2007年05月20日(日曜日)

【HR】 打ち返すのは得意だが

 素晴らしい晴天。気温は低くめで非常に清々しい。よく「五月晴れ」というけれど、五月晴れとは、「五月雨(さみだれ)」の合間の晴れ間のことで、6月(旧暦の5月)の梅雨の期間に使う方が相応しい言葉だ。でも、この頃は5月のからっとした晴天に使う場合が多いように思う。
 朝から水やりをし、昨夜工作室で改造したポイントを戻す工事をした。スバル氏が出かけるので駅へ送り、そのついでにホームセンタで鋼材を購入してきた。これを使って続きの工事も。

 HP「浮遊工作室」のカウンタがそろそろ7桁では足りなくなりそうである(あと数ヶ月)。11年かかっていることになる。ずいぶん以前に、このカウンタの数字が自著の発行部数を追い抜くことがあるだろうか、ということを書いたけれど、いつの間にか、カウンタの方が上回っていた。インターネットの普及が著しい、ということか。
 発行部数は、一昨年の秋に700万部突破のパーティを行っていて(このMLAが始まった頃)、ここ数年は、1年にだいたい100万部ずつ増えている。最初の100万部に3年くらいかかったから、1000万部なんて夢のような数字だと思ったけれど、来年くらいにはたぶん超えるだろう。もう充分だと思う。

 数年まえに、「臨機応答・変問自在」という新書を出した。小説関係以外の本ではこれが一番のヒットだった。そのまえがきにも書いてあるのだが、現代人の多くは、「答える」ことには積極的だが、「問う」ことをしない。問題を出されたらそれを解く、という訓練ばかり受けている。子供のときには常に大人に囲まれ、世話を焼かれている。たしかに、それは豊かな環境だとは思う。しかし、自分から問う、自分からテーマを見つける、という能力は育ちにくい。
 文章を書くときにも、テーマが与えられないところで、ゼロから書きだせる人は少ない。創作とは、何を書くのか、ということが一番肝心なのだが、それをじっくり考えるまえに、どこかへヒントを探しにいってしまう。人が語っていること、世の中で最近起こったこと、既に身近にあるもののこと、など、いわば「与えられているもの」に対する感想や意見ならば書ける。しかし、自分で「今何を書くべきか」という発想にはならない。

 ボールを打ち返すバッタ型の人間が多い、ということだろう。つまり、ピッチャ型が少ない。これは、授業でもそうだし、TV番組などでも感じることだ。みんな、問題が出るのを待ちかまえている。リアクションならば得意だ。コメントならば気の利いたことが言える。でも、自分から発するものを持っていない。「質問してね」症候群とでもいうのか。
 多くの仕事は、問題を解決する能力があればやっていける。この才能の方が社会では使いやすい。けれど、たとえば、研究職はこのタイプではものにならない。それから、組織のトップにも立てないだろう。また、あらゆる分野のクリエータも、一流になるためにはオリジナリティの有無が勝敗を分ける。手持ちのネタがゼロであるところから、何を作るのか、何を語るのか、何が問題なのか、何をすべきか、という問いを発することが大切だと思う。
 もちろん、まったくのゼロではない。過去のどこかで自分に飛び込んできた球を打っているのだが、その球がすっかり自分の中で静止し、自分のものになるまで時間をおくことで、表面的には少なくともオリジナリティが生まれるような気もする。

 あまりの爽やかさに、今日も庭園鉄道で一人遊び。楽しい。1周乗るだけで発見が沢山ある。思いつくことが多い。それらを無視しないと2周めが走れない。

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