2006年10月31日(火曜日)
【HR】 珍しくデパートへ
スバル氏がやる気を突然出して、部屋の模様替えキャンペーンに突入したため、大量のゴミが発生した。今日は、そのゴミの日なので、朝早くパスカルのどかん(スバル氏手引き)で起こされ、持ちきれないゴミを車に載せて、収集所まで運んだ。ガラス瓶が多かったかも。
それから、パスカルを近くの公園へ連れていった。もう樹々は色づき始めていて、魅惑的だ。こんな朝、誰もいない公園に来ると、ハンドランチ・グライダを飛ばしたくなる。今度作ろうかな。作っているうちに季節が変わってしまうのだが。
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昨夜、「MLA4」のゲラが届き、夜のうちに20%ほど読んだ。今朝も、2時間かけて20%くらい読んだ。木曜日までに見る予定。あと6時間ほどかかるだろう。あとがきも書かなければならない。
ゲラを見たら、またページ数が増えていた。I子氏に申し訳ない。必ず「5」ではページを少なくしよう(決意)。
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スバル氏と2人で、ミニに乗ってデパートへ行った。やはり良い家具も見ておこう、ということに。しかし、ものを実際に見てみたら、やっぱり高い方が断然良い。これにしよう、という意見が珍しく一致したのでその場で購入決定。イタリア家具で、布を沢山の中から選べた。3週間くらいかかるそうだ。同じメーカのガラスのテーブルで、フラーっぽいデザインのものがあって、これも気に入ったので併せて購入。全部で100万円以上になった。スバル氏のカードで買えるかどうか試してみたら、あっさり買えてしまった。
今使っているソファやテーブルは、まえの住人が置いていったものだ。長さが215cmの大きな3人掛けが2つあって、その間に置いてあるガラステーブルも100cm×140cmとかなり大きい。パスカルが下をくぐって通る。それに比べると、今日買ったセットは多少コンパクトなので、部屋が広く使えるだろう。古い方のセットは引き取ってもらうことにした。無料で引き取ってもらえるらしい。まあ、売ったら、まだ値段はつくと思う。海外で買ったものらしく、新品のときは、今回僕たちが買ったものよりも、さらに高かったことはまちがいない。
スバル氏は、ついでに食器とかカーディガンとかを購入された。ランチ弁当を買って、すぐに帰宅。パスカルが留守番をして待っているからだ。
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キッチンのリフォームは、どこかに発注することになるだろう。とりあえず、コンロと食洗機を取り替えることが先決。スバル氏は、「私はキッチンには興味がない」とおっしゃっていて、そんなに綺麗でオープンなものにしたいわけではないらしい。器具が古いから、必要に迫られているだけだ。
ポスタや絵をワイヤで吊る工事もしなければならなくて、ホームセンタへも行く必要がある。まだ絨毯や照明器具を新しく買うつもりだし、ちょっとしばらく時間を取られるので、工作ができないかも。
夕方、「もえない」を3000文字ほど書いた。完成度50%。あと1日で書き上げよう。夜は「MLA4」のゲラを読まなければならない。
【社会】 建前と運用
履修不足でこのままでは卒業できない生徒がいる高校が問題になっている。不思議なのは、今年卒業の学生だけを対象にしていることだ。受験生が可哀相だとか、校長が自殺したとか、そんな話題はあとにして、過去に遡って正しいデータを把握し、公表すべきだろう。規則を決めたら、そのとおり進めることが少なくとも正しい。
ところが、規則ではこうだが、運用では異なる、といった例が世の中まだまだある。そこに、義理人情を入れるのはもういいかげんに古い。情報公開の時代になり、二重構造ができなくなっている。これが認識できない頭の人が(特にトップ近傍の年輩者に)残っているのだ。
もしルールがどうしても守れないのならば、そのルールが厳しすぎるのでは、という議論になるだろう。これまでは、とりあえず厳しめに規定し、ある程度のことまでは許容して運用した。車のスピード違反の取締りと同じだ。道路でスピードを測ったらわかる。制限速度を守っている車の方が少ないだろう。この状況は変だと思わないのだろうか。
みんながやっていることだから、とルーズになっている。だから、ときどき取り締まり、見せしめにする、といった社会は極めて原始的である。
履修不足の問題に関しては、どうすれば良いのかという具体的な意見は僕にはない。しいて言うならば、大学がすべての教科を入試の対象にしないことが、そもそも間違っている。配点はともかく、少なくとも5教科すべてを試験の対象とするのが自然だ。
県庁の裏金もそうだし、基本的に、もうそんなことをやっていられる時代ではない。きちんとルールに従って、公明正大にすべきであって、また厳守こそがスタンダードとなるルールを用意すべきだ。
同じテーマでもう1つ例を挙げよう。賭博は禁止されているはずなのに、パチンコ屋だけが存続している。店のすぐ横で現金と交換するような馬鹿馬鹿しいシステムが言い訳のようだが、素人が考えても不自然だし、あれを見るたびに日本は発展途上国だと感じる。民間運営のギャンブルを認めるか、あるいは現金交換も全面禁止すべきか、いずれかではないだろうか。小手先のことで誤魔化すような曖昧な「運用」はできるかぎり排除した方がクリアでシンプルである。
2006年10月30日(月曜日)
【HR】 消費大作戦
またも晴天。しかも暖かい。起きたら8時半だった。午前中に、小説の仕事をする。「野性時代」の連載の第7回分を書き始める。今日は2000文字ほど。今週はこれがノルマ。イラストは毎回スバル氏である。
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リビングの模様替えをスバル氏がしていて、キッチンのリフォームのほか、リビングの応接セットを新しくすることになった。それから、今日は、ダイニングの絨毯を捨てた。ダイニングのテーブルはミースのデザインで、天板がガラスで重い。総重量が120kgくらいあるので、脚の下の絨毯を抜くのが大変だった。脚を1つ持ち上げるのも、10秒くらいがやっとなので、少しずつ抜いた。椅子はコルビジェだけれど、もう革の裏がほつれている。直さないといけないのではないか。まだ、買って5年くらいなのに。
とにかく、大変な騒ぎになりそうである。しかし、やる気があるのは良いことで、スバル氏本人も「なんか、やっと自分の家に思えてきた」と喜びを語っている。それよりも、パスカルが家に来たことで、この古い家にあと10年くらい住む可能性が高くなった、ということが大きいのではないか。いつ引っ越すかもしれない、と考えているうちは、なかなかできないものだ。
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庭もかなり変わった。古いベンチやテーブルをガレージの前まで移動するのを手伝った。そこはスバル氏がガーデニングの作業をしているスペースなので、台があった方が楽になるだろう。その代わりに、ポーチ前には新しいポップなデザインのテーブルが来た。これとは別に、芝生の中の小径に、金属製のテーブルと椅子が置かれて、そこでスバル氏は読書をしたりお茶を飲むつもりらしい。
午後は、パスカルを留守番させて、インテリアの店に行く。まず、玄関のマットを購入。ソファーも見て、気に入ったものがあったけれど、値段は30万円。もう1軒くらい見てからにしよう、ということで、ひとまず保留。でも、明日もデパートへ見にいくつもりなので、きっと近々新しいセットを購入することになるだろう。
そうそう、玄関の壁にはカシニョールの絵がかかっていたのだが、これが1カ月くらいまえに、パスカルを2階でシャンプーしているとき、大きな音がして、見にいったら絵が落ちていた。留め金が抜けたのだ。それで、すぐ下にあったミシン台に落下して、その上にあったペネロープ嬢とブライスが投げ出されて被害にあった。ほんの少し傷がついたくらいで気にはならないが、絵はその後は床に置いたままだった。
ダイニングにもカシニョールが1枚あるけれど、今回スバル氏が大きな額入りのポスタを購入したので、カシニョール2枚をどこへ飾るか検討中。このほか、別の家にも幾つか油絵がある。一番高価なのは、親父からもらった鬼頭鍋三郎の舞妓の絵だと思う。スバル氏が持っている金子國義より高いのではないか。親父が買ったものだから、よくは知らないけれど。
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モビリオも買い替える話になっている。今のものは、親父が乗るために買ったものだから、どうも色が気に入らない。モビリオ自体はとても気に入っていて(もう少し脚が硬ければ最高だが)、今ホンダ車の中で買いたい車はこれだけかも。ただ、メタリック色しかないのが非常に残念。どうして、世の中こんなにメタリックだのパールだのばかりなのだろう?
【理科】 落葉から学ぶ
今日も朝方、庭の落葉を拾った。拾っているうちに、次のようなことを考えた。
1)毎日地面を見て、落ちている葉を拾っているだけで、その樹の様子がわかる。異変にも気づくだろう。上を向いて空に伸びる枝を眺めているだけでは、気づかないことがある。これと同じように、伸びゆく個人、伸びゆく組織の現状を正しく見るには、先端ばかりではなく、足許をよく観察し、そこに何が捨てられていくのか、を見定めることが大切かもしれない。
2)落葉を拾っているうちに、だんだんそれが重くなる。軽い一枚一枚からは想像ができないことだが、やってみると知らないうちに重い袋を抱えて移動しているのだ。拾い集めて初めて重さがわかる。一つ一つがもの凄く馬鹿馬鹿しいことでも、それらをちゃんと処理することで、意外な全体像が把握できることがある。
3)落葉を拾えば、それを食べる虫が減る。そのまま放置すれば、虫は増える。たとえば、環境を整備することで犯罪は減るのか、という議論がある。悪い人間は必ずいるのだから、環境が綺麗になっても、別の場所へ移動するだけではないか、という悲観だ。しかし、自然を見ていると、やはり、そこで生活できるからこそ、仲間を増やすのではないか、とも思える。
まあ、落葉を拾うだけで、いろいろ思いが巡るものである。これは【理科】だろうか……。
2006年10月29日(日曜日)
【HR】 リフォームか
8時に起きたら、スバル氏とパスカルはもう庭にいた。良い天気になりそう。夜のうちに雨が降ったので、地面は湿っている。
午前中に、金曜日に買ったキャビネットやテーブルや椅子が届いた。キャビネットは、最初は僕がガレージで使うつもりで買おうと思ったのだが、スバル氏が玄関に置きたいと言うので、そうなった。玄関にはミシンの台におもちゃがのっていたのだが、それらの展示品をキャビネットの中に収納した。それで、ミシン台はリビングへ移動。玉突きになって、そこのワイン・キャビネットが移動し、オルガンが移動し、とつぎつぎ配置替えがあった。
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スバル氏は病気が治ってから、自分でも「リセットされた」などと口にしていて、今までの自分ではない、と言いたいらしい。それで、台所も工事をして、模様替えをする計画図まで描いている。この家は、築30年にもなる古いものなので、たしかにリフォームが必要。直してもあと10年くらいだろう。しかし、まだ使われていない部屋があるので、その工事をしても良いかも。たとえば、サウナがある。また、大きな倉庫が1つ空っぽだ。このサウナと倉庫をつなげれば、ひと部屋できる、などといった話をした。いずれにしても、スバル氏がリフォームに対して急に積極的になったことは、喜ばしいことだ。いつまで続くかはわからないが。
いろいろ手伝わされたが、お昼過ぎに「スパゲッティを作った」とスバル氏がインタフォンで呼ぶので、食べにいったら、ダイニングにはいない。なんと、庭にテーブルと椅子を置いて、そこで食べる用意をしているのだ。なんか、なんとかホームのコマーシャルじゃないかと思えるくらいだった。そこで直射日光を浴びながら、スパゲッティを食べた。
午後も、家具を移動するのを手伝った。絨毯も3枚捨てることに。台所もかなり片づいていて、換気扇が綺麗になっていたし、出窓の棚を1つ取り外したようだ。ちょっと仕事をしすぎではないか、と心配になるほど。「デッキの枯れた松がなくなったのが、私をやる気にさせた」ともおっしゃっていた。取り憑かれているのかもしれない。あるいは、これまでが取り憑かれていたのかもしれない。
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こういったことがあったので、疲れて昼寝をした。そのあと、人と会う約束があって、1人で出かけていく。夕方に戻り、パスカルを連れてスーパへ買いものにいき、スバル氏が食料品を買っている間、パスカルの散歩をさせ、あとは車の中で待っていた。ゲラがないのが残念だ。しかし、涼しくてとても気持ちが良い。
工作はせず、今日は環境改善のために整理を少し。やはり、工作室はどこかに棚を作らないと駄目かもしれない。
小説の仕事は、今月のノルマが既に終わっているが、明日くらいに「MLA4」のゲラが来る。これから、3週間で6万文字の3作を書かないといけないので、非常に大変だ。これは明日から。まあ、なんとかなるでしょう。
【算数】 正方形と円
1辺の長さがaの正方形ABCDがある。点Aを中心とする半径aの円の弧でBとDを結ぶ(1/4の円)。また、その対角になる点Cを中心として、やはり半径がaの円弧をDからBまで描く。すると、正方形の中に、2つの弧で囲まれた、紡錘形の形ができる。この部分の面積を求めなさい。
これは、小学生に出題されるレベルの問題である。1/4の扇形が2つあるので、つまり合計の面積は1/2・πa2だ。それが、正方形の中に重なって入っているのだから、1/2・πa2−a2=(π/2−1)a2が求める面積となる。およそ正方形の57%だ。
では、さらに、点Bや点Dを中心とする1/4の円弧を、同じように正方形の中に描く。すると、まんなかに、4つの弧で囲まれた膨らんだ四角形のような部分ができる。ここの面積はいくつか?
