2006年06月30日(金曜日)

【HR】 目が見えた日

 今日こそは雨、と思ったのに、湿り気程度に降っただけで、蒸し暑い日だった。でも、クーラをつけたガレージ内活動だったので、ほとんど影響はなし。
 朝から体調も良く、やる気満々で工作をする。今日は特に、ここ数日では一番よく目が見えた。細かいものにピントが合う、という意味。僕は、小さい頃からの遠視で、ずっと視力は2.0以上(たぶん、4.0くらい)あったけれど、30代で、ぎりぎり2.0になり、40代になって、1.5くらいしか見えなくなった。特に、手元が暗いとよく見えない。でも、視力というのは、日によってかなり具合が違うので、あまり気にせず、メガネをかけたりとか、拡大鏡を使ったり、ということはしていない。本やパソコンにはまったく支障はなく、細かい工作や作図以外のことで、不便を感じることはまずないからだ。
 どうも、世の中の人を見ていると、少し目が不調だからといってメガネを変える。少し風邪気味だからといって薬を飲む、躰がだるいと、ビタミン不足だとか、整体だとか、というように、自分の躰に対して、余計な手を早く打ちすぎているように思える。もともと、自分の力で治癒する能力があるはずなのだから、ゆっくりと休んで、もう少し待ってやれば良いのに、と思う。たとえば、なにが一番、視力を低下させるのかというと、それはゲームとか読書ではない、断然メガネである。いや、別に目が悪くなっても特に問題はないのだが。

 そういう細かい工作を今日はしていた。スバル氏がミニで出かけたので、広くなったガレージで、棚に針金を張る作業もした。小さな地震のときに、ものが転落しないように、という防御策。大きな地震のときは、これくらいはしかたがない、と諦められる。
 昼寝をしなかったら、案の定、夕方頃に少し疲れて、続けられなくなったので、しかたなく読書をすることにした。
 イギリスから機関車が届いた。本も沢山一緒に届いた。注文したのが2月だから4カ月ちょっと。嬉しい。こういうものが手に入るのは、世の中のシステムのおかげだろうか。技術や社会の進歩が素晴らしいと思う。

 この写真は、「F」と「冷たい密室」の中国語簡体字版の見本。1週間ほどまえに、中国の大連にお住まいの方から「F」ともう1冊を書店で見つけて買った、というメールをいただいた。台湾版(中国語繁体字版)がそんなところまで出回っているのか、と思ったが、そうではなく、違う出版社から違うバージョンの本が出ていたのだ。そういえば、そんな契約をしたのだった。この頃、沢山、翻訳の契約をしているから、覚えていなかった。いずれにしても、もの凄い勢いで翻訳をして、本を次々と出している。1年に数冊というペースではない、もっと多くて、7、8冊くらいのペースではないだろうか。
 6/26の写真について問い合わせが多かった。1枚めは800台ほど持っているHot Wheelsで、けっこうレアなもの。上の絵がつながっているのだ(4つ連続する)。それから、バッジの右端はマン島の3本足。2枚めの写真は、20年以上まえに描いたのんた君の絵。ヤマダ電機より早くこのマークを使っていたのだが……。
 左手中指のバンドエイドはもう外した。膝ももう痛くない。今のところ痛いところなし。明日から、また小説の仕事をしなくては……。

【国語】 行くか来るか

 goかcomeかである。こっちからあっちへは行く、あっちからこっちへは来る、である。そんなの明らかで、簡単明快ではないか、と思われるかもしれないが、けっこう難しいときがある。
 たとえば、人と待ち合わせをしたが、上手く会えなかった。その後、会って話をする。「あのとき、君、何時に来たの?」と言うのか、「何時に行ったの?」と言うのかは、微妙である。今、現在会っている位置が、待ち合わせ場所に近いか遠いか、あるいは、相手が待ち合わせ場所へ行くベクトルが、現在位置へのベクトルとどんな関係にあるか、それとも、現在の話題がどの場所についてか、などに関わってくる。
 「明日、あれを買いに行こう」と「明日、あれを買って来よう」は、どう違うだろうか。「買いに行こう」は、買うために行くだけなので、気が変わって買わないかもしれない。品物がなくて買えないかもしれない。一方、「買って来よう」は、買ったのちに帰ってくる、という意味で、気が変わることはまずないし、品物がなかったら、別の店へも探しにいくほどの積極性が感じられる。深読みすると、そうだが、そこまでの気持ちを込めて、使い分けてはいないだろう。
 「〜していく」「〜してくる」のように、行くと来るは、動詞にひっつく。「遊んでいく」「遊んでくる」というように。「行ってくる」という言葉もある。しかし、「来ていく」はないようだ。


2006年06月29日(木曜日)

【HR】 シャッタアウト

 またも晴天。梅雨の中休みなんて聞いたが、休みすぎではないか。とても暑くなった。
 午前中は、1時間ほどかけて、パソコンのバックアップ作業。通常、創作をするときは、細かいバックアップは、メモリィスティックなどに1時間に1度くらいの割合でする(HDへのセーブは3分に1度くらい)。中規模のバックアップは、別のパソコンのHDへのコピィで、これは3日に1度くらい。今回は2カ月に1度くらいの大きなバックアップで、外付けHDで、整理しつつコピィする。
 バックアップというのは、別に大したことはない。誰でもできる簡単な作業なのだが、ようは、バックアップをいつ、どこまでして、どのように備えるのか、というトータルのシステムを考えることが、なかなか難しい。闇雲にバックアップを取っていると、ただ保存ファイルが増える一方で、結局どれがどれなのか、わからなくなってしまう。
 庭の掃除と水やりをした。もの凄く大きな茸を5つくらい発見した。食パンが落ちているのか、と思うくらい膨らんでいた。パスカルが嘗めたりするといけないから抜いておいたが、プラカラーで赤や緑の水玉模様を描きたくなるほど、メルヘンな茸だった。
 お昼過ぎに、また2時間ほど昼寝をした。これで快調になって、夕方、庭で小さな機関車を走らせたりして遊んだ。暑いから麦わら帽子を被っている。それでも、風が出てきて爽やかな日になった。明日が燃えるゴミだから段ボールも沢山壊した。

 「MORI LOG 2」が出たので、感想メールが沢山届いている。幾つかあったものでは、「算数と理科が難しすぎて、ほとんど意味がわからない」というもの。一方では、たぶん理系の人だと思うが、「算数と理科が簡単すぎる」という意見も数通あった。国語と社会はちょうど良いらしい。理系の人から「国語と社会が難しすぎる」といったメールは来ない。それは、理系の僕が書いているからだろうか。
 基本的に、算数も理科も、文系の人に向けて、めちゃくちゃ簡単に書いているつもりなので、簡単すぎると言われることは、そのとおりだと思う。これでも、難しすぎるという意見の中には、「わからないから斜め読みしています」と書かれているものも多く、インプット以前にシャッタアウトされているのではないか、と想像する。読めない漢字は辞書を引く、知らない英単語も辞書を引く。だから、理科や算数に出てくる専門用語も当然、ネットで検索するなりして調べることは必要かもしれない。
 やはり、文系と理系の差というのは、理科と算数をシャッタアウトするかどうか、のように思える。そのほかのことでは特に差はない。
 何度も書いていることだが、鳥の名前を覚えることは理科(科学)ではない。鳥がどんなメカニズムで飛ぶのかを理解することが理科である。
 ハミングバードと呼ばれるハチドリの中には、空中停止(ホバリング)して花の蜜を吸うものがいる。ホバリングのとき、鳥の胴体は地面に対して直立した状態になる。つまり、鳥の羽ばたきは、空気を胴体の後方へ送っている。これは、飛行機のプロペラと同じ空気の向きだ。ダ・ヴィンチの頃から、人間がなかなか空を飛べなかったのは、鳥が飛んでいるとき、翼が地面に向かって空気を送っていると勘違いしていたせいである。
 さて、上記のような文章に出会ったとき、最初にある「ハミングバード」が、自分にはわからない単語で、だからもう以下の文章は読んでもわからない、斜め読みしよう、という人がいる。ものの名前に拘ることで、いかに多くの情報を自ら遮断しているか、に気づいてほしい。
 幼い子供は、すべての言葉の意味が最初わからない。それでも、その中に少しずつ意味や道理を見出し、曖昧なまま、抽象的なまま、自分の中に吸収するのである。だからこそ、あっという間に、あんなに沢山のことを覚え、成長する。なんにでも興味を示す。自分を制限することがないからだ。大人が「これはお前には難しいから」と忠告してもきかない。そういう大人は、自分に対して「これは私にはきっと難しすぎるだろう」と始めるまえから諦めている。
 簡単にいえば、具体的なものに拘らず、抽象的に本質を掴むことが重要だ、ということ。具体的なことに囚われるから、制限が生まれる。

