2007年02月28日(水曜日)
【HR】 2月のノルマ終わり
7時半起床。面白い夢を見ていたので、起きてから、5分ほどそのことについて考えていた。天気が良いが風が強く、花粉が多い。家の中でもマスクをして過ごす。
「ナンプレファン」は推敲して発送。終わり。「メフィスト」のゲラはまだ見ていない。機関車製作部にレポートをアップした。これで、2月はなんとかすべて乗り切ったことになる。
3月は、「別册文春」と「野性時代」の連載それぞれ1万文字ほどを6日ずつで書いてから、集英社の書き下ろしに20日くらいかかるだろう。ほぼ、これでスケジュールはいっぱいいっぱい。そのほか、4月刊の文庫や、5月刊の講談社ノベルスの初校ゲラが来る。できれば早めに終わって、「クレィドゥ・ザ・スカイ」の手直しにもかかりたい(予想2週間程度)。予断を許さない状況ではあるが、2月よりは幾分ましなのではないか。健康ならば、だが。
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昨夜は、12時近くまで高圧回路のチェックをしていた。手袋をして650Vを測定。また、電圧を見ながらシャーシ内の半固定抵抗器をいくつか調整した。交流電流計(ミリボル)も大いに役に立った。理論どおりで面白い。この6台めのアンプは、今もう鳴っている。今までで一番複雑な回路だったけれど、配線ミスは1箇所もなく、一発で合格だった。今日は朝から、ずっとつけっぱなしで慣らし中。時間がなくて、周波数特性などの本格的な測定はまだしていない。準備中である。
トイレの工事は、大工さんがきて、天井にライト用の穴を開けた。そのあと、設備屋さんが来て、器具の取付けをした。ほぼ完成である。まだ、収納庫の中の棚ができていないが。
事務処理関係では、最後の書類を記入をして、銀行へ発送する準備をした。これが通ったら終わりである。2年かかった。長かったな、と思う(まだ終わっていないが)。
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日も長くなってきたし、暖かくなってきた。夜や朝のガレージでそれがわかる。チョコがだいぶ減ってきた(欲しいという意味ではない)。パスカルのボーロ(カウカウと呼ばれている)がなくなった。スバル氏がそれで大騒ぎしていたが、お菓子くらいなくなっても良いのでは、と僕は思う。軟らかいボールを投げると、空中で頭突き(実際には鼻突き)して、こちらへ返す、という技を最近パスカルは覚えた。成功率は50%くらいだし、気分の良いときしかしないが。今は、その軟らかいボールはクマのぬいぐるみなので、今度、ちゃんとしたボールを買ってあげよう。
【理科】 ボリューム
可変抵抗器のこと。最近では、ツマミのある電化製品が減ってしまったが、かつては、音量などを調節するためにツマミがあった。あのツマミが、可変抵抗器に繋がっていて、回路中で抵抗を変化させることで電気の流れ方をコントロールしていたわけである。一般的には、この部品をボリュームと呼ぶ。「ちょっとボリュームを下げて」などといったりする。
仕組みとしては、ある抵抗値の物体(両側に端子がある)に、もう1本端子を接触させ、それをスライドさせることで、両側の端子との距離を変化させる。近づく端子間の抵抗値は下がり、離れる方では上がる、という具合だ。
ツマミを回す角度と抵抗値の関係は、正比例(線形比例)している方が、電気的なコントロールとしては便利である。ところが、音量に限っては、音を聴く人間の感覚が線形ではない。人間は比較的小さい音では大小の差に敏感で、音が大きくなると逆に鈍感になる。そこで、音量調整に用いるボリュームだけは、抵抗値が小さい領域では変化が緩やかで、抵抗値が大きくなると変化が急になるように作られたものを用いる。人間が聴いたときに、この方がツマミの変化に対して比例して音が変化するように感じられるからである。意外とヒューマニスティックではないか。
2007年02月27日(火曜日)
【HR】 春うらら
7時まえに目が覚めた。春眠暁を覚えず、というが、そんな偉そうなほど早起きでもない。資源ゴミをガレージで4袋作ったので、それを出すためである。スバル氏と一緒にパスカルの散歩を兼ねて、ゴミを持っていった(家から200mくらい)。燃えるゴミも出したし(こちらは門の前に出すだけ)、朝から気持ちが非常に良い。「情熱のゴミ出し」という本を書こうか。
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昨夜も遅くまでアンプの配線をしていたが、今日も午前中はこれの続きをした。だいたい配線は終わった。明日くらいにチェックをしよう。面白い工作だった。
「イナイ〜」の手直しが終了した。ざっと見直して、講談社へ送った。予定よりも1日早い。「ナンプレファン」のエッセィもほぼ書いた。明日推敲して送る予定。「メフィスト」のゲラも届いた。土曜日にK城氏が来ることになったので、それまでに読むつもり。スバル氏がイラストを依頼されていた。
工事は、今日は塗装屋さんが壁を白く塗った。朝から午後3時頃までの作業だった。照明や設備器具の取付けは明日。トイレは明日で完成になるが、お風呂が少し遅れている。そのため、玄関と階段の絨毯の張り替えもそのあとになった(工事で汚れるから)。
今日は、銀行から1つ連絡があった。また書類が1つ通った。これで、残すはあと1銀行だけになった。事務処理課題の進捗は85%に。「不屈の手続き書類」という本を書こうか。
午後から1人で出かけて、郵便局と区役所で用事を済ませて、すぐ帰ってきた。
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郵便局で待っている間、後ろのシートに座っていた、おじいさん2人がこんな話をしていた。
「いやあ、もうこの頃は、ゲートボールの時代は終わったね」
「そうだね、今はみんな、グランドゴルフだ」
「ゲートボールではメンバが揃わないでしょ」
「できる人が少ない」
「できる世代は死んでしまったんだな」
「ところが、老人会でも、この頃の若い人たちは駄目だな」
「どう駄目なんです?」
「自分は年寄りだと思っていない」
「おお、そうですか」
「まだ、じいさんじゃないって顔だ」
「ほう……」
「グランドゴルフもなかなか若い世代が入ってこないから将来が心配だよ」
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とても暖かい。車に乗っていると、窓を開けて走れる。しかし、花粉が飛んでいるので、困る。オープンカーなんか乗る人間の気がしれない。今、くしゃみが出たが、花粉のせいだと思う。
機関車製作部のレポートももう1カ月以上出ていないので、急きょ書くことにした。小説よりも忙しい。
【算数】 タンジェント
屋根や坂道などがどれくらい急であるかを表すパラメータには、「勾配」と「角度」がある。
勾配は、垂直に移動する距離÷水平に移動する距離で表されることが多い。たとえば、1/10の上り坂といえば、水平に1m進んだら10cm高くなる勾配のことである。1/10といえば、もうかなりの急な坂道といえる。自転車で上るのは骨が折れるだろう。普通の鉄道ではとうてい上れない(鉄道の限界はこの半分以下)。屋根の勾配を1/2以上取ると、雨漏りの心配がほとんどない、というような話も聞くが、1/2の勾配というと、立つのも恐いくらい急な斜面である。
さて、では角度と勾配の関係はどうなっているのか。もちろん、勾配が決まれば角度が決まる。両者は1対1に対応している。角度から勾配を求める三角関数がタンジェント(tan)である。逆に、勾配から角度を求めるのが、アークタンジェント(atan、arctan、あるいはtan -1)というタンジェントの逆関数。アークは逆関数のことで、電弧(気体中を流れる電気の火花)の意もある。「アークタンジェント」なんて、なんとなく格好が良い響きだ(非数学的)。
1/10の勾配というのは、角度にしたらどれくらいだろうか? 紙を使わないで、頭の中で計算してみよう。
半径が10の円を思い浮かべる。半径を2辺とし、もう1辺の長さが1の二等辺三角形を考える。この円の円周は2π×10なので約60である。だから、この三角形が切り取る中心角は、360度の1/60になるから、360/60=6で、6度くらいだとわかる。これくらい細長い三角形であれば、弧と弦の差は小さいので、この計算でわりと正確に求められる。
ちなみに、30度の坂というのは、勾配でいうといくつか。これは、この直角三角形が、正三角形の半分で、ピタゴラスの定理から、3辺の比が2:√3:1であるので、1÷1.73=0.58と求められる。ほぼ60%くらいのもの凄い勾配になるわけだ。30度もある坂道はほとんどない。険しい山道くらいだし、このくらいになると、普通は階段にする。
2007年02月26日(月曜日)
【HR】 パスカルのごめんなさい
朝は少し冷えたが、天気が良く、とても暖かい日になった。
パスカルは、スバル氏がいると、スバル氏にべったりである。どうも観察していると、たとえば、僕と庭で遊ぶときは、池の水を飲むと注意されるし、線路の上を走っても注意される。そういうことがスバル氏の場合にはない。おまけに、外で遊んだあと、部屋の中に入るとボーロがもらえるのである。どうしてご褒美がもらえるのか意味がわからないが、そういうハンディが僕にはあるようだ。
スバル氏と僕が両方いるときは、僕の顔をちらちらと見ながら、池の水も飲まないし、線路の上も走らない。しかし、僕が家の中に入ると、平気で悪いことをしている。「こら」と叱ると、ごめんなさいをする。ごめんなさいは、謝る対象の人の後ろに回り、左の脇に背中側から鼻を入れるのである。これがごめんなさいの意味で、誰に対しても同じことをする。けっして、右の脇には来ない。
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「イナイ〜」の手直しは95%まで。明日終わって、講談社へ送ったら、終わりである。もうちょっと残しているのは、明日の仕事までしちゃいけませんよ、という悪魔の囁きが聞こえるからだ(天使か?)。
アンプは5台になった。今回作ったものは、ちょっとした習作で、本命ではない。もう既に6台めを作っているが、こちらは、ちょっとした本命機である。今までで一番回路が複雑で配線が難しい。先週来た新しいスピーカもだんだん慣れてきて、良い音を出しつつある。
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トイレの工事は、塗装屋さんが1人来て、下地処理を一日かかって丁寧にしていた。そういえば、今回の工事で、家の壁の中にあったダクトスペースを見られたわけだが、湿気のコントロールが素晴らしいのか、まったく材木が悪くなっていなかった。汚れもかびも、虫食いもまったくない。外壁がかなり傷んでいることとは対照的だ。直せばまだ長く住めそうな気がする。
石原都知事の発言には日頃からちょっといかがかと思うものが多々あるけれど、「建築家が知事になるのは、ちょっと恐い(だったか危険だったか?)」との発言はまったく同感である。僕が知っている建築家で、政治に向く人間は一人もいない。これは、もしかして建築家を褒めているのかな。ちなみに、僕は政治家にも建築家にも向かない人間である。
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面白いかもしれない質疑。
読者C「西之園萌絵は、「●●」の中では、「▲▲」は嫌いだと書かれていました。それが、「■■」では、そうでもないように見えます。彼女の嗜好が変わったということでしょうか?」
僕「たぶん、そうでしょう」
読者D「西之園萌絵は、「●●」ではショートヘアだと書いてあったのに、「■■」では、肩に髪が届くと書かれています。先生は、ショートヘアというものをご存じですか?」
僕「知りませんでした。ショートヘアって、伸びない髪のことなのですね」
【国語】 行間を読む
「行間を読む」とは、文字面に現れていない筆者の真意などをくみとる、と辞書にあった。
小説には、すべてが書かれているわけではない。たとえば、
彼女はソファに座って本を読んでいた。
ドアがノックされたので、開けにいくと、そこに彼が立っていた。
彼女は、彼に抱きついた。
といった文章があったとき、ソファに座ったまま、ドアが開けられるのか、と疑問に思う人はいない。たぶん、彼女は立ち上がったのである。また、彼に抱きついたとき、まだ本を持っているとは考えにくい。どこかに本を置いたのではないか、という想像もできる。ドアの鍵はかかっていたのか、とか、いろいろ気になることもある。
こういった想像を「行間を読む」と表現する人がいるが、それはもちろん誤用である。文章を長くしようと思えば、動作をことごとく漏らさず書くと、簡単に倍の長さにできる。しかし、それは文字が倍になっただけで、「内容」が多くなったわけではない。
ただし、ミステリィなどの場合には、誰がドアの鍵を開けたのか、本はどこに置かれたのか、などが、あとあと問題になることもあるし、厳密な表現が大事な場合もある。また、そういった記述に騙されないぞ、と注意して読む人は、「おかしい、本を持ったまま抱きつくなんて、これは本ものの彼女ではないのだ」みたいに疑ったりする。まあ、楽しい人生でけっこうなことだと僕は思います(無責任!)。
2007年02月25日(日曜日)
【HR】 花粉くらい我慢しよう
花粉が多いようだ。見えないけど。スバル氏は「私には見える」とおっしゃっている。二人ともかなり具合が悪い。こんな状況では、まともに仕事をするのがやっとである。下手をすると、普通に仕事しかできなかったりする。ゆったりと遊ぶ気になれない。
そういうわけで、しかたなく、朝からさっさと仕事を片づけた。「イナイ〜」は手直しが80%まで。あと2日で終わるだろう。体調が悪い方が、邪念なく仕事ができるような気がする。
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昼頃、スバル氏と一緒に書店とショッピングセンタへ。自分用のマスクも買った。スバル氏は冷蔵庫を見ていたが、どうもドアの数が多すぎる。大きくても、ドアは少ないシンプルなデザインのものを探している。ドアが多いと、僕なんかは、どこにあるのか探して、結局全部のドアを開けてしまうだろう。だから、彼女の意見に賛成だ。
帰ってきてから、パスカルのお腹をお湯で濡らしたタオルで拭いてやった。工事のため、パスカルだけがお風呂に入れなくなっている(広い洗い場がないので洗えないの意)。
午後は工作室で、シャーシに穴を開けていた。これだけ沢山の工具があるのに、いつも「あ、これがあったらもっと楽なのに」という思いをする。あるもので代用できないことはないのだが、力がいったり、時間がかかったり、仕上がりが綺麗にいかなかったり、という僅かな不具合。
機関車の部品も届いた。こちらは5年越しくらいのもの。ようやく組み立てられるパーツが揃ったかもしれないけれど、既に何がどこに仕舞ってあったかも定かでない。発掘しなければならない。
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昨夜は12時頃まで、基板にパーツをハンダづけしていた。ハンダは鉛が含有されているのが普通だったが、この頃は入っていないものも売っている。でも、僕は入っているものを使う。銀ロウ付けのロウもカドミウムが入っているものを使っている。どちらも有毒な物質だが、入ったものの方が、はるかに使い勝手が良いからだ。しかし、こうなると自分が作ったものを気楽に人にあげることができない。その人がどこかに捨てたりすると困ったことになるからだ。使っていても、躰に悪いということはまずない。作業のあとに手を洗うくらいで充分である。
考えてみると、僕が子供の頃には、アスベストも普通に手で触っていたし、いろいろ危険なものが身の回りにあった。科学が進歩したおかげで、どんどん社会はクリーンにはなっている。川なんか綺麗になったし、空気も綺麗になった。あの当時は本当にどこもかしこも汚かったし臭かった、と思い出す。今は緑も多いし、食べものも安全だし、素晴らしい。花粉くらいで文句はいえない。
