2006年09月30日(土曜日)

【HR】 1年間

 7時半に起きた。少し眠かった。パスカルが庭で線路の上を走っていたので叱ったけれど、すぐに自分の機嫌が悪いことに気づいた。機嫌が悪いときは、やっぱり叱らない方が良い。
 温かいコーヒーを飲んでいるうちに機嫌は直った。明日から執筆の予定だけれど、フライングで、午前中に小説を書いた。1万文字をさらさらと。完成度10%。大丈夫そうなので、かわりに明日はゲラ校正に戻ろう。あまりゲラばかり見ていると、書けなくなるんじゃないか、と心配になるが、そういったことはないようだ。あまり寝てばかりいると寝られなくなる、と言うスバル氏みたいなものである。
 午後は、工作室でアルコールランプを使って、ハンダ付けをしたが、どうも失敗が多く、2時間ほどで諦めて出直すことにした。難しい。
 「STAR SALAD」の色校が届く。まえに来たものに対して、全般にやや緑色を強く、という要求を珍しく(絵本や写真集では初めてかな)出したところ、さっそく直ったものが来た。ほんの僅かな違いだけれど、良くなった。要求してみるものだ。

 今日で、このMLAをちょうど1年分を書いたことになる。1日も休まずに書くことができた。とんでもない不幸がなかったし、幸い健康にも恵まれた。最初の頃、いろいろあったけれど、その後、システムも安定している。htmlで書いていた昔の日記に比べれば、格段に楽だし、修正や検索したりするのも簡単だ。なによりも、自分のパソコンを持っていないときでも、インターネットにつながった端末とブラウザさえあれば、どこからでも入力ができる、という点(これがブログの最大の価値だが)はアドバンテージ。
 メールが普及したとき、便利で合理的だな、と感じた。余計なことを話さなくてすむし、好きなときに発信でき、好きなときに受信できる。お互いに相手の邪魔をせずにコミュニケーションが取れるのだ。
 ブログの日記は、これと似ている。もっと世間話やおしゃべりがしたい、でも、相手の生活には干渉したくない。だから、みんなが自分の好きなときに発信し、また好きなときに受信できるようになった。
 ネットの基本とは、この「迷惑をかけたくない」という上品さにあるだろう。考えてみたら、突然自宅でベルが鳴る電話などは無礼な存在だったし、また、直接会って話をすることは、お互いのタイミングを計ったり、いつ切り上げて良いのか迷ったり、とにかくやっかいだ。どちらかが、あるいは両方が「ああ、時間が惜しいなあ」と感じることがあるだろう。
 セールスの電話や訪問に比べれば、その手のメールの迷惑さは微々たるもの。メールを始めて、そろそろ15年ほどになるだろうか。とにかく、ワープロとインターネットは、無条件に素晴らしい。これで、どれだけ生活に潤いが得られたか計り知れない。人間万歳。感謝雨霰。
 ケータイは、僕の場合はあまり活用していない。あってもなくても、そんなに影響なかったように思う。かける相手はほとんど家族で、つまりは待ち合わせの約束に融通が持たせられる程度だ。残念ながら、ケータイでメールを打つことは、キーボードに比べて遅すぎて億劫。
 MLAの最初の1年間は、どんな感じだっただろう。もう少し抽象的な内容にしたい意志は強いが、ぽろりと具体的なことを書いてしまう。新しい読者へのサービスとはいえ、以前に書いた話題も出るし、何度も同じことを書いた。学科は、簡単にしたり、難しすぎたり、行ったり来たりだ。
 以前に比べれば、現在の方が、生活に不満がないのは事実である。だから、あまり愚痴を書かなくなったと思う。たとえば、自分の周辺から、会議や委員会を排除したので、そのストレスは消えた。でも、それに関する皮肉を読みたかった人には物足りなくなったかもしれない。誰でも、若いときほど嫌いなものが多い。これもしかたがないだろう。
 さて、しかし、もちろんこれで終わりではない。明日からも、平常運転である。

【理科】 銀河系

 「銀河」というのは、恒星や星間物質(ガスや塵)などからなる大きなグループのことで、たとえば、「アンドロメダ銀河」などのように使う。「銀河系」というと、我々の地球や太陽が含まれている銀河のことを示すようだ。太陽と同じような恒星が、2千億個も集まっている。直径は約10万光年(どの範囲までを銀河系と呼ぶかで異説あり)。厚さはその10分の1くらい。平たい円盤状で渦を巻いて(回転運動して)いる。我々の太陽系は、この銀河系の中心から3万光年くらいのところにある。
 「銀河」という言葉は、「天の川」のこと。空に見える天の川は、銀河系の中にいる地球から見た、銀河系そのものだ。平たい円盤の形をしているから、その中にいれば、周囲に広がるリングのように見えるわけである。
 大きすぎて、とてもここから外に出ることはできない。1万光年というのは、光のスピードでも1万年かかる距離のことだから、夜空に光っている星の光は、何千年、何万年も昔に発した光が、ようやく地球に届いたもの。だから、多くの星は既にその位置には存在しない。爆発して消えてしまった星もあるだろう。我々は、残像を眺めているのである。


2006年09月29日(金曜日)

【HR】 ベストとひとかげ

 昨夜、「STAR SALAD」と「猫の建築家」のゲラ校正の結果をそれぞれ編集部に電話で伝えた。どちらも、ゲラはこれで終わり。色校正がもう1回あるようだ。
 今朝は1時間ほどガーデニング。それから、パスカルに留守番をさせて、スバル氏と高島屋へ。僕はハンズが目的地。材料で欲しいものがいろいろあって、すべて発見して購入。1時間後に落ち合うと、スバル氏は、ダウンのベストを買おう、と言う。それで、その店へ2人で行って、1着ずつ買った。まだ、そんなに寒くはないけれど、もうお店は冬物ばかりだった。
 ダウンのベストは、2人とも家の中で仕事をするときのために買ったのだが、その店はアウトドア・ファッションの店だった。「袖があると、絵が描きにくい」と彼女が話していたが、それを聞いていた店員が驚いていた。たぶん、野に出て自然を描く画家を想像したのだろう。彼女の場合、炬燵に入ってそのベストを着るつもりなのだ。
 それから、フリースのパーカみたいなのもあって、スバル氏が「これ、暖かいから買いなさいよ」と僕にすすめたのだが、「いや、それじゃあ、ちょっと外には出られないでしょう」なんて僕が答えたので、またも、アウトドアの店としては傷ついたのではないか。そのときは、なんとなく寝間着みたいに見えたから、言ったのだけれど。

 高島屋の11階にある書店は、鉄道や飛行機などの工学書がわりとスペースを使って置いてあるので、いつも立ち寄るのだけれど、なんと今日行ったら、そのコーナがなくなっていた。店内の移転先へ見にいったら、単なる雑誌のコーナだった。本は全然ない。それで、欲しかった本をコンピュータで検索したら、やはりなかった。この書店に僕が行く理由はなくなってしまった。
 結局、書店というのは、どんなに大きくても、ない本がかなりの確率である。ここへ行けばなんでも揃う、という書店は、ネット書店以外にはない、という世の中になったようである。
 そのあと、イタリアンなオリーブオイルの利いたサンドイッチみたいな固くて小さい(高密度な)やつを買って、それを食べながら運転して帰ってきた。パスカルは、昨日のことで懲りて、出かけるときも連れていってくれと言わなかった。学習したのが、いじらしい。

 小説の仕事は、「四季 秋」のゲラを終えて、「四季 冬」に入った。そろそろ、解説・感想も候補を絞らなくてはいけない。長編(「η(イータ)〜」)の執筆は来週からは始められそうな怪しい雲行き(誤用)。
 よしもとばなな氏の新刊「ひとかげ」を4日ほどかけて読んだ。僕が今年読んだ最初の小説である。たぶん、最後の小説になるだろう。この本が届いたとき、「人影」だと思ったけれど、間違いだった。
 読者がどう感じようと、作家の作品は新しいものほど良い。「良い」というのは、上手いなあ、という洗練度でもなく、切れ味が素晴らしい、という鋭利さでもなく、また暖かさでも、深みでもない。どうも言葉が見つからないが、一番近いものは、「高い」あるいは「美しい」だろう。ああ、まえよりも高くなった、美しくなった、と感じる。
 高いといっても、本の値段ではない。もちろん、作家の価値が、高まるのだ。つまり、作者は、作品を書くごとに、1段ずつ階段を上っていく。飛躍的に上がる1段もあれば、ほんの少ししか上がらない1段もある。しかし、下がる段はない。創作とは、上り続ける以外にないからだ。
 「ひとかげ」と「とかげ」の、いずれが高い1段であるかは、読み手のそのときの高さによるだろう。しかし、作家であるよしもと氏は、かつては「とかげ」でしか1段上がれなかったし、今は「ひとかげ」でなければ1段上がれない高さにいた、ということである。
 僕には、「ひとかげ」の方がぐんと美しい作品に感じられたし、その変化こそが素晴らしいと思った。

【社会】 リサイクル

 この頃、この言葉の持つ意味を誤解している場面によく出会う。何度か書いてきたことだが、改めてもう一度書こう。
 リサイクルというのは、一度使った材料を、再生利用することだ。捨ててしまわないで、それをもう一度使えば、資源の節約や環境汚染の防止につながる、とイメージされている。
 たとえば、紙を回収し、もう一度紙を作ることができる。そうすることで、新しい紙の生産量を減らすことができる。これは、資源の節約になる。ガラス瓶ももう一度使えるし、金属も集めれば、もう一度精製して使うことができる。
 ただ、このようにして材料を再利用するためには、エネルギィが必要だ。回収するためにガソリンが使われるし、そのまま使えそうなものでも、洗ったりしなければならない。エネルギィを使えば、それだけCO2の排出が増えるので、環境は汚れる。新しいものを作った方が案外省エネな場合もある。
 陶器の皿を何度も洗って使うのと、紙の食器で食事をして捨ててしまうのを比較してみると、陶器の皿の方が資源の節約にはなる。しかし、その皿を作るためのエネルギィや、洗うために使用する洗剤や電気、こういったすべてのファクタをトータルで考える必要がある。
 ペットボトルや紙パックはリサイクルができる、と謳われているけれど、回収すればそれだけで同じペットボトルや紙パックが再生できるわけではない。通常は、別のものにあと1回利用されるだけのことだ。
 たとえば、家庭でペットボトルを利用して植木鉢を作れば、素焼きの植木鉢を使わなくて済む。これは、ペットボトルを節約したのではなく、植木鉢を節約しただけだ。ペットボトルの生産量は減らないし、生産量が減らなければ、ペットボトルのゴミも減らない。紙パックを使って工作をしても、紙パックのゴミが一旦、工作の作品として留まるだけの話で、ゴミの量はトータルでは減らない。したがって、この種のリサイクルをいくらしても、環境に貢献するということはない、と認識すべきである。
 廃物利用の多くは、単にゴミの形を変え、捨てる場所か、捨てる時期をずらすだけの行為である。


2006年09月28日(木曜日)

【HR】 豊かな選択

 朝起きて、まず庭に出る、というのがこの頃の日課。パスカルとスバル氏はだいたい既に庭にいる。水やりをしているというよりは、パスカルに水浴びをさせているように見える。涼しくて気持ちが良い。こんな都合の良い季節が、しかし日本では短い。

 スバル氏が、パスカルを獣医さんのところへ連れていきたいと言う。1年に1度のワクチンの注射のためだ。そこで、そのまえにシャンプーをすることにした。パスカルの朝シャン(古)である。今日は2人で洗ったので、けっこう大人しくしていた。温かいお湯が気持ち良かったのかもしれない。ドライヤで乾かし、ブラシをかけた。このときも眠そうな顔で大人しかった。たぶん、本当に眠かったのだろう。マリモのようになった。
 スバル氏のミニで出発。パスカルは、またドナドナだと思ったらしく、車を見たら自分だけは引き返し、家の中へ戻りたがった。シートに乗せても、しょげた顔をしていた。注射を打たれにいくのだから、良いことがあるわけでもない。予感は当たっているといえば当たっている。

 獣医さんでも大人しくしていて、あっというまに終わり。すぐに家に戻ってきた。帰ってきたら、とたんに元気になり、走り回っていたが、注射のあとは2時間ほど安静にしてくれ、と指示されたので、パスカルを留守番させて、スバル氏とホームセンタへ行くことにした。「顔が腫れたりしたら、すぐに連れてきて下さい」とも獣医さんから言われたけれど、犬の顔が腫れるというのは、どういう具合だろうか。帰ってきたら、顔を見ないといけないな、と思い、出かけるまえのパスカルの顔をじっと見て、記憶に留めた。
 今度はビートで出かけて、途中で別の自宅の駐車場にあるモビリオに乗り換え、カーマホームセンタへ。サンドペーパを数枚買った。スバル氏は花の苗を買った。僕が工具を見ている間に、食料品を買って戻ってきたスバル氏の顔が腫れていたので、「あ、ワクチンのせいか」と一瞬思ったが、単に飴を嘗めていただけだった。あとは、たこ焼きを買って食べた。そういう季節になったわけだ。でも、日中はけっこうまだ暑い。
 パスカルは全然元気なままで、夕方は、近所の犬の友達が沢山集まって、一緒に散歩に出かけていった。わんわん大行進である。
 工作室で2時間ほど罫書きや穴あけをした。夕方の水やりをして、それからバキュームで掃除もできた。ゲラは今日は2時間くらいしか読めていない。まだ「四季 秋」。

