2006年07月31日(月曜日)

【HR】 頭のギア

 朝から夕方までずっと曇っていた。雨は降らない。とても涼しい。夏なのに珍しい涼しさだった。
 午前中から、「MLA3」のゲラに集中。今日も100Pほど見た。今夜にも、残りの1/3のゲラが届くはず。明日にも読み終えられる。これだけゲラばかり見ている日々なので、必殺ゲラ人になった気分だ。少しは読むのが速くなっただろうか。
 「STAR SALAD」の色つけも18枚まで。あと8枚。スバル氏のカラープリンタで印刷してもらったものをファイルに入れて、文章と合わせて見られるようにした。絵本は面白い。少なくとも作るとき、小説よりもずっと面白い。だから、小説を書くことをやめても、絵本ならば作っても良いな、とほんの少し思った。ときどき、こういった気の迷いがあるものだ。
 雨が降らないので、水やりは2回。プールは、朝方低温のため屋根が傾いていたが、昼頃にはまたもとの形に戻った。空気の膨張によるもの。木の根本に蟻退治の白い粉をまいたりした。雑草も抜いた。バキュームで久しぶりに落ち葉も拾った。しかし、森林の中はもう落ち葉だらけ。常緑樹というのは、一年中葉っぱを落とす樹のことだ。ずっと赤い紅葉(もみじ)もほぼ一年中葉を落としている。メダカはまだ生きている。小さいのが泳いでいる。繁殖したみたいだ。

 エッセィや日記本の場合は、ゲラが速く読める。小説のように別世界のシーンを思い浮かべる必要がないためだ。学生が書いた論文を手直しするときも、かなり速く読む。多いときは、1年に10人くらい卒論生や修論生がいたこともあって、そうなると、年末年始は、もうずっと文章に赤を入れる作業に時間を取られる。自分でも信じられないくらい、もの凄いスピードで読んで、直すことができるようになる。
 ただ、頭に切り換えスイッチがあって、レベル1からレベル5の5段変速になっている。卒論生が持ってくる卒論はレベル1で見る。その卒論生が発表会で配るレジメはレベル2で見る。ほかの講座の学生や先生たちにも配布されるからだ。修論はレベル3。学会で口頭発表する論文ならレベル4。さらに、学術雑誌へ投稿する論文や博士論文になるとレベル5で見る。レベルが高くなるほど、読むのが遅くなる。何が違うのかというと、レベルが高いほど展開する視野が広くなる。関連することを連想したり、無理に間違った意味にとって違う角度で見ようとしたり、あるいは、予想される質問を想像しながら、懐疑的に読む。
 レベル1などでは、ほとんど文法的に正しく直す程度であり、いわゆる校閲と同じ。レベル2になると、内容が間違っていないか、論旨に矛盾はないか、と気にする。レベル3になると、弱い箇所がないか、突っ込まれる部分がないか、という防御的な対策を築く。レベル4になると、内容のどこにオリジナリティがあるのかを強調する攻撃的な対処をする。レベル5とは、それらのバランスをさらに高めて、より洗練されたものを目指し、さらには、今後の進む道も視野に入れたベクトルまでが必要になる。

 論文というのは、書きたいことが既に頭の中に明確にある。しかし、実際には、すべてを説明するだけの時間もスペースもない。だから、ほんの一部をダイジェストで書くしかない。思考の100分の1くらいが文章になる。それを読んだ人が、同じ思考へ辿り着くには100倍にするイマジネーションが必要だろう。
 小説というのは、書きたいことが明確には頭の中にない。ただ、書いているときに、溢れるようにイメージされるものが現れ、素直にそれを書き留める。1しか考えていなかったものが、書いてみたら100になる。論文が縮小して書かれるのと反対に、小説は文字どおりイメージを膨らませて書くものだ。
 論文は500編以上は書いた。小説は、まだ書き始めて10年くらいの経験しかないし、たかだか50作くらいである。けれど、少しだけこんなものかな、とこの頃わかってきた気がする。気のせいかもしれない。この、わかってきたことの主たる原因は、ゲラ校正にあると思う。書いているだけではなく、自分の小説を何度も読まなくてはいけない。読者にならなければならない。非常に面倒であるが、無駄ではないと思われる。

【理科】 錬金術

 近頃では、ぼろ儲けをするときにも使われる言葉だ。実際には金に限らず、たとえば生命体を作るといった研究に対しても錬金術(Alchemy)は用いられた。ようするに、雑なものから純なものを作る技術、といったところ。古くから東洋西洋を問わず、数多くの錬金術師が実験を繰り返して、価値のあるものを作り出そうとしたわけである。
 こういった研究が、現在の化学の基礎となっているのは事実であり、人の欲望がアカデミックな探求の動機になっていたこともまた否定できない。
 さて、永久機関は不可能であることが今では明らかである。また、化学反応によって卑金属から金を作り出すこともまた不可能である。ただ、すべての分子は、原子核と電子でできていて、原子核の中には、陽子と中性子がある。これらの数や配置で、どんな物質になるかが決まるのだから、ある物質が別の物質になることは、ありえないことではない。
 あるベリリウムは、放っておいても自然にリチウムになる。つまり、「水へリベ……」でわかるように、原子番号が1つ少ない物質に変わる。これは、原子核崩壊といわれている現象で、周辺の電子と原子核の中の陽子がぶつかって中性子になるために起こる。
 同様に、金よりも原子番号が1大きい水銀にガンマ線を照射して、金を作ることが可能である。手法はまったく違うが、炭素からダイヤモンドだって作ることができる(こちらは結晶構造の問題)。つまり、錬金術は、現代ではまんざら絵空事ではない。ただ、いずれも採算が取れないだけの話である。


2006年07月30日(日曜日)

【HR】 情熱を語ることは容易い

 日曜日、からっと晴れて、風も涼しい、爽やかな天候。朝から水やり。サルスベリの木の皮が剥けた。雨が続いた頃に、朝顔が無謀に勢力を伸ばしたため、どれも3時間も乾燥すると葉が萎れてしまう。だから、頻繁に水をやっている。
 ついにスバル氏と長女M氏がプールを庭に出した。そして水を入れ始める。しかも、2人とも水の中に入ろうとしている。恥ずかしい、そういうことがよくもできるものだと思う。デッキならばどこからも見えないが、ガレージの前だ。近所から見られてしまう。羞恥心というものがないのが恐ろしい。
 パスカルは、プールの中へ引き込まれると、必死で出ようとする。男の子だから恥ずかしいのだ。明らかに楽しんで水遊びはしなかった。予想されたことである。スバル氏によれば、「この子は新しいことに弱い」との解釈。スバル氏が新しいことに強すぎる気がした。

 「STAR SALAD」の解説文をすべて書いた。文章はこれで終わり。もちろん、後日時間をかけて推敲をする予定。色つけは16枚くらいまで進んでいる。極めて好調。というか、ほかの締切で押している。書き下ろし作品は、タイトルを仮に決めて、最初のところを少しだけ書き始めた。まあ、この書き始めるというところが最大の山なので、あとは、下り坂。時間さえあれば進むだろう。
 「MLA3」のゲラも到着したので、さっそく涼しいリビングで100Pほど読んだ。もう3冊めなので、編集も手慣れてきたのか、禁則もほとんど処理されていて、直すところも少なく、さくさくと見られる。あとがきを1週間くらいのうちに書かなくてはならない。いつも初校を読んで、3カ月を思い出してから書くことにしている。本のサブタイトルは、羽海野氏のカバーイラストを見てから決めることになるだろう。

 エンタテインメントの多くは、人を感動させることが目的であるけれど、悲しいことや、辛い状況の物語(あるいは実話)で涙を誘うことは容易い。この種のものは感動とは別ものだと僕は区別している。また、これらの厳しい状況を乗り越えて成功を手に入れる様子を語ることも簡単だ。さらには、そんな状況さえなくても、とにかく「情熱を傾けていこう」という意気込みを語ることもまた容易い。全部単純であるし、しかもそういうものでたしかに大勢が感動する。もちろん、僕もそういったものに触れれば感動に似た感覚を一瞬だけ味わうだろう。けれども、それは言葉だけのことだ。それよりも、そんな情熱が具体的に何を生み出したのか、その生み出されたものを見た方がずっと真実に迫れる。
 そう考えている人間なので、自分はあまり情熱を表に出さないように意識している。淡々と作る方が良いと思っている。苦労話みたいなことは、どちらかというと嫌いだ。子供のときは好きだったけれど、どうして嫌いになったのか、と振り返ると、酒の席で上司が部下に聞かせるシーンを多く見たせいだろうか……。語っている本人しか気持ち良くなれない。むしろ格好が悪い、と感じてしまう。

 スポーツでもそうだが、やる気がいくらあっても、勝つことはできない。負けたときに、気合いが足りなかったとか、精神的に脆かったとか、そんな言い訳をしているが、多くは戦略的に、あるいは技術的に不足していただけである。歴史的などんな偉業も、不屈の精神力だけで成し遂げられたわけではない。綿密な計算と知恵の集結のうえに、労力と資金が必要だったし、最も不可欠な要因は個人の秀でた才能だった。偶然訪れた幸運によるものでも、それを見逃さなかった才能が必要だった。
 しかし、偉大な業績を挙げた人は、きまって自分の才能を謙遜し、ただ情熱を持ってひたむきに努力をした結果だと語るだろう。これは、情熱や努力があった方が有利だ、という意味にはちがいないけれど、それが最も大切で不可欠なものだ、というふうに誤解してはいけない、と僕は思う。勘違いしている人が多いはず。「情熱をもって努力せよ」とは美しい言葉であるが、あくまでも綺麗事である。

【国語】 言葉のニュアンス

 言葉の持つニュアンスは個人によって微妙に食い違っている。そこが面白いところだ。
 特に新しい言葉が急速に普及した場合、本来の意味とは違うニュアンスで使われるものも多く、本来の意味を知っている人と、そうでない人の間で、齟齬が生じることになる。
 「なんとなくクリスタル」で一時期広がった「クリスタル」であるが、多くの人は、「透き通っている」「綺麗」「純粋な」というニュアンスを持つようだ。けれど、もともとは「結晶」の意味であって、分子が整列している様を理系ならばまず思い浮かべる。これと反対なのは、非結晶であり、すなわち「アモルファス」である。僕がクリスタルでイメージするのは、「高強度」「脆性」「振動子」くらいだろうか。
 ちなみに、透明といえば「スケルトン」が誤用されている。スケルトンで一番イメージするのは、「骸骨」あるいは「骨組み」である。
 この頃では、「デジタル」と「アナログ」もかなり人によって違うニュアンスで使われている。たとえば、時計はアナログからデジタルになり、またアナログになった。今のアナログは昔のアナログとは違う。デジタルを乗り越えたアナログだ。
 パソコンの通信方法も、最初アナログで、一度デジタルになり、またアナログになって、再度デジタルになりつつある。
 だから、「私はアナログ世代でして」なんて言われても、それは、どのアナログなのかわからない。アナログが古く、デジタルが新しいというわけでは全然ない。なにしろ、最初の通信はモールス信号であって、デジタルから始まったのだ。両者を区別するものは、数値や記号が表に現れているかどうか、くらいしかない。
 僕のイメージでは、文章は本来デジタルであり、絵はアナログである。


2006年07月29日(土曜日)

【HR】 サイホーの日

 今日も晴。昼頃、30分ほど雨が降っただけ。しかし、風があって、とても涼しい。こんな夏なら、いつまで続いてもよろしい。
 一昨日だったか、「カクレカラクリ」のカバーデザインをチェックしたことを書き忘れていた。まあ、こういった仕事は一瞬。判断に五秒くらいしかかからないので、ほとんどは単にメールを書いたり、連絡を取っている時間に消費される。
 「STAR SALAD」は色つけが15枚ほどまで。もちろん、あとですべて手直しが必要だが、もう半分以上はできている状態。今日は、文章も書いた。1時間で書けると以前にここで書いたが、そのとおり1時間くらいだった。これものちほど推敲が必要。また、解説を今回も書く予定。こちらの方がずっと大変だ。
 6年くらいまえ愛犬雑誌に書いた文章を、単行本に収録したい、という依頼が出版社からあった。大勢が各自の犬のことを書いたものを集めて一冊にする、という企画。しかし、もうずっと昔のことだし、その文章は自著で既に収録されているし、トーマはもういないし、という理由で辞退することにした。このほか、いくつか執筆の依頼があったが、1つを除いて断った。その1つは、IN☆POCKETのもの。「四季」文庫化に合わせたもののようだ。締切は10月。募集している感想・解説の締切は、あと1ヶ月くらい。

 昼頃、ホームセンタと模型店へ行った。ホームセンタは金具などを買いに、模型店はプラスティックの角材を買いに。角材は1本しか在庫がなく20円。いつものことだが、欲しいものの80%は在庫切れで、20%を買って帰り、あとでネットで注文する、という具合。
 一昨日ジャスコで買った布は、スバル氏が一度洗って、柔らかくしてくれた。これで、のんた君のオーバオールを作ろうと考えたのだ。のんた君とは、本ものの方ではなく、例の100匹作った量産型のんた君。それから、作ろうと思ったのは僕だ。そして、実際に作るのも僕である。スバル氏が裁縫が上手い、と書いたが、それはミスディレクションだった。
 まず、のんた君がもともと着ていた探偵の服を脱がせ、帽子とパイプも取った。帽子とパイプは縫いつけてあるので、糸を切らないと取り除けない。それから、紙を躰に当てて、型紙を作った。最初は4分割で想像していたが、どうも2分割でいけそうな雰囲気なので、予定変更して2分割にした。
 型紙ができたので、これに合わせてデニムの布を切って、糸を針の穴に通して、それから、とにかく縫った。こういうことをするのは、たぶん小学校以来だと思う。小学校のときには、家庭科があったし、また、自分でぬいぐるみを(自主的に)作ったこともある。一度だけだが。

 そういうわけで、2時間ほどかけてできあがったオーバオールが写真のものである。ボタンも買ってきたものを付けた。布の端は折り曲げて縫うのが普通らしいが、普通ではないので、切りっぱなし。最近はこういうのも流行りなのだ。ほつれてくるから、あまり触らないようにしよう。
 「この型紙をpdfにして配布したらどうだろうか」と考えたが、そんなことをしたら、「そのまえに、のんた君の型紙を配布しろ」というお叱りを受けそうなので、断念した。
 今日は、久しぶりに1時間ほどガレージで工作もできた。ここ最近、小説の仕事が多すぎる。8月は最小限にするつもり。