雑誌を10冊ほど買ってきた。洋雑誌も2冊届いた。これを読むのが楽しみ。チョコもだいぶ減った(楽観)。落花生も食べ尽くした(誇張)。
【図工】 落書きの完成度
絵を描く人は、きっとこんな経験があるだろう。授業中や会議中、そんななんでもないとき、ちょっとした紙の端に描いた小さな絵が、もの凄く上手く描けてしまう。そこで、あとからもう一度同じように描いてみても、どうしてもその完成度が再現できない。見て描いても駄目なのである。
下描きのときには良かったのに、ペンを入れてしまうと駄目になる、と嘆く人も多い。「私はペン入れが下手なのだ」と思い込んでしまう人もいる。心当たりはないだろうか。
これは、リラックスして描いた方が上手く描ける、といった現象ではない。そうではなく、描いている人の頭脳の処理の問題なのだ。2006年の6/16にデッサンについて書いたが、あれと同じ現象である。
つまり、落書きしたときに、描いた絵を見ながら、頭脳の中で理想的な絵が初めて完成する。その主観的な目で見ているうちは、落書きと微妙に違うものが、どうしてもイメージと違って見える。その落書きを鏡で映して見てみると良い。きっと受けつけられないだろう。それに、傍から見るとそんなに差がないのに、僅かな違いが誇張されて感じられる。
ただ、この「誇張されて感じる」能力は大事だ。自分が求めるものにフォーカスが合うと、ほんの少しの違いが増幅される。その一時、その方面にだけ、解像度が増す、という能力が人間にはある。問題は、その解像度や増幅度が、自分ではなかなか自由にコントロールできない点にあるわけだ。自分の子供、家のペットが可愛く見えるのも、この能力のためである。
同じものを何度も描くと、だんだん客観的になれる。1つだけ描いて、「これだ」と思っているうちは、主観的であることが多く、何日か経って頭が冷めてくると、「そうでもないな」と幻滅することになる。そして、この幻滅する能力が、客観的な目であり、これまた重要なものである。
2007年02月24日(土曜日)
【HR】 質問に答えない理由
晴れたが風が強く、久しぶりに少し寒い。ちょっと外で遊ぶ気にはなれなかった。土曜日だが、大工さんが来て、トイレの壁を仕上げていった。トイレはあとはペンキ塗りと器具の据え付けだけになった。
午前中に、研究打合せのため4時間ほど外出。土曜日は車が多いからあまり走りたくない。花粉が多く、目も喉もなんとなく引っかかる感じ。調子が悪い。
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午後は、ガレージの2階で店を広げて、アンプの工作。これは5台めになる。午前中に宅配便で部品も届いて、タイミング良く間に合った。真空管のアンプばかり作っているが、真空管って、60年以上も昔に開発されたものばかりで、本当にレトロなテクノロジィである。僕が生まれるまえのものなのだ。
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昨日は、ネタバレの話を書いたが、今日はメールでの質問について書いておこう。毎日100通以上、多いときは300通くらいメールをいただく。基本的に、すべて読んでいるし、たいていはリプライしている。ただ、「質問には原則として答えない」ということは、HPの注意書きにもあるとおり。その理由を以下に挙げる。
1)個別に答えていたらキリがないし、そんな時間がない。
2)質問の大半は、既にその回答をどこかに書いた、という内容であるため、自著のネタバレになるし、また、そうでなくても、将来書くことのネタバレになるかもしれない。
3)それでも、ときどきこれくらいは答えてあげようか、という親切心を起こすことがあって、答えることが絶対にないわけではない。ところが、そういった僕の返事を、HPなどで公開される方が稀にいる。森博嗣がこんなことを書いてきたと、人に見せるわけだ。当然ながら、これはマナー違反だろうと思われるし、もちろん、正式に抗議をしても良いとさえ思える。個人の日記であっても、限られた人だけが読むようなサークル内であっても、(法的にも)許される行為ではないだろう。
こんなわけで、基本的に質問には答えない、ということにもう何年もまえに決めたのである。ご理解をいただきたい。
【社会】 冤罪
2003年の鹿児島県議の選挙における公選法違反の無罪判決は凄かった。滅多にない大事件だと思われる。そもそも、これだけの間違いがあったのは何故なのか、このような大事になるまえに、どうして正せなかったのか、と不思議に思う(だからこそ珍しいのだが)。どこに問題があったのだろうか、もっともっと掘り下げて調べてもらいたいし、こういったことが起こらない仕組みを作ってもらいたい。今後さらに注目していきたい。
よく冤罪というものがマスコミで話題になる。無実の罪を問われること、濡れ衣を着せられることである。多いのは、自白を強要されて、その場では刑が確定し、のちになって、実は違うのだと訴える場合である。しかし、「疑わしきは罰せず」というのが司法の大原則である。そのハードルを越えて罰するためには、証拠を集め、それなりの「納得」あるいは「確信」があったはずなのだ。
冤罪裁判で無罪が確定したときに、それで良かった良かった、となるのはわかるけれど、本当は、けっして良くはない。無罪だったのならば、何故罪に問われたのか、つまり、無実の者に濡れ衣を着せた側の罪は裁かれないのか、という疑問を抱く。もちろん、わざとではなく「間違い」だったわけではあるが、それでも過失という罪にはならないのか。
今回の鹿児島県議の例は、そんなに昔の話でもないので、いろいろ調べることができるだろう。この事件に限っていえば、内情をよく知らない(全然ニュース通でもない)僕なんかが見ていても、「単なる間違いでした」ではすまされないレベルだと感じる。
2007年02月23日(金曜日)
【HR】 ネタバレについて
今日もパスカルのために早起き。雨が降っていたが、ちょうど小降りだったので少しだけ連れて出た。昨日のうちに準備をした燃えるゴミも出せた。10時頃に、壁材のボードを大きなトラックが運んできた。ちょうど同時に注文していたアンプの部品も届き、クロネコの人が「これ、重いですよ。気をつけて下さい」と言って玄関まで運んでくれた。いつもは、ゲートで受け取るのだが、僕ではとても運べない重量だった。
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工事は11時くらいから始まった。今日はトイレの中にある戸棚の引き戸を建具屋さんが据え付けにきた。設計士さんも見にきた。お昼過ぎにこれは終了。
昨日直した水洗タンクの調子は良い。もっと直すところがないか、と家中を探したくなる。アマゾンで、「魅惑の水道工事」なんて本を探して買ってしまいそうだ。気をつけないと。
5台めのアンプを作り始めているが、部品がまだ一部ない。あちこち探したら、オークションで発見。すぐに落札した。この頃、こういうことがとても多い。お店よりもオークションの方が品揃えが良いなんてはずはないけれど、たぶん、コンビニみたいに、必要そうなものが出展される、という傾向はあるかもしれない。
「イナイ〜」の手直しは45%まで。順調に進んでいる。
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既に何度も方々で書いていることだけれど、メールでも、「どこまでネタバレなのか?」「ネタバレについてどう思うか?」というようなことを尋ねられる機会が多い。まとめて書いておく。端的に書くので、多少表現が極端になるが、そこは緩やかに受け取ってもらいたい。
1)作品の内容について、読まなければわからない事柄を書くことは、すべてネタバレである。犯人が誰か、どんなトリックか、以外にも、誰が登場するか、登場しないか、最後にどんでん返しがある、最後に感動シーンがある、最後で突き放される、などなど、なにを書いても、全部ネタバレである。ただし例外は、作者自身が(予告などで)書くもの。作者が書いたものは、なにものもネタバレではない。
2)読者の一部(推定1割ほど)は、ネタを知りたくない。しかし、大多数(推定9割)はネタバレを望んでいる。ネタバレを読みたい。だから、「ネタバレがあるので未読者は注意を」と警告しても、未読者の9割の人はそれを読む。そしてこれは、作者(あるいは出版社)に対する妨害(あるいは少なくとも失礼な)行為である。
3)ネタバレは、ミステリィだけに限ったものではないが、他ジャンルでは、ネタバレを望まない読者の割合がさらに少なくなるだけである(推定3%程度か。ちなみに僕はここに含まれる)。
4)現在のインターネットは、参加者も増加し、ネタバレという概念さえ知らない人が沢山いる。どうせ誰も読まないと思って書いているのだろう、とも思えるが、検索すれば、目につく機会はある。情報が分散しているため、大きな影響はないように考えられるけれど、インターネットの普及と、ミステリィブームの衰退が、時期的に完全に一致しているのは非常に興味深いところだ。ネタバレを嫌う作品、1割の読者が愛してやまない作品は、ネットワークによって潰される危険性を最初から抱えていた、といえる。
5)さて、以上を踏まえて、個人的には、ネタバレによって作品の本質的な価値が低下するとは、少なくとも僕は考えていない。ただ、絶対に嫌だという(1割の)読者は、他人の声・批評を一切聞かない、といった防衛をするしかない(当然、読者としての僕はそうしている)。
小説を読んで、僕は何度かびっくりした。知らずに読んで良かったな、とつくづく感じた。「これはミステリィだ」「これはミステリィではない」と書くことが、既に最大のネタバレであり、結局、「ミステリィ」という言葉自体が、ミステリィにとって最大の障害あるいは抑制であることはまちがいない。
【理科】 トランス
交流の電圧を変換する装置のこと(ほかの目的のものもあるが)。同じ鉄芯にコイルが複数巻きつけられている。1つのコイルに、たとえば100V(ボルト)の交流を流すと、別のコイルで、その巻き数に応じて、欲しい電圧を取り出すことができる。電線としては繋がっていないが、電気が一度磁気に変わり、またそれを電気として取り出すわけだ。
ラジカセの電源など、コンセントの近くに黒くて重い固まりがあるものがある。あそこで電圧を12Vや6Vに下げるトランスが入っている。鉄芯の量が多いほど電力が確保できるので、トランスはとても重い部品である。かつては、小型軽量化の泣きどころだった(だから、機械の外に出して、見かけ上軽く見せていたわけである)。
この頃では、トランスを使わない電圧変換回路が登場したので、電源部が非常に軽くなった。発熱も少なくなった。これは簡単にいうと、電気を切ったり入れたりを繰り返すスイッチングを素早く行って、電圧をコントロールする回路である。コンセントに差す部分が軽くて小さいものは、これである。
電信柱にも高いところにトランスが載っているものがある。あそこで、電圧を100Vに落としてから、家庭へ導いている。
交流が便利なのは、トランスによって電圧が変えられるからだ。直流ではこれができない。ちなみに、トランスによって、入力よりも高い電圧も簡単に取り出せるけれど、その分、流れる電流が減って、トータルの電力は変わらない(実際には、熱などで損失する分だけ電力は低下する)
トランスは、transformerの略。意識朦朧となるのはtrance状態。頭の中で磁場が揺れ動いているのではない。
2007年02月22日(木曜日)
【HR】 初心と天の邪鬼
スバル氏がいないので、7時まえに目が覚めた。パスカルが、わんと一度だけ吠えたからだ。いつもよりも1時間寝不足だが、気分はそんなに悪くない。早朝なのでダウンを着込んで、まずパスカルの散歩に出かける。それほど、寒くはなかった。梅がもう咲いている。
昨夜、大きなトラックが来て、ダンボール箱を7つも庭に置いていった。今日は設備屋さんが1人朝から来て、その箱を開けて、トイレのアイテムを取り付けていった。この作業は午前中で終了。
ガレージで「イナイ×イナイ」を30%まで見た。それから、昨夜届いた「ジャーロ」のゲラを2時間ほどかけて確認した。今月中にする仕事は、「イナイ〜」のほかには、あと「ナンプレファン」の連載エッセィ。これは今回で最終回。
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低周波発振器が届いたので、アンプに入力して試してみたい。スピーカは音を聴くだけだが、アンプは、負荷の抵抗を入れて出力電圧を測りたい。オシロで波形を見ても良いけれど、交流電圧計が欲しいところ。さっそく注文した。今はこういった測定器がとことん安い。かつては何十万円もしたのに、今は新品でも数万円、中古なら数千円からある(もちろん古いもので充分)。大学では高い金を払って買っていたわけだが、それらの廃棄品が中古市場に出回っているのだろうか。
大きなスピーカが届いた。ペアで50kg以上ある。運び込むのが大変だった。今夜鳴らす予定。
オーディオについては、いつかちょっとした総括をしなければならないだろう。はっきりいって、はまっていると思う。たしか11月末からだから、まだ3カ月なのに、既に100万円ほどつぎ込んだ。スバル氏がリフォームに要した金額の10分の1以下ではあるけれど、予想外の急展開ではある。
ひとついえるとすれば、僕は初心者になるのがこのうえなく好きなのだ。いろいろなジャンルに入門して、のめり込んでいくときが一番楽しい。自分にも機材にも投資をする期間である。しかし、一般にこの段階が最も金も時間も労力もかかるから、そんなに沢山のものに対して初心者にはなれない。ある程度は制限(吟味)しないと困ったことになる。
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スバル氏が使っていたトイレは、水洗タンクが僅かに漏れて音がしていたので、元栓を閉めていることが多かった。これは、タンク内の丸いゴムボール(これが栓になる)が劣化しているためだと予測していた。今日、ちょっと中を開けてみて、それを確かめた。サイズも測り、ホームセンタでパーツを買ってきて、直しておいた。スバル氏がいないときにかぎって、このように家庭的になるのは、天の邪鬼である。
【算数】 今日の計算
トイレの水洗タンクの中のゴムボールは直径が65mmだった。また、そのボールが填る穴は直径が45mmだった。さて、このボールが穴に填った状態のとき、下に何mm出ているだろうか(ボールの高さがどれだけになるか)。
タンクの中は、上からしか覗けないので、定規をタンクの中に入れ、穴に当てて大きさを測るのがやっと。穴に入ったボールの高さを直接測ることはできない。
この計算を紙を使わずに解いてみよう。
ボールの半径は65/2mm、穴の半径は45/2mm。したがって、ボールが穴に填った状態における、穴からボールの中心までの直線距離は、ピタゴラスの定理によって、(65/2)2 - (45/2)2の平方根である。この計算は、(65-45)(65+45)/4と分解できるから、20×110/4=2200/4=550と暗算できる。
550が、23の2乗である529と、24の2乗である576の真ん中なので、550の平方根はだいたい23.5mmくらいだ。だから、穴に入っているのは、65/2-23.5=9mmだと概算できる。電卓を使うような箇所はない。
日常生活において、ピタゴラスの定理ほど役に立つ数学法則はないのではないか。ちなみに、今回は、a2-b2=(a-b)(a+b)という因数分解も用いた。役に立つじゃん!(誇張)
2007年02月21日(水曜日)
【HR】 速読について
工事は大工さんが午前中きて、トイレのパネルを張った。でも、材料が途中で切れたそうで、中断。午後は工事がなし。
「イナイ×イナイ」は今日から1日15%のピッチで手直しをする予定。今日は3時間ほどかけて15%をこなした。執筆よりも手直しの方が体力を消耗する。しばらく大変だ。