 先日、タクシーの運転手さんが話しかけてきて、「いやあ、突然ぶすっと殺されるんですよ、物騒になりましたねぇ」としみじみ語っていた。その人はまた、「首相が替わって、消費税が上がりますよ、どんどん苦しくなる」ともこぼしていた。もちろん反論はしなかった。そういう考え方が間違っているとも思えないし、たとえ間違っていたとしても、正したりするような間柄でもない。
 昨日は、学生からの質問で、「先生は今、幸せですか?」という、ロックスターが観客へ問いかけるような質問があった。僕は、「わからない」と答えた。そして、「わからないけれど、とにかく、過去のどの時点よりも今は幸せだとは思う。人間は誰でも、現在よりは幸せになろうとしているし、少しずつでも、幸せになっていくのではないか」とだけ付け加えておいた。
 タクシーの運転手さんのような人は多い。その多くは、社会はどんどん不幸せに向かっているが、それに比べれば、自分の周辺にはまだ幸せが残っている、と思いたい、そういった心理だと読み取れる。
 お金を儲けて物質的に豊かになると、「でも、心は寂しいのでは?」「なにかを失ったのでは?」と問いかけたがる人もまた多い。どんな生き方をしても、なにかを失うだろうし、寂しい心というのも消えないだろう(僕は寂しいのは大好きだが)。しかし、そうやって、なんとか人の不幸を見つけたい、という心理は、ワイドショーなどを見れば明らかだが、どうも上品には感じられない。
 失うものと豊かになる効果を比較し、豊かさが大事だと思えば、豊かになれば良い。豊かになったら大切なものを失う、それに比べれば貧しくても大切なものを大事にしていきたいと思えば、豊かにならなければ良い。しかし、それらいずれもが「豊かな選択」にはちがいないのである。豊かさとは、すなわちこの「選択の自由」のことだ。

【算数】 畳の部屋

 畳は、短辺と長辺の比が1:2の長方形だ。
 では、長辺が短辺の2倍よりは短い長方形の部屋に、20枚以下の畳を敷き詰める、という条件のとき、以下の問いに答えよ。
1)最も大きな正方形の部屋は何畳間か?
2)最も大きな素数(整数)枚の畳を敷く部屋は何畳間か?
3)4畳半のように、半分の畳を1枚だけ必要とする部屋で、最も大きな部屋は何畳間か?
4)作れない部屋で、(20畳以下で)一番大きいのは何畳間か?
5)作れない部屋で、素数枚でないのは、9畳間と何畳間か?
(簡単なので理系の人は考えない方が良い。掲示板に答を書かないように)


2006年09月27日(水曜日)

【HR】 集中講義

 早起きをする。家を8時に出た。久しぶりに朝のラッシュを経験。大学に30分後に到着。こんな普通の出勤は、最近しばらくしていなかった。
 国立N大学はまだ夏休みであるが、今日は集中講義をする日。朝の8時40分から夕方の6時まで、というのが持ち時間で、つまり昼休みを除き、実質8時間20分(500分)である。途中に休憩を挟むけれど、かなりしんどい。聴く方も大変だと思う。聴講生は、情報文科学部の3年生。なんと、必修の講義なので出席は良い。100人くらいいた(午前中は8割程度だったが)。結局、途中に休憩&課題自習時間を2時間挟んだし、少し早めに終わったけれど、疲れたことは事実。

 爽やかな風が吹く、とても気持ちの良い日だったので、キャンパスの散歩もできて楽しかった。生協に寄ったけれど、書店が消えていた。どこへ行ったのだろう。
 終わったので帰ろうと教室を出たら、事務の人が、「学部長室へ」と案内してくれて、学部長と数十分歓談。結局、来年もお願いします、という依頼だった。学生たちに「来年はもう来ないし、二度と君たちと会うことはないからね」と言って終わったばかりなのに、困ったことだ(だから困っているわけではないが)。うーん、毎年は辛いよなあ、というのが正直なところ。とりあえず、1日に集中して5コマは大変だ、という要求はしておく。

 情報をいかに加工するのかという、いわゆるメディア側は急速にハードもソフトも整った。しかし、コンテンツが不足している。たとえば、プレゼンする技術はあるけれど、プレゼンする内容がない、というような状況といえる。不足しているコンテンツを生み出す人材がどこでも求められている。そういった人材をどのように育てていけば良いのか、という話を学部長としたのだが、僕の考え(本音)は、コンテンツを生み出す才能とは、「育つ」ものではない、というもの。育てる、という発想が既に手法的であり、つまり、メディア寄りではないだろうか。
 クリエート(創作)する才能とは、もっと個人的な、もっと孤立した、感性と閃きの世界であって、そこには、ノウハウというものがない。ノウハウがあるものはいずれも媒体の手法なのである。
 だから、創作する手法などが授業として成り立つのか、という根本的な問題があるし、そもそも、そういうものを学問として取り扱えるのか、という疑問もある。
 しかし、世の中には芸術学部というのは存在する。ただそれは、芸術のうちの手法を教えるところだ。学ばなければならない手法が、どんな芸術にも多かれ少なかれある。そんななかで、それが最も少ない(微々たるものでしかない)芸術が小説だと思われる。
 今日は、大学で休憩時間にゲラ校正を1時間半したくらい。それ以外の小説の仕事はできず(この日記は書いているけれど)。

【国語】 杓子定規

 お気づきになっただろうか。前回書いた新語辞書のうち、「杓子定規」は広辞苑に載っている内容をそのままコピィしたものだ。真実の中に嘘が混じっていると目立つものだが、嘘の中に真実が混ざっていても、案外見過ごされることが多い。
 通常、杓子定規は、一定の形式にとらわれて、応用や融通がきかない意味に使われる。しかし、標準的なルールにしっかりと立脚しているイメージがある。真面目できっちりしているものだ、という語感を伴って使われているように思う。ところがもともとは、その標準となる定規が「曲がっていて正しくない」という意味があったわけで、本来は、きっちりしているようで不備がある、という意味らしい。
 それにしても、杓子の柄が曲がっているかどうかも、よくイメージできない。ちなみに、杓子を使った言葉で「杓子面(しゃくしづら)」があって、これは額と顎が出ている様子をいう。「杓子で腹を切る」などもあるし、「大は小を兼ねる」の反対の意味で、「杓子は耳かきにならず」なども聞く。いろいろな杓子があるような気がするのだが、もう身近な道具でもないのか……。


2006年09月26日(火曜日)

【HR】 工作の神様が支配する

 朝は寒いくらいだった。わりと早く起きた。体調が良いのかも。パスカルが早朝にどれくらい元気かがわかった。
 「四季 秋」のゲラ校正を4時間ほど。60%まで。「λに歯がない」が重版になった。早い。好調だ。早く「η」を書かなくては(笑)。
 11時頃から、4時間ほどぶっつづけで工作をした。やる気が充実していたからだ。本格的な銀ロウ付け。機関車のボイラの製作だ。といっても、大きな機関車ではなく、10cmくらいの小型のボイラ。
 銀ロウ付けというのは、金属どうしを接着するもので、まず、くっつける材料がきっちりと合うように整形し、動かないようにする。それから、全体を希硫酸に浸して表面の皮膜を取り除く。それから、フラックスという薬を塗って、ほんの小さな銀ロウを置き、準備完了。ここまでがかなり長い。

 いよいよガスバーナを点火して、ここからが「燃えろ銀ロウ!」のクライマクス。炎で材料を熱すると、銀ロウが溶けて、隙間に流れ込み、材料が接合される。炎を当てている時間は長くても数十秒。
 ハンダ付けのハンダに比べると格段に高温(600度〜700度)で融解する。冷えたときの強度はめちゃくちゃ高い。
 あっという間に終わる。やり直しはほとんどできない一発勝負。火を消したら、金属が冷めるのを待って、また、希硫酸に全体を浸し、そのあと水洗いして、つぎの工程へ……、という繰り返しになる。1つのサイクルが20分くらいは最低かかるから、5箇所付けようと思うと、100分はかかる。もっとかかるかな。
 超面倒くさい作業だけれど、大きな機関車のボイラになると、それはもう想像を絶する苦労。1年がかりでも、なかなかできないくらいの大工作になることも。それに、大きなボイラは、不備があると危険だから、たいていは何十万円か出して、業者に作ってもらうことが多い。蒸気機関車の工作の中では、一番難しいといわれている部分である。
 まあ、そういう解説をこんなところでしてもしかたがないわけで、ようするに高温とか硫酸とかを使う危ない作業をした、ということ。でも、その分、面白かった。昨日よりは上手くなった気がする。少しましなものができて、ちょっと嬉しい。

 使っている銀ロウにはカドミウムが含まれていている。最近、有害なものが増えて(というか、昔は有害だと知らずに使っていただけだが)お店で売っていないことがある。カドミウムが混合された銀ロウは、そんなに有害だとは思えないのだが、もう取り扱っているところはまずない。購入するのが大変だった。
 あと、子供のときには当たり前に使っていたアスベストが今はもう全然使えない。ハンダのフラックスとかも躰に悪そうな気がする。塗料だって害がある。煙草よりは悪いだろう。コーヒーだって駄目かもしれない。たしかに安全にはなっているのだから、文句はいえないけれど、しかしどうも、健康のために不自由になるのは、いささか本末転倒な気がしないでもない。そんなことをいったら、無菌室から一生外に出ないのが、一番安全ではないか。
 夕方小雨が降ったので、水やりをしなくてもよくなった。そろそろ長袖かな……。

【社会】 街の寿命

 バブルの頃、郊外に大規模な住宅地が沢山造られた。たいてい、○○ヶ丘とか、○○台、という地名だ。そして、ショッピングセンタができ、その周辺に店舗も集まる。なかには、専用の鉄道(あるいは新交通システム)が造られたものもある。通勤、通学も便利。大勢の人たちがマイホームを持ち、移り住んだ。
 こうして人工的に造られた街というのは、世代が揃う傾向にある。最初のうちは、子供のいる家が多い。子供を育てるのに適した明るい環境だと認識されるからだ。しかし、10年もすると、子供は大人になり、多くは街から出ていく。20年もすると、今度は老人だけが残る。
 郊外なので、マイカーが多くなる。だから、鉄道は廃業に追い込まれる。ショッピングセンタも十数年で古く感じられるようになる。もっと大きな新しい店が、少し離れたところにできると、しだいに経営は悪化する。
 こうなると、若い世代が住み残ったり、移り住んでくることはまずない。街はどんどん古くなっていく。商売も、もともとそこにあったものではない。もうこの街では儲からない、と簡単に引き上げてしまう。
 都心にある商店街などにも、これと同様の傾向がある。一気に造られた街ほど、火が消えるのも早い。
 過去の歴史を振り返ってもこうした例は数知れない。少なくとも、本来の街は、人の世代のスパンを越えて造られるものが自然のようだ。


2006年09月25日(月曜日)

【HR】 無心

  気持ちの良い朝だった(こればっか)。工作をしようとしていたら、スバル氏が散歩に行こう、と誘うので、パスカルを連れて、近所を歩いた。こんなに遠くまでパスカルが歩けるのか、というチャレンジだったが、せいぜい家から500mくらいの距離である。涼しくなってきたので、なんとか大丈夫だったみたいだ。

 午前中に3時間ほどゲラ校正をした。「四季 夏」が終わり、現在は「四季 秋」の20%くらいのところ。「STAR SALAD」の文章も一度はチェックした。Gシリーズの長編執筆は、まだスタートしていない。
 午後は、工作室でガスバーナを使って銀ロウ付けの作業を2時間ほど。小さな機関車のアルコール・バーナを製作した。銀ロウ付けは、まだ初心者のレベルで、なかなか上手くできない。沢山経験を積んで上手くならなければ、と思うのだけれど、沢山経験するほど時間がないのがネックかも。なんとか形にはなったけれど、今ひとつの出来だった。
 工作をしているときは、本当に無心になれる。これが気持ちが良い。いろいろなことから、一時的にだが離れられる。どんな嬉しいことも、どんな悲しいことも、たぶんすっきりと忘れられる。きっとこんな状態のことを楽しいというのだろうな、とあとから思うわけだ。
 もしかしたら、お百姓さんが畑を耕すときも、同じかも知れない。釣り人が糸を垂らして水面を見ているときも、同じかもしれない。競争している人や、戦っている人も、同じかもしれない。無心というのは、ぼんやりしているのでもないし、寝ているのでもない。躰は動いているし、頭も考えているのに、生きていないみたいな感じ、というのだろうか。死んでいるのに近いかもしれない。
 無心でいる最中は、もちろん無心なので、楽しいともあまり思わないわけである。無心から戻ってきたときに、楽しかったことが遅れて理解できる。生き返ったみたいな気持ちだろうか。

 夕方、スバル氏と一緒にホンダへビートを取りにいった。警告モニタのコンピュータ基板を取り替えるように頼んできた。車検は8万円くらいだったけれど、その基板は10万円ほどするらしい。何年かまえにも、コンプレッサの部品を10万円くらいかけて交換した。車も古くなるといろいろお金がかかってしまう。最近は税金もかかる。だからついつい新車を買ってしまうわけだけれど、少々高くても直して直して乗り続けた方が良いように思う。そういう価値のある車に出会ったあとは、であるが。
 帰りは大回りして走ってきた。とても好調だった。ビートは今、走行距離が5万kmくらい。エンジンの調子はもの凄く良い。タイヤも替えたばかりだ。ボディも綺麗になって戻ってきた。後ろの窓のビニルが(8年ほどまえに1度交換したのだが)曇ってしまって、ほとんど見えない。後方視界はドアミラーだけなので、トラックと同じだ。それにしても、この頃、クラッチのある車が減ったなあ。ちなみに、15年まえにビートが発売されたときも、たしか国産車でオートマの設定がない車種は、ビートのほかにもう1台あっただけのように記憶している。それが何だったかは思い出せない。

 本当に清々しい天候で、お昼頃には機関車を走らせたいとは思ったけれど、出すと準備や後かたづけに時間がかかるし、疲れてしまってそのあとの時間も無駄になることが多いので、今日は我慢。でも、明日は雨っぽい。雑草を抜いたし、水やりもした。昨日買ってきた苗は、スバル氏が全部花壇に植えた。
 うちの近所に、よくわらび餅を売りにくる。「つめた〜くて、おいし〜よ」という声を耳にする。スバル氏が気にしているが、どこにいるのか発見したことはないそうだ。冬になると、「雪やこんこ」の歌が流れて、あれは灯油を売りにきている合図らしい。灯油は買ったことがないので知らないが、あの歌が決まりなのだろうか。そのほかには、「ご不要になった、オートバイはありませんか」という回収業もときどき回っている。オートバイがそんな頻度で不要になることはまずないと思うのだけれど……。 

