2007年07月15日(日曜日)
【国語】 波紋
「慧眼」を「すいがん」と読んでいた、という人から何十通もメールが来た。やっぱりいるんだ。書かなきゃ良かったと反省している。定着するとまずい(責任を感じてしまう)。「独壇場」については、2006年の8/16の国語で書いているので、ご参考まで。
「喧々諤々(けんけんがくがく)」というのも、本当は間違いだが、もうすっかり定着している。これは今年の1/13にそれとなく書いた。
国語でなにかを書くと、「こんなのもありますよ」というメールが沢山届く。
変な詩を書いたり、微妙な諺を書いたりしたので、変な詩を皆さん熱心に作って送ってくれたし、微妙な諺も力作が何百と届いた。漢字の間違った読み方も何十もリストでお送りいただいた。どうもありがとう。でも、コレクションをするつもりはないし、特に関心を持っているわけではない。
逆に、こういったふうに反響があって、波紋が広がると、もうそれ以上書けなくなってしまうのである。
小説でも、アナグラムをいくつか作って書いた。すると、森博嗣はアナグラムが好きなんだ、と思われるようで、メールが沢山届く。そのあと、回文を作って作品に使ったら、回文が好きだと思われてしまった。さらに、これらに触発されて、自分のサイトでアナグラムや回文を楽しんでいます、という方からもメールが来る。
このように影響を与えることは、文章を書く者には、悪くない結果であるけれど、それで周囲が盛り上がったりすると「もうこれは書けない」というふうに感じる。石を池に投げて、綺麗に波紋が広がっていく。みんながやってきてそこへ石をどんどん投げるので、波紋がいっぱい重なって見えなくなる。そこへ次の石を投げ込んでもしかたがない。
まだ誰も石を投げていない静かな水面を探し、綺麗な最初の輪を描く。これがもの書きの本分だろう、と思う。