(ルートを用いるため、小学生には解けないレベル。答は自分の胸に秘めよう)
2006年10月28日(土曜日)
【HR】 工房と鉄道を訪問
6時半に起床。今日は、大阪へ出かける日。
家を8時に出て、京都の駅で9時40分に中央公論新社のN倉氏と待ち合わせ。そこから、近鉄と京阪を乗り継いで、香里園の佐藤隆一氏邸を訪問した。関西では名の知れたモデラの1人。今年の4月に初めてお会いして以来、ことあるごとに工作の指導をしていただいている。商店街にある「正確堂」という名前の時計店なのだが、店内は、時計よりも機関車の方が多いくらい。古い時計のほか、博物館などから骨董品や展示品の修理を依頼される、といった仕事が多いそうだ。そうそう、お店には可愛いコーギーがいた。
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旋盤もフライス盤も、僕のものより小さくて、狭い場所に置かれているのだが、そこから作り出される工作物は、もう素晴らしいの一言で、魔法のようである。実際に削るところなども見せてもらった。どうして、ブレもせず、さくさくそんなに削れるのか、と思えた。100分の1mm(いや、もっとか)という精度の工作をされるので、それがどんなふうにして実現できるのか、いろいろレクチャを受けてきた。
佐藤氏は、古いバイクも趣味でレストアされていて、それに自分でも乗られてる。BMWのバイクは、水平2気筒エンジンで、サウンドはポルシェに似ていた。チェコ製のバイクもあった。たぶん、日本に1台しかないだろう、とのこと。このほか、沢山の写真を見せていただいたり、ビデオを見せていただいたり、目移りするものばかり。
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それから、佐藤氏の車で1時間半ほどドライブして、大阪北部にある桜谷軽便鉄道を訪問した。これは、個人の庭園鉄道であって、1人の方がすべて自作され、自分の土地に築いたミニチュア鉄道だ。といっても、大きさは、僕の弁天ヶ丘線よりも3倍大きく、線路の幅は40cmくらい。本もののほぼ3分の1の大きさである。電車、ディーゼルカー、電気機関車、そして蒸気機関車を全部運転させてもらった。客車に2人を乗せて、それを牽引して走ると、上り坂ではぎりぎりである。逆に下り坂では、ブレーキを上手く使わないと危ない。
この15インチのミニチュア鉄道はイギリスにはけっこう多いのだが、この桜谷軽便鉄道が凄いところは、電化されている点。架線があって、そこにパンタグラフを当てて集電して走っているのだ。日本ではもちろん唯一だし、おそらく世界にも例がないのではないだろうか。世界中のマニアに知られる有名な鉄道で、ずいぶん以前からHPもよく見ていたので、今回訪問ができて、しかも運転までさせてもらえて、一気に念願が叶った。
写真はその機関車庫の中。新型の緑の機関車と工作設備。実際に車両はここで作られている。夢のように素晴らしい空間だった。
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桜谷軽便鉄道の近くにシグナス森林鉄道という遊園地内のミニチュア鉄道があるのだが、ここは夕方の4時までだったので、今回は見送り。また来ましょう、ということに。そのあと、亀岡の保津川ライブスチームクラブのレイアウトを訪問し、もう暗くなりつつあったが、佐藤氏の車に乗っていたバッテリィカーで線路を周回して遊んだ。かなり広い。見たこともない実物の機関車が2台あった。アジアのどこかの国で働いていたものらしい。
暗くなってから京都駅に6時半に到着し、新幹線に乗った。帰宅は8時。帰ってきたら、雨が降りだした。面白い一日だった。良い刺激になったと思う。
【国語】 地名
読めない地名は多い。北海道や沖縄は凄い。ちょっとそれはないだろう、というものがある。しかし、地元でもけっこう際疾いものがある。
名古屋で有名なのは「水主町」だ。読めるだろうか(答:かこまち)。あるいは、「主税町」。これは、大石内蔵助の息子の名だ(答:ちから)。僕の実家のあたりは、「大廻間」と書いて「おばさま」と読む。どこに行っても、読めない地名がいくらでもある。
大きなもの、たとえば県名では、「岐阜」などは読みにくい。この後ろの「阜」の字なんか、ほかで見たことがない。「近畿」の「畿」の字も知らんぞ、そんなもの、というに充分な奇抜さだ。「幾」では駄目なのか、といいたくなる。それをいったら、「大阪」の「阪」の字は何だ、どうして「坂」じゃないのだ、という疑問も湧く。
「日本」だって、「にほん」と「にっぽん」と読み方が2つある。どっちかにしてもらいたい。あと、「都道府県」と4種類もあるのが解せない。差別しないで全部県にしたら良かったのではないだろうか(本気で思っているのではない)。あ、これは【社会】か……。
2006年10月27日(金曜日)
【HR】 調子の良い日
7時半起床。燃えるゴミを出すため急いで段ボール箱の解体など。夜少し雨が降った様子。でも、朝から晴天。
そのあと、コーヒーを飲みつつ、まず機関車製作部のレポートをアップ。そのほか、今日はHPを秘書氏がいろいろ更新してくれた。「STAR SALAD」の電車広告がスタートしている。
午前中に仕事を片付けた。「ナンプレファン」は推敲して発送。終わり。「IN☆POCKET」のゲラが届いたので確認。スバル氏の絵本の文章の修正などもする。
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昨夜、足りなかった真空管だが、ソケットに差したところラジオはちゃんと作動した。中・短波の2バンドをカバーする優れものである。写真は、昔の部屋から探し出してきたもの。中学生くらいのときの宝物である。東芝の真空管の箱なんて懐かしい。しかし、だいたいは中古品で買ったものなので、箱入りは当時でもほとんど持っていなかったはず。2つあるモータはマブチの一番大きなものと、その次くらいのものだったと思う。自分が乗って走れるものを作りたくて買ったのだが、ギアを自作することができなくて頓挫していたように記憶している。バリコンやコイルなどは今ではちょっと手に入らない部品だろう。コイルの間にあるものが何かわかる人は、なんとなくクリスタルである。送信機を作るには欠かせない部品だった。
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さて、なにかの広告を見たらしく、スバル氏が行きたい店があるというので、お昼まえに車で走った。ミッドセンチュリィの中古家具の店だ。期待をせずに行ったのだが、これがどうして、ちょっとした掘り出しものが揃っていた。都心の骨董品屋にあるものは、馬鹿高い値段がついているけれど、そのほぼ半額くらいの感じだった。郊外で営業しているからだろうか。キャビネットとテーブルと椅子2脚と、畳くらいのサイズの額入りポスタ、それに大きな皿などをいくつもまとめて購入した。日曜日に届けてもらうことになった。
そのあと、初めてのホームセンタを見つけて入ったら、ここがまた品揃えが良く、とにかく安い。人間が2人くらい隠れられそうな植木鉢が5000円ほどだった。ベニヤがいつもの半額なので4枚購入。それから、高枝バサミを2000円で買った。これも安いのではないか。
それで、帰宅して早速、気になっていたデッキの上にオーバハングしている枯れた松を切ることにした。まずはハサミで枝を払い、最後は、先をノコギリにして、直径10cm以上もある幹を途中で切った。わりと簡単に切ることができた。空が広くなってデッキが断然明るくなったし、倒れてきて手摺りなどを壊す心配もなくなった(どちらにしても、たぶん今年の冬に倒れただろう)。いろいろ上手くことが運ぶ日である。
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注文してあったイギリスの本も2冊届いた。「どきどきフェノメノン」ノベルス版も角川から見本が届いた。スバル氏画、鈴木成一デザイン事務所の装丁である。どれかを使って下さい、というつもりでスバル氏が送ったイラストが、すべて使われていた。
【図工】 工作とは
つい最近、雑誌の連載でも書いたことである。10/7の【理科】で、「パソコンは自作できない」という話を書いた。では、工作とは何を示すのか、僕の定義をもう少し説明しよう。
自分の好きな部品を集めて、それをソケットに差し入れたり、ネジ止めして組み立てても、それは僕には工作とは思えない。単なるカスタマイズだ。好きな服を買ってきて、組み合わせて着ているだけであって、ファッションを創作しているのではない。車のオプションを選んだり、部品を取り替えるのも同じだ。
しかし、アルミのシャーシに穴をあけ、部品をハンダづけするものは、工作になる。この境界はどこにあるのか。
ようするに、工作とは、破壊が伴う行為であり、不可逆的なものである。作るために、なにかを壊す。たとえば、穴を開けたり、切ったり削ったり、溶かしたりする。もう、元には戻せない。だからこそ、この一線を越えて、自分だけのものになるのである。レゴなどのブロックは工作ではない。ミニ四駆でも、買ってきたパーツをネジ止めしただけでは工作ではない。同じ状態が誰でも再現でき、また元に戻せるからだ。一方、部品を削ったり、接着(一種の融解)すれば、そこにその人の技術が現れ、オリジナルなものになるし、既に部品は消耗し、新品ではなくなる。
もう一点、重要なのは、使うために作るのではない、ということ。工作は、工作することに楽しみがある。出来上がったあとに、どれくらい役に立つのかは、二次的なものだ。ラジオ放送を聴きたいからラジオを作るのではない。機関車の運転がしたいから、機関車を作るのではない。その動機が違う。
僕は、鉄道に乗ることがそんなに好きではない。実物の機関車にも興味はあまりない。電気屋に売っているラジオにも興味はない。ラジオ放送も好きではない。よく勘違いされる。作る対象として、それが面白いだけだ。
これは、あくまでも僕の個人的なスタンスである。
2006年10月26日(木曜日)
【HR】 過去からの贈りもの
今日も素晴らしい晴天。起きたら8時半だった。とてもよく眠れた。
スバル氏とパスカルは庭にいた。パスカルは濡れている。スバル氏は本を読んでいた。30分後に見たときには、パスカルはさらに濡れていて、スバル氏はチューリップの球根を植えていた。庭で読書をしたり、コーヒーを飲むためのテーブルと椅子が欲しい、と彼女が言うので、あとでホームセンタへ見にいくことにした。
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小説の仕事は、細かいチェックばかり。「日経パソコン」のイラストは28回分までしかできていない。あと2回分はスバル氏待ち。「MLA4」(7月〜9月分)のゲラが来週来ることになった。これのあとがきを書かなくては。
真空管のラジオは、現在は、5球スーパを作っていて、3日ほどかけて、ほとんど配線を終えているのだが、実は肝心の真空管が1本なかなか手に入らない。ネットなどで探さなくては。井上さんの記事どおり作った蒸気動車も無事に完成したので、少し一段落。工作台周辺を片づけて、次のものに取り組もうか、というところ。といっても、途中のものが既に沢山ある。大きいところでは、もう4年もかけて組み立てている蒸気機関車がある。パーツが揃いつつあるので工作を再開したいところ。今年中くらいが目標。
しかし、せっかく外で作業ができる季節なので、屋外工作を楽しもうと考えている。モルタルでまたミニチュアの建物を造りたい。1軒に2週間くらいかかるだろう。
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お昼に、スバル氏とホームセンタへ行き、テーブルと椅子を買ってきた。これを組み立てたのだが、椅子の脚の鋳物が、ネジを締めたら根本で折れてしまった。締めすぎたようだ。サービスセンタへ電話して、1本だけ送ってもらうことにした。これは保留。
夕方から、スバル氏とパスカルも一緒に、もう1軒の自宅へ。こちらで、少し工事があるためだ。工事の人が来ている間、自分の部屋を探して、真空管を30本くらい発見した。なんと、欲しかった1本があった。うーん、やっぱり、子供の頃に、もう5球スーパを作ることを夢見て、パーツを買い溜めていたのだ。タイムマシンで送ってもらったようなプレゼントである。
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今日も洋雑誌が2冊届いて、読むものが沢山あって嬉しい。
スバル氏は、病気が治って、以前よりずっと健康になった。花粉症の症状も治り、味も匂いも以前よりよくするらしい。「病気のリバウンド」だと表現していたが、誤用ではないか。
【社会】 社会福祉
「福祉」とは、そもそも「幸せ」という意味の言葉だ。しかし通常は、公的な援助による安定した生活をイメージして使われる。老人や病人などの弱者を、かつては家族や、あるいは近所の金持ちが助けていたわけだが、このシステムを社会の仕組みとして構築しよう、という近代の取り組みである。
しかし、国や社会といっても、今は王様や殿様がいるわけではない。つまりは全員が同じレベルの個人で構成されているのだから、平均化されているだけで、お互いに助け合っていることにはかわりない。
老人が安心して生活できるように、たとえば年金などの制度があるが、それは、若者(老人以外)が生産し稼いでいる分を回す仕組みだ。結局は、老人が若かった頃に、貯蓄をしていることに等しい。これは、保険にもすべていえることであって、自分で自分のために稼ぎ、それを貯蓄して不慮の場合や老後に備える、それを社会として平均化しているだけである。
したがって、そういった福祉によって、自分が支払った以上のものを享受できる、という人がもし大多数になれば、それは、少数の大金持ちが、彼らを養っている図式になる。税金を自分ばかりが沢山取られては損だ、と大金持ちが海外へ逃げ出したら、国家としてなりたたなくなる。
