2006年11月30日(木曜日)

【HR】 老後の楽しみについて

 まだそれほど寒くない朝。今日も庭で2時間ほど落葉拾いをした。明日が燃えるゴミの日だが、既に5袋も落葉のストックがある。落葉を生産している農園のような気分だ。
 たまには食べたもののことを書こう。一昨日の夕食が味噌煮込みうどんで斬新だった。昨日はカレーとナンで無難だった。今日は、おでんらしい。けっこう毎日スバル氏は夕食を楽しみにしているようだ。
 お客さんが来ると、なにかしらの洋菓子が増えることが多い。ケーキとかデザートもある。このまえ、劇的に美味しいババロアをいただいて食べた。もうこれ以上のババロアはない、と踏んだのだが、昨日、もっと美味しいのをいただいた。世の中、地道に素晴らしいことである。

 今日は、ミニでショッピングセンタへスバル氏と出かけた。クリスマスムード一色だが、実際には3色くらい。園芸店で苗も買った。パンジィやビオラばかり。書店で本も買った。珍しく、雑誌ではない書籍を3冊ほど。
 1週間ほど改造工作をしていた機関車がだいたい出来上がったので、今日は試運転で走らせた。良い感じだ。さて、今度は何を作ろうか、と思案中。
 小説の仕事では、また講演会の依頼を辞退。「日経パソコン」の連載第30回の2校をチェック。第31回から第34回までのテーマを決め、とりあえず31回分は本文も書いた。締切は10日後くらい。最初のものだけ優先でイラストを描くかも。「活字倶楽部」のアンケートの締切もそろそろ。幻冬舎コミックスからは、新人賞の応募作品が届いた。審査の締切が12月中旬。講評のコメントは1月締切。執筆をそろそろ始める長編のタイトルはフィックス。
 しかし、今年は沢山書いたのではないだろうか。来年も、今年と同じくらい既に仕事が入っている。ほとんど休む暇はなし。

 それでも、10年まえに比べれば、非常にスローライフになったし、さらに20年まえに比べれば、ほとんど静止しているくらいスローになったと思う。幸い、小説の仕事は、スローライフになり始めた頃、つまりだいぶ頭が悪くなって、ぼけてきて、集中力がなくなった頃に始めたし、逆に、小説の書き方はそれ以降はじわじわと最適化され、コツが多少は飲み込めてきたので、結果的にペースダウンしていない。
 同年代の友人の話を聞くと、だいたい、僕くらいの年齢で、そろそろ引退後の生活を具体的に思い描くようになるみたいだ。これまで、我慢をして働いてきたが、自分の好きなことができる環境をそろそろ整えたい、という声をよく耳にする。やりたいことが特にない人の場合は、どこかへ行きたいという希望を持っているようだ。「老後の楽しみ」という感じだろうか。これらについて、森博嗣がなにか言いたいことがあるのだな、と思ったら大間違い。特に意見はなし。

【国語】 ほろとぼろ

 「ほろ」も「ぼろ」も接頭語である。「ほろ」は「少し」と同じ意味だし、「ぼろ」は逆に「多い」という意味になるので、反対に近い。
 「ほろ」がつくものとしては、「ほろ酔い」「ほろ苦い」などがあるし、「ぼろ」がつくものには、「ぼろ儲け」「ぼろ負け」などがある。しかし、これらを組み替えて、「ぼろ酔い」で泥酔を示したり、「ぼろ苦い」で「苦すぎ」の意にしたりはしない。「ほろ儲け」で小銭稼ぎとか、「ほろ負け」で接戦で負けるの意にも使われない。紛らわしいからだろうか。
 「ほろっと」といえば軽いものがこぼれ落ちる感じ。あるいは、感動して涙を少し流すときか。しかし、「ぼろっと」といえば、一度に沢山崩れ落ちていく様子がイメージできる。少ないもの表すときには、「ぽろっと」もある。こちらは、一塊り、あるいは粒が落ちる感じで、思いがけず秘密を漏らすときにも使われる。「ほろほろ」「ぼろぼろ」「ぽろぽろ」なども、だいたいこれらと似たイメージで使い分けられる。
 「ほろく」という副詞もあって、やはり少しの意味。また、「ぼろい」という形容詞は、「ぼろ儲け」から来たものだろうか。
 ちなみに、使い古された布のことを襤褸(ぼろ)というが、ここから、壊れたものや、欠点や失敗なども襤褸を使う。風化している様を示す「ぼろぼろ」や「おんぼろ」などもよく使われる。
 「襤褸は着ても心は錦」という演歌があった。「ブランドは着てても小錦」とどちらが良いかな……(ぽろっと)。


2006年11月29日(水曜日)

【HR】 ネットとオークション

 今日も晴。そんなに寒くない。朝から庭の掃除をする。スバル氏が池のホテイアオイを全部撤去したので、それをゴミ袋3つに詰めたりした。デッキの落葉も吸った。
 そのあと、パスカルをシャンプー。爆発的に膨らんだ。小さいシェルティの皮を、息を止めて気合いで被った羊のようだ。これで思い出したが、ずいぶん昔に、中国の気功の達人の映像を見たことがあって、小さな子供の服が着られる、という技を持った人だった。たしかに誰も真似ができない凄さは認めるが、「何のために?」と笑わずにはいられないインパクトがあるものだった。

 お昼頃には、小さな機関車を庭で走らせた。ブタンガスで走る蒸気機関車。快調に走る。吹きつけ塗装もしたし。
 午後は、講談社のK城氏が来宅。彼女は「メフィスト」の編集長になった。来年4月に出る新しい「メフィスト」の内容はこうなります、というのを見せてもらった。その他、来年のことでいろいろ打合せ。デビュー以来、新年の最初に出るのは講談社ノベルスで、しかも表紙が必ず白い。今度の「ηなのに夢のよう」が初めて白くないカバーの初本になるだろう。

 今はもう直ったが、1ヶ月ほど、yahooを見ているとエクスプローラが強制終了してしまう、というトラブルがあった。それで、サファリで見たり、ネスケで見たり、騙し騙し使っていた。yahooが悪いというよりは、そのページの上や横に出ている宣伝が原因。あのアニメーションが元凶だと思われる。気がついたらしく、今は大丈夫だ。僕みたいに古いバージョンのブラウザで使っている人から、きっと苦情が殺到したのだろう。
 yahooのオークションで、出展品を見ようとそのページを開くと、自分の店の宣伝を全面に出して、もの凄く沢山の画像を載せているところがある。そういうページは、見た瞬間にバック。二度と覗かないようにしている。インターネットは宣伝効果がある、という認識がようやく広まったようで、いろいろ積極的に打ち出してくるのは良いけれど、これはやりすぎ。マイナス効果しかない。
 今思うと、昔のネットは静かで素朴で良かった。それこそ情報は宝石の原石みたいで、宝の山だった。今は、かなり薄まってきている。検索エンジンで得られる情報は4、5年まえが一番内容が濃かった。
 オークションは、始めてもう5年くらいになるけれど、最初は本当に嬉しかった。こんな珍しいものが手に入るのか、と驚喜した。それこそ本当に宝の山だと思えた。どれだけお金を使ったことか。日本中の模型屋や骨董品店を探し回る必要がなくなった。それよりもずっと素晴らしい品が簡単に手に入る(ただし、安くはない。でも交通費はかからない)。
 この頃は、1カ月に10点も落札しないと思う。それに、入札しても、値が上がってしまい、「え、こんな金額を出す奴がいるのか」と諦めることの方が何倍も多い。最初に、自分としての値段をつけたら、絶対にそれ以上の金額は出さない。これは、店で買うときも、どこで買うときも同じである。幸い、yahooのオークションは、いくら高い値を入れても、競合する入札者がいなければ、それよりも安く買えるので非常にお得感がある。素晴らしいシステムだと思う。

【社会】 当番制

 小学校のときに、掃除当番や給食当番があった。また、日直という役目もあって、これも毎日交代する雑用係みたいなものだった。仕事をみんなで均等に負担するために、順番に交代するものを当番という。これは、英語になかなか適当なものがない。on dutyでは、少しニュアンスが違う。その日の、という意味でof the dayでも通じるが、公平に回している、という意味が表れない。当番という言葉は、1000年くらいまえからあるようだ。日本人はこれが好きなのだろう。
 学校の場合は、みんながほとんど同じコンディションなので、当番制が成り立つ。しかし、たとえば、町内会やPTAになると少々異なる。人によって仕事もライフスタイルも違うし、つき合いがしたい人、必要な人、したくない人、できない人、さまざまだ。そういったところでも、「公平に」という言葉を掲げて、当番制が横行している。たまたま、同じ頃にその土地へ引っ越してきた、同じコンディションの仲良しグループが最初に作ったルールであることも多い。そのあとで、しだいに違うコンディションのメンバが増えてくると問題が起こる。
 当番だからしかたがない、と無理をして、それがストレスになって、結局はそういった組織の活動自体を衰退させる。べつに衰退すれば良いのであるが、しかし、その仕事が必要である場合も多い。
 ようは、「当番」という考え方が間違っているのだ。これは、みんなで共益費を出し合い、その役目の人間を雇うべきである。そんな金は出せないという人がいたら、その人に有償でお願いすればよろしい。仕事には報酬を与えるのが原則だ。ボランティア精神を他人に強要するのは、なんでも金で解決しようとする精神と同じくらい見苦しい。


2006年11月28日(火曜日)

【HR】 掃除機が好き

 ゴミを出すために少し早く起きた。しかし、昨夜はこれに備えて早寝をしたので睡眠は充分。ゴミ出しに左右される人生なんて、なかなか悠々自適ではないか。30代の頃には想像もできなかったことである。
 「η」のゲラが終わった。これは講談社ノベルス1月刊。次の仕事は、「日経パソコン」の連載の31回〜34回の4回分を書くこと。そして、いよいよ(またか!の)長編執筆に入る。
 スバル氏のミニで、近所にオープンした大型電気店へ行った。電子レンジ、冷蔵庫、プリンタ、デジカメなどを買い替える予定があるため。めちゃくちゃ広い店内に、沢山の商品が展示されていたけれど、同じ品が沢山並んでいるだけのように見えた。変だなと思ったら、現に同じものが幾つも置いてあるのだ。たとえば、冷蔵庫だったら、あんなに国産ばかり並べないで、少しは外国の製品を並べたらどうだろう。広いのにつまらない。店員が沢山いて、客よりも多かった。でも、ガンダムのプラモデルとか、もの凄く沢山あったりして、これは驚いた。ガンダム売り場だけでも10m四方くらいあった。こちらも、同じ商品ばかり沢山並べず、もっと種類を置いてほしいものだ。量販店というのは、こういうものなのか……。結局、カタログだけもらってきて買わず。

 落葉がピークで、庭でバキュームを使って毎日吸っている。一見凄い量だし、拾っても拾っても落ちてきて際限がないように思えるけれど、樹の枝にあった分が落ちているだけなのだから、いずれ在庫が尽きる。無限に続くものでもない。世にある無限なんてせいぜいこの程度のものだ。結局は有限である。無限に立ち向かうには、こつこつコンスタント、以外にない。
 しかし、バキュームで吸い込む作業は面白い。なんとなくすかっとする。掃除機の性能試験をしているみたいな感じだ。掃除機の性能試験をしたことがないから、楽しさもひとしおである。小学生のときに掃除機を自作したことがあって、とにかく吸わなかった。難しいものだと実感した。理屈ではわかっていても、上手くいかないのだ。流体力学が専門になったのは、このときのトラウマだろうか。
 電化製品では、掃除機が一番好きかもしれない。なにより形が可愛い。一目惚れでよく買ってしまって、性能でがっかりして後悔したりする。女性もこれと同じか、なんて書いたら大変なことになるから、書かないでおこうと思う(思っただけか)。そうそう、11/23の写真にあるダイソンは、本ものではなくて模型(おもちゃ)。おもちゃを買うくらい好きである。見かけ以上に性能がたしかに凄い。ダイソンのハンディタイプを、つい先日目撃したのだが、そのときは急いでいて買えなかった。あとで、どこへ行っても置いてない。幻だったのだろうか。

 工作方面では、機関車の塗装を少し。あとは、先日作った真空管ラジオ(5球スーパ)の調整をした。別の自宅から調整に必要な器具を持ってきたから。でも、その器具がもう古くて、なんかぴんと来ない感じだった。調整まえよりは多少良くなったから、まあよしとしよう。
 10年まえや5年まえに比べると、真空管関係のパーツが、いつの間にかずいぶん手に入りやすくなっていてびっくり。ブームとはいかないまでも、少しは需要があることが理解されて、ちゃんと再生産や輸入をしているらしい。「良いものはなくならない」というけれど、「それほど良くなくても欲しい人がいる間はなくならない」ということか。

【理科】 ハンディキャップ原理

 生物学で20世紀後半に出てきた考え方。それまでは、ダーウィンの進化論というか、自然淘汰が基本だったのだが、自然界を観察していると、どう見ても無駄としか思えないような生物が多くあって、本当に最適なものが生き残った、という考え方だけでは説明できないのではないか、との見方が強まったのだろう。そこで唱えられたのが、ハンディキャップ原理だ(少々違うのだが、だいたいそうだ)。
 よく例に挙がるのは、雄の孔雀である。雌に注目されたり、敵を威嚇するためとはいえ、なにもあそこまで派手でなくても良いだろう。やりすぎではないか。どう見ても目立ちすぎて、かえって天敵にも見つかりやすく、動きにくい。明らかに危険であり、ハンディキャップではないか、という疑問だ。同様の例は少なからず観察される。
 そこで、こう考えた。ハンディキャップを持っていることは、一種の余裕であり、最適化されたものより、無駄を抱えているものの方が優位である、というアピール(メッセージ)をしているのだ、と。誰にアピールしているのかといえば、それはもちろん天敵に対してだ。孔雀を襲おうとしている野獣は、あんなに無駄なことをしているのに元気に生きているなんて不気味だ、なにか未知の強さがあるにちがいない、と考えて敬遠する、というのだ。
 詳しいことは、どこかのサイトを検索しよう。
 人間界を見ると、明らかに周囲に悪い印象を与えるファッションをしたがる若者がいる。あれも、同じ感覚だろう。ハンディキャップを自ら身につけ、それによって自分には余裕がある、という誇示をしているのだ。ある意味では、自然であり、動物的かもしれない。