【算数】 フラクタル

 わりと耳にする言葉であるけれど、その意味するところはかなり難しい。
 もともとは、国境線の長さを測ったときの数値の違いに着目して研究が始まったという。よく例として挙げられるのは、海岸線である。海岸線の長さは、どうやって測れば良いだろう。小さく縮尺した地図に定規を当てて測る場合と、もっと大きな地図を広げて、そこに定規を当てて測るときでは、結果に違いが現れる。もちろん、大きな詳しい地図の方が海岸線が長い。
 リアス式海岸のような凸凹の海岸線は、細かく見ていくと、どこまでも凸凹がある。つまり、マクロな半島や湾の凸凹から、岩が出ている出ていないの凸凹、その岩自体の凸凹、さらに、もっと小さな数ミリの凸凹、のように、いくらミクロに見ていっても、同じように凸凹している。こういったものをフラクタルと名付けて、数学でも取り扱うようになったのである。
 ファジィと間違えて使っている例を何度か見たことがあるが、まったく違う概念。似てもいない。フラクタルには、「曖昧」といったニュアンスはない。一言でいえば、縮小しても拡大しても同じように複雑なもの、とか、あるいは、そのような複雑さを示す指標として用いられるツールの一つである。
 使用例:空に浮かぶ雲を眺めていると、「なんとなくフラクタル」だ。
 こういったものを読んで、文系の人は、「ふわふわ」して「曖昧な」ものがフラクタルなのだな、と勘違いしたのだろう。


2006年07月28日(金曜日)

【HR】 小説で何をいいたいのか

 また良い天気。朝起きたら、既にパスカルはハリネズミだった。暑いことは暑いが、水やりをしていると、風もあって非常に爽やか。夕方は特に風が涼しかった。
 スバル氏が出かけたので、留守番をしながら、パスカルの相手をしながら、涼しいリビングでゲラ校正。4時間くらいやっただろうか。「どきどき〜」を最後まで見る。なんとか片づけた。しかし、明後日には、「MLA3」のゲラが来るし、数日後には「λ(ラムダ)」の2校も来る。いずれも、コンベンションのまえに片づけないといけない。今年はまだ一冊も小説を読んでいないが、たぶん読めないような気がする。自分の本のゲラで手一杯だ。「STAR SALAD」の色つけは11枚まで。こちらも順調。

 今月はあと、書き下ろしを少しでも書き始める予定で、この2週間くらいは、頭の中でときどき思い浮かべている。一番考えるのはお風呂(シャワーだけれど)に入っているときだろうか。ストーリィを考えるということは、僕の場合ほぼない。なにを考えるのかというと、まず地理である。どんな場所なのか。平野か山地か。気候はどうか。川はどこに流れているか。それから、だんだん焦点が絞られてくる。近所の街の様子など。そんなことを考えているうちに、人間が歩き始めるので、そんな中から、この人は、という人物をスカウトして、キャラを設定する。今は、もうキャラは決まっていて、そろそろ書き出せる。タイトルを思いつきさえすれば。

 スバル氏が、先日話していたことだが、どうも日本の文学を彼女が受けつけない理由がわかった、という。「主人公が著者と同じ人格であるかのように書かれている。そうなると必然的に巨匠の作品は全部オヤジくさくなる」といったような表現だった。
 これは、僕もこの世界に入って知ったことだ。小説を読む人たちの多くも、物語の主人公と作者を重ね合わせようとする傾向にある。主人公の独白は、すなわち作者が言いたいこと、作者の主張なのだ、と解釈する。
 これは、海外の小説にはあまりないことだ、と僕は思う。
 学校の国語の時間に、植えつけられるものかもしれない。なにかというと、「作者はここで何を言いたかったのか」とメッセージを無理に読み取ろうとするのだ。
 男性作家は、主人公も男性にした方が良いですよ、その方が売れますよ、というアドバイスは編集者から受けたことがある。商品としては、それが正しい。けれども、作家が作り出すことができるものは、そんなに狭い世界ではないはずだ。
 作者の存在がほとんど現れない種類のエンタテインメントがあって、そういった作品の地位が日本では比較的低い。文学とは何か、自身をさらけ出さなければ文学ではないのか、と考えさせられる。
 たしかに、作者が考えてもいないことは書けないので、小説に書かれている意見や思想、そして価値観などは、作者が作り出したものにはちがいない。しかし、それを肯定しているのか、否定しているのか、あるいは、迷っているだけなのか、そこまではわからない。そのことを訴えたい、と考えているかどうかさえ、わからない。それが当然だと思う。ただ取り上げて、物語の中で揉み合い、こすり合いをしているうちに、なにか新しいものが生まれるかもしれない、と予感しただけかもしれない。

 もし、広くみんなに言いたいことがあるならば、エッセィに書けば良い。小説に書いたりしたら、ただ曖昧になるだけである。小説で世界平和や家族愛を訴えたってしかたがないではないか。僕は少なくともそう考えている。
 一方では、小説にしか書けないものが、たしかにある。それは何だ? といえば、一言では説明できないから小説が存在している。意見やメッセージではない。もっと、わかりにくいものだし、あるいは逆にこのうえなく簡単なものかもしれない。

【社会】 差別的表現

 2005年11月30日【国語】で、「差別用語」については書いた。今回は【社会】で取り上げよう。
 子供のときから、カルピスが好きだったが、カルピスのマークも大好きだった。あれは、センスが良いデザインだ。調べてみたら、コンペを行って選ばれたものらしい。それが、いつの間にか、世の中から消えてしまった。メーカがトラブルを避けて自粛したということらしい。黒人が涼しい顔でカルピスを飲んでいるだけの絵である。可愛らしく描かれているし、どこにも黒人を侮辱するような部分は見つからないが、それでも、そういったメーカの姿勢が行き過ぎだ、というつもりも僕にはない。
 性差別も人種差別も、もともとが酷かったのだから、多少は行き過ぎた注意をしてちょうど良いくらいになる、ということはたしかにあると思う。そして、いつか、カルピスのあのデザインが復活したとき、ようやく差別が消えたのだな、と思えるだろう。
 「ちびくろサンボ」も大好きな絵本だった。長い間、あの本がもう一度読みたい、と切望していたけれど、ずっと絶版になって手に入らなかった。その失われた時間は、黒人差別を認識する以上に、深い傷を多くの人に与えた、と僕は感じる。
 特に、この種の議論がしたいわけでもなく、また、詳しくもないので、無責任なことを書いているけれど、もし可能ならば、こんなふうになれば良い、と願っている。
 差別的な表現を見つけたら、「これは差別的な表現ですが、ご存じでしたか?」と優しく問いかける。問われた方は、もし知っているなら「はい、知っております。そのつもりで使いました。確認ありがとう」と答えるか、もし知らないならば、「知りませんでした。どうするか、考えてみます」と答えるか、いずれかである。そういった穏やかなものではいけないのだろうか? いずれの答に対しても、「ご承知いただければ、幸いです」で良いのではないだろうか? その程度には、社会は成熟したように思うのだが。


2006年07月27日(木曜日)

【HR】 感謝渇望症候群

 朝から晴天。今日は計3回水やりをした。スバル氏も、もう梅雨明けだと言っていたので、森家では、既に完全に梅雨明けである。名古屋は日本で一番暑いのではないだろうか。しかし、今日はまだ35度くらいで、それほど酷暑とはいえない。というか、山の上だからもう少し涼しい。朝夕はむしろ清々しい。
 そうは言っても、日中はクーラの中にいる。どんな季節が好きか、といえば、クーラ付きの夏が一番良いような気がする。夕方、「もうそろそろ涼しくなったかな」と、クーラの部屋から出ていって、少しだけ熱が残った空気がそよ風くらいで流れていると素敵だ。

 今日は、「どきどき〜」のゲラを見た。50%まで進捗。禁則の「禁」の文字を100回くらい書いたと思う。秘書氏が作ってくれた禁則の判は使っていない。あれは洒落である。
 お昼頃、スバル氏とジャスコへ行った。昨日はダイエー、今日はジャスコ、犬も歩けば大型スーパ、といった感じか。ぬいぐるみの服を作るために布を買った。200円くらいだった。ボタンも買った。スバル氏は、裁縫がかなり得意で、子供の服なんか一日で作ってしまうくらい、器用なのだ。
 彼女が誕生日なので、「なにか買ってあげようか?」と心にもないことをきいたところ、「このまえバッグ買ったから」という心にもない控えめなコメントだった。

 彼女は、ボウフラのいる池からメダカのためにボウフラを毎日移すのを楽しみにしている。餌のためボウフラを養殖しているみたいだ。このように、身近なものに対する愛情というのか、世話焼きをしたがる。博愛の反対の概念だ。なんというのだろう。局所愛?
 ポンプを動かして、川の水を流すと、池に水が流れ落ちるところにメダカが寄ってくる。つまり、新しい水に餌が含まれているわけだ。ボウフラはめっきり姿を消している。今年は、トンボが多い。これも池のせいかもしれない。

 世間を観察していて、この頃感じるのは、若い人たちが「感謝」に飢えている、ということ。これは、たぶん、核家族化や、あるいは近所、町内、などのつき合いが減少したためだろう。子供のときから、なにかを手伝う機会も少なくなった。だから、人から「ありがとうね」とか、「助かった」と言われる経験があまりない。少しまえの子供は、年寄りや近所の人から、そういう感謝をよくされていた。それくらい手伝いに駆り出されていたからだ。
 しかし、大人になったとき、やはりもっと人から感謝されたい、という意識が働くのだろう。ボランティア活動に興味を持ったり、直接的に人の世話をするような職業に人気が集まったりする。
 たとえば、僕の身近でいうと、建築家。建築物を設計するのが仕事だ。ところが、この頃、建築学科を目指す若者たちは、「リフォームをして、そこの家族を幸せにしてあげたい」というような作文をしてくる。おそらく、TVの影響だとは思うけれど、人から感謝される職業、というイメージが動機の1つになっているみたいだ。
 いずれにしても、これはとても素晴らしいことにはちがいない。社会のために貢献したい、という気持ちは貴重である。ただ、ほんの少し懸念するのは、やはり非常に局所的な、顔が見える範囲、手を握ることができる範囲の「感謝」、ほんの数名の個人的な「感謝」にあまりにも執着していないだろうか、ということ。たとえば、全世界のために、ずっと未来の人類のために、というスケールが失われてはいないか、ということである。

【理科】 植物から学ぶ

 毎日、沢山の植物を庭で観察していると、いろいろな教訓が得られる。
 以前にも一度書いたが、どの植物も、花を咲かせるまでは、非常に元気が良い。早く生長するし、どんどん大きくなる。しかし、花を咲かせたあとは、急に元気がなくなってしまう。「一花咲かせる」という言葉が本当に頷ける。
 蔓を伸ばして、ほかの木などに巻きつく種がある。蔓をどんどん伸ばし、新しい葉をつぎつぎに出す。その生長は極めて早い。しかし、決定的な弱点がある。地面から出ている、根もとの1本が急所だ。ここを虫などにやられると、全部が一気に枯れてしまう。
 薔薇などは、葉っぱをすぐに落とす。一時期、茎や枝だけになるほどまる裸になることもある。それでも、しばらくするとまた葉を出してくる。素早いリストラが、薔薇の生命力なのだろう。
 同じ種類のものが密集すると、自分自身によって環境が悪化する。下の葉に日が当たらなくなったり、密集しすぎて湿ってしまったり。こうなると枯れるしかない。一度ごっそり取り除いてやると、意外にも早く新しい芽を出してくる。
 雑草は一般に引っ張るとすぐに根が抜ける。つまり、地上の勢いの割に根が小さい。だからこそ、生長が早いのだろう。そして、放っておいてもすぐに枯れてしまう。すぐに枯れてしまってみっともない、ということで、古来、雑草と見なされてきたのかもしれない。
 本当に大きくなるものは、最初は生長が遅い。根を張り、地面の下で着実な生長をしているからだろう。


2006年07月26日(水曜日)

【HR】 パスカルプール

 8時起床。庭に水やりをする。今日も晴天。梅雨明けだと個人的には思うが。
 午前中に小説の仕事を片付ける。「どきどき〜」のゲラを30%まで見た。「STAR SALAD」の絵の順番を決めて、文章を書く準備。色つけは9枚まで。
 お昼頃に、スバル氏とダイエーへ。100円ショップで彼女がいろいろ買い込んでいる間、書店をぶらぶら。どうも、スーパに入っている書店というのは、立ち読みはするけれど買うことのないような雑誌ばかり置いている気がする。サービスでやっているのだろうか。
 地下の食料品売り場では、お茶をいろいろ買った。この頃、実はお茶に凝っていて、コーヒーをあまり飲まないようになった。お茶をいろいろ試している。
 そのあと、ふとおもちゃ売り場を通りかかったら、以前にスバル氏が買いたがっていたビニル・プールがあった。これを買って帰宅。

 さっそく、コンプレッサを使って膨らませる。リビングで膨らませたりしたら、外へ出せなくなると思ったが、ここで遊びたいようだ。スバル氏はパスカルと一緒に入りたいらしい。そんなことは1回だけのことのように思える。
 夕方、講談社のK城氏が来宅。「λ(ラムダ)に歯がない」の初校ゲラを取りにきてくれた。フルーツパフェをいただいて、みんなで食べた。「λ」の表紙ラフデザインを3種見せてくれて、これもその場で決定。さらに、この次の作品をGシリーズにするかどうか、メフィストのリニューアルの話、新しい執筆ソフトのこと、新シリーズの構想などなど、2008年の将来の予定まで数々の打ち合わせ。
 K城氏から「ハチクロはどうして終わっちゃったんですか?」と尋ねられたが、「そんなこと知りませんよ」と答えたら、「なにかお聞きになっていませんか?」とさらに詰め寄られたけれど、「いや、もう終わるんですよという話は聞いていましたけれど」くらいしか、答えられなかった。
 夕方も水やりをした。パスカルが水に飛びついて走り回った。プールで本当に遊ぶかもしれない。