【算数】 集合論

 一般に、「AはBである」という言葉は、AとBが同じもの、等しい(A=B)、という意味ではない。たとえば、「太郎は男である」が正しいとしても、太郎と男は同じ意味ではない。現に、「男は太郎である」と逆にすると、正しくなくなってしまう。「逆は必ずしも真ならず」という言葉が当てはまる。
 「太郎は男である」とは、男という集合の中に、太郎が属している、という意味だ。数学ではこれを、「太郎∈男」という記号で表す。
 「太郎は男である」「男は動物である」が正しいとき、「太郎は動物である」が正しい。
 「動物だからといって、必ずしも太郎ではない」や、「太郎でなければ動物ではない、というわけではない」なども正しい。集合論的に証明できる。また、「動物でなければ、太郎ではない」も正しい。しかし、人形の太郎もあるかもしれないから一概にいえない(この場合、最初の「太郎は男である」か「男は動物である」のいずれかが間違っている)。
 面白い小説の集合と、ミステリィ小説の集合があって、両者に含まれるものは、面白いミステリィである。この場合、「面白くもないし、ミステリィでもないもの」とは、「面白いかあるいはミステリィであるもの、以外のもの」と一致するし、「面白いミステリィ以外のもの」とは、「面白くないか、それともミステリィでないもののどちらか」である。これは、有名なド・モルガンの法則。
 世の中の人は、たとえば、「僕は牡蠣が嫌いだ」のように決めつける。これは、数学的にはおかしい。これまでの人生で食べた牡蠣がたまたま口に合わなかっただけで、世に存在する牡蠣はもっと多数である。すべてを確かめたわけではないのに、「牡蠣」すべてを「嫌い」という集合に入れてしまうのだ。当然ながら、僕は世の中の人に含まれる。


2006年06月28日(水曜日)

【HR】 


 また晴天。おかしいな、先週の予報では今週はずっと雨だったはず。朝は水やりをした。
 「ナンプレファン」の2回めの原稿は推敲して発送。これで6月のノルマはすべて片づいた。昨夜は、「カクレカラクリ」のTVのプロットがダ・ヴィンチ経由で届いたので読んだ。9月になったようだ。原作と全然違っていて、ああ、これならば本を読んだとき、損をした気分にならないだろう、と思った。TVドラマらしいプロットなのだろう。いずれにしても、僕は口を挟むつもりは一切ない。
 今日を含めて3日もフリーな時間ができたが、少し体調が悪いので、まず昼寝をすることにした。
 でも、お昼頃はスバル氏とアピタへショッピングに。スバル氏は通帳の記帳をしたかったようだが、なんと、ここにも三菱東京UFJのATMがなかった。なんか、名前が長くなるのに比例して不便になっている気がしてならない。まあしかし、この程度の不便さは問題ない。潰れるよりははるかに良い。

 帰ってきてから、リビングで2時間ほど昼寝をした。パスカルがすぐ横にいる。起きたら、俄然やる気になっていて、いきなり工作室でマスキングして塗装をしたり、新しいキットの箱を開けて、作り始めてしまった。どうも、よくわからない人である。
 夕方、雷が鳴って、ほんの少しだけ雨が降った。これくらいでは水やりをするよりも少ないくらいだ。でも、水やりは中止。助かった。
 雷といえば、何年かまえになるが、うちのゲートが、雷のショックで壊れた(直接落雷したわけではない)。そのときは、クーラも1つ壊れたし、ISDNのモデムも壊れた。ゲートは外国製だったが、国内のメーカに依頼して、機械をすべて取り替えて修理、それから、エアコンも、これを機会に母屋のものをすべて取り替えた。ISDNはやめて、光ファイバになったし。
 あの雷1つが転機になったかもしれない。これらの工事はすべて合わせると300万円以上かかったはず。この程度の場合、「雷に打たれたかのごとく」と表現しても良いだろうか。

 「日経パソコン」の連載「森博嗣の半熟セミナ」が、このMLAの学科【理科】を拡張したような内容で、スバル氏のイラスト付きで博士と助手が会話をする、というものなのだが、そこで、だいぶまえに雷の話を書いた。雷は「落ちる」と言われているが、実際には、最初は地面から空へ向かって上がっていく場合がほとんどである。しかも、一度のピカッの間に、地面と空を何回も往復している。やっぱり「落ちる」と認識されたのは、そのまえに上空でゴロゴロいっているし、万物は重力に支配されている、という思い込みのせいだったのだろうか。
 この連載は、現在まだ半分くらいで、もう1年したら、まとめて単行本になると思うので、「日経パソコン」(書店にはないが、パソコン雑誌で最も部数が多いメジャ誌)を取っていない人は、もうしばらくお待ちいただきたい。
 昔から、地震、雷、火事、親父といったくらい、恐いものの代表だったわけだが、今は、テロ、土砂崩れ、地震、放火、通り魔、詐欺、HDの故障、くらいで、親父は問題外になってしまった感がある。成長期の子供にとっては、恐い親父は必要だと思うが、どうしたら恐くなれるかは、よくわからない。少なくとも、ほかの恐いものを見習っても駄目だということは明らかで、こいつだけ「恐さ」が違うというところまでは理解できるはず。

【図工】 最大の目から鱗

 僕の工作人生を振り返ってみると、大きな転機は2つあったと思う。
 1つは、(まえにも書いたが)幼稚園のとき、裏の家の年上の女の子の家に遊びにいったとき、その子が空き箱を切って貼りつけて、小物入れを自作していたのを見たことだった。何にびっくりしたのかというと、箱と箱がひっついている、ということだった。理由を尋ねたら、ご飯つぶでひっつけたという。これはもう青天の霹靂だった。以来、毎日ご飯つぶをもらう子になった。そうか、物体どうしをひっついたままにしておけるのか。それまで、ハサミで紙を切ることは知っていた。しかし、そこまでだ。積み木などを組むことがあっても、すぐに崩れてしまう、という不満を抱えていたので、この「接着」の技術を発見したことは大きかった。もちろん、当時はボンドやセロテープなどはまだ知らなかったし、家にそんなものはなかった。
 もう1つは、小学校4年生の頃だろうか。既に、プラモデルやその他の模型も知っているし、ハンダ付けでラジオを組んだりしていた頃だが、やはり基本的に、模型とはキットを組み立てるものだという頭があった。電子工作だって、部品は買ってくるわけだし、回路図は既にあるものだ。ところが、模型雑誌を見ているときに、素材からすべてを作り上げた作品を見つけた。何に驚いたかというと、まず大人が模型を作っていること、そして、作られたものが、キットよりもずっと素晴らしいということだった。そうか、自分で一からすべてを作り上げることができるのか、一生かけてそれをやっていても良いのだな、ということを知ったのである。
 おそらく、この2つによって、大きな部屋の扉が開かれた、と今では思い出す。奥行きがありすぎて、部屋の大きさはまだわからない。


2006年06月27日(火曜日)

【HR】 痛い話

 風の弱い晴天。時間があったので、飛行機を飛ばしにいった。
 車で30分ほど走ったところに、飛ばせるエリアがある。そこで1時間ほど遊んだ。2機持っていった。1つは、翼長が120cmくらいの小型、もう1つは翼長がその倍くらいある中型。どちらも、4サイクルエンジンの飛行機である。この頃は、モータが多くなっていて、大きな飛行機もモータと電池で飛ばせる時代になった。ところが、モータは恐い。なにかの弾みで急に回ったりしたら大変だ。大怪我をしそうなので、今のところはエンジンにしている。エンジンはスイッチだけでは回らないから安全だ。

 スバル氏が出かけたので、午後はパスカルと留守番になった。日中はパスカルは庭に出たがらない。涼しい家の中が好きだ。工作をしたかったけれど、少し疲れていたので昼寝をした。それから、DVDを見たりする。
 この頃、映画館に行かなくなったのは、やはりDVDのせいだろう。一人でソファに寝転がって見ている方が安気だ。周囲に他人がいると、どうも物語にのめり込めなかったりする。スバル氏と2人で見るなんてこともまずない。趣味がもともと合わないからである。

