2006年09月19日(火曜日)
【HR】 庶民の味方
朝は雨だったけれど、昼頃から晴天。
午前中はビートでスバル氏とドライブ。久しぶり。ダイエーにも寄った。食料品を買い込むと、それらを助手席でスバル氏が両脚の間に抱えるように置くしかない。ミニも小さいが、ビートはもっと狭い。運転しながら、助手席のドアのロックが簡単にできるくらい。助手席のシートは運転席のシートより小さくて、完全に女性用である(笑)。良いなあ、小さい車は。周りは馬鹿みたいに大きな車ばかりだから、なんだか水牛に囲まれたみたいな気分になってワイルドだ。ぶんぶんおもちゃみたいに走る。
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「四季 春」文庫版のゲラを読んでいる。80%くらいまで。この作品はとても特異なものだと思う。シリーズものを読んでいないといけない、ということは全然ない。むしろ、森博嗣で1冊だけ読むなら、「四季」かもしれないな、と少し思った(思ってもしかたがないが)。「スカイ・クロラ」か「迷宮百年の睡魔」かもしれない(気のせいかもしれない)。わからない。まあ、1冊だけ読むくらいならば、1冊も読まない方がベターともいえる。とにかく、人に自著、特に小説をすすめたことは一度もない。
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マスコミは、よく吉野家の牛丼をニュースで取り上げる。あれは何故だろうか。新しいメニューができた、くらいのときもあった。一企業のほとんど宣伝に近い内容だ。このほか、同じように感じるのは、ユニクロである。この2つは、ほかの店や企業よりもニュースになりやすい。マスコミが出資しているのか、と思えるほどだ。
スバル氏によると、かつてなにかの弾みで一度取り上げてしまったから、これはニュースの「シリーズもの」になったのだ、という。すなわち、みんなが「あれはどうなったのだろう」と続きを気にしている、ということか。またスバル氏は、老人には「ハンバーガ」よりも「牛丼」の方がイメージしやすい、マスコミは主に老人を相手にしているから、必然的にそうなるのだ、ともおっしゃっていた。わりと分析しているのでびっくり。
吉野家もユニクロも、安価な品揃えをモットーにしているらしいので、いわゆる「庶民の味方」という記号化が当てはめやすいのだろう。ようするに単純化である。実際には、トヨタの方が多くの国民に関わっているはずだが、自動車メーカは絶対に庶民の味方とはいわれない。
安ければ庶民の味方だ、という短絡的な発想は幼稚で滑稽ではある。むしろ、庶民を馬鹿にしていると思う。もっとも、誰も、自分は庶民だとは自覚していないので、実害はないのかもしれない。
たとえば、客観的に眺めて、商売よりは、公共の施設、役所、学校、あるいは社会保障制度そのものの方が、はるかに庶民の味方だ。牛丼1杯を売って吉野家がいくら儲けるのかは知らないけれど、消費税よりは高い割合だろう。一方の消費税は、金持ちが高価な買いものをしたときにも徴収されるし、税金によって社会保障が実施されている。貧乏な人ほど、支払った税金よりも多くを享受できるのが保障の基本である。したがって、吉野屋よりは、消費税の方がはるかに庶民の味方といえないだろうか。と、目くじらを立てて書くほどのことでもないか(笑)。
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注意すべきは、マスコミによる押しつけがましい単純化である。安い牛丼は庶民の味方、税金はすなわち庶民の敵、という決めつけ。ニュースキャスタとかコメンテータがどんどん馬鹿に見えてしまうから同情したくなるほどだ。
小説家は庶民の味方ではないだろう。小説なんか、庶民の生活の外にある無駄な部類だ。しかし、ときどき、少し無駄な嗜みへの理解も見せようとして、マスコミは「庶民のささやかな楽しみ」などと表現する。「ささやかで悪かったな!」と庶民は怒ろう。誰だ、庶民って? もしかして日本で働いている外国人のことだろうか?
【図工】 特別講義2
そういう意味で、森先生が「サイン会はつまらない、名刺交換会にしましょう」と思うことや、「印税はいらないし、本をみんなが読ませたい人に送りたい」と思うことも、「なんでゲラ刷りはデータで来ないんですか?」と思うことも、森先生の創作の一部だと感じています。
私の姉は全くの文系だが、型にはまることなく生きることにかけては天下一品で、中学のとき、机とイスでじめじめした校舎裏の通路に勝手に家を造り、そこにこもってマンガを描いたり、コンロで火を起こしてカップラーメンを食べたり、お茶を飲んだりして放課後をひとりまったりと過ごしていた。その家にアクセスするには崖みたいなところを這って通らなくてはならず、さらに入り口には恐ろしいインドの神様みたいな姉自作の絵がかけてあり「神様にパンツを見せないとここを通れない」という内容のことが書いてあった。やれやれ。しかし今でもその神様とそこに至るまでの危険な道の大変さとそこで飲むお茶のおいしい味が、すばらしきものとして目に体に焼きついている。
創作とは、常に死(社会的な死も含め)のリスクを必ず含んでいるのだ、と思う。
森先生が尊敬している井上昭雄さんという人を、私は一度だけお見かけしたことがある。その作品もいくつか見せていただいたことがある。おそろしいものだった。どういう機構で動いているのか素人の私にはもちろんさっぱりわからなかったが、発想が異様でしかもそれを美しいデザインで実現させるのにどのくらい冴えた頭と技術がないとだめなのか、誰が見てもわかるのである。いちばん効率よく動くようにしたら自ずとデザインも冴えたという合理性も感じられた。さらに作品からは透明でさわやかな、切れのいい風みたいなものがふわ〜、と吹いてくるのだ。人はどこまで行けるのか、なるべく雑音なくそれを行けるところまで極めたい、と私はかなり刺激を受けた。