2006年11月27日(月曜日)

【HR】 本や雑誌のこと

 スバル氏がいない間のパスカルの世話で(時間帯が微妙に合わないために)疲れたのか、今日は8時間も眠れた。起きたら8時半。ガレージでゴミの整理(分別)をして、書斎で重要なメールに答えるうちに10時半になった。午後からお客様があるので、スバル氏とホームセンタとスーパへ買いものにいく。近くなのに、滅多に行かない店へ。なかなか品揃えが良いことがわかったから、今度からここへ来ようと思った。

 お昼過ぎに、光文社のK村氏とS木氏が来宅。あと2回で「ジャーロ」での連載が終わる「ZOKUDAM」の単行本化のことで打合せ。来年の7月くらいはどうか、という話をした。その後、ノベルス化や文庫化の時期も打ち合せる。先日文庫になったばかりの「ZOKU」が予想外に好調で、ノベルスも文庫も部数が伸びている。したがって、この路線でZシリーズの第3弾を、という話にもなった。こちらは、半年ほど休んでからスタートすることになりそう。
 聞いた話。書籍が重版になったときに値段を変更すると、書籍コードの登録のし直しが必要になって、その登録料がかかるのだそうだ。重版になったときには、初版よりも部数が少ない場合が多い。少数でも、欲しい人は熱望している、という場合があるのだから、本の値段を上げて対処すれば良いのでは、と考えていたのだが、書籍コードの登録料のことは知らなかった。値段が変えられないなんて、システムとして欠陥ではないのか、と正直思うが。
 「スカイ・クロラ」が、重版時に値段を上げたことがある。あの透明カバーを作るためのコストがかかるからだ。もともと、売りきったら絶版にすれば良い、というつもりで最初は作ったものが、意外に好評だったために何度も重版になった。値段を上げてでも、需要があるところには供給することがメーカとしてはごく自然なサービスだと思われる。

 夕方には、「日経パソコン」のK田氏が来宅。現在連載中の「半熟セミナ」は、来年の9月までの予定だったが、好評なのでさらにあと半年延長してほしい、ということだった。つまり48回ではなく60回分の連載に変更になった。書籍化は2008年になる。
 「日経パソコン」が最近とても薄くなって、雑誌として理想的な形態に近づいている、という意見を伝えたところ、記事自体は変わらず、広告が減っているそうだ。この雑誌は30万部近くも売れているが、これよりずっとずっと部数が少ない雑誌の多くが、広告取りばかりに気を遣うあまり、広く浅い内容になり、必然的にどんどん部数を下げている。結果として広告効果も薄れていくはず。近々訪れる広告恐慌を予感させるが、今のうちにスリムになっている雑誌は生き残れるだろう。
 僕はこの頃、1年で200冊くらい雑誌を購入し、うち120冊くらいを捨てずにいる。蔵書が増える一方だ。しかし、僕が雑誌と認めるものはほとんど厚さが5mm程度なので、保管場所は60cm増えるにすぎない。10年で6mだから、それだけの棚を用意すれば良い。1.5m幅なら4段である。今、寝室の壁は4×4mほどが無垢の木のまま一面空いているので、ここに本棚を作れば、10段で40m分は収納できるから、既にある2000冊を入れても、あと30mで、50年分のスペースがあるな、などと日々計算している。毎晩必ず3、4冊はぱらぱらと読むから、1年で1200冊くらいは再読しているだろう。寝室にあるのがベストだ。これらの雑誌は過去に手放したことは一度もないし、将来も手放すことはないと思う。
 「η」のゲラは90%まで。「ナンプレファン」の2校をチェック。

【算数】 因数分解

 因数という言葉は、あまり聞き慣れないかもしれない。「数学がわからなくなったのは、因数分解からだ」といった話はよく耳にする。その因数だが、いったい何かと問われたとき、ちゃんと答えられる人は少ない。
 辞書を引いてみよう。「1つの数または式がいくつかの数または式の積によって形成されている場合、その個々の数または式」とあった。このように、「○または×」のような表現は、数学的というか、論理的というか、法律的というか、とにかく一般の人にはわかりにくい。「君もしくは君のメンバが捉えられ、あるいは殺されても」みたいな言い回しである。
 ある式f(x)に、x=aを代入したところ、その式の値が0になった。このとき、f(x)は(x-a)で割り切れる。これを因数定理と呼ぶ。こうして割り切れる式を探す行為が因数分解である。
 ちなみに、ある整数の約数である素数を素因数と呼び、その整数を素数の積で表すことを素因数分解という。
 因数分解の難しさは、式と式を掛け合わす行為の逆だからだ。計算をすることは簡単だが、計算結果から、もとの形を想像することはけっこう難しい。思考のジャンプが要求される。これは、計算に限ったことではない。この状況からどんな結果になるのか、は想像が簡単だが、逆に結果を見て、そうなった理由を思い浮かべることは難しい。


2006年11月26日(日曜日)

【HR】 金さえあれば……

 パスカルのために7時に起きた。今日も曇り空。しかし、風がないので、庭掃除には適している。散歩のあと、2時間ほどバキュームで落葉拾いをする。
 「η」のゲラは80%まで。順調。メールのリプライをかなりした。スカイ・クロラシリーズの第5話は、タイトルを2つに絞った。今月中にタイトルをフィックスする。タイトルさえ決まれば、あとは書くだけである。

 工作室では、今は小さな機関車を改造している。木や金属を切り出し、削って、ハンダ付けやネジ止めで組み立てる。3時頃に外を見たら雨が降りだしそうだったので、少し早いけれどパスカルを散歩に連れていった。そのあとも工作に没頭していたら、いつの間にかスバル氏が帰ってきていた。パスカルが「全然遊んでもらえなかった」と訴えたそうだ。嘘をつく犬である。

 11/22に書いたことで補足。欲しいものは価値があるのだから、当然高くなる。それだけの金を出せる人だけが買えば良い、というようなふうに誤解されたかもしれない、という危惧が少し。
 それも、まんざら間違いではない。人の気持ちの強さなんてテスタとかでは測れないわけだから、「本当に欲しい」という強さは、結局出せる金額でしか表せない。しかし、この法則でいくと、たまたま金を持っている人間が、金のない人間から横取りできるわけだ。これは資本主義ではごく普通のことだけれど、たとえば、金を持っている人間が、頭がおかしくなってしまい判断が的確でなくなったりしたときに、困った事態になる。自分で稼いだ金の場合は、それだけの金を稼いだ才能なのだから、そんなに変な真似はしないと思われるけれど、一方では、悪事を働いたり、それとも偶然手にした大金といった場合には、たしかに例外的に一時的にだが困ったことが起こりうる。
 けれども、高い金を出せる人間の判断が明らかに間違っているときには、大勢の人で力を合わせて対抗すれば、それが阻止できるだろう。それも民主主義の原則である。みんなで金を出し合って買い取ることもできる。被害が甚大であることを理由に裁判に持ち込む手もある。
 貧しい時代には、一部の特権階級の人間が、自分の才能で勝ち取ったのではなくその地位についていたし、代々の家柄としての資産や身分もあった。また、政治的にも権力を握っていたので、彼らの横暴を大衆は阻止する術がなかった。そういう時代がたしかにあった。そのトラウマから、今でも大金を出して有力選手を引き抜いたり、会社を買収したりすると、「金があればなんでもできるのか」という無意識の反発を抱くことになる。けれど、すでにそんな時代ではない。チャンスはすべての人間に平等にある。誰でも自分の夢を実現できるし、嫌なことを避けることも可能だ。そのためには、金で買わなければならないものもあるだろう。
 コンビニで、自分の一番食べたいものを選んで買った。それを見ていた人から、「金さえあれば、なんでも好きなものが食べられると思ったら大間違いだぞ」と言われたとしよう。どこが大間違いだろうか? 笑うしかない。

【国語】 やり途中

 この頃よく耳にする話言葉である。「やり途中」「書き途中」「読み途中」「食べ途中」など、広く利用されている。これは、僕が若いときにはなかった言葉だ。「途中」は名詞なので、これに動詞を続ける場合には、活用が連体形になるはずであって、つまり「やる途中」「書く途中」などが正しい。しかし、これでは現在進行中であるというイメージがわかない。本来は、「やっている途中」「書いている途中」が正しい言い方だったが、この省略形として使われるようになったのだろう。
 平成教育委員会という番組で、「考え中」という不思議な日本語が広がったと認識しているけれど、この応用として、「途中」も広まったのかもしれない。
 さらに応用例を考えると、時系列では、「やり最初」「やり前半」「やり佳境」「やり終了」などがいずれ使われるだろう。また、このままを連体形として取り込むことになると、「読み本」や「食べ場所」などが現れ、「遊び友達」が「今遊んでいる友達」の意味になる可能性が高い。そういえば、「乗り料金」とか「飲み会」とか、少しまえから普通に使われている。これは、前の動詞が名詞化しているだけ、と見るべきなのか……。


2006年11月25日(土曜日)

【HR】 予定変更で遊ぶ

 今日も午前中は良いお天気だった。予定を変更して、機関車の運転をすることを決意。そのまえに、パスカルを散歩に連れていったり、庭の掃除をしたり、と忙しい。
 この蒸気機関車は5カ月ぶりくらいの運転。うちでは一番大きくて、一番古い。ガレージの横で準備を始め、水を入れたり、油を差したり。石炭も小さく割ってから投入。火は最初はガスバーナでつける。20分ほどで圧力が上がってくると、緊張感が高まってくる。なにしろ古い機関車なので、どこに不具合が出るかわからないので気が抜けない。
 さて、しかし運転は快調だった。毎回が冒険と実験であるけれど、データを積み重ねることで、どういう機関車なのか、少しずつわかってくる、というあたりが面白い。納得がいくまで走ってから、火を落とした。掃除をしたり、点検をしたり。
 時計を見たら、3時間も経過していた。2時間くらいで終わるつもりだったのだが。それにしても、小春日和というのか、とても暖かい。黒い服を着ていたせいかもしれない。日差しで背中がぽかぽかと暖かかった。

 スバル氏がいないので、パスカルはとても大人しい。遊んでやると甘えてくるけれど、今ひとつ乗りきれない感じだ。夕方は散歩に連れていった。もうこの先へは行きません、という意思表示がとても明確になった。非常にわかりやすい。コミュニケーションが取れている。
 「η」のゲラは65%まで。水曜日にK城氏が取りにきてくれることになったので、火曜日までに見られれば良い。あと3日だから楽勝である。次の仕事は、長編の執筆で、そちらの方が少しずつ気になってきた。12月前半で片づけられるとベストだが、ミステリィではないので、そこまで簡単にはいかないだろう。
 「四季」の文庫が出たので、その感想メールが届き始めた。感謝。メールを少し溜めている。リプライはしばらくお待ち下さい。この本が森博嗣の1冊めだ、という人も何人かいた。しかも、愛蔵版で。実例の分布とは、予想以上に広くばらついているものだ。

 出版社からは、頻繁にパーティの招待状が届く。1度しか行ったことがない。その1度は、たまたま上京する日と一致していて、その会場(帝国ホテルだった)で人と待ち合わせをしたからだ。コーヒーとデザートしか食べていない。それから、映画の試写会の招待状も届く。これも2回しか行ったことがない。えっと、「ゴジラ」と「立喰師列伝」だけだ。演劇の招待状は、1度だけ行った。これは萩尾先生から届いたものだったので。謹んで出かけていった。出版社から贈呈で送られてくる小説は、0.1%くらい読んだだろうか。1000冊に1冊くらいの割合だ。送り甲斐のないことで申し訳ない。

【社会】 切符を買うとき

 国鉄のときは、本当に酷かった。窓口で切符を買うとき、もうめちゃくちゃ態度が悪い人が多くて、「売ってやるよ」という顔で威張った奴に頭を下げて買わせてもらわなければならかった。スバル氏なんか、国鉄の窓口で切符が買えなくなるくらい精神的ダメージを受けていた。JRになって本当に良かった。これは、役所や郵便局も同じだ。この頃、どこも素晴らしく応対が普通になった。
 ここ数年で一番嬉しかったのは、新幹線の切符の自販機が普及したこと。これは最高だ。切符を買いに窓口へ行くと、並んで待たなければならないし、だいたいもの凄く面倒な相談をしている客が窓口を塞いでいて、そういう人は来週の切符とかを買おうとしているのだ。今から乗る人間が待っている状況は不合理である。
 自販機は素敵だ。領収書もきちんと発行してくれるし(3万円以下の場合だけだが)、窓側か通路側かもちゃんと尋ねてくれる。おつりの札を出すちょっとまえから、「お札をお取り下さい」と言い出すせっかちさは愛嬌として、今のところ不満は全然ない。料金が9020円だったとき、1万円を吸い込ませてから20円を入れても遅い。さきに20円を入れてから1万円札を、という順番だと、こちらの意を察して、1000円札のおつりを出してくれる。
 機械が増えると、人間の温かさが消えてしまう、とたいていマスコミなどは言いたがるものだが、機械の方がずっと人の温かみを感じさせる場合もある。便利な機械を導入する、そのサービス精神こそが温かい。


2006年11月24日(金曜日)

【HR】 友達って大事か?