 左手はだいぶ良くなった。もうほとんど復帰。しかし、その怪我のあと、ガレージで歩いているとき、機関車の煙突で膝頭を打って、こっちの方が今は痛い。この歳になっても生傷が絶えないとはどういうことだろうか。
 もっとも、子供の頃の怪我はもっと凄かった。20歳までに、合計すると躰中に何十針も縫い傷があった。全部、余計なことをして負った怪我である。たとえば、目を瞑って道を歩いていて、用水路に落ちたりとか、ガラス戸を蹴って割ったりとかである。
 成人してからは、大きな怪我をしていない。骨折もない。一度だけ、10年ほどまえに、急に片足が痛くなって、歩けなくなったことがあったが、3日くらいで治った。病院へは行っていない。
 薬は一切飲まないが、バンドエイドだけは、1年に20枚くらい消費している気がする。
 怪我には痛いものとそれほど痛くないものがある。怪我の大きさとは無関係だ。鋭い刃物で切ったときは、そんなに痛くない。血が沢山出るときは、そんなに痛くない。痛くない怪我をしたときは、要注意だ。反対に、もの凄く痛いときがあって、「どうしてこれくらいでこんなに痛いんだ?」と不思議に思うときがある。
 血を見るのが大嫌いで、貧血気味になるほどだ。自分の怪我の血で、気持ちが悪くなることがある。
 まあ、とにかく気をつけよう。

 近くで、事故や事件があっても、絶対に見にいったりはしないだろう。現実でも物語でも、そういうシーンは大嫌いなので、自分で書くときは、さっさと終わらせたい気持ちでいっぱいである。
 ミステリィなんか書いていると、この種の事件に興味があると誤解されがちだが、はっきりいってまったく興味はない。近所で殺人事件が起きても、絶対聞きにいったり見にいったりしないだろうし、まして、自分が謎を解いてやろうなんて、思うわけがない。
 僕は煙草は吸わないし、なぞなぞやクイズやパズルにも興味がない。チェスもしない。回文もアナグラムもまったく趣味ではない。回文の本が何冊か贈呈で届くのだが、開いてさえいない。どういうわけか、フィクションなのに、そんなにふうに誤解されるみたいで、実にミステリィである。

【社会】 外国の影響

 江戸時代は鎖国をしていたわけだが、アメリカの船が来て、開国になった。しかし、その当時はイギリスが強かったせいもあって、貿易はイギリス相手が多かったみたいだ。このあと、工学や医学をドイツに学ぶことが多くなる。その後、日本に導入された(主として工業の)技術は、アメリカからのものとイギリスあるいはドイツからのものが主流といえる。
 鉄道や船、兵器、機械などは、最初は外国から購入することが多かった。鉄道のレールの幅(ゲージ)は、なんとなく統一されたが、複数の国から購入したため、不統一な例も多い。大きいものでは、電気の(交流の)サイクルが国内で統一できなかったのは、購入先の国が違っていたからだ。
 文学や音楽も最初はドイツ指向だったが、その後、芸術はフランスというようなイメージも強くなってくる。
 第二次大戦後は、アメリカ一色に近い形になった。ヨーロッパがやや力を失った時代だったし、アメリカが地理的に近いこと、それに、最後に日本を降伏させたこと、などの経緯によるだろう。
 戦後の外国の文化といえば、ほとんどアメリカばかり。ビジネスの相手もアメリカだし、日本の目指すところはアメリカだ、というのが戦後20年間くらいのことだったように思える。
 だから僕が若いときには、みんな留学といえばアメリカへ行きたがった。ヨーロッパへ行ったって学ぶものはない、とまで話していた。今では、もうそんなことは全然ない。アジアやアフリカなども、当時よりはずっと意識されるようになった。平和が続くことで、他国に対して客観的になり、国が大人になっていく、という感じがする。


2006年06月26日(月曜日)

【HR】 左手負傷

 朝からずっと雨。夕方に止んだ。
 昨日、小説の仕事がだいたい片づいたので、嬉しくてさっそく工作を始めたら、とたんに怪我をしてしまった。左の中指。バンドエイドを巻いたが痛くて動かせない状態。キーボードの速度も5分の1くらいに低下。
 左手だから良いということはない。僕は本来、左利きなのである。

 ただ、長い人生の間に、いろいろなものを右手でもできるようにしてきた。たとえば、文字を書くこと、箸を持つこと、ハサミやナイフを使うことも右手に切り換えた。これは、文字の形や並び順、料理の配置、ナイフやハサミの道具が、右手を使うようにデザインされているためだ。
 しかし、今でも、プラモデルを塗ったりするペイントの筆は左手を使う。なにしろ、昨日は、色を塗ろうとして、塗料の蓋を開けるとき、ドライバを使っていて、手が滑ったのである。だから、しかたなくそのあと、右手で色を塗った。さすがに、日頃、文字を書いてきた手だけあって、そんなに遜色なくこなせるほどには成長していた。
 スポーツは、左を使うものが多い。ボールを投げるのは左しかできない。しかし、ボーリングなら、右でもできる。ビリヤードもどちらでもできる。どうしてかというと、どちらでもできる方が明らかに有利な場面があるからだ。ゴルフのように道具で固定されるものは右手ですることにしている(コースも右利きが有利なことが多い)。野球は、左打席の方が打率が高いが、右打席の方が遠くへ飛ばせた。
 道具を使うものは、ほとんど右にならざるをえない。カッタ・ナイフは左右どちらでもほぼ同じだけれど、普通のナイフは左では使えない。ハサミも無理だ。急須とかも駄目だ。カメラもそう(ときどき左利き用があるものもあるけれど)。自動販売機も自動改札も電話も全部が右利き用にできている。工作の電動工具も右用に作られているものがほとんど。ドライバだって、ネジが右締めだから、しかたがない。
 頭を洗ったり、歯を磨いたりする手は、5年に1度くらい左右を切り換えている。切り換えるときの違和感が面白いが、数日で慣れてしまう。それから、よく怪我をするので、そのときに、受け持ちが移ることが多い。
 もともと、ほとんど左手でやっていたのだが、最初に左手を骨折したときに、右でやり始めたのがきっかけで、ああ、やればできるのか、というだけのことである。ようするに、手が覚えているわけではない。脳が命令しているのであって、脳のどこを使うのか、という問題だ。それから、使う手を変えるときには、技術がちゃんと踏襲されるような客観的な分析が必要になる。いわゆる「工学」と同じ。
 マウスは右で使っている。マッキントッシュは、マウスにボタンがないし、左利き用のウィンドウ配置も可能だが。しかし、ノートパソコンを3台並べて、いつも3画面を行ったり来たりしているので、結局、左のパソコンのマウスは左手で動かしていることが多い。
 こんなに右手をよく使うようになったのに、やはり握力や腕の力は左の方がだんぜん強い。不思議である。

【理科】 ロッド

 「悠悠おもちゃライフ」の表紙には、車輪2つがロッドで連結されているイラストがある。ロッドは、このように回転するものどうしを結ぶ場合もあるし、直線運動をするものどうしを結ぶ場合もある。とにかく、ロッドの両側は、通常ピンといって、回転を許す機構になっているため、力学的にいうと、ロッド自体を曲げようとする力は作用しない。つまり、ロッドの軸方向に押したり、引っ張ったりを繰り返すのである。
 さて、ロッドの片方が直線運動で、もう片方が回転運動、という組合せがある。たとえば、蒸気機関車のシリンダと動輪を結ぶメインロッドがそうだ。また、エンジンの中にある、ピストンと回転軸を結ぶコンロッドもそうである。昔のミシンの足漕ぎもそうだった。自転車のペダルを漕ぐときの足も、これに近い。
 さて、直線でレシプロ運動をしているものを、ロータリィ運動に変換しているとき(あるいは、この逆の変換でも良いが)、もし、回転が一定であるならば、直線運動している方は、時間に対してサインカーブのような運動をするはずである。これは、想像に難くない。ところが、厳密には違っている。
 たとえば、往復運動のちょうど中間点にいるとき、回転運動側のピンの位置は、90度のところにあるだろうか。そうではない。ロッドが斜めになるため、長さが微妙に異なり、位置はずれる。つまり、往復運動は、まったく対称な動きにはならないのである。この差動は、ロッドが短いほど、回転するピンの位置が中心から離れるほど大きくなる。
 え、それがどうしたって? 別にどうもしない。しかし、エンジニアには、この問題にもう100年以上も悩まされているのだ。


2006年06月25日(日曜日)

【HR】 シャーロック・ホームズ

 朝は曇っていて涼しかった。パスカルが庭で快走。お昼頃から小雨。水やりをしなくても良く、いつもより時間が多い。Gシリーズの加部谷恵美をヒロインにした、一夏の恋の物語「恵美の雨」なんてどうだろうか。「雨乞い踊りにかけた青春!」みたいな。
 「λ」は昨夜のうちに最後まで手直しを済ませた。完全脱稿。編集部へ発送済み。「ナンプレファン」の連載エッセイは今朝書いた。推敲は後日。「ダ・ヴィンチ」の羽海野氏への文章と、「カクレカラクリ」関連のインタビュー記事のゲラもチェックした。「文蔵」のインタビューもエディタで手直しして返送。筑波大のメールインタビューにも答えた。(いつものことだが)ちょっと突っ慳貪な気もするので、推敲は後日。でも、ほとんど片づいた。6月の残り5日は、模型三昧だ!(「!」を沢山使うとオタク度アップらしいので、使ってみた)