【理科】 落下速度

 地球上の重力加速度は、9.8m/s2である。だいたい、10m/s2と思えば良い。加速度であるので、1秒間で、10m/s(毎秒10m)ずつ速度が増す、という意味だ。毎秒10mだと、1分で600m、1時間で36km。つまり、時速36kmのこと。
 地面に向かって落ちていく物体は、初速が0の場合、1秒後には36km/h、2秒後には72km/h、3秒後には108km/hというように、だんだん速くなる。しかし、実際には空気抵抗があって、速くなるほどこの抵抗が増えるので、どこまでもは加速しない。ある速度に達すると、そのあとは重力と抵抗が釣り合って、だいたい等速になる。
 最初の1秒で10m/sまで加速するが、その間に進む距離は、平均速度が5m/sなので、5mである。逆にいえば、5mの高さから落ちると、滞空時間は1秒だ。
 2秒後には、20m/sに達しているが、進む距離は平均速度が10m/sで2秒間なので、20mとなる。5階建てくらいの高さだと、約2秒で地上へ到着する。地面に衝突するときの速度は、時速70kmくらい。
 3秒後となると、進む距離は45mになる。10階建てだと、死ぬまでに約3秒、ということ。衝突時の速度は時速100kmを超えるので、まず助かる見込みはない。
 しかし、10階の窓からボールを落としても、そんなに剛速球というほどの速度にはならないことがわかる。グローブがあれば、素人でもキャッチできるスピードだ。これは、コインを落とそうが、パチンコの玉を落とそうが、なにを落としても、空気抵抗の違いがあるだけで、これ以上に速くはならない。


2006年09月24日(日曜日)

【HR】 メディアの先行

 朝方は曇っていたけれど、日中は眩しいほどの晴天。
 久しぶりにホームセンタへ出かけて、ネジ類を調達。また、花の苗をいくつか購入。ガーデニングのシーズンである。
 夕方、庭園鉄道を走らせつつ、庭の掃除をしつつ、苗を植えつつ、雑草を取りつつ、パスカルと遊んだ。朝夕はもうTシャツでは寒いくらいになった。

 「STAR SALAD」のゲラ(色校)が届いたので、パソコンの絵と比較してチェックした。パソコンで絵を描くと、思ったとおりの色が印刷に出ない、という経験をすることになるけれど、僕は今まで、この種のことで大きな不満を感じたことがない。かなり色が違っていても、そんなに気にならない。CRTや液晶で見るのと印刷はまったく違うし、また紙の表面状態によっても違う。部屋の照明によっても違う。きっと、脳が認識しているものはさらに異なっているだろう。色というのは、そもそもその程度のものだと思う。形に比べれば不安定なものだ。
 ゲラ校正も3時間ほどしたし、授業の準備も15分くらい。だいたい終わり。まあまあ仕事をした方か。仕事をしないで、遊んでばかりいると後ろめたくなる、というこの変なトラウマみたいなものは、いつになれば消えるだろうか。仕事を辞めたと同時に消えるものだろうか。もっとも、子供の頃から、勉強をしなければいけない、というウェイトを抱えて生きていたわけで、ずっと同じかもしれない。

 話は変わるけれど、なにかイベントを思いついたり、新しいメディアを始めようと思ったりした場合、なんらかの魅力あるコンテンツを見つけてきて、それで企画を成功させよう、というのが常套の手法となる。世の中には、こういったことが実に多い。
 こんなシンポジウムをしたい。これを成功させるためには、誰を呼んでくれば良いのか。あるいは、新しい雑誌を創刊したい、これを成功させるために内容を考える。新しいショッピングモールを建設したい、そこにどんな店を入れるのか、などと考える。ごく普通に行われているプロセスである。
 そういう仕事をしている人、させられている人は実に多い。あまりに多いから、ときどき忘れてしまうだろう。それは、そもそも発想が逆なのだ。魅力のあるコンテンツがさきになければならない。そのうえで、どのようなメディアにそれをのせていくのか、という発想を持つのが自然だ。
 一般にメディアには設備投資が必要だ。そして、金が動くからメディアは商売になる。だから、どんどんメディアが先行する。
 たとえば、大きなイベントホールを建てる。巨額の資金が投入され、それによって各種の職種が潤う。しかし、ホールができてしまってから、ここに相応しいイベントは何か、と考えることは明らかに本末転倒だ。

 メディアとは、コンテンツのニーズに応えるのが本来であって、メディアのニーズとしてコンテンツが存在するのではない。メディアが先行すると、必ずそこに無理が生じる。どんどん歪みが大きくなって、ヤラセになり、虚構を築くことになる。そういう馬鹿馬鹿しい「張りぼて」が世の中には非常に多い。
 張りぼてだとわかっているうちは、まだ救いがある。張りぼてを築いて、なにものかを創り上げた、なにものかを成し遂げた、と感じるようになると危ない。

【算数】 ジュースの箱詰め

 ジュースの缶(円筒形)を箱に立てて入れることを想像しよう(箱の深さはジュースの高さと同じ)。
 最初に箱の長辺に沿って並べたら、ちょうど4つ入った。もう1列4つ並べてみたら、まだ隙間がある。しかし、3列めを並べるには少し足りない。8つ以上は入らないのだろうか……。
 そこで、4つ並べたあとの2列めを、最初の4つの間にそれぞれ入り込むような位置で3つ並べてみた。すると、次の3列めには4つ並べられることがわかった。これだと、4、3、4個で11個が箱に入る。
 こういった場合がある。このように入る箱を用意するのが、そのジュースを入れるためには合理的である。ただ、11個入り、というのはいかにも半端な印象を与えることはたしか。
 この11個入りの箱を、長さも幅も2倍(つまり面積4倍)にすると、ジュースはいくつ入る?
(注意:答を掲示板に書かないように)


2006年09月23日(土曜日)

【HR】 京都で講演

 爽やかな土曜日は抜けるような晴天。空には雲がない。単純すぎて、面白みがない空。
 午前中は、雑用(機関車製作部のレポートアップとか)をいろいろ片づけ、午後から京都へ出かける。タクシー、新幹線、タクシーと乗り継いで、約2時間後には葛野五条の光華女子大へ。ここで、講演を依頼されたために出向いたもの。聴講者は60人くらいで、当たり前だが若い女性がほとんど。この大学では3年半まえにも、1000人を集める大規模な講演会をしたことがあり、今回は2回目。プライベートな講演会だったので、話題はけっこうマニアックなものに。
 講演自体は40分で、質疑というかトークが20分あった。パワーポイントで小説に関する新しい内容のものを用意していったが、少々難しかったかもしれない。授業に近い内容だったかも。パワーポイントをするときは、いつも自分のPowerBookを持っていくが、もうすっかり旧型になってしまった。重いし、少し恥ずかしい。でも、現在の主力マシンも、これと同じものである。
 講演が終わったあとは、ファン倶楽部のスタッフの人5人と京都駅でオムライスを食べつつ歓談。ファン倶楽部も1万1000人以上の会員数となり、目立たないが着実な活動を続けている。本当に頭が下がる。
 京都へは実は、けっこうちょくちょく行っている。近いし、見どころも多い。でも、模型屋さんがあまりない、車で行きにくい、というのも難点。
 帰りは7時半に京都駅を出て、1時間ちょっとで自宅まで。早いなあ。パスカルがリオのカーニバルみたいに喜んだ。
 新幹線では雑誌を読んでいた。電光掲示板にときどき目をやると、ニュースが流れている。「○○産業は、地球環境保全に貢献しています」というような宣伝もあった。CO2排出量を抑えるとか、リサイクルを行っているとか、そういったことが宣伝として成り立つ世の中に日本もだんだんなってきた。これ自体は評価できる。ただ、もともと、汚しすぎていたものを少し割合を減らしたくらいで「貢献」といえるだろうか。言葉の意味が多少ずれている気がする。「地球環境保全の努力をしています」くらいが適当ではないだろうか。小説の推薦を頼まれたとき、「絶賛」と書くか単に「推薦」とするか、くらい違っている。え、あまり変わらない?

 そういえば、よしもとさんに、ハカイダーのお礼を書いたら、「透けてるところには光明寺博士の脳みそが入っています」と短いリプライが来た。禿げているところではなく、透けているところだ。光明寺博士という名前は覚えていなかった。鉄人やアトムの博士は覚えているのに、キカイダーでは覚えていない。もうこの頃には、僕が固有名詞の記憶をやめたことを示している(のかもしれない)。

【国語】 新語辞書

 【御手洗(みたらし)い:形容詞】5個そろっている様。探偵らしいの意ではない。
 【キャラメル:名詞】特定のキャラで書かれたメール。○○で〜す、みたいな。
 【ノリの利:名詞】のっている者だけが得をすること。
 【ノベルス:名詞】ノベルズのこと。
 【煮詰まる:動詞】なかなか煮詰まらないこと。
 【サザエさんみたい:形容詞】手と足が異様に小さい様。
 【フラダンスの犬:誤用】フランダースの犬の間違い。
 【お前は盲信でいる:台詞】宗教活動を揶揄した言葉。
 【仏葬な世の中になりましたな:台詞】宗教活動を揶揄した言葉。
 【三三七拍子:名詞】半分は三本締めのこと。
 【カロリーオフ:名詞】中古のカロリーを安売りしている商売のこと。
 【杓子定規:名詞】(杓子の曲がった柄を定規に利用したところから)正しくない定規ではかること。
 【スーパ:名詞】特別ではない小さめのマーケットのこと。
 【カクレカリメロ:固有名詞】割れるまえの玉子のこと。
 【ツンウト:名詞】日頃はつんつんしているのに、すぐにうとうとしてしまうスバル氏のこと。
 【ナムジャブ:名詞】なむなむぅといいながら水に飛び込み、じゃぶじゃぶになること。意図不明。


2006年09月22日(金曜日)

【HR】 ハカイダー

 午前中に、久しぶりに庭師さんが来た。近所で庭造りの仕事があったらしい。虫除けの薬を樹に注入してくれたり、いろいろチェックをしてもらった。
 爽やかな天候で、今日も機関車を出して走らせた。工作は20分だけ木工を。でも、少しでもできると、なんとなく一日が良い気分になる。

 午後は、中央公論新社のM松氏とN倉氏が来宅。「ダウン〜」のゲラを取りにきてもらったのと、そのほかいろいろ打合せ。まず、スカイ・クロラシリーズの今後のことについて。来年と再来年の予定をだいたい決める。それから、庭園鉄道関係の出版についても少し(これはまだ全然企画段階なので期待しないように)。あと、スバル氏が作ろうとしている絵本のことも。絵がすべて出そろったので、来春にも出せるかもしれない。文章は一応僕が担当。本の企画が沢山あるなあ、と感慨。
 スカイ・クロラシリーズは、もうすぐ最後の5作目を執筆することになる。たぶん、年末。ここ数年毎年、一年の最後はこれを書いている。
 3時間ほど打合せをしたあと、電車を出して運行。良い季節になったけれど、日が短くなってしまったので、遊ぶ時間は限られる。でも、楽しい季節ではある。まだ、少し蚊がいるけれど、でも、もう最後かも。
 「四季 夏」のゲラを60%まで読んだ。4時間ほどかかる。明日の講演のスライドを作った。長編については、まだ書き出せないが、全然焦っていないのは何故?

 よしもとさんから、宅配便で荷物が届いた。開けてみたら、ハカイダーだ。おやおや……。
 このまえ、ご子息から新幹線のおもちゃをプレゼントでいただいたばかり。よしもとさんのメールに、「あれからなんでも『これ、森先生にあげていいよ』と言うようになりました。『ハカイダーとヤドカリはいらないと思うよ』とちゃんと答えていますので、ご安心ください」とあったので、「ハカイダーはもらっても良いですよ」とリプライを書いたところ、「言ったね!」というメールがすぐに来た。その翌日に荷物が届いたのであるから、速攻だ。

 その後、「キカイダーは名前としてありえない。それに比べれば、ハカイダーという命名にはある種の美しさを感じる」と意見を書いたところ、「ビジンダーが最悪ではないでしょうか」という鋭いメールをいただいた。たしかにセクハラっぽい。
 本当は、森博嗣的には、「ハカイダ」と書きたいところであるけれど、これは英語ではないと判断して長音を入れてみた。入れないと、「墓井田」という名前のようでもあり趣きが増すが。
 そもそも、この「ダー」は何なのだ〜、と叫びたくなる。しかし、「叫びたくなる」と書くとき、本当に叫びたかったことは人生で一度も経験がない。呟きたくなる、あるいは囁きたくなる、ならばあるかもしれない。呟くとしたら「ハカイカヨー」くらいだし、囁くならば「ハカイダッテサ」くらいではないだろうか。よくもよくもこんなくだらないことで文章が書けるものだ。プロは凄いなあ、と叫びたくなった。
 そんなわけで、本日で特別講義は終わりです。よしもとばななさん、どうもありがとうございました。

【理科】 特別講義5

 理科なのだろうか。
 お料理について書きます。家庭科にしたかったけど、国語、算数、理科、社会、図工のどれかにしてくださいと頼まれているので、むりやりに理科。
 調理は化学である。味を殺さない、鮮度を下げない、あるいはわざと日を置いて鮮度をなくす、どこまでが腐っていてどこからがうまみなのか。米は十五分間くらいしか水を吸わないので一晩漬けても意味はない、沸騰した湯でゆがいたほうがいいのか、水から煮た方がいいのか、素材によって違う・・・全てに意味がある。意味とは抽象的な意味ではなく気合いや気分や「心をこめたらおいしくできる」的インチキでもない、単なる化学なのだ。そこを勘違いしている人がとっても多い。
 ここまでは理科にしたむりやりな言い訳です。
 でもそのことと全く関係なく、料理をすることにはひとつの法則がある。それは「毎日するほうが楽」ということだ。食べ物をつくる流れというのは実は全部ゆるやかにつながっていて、ひとつのものをつくるとそこから次の料理が派生し、それが翌日につながっていくものなのだ。たとえばごはんを炊く。翌日、残ったごはんをおにぎりにするも、前日のおみそ汁がもうない。冷蔵庫を見ると人参しかない。そこで人参のクリームスープをつくるとおにぎりに合わないので、思い切っておにぎりを洋風にしてチーズを入れる。みたいな感じ。わかるかなあ。
 ちなみに前に父がごはんをつくったときのメニューは、ほうれんそうの炒め、ほうれんそうのおみそ汁、肉とほうれん草の煮物、ほうれんそうの入ったオムレツであったが、これは、単にほうれんそうがたくさんあっただけでつながりがあるとは言えません。
 おじゃましました!みなさま、どうぞ明日からまたちゃんとした勉強の世界に戻ってください。