 昨日は祭日だったようだ。今日は平日か。ふーん。
 天気は良くて、朝から庭の掃除をした。風は少しあるが、しかし日中はぽかぽかと暖かい。
 スバル氏が東京へ遊びにいくので駅まで送った。パスカルと留守番だ。意気消沈のパスカルをなんとか誘いだして、庭で遊ぶのだが、今ひとつ乗りきれないらしく、やるせない顔をしている。散歩もあまり歩かなかった。夕方も庭掃除をした。
 今日は工作が沢山できた。主に木工で、木を削って粉を出し、それを掃除機で吸い取る、という作業の繰り返し。思いどおりにできていく日だった。
 ゲラは「η」を50%まで読んだ。ゲラを読むと覿面に疲れるので、また休憩をしながら、ネットサーフィンをしたり、オークションを物色したり、工作室へ下りて、ひと削りしたりした。今週では一番体調が良い。

 学校などの集団生活になかなか溶け込めない子供がいる。そういう子供が大人になって、ごく普通の社会人として、社会に溶け込む。逆に、子供のときに明るく仲間と遊んでいたのに、大人になって、社会に溶け込めない人もいる。いろいろである。
 大人は一人でも今は特に困らない。一人でも楽しく生きていける。だから大人はそれで良い。しかし、子供の場合、一人きりになりがちな子は、周りから余計なことを言われる。虐められたりもするだろう。そういう子供に対して「友達を作って、仲良くやりなさい」と一方的に指導するのは、たぶん間違いだ。
 今の社会は、友達ができることが、とんでもなく価値のあることだと教えている。たいていの物語は、友情を誇張し、美化し、これがすべてを救うと訴えているし、大人も先生も口を揃えて言う。本当にそうだろうか?
 もちろん、友達に価値がないとはいわない。しかし、そんなに押しつけるようなことかな。別に、友達が本気で欲しかったら、自然にできるだろう。溶け込めない、というのは、わいわいはしゃげないだけのことだ。笑ってはしゃぐことが、友達の輪だという変な幻想がある。
 友達というのは、たとえば、メールをたまに交換するだけとか、1年に1度会えるだけとかでも良い。年齢も全然違っているとか、極端な場合、相手は友達だと思っていなくてもべつに良い。それでも、立派な友達だ。毎日会って、じゃれ合っているばかりが友達ではない。人それぞれである。

 だから、周囲の人が「もっと明るくなれ」「友達を作れ」と言うのを、そんなに真に受けず、自分が楽しいことをするのがよろしい。それが幸せだ。学校にいるときは、面倒だけれど、その場限りでも良いから、友達の振りをしていれば、まあそんなには虐められないだろう。そこは上手く立ち回ろう。自分の時間は、一人で部屋に籠もって、自分が楽しいと思うことをすれば良い。
 というように指導をすれば、もう少しは思い悩む若者が減るのではないだろうか。友達づきあいに神経をすり減らしている人を見ると、そんなにまで友達って大事なものなのか? と僕は不思議に思う。「友達は財産だ」とよくいわれるくらいだから、つまりせいぜい財産程度のつまらないもの、という意味かと思う。
 親しげに近づいてくる奴よりも、無愛想だけど自分の楽しみを知っている奴の方が、つき合ったら断然面白いものだ。

【理科】 ステアリング

 自動車がカーブを曲がるためには、ステアリング(ハンドル)を回して、前輪を斜めに向ける。これによって、左右に進行方向を変えることができる。この方式は、比較的新しいものだ。
 馬車にはステアリングがないものが多い。馬が進む方向で左右に曲がる。荷車などは2輪のものが多く、人間や動物が前輪の役目をしていた。祭りのときに引き回す山車(だし)にもステアリングはない。
 自動車は今はほとんど4輪になった。これは動物が4本足だからだろうか。平面に安定して立つには、足は3本あれば良い。動物が4本足なのは、1本を別の目的に使える(たとえば、獲物を捕るとか)からか、それとも、1本を失っても大丈夫なようにだろうか。
 自動車も古くは3輪車が幾つかあった。この場合、後輪が1輪のものが多い。デファレンシャルギアを作らずにすむためだ。一方、前輪が1輪の3輪車は、ステアリングがバイクと同じで簡単な作りにできるメリットがある。
 さて、ステアリングは一般に前輪が角度を変える。しかし、この方式がすべてではない。たとえば、フォークリフトは後輪がステアリングで角度を変える。パワーショベルにもこの種のものがある。壁際へ寄れる、という理由だ。自動車も壁にぴったり寄せるためにはバックする必要がある。このほか、前輪も後輪も両方とも角度を変える車もある。
 ちなみに、ステア(steer)は、舵をとるの意。


2006年11月23日(木曜日)

【HR】 引き際の印象

 雨は降らないものの、一日中曇っていて寒々しい天気。
 午前中はゲラを読んだ。「η」を30%まで。ほとんど直すところがない。最初の頃に比べて、ゲラを早く見られるようになったのは、読むことに慣れたとか、迷わないからとかではなくて、単に最初から書くべきことを書けるようになった、ということだと思われる。これだけ書けば、少しくらいは最適化されるだろう。
 キッチンの工事のため、また、お風呂とトイレのリフォームのために、業者の人たちが6人来訪。キッチンについては図面も完成し、見積もりも出た。もうあとは本契約をするだけ。工事はしかし1月後半になる見込み。お風呂とトイレは、まずは現状の配管などいろいろ不可解な部分があるので、後日時間をかけて調査をしてもらうことになった。こちらも、工事はキッチンのあとになるか。

 保険とか、税金とか、そんな関係の手紙が、銀行や郵便局や役所から毎日のように届くが、とにかく何がいいたい書類なのかわかりにくい。これだけの金額を振り込みなさい、という書類もよく来るのだが、いったい何のためにそれを支払わなくてはいけないのか、細かい文字を読んでもよく理解できない。相当に頭の悪い人間が作文しているとしか思えない。基本的に、相手にわかってもらうおう、という態度ではなく、のちのち文句を言われないようにとか、わからなければ電話してこい、といった姿勢なのである。
 契約に漕ぎ着けるまでのプロセスでは、あの手この手でアピールし、素晴らしい親切さで説明するのだ。ようするに、すべての才能をここに集中させているわけである。いざ契約をしてしまうと、あとは担当者がぱっと入れ替わって、どこで何をすれば良いのか、変更手続きや解約はどうすれば良いのか、などなど、全然整備されていないし、担当者もやる気がなく、ぼんやりしている人ばかり。
 もう半年ほど住んでいない自宅で、ケーブルテレビを解約した。既にテレビもないし、見る人もいない。それでも、半年ほどは料金を払っていた(もちろん、テレビがある自宅の方へは即座にNHKが来て、口座振替の手続きも数年まえにした)。解約のため電話をすると、ケーブル局の人は普通に解約に応じたが、そのあとNHKも同時に解約になった。
 たぶん、いろいろ問題があったから過敏になっているのだろう。スバル氏が電話をしていたのだが、「もう、二度とテレビは見られなくなりますよ」と脅されたという。見たくなったらまた契約するだけのことではないか。二度と見られないとは何事か。スバル氏は、「なんで、そこまで言われなあかんの? 半年分も余分に払ってたんだよ。ありがとうございましたの一つくらい言えんもんか」と憤慨されていた。少なくとも、NHKのその担当者は、解約を阻止するのが役目であって、「ありがとうございました」と頭を下げる発想さえないだろう。昔の役所と同じである。

 先日、若い頃からずっと続けていた生命保険をすべて解約した。もう子供たちも独立し、僕が死んでも困ることはないからだ。この解約のときは、とても良い対応だった。僕もこれまで生活を守ってもらったことで感謝をしたし、保険会社の人も、これまでありがとうございました、と頭を下げた。これが、書くほどのことでもない、ごく普通の感覚だろう。
 いかなるものも、引き際は綺麗にしたいものである。

【算数】 意味のあるスペルの確率

 猿がタイプライタで遊んでいるとき、そこに打ち出される文字がシェークスピアの戯曲になる可能性は、ゼロではない。しかし、ほとんどありえないだろう、とは思われる。
 無作為に文字を打ったとき、それが意味のある言葉になる確率というのは、どれくらいだろうか。
 アルファベットは26文字だ。もし2文字ならば、26の2乗、つまり676とおりの組合せがある、3文字ならば、17,576とおり、4文字ならば、456,976とおり、5文字ならば11,881,376とおり、6文字ならば、308,915,776とおりで、だいたい3億とおりくらいだ。6文字よりも多い言葉が沢山あるわけだが、言葉自体はどれくらい存在するのだろう?
 普通の英和辞典はせいぜい数十万語である。だから、たとえば100万語がこの世に存在したとしても、上記の組合せと比べると、確率は300分の1である。もちろん、さらに多い文字列を計算していくと、これが1文字につき26倍になるから、10文字くらいで、既に1億分の1を超える。
 つまり、10文字のアルファベットを無作為に並べて国民全員のパスワードを作ったとき、それが意味のある単語なるのは、日本中でたった1人くらい、という確率である。
 6文字の場合でも、辞書に載っている6文字の単語がたとえ30万語あったとしても、言葉にならないスペルの1000分の1も少ない。アルファベットの組合せを順番にパスワードとして入力するプログラムを使えば、1000分の1の時間で破られることになる。パスワードに意味のある単語を用いることが、いかに危険か、お気づきだろうか。


2006年11月22日(水曜日)

【HR】 価値に相応しい値段

 晴のち曇。午前中に、近くの園芸店へスバル氏と出かける。初めてのところ。植木鉢など、細かいものを幾つか購入。そのあと食料品のためスーパへ。この頃のスーパというのは、少しずつコンビニへ近づいているようだ。安さと便利さの勝負だったが、どうやら後者が圧勝らしいとの結果が出つつあるため、歩み寄っているのだろう。
 今日から、「ηなのに夢のよう」のゲラを読むことに。まずは10%だけ進捗。たぶん、1週間で終わるはず。このあとは、長編の執筆が控えていて、少しずつそのための大道具を頭の中で組み立てる作業に入っているような気がする。気のせいかもしれない。

 集英社のC塚氏とW邉氏が来宅。来年出す書き下ろしのことで打合せをした。ちょうど走らせていた庭園鉄道にも乗ってもらった。犬や猫の話、それから模型の話の方がずっと多かったかもしれない。パスカルは、女性にはもの凄く甘える。落差が激しすぎ。

 野球選手の何十億円という契約について話題になっている。また、先日は三重県だったと思うが、お医者さんに数千万円の年俸を出せなかったので、医者がいなくなるというニュースも耳にした。これらの金額について、どうこういうつもりはない。
 どうしてもそれが必要な才能ならば、それを買い取るために高額を投じる、という考え方は自然である。ギャンブルでもない。単なる経済原理であって、やましいこと、醜いこと、不自然なことは皆無だ。それなのに、日本人はまだまだブレーキをかけたがる。このブレーキの正体は何だろうか? 不思議である。
 まえにも書いたが、日本の大企業の経営者の報酬は安すぎる。スポーツ選手で驚いているけれど、それくらい稼ぐ経営者は、アメリカならば普通にいるわけで、全然珍しいことではない。個人の才能というものをそれだけ評価しているのだ。
 そんな高額の報酬で雇われた人間は、自分の資産を投じてでも、その地位を守ろうとするだろう。地位を守るためには、そのチーム、その企業の業績を上げなければならない。つまりこうして、個人の資産がみんなに還元される。
 日本はどうか? 個人資産を投じるどころか、会社の金を使って飲み食いすることばかり考えていないだろうか。そういったことができる立場が「役得」などと呼ばれている。地位を手に入れても、個人の報酬が少ないために、逆方向の還元を行うことに知恵を絞る。
 取り締まっても取り締まっても汚職はなくならない。これは、基本的な部分に間違いがある。貧しいことが普通であるというような不思議な平等意識から、トップの給料が安く抑えられている。政治家も先生も公務員も、給料が安すぎるのだ。
 税金を無駄遣いされたくないのなら、政治家や公務員の給料をもっと高くして、合理的な仕事ができる才能を集めるべきではないのか。何故、その発想にならないのだろう?
 精神論を持ち出すまえに、必要なもの、欲しいものには価値があり、その価値に相応しい値段をつけるべきだ。金で動くことが汚いことだと考えているうちは精神が貧しいし、貧しいことは、豊かなことに比べれば、明らかに不健全である。

【国語】 ぼうぼうとほうほう

 今回は、bとhの違いである。これもアルファベットの小文字の形が似ている。
「ぼうぼう」は、火が燃えるときによく使われる。これは音だ。このほかには、雑草が沢山伸びていたり、頭の毛が無秩序に伸び放題だったりすると使われる。これは漢字で「茫々」と書くようだ。ほかにも、「惘々」と書く「ぼうぼう」もあって、こちらは「もうもう」とも読む。ぼんやりしている様子を示す。
 「ほうほう」は、音で使われることは滅多にないが、たまに、「ほうほうと頷く」などは耳にする。昔は、叩いたり、笛を吹いたり、といったときに用いられたようだ。また、煙が立ち上るときに使う「ほうほう」は「蓬々」と書くようだし、この「蓬々」は、盛んに茂っている場合や、髪が乱れているときにも使える、と辞書にあった。慌てふためいて「ほうほうのてい」で逃げ帰った、などというが、これは「這々の体」と書く。つまり、這うようにして、という意味だ。ちなみに、慌てふためくの「ふためく」とは、「ふたふた」(ぱたぱた)と音を立てることで、騒ぎ立てるという意味である。


2006年11月21日(火曜日)

【HR】 ビジネスにおける信頼性

 秋晴れ。しかも暖かい。体調が良くなってきたので、朝からピースコンで小さな模型の塗装をした。工作室の照明のスイッチの位置が工作機器の後ろにあって不便だったので、これを移動する工事もした。

 そうこうしているうちに、3週間まえにデパートで購入したソファが届いた。オレンジ色だ。配置が変わり、部屋が広くなった。ガラスのテーブルは、引っ張り材にワイヤを用いた構造。これに合わせて絨毯も丸くした。これまでの緑のソファは引き取ってもらい、また大きなガラステーブルはガレージで使うことにした。とりあえずスバル氏と2人でこれは運び込んだ。どうやら、今回捨てたソファも、新しいのと同じメーカのものだったようだ。カッシーナとかいうらしい。買ったあとで知ったのだが。
 応接セットの下にあったトルコ絨毯は、ダイニングテーブルの下へ移動。このテーブルは非常に重いから、下に絨毯を敷くのがもの凄く大変だった。ガラスの天板を片方持ち上げるのが、10秒くらいしかもたない。少しずつ絨毯を押し込んだ。躰があとで痛くなるだろう。