 この写真は、昨日、高田崇史氏にいただいた小物。高田さんからは、いつもいろいろプレゼントをいただいている。大きいものは、漢方のパンダとか、大きなサトちゃん、サト子ちゃんとか、ミスタ・コンタックとかの薬局グッズである。今はもう、薬局は辞められたみたいだけれど、昨日も、サトちゃんライトをもらった。サトちゃんは、コスプレはするけれど、自分がなにかの道具になることは珍しい。一方、キョロちゃんは、着替えはしないが、なにかの道具になることが多い。そういう星のもとに生まれたらしい。
 それはそうと、写真の、飛行機、機関車、ジープはロイヤル・コペンハーゲンである。スバル氏に「コペンハーゲンって、どこの街だっけ?」と聞いたら、「ポーランドじゃない」と言っていた。地理はからきし駄目な夫婦である。
 先日、非常勤講師をしていただいた清涼院流水氏も、それから高田氏も、メフィスト賞作家である。昨日も、講演料の話が出て、直木賞作家が100万円取れるとすると、メフィスト賞作家なら、まあ40万円くらいは言っても良いのではないか、ははは、それは大きく出ましたな、いやいや、何をおっしゃる、控えめに言ってるんですよ、ふふふ、はっはっは、みたいな会話があった。越前屋か。

 でもって、この写真の右にあるホームズ像がメフィスト賞の賞品である。ちなみに、賞金はない。
 このホームズ像は、ロンドンの、シャーロックホームズ博物館で10ポンドで売っているお土産である(のちに12ポンドに値上がりしていたとも聞いた)。博物館といっても、めちゃくちゃ狭い。ビフォア・アフタしてほしいくらい、おじいちゃんは階段が辛いし、おばあちゃんは荷物を持ってすれ違えない。
 講談社のK木さんとロンドンへ一緒に行ったとき、そこにあるホームズ像を彼が買い占めていた。恥ずかしいことがわりと平気でできる人なので安心だ。パリへ幻冬舎のS儀さんと行ったとき、スバル氏のためにゲイ雑誌を彼が買ってくれたのだが、それに比べれば、恥ずかしくない。
 「そんなに沢山買わなくても」とそのときは、思ったのだが、以来つぎつぎ世に出たメフィスト賞作家の数よりは少なかったので、その後も誰かが現地へ買いにいったのだろうか。
 左の着色されている像も、同博物館で僕が個人的に買ったもの。もちろん、こちらの方が値段は高い。シャーロックホームズ博物館というのは、日本人の客は沢山訪れているが、イギリスの人はほとんど知らない。タクシーに乗っても通じないくらいである。ホームズなんて全然有名じゃないのだ。それに、「ホームズ」の発音が難しいから(「シャーロック」の方がまだ簡単)、日本人が言っても全然通じないので、行く人はせめてスペルくらい書けるようにしておこう。
 では、イギリス人が一番よく知っている有名な探偵は誰か、といえば、それはもう断然、C.デクスタのモース警部である(テレビドラマのせいらしい)。ホームズなんか目じゃないだろう。日本でいえば、明智小五郎よりも、コナン君の方がメジャなのと同じである。しかし、その「コナン」が、ホームズの生みの親コナン・ドイルにちなんでいるのが、なんとも皮肉ではないか(皮肉ではないだろう!)
 「江戸川乱歩っていうのは、エドガ・アラン・ポーをもじっているんだよ」と教えてやると、たいてい「誰? 江戸川乱歩って」と言われるのがオチである。僕の周囲では、誰も知らない。「ポーの一族に、エドガーとアランが出てきて」という話をすると、少し通じることがある。日本の小説家は夏目漱石しか知らない、という人が多いのだ。
 このまえ、学生が「夏目漱石って、小さいときに指を火傷したんですよね」なんて話していた。それは野口英世だ! 「ああ、このまえノーベル賞を取った野口英世か」なんて言う。えっとぉ……。

【国語】 しいてあながち

 「強」という漢字は、かなり難しい読み方がある。「つよい」のほかに「しいる」があるし、「こわい」があるし、「つとめる」とかもときどきある。しかし、いちばん難しいのは、「強ち」と書いて、「あながち」と読むこと。
 あながちは、「穴っぽい」という意味ではない(誰も間違えないか)。だから、「私、最近、嫌なことばっかで、もう、ありえないくらい凹んでいるっていうか、穴があったら入りたいっていうか、もう、あっちでも、こっちでも、隠れてばかりじゃあないですか、ほんっと、モグラみたいに叩かれたいっていうか、あながちなんですよね」は誤用である。用例が長いし、誰が間違えるかそんなもの、と思った人、あながち、いないともかぎらないだろう。
 よく聞かれるのは、「あながち、悪いともいえない」のような使い方。これは、「強く悪いとはいえない」というふうな意味だから、あながち、違う意味でもない。よく似たものに、「まんざら」があるが、ロイヤル・コペンハーゲンの皿という意味ではなく、こっちは、漢字だと「満更」で、「まったく正しい」みたいなニュアンスだ。つまり、「まったく正しくは、悪いともいえない」という否定を伴って使われる。もっと簡単な言葉にすると、「必ずしも」に近い。
 「あながち」は今では、打ち消しの語を伴った使い方がほとんどだが、あながち、昔はそうでもなかった。たとえば、「あながちに〜をする」と書いて、必要以上に、しいて、異常なまでに、という意味に使われたし、「あの人はあながちだ」とか、「あながちな人である」のように使って、強引であることを示したりもした。今ではほとんど死語になったみたいだが、あながち、そうともいえないかもしれない。


2006年06月24日(土曜日)

【HR】 ビデオ撮影と来客

 朝から素晴らしい日差しだった。これは写真日和。こういう光は1年でも滅多にない。クリアだった。影が鮮明で、コントラストがついて面白い。

 しかし、写真ではなく、ビデオを撮ることにした。鉄道模型コンベンションで上映するためのもので、DVD1枚30分を、少しずつ撮り溜めている。まえに書いたとおり編集をしないので、撮ったまま、その順番で、そのまま見せる映像になる。失敗したときだけ、その場ですぐに削除するが、ほかは、あとから削ったりもしない。だから、最終的にどうなるか、という構成を考えながら、短いショットを少しずつ撮っていく。というほど、実は考えていないかもしれない。面倒だけれど、何度も機関車を戻したりして、同じショットを違う角度から撮ったりするのである。撮影助手がいれば、カメラを構えておいて、「はい、お願いしまーす」で済む話なのだが、一人でやっているので、機関車を手前から走らせておいて、慌てて走っていき、カメラを構えて撮影する。カットとなったら、また、慌てて機関車を止めにいく。また、機関車を戻して、別の角度で撮影する。といった手順になる。撮られた映像を見ると、沢山のカメラで撮影したものを編集したように見える、というわけである。ようするに、面白いからやっているだけだが。というのを30分くらいした。

 いろいろ仕事が溜まっている。「ダ・ヴィンチ」の寄稿文とインタヴュー(杉江松恋氏文責)のゲラがPDFで来ている。森博嗣関連は6Pかな。「ラピタ」のゲラもPDFで来た。これは、すぐに見て、結果をメールで送った。「文蔵」のインタヴューの原稿もある。これはWORDだった。「ダ・ヴィンチ」と「文蔵」は月曜日が締切だ。「ナンプレファン」の連載も締切が月末で迫っている。筑波大ミステリィ研のメールインタヴューにも答えなくてはならない(締切は7月だが)。この週末で、これらすべて片づけようと考えていたが、今日、天気が良かったので、あっさり予定変更とした。明日が雨だったら、片づけよう。「λ」の手直しは、それでも90%まで進められた。あと1日。
 午後は出かける用事があって、夕方に戻ってくる。

 高田崇史氏が来宅。講談社のY田氏とA籐氏も一緒。夕方どきで、天気も良かったので、急きょ、庭園鉄道に乗っていただいた。いつもは、この季節は運休だが、今年は蚊が少ないので、まだ時間を選べば、走らせられる。
 それから、みんなでレストランへ行って夕食。フレンチみたいだったが、箸で食べる、という店だった。ミステリィの話、映像化の話、図書館や著作権の話、などなど。高田氏とは、もう何度めかではあるが、しかし、1年ぶりくらいで、お久しぶり。楽しかった。9時過ぎに帰宅。
 まだまだ夜が涼しくて、気持ちが良い。
 食べもののことを書こう。レストランで食事をするときは、食べられないものはありませんか、ときかれる。僕の場合は、牡蠣は食べられない、と言うことにしている。貝の系列は、だいたい駄目である。あとは、デザートにスイカが出るような季節には、避けてくれ、ということにしている。おしまい。