2006年09月21日(木曜日)

【HR】 どんぐりと主人公

 8時頃から車で出かけた。ビートで、助手席にパスカルを乗せて走った。後ろからスバル氏がミニでついてくる。パスカルは、ついにドナドナされるのだ、と思ったのか元気がなくなり、大人しかった。小さいときに、一度だけミニの助手席に乗せられ、ブリーダさんの家に数日預けられたことがある。これがトラウマになっているのではないか。長女M氏も、車に乗せられると、どこかへ預けられて帰ってこなくなる、とパスカルは考えているにちがいない(注:こういった悲しいシーンを「ドナドナ」という)。
 まず、ホンダの工場へビートを預けた。車検である。それで、ミニに乗り換える。パスカルはスバル氏と一緒になったので、多少持ち直した。
 もう一軒の自宅へ。こちらでガスの点検があったり、それから荷物の整理などをした。大仕事になった。ゴミをどんどん捨てたし、書類も捨てたし、手紙も沢山捨てた。スバル氏は衣料品を捨てた。でも、うーん、どうだろう、全体の2%くらいしか減っていないような気がする。とにかく、本が多い。本だけで1000冊以上あって、全部最近の新しい本(どうしてかっていうと、贈呈で送られてきたものがほとんどだから)。もちろん、未読(というか読まないことは確実なので不読か)。これらを捨てるのは、また今度……。古書販売店に引き取ってもらっても良いけれど、そちらの方がいろいろ面倒だ。
 お昼過ぎに引き上げてきた。パスカルはやっぱり自分の家が一番良いみたいで、帰ってきたら大喜びしていた。それから、昼寝をして、起きてから庭掃除をした。少し暖かいが、爽やか日。

 庭にドングリが沢山落ちている。20個くらいをサンプルにとって、ノギスで長さを測ってみたところ、だいたいどれも同じくらいだった、という嘘を書く。どれくらいの数が庭に落ちているだろう。ためしに足許の1m四方で数えてみたら、隣の1m四方の方が断然多そうな気がして、気が散って数えられなかった。まあ、だいたい200個くらいは落ちているだろう(ドングリ勘定)。
 クリは栗の樹があるわけだから、ドングリは団栗の樹というものがあるのだと最近まで思っていたが、ドングリはいろいろな樹にできるらしい。カシとかクヌギとかナラとか。いろいろなドングリがあるわけだ。そういわれてみれば、小さいのと長細いのがあるなあ、と思った。

 「四季 夏」のゲラを30%まで見た。今夜も読む。小説の仕事はこれだけで、時間的には普段の2倍以上消費。長編の執筆は来週からかな……、と今は考えている。書きだせば早いのだが、雑事を片づけないと落ち着かない。しかし、考えてみたら、雑事を生み出している原因は、まぎれもなく執筆にある。書くからいけない。書くことが(雑事に比較すれば)わりと楽しく、わりと楽なので、ついつい書いてしまう。だから雑事が増えて忙しくなるという悪循環なのである。
 「STAR SALAD」の表紙案が届いたので、確認。これは書き下ろし(描き下ろし)なので、本になるのがとても楽しみ。10月は、「ZOKU」の文庫版と「どきどきフェノメノン」のノベルス版も出る。バラエティな10月になる。
 話は変わるが、小説には、主人公というものがある。僕はあまり意識したことがない。何人くらいを主人公というのだろう。主人公が一度も登場しない、という物語だってありえるし、主人公が何者なのか語られない物語もある。必ずしも視点の人物、あるいは語り手でもない。少なくとも、作者が、この人が主人公です、と宣言することは滅多にない(たまに、人物表に「主人公」と書かれているものもあるが)。読者が勝手に、こいつが主人公だ、と決めた人、というのが定義だろうか。

【国語】 特別講義4

 これは森先生に前メールで書いたことがありますし、あちこちで言うので有名な話なのですが、読んだことない方もたくさんいると思うので、書きます。
 「そのとき主人公はどう思っていたか、次の中から選びなさい」という設問が試験でよくある。 
 あるお正月、私は関西の友人宅にステイしていた。そしてふと新聞を見るとなんと私の小説「TUGUMI」がセンター試験のメインの問題として出ているではないか。これまで試験といえば常に一夜漬け、しかも適当に穴を埋めてあとは寝ているだけだったので三点くらいしか取っていない正真正銘のアホである私だが、これなら十五点くらいいけるのではないか、そう思って嬉々として取り組んだ。漢字がいちばんまずいかな、と思ったが、なんなくクリアし、内容の問題に移った。そしてなんと「このときのつぐみの感情は次のうちどれがいちばん近いか」というような問題で一問だけ正解できなかったのである・・・。
「え〜、だってこの人俺が考えた人じゃん、俺が絶対正解に決まってるじゃん。」
 そう思ったが、なすすべもなく、友人たちには「やーい、自作なのに満点とれへんかった」とバカにされたのであった。
 なんの教訓も得られない内容だが、これはあのよく言われる有名な「作品は、出版した瞬間に作家の手を離れてもうひとり歩きをしているのです」という奴なのだろう、ということでしょう(?)。


2006年09月20日(水曜日)

【HR】 溜まる課題

 晴天、とても涼しい。朝はもう寒いくらい。温かい飲みものが欲しくなる。
 起きてきたら、もうパスカルは濡れネズミになっていた。こんなに涼しいのに水遊びをしているのだ。
 雑用が多くて、なかなか本業ができない。何が本業なのか、ということもある。今週から書き始める予定の長編はまだ手つかず。週末の講演の準備も手つかず。「日経パソコン」の連載のゲラを確認。「四季」文庫版の感想応募作をまず半分に絞った。メールのリプライなどで午前中は終わり。「春」のゲラは最後まで読んだ。

 そうそう、この「四季」文庫版だが、以前から書いているように、箱入りの限定バージョンが作られる。購入は予約制だ。担当のM澤氏からのメールによると、以下のとおり……。
 『四季』限定BOXセットの予約は、書店店頭では、10月1日(日)〜10月22日(日)の期間に受け付け。Amazonなどのネット書店も同様。ただ、講談社のBOOK倶楽部のみ10月31日まで。申込用紙は書店に用意されるし、10月発売のノベルスや文庫にも挟み込まれるらしい。
 Amazonなどで予約した場合は1500円以上は送料無料だが、BOOK倶楽部では送料が300円かかる。本は、4冊セットなので4000円近い価格になるはずだから、つまり、書店またはAmazonなどで10月22日までにお申し込みいただくのがお得かと。
 もちろん、限定バージョンではない普通の文庫版も発売される(「秋」と「冬」は1カ月後だが)。読めるコンテンツはまったく同じである。

 ここ数日作っていたトレーラ(人が乗るための貨車)がだいたい完成したので、試験走行をした。パスカルも乗せてやろうとしたが、逃げてしまった。結果は非常に好調。

 なにもしないうちに一日が過ぎていく、と感じている人は多いと思う。僕も、毎日それを感じる。別に怠けているわけではない。やるべきことを選んでやっているつもりだ。しかし、ちっとも手がつけられないものが、常に残っていて、それらは、いつでもできること、そして、絶対にやらなければならないことでもない。わりと優先順位は高いのに、遅れても人に迷惑がかからないので、ついあと回しになる。
 たとえば現在の僕の場合、電話をかけて、某所へ出向き、何枚か書類を書くだけで、数百万円の現金になる、という懸案事項が6つくらい溜まっている(総額数千万円になる)。でも、もう2年近くほったらかしだ。面倒だし、面白くないし、うーん、どうなんだろう、しかし、誰かに任せるわけにもいかないし、という状態。今のところ腰が上がらない。
 一方では、工作をしたり、雑草を抜いたり、という時間はある。自然にやってしまう。不思議だ。まあ、そのうちに奮起してするだろう。数ヶ月まえにここに書いていた事務処理の話である。今のところ、断ち切れている。このまま消えてしまっても、そんなに惜しくはない。

 夕方、またビートでスバル氏とドライブをした。書店とスーパへも。この車、もう15年かな。ほとんどフラット・イエローになっているけれど、ステアリングを握るとまだまだ楽しい。 

【国語】 特別講義3

 算数はもう割り算もできない私、分数のかけ算も忘れました。円柱の面積もなにとなにとなにをかけるのか忘れた。「社会に出たらそんなものはいらない」という決まり文句があるけれど、今となっては思う。「いらないけど、なんか恥ずかしいぞ!」
 これから、子供といっしょにいちから勉強出直します。四年生くらいでついていけなくなるいやな予感が・・・。
 なので、国語です。
 「作家になったくらいだから、作文はうまかったでしょう」と言われることが多いが、作文は全く評価されなかった。まず「本気で書いてこの人に読んでもらいたい」そういう先生がいなかったのと、興味ある課題で書く作文が皆無だったからだ。ハナクソをほじりながらてきとうに書いていた。
 しかし、私はもしかしてプロになれるかもしれないな、とずいぶん早くから思ったことがひとつある。それは五人くらいからいっぺんに同じ課題でお礼はジュース一本、パン一個という感じで代筆を頼まれても、全員多少違う内容と文体で書いてあげられたからだ。その人の人格、言いそうなこと、書き方などを若干取り入れつつも、同じ本の感想などを別々の書き方で仕上げた。それが賞を取りそうになったりしてあせったこともある。
 結局はこれがプロの物書きというもので、小説を書くというと「やむにやまれぬ言いたいことを、熱い情熱で書くのだ」と思われがちだが、全然違う。ほんとうはどうとでも書けることを、自分だったらどう書くか考える。それが小説を書くということだと思う。


2006年09月19日(火曜日)

【HR】 庶民の味方

 朝は雨だったけれど、昼頃から晴天。
 午前中はビートでスバル氏とドライブ。久しぶり。ダイエーにも寄った。食料品を買い込むと、それらを助手席でスバル氏が両脚の間に抱えるように置くしかない。ミニも小さいが、ビートはもっと狭い。運転しながら、助手席のドアのロックが簡単にできるくらい。助手席のシートは運転席のシートより小さくて、完全に女性用である(笑)。良いなあ、小さい車は。周りは馬鹿みたいに大きな車ばかりだから、なんだか水牛に囲まれたみたいな気分になってワイルドだ。ぶんぶんおもちゃみたいに走る。

 「四季 春」文庫版のゲラを読んでいる。80%くらいまで。この作品はとても特異なものだと思う。シリーズものを読んでいないといけない、ということは全然ない。むしろ、森博嗣で1冊だけ読むなら、「四季」かもしれないな、と少し思った(思ってもしかたがないが)。「スカイ・クロラ」か「迷宮百年の睡魔」かもしれない(気のせいかもしれない)。わからない。まあ、1冊だけ読むくらいならば、1冊も読まない方がベターともいえる。とにかく、人に自著、特に小説をすすめたことは一度もない。

 マスコミは、よく吉野家の牛丼をニュースで取り上げる。あれは何故だろうか。新しいメニューができた、くらいのときもあった。一企業のほとんど宣伝に近い内容だ。このほか、同じように感じるのは、ユニクロである。この2つは、ほかの店や企業よりもニュースになりやすい。マスコミが出資しているのか、と思えるほどだ。
 スバル氏によると、かつてなにかの弾みで一度取り上げてしまったから、これはニュースの「シリーズもの」になったのだ、という。すなわち、みんなが「あれはどうなったのだろう」と続きを気にしている、ということか。またスバル氏は、老人には「ハンバーガ」よりも「牛丼」の方がイメージしやすい、マスコミは主に老人を相手にしているから、必然的にそうなるのだ、ともおっしゃっていた。わりと分析しているのでびっくり。
 吉野家もユニクロも、安価な品揃えをモットーにしているらしいので、いわゆる「庶民の味方」という記号化が当てはめやすいのだろう。ようするに単純化である。実際には、トヨタの方が多くの国民に関わっているはずだが、自動車メーカは絶対に庶民の味方とはいわれない。
 安ければ庶民の味方だ、という短絡的な発想は幼稚で滑稽ではある。むしろ、庶民を馬鹿にしていると思う。もっとも、誰も、自分は庶民だとは自覚していないので、実害はないのかもしれない。
 たとえば、客観的に眺めて、商売よりは、公共の施設、役所、学校、あるいは社会保障制度そのものの方が、はるかに庶民の味方だ。牛丼1杯を売って吉野家がいくら儲けるのかは知らないけれど、消費税よりは高い割合だろう。一方の消費税は、金持ちが高価な買いものをしたときにも徴収されるし、税金によって社会保障が実施されている。貧乏な人ほど、支払った税金よりも多くを享受できるのが保障の基本である。したがって、吉野屋よりは、消費税の方がはるかに庶民の味方といえないだろうか。と、目くじらを立てて書くほどのことでもないか(笑)。

 注意すべきは、マスコミによる押しつけがましい単純化である。安い牛丼は庶民の味方、税金はすなわち庶民の敵、という決めつけ。ニュースキャスタとかコメンテータがどんどん馬鹿に見えてしまうから同情したくなるほどだ。
 小説家は庶民の味方ではないだろう。小説なんか、庶民の生活の外にある無駄な部類だ。しかし、ときどき、少し無駄な嗜みへの理解も見せようとして、マスコミは「庶民のささやかな楽しみ」などと表現する。「ささやかで悪かったな!」と庶民は怒ろう。誰だ、庶民って? もしかして日本で働いている外国人のことだろうか?