 ネットでよく買いものをする。ほとんどは模型関連。欲しいものがあったら、ネットで検索をして、メールで注文をする。すると、たいていはすぐに届く。送料がかかるけれど、店へ足を運ぶことに比べれば安いし、時間も体力もかからない。唯一の欠点は梱包の分、ゴミが増えることくらいだ。
 しかし、それでもまだネット対応していない店もある。ネット上で注文できるようになっていても、結局不備があって、電話をかけなければならない店もけっこうあった。少しずつ、改善されていくとは思うけれど、今、ネット対応していなければ、販売ビジネスとして将来が不安だ。
 逆にいえば、大量の商品を揃えている店にとっては、ネットが大いなる脅威だ(もう、それを通り越しているが)。書店が、好例だろう。書籍は、どこで買っても同じものだし、値段も同じである。店に買いにいけば、歩き回って探さなくてはいけないし、重い荷物を持って帰らなければならない。ネットで注文すれば、翌日か翌々日には届く。2、3冊買えば、送料もかからない。なによりも、品物が必ずある、という点が大きい。
 通販というのは送料がかかって無駄だ、という印象を年輩者は持つようだが、取次ぎがあり、店があり、その店には駐車場もあり、大勢が働き、棚に並べ、売れなかったらまた戻して、それを送り返して、といったことに資金や労力をかけるよりは、欲しい個々へ直接送った方が合理的だと思われる。
 現在、日本で一番大きな書店はアマゾンだろう。僕が非常に不思議に思うのは、このビジネスを、書店や出版社が何故もっと早く、もっと本腰を入れて始められなかったのか、ということである。

【国語】 変ではないがひっかかる

 ホームセンタの店内アナウンスで、「○○でお客様がお待ちです、担当者は入って下さい」という言葉を繰り返し聞いてきた。もしかしたら、「担当者は行って下さい」かもしれない。しかし、これを聞くたびに、僕は、この最後のフレーズ「入って下さい」という部分に違和感を感じていた。言いにくいのだ。アナウンスをしている方も、「ハイって下さい」みたいに発音している。言いにくそうだ。この状況が数年続いていたが、最近、「担当者はお願いします」という言葉に変わった。マニュアルが変更されたのだろう。耳障りではない自然な言葉になった。
 このように、文法的にはおかしくなくても、耳にしたとき、音にしたとき、どことなく引っかかる言い回しがあるものだ。非常に発音しにくいし、聞いた方も変な気がする。ほかの言葉に聞き間違えてしまうことも多いだろう。
 犬を散歩させていると、家の前に、独自のデザインの微笑ましい立て札が出ていることがある。「ここで犬に糞をさせないで下さい」と書いてある。うん、これはもっともな主張である。
 しかし、こちらの言い分も少し聞いてほしい。犬の飼い主の大多数は、「ここでしろ」と犬に命令してさせているわけではないのだ。犬が勝手にすることが多い。稀に、決まった場所で必ずする犬もいるから、そういう場合は対処ができるだろう。しかし、突然する場合は非常に困る。したがって、もしきちんと書くならば、「糞をする可能性のある犬を連れてここを通らないで下さい」くらいではないだろうか。だが、通らない人には、その立て札は読めない、という矛盾もはらんでいる。


2006年07月25日(火曜日)

【HR】 炎天とフェア

 久しぶりに晴れ渡った。これは五月晴れといって良いだろうか。暑いけれど、爽やかだった。
 庭の掃除もできたし、夕方には水やりもした。パスカルも走り回った。でも、日中はクーラの効いたリビングでみんな昼寝をしていた。

 今日は普通の時間に起きた。明るかったせいだろう。ゲートはちゃんと作動している。午前中にまだ涼しい書斎で「どきどきフェノメノン」ノベルス版のゲラを15%まで見た。一度本になっているものは、初校であっても、ほとんど直すところはない。僕は、ノベルスや文庫になったときに、文章を加えたり、削ったりといったことはしない。過去の作品は、できるだけそれを書いたときの自分を尊重したいと考えている。「ああ、このときはこんなふうに表現したのだな。今だったらこう書くのに」と思っても、もちろん、直さない。漢字などの表記について、少々修正する程度である。
 ただ、版が変わると、活字の組み方が変わるわけで、またも、禁則処理に大半のエネルギィを使って、見ることになる。
 「カクレカラクリ」は今日の午前中に早くも3校が届いた。一昨日の夜に2校の修正箇所を電話で知らせたところだから、迅速である。編集部がデジタル化されていると、これができるわけだ。こちらも、早ければまだ覚えているから、確認がそれだけ早くなる。作業場所をリビングへ移して、すぐに修正箇所をチェックした。この結果をメールで知らせて、この本は一応の校了。あとは、カバーデザインくらい。

 お昼頃は、パスカルを留守番させて、スバル氏と書店へ行った。残念ながら、特に欲しい本がなくて、なにも買わず。この時期は、各社が文庫に新しいオビをかけて、いろいろなキャッチをつけて出してくる。書店の入口付近に懐かしい名作の文庫ばかりがずらりと並んでいる。出版社の人によると、ああいうのは「フェア」というらしい。小説の仕事をするまで、そういった「フェア」が開催されていると認識したことは一度もなかった。しかし、フェアのために重版になるものもときどきあって、少しだけありがたいことではある。
 僕自身は、文庫は棚から引き出して買う、というのが普通なので、表紙やオビを見せて並んでいる姿には、今ひとつ魅力を感じない。ところで、ノベルスもそうだが、特に文庫の表紙は、オビを巻くために、絵や文字が極端に上に偏っていて、非常にみっともないデザインになっている。これは、日本の書籍装丁界の汚点だと思っているくらいだ。なにしろ、僕が買う文庫の大半は、オビがない(新刊ではない)状態のものなのだから。
 そもそも、本を新刊で買う人がいる、というのも、小説家になって驚いたことである。「今月出る本」なんてものを書店員以外の人が見て、しかも待っている、なんて正直びっくりした。こんなに沢山本があるのに、どうして、まだ出ていない本にそんなに期待できるのか、というのが素直な感想だった。あの頃の純粋さが懐かしい。

 先日の土曜日だったか、リビングから花火が見えた。この時期は、方々で花火大会があるけれど、それらの幾つかが自宅から見える。近いものもある。若い頃は、花火が大好きで出かけていった方だけれど、今は家の中で涼んで見ている方が良いな、と思ってしまう。

【算数】 定数

 僕の年代はこれを「じょうすう」と読むが、今は「ていすう」と読むのが正しいようだ。
 数学の中で登場する、値の決まった数だ。物理にも、場所や物体などを特定したときに用いられる物理定数があるけれど、これとはまったく違う。数学の定数は、値の変わらない絶対的な数であって、たとえば、どこの惑星にどんな文明があったとしても、この数学の定数は同じものである(書き表し方が異なるだけ)。
 みんなが一番よく知っているのは、円周率π(パイ)だろう。だいたい、3.141592653589793238くらいである。この数は、分数で表すことができないので有理数ではない(超越数である)。
 また、自然対数の底として登場するe(イー)も、知っている人は多いと思う。このeは、オイラーという学者の頭文字をとってつけられたらしい。オイラーって、o(オー)じゃないのか、というとそうではない。だいたい、2.71828くらいだ(πよりも力が籠もっていない?)。ネピア数などとも呼ばれている。ティッシュみたいである。これも、有理数ではない(超越数だ)。
 これくらいである。もうないのか、というと、たとえば、オイラーの定数γ(ガンマ)や、黄金比φ(ファイ)、オメガ定数Ω、などがあるけれど、あまり一般的には知られていない。ほとんどが、小数で表すと、どこまでも数字が続いて、けっして循環しない、つまり、有理数ではない(オイラーの定数は、有理数か無理数かまだ判明していないが)。ただ、計算をすればするだけ、どこまでも求めることは可能であることが多い。今も、どこかのコンピュータが、何億、何兆という桁数まで計算を続けているだろう。


2006年07月24日(月曜日)

【HR】 片づく仕事

 一日曇空。ときどき小雨程度の湿った日。朝、起きたら10時だった。明るくなかったせいもあるけれど、睡眠9時間だ。こんなに寝たのは珍しい。昨夜も、「カクレカラクリ」2校の訂正箇所を、I子氏に電話で伝えたが、1時間以上かかった。このところの急ピッチで片づけたゲラ校正作業に疲れが蓄積していたのかもしれない。
 ということで、今日は仕事をしないつもりでいた。それで、自然に寝てしまったのだろうか。起きたら、スバル氏がパスカルのノミ防止の薬を買いにいきたいというので、パスカルも連れてペットショップへ。それから、食料品をスーパへ。駐車場でパスカルと待っている間に、ついゲラ校正をしてしまった。「どきどきフェノメノン」であるが、まだ5%くらい。これは8月末までに見れば良いもの。

 そうそう、出かけるときに、ゲートの自動開閉装置(油圧ジャッキ式)が作動しないので、手動に切り換えて出かけた。帰ってきて、まずゲート開閉装置のメーカへ電話する。これは、数年まえに、雷で以前の装置が壊れたときに(それまでは外国製の機械だったが)国内のメーカに依頼して、同じ機能が果たせるように設計してもらったもの。当初なかなかうまくいかなくて、1年くらい、ああでもないこうでもない、という小改良を重ね、なんとか確実に動くようになった(ようするに、最初の設計が悪かっただけだが)。その後、2年ほどは不具合もなく動いていた。今回の故障は久しぶり。
 それから、パスカルをシャンプーした。トーマのようにじっとしていないので、スバル氏と二人がかりで洗わなくてはいけない。濡れると小さくなる。これが面白い。
 つづいて、3時間ほど、ガレージであれこれ活動をした。コンベンションのための準備が大半だが、やることが沢山あって、そのうちいくつかをしたのだが、つぎからつぎへと新たな作業を思いつく。思いつくまま、それを片づけるのだが、こういっただらだらとした地道な作業も悪くない。

 「仕事を片づける」という言葉があるけれど、片づくような仕事とそうでない仕事があるように思う。ほとんどの仕事は、だいたいそれなりに片づく。ところが、たとえば研究などは、片づかない。やればやるほど、仕事が増えて、発散する(収束するの反対の意)。ときどき、なんとか論文を書かないといけないので、このときだけは後ろ向きになって、ようするに過去を振り返って片づけるけれど、それ以外のときは前進あるのみだ。次々に増える課題のどれを選ぶのか、ということが最も難しい。
 こうしてみると、片づくものは、ようするに期限があって、他人から評価を受けるような仕事である。そもそも、仕事というものは、他人に評価されて賃金をもらうものだから、それが普通だろう。
 ゲートは夕方に試したら動いた。そのあと、夜8時頃、修理の人が来てくれたのだが、検査をしたものの、どこが悪いのかわからない。また、もう一度来てもらうことになりそうな気がする。

【社会】 保証書

 ホームセンタなどで電化製品を買うと、レジのところで判を押して簡単な保証書をくれる。それで、思い出すのだ、「ああ、保証書というものがあったのだな」と。
 かつては、凄く大事なものだったと思う。これがないと修理をしてもらえない、と脅されているみたいだった。でも今では、別に保証書を見せろなんて言われることも滅多にない(少なくとも僕は経験がない)。だいいち、機械がほとんど壊れなくなったし、もしも壊れたときにも、よほどのことがないかぎり、それをわざわざ持ち込んで直してもらおうとは思わないし、使い方が悪かったのか、と諦めることの方が多いだろう。そんなに高いものではないし、直してもらうとしても、その期間は不自由な生活になるし、それくらいならば、新しい製品を買った方が早い、と考える人も多い。まして、保証期間が過ぎていれば、修理にお金がかかって、しかもけっこう高いのが普通だ。「買った方が安い」という言葉を最初に聞いたのは30年くらいまえだっただろうか。
 メーカの無料保証期間は1年が多い。販売店が有料で5年くらいの保証をするところもあるけれど、その店が5年も存在するのか、という方がはるかに心配である。
 生命保険や年金保険だって、何十年後の将来にその保険会社が存在する確率はかなり低い。順番に潰れて、別の会社が保証額を下げて受け継ぐことになる。それを何度か繰り返して、だんだん保険会社が支払う金額を下げてくるだろう、というのが僕の予測である。
 保証書をしばらく持っていた方が良いものは、今ではパソコンくらい? いや、パソコンもこの頃、とんと壊れなくなったような気がする。


2006年07月23日(日曜日)

【HR】 褒められて嬉しい?

 もう7月も残り少なくなってしまった。小雨模様だが、ほとんどは降りそうで降らない天気だった。朝は、パスカルが起こしたので6時起床。ご飯をやったり、散歩に連れていったり。帰ってきたとき、庭で手と足の先を洗ってやったらびっくりしていた。たしかに、勢いがあるジェット放水だったから、無理もない。
 今日も朝から、小説の仕事をする。まず、「カクレカラクリ」2校を最後まで読んだ。それから、「STAR SALAD」の下描き+ペン入れを4枚。これで終わり。あとは色つけと文章だけになった。これで、もう午後になっていたので、ひと休み。たぶん、昨日と今日で半月分くらいの仕事をしたと思う。どんな困難なことでも、なにかを犠牲にすれば、できるということだ。

 「褒められても貶されても同じである」というようなことを繰り返し書いてきた。この意味がわからない、というメールをときどきいただく。つまり、褒められたら嬉しくないのか? 貶されたら腹立たしくないのか? という素直な疑問だろう。それは、そのとおりだと思う。
 しかし、極端な例だが、こんなのはどうか。「私、あなたの、その不細工な顔が大好き!」というのと、「僕は、君の綺麗な顔を見ると吐き気がする」というのは、どちらが、褒め言葉だろうか? どちらが貶しているのだろうか? もちろん、ここまでわかりやすくはない。それから、もちろん皮肉的な表現が実際には含まれるけれど、今は除外して考えてほしい。
 たとえば、評価しているのが恋人だったら、前者が褒め言葉になるかもしれない。つまり、好きか嫌いかが重要なポイントなのだ。しかし、これがオーディションの審査だったら、後者が褒め言葉に受け取られるかもしれない。誰が言っているか、その人物と自分の関係はどうか、にも依存している。
 また、自分の方が求めるものによっても異なってくるだろう。好かれたいと思っているか、あるいは、自分(それとも自作)をきちんと理解されたいと思っているか、にもよる。なんでも良いから、気に入ってもらえればOKという人と、意図したことが理解されないなら意味がないという人がいるだろう。
 自分がAのつもりで創作をしたとき、「Aなのが大好き」と言われれば嬉しいと思う。「Aなのが気に入らない」と言われるのは、まあしかたがないところか。しかし、「Bなのが大好き」と言われると困惑するし、「Bなのが気に入らない」と言われるとむしろ笑えてくる。これも、単純化した場合の話であって、本当はもっと複雑である。つまり、このようなことを、「褒められても貶されても同じである」と平均化したわけだ。