天気が良くて、昼頃はとても暖かかった。庭でパスカルを遊んでやったが、スバル氏が出かけているため、またもどことなく翳りを見せるパスカルである。
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アンプ回路集を読むのは時間がかかる。たとえば「カソードの電圧を前段のプレート電圧と次段のバイアスの和の分だけかさ上げして辻褄を合わせた」という一文があったとき、これをこのまま読むだけならば10秒もかからない。そして、その言葉どおりのことを記憶することもできる。通常は、これを「読んだ」ということが多い。また中には、わからない単語があるから、「カソード」「プレート」「バイアス」などがどんな意味なのかを調べる人もいるだろう。それでも3分くらいで意味を知ることはできる。この段階で、「わかった」という人も多い。けれども、実際には、頭の中でその現象を理解していなければ、この先へは(とくに奥へは)進めないのだ。たとえば、この一文のどれかの単語を隠し、その枠に入る文字を答えさせる試験問題を作って答えさせても、回答者がこの文を知っているかどうかがわかるだけで、その現象を理解できているかどうかは判別できない。
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小説においても、1冊の本を数時間で読む人は、物語を「知った」だけである、と僕は思う。そういう読み方ももちろんあるだろう。僕はそういう読み方をしない、というだけだ。ただし例外的に、短時間で読んでも現象を理解できる天才的な読み手が存在することも僕は知っている。
普通の小説ならば、最低でも数十時間を要し、数日かけて読む。そこに起こっている現象を理解するためだ。そして、そういうふうにして読んでいると、まったく現象が描かれていない小説が世には存在することに気づく。たぶん、「知る」ことだけを目的に書かれたものだろう。そういう小説は、僕には読む価値がない。
速読をすることは、何が書かれているのか、ということを「知る」行為である。沢山の文章に目を通さなければならない職業には必要な能力だろう。しかし、早回しで音楽を聴いたり映画を見たり、写真集をぱらぱら漫画のように捲って、「はい、わかりました」というのと同様に、僕は価値を感じない。
とにかく、何が書いてあるのかをまず知りたい、という気持ちがあるのだろう。それを知ったうえで、じっくりと再読すれば良い、という話も聞く。そうすれば、自分に合っている内容かどうかを早く見極められる。言い換えれば、自分に対してネタバレをしたいわけだ。現に、解説をさきに読む人、内容を知ってから読む人、そちらの方が世の中には多いのである。そういう読み方を否定しているのでは全然ない。僕の小説を早く読むなという意味でもない。人のことは気にならない。僕にはできないし、したくないだけである。
【国語】 文の止め方
文章は、最後は「。」で終わる。僕の場合は、ほとんど例外がない。「……」だけで終わることもない。
ただ、「。」の前が、動詞の終止形にならないことは、比較的多い。形容詞、形容動詞、助動詞なども含めて、普通に終わる文章ではない終わり方で、一番メジャなのは、名詞で終わらせるものだろう。これは、「体言止め」と呼んで良いのかどうか、専門外でよくわからない(体言止めは短歌か俳句の用語ではなかったかな)。僕は、非常に多い方だと思う。「である」とか「だ」が何度も重なると、リズムが変になるし、あるいは形容詞の「い」が重なる、過去形だと「た」が重なる、といったことを避ける目的もある。最後が名詞だと、なんとなく軽快さが出る。
さらに、ときどき使うのだが、動詞や形容動詞を終止形や命令形以外で終わらせるもの。これは、ほかの作家も使うのかどうか知らない。たとえば、「踊り。」とか、「綺麗な。」みたいに文章を終わらせる手法である。逆にリズムを断ち切る効果がある、と思って使っている。
話し言葉では、普通にある。また、日本語には、こういった自由度があるようにも感じる。校閲が必ず直そうとするから、そのつど抵抗しなければならないが。
2007年02月20日(火曜日)
【HR】 高い音が聞こえる
昨日から少し喉が痛い。たぶん花粉のせい。スバル氏からマスクを1つもらった。
午前中に「メフィスト」の短編の手直しをした。編集部へ発送。終わり。予定より1日早い。「日経パソコン」の4枚めのイラストもペン入れをした。僕はもう終わり。早くも届いた第35回のゲラもチェック。3月刊の文庫の最終チェックもファックスとメールで済ませた。
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お昼頃、書斎の天井の蛍光灯が切れたので、明るいうちに取り替えようと、さっそくホームセンタへ直行。ついでに、木材6本とセメント7袋を買ってきた。午後はデッキで1時間ほど大工仕事。
僕は、人にはあまり聞こえない高い音が聞こえるようだ。「何の音?」と大騒ぎしても、周囲の誰もが「え、音? 聞こえないけど」と首を傾げることが多い。たとえば、研究室で高音が気になって、どこで鳴っているのか探したことがある。音が大きくなる方へ歩くと、距離で30m以上離れている同じフロアの部屋から出ているようだった。ノックをしたら、中に人がいた。「何ですか?」という顔をしている。結局、ラジカセのテープが最後まで回り切ってもボタンが戻らず、唸っている音だった。こういうことが、もう何度かある。
1週間くらいまえから、小さな高い音が気になりだした。家のどこかで鳴っているようだ。書斎で一番大きく聞こえる。最初は自作のアンプのどれかだと思ったが、全部電源を抜いても音は消えない。庭に出ても、母屋にいても聞こえる。隣の家かもしれない。スバル氏や長女M氏に話しても、まるで聞こえないと言う。まあ、そんなに気になるほどでもないから、そのまま放っておいた。聞こえないときもあるのだ。しかし今日、蛍光灯を交換したら止まった。それ以後は聞こえない。パスカルには聞こえていたのではないか。
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今日も事務書類を書いた。進捗は70%に。もう少しだ。トイレの工事は新しい壁ができつつある。今日は大工さんが1人で作業をしていた。いろいろな器具が箱に入って届いている。お風呂の方は今のところなにも変化はない。
チョコは、スバル氏:僕=3:1くらいの割合で消費している。彼女はチョコを噛むのが好きだと話していた。僕は絶対に噛まない。この差が量に現れているものと分析される。性格や人生にも現れているかもしれない。
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こんな質疑はいかがか。面白さがわかってもらえるだろうか。
読者A「『〜』を読みました。とても面白かったのですが、1箇所だけ気になるところがあります。●ページの、●●という記述ですが、これは正確ではありません。正しくは▲▲です。ご存じなかったのでしょうか?」
僕「僕は知っていますが、西之園萌絵は知らなかったみたいですね」
読者B「私は最近、『〜』という映画を見て本当に感動しました。あれは素晴らしいと思いました。ところで、先生は最近なにか素晴らしいなと思ったものはありますか?」
僕「ありません。あ、でも、その映画は見ましたよ」
【社会】 宅配システム
子供の頃、初めて手紙を出したときには、ちょっと感動したことを覚えている。なにしろ、5円(ハガキはこの値段だった)で、日本中どこへでも届く、というシステムなのだ。凄いではないか。具体的にいうと、人間の「善意」や「信頼」が凄いと思った。これだけのことをシステムとして確立しているわけで、人間社会というのは素晴らしいなと感じた。
ずっと、荷物を送るには郵便局へ行っていた。これは公共機関だからできることだろう、と認識していた。ところが、最近になって、民間の会社が荷物や書類を届けてくれるようになった。料金もほとんど変わらない。大変な労力と精度が要求されるわけだが、破綻なくこの仕事が成り立っている様子だ。
引越や大きな荷物であれば、昔から運送業はあったけれど、ほんの小さな荷物をほんのちょっとの料金で運んでくれる仕事はなかった。そういったものを赤の他人に任せられるようになった、この相互信頼こそが社会の豊かさというか、安定性の1つといえるだろう。
本当に便利になった。それに、大勢の人間が動く必要がなくなった分、確実に省エネでもある。自然環境にも良いだろう。大袈裟ではなく、この種のプライベートな物流システムと、インターネットなどのネットワークが、社会を駆動させる両軸となるものである。
人間を宅配してくれるシステムがあると嬉しい。電話をして、どこどこへというと、玄関まで迎えに来てくれる。いろいろな交通手段をすべて手配して、世界中どこへでも、目的地まで案内してくれる、というものだ。携帯電話に切符も入るし、GPSも入るわけだから、まもなく可能になりそうだ。
2007年02月19日(月曜日)
【HR】 すぐに実験がしたくなる
朝から大工さんが来て、トイレの壁を作っている。室内の壁は片側が青で反対側が黄色だ。
午前中に小説の仕事を片付けた。「メフィスト」用の短編は130%で終了。書き終わった。明日手直しをする予定。今月はあとは、「イナイ×イナイ」の手直しが残っている。これは木曜日から始めよう。「日経パソコン」のイラストをスバル氏が1枚仕上げたので発送。僕は3枚めの下描きも済ませた。
お昼頃には暖かくなった。デッキでベニヤを切って大工仕事を少し。また小さな家を作っている。体調が万全ではないので、1時間くらいで切り上げた。
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アンプの本がアマゾンから2冊届いて、午後はこれらを読んだ。もの凄く情報量が多いため、すぐには吸収できないが、どこに何が書かれているかは、だいたい把握した。4つほど疑問点があったが、どれもちゃんと書かれていた。知識(あるいは理解)が補完されるのは、このうえない満足感があるものだ。
アンプに限らないが、性能が非常に定性的なものを買おうとするとき、どんな情報が参考になるだろうか。他人がいろいろ評価している言葉は、「素晴らしい」とか「今ひとつ」とか、いろいろだが、品物の評価ではなく、ほとんどは単にその人間の状態にすぎない。もちろん、カタログデータの数字は真実だろうけれど、似たり寄ったりだし、そこに現れないもの(実にそれが大きい)が知りたい。身も蓋もない話をすれば、一番頼りになるのは「値段」である。高いものは、売り手にそれなりの自信があるわけだし、商品として成り立っている、という実情もあるように観察される(もっとも、比例は全然していないけれど)。
アンプならば、自分の気に入った音が出るものに出会ったら、似た回路のものを狙えば、かなり近づける気がする。今はそう考えている。また、小説ならば、気に入ったものに出会ったら、同じ作者のものを狙う、という人は比較的多いだろう。これもつまり、回路が同じというのと似ている。ただ、小説は、面白いものが高い値段で売られていないため、値段が目安にならないのが残念だ。ツールとコンテンツを同レベルで考えてはいけないか……。
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そういうわけで、もう5台めのアンプの準備を始めている。スピーカ・ユニットは、とりあえず3セット注文した。高いものを1つだけ買う気にはなれなかったので、4万円、6万円、13万円の3セットをとりあえず試してみようと思う。あと、低周波発振器を手に入れて、オシロスコープ(こちらは2台持っている)で測定をしてみよう。耳で聴いたものと、客観的データがどれくらい相関があるものだろうか。
どうも、実験みたいになってきた。もしかしてこれは、はまっている状態だろうか……。
【理科】 コウモリ
今月号の「無線と実験」にコウモリの超音波探知に関することが書かれていて、非常に興味深かった。コウモリのある種は、雑音を取り除くために、受信をスイッチングして、発信の後ある時間内だけ音を聴く、ということだ。もともと、ある周波数域だけを聴き取るフィルタリング機能があるものがいることは知っていたのだが、時間制限には驚いた。
通常は、障害物を避けるために必要な2mくらいの範囲内だけを聴き取り、獲物らしき反射波を捉えると、その距離にフォーカスを合わせて、聴く時間を微調整するそうだ。精巧な装置である。
難しい話なので、これ以上は書かない。初歩的なことだけ以下に少々。
コウモリは高い周波数の音(超音波)を発して、その反射波を聴きながら飛んでいる。海中を進む潜水艦も、同様の仕組みで音波によるソナーを使っている。また、同じことを電波でやったものがレーダである。だから、「コウモリはレーダを持っている」みたいな表現をときどき見かける。
非常に特殊なシステムだと思われがちだが、たとえば暗闇の中を懐中電灯を持って歩くとき、人間は、懐中電灯が発した電磁波の反射波を目で捉えているので、これはもうレーダと同じ原理といえる。電波が音波になっただけのことで、コウモリの頭脳ではもちろん、映像としてそれが処理されているだろう(波の直進性や解像度の違いはあるが)。だから、超音波を「聴いて」飛んでいるというよりは、超音波を「見て」飛んでいる、と表現した方がイメージが近いだろう。
2007年02月18日(日曜日)
【HR】 道具の持ち味
日曜日なので工事がお休み。雨はあがったあと、日が差して植物は嬉しいだろう。花粉が飛んでいるらしく、この3日ほど少し頭痛がしている。これだけ緑豊かな時代なのだから、花粉くらいしかたがないか。そういえば、先日、野菜作りをしている人たちが、「自然が育てた」と話していた。農業っていうのは、僕は工業と同じ程度に人工的だと思うが、まあ譲歩して、「養殖」くらい、といえるのか。
午前中は小説の仕事をした。「メフィスト」用短編は6000文字書いて9000文字まで。もともとの予測では、これで完成度90%になるが、全然終わりそうにない。あと2日かかるかも。完成予定は水曜日。「MLA5」の2校も見終わって、電話で伝えて校了。
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お昼頃、スバル氏とホームセンタへ行って、木材を調達してきた。いつも最後は一緒にレジを通るのだが、だいたい、2:1で彼女の買いものの方が高い。そのあと、スーパへ行った。100円ショップがあったので、覗いてみたら、先日買ったのと同じストリッパを売っていた。僕はそれを2500円で買ったので、違いが知りたくなり、後学のために105円で購入した。2つあっても邪魔にはならない道具ではある。
帰ってきてから確かめてみたら、やはり全然違っていた。実際にコードを剥いてみたが、切り口も汚い。なにより、グリップが固いし、調節機構もない。見た目はまったく同じなのに、こんなにも悪く作れるものか、と感心した。きっと、しばらく使えばもっと差が出るだろう。道具だけは安物を買ってはいけない。ただ、道具がないよりは、安くてもあった方が良い。だから、両方持っていると便利かもしれない。それに、安い方しか知らなければ、こんなものだ、で済んでしまうかもしれない。
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わりと暖かかったので、デッキで大工仕事を少しだけした。風はあるが冷たくはない。でも、マスクをしていた方が良かったか。頭が痛くならないうちに、短時間で切り上げた。
食事も惜しんでチョコを食べている(誇張)。頭脳労働には甘いものが良い、と聞くが、僕はそのとおりだと思う。煙草を吸っていた頃は、煙草さえあれば考えられると信じていたけれど、煙草をやめたら、べつにどうということはなかった。甘いものを食べると、たしかに瞬発力は出るような感じだが、食べ続けるわけにもいかないし、食べ過ぎると、気持ちが悪くなる点が煙草に比べるとデメリット。やはり、持続性からいえば、苦いコーヒーが一番パフォーマンスが良くないだろうか。僕は、滋養強壮剤などを一切飲んだことがないのでわからないが、スバル氏はあれは効くと言っている。絵を描く人は、わりとあの手のものを試す傾向があるようだ。絵は、頭ではなく躰で描いているのだろうか。