【図工】 特別講義2

 そういう意味で、森先生が「サイン会はつまらない、名刺交換会にしましょう」と思うことや、「印税はいらないし、本をみんなが読ませたい人に送りたい」と思うことも、「なんでゲラ刷りはデータで来ないんですか?」と思うことも、森先生の創作の一部だと感じています。
 私の姉は全くの文系だが、型にはまることなく生きることにかけては天下一品で、中学のとき、机とイスでじめじめした校舎裏の通路に勝手に家を造り、そこにこもってマンガを描いたり、コンロで火を起こしてカップラーメンを食べたり、お茶を飲んだりして放課後をひとりまったりと過ごしていた。その家にアクセスするには崖みたいなところを這って通らなくてはならず、さらに入り口には恐ろしいインドの神様みたいな姉自作の絵がかけてあり「神様にパンツを見せないとここを通れない」という内容のことが書いてあった。やれやれ。しかし今でもその神様とそこに至るまでの危険な道の大変さとそこで飲むお茶のおいしい味が、すばらしきものとして目に体に焼きついている。
 創作とは、常に死(社会的な死も含め)のリスクを必ず含んでいるのだ、と思う。
 森先生が尊敬している井上昭雄さんという人を、私は一度だけお見かけしたことがある。その作品もいくつか見せていただいたことがある。おそろしいものだった。どういう機構で動いているのか素人の私にはもちろんさっぱりわからなかったが、発想が異様でしかもそれを美しいデザインで実現させるのにどのくらい冴えた頭と技術がないとだめなのか、誰が見てもわかるのである。いちばん効率よく動くようにしたら自ずとデザインも冴えたという合理性も感じられた。さらに作品からは透明でさわやかな、切れのいい風みたいなものがふわ〜、と吹いてくるのだ。人はどこまで行けるのか、なるべく雑音なくそれを行けるところまで極めたい、と私はかなり刺激を受けた。


2006年09月18日(月曜日)

【HR】 コミュニケーション

 ときどき書いておく。写真はクリックすると少し大きいのが出ます。
 長女M氏と長男S氏が家にいる。そうか、今日も休みなのか。知らなかった。何の日だろう。外国製のカレンダを使っていると、気づかないことがある。こういうのは、グローバルというのか。そういえば、ひと頃ほど、グローバルって聞かなくなった。むしろ、ローカルの方向なのかもしれない。地域密着型というべきか。ただ、地理的なことに囚われていると、ネットの時代、少し危ういかも。

 台風のために風が舞っている。しかし、気温はむしろ高め。ガレージの中で吹き付け塗装をしながら、少しずつゲラを読んだ。「四季 春」を40%くらい。このところ、1日に5時間以上ゲラに費やしている。年末に文庫が何冊も重なっているから。
 今日から、長編の執筆なので、とりあえず、新しいフォルダを作り、タイトルと引用と人物表と目次などを書いた。Gシリーズの第6話になる「ηなのに夢のよう」だ。このシリーズから森博嗣を知ったという読者がとても多い(60%以上と予想)が、作る方も最初から、そういったデザインで臨んでいる。ちなみに、シリーズ名は、最初からGシリーズである。変更はしていない。
 一方では、読者の大半は文庫を読んでいるため、ようやくVシリーズをそろそろ終えるか、という位置で、現在最も多いファンメールはVシリーズ後半である。

 面白いのは、シリーズを最初から通読されている人に限って、「最初から読むべきだ」とおっしゃるし、また、「最初から読んできた者だけにわかる面白さだ」と主張する。一種のコレクタ心理といえる。しかし実際には、シリーズを通して読んでいる人は、割合的には非常に少数であり、ほとんどの人は、書店にたまたまある本を手に取り、順番もあまり気にせず、また断続的に読む。「ほとんど」というのは、具体的には80%くらいのイメージ。
 「いや、すべてを知らなければ、見逃してしまう部分がある」と言われるかもしれないが、しかし、すべてを「順番に」知る必要はどこにもない。また、すべてを知ることは、そもそもできない。もしすべてに近づきたいのならば、僕が書いたものを、エッセィや日記に至るまで読むことになるし(それに近いマニアもいるが)、引用されている書籍、僕が読んだことがある本、などにも手を出すことになるだろう。しかし、それでもまだ、まったく完全とはいえないことは自明だ。
 コミュニケーションには必ず、一部に「理解」と「誤解」が含まれる。大半は見逃され、ときどき「無視」と「敬遠」と「保留」がある。いずれにしても、伝わるもの、伝わったと認識されるものは、受け手がその場で着想したものである。送り手は、単に注意を喚起したにすぎない。

 夕方、幻冬舎のS儀氏が来宅。久しぶりだった。水柿君シリーズの今後について打合せ。3冊め(「工学部・水柿助教授の解脱」)を来年出せるように、あと3編書かなくては、という話。このシリーズにも少数だがファンがいて、お待たせしている。とにかく、一番書くことが技術的に難しいシリーズであることは確かだ。
 さて、今日から5日間、特別講義です。講師は、シティガールのよしもとばななさんです。

【図工】 特別講義1

 おじゃまします。よしもとばななです。特別講師です。どきどきです。
 小学二年生のとき、紙粘土で生き物をつくり網に貼り付けて壁掛けにするという工作をしたことがあった。私は色とりどりのうろこの魚をつくることにした。動いている魚のほうがかっこいいと思って、くねってはねている魚をつくっていたら、周りの子供たちからクレームが来た。「曲がってるのをつくっちゃいけないんだ、魚とはまっすぐなものだからだ」という。「おめ〜ら死んだ魚しか見たことねえんじゃないか?」と今の私なら言うけれど、当時のおとなしい私は「変なの」と思いながら黙っていた。すると問題はどんどん大きくなり、誰かが先生に言いつけてやる、と言って先生を呼びに行った。先生は「なにを言うんだ、すばらしいことじゃないか、動いてる魚をつくるなんて。こういう考え方が図工には大事だよ」と言って問題は終わった。
 先生がどういう人であるかはとっても大事だと私は思った。もしここで先生まで「魚はまっすぐに!」なんてことを言い出したら、私はもう学校に行かなくなったかもしれない。
 子供たちがそんなわけのわからない統一感を創作に対して求めていたのが謎だが、きっと彼らは私の持っている気持ち悪いくらいのクリエィティビティを潜在的におそれていたのだろうと思う。そしてなにかのきっかけであげあしを取りたかったのだろう。
 もしかして今は時代が逆のほうにふれていて、子供が「死んだ魚」をつくろうとするとクリエィティブじゃない、とみんなが責めてくる時代になっていて、実は同じことであるような、いやな予感がする。
 いずれにしても創作に基準があると思う方が、おそろしいのだ。
 あっ、書いてみたら、単なるエッセイになってしまった。
 作家バカ一代、先が思いやられます。


2006年09月17日(日曜日)

【HR】 庭園鉄道運行

 日曜日。朝から涼しくて気持ち良い。8時頃、線路を点検。長い棒を持って蜘蛛の巣を除去することが主な作業。ガレージから機関車を出して、最初はゆっくりと(秒速50cmくらい)で走る。レールの内側に石が噛んでいたりすると、ごつごつと揺れるので、一旦停止して、石を取り除く。2周めからは、速度を上げて走ることができる。

 スバル氏と長女M氏は池のメダカの飼育に余念がないが、一番大きな池に体長5cmくらいの蛙がいることがわかった。これは大変である。講談社のK城氏に知れたら、気絶するかもしれない。どこかから来たわけだから、どこかへ行く可能性もある。見守る以外にないだろう。
 庭では、ヘビもよく目撃される。1年に10回くらい。池の中へ入ることもある。カラスや鳩も水浴びしていることがある。どこかの家の猫もときどき庭を歩いている。犬は来なくなった。パスカルが出ないように柵の隙間を塞いだためだ。
 台風が来ているらしい。午後から曇ってきた。ガレージで工作をする。ボール盤と旋盤を回した。一度、途中でネジが折れる、という失敗をして、部品がおシャカになったので、作り直した。無理をするからだ。力加減でわかっているはずなのに、つい無理をしてしまう。反省。

 「ダウン〜」のゲラを最後まで読んだ。3時間ほどかかる。「もえない」のゲラも見た。こちらはスバル氏が読んでイラストを描く。「恐い話になったね。楽しい学園ものだと思って、初めの方、描いていたのに」とおっしゃっていた。気づくのが少し遅い。ゲラは、続けて明日から「四季」文庫版に突入。
 メディアファクトリーからは、「MLA3」の見本が届いた(さきに1冊だけ届いていたので紹介済み)。MLAもそろそろ丸1年になる。よくも毎日飽きもせず続いているものだ。荷物にTVドラマの「カクレカラクリ」のDVDが同封されていた。放映の数日まえぎりぎりで完成したらしい。なかなか見る時間がないけれど。
 それで思い出したが、3年まえだったか、NHKが僕の庭園鉄道を取材に来た(撮影に1カ月くらいかかった)。BSで放送され、その後も再放送、総合で再々放送(たぶん3回くらい)されたらしいが、実はまだ一度も見ていない(笑)。テープ(だったかな?)はいただいている(笑)。見たからといって、新たな情報が得られるわけでもないし(少なくとも何を撮ったかは知っているから)、という感じ。でも、NHKで放送されたラジオドラマ(「女王」と「睡魔」の2作)はちゃんとラジオで聴いた。声優さんが上手いし、脚本もよくできているな、と感心した。

 4年越しで、散発的に届く機関車のパーツの、ほぼ最終部品がようやく届いた。まだ一部だけないものがあるものの、いよいよ最後まで作れる状況にはなった。しかし、4年も時間が経過してしまうと、それが作りたかった、という動機が半減することはたしかだ。
 現在、外国に注文して到着を待っている機関車が3台あって、既に9カ月、6カ月、2カ月待ちである。でも、来たらやっぱり嬉しいだろうなぁ……。 

【図工】 糸鋸

 小学生のときから、この「いとのこ」を持っていた。どういうときに使うのかというと、まず、曲線形状に切りたい場合、また、板の中央に窓のように開口部をくり抜きたい場合だ。
 くり抜くときには、まず、錐(きり)かハンドドリルで穴をあける。ここに糸鋸の刃を通す。そして、鋸の弓に刃を固定する。この状態で切り始める。
 糸鋸というわりには刃が太いな、と小学生のときは思っていた。実は、本当にもっと細い糸鋸があって、金属などを切るときに使う。太さは1mmもないほど細く、刃はほとんど目に見えない。指先で擦ると、刃の向きがわかる程度だ。今では、糸鋸というと、その細い刃のものを使っている。真鍮などの金属板を切るときによく用いる。
 弓が板の端につかえない範囲ならば、刃が届くので切れる。遠い場合は、弓の懐が深いものが必要になる。
 そもそも、鋸の刃は薄い方が切り口が小さくて良い。またできるだけ細い方が、摩擦が少なく無駄な力がかからない。しかし、薄く細くすると、押したときに曲がって折れてしまう。だから、両側から引く使い方が合理的だ。大きな樹を切るとき、2人の木こりが1本の鋸を両側で交互に押し引きしているのを見たことがあるだろう。あれが理想的。それを1人でするために、弓状の支えが必要になったというわけだ。
 大工さんが使っている木工の鋸は、弓の支えがないので、引きでしか使えない。糸鋸も、一般に引く方向で切れるように刃をつける。金鋸といって、金属を切る鋸は、弓に刃をつけて、これは押す方向で切る。ヤスリもすべて押す方向で削る。


2006年09月16日(土曜日)

【HR】 歳をとることの危険さ

 スバル氏がいないので、パスカルのために6時起床。やはり、寝室のすぐ外で待っていた。朝は天気が良くて、とても涼しい。雑草取りもできた。昼頃少し雨が降って、午後はほぼ曇天。パスカルの朝夕の散歩には支障なし。
 小説の仕事では、「ダウン〜」のゲラを5時間ほどかけて読んだ。60%まで。だいぶ、早く読めるようになったかも。「ナンプレファン」の連載もゲラ校正終わり。今回はダイイング・メッセージについて。角川からは「もえない」のゲラが届いた。これは明日。毎日ゲラを読む日が続きそうだ。
 そういえば、今年はまだ小説は1冊も読んでいない。たぶん、読めないだろう。そんなに読みたい、という気持ちもないけれど。自分の本は、27冊も出るわけだから、少なくともゲラは60冊分くらい読んでいるはず。もっとかな……。仕事なので文句はいえない。
 工作も2時間ほどできた。主にボール盤で鋼材に穴をあける作業。60回はあけたと思う。ボール盤が大小2機あるので、2種類のドリルをつけたままにしておけるのが効率的。人間の腕が2本あるのも、同じくらい効率が良いことに気づいた。穴を開けたものを、最後に組み立てるわけだが、このときネジがすべて通ると嬉しい。工作精度が低いと、穴がずれていることがあって、修正が大変になる。こういう小さな進歩を確かめながら生きるのが楽しい。

 頭の良さも、運動神経の良さも、どちらも、良いほど上達が早い。能力が高い場合ほど、さらに能力を高めることに対して高効率である。すると結果として、どうなるのか。つまり、どんどん差が開く。頭の良い子は、どんどん良くなるから、そうでない子は追いつけない。運動神経が良い子の方が、技をどんどん自分のものにできる。
 こつこつと努力をしていれば、いつか報われる、という教えには、大した根拠がない。そういった実例もほとんどないように思う。ただ、こつこつとやっていないと、もっと絶望的な結果になる、というだけだ。
 こつこつとやること自体が楽しい。これはときどきそう思う。ただ、こつこつと地道に続けることは、ある意味で、工夫を怠っている姿勢だし、自分はこれだけだと諦めてもいるし、慣れてくるから、結果的に楽になって、努力はだんだん少なくなる。ここが、こつこつの最大の欠点かもしれない。

 常に新しいものを取り入れよう、という姿勢が大事だ。年齢を重ねると、それをしなくなる。そういう人が、「毎日こつこつと働いているのに」と言い訳していないだろうか。ことあるごとに、「あれは俺がやったんだ」と過去の業績を自慢するのも品がない。40代、50代の人は気をつけよう。給料をもらいすぎていないか、と自問した方がよろしい。
 これは、誠実であれ、謙虚であれ、という忠告ではなく、自己と周辺の関係を見る目、その観察眼の衰えに対する警告であって、よけいな危険を回避するためである。
 僕も歳をとって少しわかったが、年齢が上であるだけで、なにかをなした、若い奴らよりは偉い、そして、もうなにも恥ずかしくはない、と錯覚できる傾向にある。神経が鈍くなった証拠だ。結局は思考停止へ向かっている。それが危険だということ。