 いずれにしても、僕の場合の真実は、好かれたいとか、あるいは理解してほしいとか、そういった動機で創作をしているわけではない、ということ。だから、上の例でいえば、別にどれでも僕にとってはほとんど同じになる。
 丁寧に、感想を書いて送ってくれる人がいれば、その誠意に対して感謝をするし、それには、誠意で応えたいと考えている。ただ、これはもうデビューのときから繰り返し書いていることであるが、読者の声が作品に反映することはない。どんな感想をもらっても、それは既に(僕にとっては)過去の作品であるし、またこれから書く作品にも影響はしない。例外は誤植の指摘くらいだと思う。
 そもそも、他人に影響を与えたいとさえ、僕は思っていない。人は、いろいろなものから自分にとって有意義なものを探し、それを見つけ出す。僕の書いたものを読んで、もしなにかを思いついたり、得たりすることがあったとしても、それはまちがいなくその人自身の能力であり、その人が自分で勝ち取ったものである。ただ、図書館を作ったり、街を作ったり、平和な社会を作ったりするのと同じで、ささやかな発見の場(あるいは雰囲気)を作ったにすぎない。

【理科】 宇宙船と潜水艦

 宇宙はほぼ真空だ。真空というのは、空気も水もないので、気圧や水圧がない状態。つまり圧力ゼロである(11/27の【理科】参照)。
 地球の表面では、地球に溜まっている空気の圧力を受ける。これがほぼ1気圧。どういう力かというと、1cm2あたり1kgfだ。だから、たとえば、60cm2ほどもあれば、人間の体重を支えることができるくらいの力。つまり、宇宙船の天井に直径9cmの穴があいて、そこに板を当てて吸いつかせると、板にぶら下がっても外れないくらいだ(比喩がマニアックか)。
 一方、潜水艦の場合は水圧を受ける。水は空気よりもずっと重いので、10mも潜ると1気圧増える。つまり、水深10mで2気圧である。100m潜ると11気圧だ。地上の11倍の圧力がかかっている。だから、水深100mを航行する潜水艦には、10kgf/cm2の圧力がかかっているから、直径3cmの穴があいたら、もう人間の体重を持ち上げる力になる。
 宇宙はどんなに遠くへいっても、ゼロより低い圧力はないが、海底は1万mもあるし、さらに海水は水よりも重い。
 また、球体に、内側から膨張する力が作用したときは、表面の材料は引っ張られる。しかし、外側から圧縮する力が作用した場合は、材料は縮み、座屈が生じて、しわができて、くしゃくしゃになりやすい。つまり、構造的にも外側からの圧力の方が対処が難しい条件となる。耐圧構造にかぎれば、宇宙船よりも潜水艦を造る方がはるかに技術的に困難である。


2006年07月22日(土曜日)

【HR】 仕事急ピッチ

 久しぶりの晴天。昨日より最高気温が+8度という暑くなる予報だったので、今日はリビングに籠もって仕事を片付けることにした。出かけても、どうせ土曜日で混雑しているだろう。しかし、それほど暑くはならなかった。スバル氏が東京へ遊びにいくので、駅までは送っていった。
 「STAR SALAD」の絵を8枚下描きして、すぐにペン入れをした。これで、あと4枚だ。なんとか今月中に下描きを終える、というノルマは達成できそう。8月前半は色つけに集中しているだろう。文章の方も、そろそろ考えようと思っているが、それはたぶん没頭すれば1時間くらいの仕事量であって、絵を描くことの1/100以下の労力である。今日は絵の仕事に3時間ほどかかった。
 「カクレカラクリ」の2校も3時間くらいかけて見た。65%まで。かなりまだ直している。2校でもこれだけ直す、ということは、おそらく執筆から初校チェックまでの期間が短かったためだろう。客観度が不足していた、ということだと思われる。校閲が見逃しているミスや不統一もまだある。

 スバル氏がいないので、パスカルを夕方の散歩に連れていった。夕方は涼しい風が吹いていて、なかなか爽やかだった。パスカルは暑いらしく、いつもの半分で引き返す。そのかわり、帰ってきて庭に入ったとたんに元気良く走りだし、水道のところへ行く。水を出せ、と要求しているようだ。つまり、水遊びがしたいのである。しかたがないので、ホースで水を撒いてやると、その中を走り回っていた。
 そんな濡れたままの状態で家の中に入ってくる。壁に躰を擦りつけて歩いたので、「そんなところで拭くな」とイエローカード。それから、ご飯をやる。パスカルのご飯を作るのがわりと面倒で、いろいろ混ぜたりしなければならない。3分くらいはかかる。
 池のメダカは元気だ。3つの池にはたしかにボウフラがいなくなった。もう1つ、水が湧き出る井戸のようなところがあって、そこにはボウフラがいる。だから、スバル氏がそこの水をほかの池に柄杓で移しているようだ。「さあ、ご飯だよ」とか言っていた。僕が、「メダカをすくって、そちらへ移したら良いのでは?」と提案したところ、「それもそうだね」と言っていたが。どちらにしても、メダカもボウフラも、柄杓ですくうのは、そんなに簡単ではない。

 お中元で届いたものを、森家では消費できないことがある。たとえば、アルコール類だったり、それとも、まあ例のあれみたいな、嫌いなものであったりである。そういうときは、そのすぐあとに来たお客さんにそっくりあげることにしている。そういうお客さんがしばらくないときは、宅配便の人にあげたらどうだろう、とふと思った。いらないものをもらってくれるサービス、というわけではなく、仕事場へ持ち帰って、みんなで美味しく食べてもらえれば、と思うのだが……(まだ試していない)。1日に、宅配は3、4回は来る。各社が来る。ほとんど顔見知りになってしまうのだ。嬉しい悲鳴の反対は何だろう? 辛い笑顔?

【国語】 ルビ

 「指輪」という漢字があったら、その横に小さく平仮名でその読み方を「ゆびわ」と示してある。そういうのが「ルビの指輪」だという駄洒落がいいたいのではない。しかし、意外にも語源は同じ宝石のrubyから来ている。
 ふりがなは、ワープロ(特にエディタ)では入れにくい。htmlにも導入されたものの、インターネットのホームページではルビはほとんど見かけない。
 書籍の場合でも、ルビが長くて、漢字の前後にスペースがあいてしまったり、熟語が途中で改行されたとき、ルビをどこで改行するのか、当て字などでは難しい選択を迫られたり、という場合がある。
 小説を書くまで知らなかったことだが、ルビは作者が好き勝手にふるものである。どう読ませようと勝手だし、どこにルビを、何度ふろうが自由である。しかし、読者が読みやすいように考えて、ルビをふるのが普通だ。読みやすくしたいのならば、すべての漢字にふれば良さそうなものだが、ルビが沢山あると鬱陶しい、と思う人が本読みには多いと聞く(僕自身はそうは思わない)。だから、最初にその漢字が現れたときにルビをふるとか、章の最初でふるとか、あるいは、ほとぼりが冷めた頃に再度ふるとか、いろいろなやり方がある。
 これも、小説を書くまで気づかなかったことだが、ルビには、小さい「っ」や「ゅ」がない。ルビは全部同じ大きさの平仮名あるいは片仮名なのである。だから、「ブッダ」というルビは、「ブツダ」になる。「さっき」は「さつき」になる。たとえば、堀田さんは、ほったさんか、ほつたさんかわからない。熱田区は、あったくか、あつたくかわからない。


2006年07月21日(金曜日)

【HR】 胴輪とMac

 激しいゲラ攻勢に対処するため、朝からゲラを見る。今日もずっと小雨模様。
 まず、「もえない」の連載のゲラを見て、角川へ宅配便で送り返す。それから、「カクレカラクリ」の2校のゲラを25%まで見た。今日から4日間で見る予定。かなり強行スケジュール。書き下ろしなので、2校もきちんと見る必要があるため。今日は、絵本の仕事はお休み。
 ゲラの合間に、ときどきガレージで、吹きつけをしたり、接着剤を流し込んだりして、すぐにまた仕事に戻る。充分に乾燥させられるので、結果はかえって良い。
 午後には、雨は止んだ。スバル氏とパスカルを乗せて、本屋へ行く。鉄道模型の月刊誌を3冊購入。3冊買うと4000円くらいになる。パソコンの月刊誌も2冊買った。こちらは安い。

 パスカルは、大変膨らんでいる。夏毛に生え替わったし、ブラシで毎日大量に毛が抜けるのに、しかし、本体の毛はまったく減った様子もなく、むしろ増えている。バブルのようだ。散歩用の胴輪は、まえに使っていたものは、何度か「縄抜け」に遭った。パスカルがバックして、片手を少し上げると、するりと抜けてしまうのである。でも、胴輪は今以上には短くできない。胴輪を付けられるときは、息を吸って太っていると見せかけ、いざというときは息を吐いて縄抜けをするのかもしれない。履歴書の特技の欄に「縄抜け」と書けるのではないか。
 そういうわけで、別のタイプの胴輪を買ってきて、それを今は使っている。その後、縄抜けはしなくなった。しかし、そんなに活発に散歩にいきたがらない。庭で走り回っている方がずっと好きみたいだ。庭を走るときの方が明らかに運動量が多いので、それでも良いのだが。
 今日はまた、カラスが来て、ゴミの袋に穴を開けられてしまったらしい。ずっとこの近辺にいるわけではなく、方々を渡り歩いているようだ。

 夕方は、買ってきた雑誌をのんびりと読んだ。もう1年以上も新しいMacを買っていないから、そろそろ買おうか、と考えているが、どうもインテルじゃあねぇ、という気も少し。長女M氏はG5を使っていて、スバル氏もそれに替えたいようだ。やっぱり、グラフィックスを扱うマシンとしてはG5が最強なのだろう、と思える。僕自身は、既にパワーを必要としていないので、なんでも良い。黒いノートなんか久しぶりに欲しい気もする。5年くらいまえまでは全部黒かったのに、気がついたら、今使っているのは全部銀色だからだ。しかし、自分用にPower Bookが4台もあるので、新しいのを買っても、たぶん、外出用にしか使わないだろう。
 小説を書いているソフト、クラリスワークスも、もうすっかり古典的な部類になってしまっているから、新しいものに替えたいのだが、次々と仕事があるため、切り換えている暇がない、というのが実情。ただ、使い勝手に不満は全然ない。メールはユードラで、これも今のところ不満はまったくない。あと、エディタはかなり古いJeditを今でも使っている。これも、機能的に不足はない。新しいソフトもいらないし、新しい機能もいらない。ただ、安定していれば良い。
 文句があるのはブラウザくらいだ。どのブラウザも不安定すぎる。何度も書いているが、バージョンを上げないと安定しないようなソフトはクズだと僕は考えている(というか、同じバーションでバグくらい直してほしい)。それから、高いバージョンでないと見られないサイトは、低いバージョンでも見られるサイトよりも、ランクが下だと思っている。

【算数】 碁盤目の街

 道路が碁盤目のように南北と東西に直行するように造られている街(京都や名古屋など)がある。たとえば、縦の道が3本、横の道が3本であれば、漢字の「田」のような形になる。この場合、左上の点から、対角に当たる右下の点へ行くには、何とおりの道筋があるだろうか。もちろん、同じ道を何度も通ったり、距離が長くなるような道の選び方はしてはいけない。
 答は、「横横縦縦」「横縦横縦」「横縦縦横」「縦横横縦」「縦横縦横」「縦縦横横」の6とおりである。つまり、選ぶ道は4本で、その4つのうちのどこに、2つの横を入れるか、で決まる。横が入ればあとは縦だからだ。ということは、4つのうちから2つを選ぶことになるから、組合せの42=4×3/(2×1)=6で求められる。もし、将棋盤のように縦横9マスであれば、選ぶ道は18本になるから、189=18×17×16×15×14×13×12×11×10/(9×8×7×6×5×4×3×2×1)=48620とおりである。
 ところで、タクシーに乗ったとき、このような街では、東西南北へ走る場合は安いが、北東や南西といった、斜め方向に目的地があるときには、直線距離は同じなのに、約1.4倍も遠回りをすることになって、料金も高くなる。だから、円形に都市が発展すると、斜め方向の地域が都心へのアクセスで不便になるので、東西南北にそれぞれ角がある斜めの正方形(対角線が垂直・水平になった状態)の範囲に街が発展するとちょうど距離的には良いだろうか(そんな単純なものではないが)。
 ヨーロッパに多いのが、碁盤目ではなく、中心から放射状に(蜘蛛の巣のように)道路を引いた街。この場合は、中心からはどこへもアクセスが近くなるが、道路によって方角が違うことや、土地が長方形にならない、などの欠点がある。


2006年07月20日(木曜日)

【HR】 仕事をしている場合

 一日中ほぼ雨だった。ようやくここ数日、梅雨らしい感じ。気温が低くて、エアコンがいらない。
 今日は沢山のことをした。この頃、一日にできることが少なくなったな、と感じることがときどきあるけれど、今日みたいな日には、そうでもないか、と思い直す。
 朝から一人で出かけて、研究打合せ。3時間後に戻る。ゲラがつぎつぎと押しているので、「λ」を一気に最後まで見た。これに2時間半くらい。次に、「STAR SALAD」の絵を6枚描いて、すべてペン入れをした。これでペン入れ済みは14枚になった。あと12枚。色つけは8枚のまま。これに2時間くらいかかった。小説の仕事を4時間半ぶっつづけですることは珍しい。

 それから、今度は、スバル氏とパスカルを乗せて出かける。知り合いを訪ねて、そこで1時間ほど。次に、ホームセンタへ寄って、買いもの。また、材料を幾つか購入。スバル氏は食料品も。それから、もう1つ用事があって、帰宅したのは6時頃。まあまあの仕事量である。ただし、工作は風呂上がりに30分くらいしかできず。
 明日から「カクレカラクリ」の2校を見る予定だが、「もえない」のゲラが今夜届いたので、こちらをさきに片づけるかも。