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また、回路集を2冊アマゾンで注文してしまった。回路を眺めて考えるのが面白い。へたなパズルよりもずっと知的である。最先端の電子回路は僕にはわからないし、ほとんど最適のものが世に出ている気がするが、真空管やトランジスタになると、単純だし、部品のばらつきをいかにカバーするのか、という工夫もあって、そこが楽しい。ちょうど、ガソリンエンジンよりも、蒸気エンジンの方が趣味的に面白い、というのと類似している。個人の技術力で楽しめるレベルだということ。
ただ、これまでに4つのアンプを作ったけれど、その差は、さきほどのストリッパほど歴然ではない。一番安いものと一番高いものは、部品代だけでも5倍くらい差があるけれど、聴いてもほぼ同じ音がする(パワーは違うけれど)。音を増幅するという機能に遜色はない。ところが、安い方で一曲聴いているうちに、「ああ、駄目だな」と気づいて、良い音で聴き直したくなるのだ。一度心地良さを知ってしまうと戻れない、という点では、アンプもまさに道具である。
【国語】 筆記具
これは【国語】というよりも【かきとり】だろう。小学校ではみんな、鉛筆を使って字を書いている。シャープペンは使っても良いのかどうか知らない。僕が子供のときは、シャープペンもボールペンも、学校へ持ってくることさえ禁止されていた。中学生になったら、使うのは自由になったけれど、それは自分のノートに書く場合だけだ。高校生、大学生になっても、テストのときの筆記具はやはり鉛筆なのである。マークシートなどは鉛筆しか認められていない。これは少し不思議である。
大学院の試験で、中国から来ていた留学生が万年筆で答案用紙に書き込んでいたことがあった。力学の試験なので、つまり数学や物理のように計算式ばかりのものだった。試験後に彼にきいたら、中国では正式の試験では鉛筆は禁止されている、インクでなければあとで改竄されるからだ、とのことだった。
たしかにそのとおりである。あらゆる正式書類が鉛筆の記入では認められない。書き間違えた部分にも捺印するくらいである。それなのに、人生を左右するような試験の答案が鉛筆で書かれているのは不安である、というのが彼の気持ちだったようだ。
小説家も、原稿用紙に万年筆で直接書く、というのがスタンダードだったらしい(よく知らない)。
もともと、墨と筆で書いていた時代には、鉛筆のように簡単に消せなかったわけである。長い手紙を巻物に書くとき、どうして間違えずに書けたのだろう、と不思議に思う。頭の使い方が違っていたことは確かである。
2007年02月17日(土曜日)
【HR】 彼女の人生
土曜日だけれど今日も工事。まだまだ序盤。トイレは壁にパネルを大工さんが張っていた。お風呂については、ジェットのポンプの取付け場所で少々議論があった。2つのトイレが工事中のため、今までほとんど使っていなかった洗面所を使いだしたところ、そこで水漏れが発見され、ここも使用中止になった。その修理もついでにお願いすることになった。トイレはまだ2つ使用可能だが、顔を洗う場所は、台所以外では、1階の1箇所になった。もう2晩、狭いユニットバスに入っているが、ホテルに泊まったみたいで、エキセントリックである。
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昨夜、トイレのドアの鍵がかかってしまった。中のボタンを押したまま閉めてしまったからだ。外から開けるには、ドアノブの小さな穴になにか差し入れて押さなければならない。穴は直径が2mmくらいだった。スバル氏がそれを見て、隣の自分の部屋へ行き、棒状のものを持ってきたのだが、プラスティックの細長いもので、せいぜい箸くらいの太さだった。これの先をねじ込もうとしたのだ。入らないことは一目瞭然であったけれど、「なんというアバウトな人だ」とは口にしなかった。それはもう知っている。ただ呆れて黙って見ていたら、彼女は「駄目だ、開かない」と言った。
そんなことは自明である。そして、現状は「開かない」のではなく、単に棒が穴に「入らない」だけのことだ。この状況の表現として、「開かない」はいかにも不適切。しかし、面白かったので笑いが止まらない。
工作室へ行き、細い六角レンチを持って戻ってきたところ、スバル氏は、今度は別のプラスティックの爪楊枝みたいなものを穴に差し入れようとしていた。「無理をしない方が良い」と忠告しようと思ったが、それでロックが外れて開いてしまった。スバル氏は「へへんだ」と威張っていた。おそらく、彼女のこれまでの人生は、このようなものだったのだろう。
今日は、リフォームの設計者の人と話をしていて、本州の富士山と北海道の大雪山の頂上を糸で真っ直ぐに結んだら、その糸よりも東京タワーは高いか低いか、というクイズが話題になった。ちょっと計算するとわかるが、その糸は東京近辺では完全に地下を通ることになる。それを聞いてスバル氏は、「ようするに、いうほど富士山も高くないってことやね」と納得されていた。そんなふうに受け取られると、僕としてはなんとなく心外というか、そこはかとなくわだかまりを感じるのであるが、彼女のこれまでの人生は、このようなものだったのだろう。
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「メフィスト」用の短編は最初の2000文字を書いた。あと2日で書いて、1日で直す、というスケジュールでどうかな、と考えている。「日経パソコン」のイラストはスバル氏が1枚めを描いている。
アマゾンから届いたCD4枚のうち1枚は開封されていて、ケースにも傷があった。間違って中古品を送ってきたようだ。しかし、聴いてみたら問題はなかった。もし品切れだったら、中古でも買っていただろうし、CDって劣化しないから良いな。まったくノークレーム。懐かしいアルバムを、新しいアンプで聴くと、非常に発見が多い。
【算数】 地球の丸さ
海岸に立ったとき、水平線が遠くに見える。あの見えているエッジまでの距離はどれくらいか。つまり見えるのは、いったいどのくらいの範囲なのだろうか。もし、地面が平面だったら、空気が澄み切っていて、屈折がなければ、どこまでも見えるわけだが、地球は球体なので、それによる限界がある。水平線が円弧に見えるのもこのためだ。
目の高さを h m、水平線までの距離を x mとすると、h : x = x : 6000000 という大まかな等式が成り立つ。ここでは、地球の半径を6000kmとしている。高さh、底辺xの細長い直角三角形が、地球の中心と水平線までの弧で作られる三角形とほぼ相似であるところから導かれる。これを解くと、x=√(6000000h)である。xの単位をkmに直すと、ルートの中の0が6つ消えるので、およそhの平方根に2.4をかけた値となる。hが1mならば2.4km。だから海岸線に立って見える範囲はおおよそ3kmである。また、高さが16mの灯台の上からならば、約10km先まで見える。せいぜいこれくらいの距離しか見えていないわけだ。
富士山の頂上に立つと、約3700mの高さとして、150km先まで見える計算になる。逆に富士山から150km以上離れた海上では、既に富士山は水平線に隠れて見なくなる。ただ、相手にも高さがあると、距離は伸びる。たとえば、富士山と同じ高さの山が300km離れたところにあると、ちょうどお互いの頂上がぎりぎり見える(中央付近にほんのちょっと高い土地があったらもう見えなくなるが)。300km以上離れていると、お互いの頂上に立っても見えない。
2007年02月16日(金曜日)
【HR】 薄い本
昨日ほどではないけれど、風が冷たい。
今日も大工さんをはじめ職人さんが沢山来て一日工事だった。ホビィ・ルームの地下へも潜って配管工事が行われた。パスカルはもう工事の音にも慣れたのか、ほとんど気にしていない様子。ガレージでは音はまったく聞こえないので、騒音にはならないから、仕事には影響がない。遮音性が良い家である。おかげでスピーカをがんがん鳴らせる(こっちの方が煩い?)。
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「MLA5」の2校ゲラが届いたので、指摘があった部分だけをチェックした。「日経パソコン」のイラストは2回分だけ下描きをして、ペン入れもできた。「メフィスト」用の短編はタイトルを決めてファイルを作ったところまで。明日から書こう。そういえば、小説以外の本の執筆依頼がまたあった。残念ながら、2008年前半までスケジュールがタイトで、今提案があって、たとえそれに興味を持てても、書けるのは2008年後半、本にできるのは2009年になる。それくらい将来的な話として提案してもらえれば良いのだけれど、だいたいは非常に切迫した依頼が多く、歩調が合わない。
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「魔的」の見本が中央公論新社から届いた。スバル氏が「薄いだけで、本って格好良いね」と言っていた。そのとおりだ。僕が若い頃に読んだ本はみんなこのプロポーションだった。いつから本が分厚くなってしまったのだろうか。もし、明日くらいに死ぬと予感できたら、自著の中ではこの本だったらページを数分捲るかもしれない。
自分の本を薄くしようと思ったのは、S&Mシリーズ後半のことで、実行したのはVシリーズからだ。なかなか上手くできなかった。最近少しだけ実りつつある。
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最初の頃から僕の本を読んでくれている読者は、「この頃、森博嗣は薄い」と言うだろう。ちなみに、「まえの作品を読んでいないとわかりにくい」とも言うかもしれない。しかし、大半の読者は、今の薄い本から手に取るわけで、そういう方からは、「昔の本は2段組で読みにくい」とときどき言われる。また、「これ(昔の本)を最初に読んだ人たちは、意味がわからなかったのではないか」と心配される。
ようするに、どんな順番で読もうが、自分が知った順番がその人の歴史になるだけのことだ。忘れられるものもあるけれど、情報はしだいに増え、積み重なる。この、だんだん情報が多くなることを、「わかってくる」というのである。「四季」から読んだ人は「F」をサブストーリィだと認識する。客観的にはそちらが正しい認識だろう。
自分が基準である。それはまちがいない。そして、その基準が他人には適用できないことを、きっと作る側は知っている。知っていないと、書いたものが商品にならない。読者は一人ではないからだ。でも、受ける側は知らなくても良い。読むときはいつも作者も読者も一人だ。ここの差は感じるところである。
薄いものが良い、厚いものが悪い、という話ではまったくない。何ページであっても、1つの作品である。芥川の本は概して薄い。夢野の名作はとんでもなく分厚い。それぞれに持ち味がある。今の僕が、薄いスマートなものが書きたい「季節」だ、というだけである。
【社会】 任期について
役職には通常「任期」がある。同じ人間が権力を長く持っているとろくなことがない、必ず密かに悪いことをする、という歴史から学んだ結果生まれた仕組みだろうか。独裁的なリーダも、自動的に交代する制度があれば、選挙で新しい人間を選出できる。人が代われば、前任者がこっそり私腹を肥やしていたことなども発覚する機会があるわけで、逆にこれが抑止力となる効果が期待できる。その期間だけ集中して頑張ることもできるから、短期的には良いかもしれない。
一方では、長期的な展望に立った計画、ずっとさきにしか結果が現れないような地道な努力が、任期があることによって二の次になる、というデメリットも考えられる。あるいは、官僚などに散見される傾向だが、自分の任期だけ無難に終わってほしい、大胆な変革はしたくない、といった「消極的持続」ともいえる弊害もあるだろう。
委員会などで役目を押しつけられることが多いが、どうせ1年なのだから、と諦めて引き受ける。とにかくわからないから大変だ。前任者は「もう自分の仕事ではない」という顔である。「次の人のために」などと考えもしない。もし5年くらい任期があるのなら、自分のためにでもちゃんと記録し、整理もするところだが、1年ならば、やりっぱなしで知らん顔もできる。役人の世界にある任期は、こんなふうだろうな、と想像できる。
ある程度仕事に慣れることで初めて合理化できるものもある。長く続けるなら自分のために工夫もする。しかし、少しでも早く交代したい、という気持ちの方が圧倒的に強いから、誰も言い出さない。
結論として、難しいところである。大まかにいえば、変化が大きく、発展し、攻めるときには、任期は長い方が良い。また、変化が少なく、維持をし、守るときには、任期は短い方が良い。ようするに、任期をポジションや状況によって変えるようなシステムが良いのではないか、というくらいか。
2007年02月15日(木曜日)
【HR】 解体工事
晴れたけれど、風が冷たい。あ、まだまだ2月なんだぞ、まけてはおれん、みたいな意地をみせた日。
朝から、工事の人たちが8人くらい来て、1階のトイレと2階のお風呂の解体作業。玄関からそれぞれの現場までの通路に養生シートを張ってから始まった。トイレは、隣の倉庫との間の壁を取り壊した。手早い作業で、午前中で終わってしまった。トイレの便器や風呂桶などもすべて運び出した。スバル氏はちゃっかりまた絨毯を1枚ついでに捨ててもらっていた。
僕がいつも使っている2つのトイレがなくなってしまったので、主としてスバル氏が使っている2つのどちらかをしばらく使わなくてはならない。お風呂も小さい方を使う。僕はそちらで入ったことが一度もないので、楽しみだ。
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大きな音がするから、パスカルは最初は怖がっていたが、工事が終わる頃には、職人さんに遊んで遊んでと尻尾を振っていた。全然人を怖がらない犬だ。ストレスを溜めないタイプにちがいない。
オフの予定だったが、「日経パソコン」4回分の文章を推敲して発送した。イラストは、まだこれから。
仕事が一息(ナノレベルのほんの一息だが)ついたので、書店へ行って、雑誌を何冊か購入してきた。それらを午後はゆっくりと読んだ。飛行機関係では、重さが200gというジェットエンジンが発売になった。ドイツ製だ。値段は37万円だったか、大きいものと変わりないが、凄い時代になったものである。真空管関係では、執筆陣が高齢の人が多く、大丈夫なのか、と記事を読んでいて感じた。鉄道模型は既に世代が交代している。ラジコン飛行機も代わりつつある。オーディオはまだ第一世代で、これからなのかもしれない(よく知らずに印象を書いている)。
ほぼ1年まえに注文した機関車が、イギリスからやっと届いた。初めてのメーカだったので、本当に送ってくるだろうか、と心配だった。とても嬉しい。それで、またすぐ次の注文をしてしまった。さきのことを見越して買うという悪い癖がついてしまう。アマゾンでもまたCDを4枚注文した。「在庫あり」だけを選ぶことにしたので、スムーズにことが運ぶ(2日後には届きそう)。
よしもとさんの作品は昨日読み終えた。前半を読んだだけで凄いと書いたが、後半の方がもっと凄かった。新アンプは、ますます音が良くなってきて大満足。こうなると、やはりスピーカが欲しい。
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今日は、もう菜の花が咲いているのを見た。名古屋は1月に半日だけ雪が降ったけれど、東京は降っていない気がする(降ったっけ?)。
でも、油断はできない。今日は少し寒かったし。寒いととたんに動くのが億劫になる。パスカルはさすがに寒さに強い。寒い方が遠くまで歩けるみたいだ。夜は工作室を暖かくして、なにか作ろう。
【理科】 感電
今の子供の周りには、豆電球やモータといったものがあるだろうか?