また、子供がどんどん増えている時代には、老人1人を大勢の子供で養えば良かったが、そんな異常な状態が続かないことは自明であり、今後は老人1人を1人の子供が養う時代になるので、年金制度そのものが、「お得感」のないものになるだろう。それがごく自然の形である。お得感を売りものにできた時代は、ネズミ講がスタートする初期段階と似ている。単に誤魔化されていただけのことだ。
福祉とは、個人が公共から受けるサービスであり、もらわなければ損だ、というように考えがちであるが、それは基本的に間違っている。公共とは単に、個人の集合にほかならないし、平均をすれば、個人個人が自分で自分を支えている道理となる。年金とは、結局のところ、死んだら国に取り上げられる個人の貯蓄、と考えれば良い。
念のために書いておくが、僕は年金制度に反対しているのではない。必要なものであり、加入して支払っている。ただ、これで老後は安心と見返りを期待するようなものではなく、むしろ、支払うことで社会の一員としての責務を果たす、と考えた方が良い、という意味。
2006年10月25日(水曜日)
【HR】 庭で撮影会
晴天。7時に起きて、少し寝不足だったけれど、すぐに仕事をした。「η」を午前中に脱稿。講談社へ発送した。終わった終わった。それから、「ナンプレファン」のエッセィを書いた。こちらは推敲は後日。
1週間かけて手直しをしていたわけだが、これはいわゆる「推敲」の作業である。この頃は、これによって1割ほど長くなる。執筆の時間とほぼ同じくらい推敲にエネルギィをかけている。文章の表現を直すわけで、主として、わかりやすく、誤解のないように、そしてできたら、綺麗な文章になるように直す。ストーリィが変わることはない。また、漢字やひらがなのミスを発見することは、推敲ではなく、校閲である。それは作者でなくてもできることなので、それにはエネルギィをほとんどかけていない。指摘されたら直せば良いからだ。
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作品が書き上がると、解放感がある。今回のような完成時ではなく、最初の執筆のときにある。手直しが終わっても、そういった達成感はほとんどない。ゲラ校正が終わって校了したときも、同じくなにも感じない。本が出来上がったときも同じ。次の仕事へと頭を切り換えるだけである。
よく、3時間仕事をした、などと書いているが、これは、3時間ぶっ続け、という意味ではない。途中に細かく休憩や、ほかの作業が入る。長くても15分くらいしか続かない。頭は大丈夫だが、手が疲れるからだ。
仕事の合間に、庭の掃除もしたし、1カ月がかりで作っていた機関車も走らせた。見たところ、電車のように見えるが、蒸気動車という車両だ。アルコールで火を燃やし、蒸気の力で走る。神様・井上氏の設計である。子供のときの夢がまた1つ叶った。
パスカルは、庭でスバル氏にブラシをかけてもらっていた。僕は、昨日デッキでスバル氏に散髪してもらったところ。スバル氏が元気になって、僕とパスカルは恩恵を受けている。
午後は、ガレージでラジオ作り。こちらもだいたい配線を終えた。しばらく時間をおき、頭を冷やしてからもう一度チェックをして、それから真空管を差す予定。トランジスタやICのように基板を使わない空中配線で、面白かったし、とても懐かしかった。
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それから、写真を整理して、機関車製作部のレポートなどを作った。夕方には、乳母車が到着した。古いものを購入したのだ。スバル氏は準備が良くて、パスカルに涎掛けを着けさせて、既に撮影モードだった。ほ乳瓶の縫いぐるみまで用意してあった。パスカルは嫌な顔一つしながら、しかたなく乗っていた。
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スバル氏との共著「悪戯王子と猫の物語」がまた重版になった。凄いな。今日もまた、原稿依頼を1件断らなければならなかった。締切はだいぶさきのものなのだが、来年の3月くらいまではほとんどいっぱいで余裕がない。義理を欠くこと、申し訳なく思う。
【理科】 船のいろいろ
排水量が〜トンの船、といういいかたをする。これは、その船が水に浮かんだとき、水面下に沈んだ部分の船体と同じだけの体積の水の重さのことだ。つまり、船が水に入ることで、その分の水を排除するために、こう呼ばれる。そして、これはすなわち、船自体の総重量に等しい。淡水に浮いているならば淡水の重量、海水ならば海水の重量で示せば良い。重量〜トン、といわずに、排水量〜トンとわざわざいうのは、どうしてなのかは知らない。
通常の船は、船底に穴が開くと、水が船内に入って、やがて沈没する。しかし、たとえば、水面に沈む深さよりも、船底を厚く作れば、船底に穴が開いていても、水は入らない。逆に、船の中の水が、穴から外へ出ていくので、波をかぶっても安心である。重心が高くなって、転覆する危険があるけれど。
積み荷を沢山積んだ船が必ずしも危険なわけではない。軽い方が不安定な場合もある。重心位置の問題だ。ヨットなどは、高いマストがあり、帆で風を受けるため、転倒しやすい。そこで、重心を下げるために、船底よりもさらに下に突き出ているウェイトを持っているものが多い。
座礁という言葉を、台風などのあとによく耳にする。暗礁や浅瀬に乗り上げることだが、模型やおもちゃの船しか知らないと、浅瀬に乗り上げるくらい、べつにどうってことない、と思いがちだが、浮いている状態で成り立つように設計された船体が、、座礁することで簡単に折れて破壊することもあり、大きな船では沈没手前の非常に危険な状態だ。海に棲む巨大な動物も、浅瀬に入ると致命的でほとんどは救えない。ちなみに、ものごとが思わぬ困難に出会って進行しなくなることを、「暗礁に乗り上げる」という(この部分は【国語】でした)。
2006年10月24日(火曜日)
【HR】 祝福って?
朝には雨があがり、午後は晴れた。なかなか爽やか。朝のパスカルの散歩は、スバル氏が行ってくれた。ゴミは僕が出した。燃えるゴミは、この頃、収集車が来るのが2時間も早くなったので、大変である。カラス対策かもしれないが。
午前中に小説の仕事を片付ける。「η」の手直しは3時間ほどかけて、完成度85%に。あと1日。昨夜、「四季」文庫版の解説・感想のゲラを電話で校了。愛蔵本BOXセットの予約が順調らしく、当初の予定よりは、多少多めに作ることに決まった、とそのとき聞いた(それでも、歴代最もレアではあるが)。光文社文庫の「ZOKU」がもう重版になった。えっと、出たのは12日まえ?
それから、先日の集中講義の成績をつけて大学へ郵送した。100人もいたので、けっこう大変だが、既に点数はつけてあって、それを確認しながら用紙に写しただけ。
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スバル氏とスーパへ買い出しにいく。初めてのスーパだった。パスカルは留守番。昨夜、パスカルの体重を測ったら、11.2kgだった。春よりも0.2kg減っている。もう成犬だし、安定したということ。太ってはいない。疑いが晴れて良かった良かった。
午後は工作をした。塗装をしながら、ラジオのハンダづけなど。楽しい時間だ。こんな毎日がずうっと続くと良いな、と思う。しかし、あまり根を詰めないようにしよう。楽しいこともほどほどに(年寄りくさいな)。
外に出ると、涼しい風がそよそよと吹いている。日の当たるところならば、Tシャツでもいられるほどだ。もう蚊はいない。木陰では長袖でないと少し涼しすぎる。秋から冬にかけての日差しは何故かクリアで、眩しいほどだ。木の葉は、それぞれ色づいているものの、まだ枝にある。緑も花も揃っていて賑やかだ。ヨーロッパのように、もう少し日が長かったら申し分ない。まあ、夜が長いのも、室内活動が自然に活発になるから、これはこれで良いのかも。
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「祝福する」という言葉が、今ひとつぴんと来ない。たぶん、祝福したり、祝福されたりすることの価値が、よく理解できないからだろう、と思う。なんというのか、セレモニィ的なものとしてしか認識できない。もちろん、やっかんだりした経験はなく、また、親しい人にもし幸せがあれば、素直に良かったなあ、とは思う。ただ、僕が祝福するというのは、どういうことだろう、という疑問だ。プレゼントをすることはできる。「良かったね」くらいの言葉は簡単にかけられる。しかし、そんなものだろう。どんな意味があるのか。
また、「みんなから祝福されたい」と考えている人もけっこういるようだ。それは、僕には信じられない感覚である。みんなから祝福されるなんて、どちらかというと嫌だ。どういった心理なのだろうか。想像がまったくできないわけではないけれど、ある種の錯覚だろう、と思う。そういう儀式が人間関係には必要だ。愛のある部分だ、ときっと大勢が思っているのだろう。非難しているのでは全然ない。ただ、僕は白けてしまう、というだけのこと。
たぶん、自分たちが周囲から敵対されていないことを、ときどき確認したい、という心理だろう。子供が生まれれば、みんなから祝福を受けて、その子供の将来が明るいような錯覚を一時的には得られる。でも、育てるのは自分たちだし、祝福されたからといって、特に健康になるわけでもなく、楽になるわけでもない。やはり、儀式だ。
こういうことを書くとへそ曲がりだと思われるのだろうな、とはわかる。がしかし、正直にいって、世の中、あまりに軽々しく他人を祝福しすぎではないだろうか、と思うのだ。本当に心の底から祝福したい場面なんて、一生に3回くらいではないだろうか。
【算数】 トポロジィ
位相のこと、あるいは位相数学、位相幾何学のこと。しかし、「位相」という言葉は、一般にあまり馴染みがない。
広辞苑によれば、「位相」とは、「集合の各要素に対して、その近傍と称する適当な部分集合(複数)を設定することにより、要素の列が一定の要素に近づくか否かを論じうるようにすることができる。この構造を位相という」とある。わかるだろうか?
「トポロジィ的に」という表現もよく耳にする。図形でいうと、「□」「○」「△」はトポロジィ的には同じものだ。アルファベットでは、「A」「R」が同じだ。「C」「L」「M」「N」「S」「U」「V」「Z」も同じだし、「F」「T」と「Y」もトポロジィ的に見れば同じだ。こうやって例を挙げると、だんだんわかってくる。
立体だと、風船は伸び縮みするから、いろいろな形に変形させることができるが、しかし、どう捻っても、ドーナッツ形の浮き袋にはならない。だから、風船と浮き袋は、トポロジィ的に異なる形といえる。
また、風船も浮き袋も、その表面をハサミで切ると、輪になった帯を取り出せる。しかし、どう切っても、メビウスの帯を切り出すことはできない。クラインの壺と呼ばれる形からならば、切り出すことができる。
2006年10月23日(月曜日)
【HR】 心境の変化
今日も曇ときどき雨。庭の掃除も水やりもできないのでややラッキィ。朝は起きたら8時過ぎだった。睡眠充分。スバル氏がパスカルを散歩に連れていってくれた。これも助かった。
午前中は研究関係の打合せで外出。お昼頃、郵便局と市役所へ行く用事があって、それを済ませてから帰宅。そういえば、家に最も近いスーパを発見した。駐車場は200台分くらいある。こんなところにあったのか、とスバル氏と驚く。もしかして、新しくできたのかもしれない。不明。
午後は、「η」の手直しを4時間ほどかけて、完成度は70%まで。あと2日で終わる予定。夜は、電話で「四季」解説・感想の校正を伝える。そんなところ。エッセィの依頼があったが、断った。ちょっと無理。各方面、いろいろ申し訳ない。
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昨日作った真空管ラジオだが、クリスタル・イヤフォンで聞かなければならない。本体は真空管としては珍しくバッテリィ駆動でコンパクトだが、長いアンテナ線をつなぐ必要がある。ちょっと面倒だし、それでも音が小さい。ノスタルジィに浸っていられるのは、形を眺めているうちだけか。
そこで、もう少し性能の良い本格的な真空管ラジオが欲しくなり、さっそく作ることにした。それで、今日はアルミのシャーシに部品を取り付ける工作に2時間ほど費やす。受信機では、たしか3球(真空管が3本)までしか作ったことがないので(というか、その後は石になってしまった)、今回初めて5球に挑戦してみよう。
真空管を使った回路は、高圧になるから危険だ。子供のときに250Vで感電したことがあって、酷い目に遭った(酷いと気づくのは、生きていて、あとになってからだが)。気をつけよう。ハンググライダの自作ほどの危険はないと思うが。
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さて、このMLAを本当にじっくりと読まれている人がいる。そういった方からの好意的なメールであるけれど、何月何日には、こう言っていたのに、何月何日にはそれと反対のことを書かれている。どこで心境の変化があったのでしょうか、というような質問があった。
人間というのは、日々心境の変化が著しいものではないだろうか。意見などころころ変わるし、好き嫌いも、興味の対象も変わる、というのが普通だと思う。短いエッセィの中では、1つのテーマで語り、論理を組み立てるわけだけれど、ブログなどは、何日もかかって1つのことを証明しよう、というつもりで書いているわけではない。
ある日は、月を見て、「ああ、月って大きいなあ」と思う。またあるときは、「あんなに小さかったか」と思う。そのどちらもが、まちがいではないだろう。
小説の中の登場人物にも、もちろんいえることだ。何年も経つうちに、ずっと変わらないこともあれば、どんどん変化することもある。性格も変化するし、能力も変化をする。得意だと思っていたことに自信がなくなったり、また、その逆もあるだろう。それ(すなわち時間)を描くことも必要だと思える。
運転していたら、「私を信じる者は、永遠の命を持つ」という看板があった。キリスト(というよりも聖書)の言葉だろうか。永遠の命が持てないことは自明なので、つまり貴方を信じられない、と対偶を発想するのが論理的思考かもしれない。宗教の教えも、時代に即して変化した方がよろしいのでは?