 若いときには、集中して仕事ができた。48時間くらいなら、寝ることも食べることも忘れて1つのことをしていられた。そういった集中力は、若者に特有のものだろう。それが、20代になるともうかなり衰える。その後も回復することはない。人間という動物は、10代後半で子孫を生み、その後20代前半で幼児を育て、それで役目は終わり、というデザインにメカニズム的にはだいたいなっている。だから、その後の人生はすべて余命であって、衰える一方、壊れていく一方で、騙し騙し過ごしていくしかない。
 こうしたことを認識することが大事で、それをきちんと自覚すれば、対処ができるだろう。これは、気持ちの問題でどうこうなるものではなく、手法で解決するしかない、と僕は考えている。
 多少話の方向は変わるけれど、人間の能力もまた、10代がピークで、あとは下降する。性格もそうだ。その頃が一番優しいし、また素直だ。そんな若者から見ると、年寄りは、知恵もあり、人間もできた、穏やかな性格の完成された人格に見えるかもしれないが、歳をとることで、性格が良くなったり、能力が高くなることは、事実上まずない。あっても、それは見せかけのものだ。カバーをする手法、テクニックを身につけただけのことである。
 たとえば、「不惑」という言葉が論語にある。「四十而不惑」と。しかし、ものごとに惑うのは、それだけ視点が速く、その結果多く、考えも素早く、したがって広く、しかも素直であり、先入観がない状態だからこそ迷うのだ。いうなれば、惑うことがすなわち自由である。惑わないのは、もう自分の程度を決めてしまい、諦めてしまい、人生をある程度見切ったからではないだろうか。そんな姿が、なんとなくどっしりとして落ち着いて見えるから、若者から見て、安定した形に映るだけのことだ。
 知識や経験が豊かであることも、そんなに大したものではない。知識に関していえば、教育を受けたばかりの子供の方が質が高いとさえいえる。大人の知識などは、身の回りの手続きに関するどうでも良いような卑近なものばかりだ。経験なんて、その人間個人の視点・条件によるものであって、他人に役立つようなものは極めて少ない。
 だからといって、大人や年寄りを馬鹿にしても良い、という話ではもちろんない。ただ、そんな立派な人間など滅多にいないのだ、ということ。だから、若者は安心して、自由に生きていけば良い、と思う。

【図工】 実現不可能な設計図

 親父が建築の設計図を描くところを小さい頃から見ていたので、ものを作るまえに図面を引く、ということは知っていた。だから、小学校1年生か2年生になった頃には、設計図をきちんと描いたこともある。たしか、4年生のときには、もうラジコン飛行機の設計図を実物大で描いていた。もちろん、それを実現するだけの資金力がなかったけれど。
 ところが、そうやって設計図を描いて、熟考してから作ってみても、工作の段階で不具合に必ずぶつかる。つまり、図面のとおりでは作れないことに気づくのだ。何が悪いのかといえば、それは、図面を描いた時点における想像力の欠如である。多くは、立体になった場合に生じる矛盾(2方向から来るネジがぶつかるとか)、あるいは、事実上加工ができない(指が入らなくなるとか)、といった問題だ。
 しかし、最も多いのは、設計図どおりに作ることができても、期待どおりの機能をはたさない、という問題である。これも想像力の欠如といえるので、原因は同じである。重すぎて、あるいは摩擦が多すぎて、モータが回らないとか、強度が弱すぎてぐらぐらするとか、さらには、工作精度が出せないために、それが積もり積もって致命的な欠陥が生じる、ということもある。自分で描いた設計図をもとに、自分自身で工作をしているのに、こうなるのだ。他人が図面だけを見て作ったら、絶望的だろう。
 世に存在する設計図のどれくらいが、手直しなしで実際にそのとおりのものが作れて、しかも期待どおり機能するだろうか。簡単な部品ならば大丈夫だろうが、ちょっと複雑なものになると、もうほとんどありえないくらい奇跡的だと思われる。それでも、設計図がないよりは数段まし、ということは確かなのだが。


2006年07月19日(水曜日)

【HR】 遊んでいる場合

 朝方雨が残ったが、午後は晴れた。午前中に研究関係の打合せで外出。昼頃戻った。
 3日ほど工作室で小さな蒸気機関車を作っていたが、これが昨夜完成。しかし、ずっと雨のため外で走らせられなかった。小さいけれど、火を使うライブスチームなので、屋内では危険で運転できない。久しぶりに晴れたので、さっそく庭に出て準備をした。

 そのまえに、イギリスから輸入した黄色の機関車を走らせる。滑らかな走りっぷりで、素晴らしかった。客車を引かせたり、ビデオや写真を撮ったりした。この頃、弁天ヶ丘線(庭園鉄道のうち、127mmゲージの人が乗車できる大きなものの方)は、もうガレージの収容能力の限界まで車両が増えてしまったので、機関車をさらにどんどん増強することができない。だから、こちらの小さい方(ゲージは45mmか32mmで、20分の1くらいのスケール)で、機関車を増やしている。蒸気機関車は既に20台以上あると思う。いくらくらいするのですか、とよく尋ねられるが、僕は大型の機関車に興味がなくて、小型の短いものばかりなので、それほどでもない。このスケールで大型になると1台100万円くらいは軽くする。今のところ、僕は50万円以上のものは持っていないし、ほとんどは中古で入手したものである。写真の黄色の機関車は新車で30万円ちょっと、くらいか。

 もう1台のパーカが運転している方が、先週から作っていた即席の機関車。エンジンとボイラは船用の既製品を使っているし、シャーシと車輪は貨車を改造している。しかし、あとは金属を切って自作した。手っ取り早い工作だが、とにかく走らせると無条件に楽しい。もっともっと機関車を作りたい。死ぬまでにあと50台くらいは作りたい。もう何年かしたら、小説の仕事を一切やめて、機関車作りに専念したい、と考えている。

 2時間ほど遊んでいたが、ゲラを読まなければならないので引き上げた。「λ」のゲラは60%まで。「日経パソコン」の2校を見た。「ナンプレファン」のゲラも見た。これらの雑誌は、僕の小説の初版部数よりは多い。数的にはメジャな部類だろう。それでも、模型やプラモデル雑誌の方がさらに多い。
 「STAR SALAD」は、色つけが8枚まで進んだ。1/3弱の進捗状況。前作「STAR EGG」に比べると、もう少しわかりやすい、というか子供向けになるかもしれない(そんなことはないかもしれない)。今回は印税はゼロにはしないつもり。無条件に広くすすめられる本ではないからだ。したがって、値段がぐんと上がるはず(前作では、印税10%を0%にした結果、価格が60%くらいにダウンした)。「STAR EGG」を1000冊贈呈するために購入した費用くらいは取り戻せるかもしれない。これが、今年出る本としては、執筆は最後の仕事になる。このあとは、もう来年発行の本だ(MLAを除いてだが)。
 コンベンションまであと3週間となった。この間に、執筆では、1)「STAR SALAD」の絵と文、2)来年の長編を少しだけ、3)「ジャーロ」の連載を3万文字くらい、4)「日経パソコン」の4回分、5)朝日新聞への寄稿、などを片づけなければならない。一方、ゲラでは、「λ」初校および2校、「カクレカラクリ」2校、「どきどきフェノメノン」ノベルス版初校、「MORI LOG ACADEMY 3」初校、連載の「もえない」などを見ることになるだろう。手一杯を少々越えている気がする。

【社会】 地図記号

 地図記号というと、工場とか学校を表す記号が、クイズなどでよく出題されているが、これは、建物の用途を示す記号であって、そもそも、そのまえに建物を表す記号がある。
 僕が子供のときに抱いた大きな疑問は、道路と川をどうやって区別するのか、という点についてだった。カラーの地図であれば、道路は茶色に、川は水色に着色されていることが多いが、白黒のときはどうするのか?
 沢山あるのが道路だし、真っ直ぐだし、十字路もある。川は川らしくうねっているし、太さも変わるし、それから、橋もあるから、そこで、どちらが上なのかがわかる。
 しかしもちろん、だからといって、「わかるだろう、そんなこと」で良いのだろうか、と思ったわけだ。たとえば、道路みたいに直線の用水もあるだろう。道路よりも高いところを流れている場合もある。ベニスみたいに街中に道路のように沢山水路がある場合もある。常に必ずそれらを区別できるだろうか。うーん、心配だ。
 もともとは立体である。それをもの凄く小さく縮小して、しかも平面に示すのだから、無理があるのは当然である。
 ところで、鉄道の記号は、白黒の縞模様だとみんな思っているけれど、あれはJRだけで、私鉄は違う記号だ。また、JRでも単線の場合だけで、複線になると、黒いところは2つ飛びになる。私鉄の記号も複線は形が違う。
 小学校と中学校は同じ記号だが、高校、大学、短大などは、それぞれ別である。工場の中心に点を打つと灯台になるのも解せない。史跡のマークは数学の「ゆえに」と同じだし。


2006年07月18日(火曜日)

【HR】 ハンズ&怒り方

 朝、スバル氏がゴーヤとバナナのジュースを作ったので僕は飲んだ。長女M氏は飲まなかった。
 今日も雨。長女M氏とパスカルが留守番で、スバル氏とショッピングへミニで出かける。このまえ、服を買ったのはいつだっただろうか。たしか、毛皮のジャンパだったから、もう冬のことだ。半年は経っている。そういうわけで、今日はアロハ1枚とTシャツ3枚を買った。合計5万円くらい。それから、スバル氏と別れて、ハンズへ行く。こちらはそんなに久しぶりではない。
 しかし、歯車を幾つか欲しかったので、いろいろ使えそうなパーツをカゴに入れているうちに、沢山になってしまった。いつか使うことがあるだろうから、どうせ買うならまとめて買っておこう、同じものが2つ必要なケースが多いから偶数個にしよう、などと思っているうちに、300円くらいのパーツが合計2万円ほどになった。それでも在庫がないパーツがあったから、それは取り寄せてもらって、あとで郵送してもらうことにした。ハンズは高いけれど、工具類はなかなか良いものが置いてある。今日は、懐の深い糸鋸と細いヤスリを購入。
 電話でスバル氏とまた合流して、彼女が欲しいというバッグを見にいく。店員さんが、また同じ人が来た、という笑顔で出迎えてくれた。ついこのまえ15万円くらいのバッグを買ったばかりのスバル氏だが、今日もまた、それよりも高いバッグを購入された。まあしかし、僕が見ても、なかなか良いデザインだったので、買った方が良いとすすめた。

 他人がすることに腹を立てる人がいる。迷惑を受けたり、あるいは単に嫌な思いをしたり、ということで、頭に来るわけである。そういう場合に、もの凄く不機嫌な顔をしたり、舌打ちしたり、ものを言わなくなったり、という態度に表すものの、直接には文句を言葉にしない人がいて、そういう人は、自分では「我慢している」と自覚しているのである。文句は言っていないつもりなのだ。
 一方、他人がすることが気に入らないときに、「これこれこういうわけなので、やめてもらえませんか」と言葉にして伝える人がいる。相手によっては、「文句を言われた」と思われるかもしれないし、「怒られた」と思うかもしれない。しかし、本人は意見、あるいは注意をしただけで、まあ文句ではあるかもしれないけれど、しかし怒っているつもりはない。
 僕はどちらかというと、後者の意見を伝える方である。怒るまえに、クレームを発した方がはるかにジェントルだと考えている。
 もし、我慢をするつもりならば、顔にさえ出してはいけない、というのが僕の考えである。態度にも出してはいけない。それが我慢をするという意味だと思っている。歯軋りをして、顔を真っ赤にしているのは、もう怒っている状態であり、これは穏やかにクレームを言う行為よりもずっと野蛮な気がするのだ。
 つまり、1)不快なことがあったとき、まったく笑顔のまま表に出さないのが、我慢をしている人。2)クレームを言う人と、怒った顔をする人。3)いきなり怒鳴り散らして、殴りかかってくる人。の3レベルだと思う。この2)のレベルの人が多いわけで、しかも、お互いの認識に大きなギャップがある。
 怒った顔をするのは、威嚇であり、近くの海へミサイルを撃つようなものだ。クレームを言うのは、国連に訴えるようなものだろう。同じレベルだが、お互いに、自分は我慢をしているつもりだし、相手は我慢をしていない、と認識している。それだけの話。

 「少し変わった子あります」の2校の修正を電話で伝え、この本は校了。現在は、「λ」のゲラに集中していて、30%まで見た。「STAR SALAD」は色つけも6枚まで進んでいる。明日にも「カクレカラクリ」の2校が来る。これも優先順位が高い。大変大変。
 小学館の「ラピタ」の連載は、2年まえに熱心に依頼されて引き受けた仕事だったが、既に当の担当編集者も替わり、また編集長も替わるらしい。これを機に、今月書いた分で連載を終了することにした。2年4カ月連載を続けてきたが、最近忙しすぎるので、1つでも減って助かった、というのが正直な気持ちである。
 「ラピタ」といえば、少年っぽい遊びに夢中な大人の雑誌であり、この手のものでは草分けであったが、「ラピタ」から「Lapita」になり、トレードマークだった表紙の日暮氏のイラストも消えた。今では、50代以上のエグゼクティブ向けの雑誌に様変わりしている(「40歳以下の読者を想定しておりません」と明記されているが)。内容的には、スペシャルからジェネラルへと、広告を取るためにやむをえない進路変更だったのだろう。メジャな雑誌だとばかり思っていたけれど、先日きいたところ、発行部数は、僕の講談社ノベルスの半分以下らしい。超マイナ作家・森博嗣の読者よりも「ラピタ」の読者がずっと少ないなんて、誰が想像しているだろう。おそらく、自動車の有名雑誌なんかも同様ではないだろうか。一方では、日曜大工の「ドゥーパ!」や「鉄道模型趣味」なんか、確実にひと桁部数が多い。ようするに、数では、ジェネラルなものが今やマイナで、スペシャルなものがメジャになってしまったのだ。

【理科】 ボルトのデータ

 4/14にボルトのことを書いた。ネジとも、ボルトともいう。ネジの方が小さいもの、ボルトは大きいもの、というイメージもある。
 螺旋状に溝が彫ってあり、円柱状の部分がギザギザになっている。一般に、頭の部分があって、この頭の形が各種ある。ドライバを使う場合は、プラスやマイナスの谷が頭の上に彫ってある。また、六角形の穴があいているものもある。そういったものがなく、頭自体が六角柱の形をしているものもある(これをボルトと呼ぶことが多い)。
 ネジには、まず径(直径)の規格がある。頭の大きさではなく、穴に入る部分の太さで、この径が必要な穴の大きさになる。日本の規格はミリであるが、アメリカやイギリスなどは、インチが使われているので、日本のものとはまったく互換性がない。ドライバは共通して使えるけれど、六角形のものや、六角形の穴があいているものは、インチ規格の道具(レンチ等)が必要になる。外車や外国製のパソコンを修理したり、改造したりしたい場合は、切実な問題となる。
 径が同じでも、ピッチが違うものがある。ピッチとは、螺旋のギザギザの細かさのことで、1回転でどれだけ進入するか、というもの。同じ径でもピッチが違えばまったく使えない。
 ネジを受ける側の穴は、どうなっているのか。穴の中にやはり螺旋のギザギザが彫られている。穴にそういったものがないときは、ネジを貫通させ、反対側でナットというもので受ける。ナットはほとんど六角形である。
 ネジを買いにいくときには、太さ、長さ、ピッチ、頭の種類、材質、などがデータとなる。