【算数】 13個の玉つづきのつづき

 13個の玉の中から重さ違いを見つける問題の連載3回め。
 最初に4つずつのせて、釣り合ったとき、残り5つの中から、あと天秤を2回だけ使って、重さ違いを見つける方法を前回、なんとなくぼんやりと書いた。
 今回は、1回めの天秤で、4つずつが釣り合わなかったケースについて考えてみよう。こういったことを、文章だけで説明するのは、むしろ作文の能力を問われる、【国語】ではないか、という気もするが……。
 釣り合わなかった場合には、下がった皿の4つの中に重い玉があるか、上がった皿の4つの中に軽い玉があるか、のいずれかである。前者の4つを●で表し、後者の4つを○で表す。つまり、●は、重い可能性がある玉であり、○は軽い可能性がある玉である。
 次は、天秤の皿に、●●○の3つをそれぞれの皿にのせる。このとき、残っているのは、○2つである。だから、もし天秤が釣り合ったら、その2つのうち軽い方が目的の玉となる。
 もし、釣り合わなかったときは、下がった皿の●●か、上がった皿の○が、目的の玉である。だから、この2つの●を天秤にのせて比べれば、どれが重さ違いか判明する。
 パズルを解くプロセスでは、このように、「〜の可能性がある存在」が沢山現れる。白黒をはっきりつけられない、グレィなものだ。しかし、その可能性の範囲はある程度は限定されており、複数の条件におけるグレィの条件を重ね合わせることによって、白黒が導かれるよう問題は作られている。
 ようするに、世の中には、わかっているものと、わからないものがあるのではなく、部分的にある程度わかっているものが多く、わかろうとしない人には、それはさっぱりわからないものだし、わかりたい人には、もう少しでわかりそうなものに見える、というだけのことである。


2006年06月23日(金曜日)

【HR】 距離とのんた君の予感

 曇っていたが、午後はほとんど晴れた。庭掃除もできた。
 「λ」の手直しに少し集中して、60%まで片づけた。早めに仕事を済ませて、月末時間をとって工作がしたい、という一心。今日は、一日家の敷地から一歩も外に出ず。インターネットの時代なので、別にそんなのどうってこともない。誰とでも話ができるし、世界中どこへでも行ける。

 山田章博氏の展覧会の招待状が来た。高知で開催されるもの。そうか、彼は四国なのだ。しかし、もう四半世紀は京都にいるはずである。一度だけ、高知までドライブで出かけたことがあるけれど、けっこう遠かった。博多よりも遠い感じがした。なんとなく、高速道路や新幹線の付近は近く感じるからだろうか。高知より、和歌山が遠いな。うん、あそこは遠い。
 もちろん、東北や北海道も遠いけれど、自動車で行こうとはもう思わない距離だし、飛行機に乗ったらすぐだから、あまり遠いと感じない。札幌なんかは、けっこう近いし。そういう感覚的な距離が、ネットのおかげでまた変化しているわけである。
 たとえば、フランスやドイツよりもイギリスは近い。どうしてかというと、僕が言葉を少し知っているからだ。だから、あちこち調べたりできる。そういう距離もある。
 僕だけ? 大阪万博の太陽の塔は、アンメルツ・ヨコヨコに似ていると思う。

 そういうわけで、5日間に渡って、清涼院流水氏に学科を担当いただいた。感謝。
 非常に助かりました。書くことを考えなくて良いということが、こんなにも素晴らしいことか、と再認識しました。これは、書いたことがある人にしかわからないかもしれません。あれ、急にですます調になっていますね。幼虫がさなぎになって、急にデスマス蝶になったのなら、面白いですか。どうでもいいですか。
 なんとなく書いておくが、清涼院氏は、のんた君ぬいぐるみを持っている7人の小説家のうちの1人である(その7人に森博嗣も含まれる)。だから、あと5人いるな、と……(何が?)。
 こういうのを、「転んだのんた君はただでは起きない」というのではないか。あわよくば、「渡る世間にのんた君はそんなにいない」とか、しかるのちに「のんた君なら、はちまきに短し、帯に長し」とかも聞かれるところである。
 それから、たった今、「アンチ回文」なるものを考えた。「軽い機敏なのんた君何匹いるか」とか、「私、またのんた君に負けましたわ」とかである。くれぐれも真似をしないように。

【図工】 浮遊は彼色 Who's Your Hero?

 こんにちは、清涼院です。期間限定の特別授業も、今日が最終回です。
 森博嗣先生の工作好きは有名ですよね。最終日は工作について考えてみましょう。
 森先生ほど本格的でなくても、身近なところでは粘土細工やプラモデルなど、誰しも、なんらかの工作を体験したことはあると思います。自分の手で素材からなにかがつくり出されるふしぎな快感を、味わったことはありませんか? いわゆる工作に限らず広い意味での創作活動に人が魅力を感じるのは、なにかを 創造し遂げる達成感への期待もあるでしょうし、創作している最中の模索と発見の充実感が、とても大きいからではないでしょうか。
 人間の創造した物の中で飛行機がいちばん美しいと、森先生は発言されています。飛行機の形の素晴らしさは人間の自由な発想そのもので、そうした人間の発想力は空を飛ぶのにも等しい能力である、と。森先生の名言の中でも、指折りのお言葉だと思います。
 森先生のホームページは、どうして「浮遊工作室」と名づけられているのでしょう?
 工作に象徴される創作活動に没頭している時、森先生は、空を飛ぶのにも等しい発想力、空想力によって、重力から自由になり、浮遊されているに違いありません。あらゆる固定観念の重力から逃れる、この「自由力」において、森先生は「飛び」抜けておられます。そして、自由な飛行を満喫しておられる森先生の、そのなんとも言えない伸びやかな姿を、ぼくたち読者は、いつも羨望のまなざしで見上げて、見守っているのです。大空を飛び回る鳥の自由な姿に、大昔から人が魅せられ続けてきたように……。
「孤独も寂しさも、とにかく僕には明るく楽しいイメージだ」
 強がりではなく、本心からそう語れる森博嗣さんは、永遠の工作少年です。
 いくつになっても変わらず工作を愛する少年の純粋な心に、その空想力に、重力など関係ないその自由力に、今後もずっと、多くの読者が魅了され続けていくことでしょう。
 願わくは、いつまでも、森先生が「もう疲労し、ムリ」となりませんように……。
 お書きになる「文がCool」で、正確な「森算」の論理を操る日本で最初の本格的「理系」「作家・偉人」森先生は、ぼくたち「熱心なファン」のヒーロ (Hero)です。われわれは「森博嗣」先生というヒーロの、栄光に満ちた歴史の目撃者です。特別授業の終わりに、限りない敬意を込めて、この輝かしい歴史を「森ヒーロ史」と命名したいと思います。
 最後になってしまいましたが、ぼくの話に耳を傾けてくださったあなたと、「好きにしてもOK(=数奇にして模型)」と広い度量でぼくをご指名してくださった森博嗣先生と、いつもお世話になっている編集部の稲子美砂さんにも、心より感謝申し上げます。
 I'm most grateful to you for reading these special classes.
 With best regards.


2006年06月22日(木曜日)

【HR】 己を知るもの

 朝は降っていなかったので、パスカルが庭を走り回っていた。涼しいから草取りもできた。午後から雨になった。
 ガレージで工作。主に塗装。本当は、塗装は湿度が低い日が適しているのだが、そんなピカピカ仕上がりを期待するような工程ではなかったため。
 お昼頃、パスカルも一緒に車に乗せて、スバル氏と書店に行った。月刊誌を10冊ほど買ってきた。しかし、あまりじっくりと読むようなところもなく、たちまち消費してしまった。
 小説の仕事は1時間ほど。「λ」の手直しが37%まで。それから、「日経パソコン」の残りの2枚のイラストも下描きをしてスバル氏に託した。

 今日はどうやらパスカルの誕生日らしい(うちで生まれたわけではないので、証拠はないが)。1歳である。よくここまで大きくなったものだ。最近、もう大きくなっていない。どこまでも大きくならないのは、実に不思議である。植物でも、それは感じる。生きものというのは、己を知っているというのか、もともと越えられないようにプログラムされているわけだ。
 躰の大きさだけではなく、自分の能力についても、ほとんどの生きものは自覚している。高いところからは、子犬は飛び降りない。大きくて動くものには近づかない。人間の子供も、スポーツを始めたり、勉強を始めたり、趣味を始めたりしたとき、将来自分がどこまで上りつめることができるだろう、という想像をするが、その想像は、それほど現実離れしていないのではないか。もちろん、経験を積むうちに、少しずつ軌道修正される。台風の進路予測のように、せいぜいこの範囲だろう。希望的に見てこのくらい、悲観すれば最悪こうなる、と想定する。それをしない人間もいるようだが、それでも、無意識にでも少しは思い描いているはずだ。

