2007年02月21日(水曜日)

【HR】 速読について

 工事は大工さんが午前中きて、トイレのパネルを張った。でも、材料が途中で切れたそうで、中断。午後は工事がなし。
 「イナイ×イナイ」は今日から1日15%のピッチで手直しをする予定。今日は3時間ほどかけて15%をこなした。執筆よりも手直しの方が体力を消耗する。しばらく大変だ。
 天気が良くて、昼頃はとても暖かかった。庭でパスカルを遊んでやったが、スバル氏が出かけているため、またもどことなく翳りを見せるパスカルである。

 アンプ回路集を読むのは時間がかかる。たとえば「カソードの電圧を前段のプレート電圧と次段のバイアスの和の分だけかさ上げして辻褄を合わせた」という一文があったとき、これをこのまま読むだけならば10秒もかからない。そして、その言葉どおりのことを記憶することもできる。通常は、これを「読んだ」ということが多い。また中には、わからない単語があるから、「カソード」「プレート」「バイアス」などがどんな意味なのかを調べる人もいるだろう。それでも3分くらいで意味を知ることはできる。この段階で、「わかった」という人も多い。けれども、実際には、頭の中でその現象を理解していなければ、この先へは(とくに奥へは)進めないのだ。たとえば、この一文のどれかの単語を隠し、その枠に入る文字を答えさせる試験問題を作って答えさせても、回答者がこの文を知っているかどうかがわかるだけで、その現象を理解できているかどうかは判別できない。

 小説においても、1冊の本を数時間で読む人は、物語を「知った」だけである、と僕は思う。そういう読み方ももちろんあるだろう。僕はそういう読み方をしない、というだけだ。ただし例外的に、短時間で読んでも現象を理解できる天才的な読み手が存在することも僕は知っている。
 普通の小説ならば、最低でも数十時間を要し、数日かけて読む。そこに起こっている現象を理解するためだ。そして、そういうふうにして読んでいると、まったく現象が描かれていない小説が世には存在することに気づく。たぶん、「知る」ことだけを目的に書かれたものだろう。そういう小説は、僕には読む価値がない。
 速読をすることは、何が書かれているのか、ということを「知る」行為である。沢山の文章に目を通さなければならない職業には必要な能力だろう。しかし、早回しで音楽を聴いたり映画を見たり、写真集をぱらぱら漫画のように捲って、「はい、わかりました」というのと同様に、僕は価値を感じない。
 とにかく、何が書いてあるのかをまず知りたい、という気持ちがあるのだろう。それを知ったうえで、じっくりと再読すれば良い、という話も聞く。そうすれば、自分に合っている内容かどうかを早く見極められる。言い換えれば、自分に対してネタバレをしたいわけだ。現に、解説をさきに読む人、内容を知ってから読む人、そちらの方が世の中には多いのである。そういう読み方を否定しているのでは全然ない。僕の小説を早く読むなという意味でもない。人のことは気にならない。僕にはできないし、したくないだけである。

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