2006年07月17日(月曜日)

【HR】 大雨の思い出

 昨夜「λ」のゲラが届いたが、眠かったので夜は仕事をせず。今日は、雨模様。パスカルは、雷に吠えているが、吠えたあと、誰かのそばに寄ってくる。部屋に自分だけのときは吠えないことも判明した。やっぱり恐いのだろう。
 雨なので、なんとなく、ぼんやりと優雅な時間を過ごした。しかし、仕事はした。「λ」のゲラは初校だが20%まで見た。「STAR SALAD」は4枚をペン入れまで。あと18枚。フォトショップの色つけも3枚くらい手をつけた。「ラピタ」のゲラも見た。

 昨日はいっとき集中的に雨が降った。ガレージの北側には、母屋の屋根と繋がっている部分があって、ここには大きな(幅が40cmほどもある)雨樋がある。これが、母屋の屋根からの雨水を受け止める。水を地面へ誘導する縦のパイプが当初1本の設計だったが、枯葉などがつまったときに、雨樋の雨がオーバフローする。その一部が、ガレージの中に落ちてくることがあった。それで今は、もう1本パイプを増やして対処しているが、それでも落ち葉が詰まることがある。
 もともとこの近辺は森林のため、1年を通して落ち葉が非常に多く、雨樋はほとんど用をなさない。1カ月に1度は樋の中の落ち葉を取り除かないとすぐに詰まってしまう。その理由から、母屋にはもともと雨樋がないのである。
 しかし、ガレージの中へオーバフローした水が落ちてくる場所は決まっているので、その下で水を受けていれば問題はない。昨日は1リットルくらい水が溜まっていた。昔から、屋根には谷を作るな、とよく言われているが、そのとおりである。

 数年まえに、名古屋でもの凄い集中豪雨があった。僕の人生の中でも、最高に激しい雨だった。各所で被害があって、1週間も水が引かなかった街もある。あのとき、大学から自宅まで、ビートで雨の中を走って帰ったのだが、本当に奇跡的に無事だった。つぎつぎに車が交差点で止まってしまう。止まったら最後、もう動き出せない深さまで道路に水があった。ほとんどどこも浸水しているから、どこが深いのかわからない状態だったのだ。

 ある大学の話だが、2年まえに地下鉄の駅ができた。この駅と、工学部の新館を地下で繋げるようにデザインがされていたが、大雨が降ったとき、その新館の出入口から、駅構内へ水が流れ込んだ場合には、大学は市へ損害賠償をしなければならない。現に、まえの集中豪雨のときに、JRと地下鉄の連絡通路から水が入って、JRが市へ賠償金を1億円近く払ったらしい。
 もちろん、最新の技術で、雨に対する対策は設計に盛り込まれていた。工学部の専門家がシミュレーションをしたところ、1000年に1度の大雨が降らないかぎり大丈夫だ、そんな大雨が降ったら、山の麓に当たる隣の駅近辺は大洪水になっているだろう、との予測もあった。この問題は、大学内で投票になって、結局、その入口を作らないことに変更された。だから、大学の新しい入口としてデザインされていた新館の地下のピロティは馬鹿みたいなデッド・スペースになってしまったのである。技術を信じられない人が、大学にも多い、ということがわかった。
 よく「予想を上回る自然の猛威」というけれど、それは、設計で想定した値以上のもの、というだけのことだ。どこまで設計に見込むのか、という問題であって、想定以上のものが来れば、当然被害が出る。ただ、1000年に1度の確率のものが、1年後に来るかもしれない、ということも事実。気象については過去せいぜい100年から200年くらいのデータを基にしているのだろう。また、温暖化に代表されるように、地球の気候は将来にわたってずっと同じである保証はない。しかしそれでも、可能なかぎりのデータで予測をし、対策を立てておく、というのが技術であり、人間が信じることができるものはほかにない。「安全」とは、元来そうやって築くものである。

【国語】 手を打つと手を切る

 「手を打つ」は、なんらかの手段を講じることか、あるいは、話し合いで決着すること、の意味で使われるが、この頃、「美味しい、と手を打った」や、「あまりの面白さに、手を打った」などの文章を見かける。もちろん、美味しいときや、面白いときに、手を打つ人はいると思うから、間違いではないけれど、しかし、慣用的な使用法からは外れている。
 慣用的には、美味しいときは「舌を打ち」、面白いときは「腹を抱える」ことになっているが、でも、小説ファン以外の人にとっては、あまりに古典的過ぎて、こんな言い回しを使うのにはかなり抵抗があるのも事実だ。自分の日記で、「腹を抱えて笑った」などとなかなか書けるものではない。相当な勇気がいる。
 一方、「手を切る」という慣用句がある。これは、「手を引く」と似ているが、人間関係の縁を切る、というときに用いられる。ところが、なかには、「足を切る」「足を引く」と間違えて書く人がいる。おそらく、「足を洗う」か「足を引っ張る」と混ざってしまっているのだろう。反対に、「手を洗う」なども、つい使ってしまいそうだ。「手を洗って、出直してこい」なんて言われたら、ご馳走の用意でもありそうで、歓迎されていると勘違いされるかもしれない。この場合、洗うのは顔である。難しい。
 しかし、実際にナイフで手を切ったときもあるわけで、手を打つ、手を合わせる、手を掻くなども、そういう動作を癖でするキャラクタの場合は、独自の意味で使っても良いだろう。そこから、新しい慣用句が生まれるかもしれない。たとえば、「手を皿のようにして欲しがる」なんかわりと有望だ。


2006年07月16日(日曜日)

【HR】 ごろごろ&ブログ

 朝は晴れていた。パスカルは水遊びをしたようだ。
 そのパスカルのためにプールを買いにアピタまで出かけた。スバル氏が目星をつけた商品があるという。それは展示されていて、値段表もあったけれど、売り切れで品物がなかった。現品は傷があるので駄目だという。実際に売れないものを、展示しているのはいかがかと思われるが。スバル氏はがっかり。
 彼女が食料品を買っている間、ぶらぶらとショッピングセンタを散策。日曜日なので、けっこうな人出。手芸品のコーナで、小さなベルが3つで100円だったので、これを買った。プラモデルのコーナで吹き付け塗料(サーフェイサ)を3缶買った。それだけ。
 帰宅してから、ガレージで工作をしていたら、雷が鳴った。一度は近くへ落ちたみたいで、轟音とともに地震みたいに揺れた。山の上なので、雷は本当に近い。パスカルがわんわんと吠え続けている。トーマは、雷が鳴るとどこかに隠れてがたがた震えていたが、パスカルは怒っている。許せないらしい。「怪しい音がします!」と吠えているのかも。犬によって、解釈が違うようである。
 手芸品店で買ったベルは、一昨日から作っている小さな機関車に取り付けた。ちょうど良い大きさだった。こういった偶然というか、一期一会というか(いわない)、パーツやガラクタとの出逢いみたいなものを大切にしている。ときどき、信じられないくらいぴったりのものに巡り会うことがあって、そんなときの嬉しさといったらない。今日のベルは、それほどでもないが。

 そういえば、幻冬舎から出ている古い日記のうちの「毎日は笑わない工学博士たち」文庫版が重版になった。このMLAを始めたせいだろうか。この本は、ちょうど10年まえに書いた日記を本にしたものだ。そんなに古いものを印刷してもらえるのは、とても嬉しい。もちろん、自分では、あらゆる著作の中で、日記が最も時間がかかっているし、盛り込まれた発想も多いと考えている。
 インターネットの日記のことを「ブログ」と世間では呼称しているようだ。ブログを使っていない日記もあるし、ブログが登場する以前にもネット上に日記は沢山あった。僕の古い日記もブログではなく、自分でhtml書式でエディタで書いてftpでアップしていた。今でも、僕のホームページはすべてそうである(ただし、近況と機関車製作部以外は、現在はほとんど秘書氏が作っている)。
 ブログというのは、ブラウザを使って、サーバ上へデータを送り、それでホームページが簡単に作れてしまうシステムのことだ。手軽ではあるけれど、反面画一的である。また、歴史が浅いので、このさき、10年、20年と経ったときに、システムがどうなっているのか、興味津々だ。たぶん、そんなさきのことまではしっかり考えずにシステムが設計されているのではないだろうか。もう既に、方々でサーバが遅くて使えなくなったり、データが消えたり、というトラブルが起こっているようだ。そういったときに、損害賠償が請求できないような契約になっているのが普通なので、防御は各自しておいた方が良いだろう。もちろん、このMLAも例外ではない。トラブルでデータが消えたときは、たぶん、全面復旧することは不可能(そのために本を作っているが)。雷が鳴ると、いつもデータやサーバのセキュリティを連想してしまう。

 朝見たときには、池に睡蓮の花が形良く咲いていたのだが、雨のあと写真を撮りにいったら、もう萎んでいた。ガレージの天窓4つは、雨が降ると自動的に閉まるが、花もこれと同じ機能を持っているようだ。

【算数】 コインの賭け

 2枚のコインがある。1枚は普通のコイン。もう1枚は偽物で、両面とも表になっているものだ。今、目を瞑って、この2枚のうちの一方を投げたとする。落ちたコインを見ると、表である。
 「本ものか、偽物か、2つに1つ。確率は1/2だ。もし本ものならば、表の反対は裏。もし偽物ならば、ひっくり返しても表だ。さて、このコインの裏側がどちらか、賭けようじゃないか」と誘われる。あなたはどちらに賭ける?
 これは、有名な確率の問題で、答は、反対側が表(つまり偽物のコイン)になる方に賭けた方が圧倒的に有利。確率は2/3である。
 表が出た時点で、そのコインが偽物である確率が2倍高い、ということに気づけば、不思議ではない。
 子供が2人いる家を無作為に選ぶ。その家の子供の1人が女の子だとわかった。では、もう1人は男か女か、あなたはどちらに賭けるか?
 男男、男女、女男、女女の4とおりが、ほぼ等しく存在する(数学的にはこれが前提条件)。1人が女だと判明したので、男男ではないことがわかった。すると、残り3つのケースのいずれかであり、この3つは等しい確率で存在するわけだから、もう1人は男である確率が2/3、と考えがちである。しかし、これは間違い。
 1人が女性だと判明した時点で、女女である確率が、男女や女男よりも2倍高い(姉と妹の2通りがあるため)。したがって、もう1人が男か女かは、やはり1/2の確率になる。
 同じ確率で存在するグループの中から任意に選んでいるのに、既に選ばれた結果から、選んだグループがどれだったのかを考えると、その確率は均等ではなくなる。
 1の袋には、赤1個、白1000個の玉が入っている。2の袋には赤1001個の玉が入っている。今、どちらかの袋を選び、玉を1つだけ取り出したら赤だった。さて、同じ袋からもう1つ取り出したら、どちらが出る確率が高い?
 1の袋なら白、2の袋なら赤だ。しかし、確率は1/2ではない。取り出した玉が赤であった時点で、それが2の袋である確率が圧倒的に高いからである。


2006年07月15日(土曜日)

【HR】 クーラ仕事と計算尺

 昨日は暑かったらしい。今日はもっと暑かったらしい。スバル氏が出かけたし、彼女は全国のニュースを見ているので、そう話していた。しかし、どこが何度であろうと、自分のごく身の回りの気温以外は影響がないわけで、昨日も今日も、僕はクーラの効いた部屋で仕事をしていたから、まったく暑くない。朝夕は、庭の水やりをして雑草も抜いたけれど、涼しい風が吹いていて爽やかだった。

 スバル氏を駅へ送ったあと、リビングで仕事をする。明日にも「λ(ラムダ)」のゲラが来るそうなので、集中して「少し変わった子あります」のゲラを最後まで読んだ。この作品は、かなりエポックなものになりそうだ。たぶん、あとからそう言われるだろう。一方の「カクレカラクリ」もスペシャルだから、8月の2作は両極端であり、いずれもエキセントリックといえる。
 「STAR SALAD」の絵をまた2枚書いて、ペン入れもした。あと22枚。ここまで一気にやったので、そのあとソファで昼寝をした。パスカルも寄り添ってずっと昼寝をしていた。気持ち良い。
 スバル氏と長女M氏が帰ってきたので、そのあとはガレージで工作。ここもクーラが効くので暑くはない。昨日作った機関車を改造した。気楽な工作でとても楽しい。
 夕方はざっと一雨降ったため、水やりをしなくて済んだ。ありがたや。

 7/3の【算数】で計算尺の話を書いたが、SF作家の野尻抱介氏より2枚写真をいただいた。いずれも、彼のコレクション。まず、黄色の細長いのが、アポロ宇宙船に搭載されたという計算尺 Pickett N600-ES。アルミ製で厚さ3mmとか。軽量であることが条件だったのだろう。当時既に電卓はあったはずだが、今のように累乗や三角関数などの複雑な計算はできない。もちろん、コンピュータはあったけれど、たとえば、それが機能しないような非常時のためのバックアップとして採用されたのだろう。目的を遂行するために、いかに用意周到な手が打たれたかがわかる。というか、人間を月まで送ったテクノロジィとは、けっして最先端の一発芸ではなかった。とにかく、確率を少しでも高めるために、エラーをカバーする何重ものバックアップのかたまりのような代物だっただろう。搭載されたものの中で、最も故障する確率が高いのは人間だったかもしれない。

 もう1枚の丸い計算尺は、B-47爆撃機用のLanding & Take-off Computerというものらしい。「1963年製で、離陸計画・着陸計画に使うものです。離陸計画では滑走路の高度、気温、総重量、水噴射の有無などの諸条件をセットすると滑走距離や速度が算出されます。」とのこと。実は、僕が中学のときに持っていた計算尺も円形のものだった。ポケットに入らない、持ちにくい、というデメリット以外は便利だった(それでも、大学に入って以来、活用したことは一度もない)。実家を探したら、まだどこかにあるはず。