 小説の仕事では、「ジャーロ」と「別册文藝春秋」のゲラが届いたので、これを読んだ。4時間くらいかかった。赤を入れたゲラは基本的に手渡しとしているけれど、郵送する場合には万が一に備えてコピィをとっておく。うちのコピィ機が低速で、1分間で2枚くらいしかとれない。20ページだと10分かかる。今日は、全部で30分以上かかった。雑誌の連載のゲラだから、まだこれで済む。本1冊分のゲラが郵送できない理由は、コピィが大変だからだ。
 もっとも、これまで一度も郵便事故はなく、コピィのバックアップが必要になったことはない。しかし、ビジネスにおける信頼性を確保するためには、これくらいは常識である。
 原稿依頼があるが、この頃はほとんどお断りしている。大変光栄で、残念ではある。しかし、仕事を減らそうと考えているからだ。講演会などを最近2つ断った。インタビューも2つ断った。短い文章の依頼も、締切が2カ月以内のために幾つかお断りした。
 仕事を引き受けたときには、それこそ親が死んでも締切に遅れるわけにはいかない。したがって、100%可能である、つまり相当に余裕がある場合にしか仕事を入れない、というのが基本だ。80%くらいの確実性ならば断ることにしている。50%ならば問題外である。仕事の信頼とは、そういうものだろう。単に時間的な締切どうこうだけを言っているのではなく、この余裕がなければ、納得のいく良い仕事はできない、と考えている。

 パスカルはもう新しいソファに慣れて、軽く飛び乗っている。自分の居場所を決めてしまった。今日もポテトチップスを食べた(パスカルがではなく、僕が)。

【社会】 コンビニ

 本当に沢山、街のいたるところにある。新しい店もできる。どんどん大型化しているようだ。
 見ていると、どこのコンビニへもつぎつぎと客が入っていく。しかし、このコンビニ、ほんの数十年まえにはなかったのである。僕が子供のときにはなかった。では、現在コンビニで売れている商品は、それまでどこにあったのか? こんなに沢山のお客さんは、それまではどこへ行っていたのか?
 もちろん、コンビニが客を集めた分、普通の商店、スーパなどが不人気になったはずである。しかし、それだけではない。コンビニで売っているものを見てみると、数十年まえにはなかったものが多い。
 たとえば、飲みもの一つ取り上げてみても、昔はこんなに買わなかった。お茶は家で淹れて、それを水筒に入れて持ち歩いた。お弁当も作って持っていった。そういったものが、気楽に買えるようになった。すなわち、作る労力が商品の中に組み込まれ、新しい商品を生み出したのだ。だから、昔よりも、沢山のものを今の人たちは買っている。個々のものは平均すると安くなっているが、買うものが確実に増えている。
 豊かになることで、必要なものが社会に行き渡ると、ものはさらに安くなる。その次には、ものの中に人間の労力がどんどん注ぎ込まれて商品化される。しかし、実際には、人間が働いているわけではなく、機械化されているのだ。機械化ができないものは、むしろ高くなるか、あるいは、ガソリンスタンドのように、可能なところだけが機械化され、残りは自分でするセルフサービスとなる。
 いずれにしても、便利になる方向へ進む。部分的に不便になることはあっても、全体的には必ず便利になる。何故なら、それを人々が望んでいるからだ。


2006年11月20日(月曜日)

【HR】 手放す幸せ

 今日も雨。疲れはほぼ取れた。午前中は研究関係で打合せ。お昼頃、スバル氏と1度出かけただけ。書店で雑誌を購入し、これらを読んだ。それから、機関車製作部のレポートを作ったり、メールの返事を書いたり。
 工作室では、小さなボイラとエンジンのキットを組み立て、お湯を沸かして動かした。簡単なキットで、これを何にどう使おうか、と考えながら組み立てた。そういう素材的なもの。

 土曜日にいらっしゃった方から、いろいろお土産をいただいている。もちろん、お菓子なども沢山あって、まだ食べきれないのだが、ちょっとした模型のパーツ類もあって、これが嬉しい。車輪を沢山分けてもらったし、連結器とかもある。透明でしかも熱に強い雲母板とかももらった。これは持っていなかった。凄いものがあるのだな、と思う。
 どこにも売っていない、どこで手に入れるのか、というものがけっこう世の中に多いのだ。そして、そういったものの一部は、どこからともなく入手できる。人間のネットワークが解決する。マイナすぎて商品としては流通していない。それなのに、欲しいものが欲しい人のもとへ届くのが凄い。
 このまえ、中公のN倉氏が「モデラは、みんな惜しげもなく自分の大事なパーツを他人にあげますよね」と感心していた。彼女は、ずっと僕と一緒に模型関係のイベントや工房見学に参加して、沢山のモデラを見てきたから、そう感じたのだろう。

 自分でも持っていれば、プレミアの価値がどんどん高まるような珍しいパーツ類を人にあげてしまう心理は、一般からは理解しがたいものかもしれない。博愛主義に感じられるだろう。しかし、これは僕にはよくわかる。自分が秘蔵しているものを、もしも自分が生きているうちに使えなかったら、という心配があるのだ。「死蔵」という言葉が示すような罪悪感も少し覚える。つまり、仕舞い込んでいることで、その品、その部品を自分は殺している。それよりは、この人ならば活かしてくれるだろう、という人に譲った方が幸せだ、という意識が働くのだ。我々はコレクタではない、モデラは工作者、エンジニアなのである。技術とは、そもそも「ものを活かす」手法なのだから。
 パーツを手に入れたときには、それが活躍する姿を夢見る。それが一番の楽しみである。きっと、工作以外の分野でもこれは同じだろう。
 たとえば、人を育てるときもそうだ。自分の組織で活躍できない死蔵された才能は、それが活躍できるところへ移ってほしい。たとえそれが自分の組織にとって不利益になっても、そちらの方が嬉しい。人を育てたことがある人間ならば、そう感じるだろう。それができないのは、人を育てないで経営者になった人間である。
 我が子も同じ。自分の家にいてくれるよりも、当人が活かされる場所へ行くためなら、去っていってほしい。その別れの方がずっと嬉しいものだ。子供を育てたことがある人ならば、それがわかるはずである。

【理科】 宇宙でゴルフ

 ゴルフボールは、野球のボールよりも遠くへ投げられる。これは、小さいから空気抵抗が少ないことによる。広いところで投げて確かめてみよう。
 宇宙ステーションでゴルフのショットをする計画があるそうだ。宇宙船の外なので、宇宙服を着てスウィングするわけだから、思うようにクラブが振れないだろう。ボールに当たらないかもしれない。当たりどころが悪いと、あらぬ方向へ飛んでいく可能性もある。けれど、宇宙船自体の速度と比較すれば、クラブのヘッドスピードなどたかが知れているから、どちらへ向かって飛んでも誤差範囲だ。ほんの少しかすっただけでも、宇宙船と同じ速度を既に持っているからだ。
 地球上ではスライスやフックがあるが、空気がなければ、ボールはカーブしない。打ち出されたあとは、真っ直ぐ飛ぶ。重力と、僅かに存在する物体の抵抗だけの影響を受ける。
 軽い方が、打ち出されたときの初速が速いので有利だ。これも空気抵抗のある地球上とは異なる。あまり小さいとどこへ行ったか追跡できないけれど。


2006年11月19日(日曜日)

【HR】 静かな休日

 朝から小雨で、しっとりとした静かな日曜日。起きたら8時だったし、昼寝もしたし、一日中のんびり、ぼんやり。昨日の余韻かも。仕事は「ナンプレファン」のゲラ校正をしたくらい。
 書斎の窓のすぐ外にある楓が、知らない間に赤くなっている。この時期の樹々は、実に前衛的だ。秋というのは、なんとなく落ち着いた雰囲気というのか、静かな印象を人に与えるけれど、風景はサイケで、けばけばしく、プログレッシブで、非常にパンクだと思う。こんな色彩は好みなので、僕は眺めていると落ち着くが。

 話は変わるが、今でも多いのかどうかは知らないけれど、書店に並ぶ趣味の本というのは、たいてい「〜入門」や「楽しい〜」というタイトルだ。この「楽しい」を冠するもの、考えてみたら不思議である。「楽しい」と思わない人間は、そんな本を手にすることはないわけで、当たり前すぎるのではないだろうか。
 少なくとも仕事の本ではない、という目印的意味合いかもしれない。つまり「楽しい料理」とすることで、仕事で料理をするのではなく、趣味で料理をするのですよ、ということを表現している。現に、「楽しい確定申告」とか、「楽しい結婚」となると違和感がある。「楽しい日本画」はありそうだが、「楽しい小説」は、なんか馴染まない。執筆は、そんなに楽しくないし、趣味にはならないということか……、と僕が思っているだけか。
 同様に、「美味しい〜」「綺麗な〜」「上手な〜」「美しい〜」というような形容を、タイトルにつけたものを見ると、なんとなく当たり前のことを押しつけられているようで、嫌な気がするのだが……、これも僕だけかな。
 ただ、一般にそうではないものに、それらをつけると効果はある。「楽しい受刑」とか「美しい虐め」とか「上手な家庭崩壊」みたいなふうに。これは、ややインパクトがある。
 そういったことをつらつらと考えるような、のんびりとした日曜日である。

 また話は変わるが、「スタンドプレィ」という言葉がぴったりの行動をする人がたまにいて、そういう人の多くは、準備を始めたりするまえに「こんなことをしたいと思っているのです」とみんなに吹聴する傾向にある。それ自体が、既にスタンドプレィなので、見ていて可笑しい。
 自分がやりたいことが、人を驚かすこと、人から注目されること、とイコールなので、まずは、周囲に話して反応を見る。どれくらい人から評価されるか、でやる気が違ってくるのだろう。評価基準が自分の中にない。他人に依存している。
 ただ、スタンドプレィにも、もちろんピンからキリまであるわけで、周囲を本当に驚かす、見事なプレィも当然ある。これは、職人芸といえる。見られることをプレッシャとして、良い方向に転化できる才能もあるわけだ。
 そういったことをつらつらと考えるような、まったりとした日曜日だった。

【算数】 最大公約数と最小公倍数

 整数aが整数bで割り切れるとき、bをaの約数といい、また、aをbの倍数という。
 2つ以上の正の整数に共通する倍数を公倍数といい、同じく共通する約数を公約数という。たとえば、3と5の公倍数は、15、30、45などであり、20と8の公約数は、1、2、4の3つだ。
 公約数の中で最も大きい数を最大公約数といい、公倍数の中で最も小さい数を最小公倍数という。どちらが大きいかは明らかで、どんな場合でも、最小公倍数は必ず最大公約数以上である。上の例では、3と5の最小公倍数は15、20と8の最大公約数は4である。
 複数の数がいずれも素数だった場合には、最大公約数は1であり、最小公倍数は、それらの数の積になる。
 ちなみに、「最小公約数」は常に1だし、「最大公倍数」は常に∞(無限大)であるので、こういった名称はない。言い間違えること、書き間違えることが頻繁にあるけれど、そこはお互いに意味を汲み取ろう。
 検算というわけでもないが、2つの数の最大公約数と最小公倍数が求められたら、これらをかけ算すると良い。たとえば、20と8の最大公約数は4であり、最小公倍数は40だが、これらをかけると、4×40=160になる。これは、最初の2つの数の積に等しい。どんな場合でもこれが成立する。逆にこれを利用して、最小公倍数を、2数の積÷最大公約数で求めることもできる。
 この関係は、3つの数、4つの数の場合ではどうなるか?


2006年11月18日(土曜日)

【HR】 凄すぎた日

 今日は、何ヶ月もまえから楽しみにしていたスペシャル・オープンディ。我が庭園鉄道に、日本中のモデラが集まった。
 6時に目が覚め、朝から線路の点検をする。準備万端整ったところへ、時刻どおり皆さんがいらっしゃった。関東から、井上さん、和田さん、星野さん、関根さん、須藤さん、山添さん、小池さんの7名、関西、中国地方からは、佐藤さん、木内さん、渡邊さんの3名、そして、地元からも横田さん、杉浦さんと、名だたる著名モデラ12名の大集合。いつものメンバが多いなか、今日が初めての方が5人。詳しくは、機関車製作部の最新レポートを参照のこと。以下、ほとんどの方には内容がわからないと思われるけれど……。

 まずは、井上さんと佐藤さんが製作された、国産最後の蒸気機関車として有名な協三・東洋活性白土2号機の4.8分の1スケール。東西の巨匠が、たまたま同じ機関車を製作されていたのだ。この2台が出会ったのは、もちろん今日が初めて。これだけでも、もう最高に素晴らしいイベントといえる。
 このほかにも、横田さんの有名な木曽森林鉄道の機関車や、今回が3回目の木内さんのシェイ、そして、関根さんの完成間近のシェイも走った。

 写真左が井上さん、右が佐藤さん。名人2人が我がガレージ駅で機関車を準備中という感動のショットである。
 井上さんは、ロボットが乗った不思議な車両や、日本最古の鉄道模型といわれる機関車を復元したものなど、沢山素晴らしい作品を持ってこられた。全線が渋滞寸前というくらい賑やかだった。それでも、衝突事故もなく、皆さん、さすがにベテランである。
 小さい機関車も沢山走った。この分野では日本の第一人者、和田さんが今回初めていらっしゃって、いろいろお話しができて、もう感激である。井上さんといい和田さんといい、僕にとっては神様のような存在であって、たとえるならば、ジョディ・フォスタがうちへ遊びにきた、というのと同じくらい感激ものである(例が悪い?)。若いときからの憧れのモデラなのだ。

 写真は40年もまえに作られた機関車を見事走らせる井上さん。現在、僕もこれと同じ機関車を作りつつある。なんとか1年後くらいには完成させたい。
 奥様連れの方も2名。それから、中央公論新社のN倉氏も(I子氏に続き、新幹線で降りそこなって京都まで行ってしまったため)遅刻したものの、お昼頃到着。女性陣は、家の中でスバル氏とおしゃべり&お菓子を楽しんだ模様。パスカルも、そちらのグループに。
 今回は、東京から須藤さんが大型トラックで荷物を一気に運んでくれたおかげで、こんなに沢山機関車が集まったのである。いやあ、凄かった。濃すぎ。何があったのか、ぼうっとしてしまうほどだった。
 庭には至るところに機関車ばかりになったのに、暗くなるまえに、素早く綺麗に撤収。あっという間にお別れになった。今は、その余韻に浸っている。
 ああ、凄い。本当に凄かったなあ……。とにかく、今年一番の凄い日だった。