 口では「やってみなければわからない」「可能性はある」と言うものの、実は、「やらなくてもだいたい予想できる」ものである。もちろん、「可能性がない」わけではない。宝くじだって、可能性がないわけではない。
 ただ、問題は、可能性が低く、確率が小さいものに挑戦するならば、それに見合った努力をすべきだ、ということではないだろうか。それをしないで、「いや可能性はある」と元気だけ出そうとするのは、太古の宗教と同じだ。いわゆる、「神頼み」であって、原始的といわざるをえない。おそらく、多くは、無意識には諦めていて、ただ、努力をする自分の姿に見とれているだけだろう。
 たとえば、宝くじを本気で当てたいならば、それに見合った努力とは、できるかぎり沢山買うこと以外にない。そうすれば、少なくとも期待値には近づく。他人よりも1000倍余分に買えば、1000倍確率が高くなる。あれを当てる人間の多くは、そういう金を捨てられる金持ちにちがいない。いわゆる財力だけが勝負の世界である。あまり、良い例ではなかったかな……。
 食べもののことを久しぶりに書こう。ソーセージマフィンが好きだ。ときどき食べる。おしまい。

【社会】 作家 says 社会性

 こんにちは、清涼院です。第4回は社会です。
 今までの3回を読んでくださった方はたぶんお気づきだと思いますが、ぼくが担当させていただいているこの特別授業では、毎回わざと森博嗣先生に絡めて話を進めています。
 森先生からそうしたご要望があった、わけではありません。このAcademyを訪れる方は間違いなく森博嗣ファンのはずなので、森先生と絡めた話のほうが興味を持っていただきやすいのでは? と、ぼくが勝手に判断したからです。そんなわけで、今日の社会と、最終回となる明日の図工でも、森先生ネタに触れることになります。ご了承ください。
 森博嗣作品がワン・アンド・オンリィの雰囲気を持っているのは、森先生ご自身がオンリィワンのキャラクタだからでしょう。作家性とは、あるひとりの作家と、ほかの作家とのズレから生じます。ズレこそが作家性なのです。昨日の授業で触れたように、森先生は出版界で独自の地位を築かれています。そのオリジナリティこそ小説家「森博嗣」先生の作家性で、同時に、私人「森博嗣」さんの社会性なのだと思います。つまり、作家性 is 社会性、ですね。
 森先生のキャラクタは、社会との接し方にも表れています。印象的な例として、運転している自分には見えないから車の外側は洗わない、というエピソードが挙げられます。
 車の外側を洗わない、といっても、自分の世界の外にいる他人を拒絶するわけでも、他人の存在を無視しているわけでもないと思います。他人にどう見られようと関係ないと思えるくらい森先生が「自分」を強く持っている証拠ではないかと、ぼくは考えています。
 どんな社会に属するにしても、しっかり「自分」を持っている人は信頼されるものです。「自分」を持っている、とは、どういうことでしょうか? ぼくの考えでは「どんな質問に対しても、借り物ではない考えを返せる」境地です。言うは易く、実現するのは難しいですが、森先生のように思索を続けることが有効であるのは間違いありません。他人から与えられる情報をただ鵜呑みにしていては、あなただけの「自分」は築けないのです。
 すべての人が組織に宮仕えする「会社」人に当てはまるわけではないとしても、人は誰でも(たとえ子供でも)社会の中で生きる「社会」人です。今や「作家・偉人」森先生だって社会人です。生きていく上で、あなたと社会の関係に、どう折りあいをつけていくか? その問いに対して無自覚でも「自分」なりの答えを出せるのなら、あなたはきっと他人にAmazing!(驚き)な能力を感じさせる、優秀な社会zing!(社会人)に違いありません。


2006年06月21日(水曜日)

【HR】 家に対する名言?

 今日も晴。梅雨の合間の晴れだから「五月晴れ」といって良いのだろうけれど、ほとんど聞かない。
 昨夜、パスカルをシャンプーしたので、今朝はドン・サラッコだった。スバル氏が、パスカルが一人でミスタードーナツへ買いものにいって、ちょうど欲しいドーナッツが売り切れている、という物語を聞かせてくれて、それがとても面白かった。絵本にすれば良いのに。

 午前中は研究打合せのため外出。お昼まえに戻った。それから、1時間ほど小説の仕事をした。「λ」の手直しは25%まで進捗。
 角川から「どきどきフェノメノン」のゲラが届く。10月にノベルス版を作るため。まだ、締切はさき。
 同じ内容で装丁を変える場合、もう一度、校閲が確認をして、いろいろ指摘や疑問を出してくるわけだが、だったら、最初の単行本のときに指摘してほしかった、と思うことは多い。不思議だ。それよりも、フォーマットが変わるだけなのだから、禁則処理とかをもっとじっくり見てほしい。以上は、特に今回のゲラの話ではない。
 文藝春秋から8月刊の「少し変わった子あります」のカバーイラストをこのイラストレータではどうだ、という提案もあった。一般に、編集部の人たちは、単行本のときにカバー、装丁に凝って、力が入っている気がするけれど、僕は、単行本よりもむしろ文庫の方が気になる。部数が何倍も多く、ずっと長く世に残るのは文庫だからだ。単行本のときはあまり自分の意見は言わない。デザイナの好きにしてもらってかまわない。文庫の場合は、少しだけ自分の本だという意識から、思うようなものにしたい、と思う。

 お昼過ぎに、スバル氏とホームセンタへ行ったが、接着剤を買っただけ。車の中で面白い話をした。
 住宅のことについて、話し合っていたのだが、スバル氏が「これが私の格言」というフレーズを沢山繰り出す。それがことごとく面白い。たとえば、
 「狭い住宅は窮屈である」
 とかだ。これは名言だと思う。誰も言い返せないだろう。特に、この頃、「狭くても〜な住宅」というコピィを雑誌などで多く見かけるので、それらを一掃する勢いが感じられる。また、
 「同じ四畳半でも、ほかに沢山部屋がある四畳半と、四畳半しかない四畳半では全然違う」
 というものもある。うん、これも名言だと思う。言い返せない。そのとおりだ。このほかにも、
 「狭いと広いは全然違う」
 というのもある。当たり前のことを言っているようだが、たしかに真理なのだ。笑ってはいけない。しかし、大笑いした。
 僕も、住宅について人から相談されたときに言うことが1つだけある。それは、
 「家は建てるまえに9割が決まっている」
 ということ。これは、どんな家を造るのか、なんてほんの1割であり、それ以前に、「どこに建てるか」で9割が決まっている、という意味だ。だから、もし選べるのであれば、とことん場所を選ぶべきである。そこに何年住むのかを考え、その年月、その場所がどう変化するかを想像する。家なんか、気に入らなければ建て替えられるが、場所はそう簡単には交換できないのだから。

【理科】 アナログ・アカデミィ

 こんにちは、清涼院です。5日間の特別授業の折り返し地点ですね。
 まず白状します。ぼくは子供の頃から理科が大の苦手でした。ぼくは中学と大学、人生で2度(2校)受験していますが、どちらの時も理科にだけ足を引っ張られました。そんなぼくが理科の授業をするなんて、驚きです。世の中、なにが起こるかわかりませんね。
 よく知られた「世の中には、2種類の人間しかいない」という言い回しは陳腐すぎて嫌なのですが、それでも、森博嗣先生の作品に接すると、世の中には理系人間と文系人間がいるもんだなあ……と、考えさせられてしまいます。もちろん、すべての人が理系と文系に綺麗に別れるわけではありませんが、 S&M(シリーズではなく、サド傾向とマゾ傾向)のように、どちらの要素が強いかで、どんな人でも理系か文系に分類することはできます。
 森先生は、日本で最初の本格的な理系小説家として、歴史上に特筆される存在です。
 それまでにも理系的な思考をする小説家や理系畑から出てきた小説家はいたのですが、森先生ほど理系らしい理系の小説家は、いませんでした。デビュー後も変わらず理系らしさを貫き続けていることを考えると、まさしく類例のない地位に森先生はおられます。
 誤解を恐れずに言い切るなら、ぼくが考えるに文系人間とはアナログ思考で、理系人間はデジタル思考です(みんながいつも、ではなく、その傾向が強い、ということですよ)。
 昨日の原稿用紙の話にもよく表れていますが、非常に大ざっぱでアバウトな(←わざと重複表現を使ってみました)のが、出版界、という文系の世界です。 そこへ、精密機械のようなデジタル人間の森先生が登場して、新風が吹き込まれました。森先生のキャラクタと作風は文系社会の出版界にとってはあまりにも異質だったので、とても大きな衝撃でした。でした、と過去形で片づけてしまえない独自の存在感が、今なお森先生にはあります。
 仮に、ぼくが無謀にも理系的な部分で森先生に議論を仕掛けたとしても、どう逆立ちしても勝てっこありません。それは自覚しているので、せめて自分の得意な文系の分野で、たとえば言葉遊びで勝負を仕掛けてみたこともあるのですが、森先生には、とても敵いませんでした。まるでアナログがデジタルに駆逐される社会の縮図のようで……こうなったら「アナログにはアナログの良さがあるんだけどなあ!」と開き直るしかなさそうです。