【国語】 擬音語
オノマトペアである。実は、森博嗣は小説で擬音語を使わない。ほんの僅かに、例外的に使用したことがあるけれど、見つけるのは難しいくらい少ない。
何故かというと、そもそも、そんなふうに聞こえないからである。ドアが閉まるとき「ばたん」とは聞こえない。雷も「ごろごろ」とは聞こえない。豚も「ぶうぶう」なんて言わないと思う。インターフォンも「ぴんぽん」とは鳴らないと思うのである。こういったものは、約束事として、無意識に植えつけられるものである。だから、地方によって異なるし、実際に国が違えば、表現は異なる。
鉄砲の音を「たあたあ」と書いたのは、誰だったか。僕は、車の走行音を「ろうろう」と子供のときに作文に書いたことがあるが、「これは変だ」と指摘されたので、以来使っていない。電車は「うぃんうぃん」か「だあだん、だあだん」だと思う。自転車は「きるきる」だと思うが、書かないようにしている。
小説で爆発シーンを描くとき、「どかん」という文字を頭に思い浮かべた瞬間に自分で笑えてしまうので、どうしても書けなかったりする。
2006年10月22日(日曜日)
【HR】 ラジオが鳴った日
朝から曇空。夕方小雨。スバル氏はすっかり良くなった。しかし、朝のパスカルの散歩は僕が連れていった。体調は良い。
午前中に小説の仕事を片付ける。「η」の手直しは50%まで。「四季」文庫版の解説・感想の部分のゲラを4冊分校正。
お昼頃、所用で出かけて、それからホームセンタなどを回って帰宅。
夕方から、急にラジオを作りたくなって、真空管を1本だけ使う簡単な回路のキットがあったので、これを組む。まず、エナメル線でコイルを巻いた。これが一番大変。あとはハンダづけ。キットなのでなにも考えずに、回路図を見ながら配線していったのだが、ときどき、別にある組立て図(部品や配線を立体的に示したもので実体配線図という)を確認した。すると、やはり組立て図は1箇所間違っていた。
2時間ほど没頭して作っていたら、外は真っ暗になっていた。夕方のパスカルの散歩はスバル氏が連れていってくれたようだ。
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以前に、土屋賢二先生と対談したとき、彼が工作の本のとおり作ってもラジオが鳴ったことがない、とおっしゃっていたことを思い出した。これは、実体配線図を描くイラストレータが、実物を見て絵を描くときに1箇所くらいは描き間違えるからなのだ。僕が経験した範囲では、世にある実体配線図の60%以上は間違っている。そのとおりに作っても作動しないことが多い。
回路図が間違っていることはまずないので、回路図を見ながら、部品と部品をつないでいけば、ほとんど失敗はない。ようするに、そのために回路図というものが存在するのである。
パスカルの散歩をしていたら、近所にテレビの共同アンテナの塔が立っていた。ここは山のほぼ頂上なのである。だから、ここでアマチュア無線をしたら、素晴らしいロケーションなのではないだろうか、なんて考えた。今さらしないけど……。
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結局、1球ラジオはすぐに完成して、イヤフォンからちゃんと放送が流れてきた。そうそう、こんなか細い音だったな、と最初にラジオを作ったときのことを思い出した。
9歳のときの春だった。前日の夜までかかって作ったのだが、どうしても鳴らない。ぎりぎりまで頑張ったけれど、自分のミスがわからなかった。その日は諦めて寝たものの、朝4時に目が覚めた。普段はちっとも朝は起きられなかったのにである。学校に行くまでの時間に、回路図を見ながらチェックしていくと、その間違いを発見した。その部分のハンダづけをし直した。そして、スイッチを入れ、イヤフォンを耳に入れ、ダイアルを回すと、微かに人の声が聞こえてきたのだ。あんなに嬉しかったことはない。今でもよく覚えている。
飛行機のエンジンを初めて回したとき、自分の作った飛行機が初めてまともに飛んだとき、プログラムが走ってつぎつぎに数値を出し始めたとき、数々の初めてが、僕を喜ばせてくれた。きっとまだまだ、初めてがいっぱい待っているはずである。
【社会】 議論する?
もしかして、これは【国語】だろうか。つまり、「議論」の定義が違っているのかもしれない。
政治家の誰かが、日本の核保有について「議論しても良い」と発言したらしい。そのことが、各方面で話題になっている。おそらく、「議論などすべきではない」という反発だろう。しかし、そういう意見の人が何人も集まって、「議論するまでもない」とか、「議論することは危険だ」と言いながら、議論をしていた。なんだ、議論すべきではない、と言っている人たちが議論をしているではないか。
どんな問題についても、議論をすべきではない、という理由はないと思う。あるいは、議論をすべきではない、という意見を述べることさえ、議論の一部であり、矛盾している。
絶対に許せないこと、完全に間違っていることだ、自分たちの正義が圧倒的に優位である、と信じるのならば、議論を恐れる必要はない。議論をすれば、たちまち明らかにできるだろう。
議論をすべきでない、あるいは議論をすれば危険だ、という立場とは、なにかしら論理的な問題を抱えているか、解決できない矛盾があるか、説得できない曖昧な部分が存在する証拠ではないだろうか。それこそ、議論をすべきである。
「そんな議論に関心はない」と言えばまだ良かったのではないか、と思った。
日本に向けて核ミサイルを撃ってきたらどうするのか? それはまあ、死ぬしかないのではないだろうか。その覚悟はしても良い。また、日本を離れ、ミサイルが届かないところへ引っ越す手もあるが、そこまで絶対に生きたいとも思っていない。だから、僕はこの議論には関心がない。
2006年10月21日(土曜日)
【HR】 秋晴れのオープンディ
朝からもの凄い晴天。ワックスをかけたような空。
今日は、庭園鉄道のオープンディ。お客さんを大勢招待して、鉄道に乗って遊んでもらう日である。朝、7時半に起床。スバル氏もほぼ完治して、なんとか普通になった。まだ少し体力が戻っていない感じではある。どちらにしても、治って良かった。
パスカルの散歩や部屋の掃除をした。それから、線路の整備をして、機関車をガレージから出す。ポイントを切り換えるマシンの確認など、いろいろな細かい作業がある。
お客様は11名で、北海道、関東、中部、関西、中国地方から遠路いらっしゃった人ばかりで、いずれももう何度も来ている比較的親しい友人たち。
お昼に集合し、庭のテーブルで飲みものを飲みつつ、つぎつぎ列車を走らせた。初めての人はいないので、最初から、乗客ではなく運転手をしてもらう。ただ、一応、安全の手引きを印刷して、最初に注意をした。こういうのが、鉄道らしいところである。
今日は、電気機関車を5台、ガソリンエンジンの機関車を1台運行した。線路は問題なかったが、貨車に1台不具合があった。また後日改造が必要である。
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みんなが持ち寄った軽食、お菓子、デザートなども食べつつ、おしゃべりをしつつ、しかし、線路上にはいつも走る列車が、といった感じ。いろいろ珍しいものを食べた。名前を覚えられないものが多い。イカにご飯が詰まっている駅弁みたいなやつとか、肉まんやたまごまんとか、大勢だから、何分割かに包丁で切ってもらって、小さいピースを食べた。少しだけ食べられる機会は普通はない。特に、イカのご飯なんか、まえから存在は知っていたけれど、絶対に1人だったら食べない類のものだ。
パスカルも最初だけはしゃいだけれど、すぐに大人しくなった。子犬の頃に比べれば落ち着いてきたのではないか。
夕方、暗くなっても機関車のヘッドライトをつけて列車を走らせた。暗い森の中を抜ける路線はなかなかにスリリングで楽しい。こんなことができる季節は本当に今くらいだ。日中も暑くはなく、夕方も寒くはない、という奇跡的なバランスの季節である。
今日は、小説も工作も予定どおりお休み。ちょっとした雑用だけをいくつかこなす(このMLAも)。「四季」文庫版の解説・感想の部分のゲラが届いた。僕が選んだ量が、すべて収録できたようだ。ただ、ねたばれの箇所を削ったり、できるだけ大勢の人を掲載するため、改行をとったり、という変更をしている。あしからず。愛蔵版BOXセットの予約も今月いっぱいで締め切られる。欲しい人はお気をつけて。
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30年以上まえの「模型とラジオ」という工作少年のための雑誌を捲っていたら、ハンググライダの作り方の記事があった。竹を組んで作る。模型ではない本ものだ。それで、人が空を飛ぶわけである。うーん、凄いな。こんな記事、今は書けないし、絶対に出版できないだろう。
近頃、責任がどこにあるのか、微妙にずれているな、と感じることが多い。なにかトラブルが生じると、本当の責任とは僅かに外れた方向へ、最も突きやすいところを攻める。それでものごとが解決したかのように安心しようとする例が増えていないだろうか。ただ、マスコミが取り上げているだけで、実数としては増えていないかもしれない(データを調べたわけではない)。
どんな記事を書いても、グライダを作って怪我をすれば、作った本人の責任であることは明らかだ、と僕は思うのだが、これが明らかでない、と考える人がいるようだ。だから、政府や役所やメーカや学校などが、よく槍玉に挙げられる。すると、しかたなくそれを防御するような方策が立てられる。たしかに、それである程度の抑止にはなるだろう。しかし、明らかにそれは真の解決ではない。
個別のニュースに関することではないが、ここ20年ほど、いじめの問題などで、学校や教師が責任を問われるのが当たり前になった。当事者が責任追及をするのは当然だ。しかし、周囲(特にマスコミ)がそこに加勢したかのように参入する様は、まさに「いじめ」ではないか。もしかして、いじめにはいじめで復讐すべき、それが正義だ、とでも考えているのだろうか。
【理科】 無線機
小学生のときには、ラジオを含めて幾つかの受信機を作った。受信機(レシーバ)とは、電波をキャッチして、そこから声や信号を取り出す機械のことである。
一方、電波を出す発信機(トランスミッタ)は、簡単なワイヤレスマイク程度のものしか作れなかった。せいぜい有効な距離は10mくらいだ。これでは、無線で交信、とはいかない。
当時、おもちゃでも、トランシーバというものが出始めていた。これは、名前のとおり送信機と受信機を合体させたメカである。だが、やはり電波が弱く、せいぜい30mくらしか届かないものだった。
電波を受信することは、誰にでもできる。どんな周波数であっても勝手に受信して良い。これは盗聴ではない。電波は公共のものであり、受信の自由は法律で定められている。しかし、電波を発信することは、一部の例外を除いて、免許が必要だ。
そこで、中学に上がってから無線技師の国家試験を受けて免許を取得した。これで一気に強い電波を出すことができるようになった。真空管を1本使っただけでも、10kmくらいは電波を飛ばせる送信機が自作できる。友人の家へモールス信号くらいなら送れるようになった。だが、その友人の分も送信機を作らないと、交信ができない。送信機と受信機を1組作っても、駄目なのだ。2組ないと交信できないことに気づいたのである。
2006年10月20日(金曜日)
【HR】 ローカルな正義
今朝は7時半にパスカルがベッドに飛び込んできて起こされた。スバル氏が入れたのだ。パスカルのこのモーニングコールは森家では「どっかん」と呼ばれている。おそらく、どっかぁんと体当たりしてくることに由来しているものと思われる。
スバル氏は、なんとか日常生活を送れるまでには回復した。しかし、まだ本調子ではなく、パスカルの散歩、ゴミ出し、ガーデニングは僕がやっている。曇り空で、少々寒々しい一日だったが、逆に仕事をするには暑くなくて良い。
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少し遠い高級食材店へも行き、いろいろ買い込んできた。スバル氏は熱のせいで、急に食べたいものを幾つか思いついたのと、急に匂いがし始めたらしく、これまで食べていたものが食べられなくなったらしい。念のために書いておくが、つわりではない。しかし、本人も症状は似ている、と話している。
二人がかりでパスカルのシャンプーをした。非常に大人しくしていた。濡れているときは、ジャックラッセルテリアの振りをしているみたいだ。しかし、終わるやいなや、大暴れする。家中を走り回るので、家中が濡れてしまう。タオルを持って追いかけるときには、暴走族を取り締まる警官になった気分だ。
今日は、「η」の手直しが35%まで進んだ。まあまあ順調。「IN☆POCKET」の原稿は発送して終わり。「四季」普通版のカバー案も確認して終了。つぎつぎと片づいていくが、つぎつぎに新しい仕事の依頼も来ている。けれど、あまりまだ引き受けられない状況。きっと、引き受けられる状況になったときには、仕事の依頼なんて来ないのだろう。世の中とは、そういったものである。だから、仕事があるうちに無理にでも引き受けて、忙しくしてしまう人が多いのではないか。忙しいのは、ありがたいことだ、との認識が一般的である。まあ、そのとおりかもしれない。
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ようやくこの頃になって、僕は自分が育った家庭環境を外側から、振り返ってだが、客観的に見ることができるようになった。その内に自分がいたときには、当然だと思っていたことが、実はかなり特異なことだったりしたし、また、その逆もあった。両親は、自分を生み、育ててくれた人であり、神様みたいな存在だった。だから、親のことを冷静に、個人の人間として認識することはできなかった。親が生きているうちは、たとえ理屈でわかっていても、感覚的に受けつけない。人間の価値観とは、かようにドメスティックである。
それは、国家でも同じだ。その国の内で生まれ、そこで育てば、実は特異なことであっても、当然に感じられるだろう。日本の皇室は、形だけだったかもしれないが、国民を戦争へと導き、結果的に敗戦したのに、今ではかくも敬われている。かたやかの国の指導者は、人民を導き勝利をもたらしたのだ。それは、もう両親や神様のように認識されてもしかたがない。その内にいる人々は、そういった価値観になる。「正義」や「真実」とは、極めてローカルなものだ。
「いったいどういう国なんだ?」という憤りは、60年まえに諸外国が日本に対して抱いた感想と同じである。外側から見れば、それがわかる。あとになってみれば、それがわかる。しかし、その内にいる人たちは、どんなに説明されても、説得されない、理解することはできない。たとえ理解できても、生理的に受けつけられない。したがって、ただ、誤魔化し、宥め、なんとか、時間が過ぎ、世代が代わるのを待つ以外にないだろう。その方式でしか、生物は進化しないものだからだ。
【算数】 囚人のジレンマ
有名なモデルである。