【国語】 挙動

 「挙動」という言葉を、理系の多くの分野では、物体に対して用いる。英語はbehaviorだ。たとえば、これこれの条件における鉄の挙動を調べる、というように。風の挙動、空気の挙動、水の挙動、光の挙動など、いずれも自然だ。しかし、小説にこれを書くと、必ず校閲から「変です」と指摘される。
 物体の性質によく用いられる言葉として、「影響」や「効果」がある。繰返し応力を受ける鉄の挙動に与える温度の影響、あるいは、鉄の挙動に関する温度の効果、などのように用いる。また、逆に、影響を受けるような場合には、それを「依存」といったりする。鉄の挙動は温度に依存している、というように。こういったものも、一般的な語感とは少しずれているだろうか。
 そもそも、文章で物体が主語になりやすい。力で鉄を変形させる、とは滅多にいわない。力によって鉄が変形する、という。論文では、「私は実験を行った」とは書かない。「実験を行った」とだけ書く。特に英語にするときには、「実験が行われた」と書く。「鉄の挙動が調べられた」と書く。
 古くは、挙動ではなく、「ふるまい」と書くこともあったし、動詞で、「高温時に鉄がどうふるまうのかを確かめる」などとも普通に使う。 
 僕の場合、人間に対して「挙動」や「ふるまい」を使う機会は、まずない。
 過去のMLAを「挙動」で検索したところ、10/12の【理科】「壊れ方」と、昨年11/11にエクスプローラの「挙動不審」に使っていた。


2006年11月17日(金曜日)

【HR】 ばりばり仕事

 晴天。でも、秋らしくなった。北風だし。燃えるゴミを5袋出した。
 午前中、2時間ほどかけて庭の掃除をする。いつの間にか、もう虫がほとんどいない。鳩が庭の樹の枝に巣を作った。手が届くくらいの高さだ。不用心な鳩である。

 システムキッチンのメーカの人が、リフォーム専門の建築屋さんを連れてきた。東京に本社がある会社で、デザインを得意としているようだ。その営業の人は建築学科出身で、大学時代の教科書が、僕の書いたものだったと話していた。世間は狭い。キッチンは、図面ができてきて、だいたいそのとおりにしてもらうことに。色はブルーにした。壁のタイルも貼り替えるので、これは後日サンプルを見て決めることに。スバル氏は市松模様にしたいと話している。
 あと、1階のお客さん用トイレを、隣の倉庫とつなげて広さを倍にする工事と、2階のお風呂の工事について話した。こちらは、まだまだすり合わせが必要。そのほかにも直したいところがいっぱいだが。
 そもそも、ここを買ったときには、この家を壊して、新しい家を設計して建てるつもりだった。それが、とりあえず住んでみたら、もの凄く住みやすかったので、このまま使うことにしたのだ。輸入住宅だが、このメーカが日本で最初に建てた家と聞いている。当時、まだ輸入住宅という言葉さえなかった頃だろう。非常に変わっていて、ツーバイフォーでもない。しっかりとした作りなので、現状で構造的にはまったく問題はない。設備関係を直せば、まだ住めるとは思う。
 ここに引っ越してから、ウッドデッキを全面的に作り直し、プールを壊してガレージを建て、庭を石畳みにして線路を敷き、芝も取り替えたし、樹も何本か植えた。ゲートの機械も日本製に交換したし、昨年は外壁のペンキを塗った。また、インテリアでは、リビングの壁を塗装し直したし、ガス給湯器とエアコンをすべて取り替えた。これらを合計したら、立派な家が1軒や2軒建つくらいは出費している。この際、もう少しかけて直そう、と思う。

 コーヒーメーカが調子が良い。美味しい。スタータセットというのを一緒に買ったのだが、これがエスプレッソやコーヒーのカセットが10種類、200杯分くらい入ったもので10000円だった。いろいろ試して飲んでいる。もう6杯くらい飲んだ。どれも美味しい。スバル氏が今日、スーパで珍しくアイスクリームを3つも買っているので、「どうしたの?」ときいたら、「コーヒーフロートにするの」と言う。「そういう発想は素早いよね」とコメントすると、「ぴっぴっぴっとね」と調子が良い。
 明日は一日遊びたい日なので、仕事を6時間ほどした。「銀河不動産の超越」を推敲して13000文字になった。文春の編集部へ発送。これも終わり。予定よりも3日早い。なんとか片づいた。あとは「η」と「ZOKUDAM」のゲラを読めば良いので、今月後半は少しのんびりできるか。

【体育】 野球

 僕たちが子供の頃は、スポーツといえば野球だった。みんなが野球を見ていたし、野球をしていた。野球をしない子供はいないくらいだった。小学校の高学年になれば、男子はほとんど全員グローブを持っていた、という時代だ。
 ところが、僕の子供たちの世代は、あんな小さなボールを投げたことがない。どうやって投げれば良いのかわからない、というほどになった。たまにTVを見ても、ルールがわからない。TVでは、ルールの説明などしない。だから、どんどん見る人口も減っていった。サッカーが代わりに台頭するのか、と思っていたら、そうでもなさそうだ。ただ、多様化しただけに見える。
 野球は、広い場所や、バットやグローブが必要だし、硬球は危ない。小学生たちは軟球という少しソフトなボールを使った。ソフトボールも、今よりもっとメジャで、みんながやっていた。バットやグローブを使わないハンドベースボールなるものもあったし、大きなボールを使ったフットベースボールなどもあった。亜流が沢山生まれたが、いったい誰が考えていたのだろうか?
 フォースアウト、フィルダースチョイス、ボーク、インフィールドフライ、サイクルヒット、コールドゲーム、セーフティバント、パスボール、ワイルドピッチ、ダッグアウト、スクイズ、スリーバント、フルカウント、ナックル、スライダ、ブロックサイン、セットポジション、ヒットエンドラン、マウンド、振り逃げ、隠し球、四球、犠打、遊撃手。これらの意味が全部いえれば、野球ファン一歩手前の普通の人。ちなみに、僕の広辞苑には、すべて載っていた。


2006年11月16日(木曜日)

【HR】 コーヒーが飲める

 少し寒々しい。季節相応か。でも、日が照ると暖かい。11月も後半。少々疲れ気味。たぶん、ここ数日の頑張りのせい。
 午前中に小説の仕事を片付ける。文春の「銀河不動産〜」は12000文字まで書いた。これで終わり。あと、2日かけて手直しをするつもり。角川の「もえない」のゲラは昨夜見たので発送。「日経パソコン」の連載28回のゲラも確認した。仕事しすぎ。
 「ジャーロ」の連載4回目と、1月刊の講談社ノベルス「η(イータ)なのに夢のよう」のゲラも今夜来る。今月後半は、これらのゲラで終わってしまうだろう。来月はいよいよ、スカイ・クロラシリーズの第5話を書くことになる。タイトルはほぼ決めているけれど、まだわからない。

 庭の掃除を軽くすませる。スバル氏はポインセチアを鉢植えにして玄関のところに飾っていたが、だいぶまえに某花屋で見た青い色のポインセチアを思い出して、「やっぱり青が足りない」と言いだした。お昼頃、パスカルも乗せてドライブし、その花屋へ向かう。1つしかなかったし、1週間もまえなので、もう売れてしまっただろうと思っていたら、今日は2鉢あった。ブルーの液を吸わせてその色にするらしい。1鉢買ってきた。残念ながら、写真は出かけるまえに撮ったものなので写っていない。
 ガレージに棚を3箇所作った。板にL字金具を取り付けて、柱や壁に木ネジで留めただけのもの。インパクトドライバがあるので楽な作業。ものが増えているので、置き場所をどんどんこれから作っていくことになるだろう。立体的になると楽しい。

 「四季」の愛蔵版BOXセットの見本が届いた。これは、シャープでクールだ。外見も凄いが、中もちょっと凄い。光の反射を使わないと読めない折り返しなど、秀逸。日本語の本はこの大きさが良い。
 それから、のんた君の図書カードも届く。こちらは可愛い。これは、「四季」のために一般公募した解説・感想の掲載者へのプレゼント用に作られたもの。既に、「春」と「夏」で掲載した人のところへは送られているはず。ちなみに、普通版の「春」の緑は蓮の葉らしい。「夏」はひまわりかと思ったが、違うとのこと。一部で話題になっているので、書いておく。

 先日買った、コーヒーメーカが届いた。とても嬉しい。ここ3日ほど、これが到着することが一番の楽しみだった。そして、その間コーヒーを飲んでいない。断カフェだった。さっそく飲んでみた。美味しい!
 美味しいコーヒーを飲めば、良い作品が書けるだろう(思い切って嘘を書いてみた)。

【社会】 防風

 今住んでいるところは、山の頂上付近なので、風が強いのか、というと全然そうではない。周囲に大きな樹が多いためだ。風の強い日は、これらの樹がダイナミックに揺れ動くので、窓から見ていると、もの凄い強風だなと思える。しかし、庭に出てみても、そんなに風が吹いていない。庭には風力風向計を取り付けてあるが、それを見ても思ったほど回っていない。
 そんな日に、車で街へ出ていくと、もの凄い風が吹いていてびっくりする。住宅地でも、商店街でも、同じだ。吹き曝しという言葉があって、平野で障害物がない場所、たとえば、グラウンドのような広い場所では、風が強い。砂が舞い上がる。窓を開けていると、家の中が砂だらけになる。これまでに住んだ家はすべてそうだった。今の家では、砂が溜まることはまずない。山の上まで砂が飛んでこないのか、それとも風が弱いからなのか。
 昔から防風林というものがある。枝葉をつけた樹木は、風のエネルギィを吸収する。樹が揺れることで、風が弱まる。ビルディングや家が密集していても、風は弱まらない。風が通り抜ける場所ではかえって強くなる。風のエネルギィを吸収するものがないためだろう。
 森林を切り開いて造られた街は、街路樹や庭木が育つ20年くらいは、吹き曝しだ。砂も舞い上がる。新しい街は、風と砂の街だ。


2006年11月15日(水曜日)

【HR】 問い続けること

 秋晴れ。やや風が強い。日差しがまっすぐ地上に届く感じ。
 今日も、午前中は研究関係で外出。お昼に戻った。少々疲れた。
 午後は、スバル氏とショッピングセンタへ。久しぶりにたこ焼きを食べた。ポインセチアというらしいが、あれをスバル氏が3つ買った。荷物を出したりもした。いろいろ雑用も片づけた。庭の掃除もした。ダンボール箱も壊した。僕の働き者め。

 車の中でたこ焼きを食べながら走ったのだが、そのときにスバル氏が話していたこと。昔は、歩きながら食べたりしたら、先生に怒られた。ジーンズなんて穿いていたら、大人から睨まれた。それが、今は何をしても良い。自分が好きでやっていたことが、全部時代を先取りしていた、先見の明があったのだ、と彼女は言いたいらしい。そうではなく、とにかく多様化し、なにもかもが許される時代になったのではないか。シャツをズボンに入れずに着ていても、みっともないと言われなくなったし。会社へスーツにネクタイで行かなくても良くなるのも時間の問題だろう。いろいろ自由になっているけれど、なんのことはない、ただ、普通になっただけのこと。今までが、制約が多すぎたのだ。どうして制約が多かったのか、といえば、それは社会が全体的に貧しかったからである。

 ところで、僕は小さいときから、人と同じことが嫌いだった。天の邪鬼だったのだろう。みんなと一緒だ、と言われるとやりたくなくなる。仲間が大勢になると、そのグループを抜け出したくなる。おそらく、そのグループの中で生まれる、制約みたいなものに対する抵抗だったのではないか。
 流行というのは、大勢の人が同じことをする。しかし、それは一種の制約だ。流行から外れているものは駄目なもの、という価値観が生まれるためである。生産者からすると、大衆が流行に乗ってくれることはありがたい。限られたものを生産するだけで良い。王様も嬉しい。いかにも国の統制が取れているように見えるからだ。
 流行に従っていれば、そのつど何が良いのか、と考える必要がない、というメリットがある。僕は、そのつど自分で考えたい。だから、人と同じことが嫌いなのだと思う。これは、模型でもそうで、どんなスケールか、どんなカテゴリィか、普通は自分の向かう分野を決めて、趣味を楽しむものだ。方針を最初に決めていけば、あとは楽だけれど、そのつど考えたり、悩んだりすることが、楽しみだと思うから、趣味で効率化を追求してもしかたがない、本末転倒だ、と感じる。無駄があった方が楽しいし、いつも、自分は何をしたいのか、と問い続けることができる。

 「銀河不動産〜」は5000文字書いて完成度60%。明日・明後日で書き終わるつもり。土日で推敲して、月曜日が締切。ぎりぎりだ。「もえない」のゲラが角川から到着。明日読む予定。スバル氏が絵を描く関係で、「ついに来たか」とおっしゃっていた。
 「ダウン・ツ・ヘヴン」の文庫版も見本が届いた。シンプルで好ましいデザイン。「ああ、文庫って、これだよな」と思った。ちなみに、「フラッタ・リンツ・ライフ」ノベルス版の方は、イラスト待ちで発行は(予定は過ぎているが)未定。いつものことで、原稿を10カ月もまえに既に渡してあるが、なかなか描いてもらえない。今年中の発行は無理っぽい。
 今月は、先日の「四季」2冊に、このあと愛蔵版BOXセットも出るから、数え方によっては、1カ月に文庫を7冊出すわけで、過去最高記録だろう。愛蔵版を1冊と数えても文庫4冊発行は初めてだと思う。

【算数】 1頭のロバ

 前回の11頭のロバを知らなかった人が、わりと多かったので驚いた。世界の人口の2割、日本の人口の7割くらいは知っているものだと認識していたからだ(冗談)。「どうして、息子たちが遺言を守らなかったのかが、わからない」というメールもいただいた。そこで、今回は、オリジナルバージョンとして、「1頭のロバ」というお話を考えた。「1杯の味噌煮込みうどん」にしようかと思ったが、凝りすぎると、わかりにくくなるので断念した。
 死んだ父親が一人息子に遺したのは、1頭のロバと遺言だった。遺言には、「おまえには、1/2をやろう」と書かれていた。そこへ賢者が1頭のロバを連れて現れた。「このロバを君にあげよう。ほら、2頭になった。これで、君は1/2の1頭を安心して受け取れるだろう」と賢者は言った。
 なるほど。自分は2頭の1/2の1頭をもらい、残った1頭を賢者に返せば良いのか、しかし、少し変だぞ……、と息子は首を捻る。そして、考えたすえに、こう言ったのだ。「父が残してくれたうちの1/2は、遺言どおり僕のものであって、それに貴方からもらったロバを加えると、僕は1.5頭をもらう権利があります。お礼に、残った0.5頭を差し上げましょう」
 これが正しい。賢明な息子であり、賢者は単なる奉仕者として、真に人を救ったことになる。
 以上から考えて、11頭で悩んだ3人は、以下のようにするのが正しい。
 賢者からもらった1頭は遺言を参考にして6:3:2の比率で分け、父からの遺産と合計する。したがって、11×1/2+1×6/11=133/22=6.045頭を長男が、11×1/4+1×3/11=133/44=3.023頭を次男が、11×1/6+1×2/11=133/66=2.015頭を三男がもらうのだ。この方が、3人とも実は若干得をする。そして、父親が指定しなかった11頭の1/12、すなわち残りの0.917頭を賢者に返す。賢者も文句は言えないはずだ。


