇がない。

 アンプの話を少し書こう。アンプを切り換えても、そんなに変わらない。安いアンプに切り換えて聴いても、「なんだ、同じじゃないか」と思える。しかし、高いアンプにもう一度切り換えると、にっこり笑いたくなるほど気持ちが良い。つまり、レベルが下がるときは、差をほとんど感じないのだが、良くなる場合はわかる。悪くなったときも、長く聴き続けていると、やっぱり鈍いな、ぼんやりしているな、と思えてくる。これは、体調と似ている。体調が悪くなっても、すぐには感じない。なんとなく変だなくらいなのだ。ところが調子が戻ると、ああ昨日のあの状態は体調が悪かったのだな、と気づく。体調が良いときは、本当に躰が軽く、やる気も出る。良いアンプの音はこれと同じだ。

 ある作家がこんな話をしていた。「ファンが沢山いても、そのファンが本を読まない人ばかりだと、困るよね」と。そういう場合ってあるのだろうか、と不思議に思ったが、作家がアイドルのように扱われると、ありえないこともないか。出版社なら、「小説が大好きな人が沢山いても、みんなが図書館で本を読んだら、困る」みたいな事情もあるだろう。世の中、虚実さまざまである。コメントは特にない。