2006年10月05日(木曜日)
【国語】 話し言葉
小説を書くようになって、話し言葉というのか、会話文を書かなければならなくなった。もともと、人が話すときの言葉の選択の癖、言い回しの癖、スピードや訛りなどを、よく観察し、また覚えている方なので、こんなふうに人はものを言う、というように自然に書けたら良いな、と考えている。
ところが、そういった自然な会話をキャラクタにさせていると、読者がわからなくなってしまうのだ。現実の会話というのは、身振り手振りがあり、表情があり、お互いのバックグラウンドがあり、また目で見ているもの、耳で聞こえるものも同時に入力としてある。それを、単に文字だけにすると、情報は伝わらない場合が多い(現実でも部分的にしか伝わっていない)。
また、会話には、かなりの頻度で言い間違い、言葉の選択ミス、読み方のミス、加えて、本人の覚え間違いなどが現れる。ようするに、現実は小説より100倍は誤植がある、と思えば良い。逆のことを言っているのに、相手も察してちゃんと伝わったりもする。だから、リアルに会話を書くと、読者は首を傾げてしまうだろう。
小説でもそうだが、ドラマや洋画の吹き替えなどを見ても、性別や年齢によって口調を使い分けている。こういった年齢に応じた話し方をする人は、現実にはほとんど存在しない。虚構の世界のテクニックで、話し方で誰かがわかるように書き分けるのが作家の力量だ、などという人もいる。そういった古い伝統芸能を守るのも悪くはないとは思うが、この違和感は、新しいファンを確実に失う要因となるだろう。
それにしても、台詞がついつい説明的になるのは、みっともないものだ。主人公ならば、考えていることを書いて補足できるが、それでもスピードが落ちてつまらなくなる。ジレンマだ。娯楽映画ではなく、芸術的な映画作品では比較的、リアルな会話をしている。やはり、わかりやすさを失っても、得たいものがある、という意志の現れだろうか。