2006年06月20日(火曜日)

【HR】 予想される誤読

 今朝もよく眠れた。睡眠充分。清々しい。庭の水やりと草取り。小説の仕事も午前中に1時間ほどする。
 お昼頃から、スバル氏とショッピングセンタへ。主に食料品。不運にもジャスコ感謝ディだったため、混雑していた。カートがなくなりそうなくらい。僕は必ずカートを押す役になるが、この車輪の動きが悪いやつがかなりの確率であるようだ。あれは、精神衛生上よろしくない。CRCを吹き付けてやりたくなる。キャスタのメンテナンスをこまめにするのは大変なので、調子が悪いカートに貼っておくシールを作って置いておき、客に指摘してもらうシステムにしてはどうだろうか。まるで某作家が自著の誤植を読者の指摘メールに頼っているがごとく。

 そのあと、ついでに不動産を1つ見にいった。市内なのに、3000坪という面積のものが出ていたからだ。なかなか良いロケーションだった。スバル氏が、「お買いになるの?」なんて敬語できいてきたが、その動機はよくわからない。
 気温は高いが爽やかな日だった。庭でけっこうな時間過ごした。工作室ではクーラをつけて、いろいろメンテナンス。ガレージでは塗装なども。
 夕方、多少光が良かったので、ビデオ撮影をした。機関車を走らせて、それを撮るだけ。ビデオ撮影のときは、とにかくワン・ショットを短くするように心がけている。ついつい長く撮ってしまうからだ。映像だけならば簡単なのだが、ビデオは音が入る。近所の犬が、夕方の散歩にいきたい!と吠えていたりするのが困る。隣のおじいさんが、草刈りのエンジンを回していたりすると困る。普段はまったく気にならないものが、気になる。難しいものだ。映画監督にならなくて良かった。補足しておくが、僕はビデオを一切編集しない。撮ったまま、である。

 「λ」の手直しは13%まで。編集担当のK城氏には、第1稿を読んでもらっている。そういえば、よしもとさんについに追いつかれ、Gシリーズを4作目までの感想をいただいたが、簡単に見切られてしまったので、ちょっと「こりゃ簡単すぎたかな」などと反省中。しかし、読者のメールにはそういったものは今のところほとんどないから、まあいいか、とも。単によしもとさんが天才読者なのだ。
 「日経パソコン」のゲラ校正。7月の「虚空の逆マトリクス」文庫版は、解説をゆうきまさみ氏にお願いしてあって、それが本日届いた。お楽しみに。

 文章を書いているとき、「あ、ここは読者が誤解して、きっと指摘が沢山来るな」と思うときがよくある。直すこともあるけれど、そのままにすると、案の定メールが沢山来る。
 最近だと、「ジャーロ」の近況。ホームセンタのシール剥がしのことを書いたのだが、ジョークで書いているのに、僕がそれを知らないと勘違いし、「それはこういう商品です」と親切に書いてくる人がきっといるだろう、と思った。
 MLAの例だと、たとえば、梅雨入り宣言の話を書いた。「気象庁では宣言などしていない」というメールが来るだろう、と予想したら、8通来た。これは、以前に一度、どこかで同じ問答をしている。もちろん、気象庁が宣言をやめたことは知っているので、文章のどこにも、僕は「気象庁」とは書いていない。でも、そう読む人がいるだろう。それは、マスコミの今の報じ方で、「気象庁が宣言している」と思い込む人がいるのと同じだ、ということが言いたかった。
 また、つい先日はエンジンの話を書いた。「DOHCは最近では珍しいものではない」という指摘メールが来るだろうと予想したところ、23通も来た。自動車関係というか、マニアが多いことがわかった。僕はどこにも、「珍しい」とか「レーシングエンジン」だとは書いていない。「OHCが普通だ」とも書かなかった。でも、読む人は自分の思い込みで読むのである。DOHCが家にあれば、かなりの車好きが1人いる、と書いたが、日本には、もうほとんどの家にかなりの車好きがいる、と言いたかったのである。メールの数もそれを示しているではないか。そこまでDOHCを増やした国民とメーカを、少し変かな、くらいには思っているが……。
 誤解は覚悟のうえであって、このように解説の機会があることは極めて少ない(0.1%くらいか)。ささやかな誤読を誘うような文章が必要なときも当然ある。ジョークのほとんどはそうだ。また、力を持った文章とは、本来誤解のぎりぎりを突いてくる。誤解を必要とする作家もいる。最初から解説するような文章というのは、やはりその種の作家では成立しない。

【算数】 森算

 こんにちは、清涼院です。まずは、簡単な復習から始めましょう。
 実は、昨日の国語の授業には、やや問題のある表現がありました。意図的に忍ばせてみたのですが、お気づきになられましたか?(今から読み返していただいても構いません)
 正解を言ってしまうと、冒頭あたりの「熱心なファン」というところです。
 Fanという英単語は「熱狂的なマニア」を意味するFanaticの略語ですから、Fanそのものに「熱心な愛好者」の意味があるわけです。なので、「熱心なファン」というのは「頭痛が痛い」や「上を見上げる」に似た、森博嗣先生もこのAcademyで触れられていた重複表現となってしまうのです。 絶対にダメだというわけではありませんけれど、誤用と思われやすいので、こだわりがあるのでもない限り、重複表現は使わないほうがいいでしょう。
 算数の授業にはふさわしくない話のようですが、実は、関係します。上記のような言葉のチェックを徹底するのは、正確さが求められる作業です。そうした 作業の精密さにおいて、森先生の「文がCool」な作品は、とても優れています(だからCoolなのです)。数字に強い人は、単なる印象よりも事実としてのデータを重視するものです。それが、論理的な思考と、正確な伝達につながります。算数と国語は、あながち無関係でもないのです。
 出版界では、作品の分量を把握する上で、20字×20行の400字詰め原稿用紙の枚数で数えるという尺度が、今でも機能しています。400マスをぜんぶ文字だけで埋めても、小説の章の終わりなどで「た。」2文字だけで終わっていても、同じ1枚として数えるわけです。
 こうした慣習に関係なく原稿の分量を純粋に文字数で表したのは、ぼくの知る限り、日本の出版界では森先生が初めてです(ただ、英語圏では昔から小説を文字数で表します)。
 16万文字の小説は、原稿用紙に換算すると、何枚でしょう? 16万文字÷400(文字/枚)=400枚と答えた人は、間違いです。小説には必ず、行頭行末の空きや、ページの途中で文が終わったことによる余白があります。16万文字が原稿用紙500枚以上にもなるのが、現実の算数なのです。
 ぼくは森先生に対して、ふだんは親しみを込めて「森さん」と呼んでいます。その一方で、現実の算数を正確に解き明かす森先生の論理を、勝手に「森算」と名づけてもいます。「森さん」の「森算」は本当に参考になるので、今後も目が離せません。


2006年06月19日(月曜日)

【HR】 動機が不明


 日差しが強く、からっとした晴天。もう夏だ。朝は気持ちが良くて久しぶりによく眠れた。爽快。
 パスカルも、スバル氏が昨夜帰ってきてたちまち元気になった。新しい電池が入ったおもちゃみたい。
 今日から、「λ」の手直しを10日間の予定で始めた。最初少し手間取ってまだ完成度は3%。これは9月刊の予定。Gシリーズはこれで5冊になる。最初の「φ」は既に12刷になっていて、非常に好調。このシリーズがいつまで続くのか、という質問メールを沢山いただいているが、答は「わからない」である。
 それから、なんと、「悠悠おもちゃライフ」が重版になった。高い本なのに珍しい。部数が少なめだったためとは思うけれど。