僕が小さいときには、それらが普通にあった。小学校で実験に使ったものだったり、子供の雑誌の付録だったり、あるいは文房具屋さんで買ってきたものだったり。男子に限ったことではない。女子も豆電球くらいは持っていた。
乾電池があっても、現在の子供たちは、おもちゃや器具にそれを入れる以外に使い道がない。乾電池の両側にリード線をつけて豆電球を光らせることは、電気というものに触れることに等しい。
最近のことだが、「そんなことをしたら感電しませんか?」と言う大人がいたので驚いた。人間が感じるのは30Vくらいから上である。たとえば、自動車のバッテリ(12V)の両極をショートさせると、激しく火花が散って、燃えだしたり爆発したり非常に危険だけれど、その両極を手で触っても感電はしない。素手に触ってもまったく安全だ。ドライバを持っている方が危ない。ドリルや電動ノコを使うときは軍手をしている方が危ない、というのと似ている。
中学のときだったか、友達とイオンクラフトを作って遊んだことがある。壊れたTVから高電圧を導いて飛ばした。危険な遊びなので、今の中学生は絶対にやらせてもらえないだろう。アルミホイルで作った10cmくらいの大きさのUFOに高電圧をかけると、放電によって空気が動き、その風でふわふわと浮かび上がるのである。ご存じの人は年輩者だけだろうか。
感電したことがない、という人は世の中にいないと思う。冬に自動車のドアを触ったときなどに起こる静電気は感電である。あの静電気の電圧はもの凄く高い(何千、何万Vにもなる)。経験から言わせてもらうと、感電はあれよりもっとじわっと来る。非常に嫌なものである(嫌で済めば良いが)。ただ、電池を10本直列にしても感電などしない。数ボルトなら、両極を一度に舌でなめると、ぴりっとくる程度だ。
モータと豆電球と電池くらいは、子供に与えた方が良いように思う。長いエナメル線があったら、もっと良い。感電はしないが「電気を感じる」ことはできるだろう。
2007年02月14日(水曜日)
【HR】 雨の日は大人しく
今日は酷い嵐で大雨になるとの予報だった。スバル氏がいないので、パスカルの世話が僕の役目だ。朝7時半に目が覚めた。パスカルは寝室のドアの外で座って待っていた。地面は濡れているけれど、幸いまだあまり降り出していなかったので、すぐに散歩に連れていった。
午前中に「ZOKUDAM」の手直しを4時間ほどかけて最後までやってしまった。雑誌に掲載される近況も書いて、「ジャーロ」編集部へ発送。お終い。そのほか、3月刊の2冊の文庫「人間は考えるFになる」と「MLA5」について、細かいチェックなどいろいろ。そろそろ4月刊の本の仕事に作業が移る。執筆は、明日のノルマまで今日こなしたことになるので、明日1日はオフにして、明後日から再開しよう。
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午後は、リビングでパスカルを撫でながら読書。こういう日もある。パスカルは犬のくせにほとんど猫のようにべったり甘えてくる。ちょっとありえないくらい甘えん坊だ。
明日から、またトイレとお風呂が工事になるので、自分の担当のものだけ少し片づけた。10分程度だけれど。15日くらいかかる見込み。玄関と階段の絨毯も張り替えになる。
一昨日くらいからぼつぼつ来ていたが、今日も宅配便が沢山届いた。冷蔵庫にもう入らない。食べれば良いのだが……。関係ないが、今日は落花生を殻を剥いて20個くらい食べた。その殻を入れるために、ケンタッキィのカーネル・サンダースの大きなカップを使っている。ときどき、このようにディテールを書くのも真実っぽく見せるコツかなっと思って。
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お昼頃、雨が小降りだったので、小振りなパスカルを連れていった。正確には、小太りなパスカルだった。家のすぐ近くにお地蔵さんがあるのだが、それが先日交通事故で倒されて割れてしまったらしい。しばらくなかった。修復されて戻ってきたが、接着剤でひっつけられているだけで、ひびの跡が残っている。タミヤのパテを塗り込んで、表面を仕上げてから、ピースコンを上手く使って、着色すれば、わからなくできるのではないか、と思う人もいるだろう。近所にはいないかもしれない。そういうお地蔵さん修復業みたいな人はいるのではないか。あのままだと、誰かに災難が降り注ぐような気がしないでもない。本当は全然しない。
夜、スバル氏が戻ってきて、いつものとおりパスカルが弾んで喜んだ。このエネルギィで発電したら何ワットくらいだろう。
【算数】 インテグラル
積分のことであるが、一般には、「S」が上下にびよ〜んと伸びた記号の呼び名である。世の中の何割くらいの人が、この記号を読めるだろうか。日本人でも10%以下ではないか、と想像(ギリシャ文字どころではないぞ、と思うが、同じくらいか)。
ちなみに、自動車はインテグラ。ちなみにちなみに、シグマという自動車もある(今はない?)。やっぱり、積分ってプラス志向なのだろうか。
このインテグラルの記号は、コンピュータだと「∫」があるから、この記号をフォントを大きくして表示しても良いけれど、少し傾きが逆な気もするし、微妙だ。LaTeXでもそんなに簡単ではない。活字(ワープロあるいはhtml)にしにくい数式の1つである。
Σ(シグマ)も∫(インテグラル)も、いくつからいくつまで、という数字を上下に書くが、下が初めで、上が終わりの値である。つまり、下から上へ書く。小さい方が下で、大きい方が上(つまり下限と上限)という意味だと思うけれど、考えてみると、これは一般的な概念とは逆だ。普通は、何時から何時までお店が開いている、といった場合などにも、からの数字を上に、までの数字を下に記す。横書きならば問題ないが、縦書きで、「1〜3」とすると、下限が上になり、上限が下になる。
積分にはこんな目立つインテグラルがあるのに、微分は、通常「’(ダッシュ)」だけだったりする。もちろん、微積分どちらにも出てくるdx(ディ・エックス)のdもあるが、これはアルファベットそのまますぎて目立たない(記号だと認識しない人が多いだろう)。インテグラルや積分は「難しい数学」の象徴的存在なのかも……。
2007年02月13日(火曜日)
【HR】 書くことについて少しだけ
またまた暖かい晴天。しかし、午前中は研究打合せのため外出。お昼頃戻ってから、庭で水やりをした。
スバル氏が東京へ出かけたので、またもパスカルが意気消沈モードになっている。遊んでやると、しばらくは相手になるのだが、すぐに遠くを見つめる目になる。心のどこかに穴があいている、という高等な演技だ。
「ZOKUDAM」は予定どおりほぼ100%で書き終わった。明日と明後日で手直しをする。この物語は、今回が最終回。単行本は7月発行予定。次の1週間は「メフィスト」のための短編の執筆。今度は文字数が少ないけれど、新シリーズ最初なので、多少気を遣うかもしれない。
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一般に、「これは作者が楽しんで書いている」「好き勝手に書いている」と読者に思わせるものほど書くのが難しい。一番簡単に書けるのは、僕の場合まちがいないくオーソドックスなミステリィである。最初の頃は、そういう書き方しかできなかった。謎があり解決があるというお決まりの構造が、作る側にしてみると、非常に頼りになる存在といえる。僕には、それがこの上なく楽だった。確固たる伝統的手法があるので、それに則っていれば、おおかた形になる。逆にこれから外れたことをすると、保守的な読者の一部からは一斉に非難されるから、新人作家は辛いかもしれない。僕も、最初のシリーズでは散々言われたものだ。「こんなのはミステリィではない」「余分な部分が多すぎる」と。どうか、新人作家は気にしないように(笑)。読者も編集者も、誰も道を切り開いてはくれない。自分が歩くところが道になるだけだ。
と、偉そうなことを書いているけれど、ただ単にこの仕事を10年間続けてきただけで、特に極めたものがあるわけでもなく、また、極めようとも思っていない。ただ、商品開発的な観点に立てば、素晴らしい商品を見て、それを真似ることは不適切だ。それが素晴らしければ素晴らしいほど、その商品が既に売れているから、もう需要がない。だから、売れない商品を見て、どこが不足しているかを考えた方が良い。あるいは、こんなものがまだ世の中に出ていないのではないか、とひたすら想像することも大事だ。大当たりはしないだろうが、珍しいものを作れば、ある程度は必ず需要がある。
作家になりたい、という方からコンスタントにメールをもらう。アドバイスを求められるが、まったく役には立たないだろう。とにかく、書くしかない。書くことが好きである必要はないし、楽しく書く必要もない。また、書いたものを人から評価されても、評価されなくても、もう書いてしまったのだから、しかたがない。振り返ることは時間の無駄だ。ほとんど場合、無意味だ。これから書くものは、まだ誰も評価をしてくれないものである。歩く先を見ているのは自分だけなのだから、自分の目を信じる以外にない。
いろいろな条件からして、たぶん僕のは特異だと思われる。参考にしない方が良いだろう。
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今日も、銀行へ電話をした。事務処理課題の進捗は65%に。一気に片づけたいところだ。こういった処理というのは、慣れればなんでもないことらしい。しかし、こんなことに慣れたくはない。
パスカルを散歩に連れていった。穏やかな夕方だった。明日は雨らしい。
【国語】 読点の多用
2006年8月21日にも書いている。読点(とうてん)、つまり「、」のこと。
森博嗣は読点を多用する作家である、とよくいわれる。普通の文芸界の文章には、ほとんど読点がない、というものが多いらしい(よく知らない)。ところが、僕は実は、最初に書いた文章を手直しするとき、半分くらいの読点を削除して「ツメて」いるのである。もともとの文章はもっと読点が多いのだ。だから、これでも「まあ、小説だからなあ」と歩み寄っているつもりだった。
読点には2つの目的がある。1つは、読みやすくすること。「今日が暮れる」と書いて、「今、日が暮れる」となかなか一度で読んではもらえない。そんなのどっちに読まれても同じではないか、という人は気にならないことだろうけれど。
もう1つは、たとえば会話文であれば、そこにわずかな「間」がある。一瞬の沈黙がある、ということを表現するために使う。「あの、その、なんていうか、つまり」というような、たどたどしい感じが出せる。もっと長い沈黙の時間を表現するには、「あの……、その……、つまり」みたいなふうになる。これは僕のルールであって、人それぞれだろう。ちなみに、僕は「……」の前に「、」や「。」を打たないし、後にはほぼ必ず「、」か「。」を打つ。口調を少しでも想像できるようにしたい、つまりは再現手法の1つである。「?」などの記号も同じだ。「?」を使わない作家もいる。そういう人は、「僕?」とか「そうでした?」といった台詞を使いにくいだろう。
日本語で英語なみの厳密さを要求するときには、読点を多用する必要があるので、技術的な文章では読点が多くなりがちだ。それは、「?」を使わず、「僕ですか」とか「そうでしたか」と書き直せば伝わる、という理屈と同様であるが、逆にリアリティを損なう。つまり自由度が小さくなる、と僕が考えているだけである。
2007年02月12日(月曜日)
【HR】 石炭を燃やす
天気が良い。風もそんなに強くない。今日は蒸気機関車の運転をしよう。
でも、疲れてしまって、あとで仕事をする気がなくなった、なんてことになるといけないので、まず30分ほどキーボードを叩いて、小説を3000文字書いておく。こういう手堅いところは誰に似たのだろうか。アニメの主人公には絶対いないタイプだ。
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電気機関車で線路の状態を確かめながら一周する。それから、蒸気機関車をガレージから出し、水を入れて、石炭を投入、火をつけた。圧力が上がるまでに20分ほどかかるので、その間にガレージや工作室のゴミ出しをした。なんという几帳面な。
圧力が上がってきたので、点検をして、駆動部に油を差してから、いよいよ運転。久しぶりだが、今日も快調だった。この機関車は、かれこれ3年間ほど働いている。小さいので運転がわりと難しい。コースも急カーブの連続だし、勾配もあって、気を抜くところが少ない。今日は20周くらい走った。いつも、これくらいである。
火を落として掃除をする。最後は、煙突やボイラのパイプの煤を落とし、掃除機で吸い取る。終わったら、お昼を少し過ぎていた。
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パスカルが遠足に行きたいらしいので、スバル氏と長女M氏も一緒に車で公園へ連れていく。休日なので人間が沢山いた。子供も多い。犬も多い。鼻歌をうたいながら、パスカルは1kmほど歩いた。機関車の走行距離よりはずっと少ない。
午後は、コーヒーを飲みながら洋雑誌を読んだり、回路集を見たり、ネットを回ったり、とのんびりした休日だった。次の工作のことを考えたり、メールのリプライを書いたりもした。