2006年11月14日(火曜日)

【HR】 おかんむり

 曇り空で雨が降りそうだったが、なんとかもちこたえた。午前中は、研究関係で出かけていく。帰りに区役所へ行って、印鑑証明をもらってきた。これはホンダへ持っていくため。
 粗大ゴミのパンフも役所でもらってきた。大きなベッドのマットレスを2つ捨てたい。業者に頼むと、2、3万円かかるようだ。市の環境事業部だと、いくらだろう。スバル氏は、絨毯を4枚、粗大ゴミに出そうとしている。

 車の代金を1週間以上まえに、全額ホンダの口座へ振り込んだのに、受け取りましたという連絡もなく、今日店で尋ねてみたら、まだ気づいていなかった。大丈夫か、ホンダ。商才はあるが、ぼんやりしている、という店。
 スバル氏とインテリアショップへ行き、エスプレッソのカップを6つ購入。例のコーヒーメーカが来るので、これからはお客さんにエスプレッソを出そう、というつもりのようだ。この店で、最初に見つけたカップが1つだけだったので、もっと数がないかと店員にきいたら、「ありません」と即答された。それで、一旦は諦めたが、店内の違う場所に幾つかあった。大丈夫か、この店も。店長とおぼしき男性は、かなりしっかりしていたが、バイトの店員はこんなものかも。別に、一所懸命働いて、積極的に応対しても、仕事が増えるだけで、給料は上がらないし。うん、たしかにそのとおりだ。
 同じ店で、絨毯も1枚買った。新しく来るソファの下に敷くつもりらしい。
 スバル氏は、両方の店に対して、そうとうおかんむり(古いな)だったが、「こういうので腹が立つのは歳をとった証拠では?」と指摘したら、黙ってしまった。僕は、このくらいでは全然腹が立たないのだが、スバル氏を怒らせた、という点で、遅れて腹が立つこともある。

 昨日の電気工事に引き続き、キッチンで取り外された棚を、ガレージの壁に取り付けた。屋外である。ちょっとしたガーデニングの道具などが置いておけるから便利。だんだん、身の回りが便利になる。
 模型工作は、吹き付け塗装を少し。あとは、線路のポイントマシンの点検をした。1つだけ調子が悪いものがあって、バッテリィが原因だと判明。交換することにした。あと、デッキの掃除もした。働き者だ。
 「銀河不動産の超越」は1000文字を書いた。完成度10%。書き始めたので、もう安心。「MLA4」のカバーとオビの確認もあった。僕が左利きなので、羽海野氏が途中でそれに気づいて描き直した、という絵。彼女にヨーヨーの技を見せたときに、左利きと気づいたようだ。ヨーヨーも捨てたものではない。
 ポテトチップスをようやく全部食べた。一袋やりとげて感無量です。これが、甘いお菓子だったら、甘味料です。

【国語】 ばりばりとぱりぱり

 小さいフォントで見ていると、違いがわからないことがある。bとpの違いだが、英語の文字も似ている。
 まず、ものを食べるときの音。ばりばりの方が少し固いものだ。ぱりぱりは、固いものの、さくさくと軽く食べられる。せんべいでも、薄いものはぱりぱりか。
 布の様子を表現するときにも、これらを使う。ばりばりというと、凍ったり、糊が利きすぎたりして、こわばっている感じであるし、ぱりぱりというと、同じくこわばっていても、真新しい感じだ。ばりばりの背広はごわごわして困るが、ぱりぱりの背広はきらきらしているようで、好ましい。
 よく働く様は、ばりばりであるが、威勢が良いときは、ぱりぱりである。ばりばりのビジネスマンや、ぱりぱりの江戸っ子などが、その例。
 バリへいくと、みんなばりばりで、パリへ行くと、みんなぱりぱりしている、わけではない。なんか、NHKみたいに寒いギャグだな。


2006年11月13日(月曜日)

【HR】 コーヒーメーカと電気工事

 風も治まって暖かい晴天になった。午前中は、2時間ほど庭の掃除をした。落葉を沢山拾った。それから、研究打合せのため2時間ほど外出。昼まえに戻った。

 スバル氏が高島屋へメガネを取りにいきたいと言うので、ミニで出かけた。新しいメガネを作ってもらったらしい。この頃かけているメガネのせいで、近所の奥さんから「オリエンタルラジオに似ている」と言われたからかもしれない(嘘)。
 僕は、ハンズで細かいパーツ類や素材を購入。平日なのに賑わっていた。スバル氏と合流したあと、照明器具を見にいく途中で、ふと格好の良いデザインのコーヒーメーカを見つけた。このまえ、松坂屋でも同じものを見た。気にはなったのだが、どうもエスプレッソ専用らしく思えたので、諦めていたが、今回尋ねてみたら、普通のコーヒーも出せるという。しかも、驚いたことに、一気に出して保温するのではなく、カップを置いてボタンを押したら、その場で瞬間的に1人分のお湯を沸かして出すタイプなのだ。小さなカセットにコーヒー1杯分の粉が入っていて、フィルタもそこに付いてるので、掃除の必要もない。いつでも自分だけの分を淹れられる、という点が、うちのライフスタイルに合ってる。さっそく購入した。気に入った色のものが在庫がなく、後日届けてもらうことに。

 戻ってから、電気工事をついにした。昨日日記に書いたし、秘書氏からも指摘があったからだ。2時間ほどかかったが、壁にコードを這わせ、ガレージの1階と2階にスイッチをセット。階段付近を照らすライトを壁に取り付けた。どちらからでもつけたり消したりできる配線。
 夜に2階の照明を消すと、階段が真っ暗になって下りられないので、一旦1階へ降りて、そこのライトをつけて、また2階へライトを消しに戻る、という面倒な事態になる。そこで、電池式のランプを階段のところに置いて、それを持って下へ降りて、また階段の上にランプを戻しておく(中2階なので届く)という工夫をしていたのだ。これで、便利になった。
 小説の仕事は、細々としたことを片づける日で、新連載はタイトルをフィックス、だいたいのキャラ設定などをした。今週いっぱいかけてじっくりと書くつもり。新しい物語は、イメージの展開に時間がかかる。配役や舞台装置を整えるためだ。幕さえ上がれば、あとは早い。
 レストア中の電車は、今日はモータで試験走行をした。動力装置がうまくできて、ヘッドライトとテールライトの豆電球を取り付けた。あとは、全面的に塗装をし直すつもり。
 古いものを直すとき、たとえば、建築や美術品を想像すれば良いが、日本では、古いものを古い姿のままで、単にこれ以上の劣化を防ぐだけの修理をすることが多い。しかし、欧米では、修理とは、新しくすることなので、色も真新しく、ぴかぴかにする。日本人は、古いことに価値を見出しているし、直したことがわからないようにしたい、と考える。欧米では、わからないようでは直す意味がないし、いつ直したのかを、あとからわかるようにすることが良い、と認識している。わざと古びたふうに真似て直すことは、誤魔化しであり、インチキである、との印象をもたれる。
 僕は、古くてレトロなおもちゃを手に入れたとき、自分なりに直してしまう。色も自分の好みで塗り直し、穴をあけたり、違う部品をつけたりする。そうすることでおもちゃが生き返る、と考えている。古さや珍しさの価値には、あまり興味がないからでもある。

 羽海野チカさんから、写真が届いた、とわざわざ書かなくても、誰が撮ったかわかる写真だけど……。先日、デジカメのモニタで見せてもらったら、ほとんどの写真にクマが写っていた。

【社会】 書店のシステム

 何度か書いていることだが、知らない人がまだ多いようなので、【社会】で取り上げる。
 日本の場合、書店は、売れなかった本を返品することができる。つまり、書店は、本を置く場所を提供しているだけで、自分で仕入れて売っているわけではない。どんな本でも取り寄せて店に並べることができ、売れなければ引き取ってもらえる。こういった商売は珍しい。普通は自分で仕入れたものが売れなければ小売りは損をするから、何が売れるのかをよく考え、売れる工夫をする。書店にはその努力の必要がない。
 欲しい本が書店にないことは非常に多い。日本で発行される本のうち99%以上は、日本の書店の数よりも発行部数が少ないので、当然ながら全店には行きわたらない。そこで、「取り寄せてほしい」と客が注文すると、書店は問屋(取次ぎ)や出版社にそれを発注する。しかし、こうして発注したものが万が一売れなくても、やはり返品ができるので、問屋や出版社にしてみると、注文があったからといって、すぐには本を送らない。本当に売れるかどうかわからないからだ。もっと確実に売れる店に優先的に商品を回した方が良い、と判断する。
 そこで、書店の方も、5冊欲しいときは10冊発注する、という水増しをする。問屋や出版社は、10冊オーダがきたら、5冊ほど出す、というように対応している。オーバに書いたが、だいたいこんなシステムである。
 書店に本を注文しても、ちっとも入らない、という経験をした人は多いだろう。書店の人も困っている。オーダを受けたのに入荷しないことが日常茶飯事で、他店で購入してきて、それを注文者に渡すこともあると聞く。確実にいつ入る、と書店は言えないのである。すべて、このクレージィなシステムのせいだ。 
 ネット書店が登場したおかげで、欲しい本をどうしても入手したいという一部の人の不満は、ある程度解消されているようだ。だが、システムの根本的な問題が消えたわけではない。


2006年11月12日(日曜日)

【HR】 キッチンの名機

 スバル氏推奨のポテトチップスを1袋もらった。書斎で少しずつ食べているが、ピリ辛だし、ポテトの切り方がとても分厚いので、3枚くらい食べると、少し休憩したくなる。口の中に殺虫剤を散布したみたいになるし。なかなか減らない。
 強風の一日。でも、パスカルは遠足の日。近くの緑地公園へ出かけて、一所懸命歩いた。猫に何匹も出会ったし、鳩やカラスも沢山いたけれど、全然気にしない。犬がいると立ち止まってじっと見る。どうして犬だとわかるのだろうか。長女M氏が一緒だったが、彼女が長い滑り台をすべってくると、パスカルがじっとそれを見ていた。子犬のときは、「危ないですよ!」と怒ったのだが、今日は怒らなかった。もう大人になった、と認め合っているのか。

 「ZOKUDAM」は脱稿。3万文字になった。編集部へ発送して終わり。明日からは、別册文春の新連載を書く。1万文字くらいを予定している。タイトルは明日決定するが、「銀河不動産の超越」が有力。「MLA4」の2校も届いた。校閲のチェック箇所だけを確認。初校の部分も少しあって、それは読んだ。今夜、I子氏から電話がかかってくる手筈。これは発行は12月中旬。
 先日訪れたシステムキッチンのメーカの人が来て、台所の寸法を測っていった。施工をする建築屋はまた後日連れてくる、とのこと。たぶん、トイレ2箇所とお風呂1箇所も少し直すつもりなので、その建築屋に頼むことになるだろう。ショールームで見たときは、システムキッチンは黄色で統一しよう、とスバル氏と話していたけれど、今日は、グリーンが良いな、と意見をころっと変えた。僕はどちらもで良い。スバル氏任せ。
 器具では、換気扇とコンロと食器洗い機と冷蔵庫は交換。今日来た人によると、現在あるものは、いずれも名機といわれた器具だそうだ。全部まえの住人が残していったもので、相当拘っていたことがわかる。名機だから、こんなに古くなってもまだ使えたのだろう。冷蔵庫なんか20年は軽く経っている年代物だ。リフォームはまだまだ続く。

 午後は、3時間ほど工作室で工作をしていた。久しぶりに沢山できた。今は、古いブリキの電車をリストア中。ギアボックスを自作したり、手間のかかることをしている。少しずつだが腕が上がってきたのが自覚できて嬉しいし、とても楽しい。
 明日はもう少し暖かいと良いな。今日は風が寒すぎ。
 暗くなると、ガレージの照明の工事をすることを思い出す。電源を落とさないとできないわけで、夜は無理。明るいときは、すっかり忘れている。日食の日が来たら思い出して、明るくなってから工事ができるかもしれない。

【理科】 発電機

 モータについては、2006/1/8に書いた。そのときに、発電機のことにも触れている。発電機とモータは機構的に同じものだ。
 モータと発電機のいずれが早く発明されたか、というと、これは発電機。そして、この発電機に逆に電気をかけると自然に動きだすことが、偶然にも発見され、それがモータになった。つまり、モータは発明されたのではなく、発見されたのだ。
 発電機は、電気以外の動力によって回される。たとえば、火力発電所では、蒸気タービンで発電機を回す。キャンプなどで使われるガソリンエンジン式の発電機もある。あるいは、自転車のライトを点灯させるためにタイヤにこすりつけるタイプの発電機もある。これは、人力で発電していることになる。
 発電機を回すときには力が必要であり、この力がした仕事の一部が、電力に変わる。自転車でライトをつけて走ると、その分、漕ぐときに余計に力が必要になる。ペダルが重くなる分が、ライトをつけるためのエネルギィになっている。だから、摩擦などの抵抗で発電機が軽く回らないわけではない。タイヤに発電機をこすりつけた状態で自転車を漕いでいるとき、ライトが切れれば、ペダルは急に軽くなる。最近では、非接触で発電する機構のものがあるが、これでもライトを点灯すれば、ペダルは重くなっている(発光ダイオードのライトは消費電力が微少なので、ほとんど感じないだけ)。
 自動車でも、ヘッドライトをつけて走れば、その分余分にガソリンを消費する。自動巻の腕時計をつけて歩けば、つけないときよりもほんの少し疲れるはずだし、早くお腹が減るかもしれない。