ある事件で共犯の疑いがある2人の被疑者が、軽い別件の容疑で逮捕された。お互いに会って話はできない状況で、もし、両方ともが黙秘を続ければ、軽い1年の刑で済む。しかし、片方が自供すれば、自供した1人は(司法取引で)無罪となり、もう1人は10年の刑となる。もし、両方が自供すれば、ともに5年の刑となる。
この条件で、どちらの被疑者も考える。相手が黙っているとき、自分は自供で無罪、黙秘で1年。相手がしゃべったときは、自分は自供で5年、黙秘で10年である。となると、相手がどうするかにかかわらず、いずれも自分は自供した方が有利になる。したがって、黙秘を続ける理由がない。
これを2人ともが考えて、両方が自供し、結局5年の刑となる。個人的に有利な道を選んだにもかかわらず、2人としては、必ずしも最適の選択ではなかった(2人とも黙っていれば1年の刑で済んだのだ)。
個人個人が、自分にとって最適な道を選ぶことが、結果的に、集団としての不利益となり、ひいては、個人の不利益にもなる。店が値引き合戦をしたり、国が軍備を増強するのも、このジレンマである。
【社会】じゃないのか、と思ったが、あえて【算数】で。
2006年10月19日(木曜日)
【HR】 初めが違う
連日の早起きだったが、今朝はパスカルがときどき呼んでいるのを無視して7時まで寝ていたら、非常に気持ち良かった。スバル氏が起きていて、パスカルの相手をしていたようだ。彼女ももう大丈夫そう。
それでも、散歩は僕が連れていき、庭掃除をして、それから小説の仕事をした。「η」の手直しは20%までであまり進まず。「ダウン・ツ・ヘヴン」文庫版の2校の簡単なチェックなど、細かい作業多数。
今月は、この「η」を仕上げることと、「IN☆POCKET」の文章の推敲と、「ナンプレファン」の連載エッセィの執筆だけなので、完全に楽勝ムードなのだが、来月は、前半で、「ジャーロ」「野性時代」「別册文藝春秋」に書く予定になっていて、これは合計すると6万文字くらいになるから、「η」の6割ほどにもなる。長編1つ書くよりも、合計が同じ長さになる短編を数編書く方がはるかに大変なので、来月も、今月以上に忙しいことにはかわりない。もっとも、「ジャーロ」と「野性時代」は、ともに連載で、キャラや設定ができているものの続きだから、そんなに大変ではない。「別文春」は新しいシリーズで、まだはっきりとは決めていないが、「少し変わった子あります」に近いあたりに投げ込んでみたいと思っている。書けるだろうか。
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しばらく買いものにいけなかったので、いろいろ食料品やパスカルのフードが底をつきつつあった。それでお昼頃に買い出しにいった。今日も日中は暖かく、僕はまあまあ体調は良好。午後から1人で出かけて、研究打合せも。
夕方に戻った。すぐに、庭の水やり、そしてパスカルの散歩、と忙しく片づける。夜は工作ができると良いが。
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もっともらしい分析をしているのに、最初の観察が間違っている、という文章が散見される。その間違いが、ほかの人には明らかなものだったりすると、目も当てられない。たとえば、三島由紀夫はどうして「羅生門」を書いたのか、みたいなテーマで延々と考察しているのだ。笑ってはいけない、けっこう世の中にはそういうものがある。TVなどでも多いだろう。大勢の専門家っぽい人間が、真面目くさった顔をつき合わせて、いろいろコメントをするのだが、そもそも最初の問題提起が、データとして事実ではない、単なる作りものにすぎない、といったことはありがちだ。本当なのか、ということをまず疑うべきである。
また、あるときは、「これこれが本当だとしたら、どう考えますか?」という仮定のうえで質問をするが、それが本当である可能性がない場合には、考える必要がないので、「どうも考えません」が正しい返答だと思う。
【国語】 新重箱と新湯桶
漢字2字の熟語で、音読み+訓読みのことを重箱読み、訓読み+音読みのことを湯桶読みと呼ぶ。人の名前などでも、ときどき、重箱や湯桶読みを見つけることができる。
もともと、音読みは中国からの読みで、訓読みは、それ以前から日本にあった言葉である。だから、外国のものと、国内のものが合体した言葉だ。
そういう意味では、たとえば、メルトモ、ビニボン、セカンドゴロ、オレンジイロ、モーニングムスメ、ヤンキィズワリ、ライオンマル、スカンジナビアハントウ、などは、前が英語、後ろが日本語であるから、新重箱読みと呼べるだろうか。
また、ドタキャン、カラオケ、ボンミス、コウゲーム、カメンライダ、ケッタマシン、トンガリコーン、コイズミチルドレンなどは、新湯桶読みである。
一見、英語が混ざっているようで、実は純正日本語、というものでは、チャパツ アサレン シャコタン、カミナリオコシ、チヨニヤチヨニ、ウナギマブシ、クッチャネセイジン、チリガミコーカンなどがある。
微妙なところでは、アンパンマン、ボウケンジャー、アバレンジャー、マジンガーゼット、キンチョール、パックンチョ、ムシューダなどがある。
2006年10月18日(水曜日)
【HR】 星の玉子さま
今日もスバル氏は寝ている。熱があるのだが、医者には行かない。彼女は薬アレルギィなので、医者へ行っても、注射も薬も一切駄目で、なにもしてもらえないからだ。少し良くなってきてはいる。
それで、また朝6時に起きて、パスカルの世話をした。こんなに早起きに躾けてしまったのはスバル氏なのだが、いたしかたない。庭仕事もしたし、部屋の掃除もした。今日は暖かかった。忙しく動き回っていたせいかも。
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小説は「η」の手直しを始めた。まず10%だけ。「日経パソコン」の残り2回分のイラストの文字のペン入れも終了。「四季」普通版の表紙案が来た。このほか、カバーやオビなどの文章のチェックも幾つか。
家事も加わって忙しかったのだが、工作も1時間ほどできた。昨日作ったものを修正するつもりだったけれど、どうも気に入らないので、初めから作り直すことにした。こういった決断は、するとそのあと妙に気持ちが清々しいものだ。しかし、小説ではこの種の経験は一度もない。原稿用紙を丸めてゴミ箱へポイ、というシーンをよく(コントなどで)見かけるが、ああいうのはない。消すことがあっても、せいぜい1行程度である(それでも、1作で2回くらいしかないが)。
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夕方には、文藝春秋のI井氏が来宅。「STAR SALAD」の見本を届けてくれた。カバーは、ちょっと渋めのオレンジ色。今回は、前作「STAR EGG」に比べると、わりと短期間で仕上げることができた。もちろん、キャラ設定ができているし、作画作業に慣れたこともある。また、この次を出したいけれど、今のところアイデアはない。
残念ながら、今回は前作のようなプレゼント企画もなく、また値段も高い。だから、気に入った人だけ、手に取ってもらえれば、と思う。
小説の見本は、10冊もらっても、誰にも配ったりはしないので、そのまま山積みで死蔵状態だが、絵本や写真入りエッセィは、ときどき来た人にあげたりできる。今回の絵本も、たぶんプレゼントがしやすいだろうと思い、見本のほかに30冊買うことにした。小説なんて、もらっても困るだけだが、絵本ならば、まあまあ許容範囲かな、という気持ちである。迷惑にならない程度のもの、という意味。
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暗くなってから、パスカルを散歩に連れていき、帰ってきてからご飯をやった。どうも、歩かない道というのがあって、その道には吠える犬がいたりすることがわかってきた。途中で出会う散歩している犬たちは、みんな友好的で、そういう犬にはパスカルも近づくし、嬉しそうである。ようするに、気にしいなのだな、と。
【社会】 人口ピラミッド
縦に年齢、横幅が人口、という統計の図があって、よく「人口ピラミッド」などと呼ばれている。「人間ピラミッド」は運動会である。
あたかも、ピラミッドの形のように下が広がっている(つまり、若い人ほど多い)状態が、理想的な社会であるかのようなネーミングであるけれど、毎年同じ人数が生まれて、人口が安定した状態であるならば、ピラミッドよりは縦に細長い三角形(に近い形状)になるはずである。ピラミッド形になっていたのは、どんどん出生率が増えていたからであり、これは異状だった。こんな形を維持し続けたら、人類の滅亡が早まることになるだろう。
日本は現在は、紡錘形で、55〜60歳くらいが一番多く、30〜35歳くらいが次に多い、という瓢箪形にも見える。この形が悪い状況と指摘する人もときどきいるが、過渡期であるのだからしかたがない。人口を増加させないためには、一度は、高年齢に重心がある(高齢化社会)分布を経験しなければならない。これは、先進国ではほぼ共通しているし、また、後進国でも、既に出生率が下がり始めているところが多く、遅れて高齢化社会になるはずだ。
人口を減らすこと、すなわち少子化は、人類が取り組まなければならない最重要課題の1つであって、それを実現するために過渡的に生じるアンバランス(たとえば年金問題など)を取り上げて少子化に反対する意見は、明らかに本末転倒であり、大事を見失っている。
そういう意味で、このピラミッド形ではない人口ピラミッドを、明るい未来への形として好意的に見るのが、むしろ正しいと思われる。
2006年10月17日(火曜日)
【HR】 第2世代による洗練
スバル氏がまだ具合が悪いので、早朝からパスカルの散歩。それから資源ゴミを出しにいき、庭の掃除もする。パスカルは、スバル氏と遊びたいので、不満げ。
「日経パソコン」の残り2回分のイラストの下描きをする。ペン入れは明日。同誌のゲラが来たので、これもチェック。「IN☆POCKET」の文章を書き上げる。推敲は明日以降。11月発行の本の細かい確認などがいろいろあった。こんなところ。そろそろ「η」の手直しができるか。できるだけ、忘れた方が良いので時間をおいている。
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夕方の散歩のあと、パスカルにご飯をあげた。缶詰がちょうどなくなったところだったので、新しいのを開けて、開いた缶はサランラップで封をして仕舞おうとしたら、サランラップを切る音にパスカルが猛烈に反応して、「なむなむ!」と飛びついてきた。知らなかった。サランラップを切る音が癇に障るらしい。非常にマイナなものに執着しているようだ。
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先週に比べると、体調が良い。いろいろ仕事ができる。しかし、頭で考えているほどは、躰は動かない。なにをするときも、「さあ、慌てないで、落ち着いて」と自分に言い聞かせながら動いている。そうでないと、つぎつぎいろいろやりたくなって、失敗することが多い。手足がついてこられないのだ。老人みたいだが、これは若いときからそうで、とにかく子供の頃は、どうしてこんなに上手くことが運ばないのか、と不思議だった。あるとき、考えていることよりも、躰の動きが遅い、ということに気づき、待ってやることにしたら、いろいろ上手くできるようになった。しかし今でも、ときどき先走ってしまって、失敗することがある。
自分に対してもそうなので、他人に対してはなおさらだ。これは、対人関係では一番注意しているところ。
工作も3時間くらいできた。切ったり、削ったり、叩いたり、という作業だった。上手くいかないでも、いかないなりに、だんだんできてくるし、少しずつ良くはなっていくから、楽しい。たまに失敗して数歩後退することがあるけれど、もう一度やり直すと、きまってまえよりも良くなるから、失敗も結果的には良い。ようは、失敗かどうかの見極めが、一番苦しい場面だ。それを迷っているときは後ろを向いているが、失敗と決めた瞬間に、前を向ける。
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10/13の続き。第2世代が第1世代を超えられない、という話題。メールを沢山いただいた。まあ、いろいろな意見はあることだろう。7:3で「そのとおり」「同感」が多かったのが、かえって意外。
超えられない、と書いたが、もちろん、超えられる才能もないわけではない。出にくい、というだけだ。そして、第2世代なのに超えた人を見ると、微妙に違う分野を経験したのち引き継いだ、という例が多い。
第2世代が得意なことは「洗練」である。だから、第2世代によって、その分野は洗練される。今まであったものがより高度になり、不必要なものが削られ、また忘れかけていたものがブラッシュアップされる。それでも、洗練されたがゆえに、マニアックになり、マイナになり、茫洋とした広がりや、本当の意味での新しさを失っていく。このメカニズムだと思う。
違う分野を経験した人が作ると、また新しい「無駄」が持ち込まれ、これがスパイスになって、今までになかったものが生まれることがあるようだ。
【理科】 ダイオード改造
今回は少し難しいので、わからない人はパスして下さい。
トランジスタとダイオードは、回路図を比較するとよく似ている。トランジスタは、ダイオードに1本コードを加えた図になっている。つまり、半導体として同じものであり、構造が違っているだけなのだろう、と子供のときに想像していた。
「子供の科学」を発行している誠文堂新光社が、最近ときどき出している「おとなの工作読本」のNo.11に、1954年に「無線と実験」誌に掲載された記事が復刻で再録されていた。内田秀男氏が書かれたもので、「1N34をトランジスタに改造して、単石再生式高感度ラジオを作る」というもの。
びっくりした。ゲルマニウムダイオードにドリルで小さな穴をあけ、そこに針を差し入れて、セメダインで固定し、トランジスタに改造してしまう、という記事なのだ。読んだだけで、技術的に相当難しいことがわかる。今の僕がやっても絶対失敗しそうだ。
この記事が書かれたときには、まだ僕は生まれていない。小学4年生(10歳)のときには、ゲルマニウムダイオードもトランジスタもお小遣いで買って、ラジオを作っていた。この記事よりも、13年ものちになるが、その当時、ゲルマニウムダイオードは数十円、トランジスタは百数十円だった。たしかに、トランジスタは毎月買えるほど安くはなかった。
今では、出来上がった回路(基板)を改造することさえ稀であるが、その中に使われている一部品の内部を改造する、なんてまずありえない発想だ。ダイオードの中がどうなっているのかなんて、誰も気にしていない。僕も見たことはなかった。これは電子工作というよりは、精密機械工作である。とにかくびっくりしたし、同時に、そういう時代に育った工作少年の技術力はいかほどであったか、と想像するばかりである。
2006年10月16日(月曜日)
【HR】 月曜大工
午前中に小説の仕事を少しだけした。「日経パソコン」のイラストの下描きと文字のペン入れ1回分(あと2回分ある)。「IN☆POCKET」用の原稿を半分ほど。というか、書いていたら半分の文字数で終わってしまった、というだけ。また明日。「どきどきフェノメノン」ノベルス版のカバー案がようやく来た。超ぎりぎりだ。凄いな鈴木成一氏。