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他人に影響を受けないで生きることは不可能である。また、影響を受ける必要も多分にある。僕は、自分のことを特に影響を受けにくい人間だとは思っていないけれど、平均的に見れば、受けない方かもしれない。
「どうしたら他人を気にしないようになれますか」という質問をよくいただくのである。変な質問だ。こういう質問を思いつくこと自体が、人のことを気にしているわけだし、影響されにくい僕としては、質問に応えて気持ちの良いものではない。
多少譲歩して書いておくが、他人を気にしないことは簡単である。人に嫌われれば良い。それだけだ。これが一番単純な対策である。もっといえば、誤解されれば良い。本当の自分をわかってほしいとか、なんとか人に好かれたい、と思っているうちは、絶対に人の影響を受けるだろう。
嫌われたり、誤解されたりするのはちょっと困る、という場合もあるかもしれない。それが普通である。しかし世の中、人間は沢山いるのだ。大勢に嫌われても、誰かがきっと歩み寄ってくれるだろう。大勢に誤解されても、きっと誰かが理解してくれる。生きているうちは孤立しているかもしれないが、死んだあとの未来には誰かが認めてくれるかもしれない。まあ、そんなふうに考えて、あまり気にしないことだ。気になること自体は、敏感な証拠であって、むしろ良い状況だと思おう。ただ、少々「のんき」になることがよろしいかと。
【社会】 多数決の欠点
民主主義は、基本的には大勢の意見を平等に扱って方向性を決める。しかし、以前にも書いたことだが、この多数決が、必ずしも正しい道を選ばないことがある。
たとえば、国を挙げて戦争へと突き進んだときだって、それは大多数が賛成をしたことだった。独裁者を選んだのも大衆である。「騙されていたのだ」というのは、あとになってわかることだ。
大多数の人が事実を知らない、あるいは理解できない、しかし早急に判断しなければならない、といった問題もある。何十年も未来のことであれば、大多数の人には事実上無関係だ。一部の地域にだけ害があり、他の地域には利があるようなものは、どんどん推し進められてしまうのだろうか。今は無害であるけれど、将来大きな損失を被るような選択をしてしまう可能性はないだろうか。
こういった場合に、できるかぎり情報を公開し、正確なデータを示し、少しでも大勢の関心を深め、理解を求めた上で採決をすることが理想ではある。しかしそれでも、データの示し方や説明のし方に、既に利害が潜むことになるので、けっして簡単ではない。正しい判断が可能な一部の知識人の意見が、無知な大勢によって(多くの場合感情的に)阻止される事例も、日常茶飯事といえるほど多い。
けれども、「このままでは環境が破壊される」というような、今生きている人間には無関係な問題であっても、社会の仕組みの中に少しずつ取り入れられ、国際的にも影響力を持つようなルールが作られるようになった。もちろん、まだ全然充分とはいえないけれど、それでも数十年まえに比べれば格段の進歩といえるものが数多い。
これらの知恵を現代人が持っていることは、昔との大きな相違である。その意味では歴史は繰り返さないだろう。核問題や軍縮についても、同様の知恵が廻ることを望んでいる。
2007年02月11日(日曜日)
【HR】 濃い時間と薄い時間
昨夜は予定どおり6000文字書いて、今日は午前中に3000文字書いたから、「ZOKUDAM」第5話は現在完成度50%。今夜もまた3000文字書くので60%になる予定。あと2日で書き終えて、手直しでさらに2日かける。すべて予定どおり。
よしもとばばなさんの「チエちゃんと私」を昨夜から読んでいる。あと3日くらいかけて読むつもり。今年読む1冊めの小説である。澄み切った水の、さらに上澄みをすくって飲んだ一口、しかしそこに溶けたもののすべてが感じられる、そんな深く淡い味わいで、1行読むごとにつぎつぎと世界が広がっていく。どういう生き方をしていても、こんな作品は書けない。生き方ではなく、感じ方でもなく、見方でもない。どこが違うのだろう? 素晴らしいというか、無二の才能だと思う。昨年僕は小説を2冊しか読まなかったけれど、今年は3冊くらい読んでも良いな、小説も捨てたものではないな、と思わされる作品だ。
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昨日完成した4台めのアンプで、もうCDを10枚以上聴いた。だんだん調子が出て伸びやかな音になってきた。持っている全部のCDを3回ずつくらい聴き直すことになるだろう。やはり、重いだけのことはあって、素晴らしい。そして、本当の「凄さ」とはさりげないものだと再認識できた。スマートなサウンドだ。
お昼頃、スバル氏とホームセンタへ行った。150円の木材を1本買ってきた。これから4つブロックを切り出し、アンプの脚の下に挟もうと思っている。こういうのを「インシュレータ」と呼ぶのだが、売っている専用の製品は何千円も何万円もしたりする。
3000円くらいの回路集を書店で見つけて買ってきた。ここ2週間ほどかけてじっくり読んでいる。沢山のアンプの回路が載っていて、解説もある。いろいろな試行錯誤によって名機と呼ばれるものが生まれ、それが次の世代では定番となっていく。技術が上る階段というのは、だんだん緩やかになるものの、1段1段に込められた希望は、常に等しく大きいものである。
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今日は蒸気機関車の運転をしようかと思っていたけれど、風が強くて少し寒かったので延期した。数年まえの僕ならば、絶対に強行していただろう。遊びに対しても余裕は必要だ。また、遊べないことでいらいらするようでも、遊びがストレスになってしまう。鉄道は比較的いつでもできるが、飛行機は天候の影響を大きく受けるから、若いときは常に風ばかり気にしていた。時間は楽しく過ごしたいものだけれど、楽しみたい気持ちが強すぎると少し思うようにいかなくても苛立ってしまう。かえってもったいないことになる。どんなふうに過ごしても、時間には濃いも薄いなく、同じ時間なのだ。何をしていても、同じ一回きりの人生である。というわけで、悟ったようなことを書いているが、おかげで体調が良くなってきた。工作室の掃除でもしよう……。
【理科】 ヘリコプタの舵
2006年2月19日に、「反動トルク」について書いた。ここで、「ヘリコプタには主翼がないため、後ろにアームを伸ばし、その先で小さなプロペラを横に向けて回し、これで胴体の回転を止めている」と書いた。
もう少しつけ加えるならば、まず、ヘリコプタのロータは大きく、飛行機のプロペラよりも推力が大きい。また、飛行機は通常高速で前進しているから、主翼や尾翼の舵が効く。ヘリコプタは、ロータの軸方向(つまり上)にはそんなに速く動かないから、翼の舵だけで反動トルクを打ち消すことが非効率となる。
最近は2重反転のヘリコプタが増えているようだ。ロータが2機あって、互いに反対に回っているものである。ロータの軸が近くて平行だとぶつかってしまうから、軸を離すか、あるいは角度をつけてロータがお互いに当たらないように噛み合わせる(逆向きで同回転数だからできる)。
近頃のラジコン飛行機の中には、上を向いたままホバリング(空中停止)ができるものがあるけれど、これは翼の舵が非常に大きく、プロペラの風だけで効くように設定されている。通常の飛行機は速度がゼロでは舵がほとんど効かないので、ホバリングしているときの姿勢制御は難しい。
では、ヘリコプタの舵はどこにあるのだろうか? 飛行機にあるような翼の舵は一般にはない。どのような機構で、ホバリング中に姿勢制御をするのだろう?
ヘリコプタの翼は、すなわち回っているロータである(ヘリコプタは「回転翼飛行機」という分類になる)。そして、そのロータに舵の機構がある。実際には、ロータ自体の角度(ピッチ)を変えることで姿勢制御を行う。ロータのピッチを上げれば、揚力が増して上昇する。後ろの小さいロータのピッチによって、左右へ機首の向きを変えられる(ラダーに相当)。
さらに、たとえば、1回転するうちに、ロータが右へ来たときピッチを上げ、左へ来たときにピッチを下げる、といった素早いコントロールを行う。ロータが上から見て左回転していれば、この操作で、実際には飛行機におけるエレベータのアップと同じく、ヘリコプタは機首を持ち上げる。
2007年02月10日(土曜日)
【HR】 アンプとルービックキューブ
生暖かい曇。8時に起きた。
スバル氏が長女M氏と買いものに出かけたので留守番。といっても、たいてい一日中ガレージに一人でいるので、留守番の場合は何が違うのかというと、宅配便が来たら応対しなければならない、という点だけである。
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一昨日の夜から作り始めた10球アンプは、お昼頃に配線が終わった。図体が大きいために、配線はむしろ楽だった。ただ、とにかく重い。向きを少し変えたりするだけでも、ゴムストッパのついた軍手をはめて、周りのものをすべて片づけてから、渾身の力を振り絞って、というくらい大変だった。
回路のチェックは、今回は途中でも何度も行った。それでも、一応最後に2とおりの方法でチェックをした。それから、一部の回路をわざと切り離し、部分的に電圧をかけてチェックをしていった。それもOKだったので、真空管10本を差し入れた。その後も、両手に手袋をして、内部の電圧をチェック。ついに回路をすべてつなげることに。
さらに、また電圧を数十カ所チェック。最高で500Vくらいかかっているので、非常に危険な作業である。ギタリストなんか、よく真空管アンプで感電して死ぬでしょう?(昔の話か) 小説家は滅多に感電しないけど。というわけで、なんとか、すべてのテストをパスした。
今、このアンプでスピーカを鳴らしながら、これを書いている。写真は配線途中の内部の様子だが、電気の回路というのは、曼陀羅のように綺麗だ。必然的に同じパターンが繰り返されたり、対称になっていたりする。
つながってさえいれば電気は流れるし、蓋をしてしまえば二度と見ることはない。コードの色なども1色でも充分なのであるが、のちのちのメンテナンスのために、わかりやすく綺麗に作っておく。これは、コンピュータのプログラミングでも同じで、走れば良い、エラーさえ出なければ良い、というような作り方では、のちのち絶対に困る。もちろん、本人は困らないかもしれない。だが、リストが綺麗だということは、すなわち良い仕事であり、だいたいプログラマの腕やレベルがこれでわかる。
一方では、工作室はごちゃごちゃだし、コンピュータの周囲もごちゃごちゃだったりする。作られている作品の美しさは、作り出す人間の外見や作業場所とは無関係であることが多い。否、むしろカオスから生まれるものほど洗練されていることが多いように観察される。
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「ZOKUDAM」は昨夜6000文字を書いた。今日も6000文字を書く。1日20%のノルマで5日で仕上げる予定。
ある出版社から、ルービックキューブの本を書かないかという提案があった。どうしてかな。最近流行っているのだろうか。僕がやったのはもう25年以上まえのことだ。そのときが最初だったので、もちろん攻略本などはないし、周りにできる人間もいない。どんな状態からでも完成させられるようになるのに数日かかった。最終的には、2、3分あればできるようにはなった。動きのパターンを観察すれば理解は早いのだが、それに気づくのに1日以上かかった。しかし、このパズルの最大の面白さは、その構造である。どのようにしてこの動きを物理的に実現したのか、どのようにして発想したのか、またどうやって量産したのか、という点を考える方が、パズル自体よりもずっと頭を使うだろう。現在まったく興味がないので、その仕事はお断りした。
【算数】 箱の厚み
内法と書いて「うちのり」と読む。箱や構造物の内側の大きさのことだ。
たとえば、一辺が2cmの立方体があるとする。この小さなサイコロは、厚さが5mmの板で作られている。すると、内部に残っている空間は、内法1cmの立方体になる。体積でいうと、外側の大きさの8分の1だ。
どんな構造にも、周囲を覆う材料の厚さがある。比較的大きなものを、非常に薄い材料で作れば、内法を意識しなくても、だいたい同じであるが、通常は、たとえば建物だって壁の厚さは無視できない。壁厚は、柱のサイズにプラスα分はあるし、床面積として表示されている面積よりも、実際の床はかなり狭くなっているのが一般的である。
同じ形であれば、辺の長さに対して、体積は3乗で比例するので、たとえば、外側が内側より3割大きければ、1.3の3乗が2.197だから、外側の体積は内側よりも2倍以上大きい。つまり、見かけの半分も中に入らないことになる。魔法瓶などで、思いのほか容量が少ないものがあるのは、このためだ。ちなみに、人間は太っても背は伸びないので、ウエストが3割増しになっても、体重は7割程度しか増加しない(これはジョーク)。
1mの立方体に入る水の重さは1ton(=1000kg)である。普通の家庭のお風呂は、この半分も入らない。さて、この立方体の表面積は6m2である。もし、2.5cmの厚さの鉄で、1ton水が入る容器を作ったとする。鉄の比重は7.8なので、この箱の重さは、0.025×6×7.8=1.17になる。約1.2tonだから、つまり、中に入れる水よりも重くなるわけである。
2007年02月09日(金曜日)
【HR】 壊れた?
