2007年01月21日(日曜日)

【HR】 セレブと天才

 日曜日。久しぶりに工事がお休みなので、スバル氏は昨夜から「明日はのんびりできる」とこぼしていた。決まった時間に決まったイベントがあるというだけで、もうその日は駄目な日になるらしい。自由にしていたい人なのだ。出勤するような仕事をしている者なら普通のことでも、彼女には拘束なのである。
 曇っていたけれど、寒くない日曜日。キッチンが新しくなったので、インテリアショップへ小物を買いにいきたい、とスバル氏が言ったので、午前中から出かけ、いつものコースでクロネコと書店に寄ったあとにキッチン用品を見た。オーブントースタを購入。あとは小物ばかり多数。キッチン用品は、模型に使える素材が多いので、僕も見ていて楽しい。

 雑誌などで紹介される綺麗な部屋というのは、どうもセレブには見えない。僕が知っているお金持ちの家は、例外なくもので溢れている。ものがとんでもなく多く、それでも統制が取れていて、どれにも愛が感じられる。愛があるからこそ、集まってきたのだな、という雰囲気があって、そこに住む人の志向までも感じられる。
 一方、雑誌に写真で紹介されている部屋の多くは、綺麗に片づきすぎている。建築家やデザイナはそういうのが好きだから、まあしかたがない。しかし、そんなドラマのセットのような部屋に本当に住んでいるとしたら、「私は成金です」と主張しているみたいで、どうしても浮ついた感じに見える。雑誌にしても、その手の部屋を紹介したいのなら、高級ブランドショップか、新しくできた美術館のロビィででも撮影した方が良い。そういうものがセレブだと感じる人は多いけれど、それはまずまちがいなく本もののセレブを知らない人たちだ。そもそも、本もののセレブがTVや雑誌のカメラを入れる理由がない。
 たとえば、もの凄く綺麗な部屋の中央にガラスのテーブルがあって、そこに純金で作られたD51が1台飾られている。それは時価1億円は下らない。そういう空間を想像してほしい。これがセレブか?
 本当にその人が豊かな人間で、本当に鉄道が好きだったら、まさか純金で機関車は作らせないだろう。今にも壊れそうで、錆だらけのガラクタが、棚に所狭しと並んでいる、という部屋の方がずっと理想のはず。これがセレブである。「価値」とは人に自慢するためにあるのではない。
 本当の価値とは、人に訴えかけるような輝きはないのに、その近くに立つと、温度のように伝わってくる。写真やTVでは伝わらないかもしれない。ぎらぎら光ったものばかりに目を奪われていると、けして出会えない。
 天才と言われる人間もこれと同じである。知り合いに何人か天才と呼べる人たちがいる。そういう人たちは皆、輝くようなものはない。たとえば、5桁どうしの乗算が一瞬でできる、といった「わかりやすい才能」は、5年に1度くらい学生の中にいる程度の頭脳である。天才は、自分からはけっして主張しない。自分がどれくらい凄いのか、という様子は微塵も見せない。しかし、近くにいて、数分話すだけで、言葉のほんの1つの選択に、背筋がぞっとするような鋭利さ(あるいは異方性)を感じるのである。それは、マスコミの取材なんかでわかるものではない。「こんな天才を見たい」と勝手に思い描いている人たちには、けっして見抜けないものだ。

 「別册文春」「野性時代」「星星峡」のゲラを終えて、発送。今夜から、新作を執筆しよう。まずは引用文くらいか。
 スピーカのキットを1つ発注。アンプやスピーカが自由に切り換えられるセレクタのキットも注文した。このセレクタが、今まで買ったアンプやスピーカの中で一番高かった。機関車なら200万円のものが抵抗なく買えるが、オーディオはまだ10万円でも高くてとても買う気になれない。こういうステップを踏むプロセスにこそ価値があるのだろう、と信じて……。

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