【社会】 交通違反

 駐車違反は4/10にも書いた。
 民間に依託することになったとき、マスコミは、運送業、宅配業がやっていけなくなる、と何度も取り上げていた。この頃、あまり騒がなくなった。
 駐車違反の区域や罰則のルールが変わったわけではない。取締のしかたが変わっただけなのに、急に問題にすることが不自然だった。これまでは見逃されていたものが、見逃してもらえない、あるいは、そんなにちゃんと取り締まっていなかったものが、きちんと取り締まられる、という意味であって、つまり、これまでの方が問題だった。見逃さないことも、きちんと取り締まることも、いずれも良い方向である。運送業者が成り立たないという問題は、では、そもそも駐車違反が何故悪いことなのか、どんな弊害を引き起こすのか、という点と比較して論じられるべきものだろう。
 飲酒運転をした公務員の措置について、問題になっているようだ(先日、ホテルで新聞を読んで知った)。これは、たとえば犯罪を犯した学生を除籍するのかどうか、といったときの大学側の姿勢にも似ている。いずれも、犯罪者をメンバとして許容するのかどうか、という判断だ。
 犯罪は刑法で裁かれ、罰を受ける。その罰を受けたのちには、社会復帰することが原則だろう。懲役がある程度長い場合には、仕事に支障を来すので、無条件に除籍になることは自然だろうけれど、期間がごく短ければ、職場復帰させない理由はないように思う。
 「そんなのは甘い」という意見も当然あるだろう。しかしそれは、刑法が甘い、あるいは判決が甘い、という方向へむけられるべきでは?
 個人的には、飲酒運転の罰則は、現行でも軽すぎると考えている。軽すぎるから方向のずれた不満の声が上がるのではないだろうか。


2006年09月15日(金曜日)

【HR】 他人が気になる感性

 8時半起床。よく寝た。涼しいし。今日はまたスバル氏が東京へ行く日。10時過ぎに駅へ送っていく。
 工作室で、ボール盤で鋼材に穴をあける作業を1時間ほどした。5月から使っている新しいボール盤だが、非常に使いやすい。
 小説の仕事では、「猫の建築家」文庫版のゲラを読んだ。つづいて「ダウン〜」文庫版のゲラを10%ほど。「四季」文庫版で募集していた解説・感想がテキストで届く。300通弱もあった。春夏秋冬別では、74、59、60、70、季節指定なしが32、という内訳。まだ半分ほどしか読んでいない。ざっと見た感じ、半分くらいは(ネタバレなどがなく、普通に意味もわかるので)使えるものだ。そこから3分の1に絞らなければならない。
 「カクレカラクリ」がまた重版になり、第3刷に。誤植を今回も7箇所直した。もうないだろうか。「ラピタ」の連載が終わったせいか、エッセィの連載を2箇所から依頼されたが、時期的に少々無理だと判断。エッセィの依頼はけっこう珍しい。あまり断らないのだが、今回はタイミングが悪かった。ご容赦を。小説の依頼は、もうほとんど断り続けている。こちらはしばらく(2年くらい)完全に手一杯。それから、来年9月の講演の依頼もあった。こちらは引き受けるつもり。そのほか、文庫のカバーデザインなどで、各社と打合せなど。「ナンプレファン」の連載のゲラも到着。

 他人の感情を想像して、それで自分の受け止め方を決めようとする人が多い。これは、ごく普通のことらしい。たとえば、こんな具合。「私はこれでけっこうだと思うが、世間一般の人は拒絶するのではないか。だとしたら、問題だ」というような言い方。ところが、こういった発言をする人にかぎって、世間一般の声を聞こうとしていない。せめて自分の周囲30人くらいのデータでも採れば良さそうなものを、そういった努力はしない。ただ、勝手に「世間」なるものを想像して、それを自分の意見に織り込もうとしている。あるいは、単にそう思い込んでいるだけだ。
 こうなると、そもそも最初の部分の「私はこれでけっこうだと思う」は本当なのだろうか? 自分でもわからないのかもしれない。もし、本当にけっこうだと感じているのならば、それがその人の「意見」である。ほかの人たちがどんな意見なのかは、ほかの人に問えば良いことだ。
 つまり、自分の意見に自信が持てない、自分の感性を信じていない。だから、ほかの人たちがどう思うのかを知りたい。知ったうえで、自分の感覚を補正したい。そういう道筋らしい。非常に協調性がある態度といえる。僕に欠けているものは、これか(笑)。
 否、ほかの人間の意見をできるだけ多く集める努力は、僕はわりとする方だと自覚している。データとして多い方が正確だし、傾向が見つけやすくなる。でも、それは自分の感覚には影響しない。判断には反映しても。
 わかりやすい例を挙げよう。自分の書いた小説の価値は、書いた時点で自分でほぼ把握している。しかし、それが世間で受け入れられるかどうかは、僕が把握している世間が正確ではないため、ある程度の予測しか成り立たない。そこで、できるだけ多くの声を聞く必要がある。一番大切なデータは、何部売れるか、という数字であるが、それ以外にもいろいろなデータが集まる。それで、世間に対する把握がより正確になる。けれども、小説の価値がこれらのデータによって定まる、あるいは明らかになるということはない。その小説に対する自分の評価はまったく変わらない。
 たまたま、小説の例に挙げただけである。むしろ、違うことを頭に思い浮かべているのだが……。

【理科】 空を飛ぶロボット

 鉄腕アトムは、足の先から火を出して空を飛ぶ。腕から火を出して飛んでいる姿も見たことがある。その間、足の先や手がどうなっているのか不明。動力としては、吸引口が見当たらないので、ジェットエンジンではなく、ロケットエンジンだろう。ただ、火が出ているわりに煙が少ないのが気になる。
 同じく、鉄人28号は背中にエンジンを背負っている。もともとは飛べなかったが、敷島博士だったかが、オプションとして開発したものだ。似たケースとして、マジンガーZもそうである。ただ、こちらには翼らしきものがあって、多少は科学的かもしれない。
 ロケットなどを取り付ければ、とにかく推進力はあるので、飛び上がることは可能かもしれない。しかし、飛び続けるために最も重要なことは、姿勢制御、すなわちコントロールだ。アトムや鉄人が、いかにして空中で姿勢をコントロールしているのか、という点については、多少議論があっても良いだろう。
 アトムは、まだ足の方向を変えられるから、ジャイロやセンサと合わせて不合理ながらも可能かもしれない。しかし、鉄人は背中にエンジンが固定されている。鉄人自体がリモコンで動いているし。できるだろうか。どう見ても重心が合っていない。ロケットを噴射した瞬間に、前のめりになり、前転をして地面に激突するのではないか。いくら、正太郎君が「飛べ、鉄人!」と言っても無理だ。
 しかし、これらの伝統は、現在の巨大ロボットでも、きっちり受け継がれている。脇の下から噴射するとか、胸や腹からも噴射する、という重心を考慮した方法は取られていない。たとえば、現実に存在するジャンボジェットやスペースシャトルがどのようにして離着陸するか、といった条件を少しでもイメージすれば、ああはならないはずである。だいたい、飛んだままで合体したら、空中衝突したも同然で、大惨事になるだろう。現実で一番近い合体といえば、空中給油くらいか。


2006年09月14日(木曜日)

【HR】 今さらプレゼントに感謝

 午前中は晴れていた。午後は曇。暑くなく過ごしやすい。
 今日からスバル氏が出かける、と思い込んでいたら、明日からだった。1日スケジュールを間違えていた。それで、今日一日が浮いてしまった。なんだか、得をした気分だ。朝三暮四、というのか。
 午前中に、設計図を頭の中に描いて、お昼頃から、材料(鋼材)を切りだしたら、スバル氏がスーパへ行こう、と誘う。それで、手を洗って、出かけることに。クロネコとダイエーと書店とペットショップと園芸店へ。秋の花が沢山出ていたが、今日は買わず。

 戻ってきてから、久しぶりに40分ほど昼寝をして、そのあと、工作の続き。新しいものを作り始めた初日は、着手すること自体が最重要なので、そんなに進まない方が良い。経験的にそんな具合。ゆっくりの方がいろいろ発想できて、良いものになる。
 「四季」と「ダウン〜」のいずれも文庫版の初校ゲラが届いている。「STAR SALAD」の絵はほぼ完成。今月末にある講演会や授業の準備(スライド作製など)をそろそろしなければ、というところ。

 昨日、税理士さんと話をしているとき、コカ・コーラからもらった金額に、横で聞いていたスバル氏が驚いて、あとで笑っていた。僕は、話したつもりでいたので、「あれ、君、知らなかったの?」ときいたら、「ダイエット・コークが届いているから、あれだけかと思ってた」とのこと。たしかに、2ダースか3ダースか箱で届いていて、スバル氏が毎日飲んでいる。しかし、そんなことくらいで仕事をするか?
 面白いメールもファンから届いた。「小説の中にコカ・コーラが何度も登場するから、森先生ったら、コカ・コーラからいくらかもらっているんじゃないのって、友達と話してしまいました」と。こういう面白いメールが来ただけでも、この仕事をした甲斐があったというものである。TVのコマーシャルなんかを見ても、あれは友情出演していると考えているのだろうか。ほのぼのとした素敵な発想だと思う。その感性は大切にしてもらいたい。

 名刺交換会のときに、食玩のブライスをいただき、シリーズで6つあるうち5つが集まった(注意:特に、あと1つが欲しいという意味ではない)。前回のシリーズよりだいぶ良くできているように思う。この500円は安いのではないか。しかし、僕はブライス関係からは1円もいただいていないことは明記しておく。単に好きだから書いているだけだ。
 このほか、ファンからいただいたプレゼントは、サトちゃん、キョロちゃんなどの往年の定番はもちろん、小物、文具、衣料品、お菓子、などいろいろだったけれど、今回特記すべきは、パスカルへのいただきもの。幾つかあった。犬のおもちゃ、おやつ、フード、食器など。どうもありがとう、とパスカルは言っていない。意味がわかっていないようなので、あしからず。
 手紙を書いてきてくれた方も沢山いた。すべて読んだけれど、デビュー以来、手紙に対しては返事を一切書かない方針なので、どうしても返事が欲しい人はメールでお願いします。手で文字を書く習慣がないのが理由。

【国語】 注意書き

 「誤って目に入れないで下さい」と書かれているものがあった。どうも不思議な感じだ。「誤って」というのは、「間違えて」という意味だ。間違えたかどうかは、目に入れる以前にはわからない。わかったら、間違えないからだ。だから、そんなことを「下さい」と頼まれても、困ってしまう。
 「お早めにお召し上がり下さい」と書かれているのを読んで、大急ぎで(よく噛まずに)食べる人がいるような気がする。これは老婆心か。聞き慣れているフレーズだから、「ああ、いたみやすいものなのだな」とわかるが、ずばり「早く食べて下さい」と書かれていると、どきっとするのではないか。「そこまで言われると、食べたくない」という気になる。
 「お子さまの手の届かないところに保管して下さい」というのもある。なんらかの危険物なのだろう。お子さまの移動範囲、および、お子さまが両手を振り回した範囲を想像するしかない。「お子さまがさわったら、どうなるか知りませんよ」という責任回避の意味だ。お子さまの背中に貼り付けてはどうか、と考える人がいないか心配だが、そういうことを考えるのは、まちがいなくお子さまである。
 「食べられません」と書いてあるものは、食べられるけれど、食べると大変なことになるものである。これと同じように、「口には入れられません」や、「目には入れられません」としないのは、やっぱり、「どれどれ、俺はできるぞ」という人がいるからだろうか。さきほどの注意をこの書き方にすると、「遅めは召し上がれません」となるし、「お子さまの手が届くところには保管できません」となる。間違えて、「お子さまの手は届きません」とすると、クレーム殺到だろう。


2006年09月13日(水曜日)

【HR】 雨の日の模型談義

 8時起床。今日は一日中ずっと雨が降りっぱなし。
 午前中は、税理士さんが来宅。スバル氏が揃えた書類を取りにこられた。岐阜県の裏金の話などを少し。確定申告はすべてお任せしている。払うべきものは気持ち良く払えば、と思うのだけれど、しかし、毎年何千万円も取られているのだから、なんとかならないか、と思うのも人情かも。
 たとえば、国民健康保険だって、森家ではここ数年、誰も病院へ行っていないし、まったく還元されていないのに、毎年65万円も支払っているのである。でも、これもこういう仕組みなのだ、と特に気にはならない。「高すぎて負担が大きい」とか「税金の無駄使いが我慢ならない」などと喧しく言う人も多い。そういう人は、いったいどれくらい払っているのだろうか? どれくらいなら払っても良い、と思うのだろうか?
 裏金に関しては、おそらくどこでもやっていることで、裏金を作らざるをえないようなシステムにも問題がある、と思う。毎年、予算をきっちりと使わなくてはいけない(1円だって残してはいけない)とか、今年は出張が少ないから、その分を別の使途へ回そうといった、ごく当たり前のことができないとか、この融通の利かない仕組みを誰も変えようとしないのが、そもそも問題の根本だ。だからこそ、国鉄も電電公社も専売公社も、そして郵便局も民営化へ、となった。国立大学だって法人化した。自分の首を絞めるような仕組みを早く正すべきだろう。
 公共の予算は、湯水のように湧き出る泉(使わなければ無駄になるもの)だと勘違いしている、そこに問題があるし、そういう環境に長くいると、「始末に困ったから燃やしました」みたいな、誰が信じるのか、という非常識な理由を発想する精神が養われる、ということ。

 さて、午後は、雨の中、横須賀からイラストレータの諸星昭弘氏が来宅。鉄道模型の小さなレイアウトで、独創的な作品を次々発表されている有名なモデラだ。実は、その作品の1つを譲っていただけることになった。しかも、諸星氏の代表作ともいえる有名なレイアウトである。
 写真のガチャポンがそれで、クリアケースの中に、小さな世界が作られている。スケールはHO(87分の1)で、線路の幅は9mm。もちろん、モータで走る。照明も灯る。ケースの下にある糸を引くと、建物のシュートが傾き、砂利をトロッコへ流し入れることができる。そのトロッコを引き込み線へ機関車が押していくと、ここで中身を自動的にダンプする。それがガチャポンの出口へ落ちてくる、というギミックが仕込まれている。
 このガチャポン自体も、オリジナルの作品で、実物を利用したものではない。機関車は、今はなきエガーバーンというメーカのプレミアもの。なによりも、諸星流の塗装が秀逸で、一目で彼の作だとわかる世界が構築されている。世界にただ一つしかない、まさに芸術作品といえるもの。
 あいにくの雨だったので、庭園鉄道にはご乗車いただけなかったけれど、ガレージで模型談義を3時間以上。とても楽しい時間だった。