昨日と一昨日は体調が悪かった。長編の執筆で疲れたことが原因だと思う(推定)。2日あけたので、だいぶ回復した。今日からまた中編を5日ほどで書く(「ZOKUDAM」の第5話のこと)。2月もぎりぎりだと書いたが、3月になると、連載を4つ片づけてから、また長編の書き下ろしになるし、そして別の長編の手直しもあって、同じくぎりぎり。まあ、こんなに仕事をするのも今のうちだから、せいぜい適度に頑張ろうとは思う。
今日は曇。でも寒くはない。工作室でエアコンをつけて作業をしていたら、暖かくなりすぎて、上着を脱いだくらい。
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昨日も、言葉の定義が違っていることをスバル氏から指摘された。機械がうまく作動しないとき、僕は「壊れた」と言う。スバル氏は、それは壊れたわけではなく「調子が悪いだけだ」と解釈している。「そういうときだってあるわよ」という感じだ。「壊れる」というのは、形が変わってしまい、もとには戻らない、そういうイメージに限定されるらしい。
電化製品が調子が悪くなって、僕が「壊れた」と言って、分解を始めて、そのあと決定的に壊れることを、彼女は恐れているのである。たしかに、結婚以来そういう事例が数多い。僕は直すつもりで分解するのであって、万が一修理ができれば儲けものだと考えている。僕にしてみれば、分解する時点で既に「壊れている」状態なのだから、これ以上悪くはならない、という安心感もあるわけだ。ところが、彼女は、ほとんどの電化製品は僕が分解したことによって壊れた(つまり「壊した」)、と認識しているのである。言葉の解釈によって信頼を失うことがあるから、気をつけたいものである。
そんなわけで、少々調子が悪いことがあっても、彼女は絶対に僕に相談しない。ひた隠しにするのである。そうして騙し騙し使って、もう本当にどうにもならなくなったときに初めて打ち明ける。こちらとしては、もっと初期の段階でどうして相談してくれなかったのか、というものもあった。
たとえば、彼女の部屋の天井にある照明が、スイッチの紐が取れてしまっていて、消えたままになっていた。それで、デスクの上のスタンドだけでもう1年以上活動(読書やイラストの仕事など)しているのである。もし、スイッチが壊れているなら、直結してしまえば、壁のスイッチで操作ができる、と僕は主張したのだが、そんなことをしたら、もっと悪いことが起こる、と彼女は考えているようだ。それは何だろう。天井が落ちてくるとか、照明器具が爆発するとか、そういうことだろうか。まあたしかに、天井が高いので、部屋まで梯子を入れないと工事ができない。運び入れるときに、あちこち当たったりして、致命的な事故が起こる可能性は僕も否定できない。
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今日は、4台めのアンプを作っている。総重量が20kgくらいあるので、ハンドリングが大変である。しかし、アンプというのは、一流のものはもっと何倍も重い。だいたい性能は重さに比例しているらしい。旋盤やボール盤なども重い方が高性能だ。機関車もそうか。違うのは飛行機と自動車だけかな。
【国語】 想像を期待する伝達
簡単なことで迷うことがある。たとえば、「事故に注意する」という表現は正しいのか。それは、道路で事故があったら、それをじっくり見にいくことだろうか。本当は「自分が事故をしないように注意する」の意である。では、事故をしないように、何に注意をすれば良いのか。そこは自分で考えろ、という意味だろうか。いや、注意するのは人間なのだから、「事故をしないように●●さんに注意をする」という記述が正確である、という人もいるだろう。いやいや、それではもともとの意味とやや違っている。注意するものは、やはり起こりうる可能性に対してであろう、ともいえる。
「空き巣に気をつけて下さい」というのは、空き家にしないように気をつけろ、という意味だろうか。「空き巣狙いの泥棒に気をつけて」という意味だとしても、そういう泥棒がどこにいるのかわからないから、気をつけるわけにもいかない。そうではなく、「空き巣ねらいの泥棒が入らないように、気をつける」という意味だが、しかし、結局何に気をつければ良いのか。それは、戸締まりであるとか、それらの防衛手段に気を配ることを意味している。相手がここまで想像することを前提に、最初の言葉が発せられているのだ。
言葉は、もともと相手の想像力を期待した伝達方法である。言葉を知っているとは、この想像による補助・展開ができるという意味だ。できるかぎり想像を必要としない記述もあれば、逆にほとんど想像に任された記述もある。通じるか通じないかの両極があるのではなく、その間のいろいろなレベルで伝達される。
重要なことは、相手にどの程度自分の伝えたかったコンテンツが理解されたかを確認(あるいは自覚)することである。確認できないときは、またも想像するしかない。ただ、「相手の想像」を想像して発信することが大事だ。どうしても、言葉が多くなり、表現がしつこくなるけれど、少なくとも言葉を尽くすことで理解は高まるようではある。これだけが救いだ。
2007年02月08日(木曜日)
【HR】 美容院
スバル氏が某契約のために、僕の収入証明が必要になり、税務署へ行った。この時期は税務署は賑わっているが、運良く駐車ができた。最初はスバル氏が中へ入ったが、途中で「本人でないと、書類が2枚も余分に増えるし、印鑑証明もいるって」と戻ってきたので、僕が中に入って書類を書いた。本人ならば免許証だけで15分ほどで簡単にもらえた。
待っている間に、税金に関するパンフなどを読んで、いろいろ勉強をしてきた。日本がいかに消費税が安いか(これは本当にそうだと思う)、所得税も安いか(こちらは年収1000万以下のデータしか比較されていなかった)、というPRパンフだった。ついでに、いかに駐車場が狭いか、いかに税金の計算が複雑か、というデータを外国と比較してもらいたいものだ。
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そのあと、ラジコン関係の模型屋さんに寄った。「OSの直列4気筒はまだ入荷していませんか?」と尋ねたら、話が通じない。「商品番号はいくつですか?」「規格ナンバは?」と店員は尋ねるのだ。「そうか、天下のOSも、もう通じないのか」と隔世の感である。今、日本で一番有名なエンジンではないかと思われるのだが。「商品番号」でないと認識できないコンピュータみたいな店員ならば、コンピュータを客用に1台置いてもらった方が素敵だ。入荷していれば即買うつもりだったが、結局なかった。
スバル氏を美容院へ送り届けて、僕は帰宅。知らなかったが、美容院というのは4時間もかかるものなのだ。その間、飲まず食わずで何をしているのか、と思わずきいてしまった。パーマであれば6時間くらいかかるよ、なんておっしゃっていた。よくもそんな時間を潰せるものだと感心する。4時間の間に息を引き取る方もいることだろう。
夕方にまたスバル氏を迎えにいった。「5000円くらいかかるの?」ときいたら、「何を言ってるの? 最低でも2万円はかかるよ」とのこと。たとえ2万円をもらえるとしても、4時間も拘束されるのは僕はご免だ。もう35年ほど床屋へ行っていない。男性ならば1時間もかからないけれど、金額はともかく、それだけの時間を得したと思うと大変気持ちが良い。
実は散髪は昨日庭でしてもらった。10分もかからない。4カ月に1回くらいだろうか。髪とか髭とか爪とか、面倒なことである。
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留守番の間に工作は3時間ほどできた。4台めのアンプの部品も夜に届いた。トランスが重い。今度は10球(真空管が10本)である。洋雑誌が届いたので、それを読んだ。パスカルは、散歩のことが心配で心配で、スバル氏がいないと元気がなくなる。
「日経パソコン」の4回分の文章を書いた。イラストはまた後日。
【社会】 投票率が低い方が有利
選挙というのは民主主義の基本なので、公正に行われることが重要である。また、できるだけ投票率が高い方が、多くの人たちの意向を反映したことになるので望ましい。しかし人によっては、「どちらでも良い」というような意見もあるわけで、無理に誰かに絶対に票を入れなければならない、というものでもない。記名をせず、無効票を投じる権利も投票者にはある。こうなると、投票場へ行かなくても同じだ、と考えることも自然であって、投票しないことが無条件に悪い、と断定することはできないだろう。ただ、無関心であるよりは、関心があった方が良いことは確かである。
先日、愛知県の知事選があった。最近では珍しいほど投票率が高く(それでも50%ちょっとだったが)、少々驚いた。投票結果の速報をTVでやっていたが、ある事務局では、「投票率が高かったことについて、どう思いますか?」とのインタビューに答えて、「投票率が高いと、うちには不利です。とても厳しい」と答えていた。番組を見ていた人は、「あれ?」と思ったのではないか。「投票率が高いと私には不利だ」と明言する政治家って、どうなんでしょう? 政治家ってなにかというと失言に対して突っ込まれているけれど、マスコミはこれには突っ込まないのかな、と思った。ただし、正直ではある。僕は、正直なのは悪くないと思っている。
自分が思っていることを正直に言葉にすると大勢から叱られる、という立場が世の中にはあって、そこには僕は近寄りたくない。
2007年02月07日(水曜日)
【HR】 決まりですから
9時頃起きた。よく眠って爽快。「イナイ〜」は昨夜、講談社へ発送。第1原稿は担当編集者だけが読む。その感想を聞いてから手直しをしている。今日は、1日小説の仕事はオフ。といっても、細かいものがいろいろあるのと、ファイルのバックアップなどの作業をした。ときどき必要である。
税理士さんが来て、確定申告の打合せ。昨年の書類をまとめて手渡した。スバル氏はこれでほっとしていた。そのあと、工作室で吹き付け塗装を1時間ほど。それから、パスカルを乗せて、スーパへ買いものに出かける。スバル氏が店にいる間に、僕がパスカルを散歩させていた。
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昨日送った書類がもう届いたらしく、銀行から電話があった。やはり1回では通らず、2箇所ほど直してほしいところがある、とのこと。「すみません、決まりですから」と言うので、「どうしてそんな必要があるのか説明してもらえませんか?」と理由を尋ねたら、「上司に相談します」と一旦電話が切れて、またかかってきた。「今回に限って、これでけっこうです」と言う。そういうわけで、また実印を数人から集めたり、証明書をもらったり、という作業はしなくても良くなった。理由をきいただけで相手が譲歩したことは解せないものの、対応としては悪くない。これが郵便局や役所であれば、「決まりですから」と言ったら最後、もう何を言おうがまったく道理は通じない。そもそも、理由があるから決まりができたのである。理由がないのならば、その決まりだけを押しつけないでもらいたい。そういった臨機応変な処理ができるのが人間の能力であるはず。決まりだけでことが運ぶのならば、受付も係員も不要で、全部コンピュータに任せれば良い。
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夕方はパスカルをシャンプーした。お風呂のリフォームまえ、最後のシャンプーである。スバル氏の腹話術で、パスカルがときどき鼻歌をうたうのだが、「あのメロディは、もとは何?」と彼女にきいたら、「サッカーの応援歌だ」という。全然違うと思う。オリジナルだと思われる。
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暖かいから、植物の芽がもう出始めている。枝も伸びている。暖かいから助かっている生物が多いだろう。もちろん、それで困っている人たちもいる。たとえば、僕は寒いのが嫌いだから「今年は暖冬で嬉しい」と自信を持って書く。しかし、それに対して、「困っている人もいるのですから、そんなことを書いてはいけない」と言ってくる人もいる。多方面に気を配ることは、もちろん悪いことではない。それが「優しさ」だと思っている人も多い。でも、そんなことをいったら、試験に合格して万歳するのは、落ちた人に対してどうなのか。金メダルを取ってパレードするのはどうなのか。そもそも、試験をすること自体がどうか、オリンピックを開催すること自体がどうか、という話になってしまう。僕は、ただ素直に自分が感じたことを書いているだけだ。逆に、「困っている人たちのことが心配です」と書いたところで、困っている人たちを救うことにはならない、と思う。世の中には、その種の「言葉だけの正義」が実に多い。悪いことではないし、それで良いことをしたつもりになっているのも悪くはない。でも、他人のことにまで口を出し始めると、いささか迷惑である。
【理科】 綱引き
摩擦については、2005年の11/17に簡単な説明を書いた。レーシングカーのタイヤについて、沢山メールが来たことを思い出す。
さて、摩擦の大きさは、面に働く力と摩擦係数によってほぼ決まる。摩擦係数は触れ合っている材料によって異なり、また同じ材料でも、表面状態(つるつるかざらざらか)によって変化する。
たとえば鉄道であれば、レールも車輪も鉄であるので、だいたい摩擦係数は同条件だ。機関車の牽引力は動輪がスリップしない限界、すなわち摩擦の大きさで決まるため、機関車の重量で牽引力がほぼ決定すると考えて良い。機関車の車輪を増やして、レールと接する面を多くしても、その分、力が分散して、面に働く応力が小さくなるので、牽引力は変わらない。
機関車2台で力試しのように引っ張り合えば(押し合っても良いが)、重い方が勝つ。重い方がエンジンを止めてブレーキをかけていても、軽い方はこれを動かすことができない。自分がスリップしてしまう。
人間どうしで引っ張り合い(あるいは押し合い)をしても同じだ。靴底などの条件が同じならば、体重が重い方が勝つ。力が強い方が勝つのではない。いくら力が強くても、軽ければ自分が移動してしまう。綱引きというスポーツがあって、あれは、一定の力で引き合うわけではなく、力の入れ方の駆け引きがあるから、簡単に判断はできないけれど、基本的には、体重が重い方が有利であることはまちがいない。