2006年11月11日(土曜日)

【HR】 発想と技術力

 今日は一日雨。起きたら8時過ぎ。パスカルはまるまると元気。
 午前中に4時間かけて「ZOKUDAM」の手直しを50%まで。予定どおり。
 スバル氏と長女M氏が買いものにいきたいと言うので、パスカルに留守番をさせて、車で出かける。僕は隣のホームセンタで時間を潰していた。いくらでも潰せる。ガレージの階段のところに照明を取り付けたいので、それらのパーツを購入。古いコンプレッサを利用して、蒸気機関車のブロア(ふいご)を作りたいので、薄い真鍮板を購入。これを丸めてダクトを作るため。こういったことをいろいろ思いついて、材料やパーツを調達するのだが、実際に作る時間がなく、どんどん宿題が溜まっていく。そのうちに忘れてしまうから、使われずに残った材料やパーツ類が膨大な量になる。もう店を開いて売るくらいあるのだ。

 そういえば、井上さんが最近作られた機関車は、なんと壊れた血圧計に内蔵されているコンプレッサ(腕にバンドを巻くときに空気を送る部品)を利用して、その空気圧でピストンを動かし、蒸気機関車と同じ機構で走るものだった。手のひらにのるほどの大きさで、よく走った。これにはびっくりしたので、さっそくオークションで壊れた血圧計を探したところ、100円で落札できた。今日それが届いたので、これも宿題。
 以前、プラモデルの塗装に使うスプレィのコンプレッサで、蒸気機関車の模型を走らせたことがあった。けれど、かなり力が弱い。血圧計のものはもっと非力だろう。簡単そうに見えるが、いかにピストンやギアが抵抗なく動くか、という工作精度が成功の鍵となる。僕がいいたいのは、アイデアも凄いが、それを実現するのは、着実な技術力だ、ということ。逆にいえば、こうした技術力を持っていないと、そういった発想を逃してしまう。
 このまえ訪問した大阪の佐藤さんのところでも、それを感じた。変な例だが、ホームセンタで1000円で売っている安い椅子を、佐藤さんも僕も、機関車を運転するときに乗る車両のシートに使っていた。同じものだ。僕は、シートの部分をネジで外し、そこだけを利用した。佐藤さんは、脚のパイプを根元で切断し、折り畳み式のまま、背もたれ部も利用していた。残念ながら、僕は一度もその発想を持たなかった。パイプを切断するなんて考えもしなかったからだ。この頃、金属工作に慣れてきたから、今ならばそれができる。しかし、気づかなかった。人間はこのように、思い込みによって、狭い範囲でしかものを発想しないようになる。
 佐藤さんの旋盤には、回転部分に普通にはないネジがついていた。それは、回転したときの100分の1mmほどの誤差を調整するためのものだ。旋盤の精度の限界なのだからしかたがない、と普通は考える。そこをなんとかしよう、という発想にはならない。思いもしないことだ。そういった自由なアイデアが、実は高い技術力の元になっている。難しいけれど、見習いたい。

 今日は、「ラジコン技術」を買ってきて読んだ。OSという日本のメーカが、模型用の4気筒直列エンジンを発売した。僕も、既に注文している。もちろん、4サイクル。これまで、水平2気筒、水平4気筒、星形5気筒などを出していたけれど、今回20年ぶりくらいだろうか。国内では、あと星形3気筒、V型2気筒、外国のものでは、星形7気筒、星形9気筒などを持っている。ロータリィエンジンもある。地下室を改造して、室内エンジンテスト場にしても良いな……とときどき思う。回すだけで面白いのだ。

【算数】 11頭のロバ

 有名な問題。
 死んだ父親が3人の息子に遺したのは、11頭のロバと次のような遺言だけだった。「1/2は長男に、1/4は次男に、1/6は三男に」と。3人は頭を捻るが、どうしてもロバを殺さなければならない。どうしたものかと困っていたところへ、1頭のロバをつれた賢者が現れた。3人は、彼に相談をすることにした。
 賢者は、話を聞くと、こう答えた。「私のロバを差し上げよう。すると12頭になる。これで分配できよう」と。3人は喜んで計算をし、12頭の1/2の6頭を長男が、1/4の3頭を次男が、1/6の2頭を三男が手にした。すると、6+3+2=11頭であるため、1頭が余ってしまう。そこで、その1頭をお礼に賢者に返すことにした。賢者は、黙って微笑み、去っていったという。
 1/2+1/4+1/6=6/12+3/12+2/12=11/12であり、もともと、3人の取り分を合わせても1にならない。父の遺言どおりに11頭を分けると、長男は、11×1/2=5.5頭、次男は11×1/4=2.75頭、三男は11×1/6=1.833頭となり、11×1/12=0.917頭が余る。賢者の提案で、3人ともが得をしたことになるが、これは、父が指定しなかった遺言の残りの1/12を、3人が、6:3:2で分配した結果である。比率だけは遺言どおりだが、3人とも、遺言を守らなかったことは確かだ。


2006年11月10日(金曜日)

【HR】 ゲームと工作

 起きたら、7時半。8時にゴミ収集車が来るので、急いで今日も段ボールを10箱ほど壊した。なんというのか、ゴミを出す清々しさが理解できたのは、僕の人生でもつい最近のことである。
 午前中に小説の仕事をする。「ZOKUDAM」は27000文字まで書いた。これで完成だが、あと2日かけて推敲する予定。順調。
 スバル氏が出かけるので、駅へ送っていき、ついでにホームセンタへ寄ってきた。モータや豆電球を購入。

 僕が子供の頃は、工作に必要な各種パーツが、小学校の前にある文房具屋で売っていた。マブチモータもすべて揃っていたし、タイヤもプロペラもスクリューもプーリィも、角材も竹ひごもボール紙も、全部あった。これはどの地方でもそうだったらしい。僕より年輩の人から話を聞くとだいたい同じだ。もともと、科学工作が教育の一環として学校で取り扱われていた時代の名残だったのだろう。その当時よりも今の方が、こういったパーツは手に入りにくい。
 タミヤが発売しているような各種のギアボックスも、大人が出入りする店(ハンズとか)にしかない。電車に乗って買いにいかないと手に入らないので、子供は困る。工作の手本となるような読みものも、今の子供たちの周囲にはない。綺麗さっぱり消えてしまったようだ。
 そういったことが、不幸だとか、可哀相だとは全然思わない。ただ、僕たちは、そんな時代に生きてきて、おかげでこんなに楽しい思いをした、というだけのこと。いつの時代でも、それぞれにまた楽しみがあるだろう。僕が子供のときに、もし今のTVゲームがあったら、工作なんかしていなかったにちがいない。そっちの方が手っ取り早く、面白いと感じたと思う。

 TVゲームの類は、高校生から大学生くらいの頃から出始めた。単純なものだったけれど、もの凄く楽しかったし、みんなのめり込んでいた。僕もかなりやった。でも、根を詰めて極めてしまっても、ふと、これは自分がなしたものではなく、誰かにやらされているのでは、と感じられるのだ。なしとげたのに妙に虚しい。自分が作った道ではなく、他人が作った道を歩かされた感覚だ。そう思ってしまうと、自分の時間が奪われたような気がしてくる。いや、奪われるのが良いのだ、と思える人はそれで良いかもしれない。とにかく、そういうわけで、25歳くらいのときに、ゲームの類はすべてをやめることにした。自分の残り時間を考えたからだ。
 工作の場合、たとえば、キットのようなものだと、少しだけこの虚しさを感じるときがある。しかし、決められたものを辿ることが、その後、自分で道を切り開くときに活きてくる。それがわかっていると、楽しくなってくる。練習や訓練というものは、将来いかにそれが活かされるのか、ということを知ると、苦痛ではなくなり、逆に楽しみになるものだ。
 コンピュータゲームは幾つか本格的なものを自作したことがある。そのときには、過去のゲーム体験がたしかに活かされたし、作ることも楽しかった。今、工作に没頭して、プログラムをしなくなったのは、たぶん、子供のときにそれをしていたかどうか、の違いだと思う。

【国語】 過去形のイメージ

 「彼は素晴らしい人だった」という過去形は、英語ならば、既に彼が死んでいるか、あるいは、今は素晴らしい人ではない、と相手に受け取られる。しかし、日本語の場合は、過去に彼と会ったときの印象を述べているに過ぎない。現在の彼の状況については、ニュートラルな立場である。
 「あのとき、僕はそう思った」と書けば、現在の状況には言及していないが、「あのときは、僕はそう思った」とすると、今はそうは思っていない、ということを仄めかしている。では、「あのとき、僕はそう思っていた」とするとどうだろう。難しいところではないか。人によって受け取り方が異なる。
 この頃は、日本人でも英語的に日本語を使う。だから、「昨日、彼は来る予定だった」と書くと、かなり多くの人は、彼は昨日なにかのアクシデントで来られなかったのか、という印象を持つ。しかし、本来は、そういった意味はこの文にはない。受け手が勝手に話の先を予測してしまうことは、日常茶飯事である。
 「そして、予定どおり彼はやってきた」と続けてもおかしくない。けれど、これも、来なかったのかな、と一瞬思わせて、実はちゃんと来た、という一種の演出ともとれる。


2006年11月09日(木曜日)

【HR】 キッチンのリフォーム

 秋晴れ。涼しくなって、秋らしい。パスカルが庭をあまり一所懸命走るので、ラベンダが折れたり、線路の砂利が飛んだりして、小さな被害が続出している。その対策について、スバル氏と話し合った。長閑な問題だ。
 今日は用事が多く、小説の仕事は夜にしかできない。たぶん、「ZOKUDAM」を16000文字まで書くだろう。それが予定。

 お昼頃、スバル氏とシステムキッチンのショールームへ出かけていった。キッチン家具の専門メーカのようだった。なかなか落ち着いたデザインで良かった。表面の色や艶などを選べるが、実際にそのパネルを貼り付けて、再現できるコーナもあった。3フロアほどある展示を全部見て回ったが、最後のコーナで、見慣れたものを見つけた。材質も取っ手のデザインも、今の家のものと同じなのだ。そう、現在ある古いキッチン家具が、偶然にもこのメーカのものだとわかった。まえの住人が、ここでオーダして作ったのだろう。では、どうせならば同じメーカで、ということになりそう。後日、専門家と施工関係の人に来てもらい、見てもらう約束をしてきた。これで、キッチンも動きだした。トイレと風呂はまだだが、きっと直すことになるだろう。
 パスカルをスバル氏と2人でシャンプーした。洗うと、乾くのに半日はかかる。そういうウェットな状態で、家の中を走り回るので、大騒ぎである。この頃、少し冬毛になった(今まで夏毛だったのか、というのが驚きだが)。夏は多少茶色っぽかったのだが、だんだん黒くなってきた。密度も確実に増している。とにかく、丸い。
 井上さんのところで見たものに刺激されて、ちょっとまえに入手した古い電車のおもちゃをレストアすることにした。昨夜、1時間ほどかけて、部品をばらばらに分解した。今はない50mmゲージなので、これを45mmに改軌し、また、ゼンマイで動くおもちゃだが、調子が今ひとつなので、モータで動くように改造することを考えている。こうやって考えるときが一番楽しい。

 「四季」文庫版の「春」と「夏」の見本が届いた。これは、愛蔵版ではなく普通版の方。オビまで含めて非常に挑戦的なデザインで良い。あとの2冊は来月になる。解説には、読者から募集したもの(感想)が掲載されている。これも、珍しい試みではないだろうか。この作品が文庫になって、ひとまず一仕事は終わった、という気持ち。

【図工】 名人の工作環境

 最近、何人かのベテランモデラの工房を見学させてもらった。どこも、僕の工作スペースよりは狭い場所で、高密度にものが配置されていた。工作とは、削ったり切ったりが多い。金属の切り子や粉が舞い散る。油も飛ぶ。そういったものでまみれることになるのだが、高価な精密品が沢山周囲に置かれていた。まったくおかまいなしである。そういうものに神経を使うのは、作る人ではなく、集める人なのだろう。
 ただ、一人のモデラは、銀ロウづけをするスペースを見せてくれたとき、換気扇を回し、ライタに火を灯して、いろいろな位置で、炎がどちらへなびくかを見せてくれた。気流がどう動くかを気にされているのだ。つまり、安全性は確保されている、ということ。整理され綺麗である必要はない。安全でさえあれば、作り続けられる。それで良い、という姿勢だ。
 ものを作っていれば、もの凄く散らかる。机の上などはたちまちもので溢れ返る。工作機器の周辺も例外ではない。掃除ができるような状態では全然ない。それでも、そこから素晴らしいものが生まれる。「現場」とはそういうものだ、と強く感じた。少なくとも僕がこれまで見た限り、一流モデラの工作環境が、雑誌に掲載されているような工具類が整理整頓された工房、あるいは合理的な配置の洗練された工作室だった例は一つもない。


2006年11月08日(水曜日)

【HR】 押しつけがましいこと

 昨夜は冷え込んだらしい。朝が遅かったので、起きたときにはもう日が差して暖かかった。庭で1時間ほど、落葉を拾って掃除をする。パスカルがちょろちょろと走り回って、はしゃいでいる。まだ、若いからだろうか。

 僕が留守だった間に、スバル氏はキッチンとバスルームを大掃除した。タイルが綺麗になっていた。それで、昨夜は半年ぶりくらいに、シャワーではなく、お風呂に入った。お風呂のときは、スバル氏も大きい方のバスルームを使う。強力な換気扇があるので、バスルームに湯気が漂うことがない。僕はずっと風呂が嫌いだったのだが、この広くてクリアな空気の場所で風呂に入ると、まるで露天風呂のように気持ちが良いことを知った。だから、この頃は風呂が嫌いではなくなった。
 小さな天窓が1つだけある。壁の上の三角の部分も窓。しかし、いずれもはめ殺し。天井は4メートル近くある。壁はほとんど剥き出しの木(家自体がログハウス風だから)。広いから寒いのか、というと、これがまったく寒くない。冬でも暖房はいらない。2階にあるから、夜は家の暖かい空気が自然に集まってくるようだ。寝室も暖かく、暖房を使ったことはない。冬の朝に、暖房なしで着替えができる。前日に下の階の暖房で暖まった室温が、翌朝までかなり保持されるのだ。この古い家を壊さないのは、この保温性のためである。寒冷地仕様のものらしい。特徴としては、窓はすべてはめ殺しで、ガラスが2重。開く窓もあるが、小さいし、ほんの少ししか開かない。ガレージを造るときに、壁を一部壊してドアを作ったけれど、もの凄い量の断熱材だった。壁自体も厚い。リビングに暖炉があるけれど、これは使っていない。まえの住人は、この暖炉だけで暮らしていたという。もちろん、断熱性のおかげで夏は涼しい(エアコンは必要だが)。
 しかし、僕は断熱性のほとんどないガレージを仕事場にしているので、こちらは、エアコンもストーブもフル回転である。我慢ができなくなったら、母屋へ退避することにしている。
 4日間の楽しい休暇が終わり、今日から仕事。まず、「ジャーロ」の連載「ZOKUDAM」の第4話で、約3万文字。これを今日は8000文字ほど書いた。なんとか4日で書き上げ、1日で推敲したい。