【社会】 祝日

 「元日」から始まる祝日は、僕が子供の頃に比べると、かなり変化している。名前はそのままで、日にちが変わったものもある。
 来年2007年には、「みどりの日」は5月4日になって、4月29日は、「昭和の日」という名前になるらしい。この日は、昭和の時代には、「天皇誕生日」という祝日だったものだ。
 ほとんどの祭日は「〜の日」という名称になっている。例外は、「元日」「憲法記念日」「天皇誕生日」だけである。史実に関係なく、それを記念する日を適当に決めて祝日とした、という場合に「の」が入る、という解釈だ。
 たとえば、「建国記念の日」は、かつては「紀元節」という祝日で、この日から日本という国が始まったとされていたが、戦後一度廃止され、1966年にまた復活したものである。「建国記念日」と言う人もいるが、これは正しくはない。「建国記念の日」と「の」が入っているのは、史実に基づいた日ではない、という意味だ。
 そうなると、「春分の日」と「秋分の日」は、暦に基づいているから変ではないのか、というと、実は、これも「春分日」「秋分日」が正式な言い方らしい。
 したがって、「元日」と「憲法記念日」「天皇誕生日」はその日でなくてはならないし、「春分」と「秋分」は天文台が決定するので、このほかはすべて、別にいつでも良いけれど、まあこの日が適当だろう、と審議をして決定した日、ということになる。
 僕の後輩のF君は、成人式のとき、みんなから集めた記念品を入れたタイムカプセルを埋めて、「20年後の今日、みんなで堀り出そう!」と約束をしたのだが、成人式が1月15日でなくなったため、20年後のその日は平日になってしまい、みんな仕事があって参加できなかった。


2006年07月14日(金曜日)

【HR】 工作の神様が下りてくる

 今日は暑くなる予報。いつもどおり8時起床。最近、庭の水やりをスバル氏がやってしまう。どうしてかというと、パスカルが水遊びをするからだ。散歩よりも水遊びが朝夕の日課になっている。
 午前中に、「もえない」を推敲して「野性時代」の編集部へ発送。終わり。そのあと、涼しいリビングに移って、「少し変わった子」のゲラを40%まで見る。スバル氏が買いものに出かけている間に、パスカルと遊びつつ、リビングのテーブルで「STAR SALAD」の絵を2枚下描きして、その場でロットリングでペン入れをした。あと24枚だ。

 眠くなったので、昼寝をしたら、スバル氏が帰ってきた。それから、ガレージの工作室で、建物のキットの色を塗っていたら、突然、思いついた。そういえば、数年まえにオークションで買った小さなスチームエンジンとボイラがあったはず。そこで、それを探して、眺めているうちに、これを動力にした機関車の設計図を頭の中で描く。手近にあった貨車を1つ分解して、そのシャーシに、エンジンとボイラを載せてみたら、偶然にもサイズはぴったり。あとは、少々の材料を切って、穴を開けて組み立てただけ。3時間ほどで形になった。
 まだ、色は塗っていないし、あちらこちらやりっ放しのところがあるから、今日はここまでにして、後日きちんと仕上げよう、と思って、庭に水やりをしに出ると、またもスバル氏が既に水をやり終えていた。しかも、パスカルはハリネズミになって、舌をべろんと出している。

 時間を持て余したので、やっぱり作った機関車の試験運転をすることにした。燃料はアルコールである。ボイラに水を入れ、アルコールタンクを満たし、バーナに点火。水が沸騰するまでの間に、雑草や茸を抜いた。池のメダカは、なんだかもう大きくなったみたいで、元気が良い。きっと、食べものが沢山あったのだろう。
 10分ほどしたら、機関車が動き出した。あっけなく最適速度で走った。調子が良すぎ。10分ほど走っていただろうか。(興味のある人は欠伸軽便鉄道掲示板に動画があります)
 そういうわけで、今日の工作はうまくいきすぎ。こんなことは非常に珍しい。だいたいは、途中で問題が発生し、問題が問題を生み、つぎつぎに難問が降りかかり、失敗の嵐になって、諦めたり、明日へと希望をつないだりなのだが。

 今日の最初の写真は、昨年、鉄道模型コンベンションに出展するために製作したジオラマで、庭園鉄道弁天ヶ丘線を縮小したもの(以前にも同じものの写真がある。本ものと間違えた人が何人かいたようだ)。コンベンションは昨年が初参加だった。今年もこのジオラマは持っていくつもり。ちょうど、昨年の今頃作っていた。これができてから、台湾へトロッコに乗りにいったのだった。パスカルはまだ、家には来ていないが、ブリーダさんのところで見せてもらっていた。ネズミくらいの大きさだった。1年なんてあっという間だな、10年に比べれば(当たり前か)。

【国語】 いろはにほへと

 「あいうえお」のまえは「いろはにほへと」だった。これで平仮名を子供は習っていたらしい。僕は知らないが、僕の両親くらいの世代になると「いろは」に馴染みがあって、逆に僕の子供の世代になると「いろは」を知らない(最後までいえない)。僕の年代は、だから狭間である。

 色は匂へど 散りぬるを
 我が世誰ぞ 常ならむ
 有為の奥山 今日越えて
 浅き夢見じ 酔ひもせず

 という七五調の四行の歌である。千年ほどまえに作られたものらしい。空海の作ではないか、という話もあるが、たぶん違うだろう。
 仮名手本忠臣蔵という浄瑠璃がある。現在でも有名な忠臣蔵の元祖。どうして「仮名手本」なのか、というと、47文字が赤穂浪士にかけられているのと、さらにもうひとつ……。

 いろはにほへと
 ちりぬるをわか
 よたれそつねな
 らむうゐのおく
 やまけふこえて
 あさきゆめみし
 ゑひもせす
 
 のように7文字ずつ並べて、最後の文字を読むと、「とかなくてしす(咎なくて死す)」つまり「無実の罪で死んだ」という意味が現れる。この暗号が隠されている、という説があるが、もっと昔から知られていて、単にそれをかけたタイトルだったかもしれない。
 いずれにしても、ひらがなをすべて1回ずつ使った歌を作ることは、想像を絶する思考力と時間が必要だろう。ほかにも、いろいろあったようだが、これが残ったのは、やはり歌に込められた無常観が際立っているためだろう。


2006年07月13日(木曜日)

【HR】 水草とお中元

 今日も暑い日になった。まず、朝、バスルームでスバル氏に散髪をしてもらった。凄く短くなった。ジダンくらいだ、というのは嘘。でも、夏仕様で涼しい。これでやる気を出して、午前中に小説の仕事を片付けた。「もえない」は今月の連載分を最後まで書いた。12000文字。明日推敲する予定。「少し変わった子あります」のゲラは30%まで。この本は8/30発行予定とのこと。「カクレカラクリ」の方が少し早い。こちらは図版のチェックをしたが、第2校はまだこれから。しかし、メディアファクトリーは、すべて編集部でデジタル処理をしているから(中央公論新社もそうだったかな)、ほかの出版社よりはターンが圧倒的に早いはず。

 10時に庭師さんが来て、池に入れる水草を持ってきてくれた。それから、メダカを50匹入れた。池は3つに分かれているので、それぞれに分けて。メダカを入れるのは、ボウフラを食べてくれるため。水草は、もともと池のデザインをした当初からこうするつもりだったもの。もう少し周囲の芝が伸びてくれないと、まだ自然に見えない。そのうち馴染んでくるだろう。
 それから、今庭に沢山(100本くらいで、高さ1mほど)咲いている紫色の花の名前を聞いたのだが、残念ながら忘れてしまった。うちでは、それは「ネギボウズ」と呼んでいるものである(あとで、秘書氏から「アガパンサスでは?」と指摘があった。そのとおりだ。「蚊がパン刺す」と覚えたのが敗因だった)。
 お昼は、スバル氏とパスカルを連れてホームセンタへ行った。コンベンションのための、スクリーンに使える白い布とか、展示物にかけるシートなどを買った。スバル氏は、水に浮く草を購入。これも、僕は名前を知らない(あとで、スバル氏にきいたら「ホテイアオイだ」とのこと)。1つ98円で5つ。今日で水草解禁になったので、浮かべたようだ。
 午後は、ガレージで電子回路のハンダづけ。クーラが効いて涼しい工作室で、のんびり簡単なキットを組むのも風流である。オリジナルのフルスクラッチの工作をしているときは、こんなに優雅ではない。ほとんど研究しているみたいに頭を使うからだ。
 夕方、水やりをしていたら、急に土砂降りになった。夕立が10分くらい。でも、空は明るくて、綺麗な風景だった。写真を撮りたかったが、雨の中に出ていくのもなんなので、断念。水やりをしている途中で雨になると、ついついきりの良いところまで水をやってから撤退しようと頑張ったりしてしまい、1秒後にはその無駄さに気づくから面白い。これと同様のシチュエーションは、仕事でもよくある。「あ、これって、しなくて良かったんだ」みたいな局面である。今までした労力が無駄になるから、どうも釈然としないものの、しかし、残りをしなくて良い、という嬉しさも半々で、複雑である。

 お中元の季節らしい。品物がいろいろ方々から届いて、恐縮してしまう。こちらから出している人は本当に少ない。数人だ。だから、とにかく気を遣われないようお願いしたい。出版社に関していえば、お中元やお歳暮を贈ってこないところに原稿は書かない、なんてことは絶対に思わないし、また、もらったからといって、じゃあ書いてあげようか、という気持ちにもならないので、はっきりいって無駄な経費ではないだろうか。そうはいっても、スバル氏は素直に喜んでいる。いろいろ美味しくいただいている。
 だいたい、日頃質素なものを食べている。僕は朝も昼も食べないので、夕食だけだし、その夕食もそんなに食べない。1膳だけ。それだから、食卓に豪勢なものが出ると、必ず「誰から?」とスバル氏にきいてしまう。すると、「○○社」みたいな返事があって、そこで一瞬だけ恐縮して、食べてすぐに忘れてしまうのだ。いちおう、こんな法則は得られた。「いただきものはなんでも美味しい」
 今日の話題は少々水くさかっただろうか。

【理科】 乗りもの

 人間が最初に作った乗りものは、おそらく船ではないだろうか。この船は、水面という極めて過酷な環境条件で移動する。水面で活動する動物はいくらかいても、水面にずっといるものはほとんどいない。空中からも水中からも狙われるし、波はあるし、危険な場所なのである。
 その後、陸上や水中、そして空中を移動する乗りものを、人間は実現してきた。ところで、そういった中から、1つの乗りものが複数の機能を併せ持ち、異なる場所でクロスオーバに活動できるものも開発された。
 水陸両用の自動車やホバークラフトが水上と陸上。水上飛行機や飛行艇などは水上と空中。また、空を飛ぶことができる自動車も、実用には至っていないものの、そもそも、すべての飛行機は着陸をする。陸上と空中は技術的に難しくはない。
 しかし、潜水艦が陸上を走行するとか、潜水艦が空を飛ぶ、というような、水中と陸上、水中と空中、という組合せはあまり例がないように思える。
 水中と陸上ならば、動物には多い。ペンギンなどがそうだ。しかし、水中と空中となると、かなり少なくなるだろう。トビウオのように、少しだけ飛ぶものや、餌を捕るために水中に潜る鳥もいる。だがいずれも、時間は短い。
 SFでは、たとえば、原子力潜水艦シービュー号には、フライングサブという小型艇が装備されていて、これが名のとおり、水中を航行し、空も飛ぶ。しかし、やはり現実的に考えて難しいのだろう。例はそんなに多くはない。
 水に沈まなければならない重さと、空を飛ばなければならない軽さを併せ持つことの矛盾もあるが、それよりも、水圧に耐える構造と、翼や推進装置の構造の両立が困難なのだろう。


2006年07月12日(水曜日)

【HR】 近所事情

 ときどき雨が降るけれど、だいたいは晴れている、という毎日が続いている。外は蒸し暑い。しかし、ここへ来て、体調が非常に良くなってきた。やはり、これくらいの気候が躰に合っているようだ。
 昨日はもの凄く沢山の工作をしたので、今日は、午前中は大人しく小説の仕事に専念。まだ少しは社会に縛られているわけで、船だって寄港するし、飛行機だって着陸するし、アドバルーンだってロープが結ばれているし、みたいな感じだろうか。「もえない」は8000文字まで書いた。明日くらいに終わると思う。ゆっくりペース。「少し変わった子」のゲラは20%まで。「ラピタ」の連載は推敲して送った。終わり。

 お昼頃、買いものに行くことになった。近所のダイエーが模様替えしたというのだ。このまえスバル氏が行って、びっくりして帰ってきた。世界中、日本全国のニュースが即座にわかるのに、ご近所のニュースは全然伝わらない、とスバル氏が言っていたが、それは新聞を取っていないので折込広告がないからである。
 東京の人と話す機会が多いのだが、スバル氏みたいにTVを見る人は本当に少なく、また新聞を取っている人はほとんどいない。だからまったくスポーツや芸能に疎い。極論だが、TVを一家団らんで見ているのは、僕よりも年輩の人か、田舎の人なのではないか。農村へ行くと、みんなアイドルの名前とかよく知っている、という話も聞いたことがある。ドラマの舞台は全部東京なのに不思議だ。
 いずれにしても、地元のことには意外に関心がないものかもしれない。たとえば、東京に住んでいると、東京のホテルには泊まらない。東京のホテル事情なんか知らないわけである。食事は地元でするかもしれないが、僕の場合、外食といえば、だいたい東京のレストランだ。自宅から車で行ける距離の店へ食べにいくのは、極めて稀である(たぶん、1年に5回程度)。
 スバル氏は、近所にコンビニがないことを嘆いている。少しまえに住んでいたところは、隣がコンビニだったので、その落差が激しいのだろう。重い飲みものを沢山買って運んでこなければいけないのが、我慢ならないようである。今は冷蔵庫が大きいので、余計にそうなる。この頃は僕が買いものにつき合うように(人間がまるく)なったので、ことなきをえているが。

 そういうわけで、ダイエーに行ってきた。まあ、なんというのか、どこのショッピングセンタも、ほとんど同じようになっていくみたいだ。特色というものの欠片もないくらい洗練されている、というのだろうか。どこへ行っても、同じ品々が同じように並んでいる。そんな大量の商品の中から、自分らしいものを見つけて、それが個性だと思い込める幸せな日本人である。
 ユニクロがあったので入ってみた。もの凄く安いし、もの凄く格好良いTシャツがあったけれど、それが10枚も積まれていたので、買う気にはなれなかった。そういう天の邪鬼には、欲しいもの、買うものがなくて困る。でも、100円ショップでタッパと工作用方眼紙は買った。

 書斎の扇風機を直し直し使っている。最初は指で勢いをつけて回してやる。飛行機のエンジンを始動するみたいで、悪くない。ときどき、プロペラが周囲の網に当たるから、そのたびにペンチで直している。風は弱いし、音は煩いし、首も回らない。それどころか、首が据わらないので、後ろに本を積んで、モータ部を支えているくらいだ。それでも、大事なのだからしかたがない。ファンは大切にしなければ……。

【算数】 立方体を真っ二つ

 立体図形の話。最も単純な立体図形は球である。球をナイフで平面に切ったとき、そこに現れる断面は必ず円であり、どう切ってもほかの形にはならない。斜めに切っても歪んだ楕円形などにはならない。
 円柱は、底面の円に平行に切れば切り口が円だが、そうでない場合は切り口が楕円になる。薪を割るように真っ直ぐに切れば、長方形が現れる。
 サイコロの形、立方体はどうだろう。立方体をナイフで切ったときに現れる断面の形にはどんなものがあるだろうか。もちろん、円にはならない。三角形、四角形はすぐに想像がつく。その中には、正三角形、二等辺三角形、正方形、長方形などが含まれる。五角形や六角形になることもある。
 大きな正六角形が現れるように切ると、立方体はちょうど半分になって、同じ形の2つの立体に分かれる。そうしてできた多角形は、正六角形のほかに、3つの直角三角形と3つの五角形でできている七面体である。立方体はもともと六面体なので、切ったことで新たに現れた面が1つ増えたことになる。ということは、半分に切られているのに、もともとあった6つの面をすべて含んでいることになる。
 この形を、絵を描かずに頭に思い浮かべられる人は、そうとうな立体熟練者。絵が描けるという人も、かなりの絵心がある。絵にも描けない美しさ、という人が普通だと思う。


2006年07月11日(火曜日)

【HR】 群れへ戻れ!