スバル氏が風邪気味で、今日はダウンして寝ている。夕方のパスカルの散歩は僕が連れていった。ガーデニングも2時間ほどしたし、昨日に引き続き、木工を今日は庭に出てやった。あり合わせの木材でテーブルを1つ製作。約1時間の作業。庭で小さい機関車を走らせるときなどのために作業テーブルが1つ欲しかったのだ。材料費は1200円くらいか。なにより自作のものは丈夫なのが取り柄。
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大工仕事のために、久しぶりに電動丸鋸やインパクト・ドライバを使った。このほか、屋外作業のついでに、線路の整備をしたり、グラインダで鉄を削ったりした。気持ちが良い。まだ、少し暑いくらいかも。握力系の筋肉がちょっと疲労。
テーブルは、調子良くすんなりと完成したけれど、これらの木材はガレージの中に作る棚のために買っておいたものなので、また買い足しにいかなくてはいけない。材料のストックがないと、どうも不安だ。作りたいと思ったときに、すぐに作りだせることが、僕の場合とても大事だからだ。作りたいと思ってから、材料を買いにいくようでは、帰ってきたときには、すっかりやる気が失せて、また明日にしよう、になってしまう。
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近頃の僕は、もうなにかに専念する、ということがない。これが嬉しい。研究にも、小説にも、工作にも、専念していない。どれかに専念したい、とも思わない。好きなときに、好きなことができるのが一番良い。自分に向いている、と思う。
会議ばかりに明け暮れる生活をしているときに考えたことだが、だらだらとした会議が嫌いで、もっと効率良く合理的に仕事を片づけたいと思っている人は、誰と誰と誰、とだいたい見ていてわかるものである。そして、そういう人は、そのうちいなくなる。どこかへ行ってしまう。ほかの職場、職種へ移るか、それとも仕事をすっかりやめてしまうか。「なるほど、やっぱりなあ」と感じる。つまり、人間は必ず自分が信じる効率化する方向へ進む。同じところに踏みとどまり、変化しないのは、現状に満足し、変わりたいと思っていないからだ。
大きな組織、あるいは伝統のある組織では、合理化を訴える個人の主張はなかなか通らない。思うように効率化されない。すると、そういった意欲のある人間は去っていく。そうでない人たちばかりが残るから、どんどん、そのままが続く、というメカニズムなのだ。そうはいっても、それが悪いわけでもない。守りたいものもあるだろう。それに、ほんの少しずつでも前進はするので、最悪でもない。ただ、自分の人生の時間と比較して、とてもつき合っていられない、というだけのことだ。
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気持ちの良い日に、好きなことをして、好きなものを作って、気持ちの良い空気を吸って、一息つくと、ああ、そういえば、十数年まえの今頃は、こんな真っ青な空を窓の外に見て、どうしてこんなくだらない時間を過ごさなければならないのだろう、しかしこれが仕事というものか、と諦めかけていたな、と思い出す。
とりあえず、すっかり諦めなくて良かった、とは思う。
【算数】 髪の毛の計算
人間の髪の毛は、だいたい10万本あるそうだ。子供のときにその数字を聞いて以来、ついつい10万という数字を髪の毛でイメージしてしまう。たとえば、人口50万人の都市というと、「5人分の髪の毛か」と想像する。
髪が生えている頭の表面積はどれくらいだろう。20cm×20cmより大きいような気がするので、ざっと500cm2くらいだろうか。すると、1cm2あたり、200本になる。1mm2あたり2本だ。それくらいの密度か。
さて、1日に0.3mmくらい髪は伸びるらしい。つまり全体で、0.3×100000=3万mm=30mだ。1日で30mも伸びているのだ。1時間に1.25m、1分で2cmくらいの速度である。
1日に抜け代わる髪の本数が100本だとすると、1本の長さが30cmの長さになったときに、髪の量が釣り合うことになる。それまでは、髪は増えている。
実際には、短い髪よりも長くなった髪の方が抜けやすいから、もう少し違った計算になるだろう。ちなみに髭は髪よりも伸びるのが速いらしいが、本数が少ない。
人間は一生でせいぜい3万日くらいしか生きられないのだから、毎日1本髪の毛を抜いていき、新しく生えてこなかったとしても、全部の1/3も抜けないのだ。
こんなことを考えてもしかたがない、と思われるかもしれないが、対象を把握し、状態を理解するためには、なんらかの計算が必要なことが多い、という例を示したかった。明らかに例が悪い。
2006年10月15日(日曜日)
【HR】 パスカル遠足
数日まえからパスカルを車に乗せて散歩に連れ出していたのは、今日のためだったのだ!
7時頃に起きて、すぐに2時間ほど小説の仕事をした。スバル氏が出そうとしている絵本(漫画も収録)の文章の部分を担当しているので、これを書いた。ほとんど、スバル氏が書いた下書きを入力しつつ手直しした程度の作業。来年の4月頃に本になる予定。
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ナビに従って、最短時間のコースで碧南の明石公園へ向かった。非常に大回りで、まず東名阪で北上し西へ回り、都市高速で南下し、知多半島道路を走る。全部別々の高速料金を取られる。しかし、さすがに空いている。東京や大阪の高速道路とは大違いだ。これでこそ高速。スバル氏も、「ええ道あるやん」と感動されていた。
それで思い出したのだが、このまえ大阪へ行ったとき、都心の夜景が綺麗だったので、実家でスバル氏が「大阪もなかなかどうして、夜景、綺麗になったやん」と言ったところ、彼女のお姉さんが「そりゃ、夜やからな」と一蹴したらしい。「昼間はめっちゃ汚いでぇ」という意味のようだ。だいたい、世の姉妹にいえることだが、妹が凄ければ、姉は輪をかけて凄い。
ナビの予告どおり1時間で到着。一箇所、高速の料金を100円間違えた(CDが古いせい)くらいしかミスはなかった。「偉いもんや」と褒めてあげよう。
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明石公園という遊園地の中の一部の土地を借りて、明石鉄道というミニチュア鉄道の線路が敷かれている。衣浦鉄道倶楽部の人たちが自前で建設したものだ。1カ月に1度会員が集まり、機関車を持ち寄って走らせている。一般の人たち(主に子供連れ)も乗せてもらえる。しかし、今度の3月に廃線になるという。場所が使えなくなるためだそうだ。愛知県ではこういった場所がほかにないし、日本でも珍しい木立の間を走るタイプのレイアウトで、とても残念だと思う。
パスカルは非常に元気で、公園の中も元気良く歩いた。機関車には慣れているのでまったく驚かないが、人が多いことにびっくりした模様。ほかにも犬が何匹かいたけれど、それにもそれほど反応しない(近所で出会う犬の方がずっと多い)。乗りもの系で唯一驚いていたのは、高いところを走る人力モノレール。空を見上げたまま、数秒間歩かなくなった。ときどきこのような文明を見せた方が良いだろう。
スバル氏は、子供が乗る電動のパンダにパスカルを乗せて写真を撮りたがっていたが、人が多いので、「平日だったらできるかも」とアドバイスをするに留めた。
帰りは高速を使わず、1時間半とナビが予告した最短ルートを選択。道路も空いているし、天気は良いし、気持ちの良いドライブだった。パスカルもご機嫌。途中でホットドッグを買って、それを食べながらのんびり走り、やはり予定どおりの時間で戻ることができた。
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午後は、日曜大工をした。日曜日だから胸を張って日曜大工といえる。機関車が増えて、ガレージの床に置いてあるので、棚を作った。今日は4台のせられる棚を壁際に1つ製作。続きはまた今度。
【国語】 可能性がある
よく使われる表現である。「〜という可能性がある」といったとき、どんなイメージを持つだろう? あるいは、「〜という事態が起こりうる」も同じだ。
僕が思い浮かべるイメージは、「確率はゼロではない」というものだ。しかし、世間一般では、少し意味が違って使われているように観察される。
たとえば、ある事件が起きて、その原因のたった1つを取り上げ、「このようなことを放置すれば、また同じような事件が起こる可能性があるのです」と語る。しかし、放置してもしなくても、同じような事件が起こる可能性はあるので、当たり前ではないか。可能性とは、そういうものである。
さらにいえば、「可能性がありますか?」という質問に対して、「いや、どちらともいえない」と答えることにも、首を捻ってしまう。つまり、「可能性はありません」ときっぱりと答えられない場合はすべて、「可能性はあります」に含まれる、と僕は考えているので、「どちらともいえない」「はっきり知らない」「今は判断できない」は、すべて「可能性はあります」と答えるのが正しいと思うのだ。可能性がある、というのは、僕の場合はそういう意味で認識している。
さらに、「可能性がありますか?」と尋ねると、可能なようにしてほしい、という期待の気持ちが込められているように、誤解されることも幾度かあった。「可能性がある」には主観的な気持ちは入らない、と僕は感じる。
したがって、ほぼ駄目だと予測されるが、完全には否定できない、というときは、「可能性はあります」だけでは誤解されることが多いので、「可能性はありますが、極めて低い確率です」とつけ加えた方が良いことを最近(特にスバル氏との会話によって)学んだ。
2006年10月14日(土曜日)
【HR】 高い雑誌
爽やかな日が16両編成のごとく続いている。今日も朝早くから、パスカルを車に乗せて遠足。昨日よりも少し遠くまで走って、とある公園でパスカルを歩かせた。沢山のワンちゃんが散歩にきていた。サッカーをしている頑張り屋のテリアもいた(鼻でボールをドリブルして走っているのだ)。パスカルは、今日も1kmほど歩いて、疲れてしまったのか、途中で立ち止まった。帰りの車中では横倒しで眠っていたが、家に帰るとまたひと暴れ。
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スバル氏が服を1着くれた。自分用に買った服が今ひとつのときに、ときどきくれることがある。お下がりだ。朝もらったので、その後それを着ていたら、パスカルが何度も、「それ違いますよ」と言って、袖を引っ張るのだ。「間違えていますよ」と教えようとしているみたいである。
午前中に、蒸気機関車を出して、久しぶりに石炭を投入し火を着けた。快調に走った。日頃整備をしているからか、心がけが良いのか、あるいは、とことん乗らないからか、そこそこ調子を持続している。お昼頃に火を落とし、冷めるのを待って、煤掃除をした。やっぱり楽しい。元気が出る。
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そのあと、スバル氏と書店に出かけた。「子供の科学」や「工作読本」を買った。僕が買うこれらの雑誌のなかには、厚さが5mmほどなのに、1500円とか2000円もするものがあるので、レジでお金を払うスバル氏にいつも驚かれている。そんなのは序の口で、100ページくらいしかなくて白黒写真ばかりなのに、4000円もする本も普通だ。ついこのまえは、8000円の薄い本を買った。それでも、初版は売切れになって、しばらく絶版になるものも多い。ある程度の数は出るようだ。しかも、20年も30年も売れ続ける。逆にいえば、何十年もまえに発行した本が今でも買える。内容も古くならない。そういう世界なのである。文芸の平均的なものよりも読者人口は多かったりする。ずっとメジャなのだ。
漫画が安い(安すぎる)という話はまえにも書いたけれど、そもそも、作る側の人たちが「安くないと売れない」と信じ込んでいるのが、非常に不思議である。そんなに自信がないものを作っているのか、と問いたくなる。普通の値段にすると採算が取れないから出せない、という話も頻繁に耳にする。採算が取れる値段にすれば良いではないか、と思う。売れなかったら、さらに値段を上げるしかない。売るものに価値がある、すなわち、高くても欲しい人がいる、と評価しているのならば、それができるはずだ。
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漫画も小説も、今後は本の値段は上がっていくだろう。安くなることはまずない。すると、高いから買えない、という人がどうしても増える。図書館で借りて読むことになるかもしれない。大多数が図書館で読むことになったら、図書館からの注文数だけ本を作り、それで採算が取れる値段にすれば良い。たとえば1冊が今の10倍以上なっても良い。大勢が借りて読むのならば、それがごく自然な値段といえる。
また、その10倍以上になった本を、個人で買う人もきっとまだ存在する。その人は、自分が持っているものに対して、今より10倍以上満足できるだろう。持っている人間がそれだけ少ないのだから。
こういう未来になってほしい、という意味で書いているのではない。商品の値段とは、その程度のもの、そうやって決まるものだ、という意味である。
今でも、20年、30年まえの模型雑誌(バックナンバ)をときどき買うことがある。冊数でいうと、1年に50冊程度は購入していると思う。古くなっても、値段が下がることはない。中古品だと、高くなるものも多い。普遍的な価値のあるものの強みだろうか。なかには、絶版になっても、コピィをしたものが商品になっている例もあるくらいだ。メディアではなく、コンテンツに価値がある証拠である。
しかし、本や文章よりもさらに価値があるのは、価値を見出す行為、そのものだ。「これが読みたかったのだ」と思える人、そして、それを手にして本を開くそのときにこそ、価値がある。この幸せを買っているのである。
【図工】 道具を作る
工作をするには数々の道具が必要だ。そして、工作の達人と呼ばれる人たちは、だいたい自作の道具を持っている。工作のための道具を作る工作をするわけで、非常に回り道をしている気がするのだが、カスタマイズされたツールにこそ、達人のノウハウが込められているのだろう。
これは、プログラムでも似たようなことが観察される。プログラムをするためのツールをプログラムする人がいて、こういったツールが非常に沢山出回っている。1つ作ると共有できるのがプログラムのメリットだ。
「痒いところに手が届く」などとよく形容されるけれど、「痒さ」のような一般的なものではない。一般の人にはとうてい役に立たないものばかりだ。
ツールの工作を専門にしてしまう人も現れる。いわゆる工具マニアが、プロになるわけである。もう、それを使ってなにかを作り出すことはなく、ツールの製作に徹する。明らかに分業である。道具を作る職人というのも、このようにして生まれたものだろう。
ただ、その道具を使って実際に作ってみた経験が大事だ。この経験がない世代が、その道具作りだけを受け継ぐと、やはり目的が見えないためか、単なる「工芸」になり、「伝統」を守るだけになってしまう。