 お昼過ぎに、スバル氏とダイエーへ行った。雑誌を買ってから、食料品売り場へ。
 この頃、どこで買いものをしても、「○○カードをお持ちでしょうか?」とレジで尋ねられる。そう質問することが決まりになっているようだ。「持っていない」と答えるのが面倒だから、できればやめてもらいたい。ホームセンタでもきかれる。持っていたら出すだろうし、持ちたかったら作るだろう。持っていないと損をする、という印象を与えたいのかもしれないが、損をしてでも煩わしいことをしたくないのだ。申込書に住所を書いたり、広告の手紙を受け取ってゴミ箱に捨てたりするのが鬱陶しい。
 郵便の広告は全部開けずに捨てているが、あれがなければ、ゴミはだいぶ減るだろう。郵便ではなく、人が勝手にポストに入れていくものもある。ゴミを人の家に投げ入れるような行為であり、非常に印象が悪い。そういう広告をする企業や店の印象も当然悪くなる。僕の親父は、新聞の折り込み広告を断っていたので、新聞に広告は挟まれてこなかった。このように選択できるのが良いし、それが普通だ。
 欲しい人と、欲しくない人がいるわけだから、ポストにサインを出して、欲しいところだけに入れるのが適切だろう。ビラ配りと同じだ。手を出さない人の鞄にまで無理矢理突っ込むような行為はやめてもらいたい。
 ハンバーガを買うと、「ポテトはいかがですか?」「○○セットがお得になっておりますが」と必ず言われる。そういうセットがあることは、値段表を見るまでもなく、でかでかと目の前のポスタにあるわけで、わざわざ言われなくてもわかる、と思うのだが……。まあ、これくらいはしかたがないか。何だろう、目が見えない人、字が読めない人、それとも年寄りのためのサービスのつもりだろうか。そのいずれかに僕が見られている、ということ?

【社会】 ただが当たり前だったもの

 道を通ることは、ただだった。それが、有料道路ができて、通るだけのために金を払うことがだんだん普及した。払っても、それに対する見返りがある。つまり、快適で速く目的地に到着できるからだ。
 お茶は、日本人にとっては、ただのものだった。どんな店へ行っても、日本茶で金を取るところはない。しかし、今では、みんなお茶を買って飲んでいる。ジュースと同じ値段だ。お店でだけ無料になる。これは、だんだん有料へ向かうだろう。水だって、普通はただではない。
 捨てることも有料になった。捨てることが難しい時代になったのだから、これも当然だ。サービスだって、もう無料ではない。セルフの店が増えているが、結局は、有料だったサービスを受けないだけのこと。外国では何十年もまえから、そうだった。喫茶店で料理を運んでくる人にも、ガソリンを入れてくれる人にも、チップを渡す習慣がある。
 人によって価値観は違う。お金をかけても良い、というものがそれぞれで異なっている。ゆったりしたシートに座りたい人はグリーン券を買えば良い。そんなくらいならば高い弁当を食べたい、という人はそれを買えば良い。
 とにかく、一律にしないで、幾つかのグレードが設定されていて、それを選択できることが自由である。ただ、有料のものが普及することで、無料のサービスがすっかり消えてしまうと、多少問題かもしれない。


2006年11月07日(火曜日)

【HR】 余韻

 昨夜は寝つけなかった。やはり、刺激が強すぎたのだろう。若いときには、毎晩寝つけなかったものだが、当時はそれだけ、新しい情報が多く、考えを廻らせることが多かった、ということだろうか。
 井上氏が書かれた古い記事のコピィがまた数十枚手に入ったので、それをベッドで読んだ。また、井上氏がここ2カ月で書かれた、その倍以上のページ数のドキュメントも読んだ。もの凄い量をアウトプットされる人なのである。ついていくのがやっとで、全然近づけない感じである。

 さて、午前中は、「ナンプレファン」のO田氏と会った。メールをいただいて半年以上になるし、連載も既に4回分まで原稿を渡している。しかし直接会うのは初めて。まあ、一度お会いしましょうか、ということで……。
 午後には帰宅。電車からスバル氏にメールしたら、「ひつまぶしを買ってきて」というメッセージだったので、高島屋の地下でそれを買ってきた。夕食はそれだ。なんだか、嵐のような冷たい風が吹き荒れ、怪しい天気になっていた。急に寒くなるのだろうか。もう少し暖かい日が続いてほしい。 
 パスカルが爆発的に喜んで、その後も、遊んでくれ遊んでくれと突進してくる。ボールをくわえていて、そのボールをぐりぐりと押しつけてくる。マッサージのつもりではない。それを投げてほしいのだ。森家では、パスカルと遊ぶときは、「そうかね、だあれも遊んでくれんかったかね」と言いながらよしよしする習わしになっている。誰かが遊んでくれたかどうかという事実の確認はしない。もはや本来の意味からは解離した一種の掛け声なのである。

 4日間、仕事をしなかったので、いろいろ溜まっている。その処理をした。明日からは、平常運転で小説を書かなくてはならない。10日間くらいの間に2つ連載ものの締切がある。大変だが、まあ体調は良いので、なんとかなるでしょう。そうそう、光文社文庫「ZOKU」がまた重版。ちょっと凄い。
 写真は、まきば線で撮ったもの。古い機関車の一部が朽ち果てていた。絵になるシーンであるし、がらくたではない。これも一部の人にとっては宝物だろう。
 そういうわけで、今日は短めで……。

【理科】 錆(さび)

 鉄は錆びる。これは、酸化するということで、ようするに燃えるのと同じ。ゆっくり燃えている、とイメージすれば良い。
 錆びるとぼろぼろになって、錆びた部分は膨張するけれど、その分、健全な部分が小さくなるので、鉄が構造を支えているようなときは、崩壊する危険がある。こんな部位では、錆は大敵だ。もちろん美観も害する。
 錆を防ぐには、空気や水に触れさせないように、ペンキなどを塗って遮断する必要がある。しかし、ペンキもそんなに長持ちはしない。ほんのちょっとペンキが剥げると、そこからたちまち錆びる。むしろ、こうしてスポット的に被覆に穴があく状態の方が、被覆がまったくないときよりも錆びやすい。これは電気が関係していて、ちょっと説明が難しい。下手にペンキを塗ると、塗り残したところ(というか、境界)が、余計に錆びやすくなる。注意が必要だ。
 たとえば鉄筋コンクリートの寿命は、コンクリート自体の寿命ではなく、内部の鉄筋(鉄の棒材)がいつ錆びるのか、ということで決まる。コンクリートはアルカリ性だから、きちんとカバーされていれば鉄は錆びない。表面が少しだけ錆びた鉄をコンクリートに入れると、錆が消えるくらいである。しかし、アルカリ性も何十年もの間に表面からしだいに失われる(中性化する)。こうなると、鉄が錆び始める。だから、コンクリートの表面から、どれだけの深さに鉄筋があるか、その距離で寿命が決まる。
 貴金属は錆びにくい。錆びにくいからこそ、装飾品として使われてきた。また、錆でも良質なものがあって、その錆が表面を覆えば、悪質な錆を防ぐ効果もある。わざわざ、そういった錆で表面処理をすることもある。


2006年11月06日(月曜日)

【HR】 モデラの工房訪問

 朝から銀座線で浅草へ行き、東武電車に乗る。今日も中央公論新社のN倉氏と一緒だ。向かった先は、埼玉の越谷で、駅は大袋という初めての場所。駅前で、先輩モデラの井上昭雄氏と星野公男氏とご挨拶。8月の大阪のコンベンション以来。
 星野氏は、機関車趣味のためだけにマンションを購入して、3LDKのすべてを機関車だらけにされている。その秘密工房がここにある。男の趣味道の到達点の一例を拝見しにきた、という感じ。噂には聞いていたものの、やはり実物を見ると、まさに溜息が漏れる。素晴らしい。

 壁にはすべてレトロな機関車のコレクション。数え切れない。僕も星野氏の影響で、数台ならば持っているけれど、その何百倍もある。価値の高いものばかり。さらには、星野氏が自作された大型模型のライブスチームも、ところ狭しと床を占領していた。ここに入りきらないものが、また方々に預けられているのだ。工作室も拝見したけれど、ここであんな大きな機関車が、というくらいの、ごく普通のマンションの一室だった。やはり、できるかできないかは環境ではない、と思った。
 近くのレストランでお昼を井上氏にご馳走になり、今度は車で浦和の井上氏邸へ移動。こちらはご自宅。もうかなり古い伝統的な日本家屋だ。しかし、家の中に一歩入ると、もう異次元空間。ちょっと表現できないほど、目移りで眩暈に襲われるくらい凄まじいものばかり。一言でいえば「機関車がいっぱい」なのだが、深呼吸をしてから、じっくり一つ一つに焦点を合わせる。見たこともないものだらけ。「お、これは凄い、何ですか?」ときけば、すべては井上オリジナルなのである。

 庭に小さな離れが建てられている。ここが井上氏の工作室。もうなんというのか、もちろん噂には聞いていたし、いろいろなメディアで何度も紹介されてはいるけれど、やっぱり中に実際に入ってみると、どんな言葉も不足である。夢のコクピットともいえる工房だった。見るものすべて、出てくるものすべてが宝物のような場所。おそらく、ツタンカーメンの墓を発見したハワード・カータがこんな興奮を覚えただろう。
 古いものもあるし、まさに工作中のものもある。なかでもびっくりしたのは、今現在、井上さんが製作されている機関車だ。前代未聞、本当にそんなものが可能なのか、という超びっくり、SFの世界だった(あえて、紹介しない)。しかし、緻密な設計図が束になっていて、ちらりと拝見したところ、立体組み立て図も既にあるではないか。そのまま「模型とラジオ」に載っている記事かと思うほどだった。とにかく、凄い。信じられない。井上さんは、もう80歳を超えるご高齢なのである。そのパワーというか、オーラというのか、とにかく比類がない。深い感動を味わった。カリスマとはこういう人のことである。
 下の写真は、自転車の車輪を利用した試験走行装置で、新作の電車を走らせている井上氏(右)と星野氏(左)。

 呆然としたまま東京へ戻り、夜は、中公のI藤氏とN倉氏と打ち合わせ。しかし、打ち合わせというよりは、将来の展望をぼんやりと語る会になった。半分は井上氏の話をしていたような気もする。
 井上氏のなしたもの、これからなされるものを想うと、もう少し自分も生きていたい、そして、もっと自分もなにかをなせるかもしれない、少しでも近づきたい、という気持ちが自然にわきあがってくる。そうか、これが生きる力というものか……、と感じた。

【算数】 変数

 ある決まった値のものに、a、b、cといったアルファベットを用いるのに対して、値がいくつかわからないもの、あるいは、変化をし、結果的にその範囲を求めたいようなものに、x、y、zという、後ろの方にあるアルファベットを使う。
 これは、伝統的ないわゆる習慣であって、特に、数学ではこうだと厳密にルールが決まっているわけではない。別に、未知の数にaを使い、既知の数にxを使っても、間違いではない。多少混乱を招くだけである。
 だいいち、x、y、zでアルファベットが終わりなので、未知の数が4つあるときは、困ってしまう。別になんでも良い。ただ、既知なのか未知なのかを宣言する必要がある。
 たとえばこんなふうだ。「カケル君の年齢をx、ヤスオ君の年齢をyとしよう。また、そこへやってきたある人物の年齢をaとするとき、2人の年齢の合計より、その人の年齢が多い場合に成り立つ範囲を答えよ」といった問題を書いても間違いではない。この場合の答は、「求めるaは、a>x+yである」
 でも、式だけを見た人は、aが既知であり、xとyが変化すると思い、xy平面の範囲を想像するだろう。
 犯人は普通xである。怪人もxだ。なんとなく怪しい記号として、世界中でイメージされている。たとえば、レントゲンのX線などが、このイメージの命名だろう。


2006年11月05日(日曜日)

【HR】 鉄道視察班

 ホテルの前に9時半にバスが到着する手はずだった。20人以上乗れる大型車だ。その前面には、「欠伸軽便鉄道視察班」と表示されていた。やりすぎである。
 集まったのは、またも同じメンバ。よしもとばななさん一家とそのお友達、羽海野チカさんとそのお友達、中央公論新社のM松氏とN倉氏、合計10名である。表示にやや偽りあり、ではあるけれど、とにかく予定どおりバスは出発した。

 千葉の成田へ向けて高速道路を走った。バスの中では、N倉氏が大きなバッグからつぎつぎと駄菓子を出す。バナナや飲みものもある。30種類くらいあったかもしれない。凄かった。これに反応しているのは主に羽海野氏で、彼女も持参のお菓子を出されて、N倉氏と盛り上がっていた。一日が危ぶまれるほどの出足だった。
 1時間半後に到着。成田ゆめ牧場というところ。動物などと遊べるオープンな観光牧場、つまり公園のような施設。行楽シーズンでもあり、天候も素晴らしい。お客さんやペットの犬で賑わっていた。
 羅須地人鉄道協会の人たちがこの牧場の一部を借りて、自分たちで建設した鉄道を運行している。これを見学させてもらいにきたのだ。2フィートゲージといって、線路の幅が60cmしかない軽便鉄道である。軽自動車よりも小さいくらいの可愛らしい機関車が沢山いるが、これらはすべて廃棄された古いものをレストアした機関車たち。大変な労力と技術が必要だったと思う。