 朝方、雨が降ったらしい。朝にはもう晴れていた。でも、水やりをしなくて良い。パスカルはがっかり。
 午前中に小説の仕事をした。「もえない」の連載分は4000文字まで。「少し変わった子〜」のゲラは10%まで。短編を収録したい、参考書に入試問題を引用したい、図書館の朗読テープを録音したい、といった許可願いがよく来る。そのたびに、住所を書いたり名前を書いたり、銀行口座を書いたり。おまけに、その封筒を糊で封をして、さらにポストまで入れにいかなければならない。メールだったら、コピィ&ペーストでたちまち終わる処理が、時間で10倍はかかる。手紙が往復する時間を考えたら100倍かかるだろう。しかも、信頼性は低い。本当に面倒なことである。

 ファンレターは、この頃、編集部経由で郵送されてくるものが、本当に減った。デビュー以来、紙に書かれたファンレターには一切応えない、という人気商売にアルマジロな態度を取ってきた甲斐あって、ようやく気持ちが通じたのだろうか。酷いものになると、色紙だけ送ってくるものがある。サインをしろ、という脅迫らしい。返信用の封筒が同封されていて、切手が貼ってあっても、そういった理不尽な要求には屈しないことにしている。それに、それを送り返す(ポストまで行く)手間は、少なくともその切手よりは高い、と僕は考える。
 しかし、本当にいろいろなパターンのメールが来る。僕の場合、読んで不愉快になるようなものは滅多にないが、べた褒めされるのも、酷評されるのも、同じレベルといえる。それよりもやはり、世間にはどんな人がいるのだろうか、と考えるときのサンプルとして価値がある。自分からメールを送ってくる人が、全体集合を代表するとは思えないので、その性格的な部分を除けば、という見方になるけれど。
 非常に数は少ないものの、作家宛ではなく、編集部宛に来るものがある。これは、一種のクレームであろう(読んでも意味がわからないものが多いが)。ここの部分が間違っているとか、どうして、こんな本を貴社は出したのか、と言いたいようだけれど、そこまで表現できていない。しかし、深読みするとなかなか筋が通っていて、一理あるなと思う場合もある。ただし、本当に当たり前のことが書いてあるだけだが。
 羊の群れから一匹が離れたから、牧羊犬がこれを追って吠える。「群れへ戻れ!」と言っている。このようなものではないだろうか。つまり、作家という人間は、ときとして社会という群れから離れようとする異端児なのだ。まあ、吠えられるくらいはしかたがない。吠えているのが本ものの犬ならば、「お役目ご苦労」くらいには思う。吠える方も、「私は選ばれた犬です」と自称してくることが多いが、よく見ると、仲間の羊が犬の真似をして吠えているだけなのが見えてしまったりして、微笑ましかったりする。
 そもそも、小説でもエッセィでも、いずれも一般的な、常識的な、当たり前のことを書いていたら、商売にならない。「夏は暑いですね」「物騒な世の中ですな」「近頃の若者ときたら」「やっぱり若いときに苦労をしなくては」「子供は愛情をもって育てましょう」など、まあ、誰もが口にするようなことをわざわざ書いていたのでは、職業としてなりたたないのだ。
 文章を書いて、それをお金と交換している。生半可な金額ではない。本当に大金と交換しているのである。したがって、それに見合った高価なものを創ろう、とするのがプロの作家だ。それがなくて、書きたいことを書く、言いたいことを言う、自分をわかってほしい、書いて楽しみたい、ではアマチュアと変わらない。
 群れから離れようとするものを読んだら、多くの人は、「え、そうかな?」と思うだろう。そして、「でも、そういう見方もあるか」「いや、それは言い過ぎだろう」などと、そこから分かれていく。群れの本体にも、少しだけ影響が出る(それが、ファンからのメールでわかる)。
 最初に、「え、そうかな?」と思わせるものが書けなければ、やっぱり鈍いということになるだろう。
 当たり前のことを書いている優れた作家もいるが、それは、その当たり前さをみんなが忘れた頃に書いたという価値だ。そのタイミングが絶妙なのである。群れから離れているのに、ときどき、群れへ戻ってやる天才的に優しい羊なのだろう。

 午後は、デッキで溶接を30分ほどした。今日は体調も良く、沢山工作ができた。毎年、夏になると工作に力が入る。夏の大工作だ。

【社会】 利子と利息

 同じものだと思っていたが、厳密には、ローンなどで金を借りたときに増える分が利子で、逆に、金を預けた場合に増える分が利息、ということらしい。つまり、利子の方が利息よりも常に大きい。でも、一般には後者も「利子」で通じている。
 僕が働き始めた頃は、定期預金の利息が7%以上もあったことがある。100万円を預ければ、1年で7万円の利息がもらえた。ということは、1億円の定期預金があれば、1年で利息が700万円だから、これならば、充分に一家が食べていける。元金は減らない。減らないんだったら、気の良いお金持ちから借りて、みんなが利息で生活できる、という世の中になったら良いのになと想像したが、はて、その場合、いったい誰が働いているのだろう、という疑問は残る。結局、そんな世の中になったら、利息の率が下がってくるわけだ。
 7%も利息があると、10年ではほぼ元金が倍になる。ということは、20年で4倍、30年で8倍、40年で16倍だ。20歳のときに、1000万円を定期預金にすれば、60歳になったときには1億6千万円になっている計算である。
 こういった計算を少ししてみると、「年金保険で老後に3000万円もらえる」なんて言葉も、それほど甘くは感じられないだろう。健康で早死にしない人には、明らかに保険は損である(年金をもらう直前に死ぬと大損、年金をきっちりもらっても小損)。
 どうして、お金が増えなくなったのだろうか? それをよくよく考える必要がある。
 そもそも、何故、黙っていてもお金が増えたのか? そちらの方が変ではないか。ようするに、労働の割には賃金が安く、搾取されている大勢がいて、その利潤が組織や一部の人たちに集中していたのだ。だから、どんどん投資をして、お金が増えていく時代だった。現代は、比較的労働に見合った賃金がもらえ、欲しいものが手に入り、利益が比較的均等に分配される豊かな社会になった。ただ、こうなると、新しいことを始めても大きくは成長できない。だから、持っているだけでは金は増えない、という当たり前の状態に至ったのである。


2006年07月10日(月曜日)

【HR】 ハウツー本

 よく寝た。スバル氏は早起きしてサッカーを観たようだ。
 午前中は、ガレージでガスバーナを使った工作。硫酸も使った。失敗を繰り返したが最後は成功した。成功を繰り返したが最後は失敗した、よりはだいぶ良い感じがする。世の中、勝率だけではない、ということか。

 金属をひっつける話を少し書こう。接着剤ではなかなかひっつきにくい。というのは単なる錯覚で、別にそれなりにひっつくのだが、そもそも金属は強い。その強さに見合った用途に使われるわけで、それだけの接着力が得られにくい、というだけのことだ。
 ハンダ付けを最初にやったのは、小学校4年生だった。これはラジオを作るため。火傷はその頃に1回だけした。それ以来していない。たぶん、これまでの人生でハンダゴテを20本くらい買ったと思う。今は5本くらい大小持っている。電気回路のほかに、真鍮の模型のキットを組み立てるときに使う。ハンダ付けは強度が弱く、力がかかるところには使えない。また、高温になるもの(たとえば蒸気機関車)にも使えない。
 溶接は電気を使ったものがこの頃では手軽になった。これは、大人になってから、まず大学の実験室で覚えた。今は自宅にも溶接機を持っている。20年まえは10万円以上したのに、今では1万円くらいなのだ。とにかく、電動工具はこの20年で10分の1の値段になった、といっても過言ではない。
 銀ロウ付けというのは、ガスバーナを使って行うもので、まだ始めて15年くらい。僕の技術としては一番新しい。ハンダ付けに似ているが、強度が非常に高い。ひっついたら、もう一体の金属になる。指輪などのアクセサリィなどの工作には欠かせない手法だろう。まだ下手である。
 切ることができて、ひっつけることができれば、もう自分でどんなものでも作ることができる。あとは、精度と労力の問題しかない。
 これらの工作手法について、僕はまず本を読む。人から直接教えてもらった、ということはひとつもなく、またそういう機会もこれまでになかった。書籍の情報が頼りなのだ。僕はすべて本から学んだ。この種のハウツー本は、良書が長く親しまれていて、同じ本で入門した人も多い。通常、4000円くらいもして高価だけれど、一生手もとに置くことになるだろう。子供のときには、図書館でそんな本ばかり探していた。何十年も読まれる、こういった本こそ、図書館は揃えるべきだろう。
 書店で見かけるのは、「サルでもできる〜」とか「バカでもわかる〜」などのハウツーものである。ようするに、サルやバカでもやらなければならないジャンルなのだろう。所詮、エクセルやワードはそんなものである。少なくとも、「サルでもできる鉄道模型」や「バカでもわかる旋盤工作」という本はありえない。やらされることがない。サルとバカはやらなくても良いジャンルだからだ。嫌々やらされているジャンルだけが、サルやバカをタイトルに冠するのではないか。

 夕方は風が出て涼しくなった。「野性時代」の連載「もえない」の5回目を1000文字ほど書いた。今週中に片づける予定。「日経パソコン」の第20回の2校が終わり。ダ・ヴィンチのI子氏が、「カクレカラクリ」のゲラを取りにきてくれた。今のところ、この本は8月25日発行の予定。そろそろ、「モリログ3」のゲラも作るとのこと。文春からは「少し変わった子あります」の2校が届いた。明日から見る予定。

【理科】 スケール効果

 同じ形のままで拡大したり縮小したりしても、同等の機能を果たすことは難しい。相似形であっても、サイズの違いによってさまざまな差異が生じる。こういった現象をスケール効果と呼ぶことがある。
 たとえば、蟻を大きくして、象くらいの大きさにしたら、脚が折れてしまうだろう。歩くことさえできないはずだ。蟻は、自分の背丈の100倍の高さから落下しても死なないだろうが、大きい動物ではそんな強靱なものはいない。
 ガリレオの言葉に、「ものは大きくなるほど相対的に弱くなる」という言葉がある。この主原因は、重量が3乗で増すのに対して、断面積が2乗でしか増えないためであるが、それ以外にも、大きくなるほど、均質な材料を作りにくい、という技術的な問題もある。細くて強い糸やワイヤは作れても、同じ強度でそれを太くしたものは簡単には作れない。
 一方では、縮尺できない境界条件の影響を受ける場合がある。
 たとえば、飛行機や船を同じ形で小さくしても、その周囲にある空気や水は同じ物体なので、それらの流れ方は実物とは違うものになる。建物の縮尺模型を使って、気流の実験をしても、それは本もののとおりにはならない。模型飛行機の場合、重量/翼面積=翼面荷重が同一であれば、サイズが大きくなるほど楽に飛べるようになる。ただし、大きくなるほど、今度は強度が出しにくくなるが。
 氷を割って進む砕氷船の模型実験を行うときには、シャーベットのような柔らかい氷を使わないと、実物どおりの動作を再現できない。またあるときは、時間を早めたり、逆に遅くしたりして、スケール効果を相殺する例も多い。
 ゴジラがビルを破壊するシーンを撮影するとき、ビルを実物と同じコンクリートで造ったら、ああは壊れないだろう。ビスケットみたいな弱いもので作り、しかも、スローモーションで見なければ、リアルには見えない。 


2006年07月09日(日曜日)

【HR】 見えること

 一日中どんよりとした天気で蒸し暑かった。雨はほとんど降らなかった。パスカルは、明らかに散歩よりも庭の水やりを楽しみにしている。今日は、カラスをまた見かけた。
 明日、ダ・ヴィンチのI子氏が来ることになったので、「カクレカラクリ」のゲラを急ピッチで見た。いつもの倍時間を使って、最後まで読み終わる。「STAR SALAD」の下描きのために、2Bのシャープペンの芯を買ってきた。シャープペンも2本買ってきた。どうも、身近に筆記具が見当たらないからだ。
 昨日あんなことを書いておきながら、午後は昼寝もせずに、ガレージで工作をした。機関車を運ぶためのフレームをパイプで製作した。これは、イベントのときに運搬する以外にも、家の中で、線路から線路へ移す場合に利用ができそうなので、無駄にはならないだろう。この頃、大きな機関車が増えたこともあって、一人では持ち上げることができない。線路の上にいるから、押して動かせば良いのだが、線路上にほかの機関車や貨車が沢山のっているから、ガレージのドアを開けて、多くを外へ出さないと場所があかないのである。それが面倒だった。もっと、鉄道業務運営上は、線路をさらに拡張すべきなのだが。
 と書いておいて、今1時間ほど昼寝をした。爽快爽快。下の写真は、パスカルのおもちゃ。