以前にも書いたが、再度ここに書いておく。工作の達人の言葉。
プロは、誰がやっても失敗をしない方法で作る。アマチュアは、プロがやっても失敗する方法で作ろうとする。
誰がやっても失敗しない方法とは、その場その場で、カスタマイズされたツールを用意し(なければ製作し)、それを駆使することだ。狂いのない美しさを生む天才的技法とは、こういった持って回った入念な「段取り」で実現されていることが多い。
2006年10月13日(金曜日)
【HR】 目指すものがない
昨日池から上げたホテイアオイをゴミ袋2つに押し込んで、生ゴミに出した。それでも、まだ沢山ある。最初に買ったのが5つで、500円くらいだった。今日捨てた分が2万円くらいで、残っているのも1万円以上ありそうだ。もったいない。
パスカルがお出かけを嫌がって、車で連れていけなくなってもいけない、との教育的見地から、今日は、早朝からパスカルを車に乗せて、近所の公園へ連れていった。モビリオに乗って、しかも後部座席にスバル氏が座ると大喜びで、車に乗っていること自体はそんなに嫌がらない。
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さて、公園に到着。ここは、過去(子犬の頃)に2度来ているためか、すぐに元気良く歩きだした。家の近所で散歩をするときよりも「引き」が良い。知っている場所だからか、と思ったものの、その後、奥へ入って、知らない道になっても、楽しそうに歩いた。500mほどのところで引き返したので、往復で1kmくらい歩いた。パスカルにしてはギネス級の記録である。さすがに車に戻ったときは舌を横から出して疲れている様子。でも、機嫌は悪くない。
帰ってきても、元気が良く、庭で走り回り、夕方の散歩は近所だったが、これもかなり歩いたらしい。なにごとも練習である。
晴天で気温もちょうど良く、本当に気持ちの良い日だった。小説は書き終わっているし、一息つける。のんびりと過ごした。工作を少ししては、雑誌を読み、少しうとうととしては、また工作をする、というような理想的な時間だった。「日経パソコン」の4回分は推敲して発送。イラストはスバル氏が描き始めている。
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「目指す」という言葉があって、たいていは希望的な、前向きな、積極的な、良い意味で使われている。「〜を目指して頑張ります」というもの。目指す対象は、つまり目標というか、到達点の1つとなる。それはそれでけっこうなことだが、僕の見た範囲で感じることは、目指していると大したものにはならない、というやや悲観的な結果である。目指すというのは、結局のところ「良くてそこまで」という限界を最初から決めているような行為だからかもしれない。
「目標を高く」なんていうのも、よく耳にするが、「到達できなくても良いから」という甘えが最初からある。それは逆であって、目標はできるだけ低く見積もるべきだ。そして、そのハードルを日々確実にクリアして前進する、という方が良いのではないか。
ずっと以前から何度も書いている持論だが、「第2世代は、第1世代を超えられない」という法則がある。これは、たとえば、ゲームで育った世代がゲームを作る立場になっても、最初のゲームを超えるものは作れない、というような意味である。第1世代には、「目指すものがなかった」ということが、かけがえのないアドバンテージになるからである。
こういった法則を信じている森博嗣なので、中高生から「僕は将来小説家になりたいのですが、今しておくべきことは何でしょうか?」という質問に対しては、「小説を書くことです。そして、人の小説を読まないことです」と答えることにしている。
【社会】 カンニング
大学では、通常、試験時にカンニング行為が発覚すると、その部局(たとえば学部)のその試験期間に行われたすべての単位を失うことになる。つまり、一度やったらほぼ留年が確実になる。けっこう厳しい処置といえるかもしれない。それでも、毎年カンニングは摘発されている。
机の中に教科書を隠していて、それを覗き見た、というような涙ぐましいものから、悪質なものになると、身代わりで誰かに自分の代わりに試験を受けさせる、といった豪快なものまである。
入試のように、周囲より良い点を取らなければならない場合には、カンニングで合格することは難しいが、クラスで数人しか落ちない、という期末試験では、なんとか凌ごう、と考えるのは自然かもしれない。
社会に出ると、カンニングができない環境というものは、まずない。いつでもどこでも、なにを参考にしても良いし、誰に相談しても良いし、また、得意な人を連れてきて代わりにやってもらうこともできる。むしろ、こういった総合的な能力が問われる。したがって、学生の間だけ、なんとか辛抱して切り抜けよう。
と書いてから気づいたが、社会に出ても、試験がある職種はけっこうある。技能試験、資格試験、昇級試験などなど。ああ、試験につきまとわれる人生って、いかがなものか。
試験というのは出題する方だって、けっこう虚しいものがある。人を選り分ける行為なのだから。
でも、誰でも良い、人柄が良ければけっこうです、と採用して、仕事になったらまるで役に立たない。しかたなく、辞めてもらって、代わりを探す……、といった悲劇になるよりは、あらかじめちゃんと能力試験をした方がましだろうか。昔から、人間社会はこのジレンマを抱えているようだ。
2006年10月12日(木曜日)
【HR】 書き上がった
朝起きて、いつもすることは、ポットに残ったコーヒーをカップに注ぎ、足りないのでミルクを加えて電子レンジに入れること。書斎へ移動し、これを飲みながらパソコンを3台スリープから覚ます。すぐに仕事をする。1時間くらいキーボードを叩いたのち、庭に出ているパスカルを見にいって、ついでに庭の掃除をする。このとき8時くらい。また書斎に戻って仕事をして、小説の仕事が終わると9時か10時になっている。こんな具合である。
スバル氏はもっと朝が早いようだ。パスカルが起こすからである。早寝早起きの犬なので困る。夜なるべく起きているように、遊んでやるのだが、すぐに寝てしまう。
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今朝早く、「ηなのに夢のよう」を1万文字ほど書いて、完成度105%で終了。最後まで書き上がった。1週間ほど寝かせてから、手直しをする予定。たぶん1週間ほどで片づけられるだろう。
「日経パソコン」も残り3回分を書いて4回分が揃った。1回分のイラストの下描きと文字のペン入れもした。明後日の分まで仕事をしたかも。
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久しぶりに、パスカルを車に乗せて、銀行へ税金を払いにいった。銀行へ出向くのは、税金を払うときくらいである。自動引き落としになってはいるけれど、ときどきそうでないものがあるので、面倒なことである。パスカルはモビリオが好きみたいで、この車に限って喜ぶ。ミニとかビートとかポルシェは駄目だ。エンジンの音の違いではないだろうか。
昼過ぎに、今度はパスカルに留守番をさせて、またもホームセンタへ。スバル氏が書店と食料品へ行っている間、ずっと1人で店内を回っていた。毎日のようにホームセンタに行くくせに、1時間でも2時間でも見ていて厭きないのは不思議だ。ここでなら時間がいくらでも潰せる気がする。もっとも、このブログに出てくるホームセンタというのは、1つの店ではない。車で10分ほどのところに大型店が7、8軒あるのだ。考えてみたら酷い過当競争かも。
この頃、いくつかのホームセンタでは、ネジを1本の単位でばら売りしている。必要な分だけを選んで自分で袋に入れて、用紙に記入してレジへ持っていくのだ。しかし、けっこうこれが面倒。100本とかを欲しい場合は困る。パックに入っている方が僕は嬉しい。つまり、工作に必要なネジの本数を正確に把握していない。設計図がないためだ。ホームセンタの店内でぶらぶらと流せるのも、こういった僕の工作手法のせいだろう。設計図がさきにある(それが普通だが)人は、必要なものだけを買えるし、不必要にほかのものを眺めたりしないのかも。
逆に、書店ではほとんど時間を潰せない。欲しい本を探して、あったら買う、というだけだ。立ち読みはしない。たまにぱらぱらと中を見るのは、新しい雑誌を買うときくらいか。雑誌は全部定期購読にしようかと考えている。そうしたら、書店に行かなくてよくなるからだ。日本の雑誌って、郵送することを考えて作っていないものが多いけれど。
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帰ってきてから、工作室で2時間ほど過ごす。今日はほとんど塗装作業だった。わりと暖かくて気持ちが良い。やっぱり少し暖かい方が体調が良いので、その分、活動的になる。
夕方は、増えすぎたホテイアオイをスバル氏と除去した。池をすべて覆ってしまうほどに繁殖したからだ。全体の7割くらいを捨てることを決意した。もの凄い量を取り除いた。最初の30倍くらいにはなっているだろうか。もっとかもしれない。植物というのは凄いな、と思う。
【理科】 壊れ方
クルミを割るところを想像してみよう。たとえば、大きなペンチでクルミを挟んで、ペンチを握る手に力を入れていくと、ぐしゃっと割れてしまう。粉々になることもあるし、中の実が潰れてしまうこともある。このぐしゃっという壊れ方は、クルミが持っている性質なのだろうか?
今度は、万力という工具でクルミを挟んでみよう。万力は、大きなネジによって、2つの鉄のかたまりが、少しずつ距離を縮めるような機構になっている。クルミを挟んで、ネジのハンドルを回すと、やがてクルミは割れる。しかし、ぐしゃっと潰れることはない。万力は距離を少しずつ縮めているだけで、一気にぺしゃんこにするわけではない。
この両者の違いは何か?
ペンチでクルミを割るときには、クルミにかかる力の反力(反動の力)は、人間の手にかかっている。手はやわらかい。これは、ゴムが伸びている状態と同じだ。つまり、ペンチのハンドルをゴムで締めているようなもの。クルミが力に耐えかねて、壊れたあとも、手やゴムはさらに縮んで、クルミを潰してしまう。
万力のネジは、手やゴムよりもずっと硬い。クルミを挟んでいるとき、このネジは逆に引っ張られているが、手やゴムのようには伸びてはいない。剛性が高いからだ。だから、クルミが少しだけ壊れたところで、ネジの僅かな伸び変形はすぐに戻り、それ以上にはクルミを押さない。
ものが壊れるときの挙動は、壊れるものの性質だけで決まるのではない。何を使って、どう壊すのかによって異なった現象が観測される。試験方法や測定方法によって、特性や測定値が違う結果になる例は非常に多い。
人間の壊れ方も、本人の特性だけで現れるのではない。ちょっとひび割れるか、完全に押しつぶされるか、は周囲の剛性の大きさによるだろう。
2006年10月11日(水曜日)
【HR】 怒らせる文章
今日は雨。とても寒い。スバル氏と一緒に買ったダウンのベストを着ていた(もはや)。
午前中に2時間で1万文字を書いて、「η」の完成度は95%に。明日終わる見込み。それから、「日経パソコン」の1回分の文章を書いた。あと3回分も続けて書く予定。イラストは、紙をスバル氏に用意してもらった(サイズの枠線を引いてもらっている)。でも、今日は昼頃は眠くなってしまい、パス。
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午後は、工作を2時間ほどした。主にサンディング(サンドペーパで削ること)。粉が沢山出るから、ときどき掃除機で吸いながら作業をする。しかし、飛行機ほどではない。飛行機を作ると、もの凄い粉の量になる。一般に、我々が「煙」と呼んでいるものも、粉であることが多い。空気さえなければ、すぐに床に堆積するはず。ああ、空気があるのだなぁ、と感じられる現象。
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幻冬舎で出版された日記シリーズを読んでいた人は、今のこのMLAが、きっとソフトすぎて物足りないだろう。言いたいことを書くときの匙加減というのか、影響の範囲や強さのようなものに関する各種のツマミがあって、どのくらいにセットをして書くのか、ということは常に考える。予想外の反響、反応があることはまずなく、必ず想定内だ、といえるくらいは考える。
お金をもらっている文章なので、それに見合った影響力がなければならない。それは、読んだ人がなんらかの影響を受ける、ということでもある。唸らせたり、笑わせたり、泣かせたり、怒らせたり。しかし、最も大事なことは、また明日も読もう、と思わせることだろう。どうすれば、そうできるのか、ということに一番気を遣っている。
読み手に作者が気に入られる必要は全然ない。たとえば、人を怒らせる文章というものもある。本音を正直に書いた文章とは、誰かの癇に障るものだ。そういうことを見越して書く。それがプロだと僕は考えている。ときどき、世間で問題になったりする文章があって、「あんなこと書かなくても良いのに」と普通の人は考えるのだが、しかし、もの書きというのは、それをあえて書く仕事のことである。
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「100人の森博嗣」という本に収録されているが、以前(2002年)に、名古屋のC新聞から依頼されて文章を書いたことがある。新聞に対して忌憚のない意見を書いてくれ、と言われた。「僕は新聞は大嫌いだから、批判になりますよ」と断ったが、「そういう批判こそ載せたい、真摯な態度で受け止めたい」と言ってきた。そこまで言うのならば書きましょう、と新聞批判を書いた。タイトルは「子供には新聞を読ませない」であった。編集部は、このタイトルだけでも変えてほしいと言ったが、それは断った。
編集部としては、それでも、僕のこの文章を載せるつもりだったようだ。しかし最後は、上層部なのか、どこかが反対して、掲載されなかった。ボツになったのだ。
もちろん、僕が自分から投稿して、それがボツになったのならば、まったく自然である。多数の読者が気分を害するから載せない、という選択はあるだろう。そうではなく、批判を書いても良いとの条件で依頼したのである。目測を誤った、ということかもしれない。それはすなわち、作家として森博嗣が侮られていたことになる。
ちなみに、編集部がOKした時点で原稿料を既に受け取っていた。ボツになったあとも、編集部は「返却には及ばない」と言ってきた。僕としても、依頼された仕事はしたつもりなので、受け取って良いと判断した。
実は、ボツになったことはむしろ満足だった。自分の文章に力がまだあるのだな、と証明されたようなものだからだ。読まれればわかるが、けっして罵倒しているわけでもなく、下品な表現が出てくるわけでもない。当時の新聞社はこの程度のものが載せられなかったのか、と今も、未来になっても、感じるにちがいない。端から見ればそれほどでもないことが、当事者、特に自分の欠点を知る後ろめたさを持った当事者には、深く突き刺さる表現がある。いわゆる「痛いところを突く」鋭さが、力のある文章にはある。
はて、「真摯な態度」とは、いったいどんなスタンスのことだったのか?