ただし、摩擦には動摩擦と静摩擦があり、動摩擦の方が小さい。すべりだすと摩擦は小さくなる。すべりださないように、動輪の駆動をコントロールすることが機関士の腕の見せどころであるし、綱引きのコツでもあるのだろう。
2007年02月06日(火曜日)
【HR】 書き終わる
8時半起床。寒くない。朝は最近、紅茶を飲む。すぐに2時間ほどで12000文字を書いて「イナイ〜」は112%で終了。手直しは後日。連載のゲラ校正やカバーの確認などもした。重版の連絡も幾つかあった。続いて、「日経パソコン」の4回分の文とイラスト、それから「ジャーロ」の「ZOKUDAM」の最終話の3万文字を1週間で片づける強行スケジュール。その次の1週間が「メフィスト」の短編で、その次の1週間が、「イナイ〜」の手直しで、今月はぎりぎり。
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確定申告のために必要な書類をスバル氏が準備している。明日、税理士さんが来るからだ。それで、僕は銀行の通帳をネットで記帳して、あと自分で記録している買いものリストなどを整理。スバル氏のプリンタを借りて出力した。これに1時間半もかかった。
そのあと、銀行関連の書類を何枚も書いて、発送の準備をした。事務処理課題の進捗は60%ほどになった。明るい見通しである。お昼頃、郵便局まで書留を2つ出しにいった。同じ名前の銀行で、まったく同じ手続きなのだが、書類は全然違っているし、宛先は1つは東京へ、1つは支店へ。そういえば、この銀行から「通帳が2つあるが1つにする手続きをしてほしい」という通知が来ていた。そちらの都合で合併したのに、また書類を書かされるわけだ。もっとも、全部解約するつもりなので、今回の手続きが済めば無関係になる。
スバル氏から払い下げのルート66のネオン時計をガレージの壁に取り付けた。ここだけレトロなコーナ。ごちゃごちゃの工作台では、小さな機関車がほぼ生地完成で、ピースコンで塗装をそろそろする。4台めのアンプもだいたい目星をつけた。ガレージの中で線路を延長したいし、大工仕事も課題が山積み。
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自動車を買ってもマニュアルは読まないし、ナビのマニュアルさえ読まないから、ときどき「お、こんなことができるのか」という発見がある。そのたびに、スバル氏から「マニュアル読みなさいよ」と叱られるのだが、そういうスバル氏も「食洗機の取説ビデオを見る気がしない」とおっしゃっていた。やっぱり見ないのが普通なのではないだろうか。「見れば、もう少し早く、なんなんフィルタがわかったかもしれない」とのこと。マニュアルを作る人は大変だと思うし、なければクレームが来るだろうけれど……。
庭にはチューリップの芽が沢山出てきている。もう寒くならないのだろうか。ちょっと早くないか、と心配。I子さんからいただいたケーキがまだ2つ余っていたので、スバル氏と半分ずつわけて両方食べた。コーヒーメーカは、またネットでカセットを150個購入した。毎日2、3杯飲んでいる。調子が良い。
【算数】 三角測量
土地を測量するときに、三角形に分割して、それぞれの辺の長さをメジャで測って、土地の形や面積を把握する方法が一般的である。測るのは長さだけで、角度は測定しない。この三角測量は、土地が平面である場合には非常に精度が高いが、各ポイントの高さが異なると誤差が生じるので、水準器などを併用して測定を行う。
さて、地球規模の大きさを、この三角測量で調べてみよう。
北極点Nから、赤道上のある点Aまで真っ直ぐに距離を測ると1万kmである。そこから真東へ1万kmを測って点B、さらに東へ1万km測って点C、さらに1万km測って点Dを決める。これに南極点Sを加えて合計6点。これらの点は、隣の点との距離がどこも1万kmであり、近い3点を結ぶ三角形はいずれも正三角形になる。
地球上では、これらの点を結ぶ辺は、どれも直角に交わっている。しかし、正三角形であるので、平面に縮小して書けば、角度は60度になる。
立体になっているわけだから、こういったことが起こる。正三角形が8面ある正八面体を思い浮かべるとわかりやすい。どの点も真上から見ると、たしかに辺は90度で交わっている。それでも、正八面体の辺は1万kmよりも短い。1万kmは円の1/4の弧の長さだからである。
どれくらいの大きさになると、この地球が球である影響が出るだろうか。
たとえば、300mの高さの高層ビルは、地球の半径約6000kmの1/20000である。このビルの100m隣にも同じ高さのビルが建っていたとすると、100mの1/20000ほど上と下で距離が違うことになる。つまり地上で測ったとき100m離れていても、屋上では100mと5mm離れている(100×6000.3÷6000=100.005)。ビルが風で揺れ動く距離の方が何十倍も大きいが。
2007年02月05日(月曜日)
【HR】 達成したくない
起きたら9時だった。爽快。すぐに仕事をした。「イナイ〜」は12000文字を書いて完成度は100%に。もう少しだけ。明日終わる予定。仕事が終わった気分になって、庭でパスカルと遊んだ。とても暖かい。
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スバル氏と銀行とショッピングセンタへ。吹き抜けの広場で小物類が沢山並んでいて、ぼんやりと眺めていたのだが、それは全部チョコレートだった。ようするに、チョコレートとして僕は見ていなかった。スバル氏は、この季節にしか手に入らないアイテムがある、とおっしゃっていた。何だろうか。きかなかったが。
そういえば、昨日アマゾンからCDが1枚だけ届いた。注文したうちの「在庫あり」になっていたもので、これは新発売のもので、どこへ行ってもたいてい買えるものだ。2週間かかった。もう1つはたぶん無理だろう。聞くところによれば、「3〜5日で発送」も「1〜2週間後に発送」も、「手に入るかもしれない」という意味にとっていれば問題がない、とのこと。今日もCDショップで1枚買った。
夕方、「ダ・ヴィンチ」のI子氏が「MLA5」のゲラを取りにきてくれた。来年の仕事の打合せなども。美味しいケーキをいただいた。ところで、今回の「〜5」は、「〜4」に比べてページ数は同じか、微減とのこと。次こそは……、と思う。2007年の抱負は、簡潔な日記を書くことである。
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午後は工作が3時間ほどできた。今作っているものも、だいぶ出来上がってきたので、そろそろ次のことを頭で考えている。
これは小説もそうだが、完成する手前で、頭の中では後かたづけをしている段階になる。ようするに、気持ちはもう撤収しているわけだ。だから、実際に本当に完成した時点では、もう次の仕事で頭がいっぱいの状態になるから、「やった!」とか「ああ、終わったな!」といった感慨や、ほっとする気持ちは少ない。頭の1割くらいの最後まで残っていたチームが、「終わったね」と呟く程度である。
研究では、この種の終わりさえない。論文を書き上げたときに、少しほっとするが、それは締切があるというだけのことで、仕事の終わりでもないし、区切りでさえない。章の終わりほどの一段落もなく、ページを捲る程度の切り換えにすぎない。
だいたい、やればやるほど、謎が増えていき、どんどん把握できなくなっていく。その中から出来ることだけをやるわけであるから、なにかを達成するというよりも、1つ作るごとに、達成できないものが増える、それを知る、という感じである。
では何故続けるのか、と問われれば、簡単である、終わりたくないから、言い換えれば、達成したくないからだ。
【国語】 「機械」のイメージ
スバル氏から聞いた大臣の失言のニュースである。彼女は、「きっと、言葉の弾みで言ったか、違う意味で使ったのではないか、可哀相に、と思っていたら、実際に話しているところの映像が流れて、本当にそのままずばりだったから、驚いた。あれはやっぱり、責められても仕方がないね」と話していた。僕は事情を全然知らない。
ところで、「機械」というのは、みんなどんなイメージに捉えているのだろう。たとえば、「機械のように働く人」といった場合、それは悪いイメージなのだろうか。
僕が子供のときには、「機械のように」というのは、良いイメージで使われることが多かった。正確で間違いがなく、精力的で疲れを知らないタフさを持っている、という意味だったかと思う。いろいろなものが機械化され、オートマティックになった時代だった。自動化されることは素晴らしいことだった。外国でも、人に対して「マシン」という渾名をつけることが多いが、おおむねそれは天才的に素晴らしい、正確無比である、という尊敬の念が籠められていた。
ところが、ここ数十年は、人間、環境、生命、といったものがクローズアップされるようになり、「人間は機械ではない」という否定的なイメージで使ったものを耳にするようなった。気持ち、心、精神、感情といったものが機械にはなく、生きものにはそれがある、という再認識であり、機械は生きものよりも下等だという当たり前のことを、確認したわけだ。そんなところから、「しょせん機械だ」といった台詞も多く聞かれるようになった。この言葉自体が、機械を恐れている響きがあって、興味深い。
上記の傾向は、「コンピュータ」でも同様だ。かつては、これは良い響きだったが、この頃は逆である。
将来的なことはわからないが、人間を一種の機械と見なすことは、それほど見当外れではない、と僕は考えている。現在の医療、特に外科技術の多くは、人間を修理するものである。また、機械によって、どれだけ生命が救われたかわからない。
「機械」という言葉くらいで人間が貶せるほど、人間の尊厳は安っぽくはないはずなので、言葉の表現程度であまり感情的になるのも人間としていかがか、とは思うところである。
2007年02月04日(日曜日)
【HR】 計算はしている
昨日の夜は冷え込んだので、久しぶりにダウンのズボンを穿いていた。つまりダブルだ。暖かくて良かった。
それで今朝もダブルでいこうと思ったら、わりと暖かかった。
午前中に小説の仕事。「イナイ〜」を12000文字書いて完成度は88%に。100%では終わらないので、あと2日かかる。「MLA5」のゲラは最後まで見た。これのあとがきも直して発送。それから、寝かせてあった「yom yom」のエッセィも推敲して発送。あと、「日経パソコン」の次の4回分のテーマを考えた。テーマを決めるところまでは頭を使うが、あとは書くだけの作業なので、気が楽。
この頃、頭痛がしないのは、モビリオのサスペンションのせいかもしれないな、と思いつく。
午後は3時間ほど工作に没頭。小さい木工。それから、スピーカの下に敷いていた木片を切って小さくしてみた。スバル氏に音を一度聴いてもらう。「今のうちにやめた方が良いよ」というのが彼女のアドバイスだった。人を鼓舞するタイプである。
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どうやら昨日が節分だったらしい。節分というのは、毎年この日と決まっているのだろうか。よく知らない。パスカルは豆1つだから可哀相だ(数えなら、2つか)。この頃は、巻き寿司を食べることになったらしいが、これよりはバレンタインディのチョコの方が由緒があるような気がする。
最近、ペンを持って手で文字を書くということは、ゲラ校正か、それとも書類に記入する住所氏名のいずれかだけになった。このうち、後者は紙をローラでなぞったら文字がプリントされるメカがあるから、あれで済ませるようにすれば簡単だ。あるいは、住所氏名が書かれた透明のテープをいつも持っていて、それを貼るか。しかし、何度も書かされているうちに、自分の住所を覚える、という効果は薄れる。僕も、この頃いろいろなところに住んでいるため、自分の住所がすぐに書けないことが多い。
これに比べると、足し算や引き算は、工作のときは頻繁にする。2桁や3桁くらいは暗算するから、良い頭の運動になっているだろう。工作室には電卓がない。というか、僕は普段電卓を使っていない。パソコンの中にある電卓をほんのたまに使うくらい。まさか、文字を書くことがなくなり、計算をすることがある、という生活になるとは、若いときには想像もしなかった。
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先週、学生たちと話す機会があったが、この頃は「勉強クイズ」が流行っているという。TVやゲームで、学校の試験のような問題ばかり出ているそうだ。問題を作るのが簡単だから、出題する方は楽だろう。なんとなくためになり、得をしている、という錯覚も得られるし。このMLAも偶然、学科に分かれているけれど、最初の頃に書いたとおり、単なるエッセィなので、くれぐれもこれで勉強になるなんて思わないでほしい。
【体育】 楽しいスポーツ
そういえば、【体育】はまだ過去に1回しか書いていなかった。
小学生のときは、スポーツが好きだったので、遊びといえば、ほとんどスポーツだった。走ったり、投げたりといったものである。マラソン以外、スポーツで苦手だと思ったものはない。
プールで遊ぶのもとても楽しかった。夏休みなど、プールが開放される日があったから、楽しみにしていたし、たいてい出ていって泳いでいた。ところが、体育でプールの日というのは、全然楽しくない。どうしてかというと、ばた足だけをするとか、苦しくて泳げなくなるまで泳ぐとか、いろいろ制約があるからだ。
ほかの体育の授業でも同じで、どうも授業になったとたんに楽しくなくなる。あれは、本当に不思議だ。大学になるまで、この印象は変わらなかった。もっとも、ほかの学科の授業もだいたい同じである。授業になると、多くはつまらなくなる。
学校にはクラブ活動というものがあって、いろいろなクラブに入った経験がある。スポーツ関係でも、10種類ほど思い浮かぶ。文化クラブの方が断然少ない。工作とか、鉄道とか、飛行機などのクラブに入ったことは一度もない。
それが今では、躰を動かすことが嫌いだ。プールに行って泳ぐなんて、ありえない。海になんか全然入りたいと思わない。不思議である。
大学生までは、ボーリ