 素晴らしい一流の作品というのは、まず最初に、「拘り」が目にとまる。凄い、ここまで拘るか、という鬼気としたものを感じることもある。ところが、しばらく近くに置いて、それを眺め、親しむようになると、そこに潜む本当に価値あるものとは、「拘り」を越えた、「自由さ」だと気づく。実は、作者は全然拘ってなどいない。もっと素直に発想された、「なにものでも良い」という「寛容さ」が見えてくる。
 掴みどころがないものを、掴みたいから、ついつい手近なものに拘ってしまう。材料はこれだ、手法はこれだ、ジャンルはこれだ、などと拘ろうとするのは、溺れる者が掴む藁と同じ。そうしているうちは、やっぱり本ものは掴めない。なにかに拘っているうちは、まだ二流ということだろう。

【算数】 牧草算

 ニュートン算ともいう(ニュートンが考えたらしい)。こんな問題である。
 ある牧草地に牛を放す。10頭放すと、20日で草がなくなってしまう。また、16頭放すと、5日で草がなくなる。では、何頭であれば、草がなくならないか?
 これを読んだ人は、0頭と答えるだろう。たしかに、0頭なら草はなくならない。1頭でもいれば、いずれは草がなくなるのではないか、と考えた人もいるかもしれない。そうではなく、草は日に日に伸びる、という条件なのだ。
 ただし、1匹の牛が1日に食べる草の量は一定。また、1日に伸びる草の量も一定である。そういう仮定を設けて考えるのが数学的思考だ。
 以下に解答。
 まず、牛が1日に食べる量を1とする。すると、10匹が20日間で食べた量は200、16匹が5日間で食べた量は80だ。この200と80の差、つまり、200-80=120は何かというと、それは、20日と5日の差、つまり15日間で伸びた草の量にほかならない。ここに気づくと、120÷15=8で、草が1日で8だけ増えることがわかる。だから、牛を8頭にすれば、伸びる量と食べる量がちょうど釣り合って、いつまでも草が減らないことになる。


2006年09月12日(火曜日)

【HR】 仕事の苦楽収支

 曇り空。午後は細かい雨が降っていた。秋雨前線というのだろうか。スバル氏と2人でスーパへ出かけたとき、「それにしても、今年の夏は過ごしやすかったね」という話をした。もう秋なのか。それで、たこ焼きを食べながら帰ってきた。
 最近、減っている店、増えている店、という話題。まず、喫茶店は確実に減っている。ドラッグストアは増えすぎたから、もうそろそろ減るだろう。コンビニも数が減っているように見える(スバル氏談)。その分、着実に店が大きくなっている。一番、減ったなと感じるのは、銀行かも。あれは、やっぱり多すぎたのだな(感慨)。せめてATMだけでも、減らさないでほしい(スバル氏談)。僕自身は、ATMで現金を引き出したことが、この20年ほど一度もなかったので気づかず。この頃、個人的な買いものは、ネットから振り込むか、クレジットカードばかりなので。
 午前中に、「もえない」を手直しして、角川へ発送。終わり。スバル氏にイラストを依頼すると、「うーん、またもえないかぁ」と唸っていた。彼女は今、経理関係の半年のまとめをしていて、忙しそうだ。テーブルの上に領収書がいっぱい。税理士さんがそろそろ来るためである。

 来年から再来年にかけての仕事の話を各方面としている。2年後くらいまでのスケジュール。まだ、しばらくは休めそうにない。まあ、楽しみな仕事もある。楽しみのない仕事なんて、もちろん極力入れないから、どれもそこそこの「楽しみ」くらいはある。ただ、それなりの「苦しみ」も伴うわけだから、諸手を上げて嬉しい、ということはない。中和してプラスマイナス・ゼロ付近だ。ただし、仕事は、そのあとに報酬がもらえ、それでプラスになる。
 一方、趣味の場合は、「苦しみ」に比べて格段に「楽しみ」が大きいから、基本的に最初から黒字。だが、気がつくとやりすぎて健康を害することがあるので、それで中和してプラスマイナス・ゼロ付近になっていることもしばしば。
 小説の仕事では、「書いて下さい」という要求を9割がた断っていても、こんなに本が出てしまうのは、どうしてなのか、という悩みをかかえている。本当に、どうしたら良いのか……。出版社の人は絶対にこの相談には乗ってくれない。
 たとえば、今の仕事量を半分とか、3分の1にできたら、もう少し有意義な時間が増えて、より幸せだとは思う。そのペースだったら、あと10年だって続けられるだろう。そうしたいと願っているし、それを目指してきたのだけれど、減らすことはどうしても無理そうだと最近わかった。だから、すべてをきっぱり切り捨てるのが、唯一最善の方法だと今は考えている。6年後くらいになるだろう。これは、とてもぼんやりとした、そして明るい、見通しである。
 突然やめるようなことはない。やめるときは、少なくとも1年以上まえに告知したい。引き受けた仕事をしなかったり、あるいは遅れたり、ということがないようにするのは、プロとしては最低限のことだと考えている。

【社会】 猛犬注意

 家の前に、これが標示されているところがある。訪ねてくるお客さんに、「猛犬がいるから注意をして下さい」と親切で示しているわけではない。かなりの比率で、実際には猛犬などいない。せいぜい気の良い大型犬か、よく吠える小型犬がいる程度であって、もし、本当に猛犬がいるのならば、それは檻に入れられているか、ちゃんとつながれているはずだから、そんなに注意をする必要もないだろう。多くは、防犯の目的で掲げられているものだ。
 「猛犬注意」のほかにも、「警官立ち寄り所」とか、「防犯連絡所」とか、が掲げられているところを見かける。なんらかの効果がある、と考えられているようだ。
 たとえば、空き巣に入られる家というのは、どんなものか。それは、空き巣に入ろうと真剣に考えればわかることだ。外から見て、中に人がいるかどうかわかる家だ。間取りがだいたい想像できる家だ。また、裏口から逃げられるなど、アクセス経路が多い家だ。そういった家の場合、猛犬がいるかいないか、もしいるなら、どこにいるのか、吠える犬かどうか、などはほとんど外からの観察で明らかなので、「猛犬注意」と書かれていてもいなくても、ほとんど関係ない。
 「押し売りお断り」という張り紙をわざわざしている家は、おそらく、押し売りの被害にあったことがある家であって、押し売りに弱い人がいる家、と考えて良いから、もし僕が押し売りだったら、そういう家を避けるようなことはまずしないだろう。


2006年09月11日(月曜日)

【HR】 かぶり魔

 昨日雨がふっていたので、朝は水やりをせず。しかし、晴れ渡って爽やかな一日だった。
 庭で雑草を取ったり、線路周辺の草木を切ったりして整備。バキュームで落ち葉も拾った。切れていた電球も梯子に上って取り替えた。まだまだやり足りないが、仕事が押しているので、書斎へ引き上げ、メールのリプライと執筆とゲラ読みと。「もえない」は11000文字書いた。明日くらい推敲して送れるか。その他、出版社からの問い合わせなどに応える日。

 パスカルが超元気で、たぶん少し涼しくなったからだと思われる。カラスを追いかけて猛ダッシュを見せたり、家の中でも「なむなむぅ!」と言いながら走りまわっている。漢字で書くと、「南無南無ぅ!」だろうか。ありがたいことである(合掌)。

 土曜日の新宿でのことが、いろいろな人からのメールで伝わってきて、多視点に再現されて面白い。どうやら、よしもとさんは、変装されてきたらしい(あれで?)。そういえば、名刺交換会では、あっと驚くような人が、あっと驚くようなファッションで現れたことが過去にあって、これは話すとみんな腰を抜かすほど危険なので、とてもここには書けないのだが、よしもとさんと羽海野さんには前日話したのだった。だから、それくらいならば私も、と思われたのかもしれない。しかし、危ない熱狂ファンと間違われかけたところ、よしもとばななだとわかって、スタッフを大いに恐縮させていた、とのこと。本当だろうか。作り話かもしれないが。

 以前にも書いたことがあるけれど、大勢の人からメールをもらうため、日本中に忍者を放っている徳川幕府の気分である(誇張)。いろいろな情報が集まってくる。まあ、真偽半々で受け止めてはいるものの、しかし、末端に至るまでわかってしまうことよ、ホトトギス。非常にクリアだ。
 大勢の人たちが、ネット上に日記を公開していて、なんともオープンな世の中になった。だが、誰が読むのか、いったい。将来にわたって、誰にも読まれず、このまま埋もれていくこれらのテキストとは、はたしてどんな存在なのだろうか。たぶん、一種の模様だと僕は思う。たとえば、縄文時代の土器に刻まれたもののように。

 ところで、小説を書いているときは、地の文でも、それが誰の視点かによって、文体が異なってくる。登場人物の視点で描かれているからだ。天才の視点で見たときと、凡人の視点で見たときでは、同じ風景も、同じ人物も、同じ事柄も、まったく違って映るだろう。小説家というのは、つまり、他人の視点に立てる人、いわゆる「天然かぶり魔」のことだと最近わかってきた。これは、漫画家とは一線を画する特性といえる。漫画の場合は、主人公の独白があったとしても、常に外側からの映像を描いているからだ。
 たとえば、主人公の視点に立った場合、自分の顔は鏡でしか見えない。小説は、そういう視点で書かれる。
 僕の小説の読者のうち、このMLAを読んでいる人は、だいたい1割くらいだろう、と認識している。小説を読む人の多くは、物語しか読まない。そして、小説に書かれていることが、すなわち森博嗣が感じている現実だと受けとめる傾向にある。作者がそれについて怒っていたり、それが好きだったり、それに興味があるように捉えるようだ。実際には、そういった一致はむしろ珍しい、と僕自身は思う。自分ではないものを「かぶる」ことが小説を書くことではないだろうか。
 エッセィよりも物語に書かれた言葉の中に真実を見つけようとする人もいる。不思議なことだと僕は思う。おそらくは、それは作者本人ではなく、「作者」という名の登場人物を思い描いているためだろう。

【理科】 動物の顔

 このまえ、前輪駆動か後輪駆動か、という話を書いたが、逃げる動物と追う動物では、目のつけどころが違う。否、目の位置が違う。
 逃げる方は、後方視界が少しでも広くなるように、目が顔の横についている。魚などが顕著にそうなっている。前は見えにくい気がする。
 一方、追う立場の動物は、顔の前面に両目が寄っている。猫科の猛獣がそうだ。
 人間の場合も、両目の間があいていると、おっとりして見えるし、目が寄っていると、気性が激しいようなイメージに見えるかもしれない。漫画のように、瞳が中央に寄っていると、とぼけているような印象になるのは、もともと目が横についている動物が前を見ているところを正面から観察した顔に近いからではないか。おっとりしている動物がこちらを向いている、というイメージだ。
 耳も、逃げる側は、かなり広範囲に向きを変えられるようにできている。やはり、センサとして重要なのだろう。
 口の形は食べるものに適するようになっている。イソップ物語で、鶴とキツネだったかが、皿と壺で、それぞれ食べやすい、食べにくいを経験する話があった。犬は、水を飲むとき、舌が下へ(あご側へ)曲がって水をすくっているのをご存じだろうか。それだったら、舌が上あごにあった方が合理的に思われるけれど、ようするに、不純物をいきなり飲み込まない動作になっているのかもしれない。
 一般に、鼻が長い犬の方が、匂いに敏感らしい。チンとかブルドッグは、警察犬とかにはなりにくいのだろうか。
 合理的なデザインというよりは、進化あるいは自然淘汰によるものと思われる。


2006年09月10日(日曜日)

【HR】 表に顔を出さない

 重いカバンを持って移動。どうして重いのかというと、一番の原因はパソコン。これが2kgある。それから、ハンズで購入した真鍮板とかギアとかチェーンとかのパーツ。その次は、天賞堂で買った洋雑誌数冊。それから、紀伊国屋書店からもらったカステラかな。あ、よしもとさん(というか、ご子息)からいただいたおもちゃの新幹線も。うーん、重い。
 全部タクシーで移動したから、そんなに関係はない。でも、駅構内では歩かないといけないわけで、大変だった。それなのに、駅の書店でまた本を2冊買ってしまった。

 パスカルが久しぶりだったので、モモンガみたいに跳びはねて喜んだ(モモンガをよく知らずに記述)。良い匂いがするので、美容院へいったのか、と思ったら、スバル氏が一人でシャンプーをしたという。それは凄い。「よくじっとしていたね」ときいたら、「大変だった、しがみついてくるから」とのこと。スタミナが切れたボクサみたいに、がしっとしがみつく絵を想像。
 たった今、夕立がざっと降って、すぐやんだ。また、少しじめっとして蒸し暑い感じに戻ったかも。
 名刺交換会に参加された方のメールも沢山届いているし、今現在、新刊が重なっていることもあって、感想メールも非常に多数。リプライが遅れている。気長に待って下さい。
 昨日は、久しぶりの名刺交換会だったので、初めての方がとても多かった(80%くらい)。しかし、講演会などで森博嗣を見たことがある人はけっこういたし、また全体の40%くらいは名刺にファン倶楽部のナンバが書かれていた。

 雑誌など、公の場に写真を出さないようにして、もう5年以上になるかと思う。しかし、TVには出たことがあるし、HP内でも、また著作内でも、探せば顔が映っている写真も多い。毎年講演会をいくつか引き受けているし。つまり、その気になってアプローチする人に対しては、とくに出し惜しみしているつもりもなく、隠れようといった意識もない。ただ、会おう、見たい、と思っていない人たちの前へ出ていく、という政治家のポスタみたいな行為を避けているだけだ。ささやかな抵抗に過ぎない。
 今日は、小説の仕事はしない予定。明日から、また「もえない」の続きを書く。来週から、3週間の予定で「ηなのに夢のよう」を執筆する予定。もちろん、ゲラがどんどん来るから、それらを迎撃しつつ。 
 そういえば、新幹線で、すぐ隣に野球選手が2人座っていた。めちゃくちゃ大きかった。どこの選手かは知らない。ヤクルトの投手っぽかったと思う。もしかして、今は違う球団かも。あと、ヨットスクールでかつて有名になったあの人も同じ車両にいた。元気そうな顔だった(もちろん、面識はないが)。野球選手の方は、ホームでもファンたちに囲まれサインを書き続けていた。野球選手には覆面はいない。大変な商売である。
 写真は、以前に書いたタップとダイス。