【算数】 一筆書きの星
星は一般に「☆」のように5つの頂点で描かれる。一筆書きで書く星もたいていは尖った角は5つだ。これはどうしてか?
頂点と頂点をつぎつぎ直線で結んでいく、という条件で一筆書きができる星を考える。頂点の数を少しずつ増やしてみよう。
まず、頂点3つでは三角形になってしまう。これ以外に描けない。頂点が4つの場合は四角か十字(×印)になってしまう。5つになると、初めて、1つ飛ばしに頂点を結ぶことができる。1つ飛ばしてつぎつぎ頂点を結ぶと、2周で最初の点に戻る。これが、一筆書きの星だ。ちなみに、2つ飛ばしにしても逆周りになるだけである。
頂点が6つある場合は、1つ飛ばしにすると、1周で元の点に戻ってしまい、つまり一筆書きができない。三角形を2つ重ねた星は描けるが、頂点から出発する一筆書きではなく、引っ込んだ位置の交点から始めなければならない。ここがネックになっているのだろうか。
頂点が7つの場合は、1つ飛ばしで星が描ける。2つ飛ばしでも描ける。だから、7角の星は2種類ある。けっこう格好良いのだが、多少複雑なのか、あまり一般的ではない。
頂点が8つのときは、偶数なので1つ飛ばしだと2つの四角形になって、6角のときと同じ。2つ飛ばしの星は一筆書きで描ける。
頂点が9つのときは……、と秋の夜長、紙と鉛筆を用意して、いろいろな星を描いてみては?
2006年10月10日(火曜日)
【HR】 選択の貧しさ
今日も秋晴れの暖かい一日だった。朝から、ガーデニングを1時間半ほどして、パスカルとも遊んだ。それから、小説を1万文字書いて、完成度は85%に。お昼頃、スバル氏と書店、ホームセンタ、スーパを回った。彼女は今日は土を2袋購入。ミニ薔薇も2鉢買っていた。僕は塗料を買った。パスカルは留守番の方が良いみたいで、出かけるときは玄関に出てこない。帰ってくるともの凄く大喜びするけれど、一緒に行きたくはない様子だ。こういう犬は今までで初めてである。家が一番良いらしい。
午後は30分ほど昼寝もした。なかなか優雅。夕方も水やりをして、パスカルは水浴びをしてから散歩に出ていった。今日はデッキの掃除もできたし、かなり働いた気がする。工作は夜にしたい。
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テレビがデジタル放送になるそうだ。スバル氏がそう話していた。「え、まだなってなかったの?」と思った。それだけ。
与えられるものを受けていた時代から、欲しいものを自分で取りにいく時代になった。これが豊かさである。買いたいものをお店へ行って探す、というのが既にそうだ。品物が沢山あって、選べるようにお店という場所がある。選べない時代には、店なんかなかった。ただ与えられたもの、手に入るものを食べて、着て、生きていた時代が長かったのだ。仕事も与えられて、それをする以外になかった。
つまりは、こうするしかない、という局面が多いほど、貧しいといえる。自分は、こういう人間だから、こうしなければならない。これしか道はない、と思い込むことは、貧しさを引っ張り込んでいるようなものだと思う。
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しかし、ある意味では、それが楽でもある。選択肢がなければ、考えなくても良く、ただ毎日ノルマをこなして生きていける。そういった貧しい時代が長く続き、また大勢がそれに甘んじていられた、ということが、人間という生きものの特性をよく示していると思う。そんな生き方ができる生物である。否、そもそも生物のほとんどは、その特性を持っている。だから、生き延びられたのかもしれない。
ただ、いつの時代にも、少数の革命家がいた。貧しさよりは死を、という選択をしてでも立ち上がろう、勝ち取ろうとした人間がいたのだ。そんな革命家が、現在の豊かさを築いたのか、というと、そうでもない。地道に生産し、工夫し、少しでも楽になろう、みんなで楽をしよう、という多数の個人の発想や努力が蓄積した結果だ。革命家は単に、その場の分配の不公平を正そうとしたにすぎない。公平になることが、すなわち豊かさでもないし、平和でもない。それは、社会主義の失敗で明らかになったところではないか。
そういったことを、落ち葉を拾っているときなどにふと考えるのだが、こんなことがのんびりと考えられること自体が、実に豊かで平和である。「死にもの狂いでやれ!」という言葉を、僕が小さい頃にはよく周りの大人たちが口にした。どうして、死にもの狂いにならなければならないのだろう、と不思議に感じたものだ。その予感は正しかったと今は思える。少なくとも、核実験をするような選択は、死にもの狂いであって、そこからは豊かさも平和も、けっして生まれないだろう。
【国語】 疑問形口調
話すときに、必ず疑問形になる人が、だいぶ以前から増えた。これは、常に相手に相槌を求める、相手の顔色を窺いながら話す、といったメカニズムであろう。
「このまえだった? あそこ、あのお店だったよね? 美味しくなかった? 安かったよね? もう一度行かない?」といった具合である。
また、言葉の切れ目で、疑問形のように必ず音を上げる話し方の人も多い。「私がぁ、このまえ行ったぁ、あのお店のぉ、メニューなんだけどぉ」と、この小さい平仮名の部分で全部音が高くなるのである。こうなると、もう、いつどこで疑問形になるのか見極めにくい。嘘が続いて信じてもらえない狼少年のようなものだ。
もともと、語尾に頻出する「〜ですよね」というのも、半分は疑問形っぽい。また、「〜じゃないですか」なども最近増えている。「私たち、このまえ一緒に行ってきたじゃないですか」なんて言われると、昔だったら、「責任を取ってくれ」と訴えられているような響きであるが、現在では、「一緒に行きましたね」くらいの軽さなのだ。
しかし、召使いがいるような良家の人は、「あら、雨かしら」とか「まあ、どうしましょう」などと呟いたりする。これは、脇に控えている従者がそれに応えられるように、と配慮されている気がする。だから、そういう意味では、日本中の人たちが、良家の人になりつつあるのではないか、などと考えている人いませんか?
2006年10月09日(月曜日)
【HR】 秋晴れと誤解
風が治まって、文句のつけようがない秋晴れになった。今日はスバル氏がいないので、朝6時に起床。パスカルが寝室の前で待っていて、飛びついて喜んだ。朝は、まずササミを少しだけもらってから、散歩に出かける。だから、飛びつくのは、ササミが嬉しいのだと思う。散歩はそんなに嬉しくない。今日は、西に20mくらい行ったら、顔を見て止まってしまい、もう帰ろうと訴えた。しかたなく、東へ向かったが、こちらも、50mくらいしか進めなかった。そのかわり、庭では走り回った。
水やりもしたし、バキュームで枯葉も拾ったし、雑草も抜いた。さらに、線路付近の蜘蛛の巣を棒で除去して、庭園鉄道も運行。それだけやっても、まだ9時だった。
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それから、小説を1万文字書いて、完成度は75%に。すると、お昼になっていたので、2時間ほど工作をした。あと、ネットでいろいろ模型関係の調べものも。工作は、このところずっと金属相手だったけれど、今日から木工になった。木工をしていると、ついつい飛行機を作っている気分に自然になってしまうが、「機関車なのだから、軽くなくても良い」とときどき思い出しながらする。こういう感覚というのは、染みついてしまって、なかなか変わらないもののようだ。
午後も、何度かパスカルを庭に出して遊ばせた。パスカルはおすわりをあまりしない。すぐに腹這いになってしまう。だから、おすわりをして写真を撮ってもらう練習をした。おすわりがあまり好きじゃないようだ。猫背の反対で、エビ反った姿勢の方が楽だからだろうか。そういう背骨なのである。子犬のときからそう。
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こんなに良い天気、本当にもったいない。できることなら貯金したい、と思えるくらい良い天気だった。1年でもたぶんベスト5に入るのではないか。ちょっと眩しすぎるのと、もう少し涼しくても良いかな、とは思う。飛行機を飛ばしていたら、顔が日焼けしただろう。
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それにしても(いきなりだが)、言葉というのは伝わらないものだ。言葉が一番伝わるものだけれど、それでも、なかなか思ったようにはいかない。会って話をしても、伝わりにくいのだから、まして文章で一方的に書いたことなど、どれくらい意味が汲み取ってもらえるだろうか。書くことを仕事にして、つくづく感じるのはそれである。
論文を書いているときは、「まあ、ちょっと読むか見るかする人が世界に100人、理解しようとする人が10人くらい、そのうち1人くらいは自分で研究をして、レベルが上がってくれば、意味が伝わるかもしれない」と考えていた。というか、今現在は無理でも、何十年かしたら、誰かわかってくれるだろう、といった期待に近い。
小説は、どうだろう、平均的には20%くらい伝われば、もうよしとしなければならない。物語の筋でさえ誤解されるし、読み手が勝手に想像してしまうので、これは諦めるしかない。まして、こちらが狙った方向性など、まったく伝わらないことの方が多数。これも、そんなものか、と期待していない。誤解しないように。読者が馬鹿だという意味ではない。そもそも、誰もそんなものを、はなから求めていないだけのことだろう。
日記やエッセィも、30%くらいならば伝わるだろうか、というのがだいたいの感じ。書き方が悪い、ということかもしれないけれど、これ以上懇切丁寧かつ厳密に書いたら、誰も読んでくれなくなる。
文章の一部だけを抜き出して、森博嗣がこんなことを言っていた、と書かれることもあるが、しかし、コミュニケーションとはそんなものだ、と初めから諦めてもいる。9人が誤解しても1人が理解すれば、充分に元が取れるかもしれない。意見を主張するためにエッセィを書いているわけではないので、目的達成どうこうという問題でもない。
そもそも、人に認めてもらう、あるいは、人から褒めてもらうためにやっているのではない。また、たとえ認めてもらい、褒めてもらっても、さほど嬉しいわけではない。これは、自分でなにかを作ればわかる。出来上がったものをいくら他人が褒めてくれても、作っている最中や出来上がって一人ほっと溜息をつくときの嬉しさに比べたら、ほとんどゼロに近い。これがわかる人が作り続けるのだ。
なんか、こうやって書くと、不満があるみたいに思えるかもしれないが、それもまた、大きな誤解である。
【図工】 センスとテクニック
絵が上手いという場合、それは、頭に思い描いたものが優れていて、しかもそれをキャンバスに写すだけの技巧を持っていた、という2つの要素からなっている。
たとえば、もの凄くカラーコーディネートのセンスが良くても、その色を上手く塗れない人は、仕事としてやっていけない。それがこれまでの世の中だった。
基本的な技術は、大半は経験によって築かれる知識体系であって、それを知っている者が、その職に就いている。しかし、センスがあるか、というと、どうもそうではない、と思うことが非常に多い。
たとえば、デザイナと呼ばれる(あるいは名乗っている)人たちは、単に素材を沢山知っているとか、できることを把握しているとか、コストの計算ができるとか、そういった能力を持った人たちで、美しさに対する感覚が優れているわけではない。なかには稀に、この美のセンスを持っている人がいて、そういう人は例外なく、一流であり、名前が知れ渡っている。逆にいえば、それ以外の99.9%の人は、センスがない、ともいえる。
ところが、その職についていない(だから当然、経験も知識もない)けれど、センスを持っている人間がいる。そういう人から見ると、「これ、変じゃない?」というものがあるわけだが、しかし、「素人に何がわかる」と一蹴されるわけだ。デザインの世界もまだまだ封建的である。
デジカメが登場して、カメラやレンズの設定や現像の技術がなくても、良い写真が撮れるようになった。これからはセンスだけの勝負になる。それと同じように、あらゆる分野のデザインは、ノウハウがコンピュータ任せになり、どんどんセンスの比率が増していくだろう。本来あるべき方向へ近づいているだけの話であるが。
2006年10月08日(日曜日)
【HR】 人生相談には向かない作家
朝からの晴天で、またも風が強い。飛行機を飛ばすには駄目な日だ。スバル氏が東京へ遊びにいったので、留守番。パスカルは元気がない。「η」は1万文字書いて、完成度65%に。「日経パソコン」の4回分のテーマも決めた。まだ書いていない。庭に出て、落ち葉を拾ったり、水やりをしたりした。でも、風が強すぎるので、長くいると疲れる。
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工作は、今日はお休みで、設計図というかスケッチを幾つか描いた。明日から作るための準備。暖かい飲みものが恋しい季節になった。コーヒーメーカが生命線になる。昨日、M澤さんが持ってきてくれたケーキがまだ残っていて、2日連続ケーキを食べた。美味しいが、甘い。ケーキってもう少し小さければ良いのにな、と思う。半分くらいで、もういいや、と思ってしまうのだ。貧乏性なので、残せない。「ケーキを残すくらいなら、死んだ方がまし」とまでは思わないけれど。
僕たちが子供の頃は、だいたい残してはいけなかった。とにかく叱られた。お茶碗にご飯を1粒でも残したら叱られたものだ。目が潰れるとか、お百姓さんがどうとかこうとか。ついでに、夜爪を切ると親の死に目にあえないとか、食べてすぐ寝ると牛になるとか、ネギを食べないと数学ができなくな