【国語】 「々」について

 この漢字を何と読むのか知らないので、ワープロで出すときは、「人々」とか「木々」と打ってから、前の文字を消す、という操作をしていたが、つい最近、ATOKだと、「どう」と入力すると、これが出てくることに気づいた。最初、選択ウィンドウの下の方にあったのを、ふと目にとめたのである。
 調べてみると、これは漢字ではないらしい。つまり、記号だ。だから、漢和辞典には載っていない。繰り返しの記号には、このほかに、ひらがなでよく使われる「ゝ」や「〃」があるし、複数文字を繰り返すときに使う「く」が長く伸びたような記号もある。
 「々」は、「仝」という漢字から変化したものらしく、「同」と同じ意味である。で、いったいこの「々」は何と読むのか、というと、漢字ではないので「読み」はないという。だが、「同の字点」と呼ぶようだ。聞いたことがない。ちなみに、「ゝ」は、「一つ点」というらしい。
 原稿を扱うところでは、「々」は「ノマ点」と呼ばれることもある。
 僕の場合、小説では、「木」ではなく「樹」を使うことが多く、「木々」ではなく「樹々」を書きたい場面がある。そういったときに、「じゅ・どう」と打つと出る。「きぎ」ではなく、「じゅどう」と打っているのだ。美しくないなあ。


2006年09月09日(土曜日)

【HR】 名刺交換会

 のんびり起きて、朝から「ハチミツとクローバー」10巻を読んだ。非常に納得のいくラストだった。というか、最初からここへ向かうだろう、という伏線が多かったし、幾度となく絵がそれを物語っていた。漫画(というか絵)は嘘をつかない。ここが、ミステリィには向かない点か。少なくとも文章よりは数段、生い立ちからして素直な表現手段なのだ。
 それから、ハンズへ1人で出かける。ラダーチェーンとスプロケットを購入。ラダーチェーンとスプロケットが何かわからない人は、勝手に想像すると面白いだろう。知っている人は面白くもなんともないだろう。
 2時半頃、紀伊国屋書店の新宿南店へ。地下にある控え室に入った。かつて、ここのホール(500人くらい入る)で講演会をしたことがあった。今日は3時から、ファンの人たち200人と名刺交換会。「カクレカラクリ」の営業の一環。1人1分弱の割り当てで、終了したのは5時半(予定どおり)だった。
 東北や九州から来てくれた人もいた。男女比は半々くらい。年輩の方もわりと多かった。失神したりする人もなく平穏無事に終わる。全員にコカ・コーラのお土産付きだった。沢山、プレゼントや差し入れをいただいたけれど、とても持っては帰れないので宅配便で送ってもらうことに。また、ファン倶楽部からは、花束をいただいた(写真の機関車も)。各方面に感謝。

 そうそう、昨夜、よしもとさんと羽海野さんが、「名刺交換会、覗きにいきますよぅ〜」なんて言っていたので、冗談だと理解していたのだが、終わってみたら、2人ともすぐそばで本当に見ていた。びっくり。「嘘、本当に来たの?」みたいな。森博嗣よりも、よしもとばななや羽海野チカの方が断然ビッグなのに、みんな気づかずにいる。「見逃しているぞ、いいのか?」と周囲の人たちに愛を叫んであげたかったけれど、当のご両人は周囲からは見えない光線バリアを出しているつもりなのか、全然おかまいなし。
 よしもとばななさんは、著作やHPにも写真を出されているから(婦人公論の表紙とか)、皆さんすっかりご存知だと思う。しかし、羽海野チカさんは、時の人なのに写真はおろか、どんなイベントにだって顔を出されない。サイン会は着ぐるみのクマで登場されるくらい徹底してる。出版社関係の人でもほとんど知らない。だから、メディアファクトリーの人とかも、大感激していた。
 で、どんな人なのか、というと、一言でいうと「はぐちゃん」である。そして、もう一言つけ加えると、山岸凉子さんに似ているのだ。山岸さんをご存知の方は皆さん、そう証言されている確かなところである。だがしかし、山岸凉子さんも、(美人だという噂は流れているものの)ほとんど世間に顔を知られていない有名人なので、ようするに謎が謎を呼ぶ展開マックスである。もしどちらかが、公の場に登場されたら、もう一方も、おのずと正体を知られてしまうことになるので予断を許さない。
 昨夜、いちばん変わっているのは、講談社のM澤さんだ、なんて僕がつい話したこともあり(小説にもついつい何度も書いてしまったが)、よしもとさんが、是非本人を見たい、とおっしゃるので、そのあと、待ち合わせ場所のホテルのロビィまで、お2人がついてきて、引き合わせた。羽海野さんも、文庫(短編集「今夜はパラシュート博物館へ」)の解説を書いてもらったことがあって、M澤氏とメール交換はしている。「こんなことがあるなら、もっと変わったコスプレで来たのに」とM澤氏はあとでとても悔しがっていた。そういうところが変わっているのだ。

 よしもとさんたちとはお別れし、講談社のK城氏とM澤氏と食事をしながら打ち合わせ。今回は特に、「四季」の文庫版について。普通の文庫は11月と12月に出るが、4冊セット箱入りバージョンも11月に出る。凝った装丁のスペシャルバージョンで、ほとんど予約制になる見込み(書店にはほんの少ししか出回らない)。それから、読者から募集していた解説・感想は、来週くらいに僕のところへ届くとのこと。競争率は6倍くらいらしい。
 講談社文庫が300万部を突破するので、その記念にまたなにか作ろう、という話もあった。今回の応募者へのプレゼント品になっているけれど、のんたくんぬいぐるみを作ったのはノベルス編集部なのだ。今度も立体ものが良いと僕は思う。フィギュアにしましょうか、なんて提案も。M澤氏は、講談社から出た僕の文庫をほぼすべて(「F」だけ違う)作った担当者で、つまり、僕の担当の中では最も沢山の本を世に送った人、ということになる。
 著作の合計部数も10月で800万部を超える(漫画や海外翻訳本、アンソロジィを含まず)。でも、今「ハチクロ」のオビを見たら、「シリーズ累計780万部」と書いてあった。羽海野さんは、6年間だし、たったの10冊なのだから、凄いなあ〜。あ、しかし、書くのは漫画の方がずっと大変かも……、などと、考えてしまった。

【算数】 ケーキを正方形に切る

 大きな長方形のケーキがある。長さを測ってみたら、144cm×233cmもあった。ここへ真っ直ぐに包丁を入れて、できるだけ大きな正方形を切り出す。たとえば、最初は、144×144の正方形を切り出すことになる。すると、残ったケーキは、89×144の大きさの長方形になる。
 残ったケーキから、また正方形を切り出す。このように、常に最も大きな正方形が切り出せるように切っていくと、最終的に、いくつの正方形のケーキができるだろうか。
 念のために書くが、包丁を入れることによって失われる幅や、長さが変化することは無視して良い。また、233cmなんて、そんなに大きなケーキをどうやって作ったのだ、みたいな現実問題として捉えてはいけない。包丁の大きさはどれくらいだろう、とか、どうやって綺麗に直線に切るつもりだろうとか、どんな種類のケーキだろうとか、算数に関係のない疑問を抱くことも(もちろん自由だが)問題の本意ではない。
 このような場合、切り出されたそれぞれのケーキの辺の長さを、小さい方から順番に並べたとき、その数列に現れる性質(規則性)とは、どんなものだろうか。
(毎度の注意:回答を掲示板に書かないように)


2006年09月08日(金曜日)

【HR】 お宅訪問

 久しぶりに銀座の天賞堂へ行く。ゆっくり見たけれど、残念ながら、あまり欲しいものはなかった。それで洋雑誌を数冊購入した。
 午後は、羽海野チカさんのお宅を訪問。もちろん、初めて。「一度遊びにきて下さい」という甘い言葉に甘えたのである。そのとおり、スイートなお宅だった。
 ロケーションが素晴らしい。高いので眺めが抜群。風通しも良い。周囲にはなにもなくて、空に住んでいるようなもの。仙人らしくなるだろう。事実、そんな感じである。
 引っ越されてまだ間がなく、インテリアとかが揃ったばかりのところのようだった。ソファの配置について、30分くらい議論になった。途中で羽海野さんは、配置図まで描こうとした。ちょっとした高級ホテルのスイートみたいな感じなのだが、どういう目的に使われるか、というあたりが実に悩ましいところである。
 そのほか、仕事場や寝室まで見せてもらった。こちらも凄かったけれど、一言でいうと、星とか妖精とか、そんな由緒あるものでできている空間。可愛らしいパーツが散りばめられていて、愛に溢れている(仕事場は紙とペンで溢れていたが)。ちょうど発行したばかりの「ハチミツとクローバー」の最終巻もいただいた。

 羽海野さんと仲良しの、よしもとばななさんも来られた。それで、ケーキを食べつつ、コーヒーを飲みつつ、2時間半くらいおしゃべりしたあと、今度は、よしもとさんご推薦のレストランへ歩いて移動。これまた、よしもとさんご推薦のワインを飲みながら歓談の続き。料理は王道のイタリアン。この頃、創作系が多すぎるので、かえって懐かしかった。非常に美味。羽海野さんとよしもとさんが、料理のようにこってりとしたディープな話をされるので、それを聞いているうちに、夜の11時近くなった。面白い話ばかり。
 そうそう、漫画家、小説家、そして編集者で、変わっている人は誰か、という話題で盛り上がった。どうも、漫画家はみんなバランスがとれた社会人というか常識人が多いのに、それに比べると小説家は変わり者ばかりではないか、と(僕もよしもとさんも)自分を棚に上げて議論した。でも、話していくうちに、いちばん変わっているのは、編集者なのでは? というところへ行き着いた。
 そういわれてみると、講談社のM澤氏(鉱物が好き)とか、K木氏(戦国マニア)とか、幻冬舎のS儀氏(街角で笛を吹く)とか……、たしかに否定できない。

 羽海野さんのお宅を拝見したから、というわけではないが、住む環境というのは、自分を取り巻くごく僅かな範囲のことであって、現代人は、かなりこれをコントロールできるようになった。各自が自由に、自分の生活をデザインできる時代である。他人からとやかく言われることがない。歴史を見ても、この自由はかつてなかったものだろう。とても素晴らしいことだし、自然なことで、人類がようやく手に入れつつある幸せの一つだと思う。
 しかし、一方では、女性は制服でスカートを穿かなければならない、とか、死んだらお墓に入らなければならない、とか、身の回りにまだまだ、不思議な拘束が残っている。いずれ解放されるだろう。

【社会】 戦争放棄

 よく問題になる日本の憲法第9条のこと。戦争をしない、という宣言はそんなに珍しいものではない。それくらいは、世界中探すとけっこうあるし、また、昔からある。日本の憲法が珍しいのは、軍事力までも放棄する、ということが宣言されているからだ。
 たぶん、これが制定されたときには、世界中の人が驚いたのではないか。日本人だって、そして占領軍のアメリカ人だって驚いただろう。前代未聞といって良い。それくらい、凄い決断だったと思われる。
 しかし実際には、自衛隊が作られてしまったので、「なあんだ」ということになった。「自衛隊は軍事力ではない」という、それこそ落語の「おち」のような結果になってしまった。洒落といえば洒落だが、悪い冗談といえば冗談か。
 不思議にも、それがそのまま、現在に至っている。
 既に、自衛隊という組織があって、巨額の費用が投入されているとか、基地があるとか隊員がいるとか、あるいは、既に各方面で活躍をして、なくてはならない存在になっているとか、そういったことを持ち出して、「では憲法の方を直しましょう」という発想は、もしそれだけが理由ならば、まったくナンセンスである。憲法というものは、その程度のものだったのか、ということになりかねない。
 よくわからないのは、どうして軍事力を放棄しようとしたのか、そのときの精神である。それが現在にきちんと語り継がれていない。どういった経緯でそんな突飛な宣言をしたのか。いったい軍備なしでどうするつもりだったのか。そこが知りたい。たとえば、当時生きていた世代は、それを知っているだろうか? 聞いたことがない。みんながそれを知ったうえで議論をするのが良いと思われる。僕は、それを知らないので、現在は、改憲についての個人的意見は持っていない。


2006年09月07日(木曜日)

【HR】 素直な生き方

 今日も雨。8時頃に目が覚めた。睡眠充分。雨の日はパスカルが濡れていない。水遊びをしないからである。
 今日は、工作はお休み。午前中は、1人で出かけて、研究関係の打合せ。お昼頃に一度戻って、また出かけて、ポルシェの工場へ。青の6号がもう車検が終わって、ぴかぴかになっていた。「雨だから、洗うかどうか迷ったのですが」と工場の人が話していた。つまり、まえの状態だと雨で綺麗になるが、洗車後だと雨で汚くなる、という究極の選択を迫られたわけだ。
 ボクスタのハードトップはケイマンという名前らしい。ボクスタよりはコンパクトに見える。ミッドシップだからツーシータ。700万円くらいで買えるようだ。一人で乗るには軽快そうな車だと思った。若いときなら乗りたかったかも。今だと、ホームセンタで困るとか、スバル氏と出かけるとき、パスカルが乗らないとか、つい考えてしまう。

 このまえ、子供に対して「父親らしいことをしなかった」と書いたが、これは、世間でいうところの父親らしいことであって、僕としては、ちゃんと父親のするべきことはしていたつもりだ。学校の父母参観に出かけたり、休みの日にキャッチボールをしたり、海水浴やキャンプへ連れていったり、などは父親がするべきことのうちに含まれていない、と僕は考えている。もちろん、これは人それぞれ。他人のことをとやかく言うつもりはない。
 子供たちがどんなセレモニィ(たとえば