 お昼頃、中央公論新社のM松氏とN倉氏が来宅。「フラッタ・リンツ・ライフ」の見本を持ってきてくれた。ピンクを予想していたが、ほとんどブルー。ややバイオレット、という色である。これでシリーズは4冊になった。来年5冊めが出て完結となる。
 それから、来年春に、中公で文庫化する詩集「MATEKI」の打合せも。こちらは、単行本(PHPより2003年発行。既に絶版)とは、そっくり同じではなく、がらりと変えた内容になるかもしれない。もしかしたら、タイトルも変えるかも。というような結論になった。さらに、もっともっといろいろさきの話まで打ち合わせたのだが、ここには書けないことが多い。
 もう1つは、鉄道模型関係で、今年のJAMコンベンションの説明会が昨日東京で開催され、僕に代わってN倉氏が(広報部長として)代理出席してくれたので、その報告を受ける。今年の会場は、大阪のインテックス。そのための打合せもした。ところで、昨日の説明会に、ちょうど上京していたスバル氏も顔を出したのである。これがどういう風の吹き回しなのか、さっぱり理解できない。「動機」がわからないのだ。単に「そんな鉄チャンの男集団の中へN倉氏を1人行かせるのが可哀相だ」という気配りだったらしいが、それにしても、昨年だってN倉氏は1人で行っているのだ。もちろん、スバル氏から、行くとは聞いていたのだが、「どうして?」という驚きだけで、理由は聞いても理解できなかった。恐いもの見たさ、みたいな好奇心だろうか、と想像するしかない。
 工作は1時間ほどできた。庭掃除も1時間ほどした。

 さて、そろそろこの日記を始めてまる9カ月になろうとしている。文庫本でいうと3冊分だ。一応、3年を最短の目標としているので、クオータになる。
 毎日、夕方か、夕食後くらいに書いている。パソコンに向かって、その場で何を書くか考える。1日の生活の中で、「あ、今日はこれが書けるな」などと思うことはまったくないし、もちろんメモもない。これは、学科の方も同様で、その場で考えることにしている。ネタのストックは一切ない。
 まえにも書いたが、いつもそんな状況で書いているから、常日頃からネタは尽きているわけで、これ以上に尽きることはない。ただ、「これはもう書いたな」ということは確実に増えているので、最初よりは書きにくくなっているだろう。だが、人生そのものが、そのとおりのジレンマを抱えている。普通のことだと思われる。
 いきなりだが、学科の方を今日から5日間、非常勤講師の方にお願いすることになった。少なくとも、僕は考えなくて良いのだから、この5日間は少しだけ解放される。読み手も、そして書き手の僕自身も、良い刺激になるだろう、と思う。なにかのトリックで、僕が名をかたって書いている、というのではない。ご本人から原稿が今日届いたので、そのままサーバに転送した。快くお引き受けいただいたことに深く感謝するしだいである。

【国語】 文がCool

 どーもこんにちは、清涼院流水と申します。みなさんの中には「この人、誰?」と思われる方も、いらっしゃることでしょう。そういう方には「ぼくもあなたと同じ、森博嗣先生の熱心なファンなんですよ」とだけお答えして、自己紹介に代えたいと思います。
 森先生に「ちょっと、きみ」と呼び止められまして、このたび、短期集中の特別授業を担当させていただくことになりました。ぼく自身、このAcademyで森先生の授業を毎日楽しみに拝読している生徒のひとりなので、突然のことに驚いています。森先生の授業ほど充実した内容はとてもお約束できませんけれど、今日から5日間、どうかおつきあいください。
 初日は、国語です。ひとくちに「国語」といっても、その言葉が示す対象は幅広いですよね。ここでは「小説における日本語」に限定します。ちょっと小説の話をしましょうか。
 森先生は「日本語の小説は、日本語のわかる人なら誰でも書ける」と発言されています。ぼくも同じ意見です。出版しなければいけない、とか、それなりの分量を書いて起承転結がないといけない、という思い込みを捨てれば、小説はすぐ書けます。他人には認められないかもしれませんが、「これが自分の小説だ!」と主張すれば、小説書きになれるのです。
 では、誰でも自分のイメージ通りの小説が書けるかというと、とたんにハードルが上がります。構成力も必要ですし、文章力も重要です。文章の良し悪しの判断基準は名画鑑賞にも似て人それぞれ意見の異なる抽象的なもので、絶対的なルールは存在しません。お行儀の良い文章でも、読む人が退屈すれば小説としてはNo Goodです。逆に、支離滅裂な文章でも異様な突進力があれば、小説のユニークな味つけになることも、現実にあるのです。
 評価が抽象的にならざるをえない日本の小説界で森博嗣作品がクールさにおいて突出しているのは、小説家が陥りがちな「お文学」への陶酔がないからだと、ぼくは個人的に思っています。ほとんどの読者に通じないであろう小難しい言葉を延々と連ねる「文が苦」作品の対極にあるのが、いつも「文がCool」な森作品です。外「国語」に少し脱線してしまいますが、英語のCoolには、カッコイイ、という意味があります。「冷たい」を意味するCoolが、どうしてカッコイイのか? 頭に血をのぼらせて鼻息を荒くしている人と、つねに理知的で冷静な人のどちらがカッコイイかを考えれば、わかるはずです。


2006年06月18日(日曜日)

【HR】 犬は鏡

 朝はまだ雨が降っていたが、パスカルのために6時半に起きた。スバル氏がいないからだ。散歩に出たいというので、2度ほど、雨の中、一緒に庭に出てやった。雨を見ると、理由がわかるようだ。パスカルは、しかし、どうしてスバル氏ではないのかわからない様子。1時間ほど待ったら、雨がやんだので散歩に連れていくことができた。良かった良かった。

 ところが、リビングで遊んでいるとき、テーブルの端に置いてあった機関車を、その手前でターンしたパスカルが尻尾に引っかけてしまい、そのまま引きずって歩いた。すぐに取り押さえて、機関車を救出したが、このときに、パスカルはびっくりしたようだ。パーツが1つ取れてしまったので、そのまま機関車とパーツを持って、工作室へ直しにいこうとすると、パスカルがガレージまでついてくる。
 いつもは、ガレージへは自分からは絶対に入らないが、今日は足許を歩き、一緒に来ようとする。「ちょっと、ここで待っていなさい」と命じても来ようとするので、両手に機関車を持っていたこともあって、足でそっとパスカルをドアの方へ押したのであるが、これがまたショックだったようで、うずくまってしまい、動かなくなった。
 しかたなく、機関車をその場に下ろして、パスカルを抱き上げると、その場でおしっこをしている。それくらいびびっていたのだ。特に、叩いたり、脅したり、大声で怒ったりはしていない。最初は、「あ!」くらいは言ったかもしれない。人間の顔色を見て、自分がやったことの重大さをここまで理解しているのである。

 子供というのは、親の顔色を窺うものだ。親が笑っていれば、安心するし、怒っていれば、神妙になる。「親の顔色を窺うような子だった」という表現で、親の育て方を非難する場合があるようだが、育て方などに関係なく、子供は親の顔色を本能的に窺う。良い悪いではなく、当たり前であり、自然のことだ。
 子供のそうした仕草を見て、「ああ、自分は今、そんなに血相を変えていたのか」と大人は気づく。そういう大人であれば、大丈夫だろう。それが、「子は鏡」という意味である。
 子育てについて、ああだこうだと言うつもりは毛頭ない。どんな育て方が良いのか悪いのか、まったく関心はない。唯一思うのは、育て方なんか、ほとんど人格形成には関係がない、くらいのことか。人間というものは、そんなふうにして作られるものとは、僕は考えていない。子供は自分で育つ。自分で考え、なりたいようになれば良い。ようするに、子供をどう育てるのか、ということに囚われた教育論が多すぎる、と感じている。
 そうではなく、子育てによって、親がどれだけ学べるか、親がどれだけ成長するのか、ということを言いたかっただけだ。学べるのだから、学べば得だ、というだけのことでしかない。
 子供がどう育つかなんて、はっきりいって他人事である。多めに見ても、子育ての50%の範囲。学校の先生も同じで、子供を育てようとするあまり、自分の成長を忘れている。それは、教育の半分を放棄している姿であって、子供もそれを見抜く。ともに成長する仲間ではない、と感じるのだ。

 パーツを接着してから、もう直ったから大丈夫だ、とパスカルに言ってやった。こちらも、機関車が直ったことで気持ちが治っているし、やはり、それが犬にもわかるようである。
 子供や犬から、僕がどれだけ与えられたか、それがすべてだ。

【算数】 13個の玉のつづき

 13個の玉から重さ違いを見つける有名なパズルの続き。この問題では、最初に天秤の皿に4つずつのせる。もし、両者が釣り合ったら、残り5個の中に問題の玉があることが判明する。
 それでは、「5つの玉の中に重さ違いが1つだけあるとき、天秤を2回使うだけで見つけられるか」というパズルがあったらどうだろう? 実は、これは不可能なのだ。
 矛盾しているように思われるかもしれない。どこに違いがあるのか、というと……。
 前者の場合には、5個の中に重さ違いがあり、天秤をあと2回使って見つけ出せ、という条件は同じであるけれど、1つだけ情報が増えている。それは、正常だと保証された玉が既に8つ発見された、という条件だ。最初に天秤を使ったとき、これが得られている。
 5つから見つけ出すには、5つのうち3つを天秤の片方にのせ、最初に正常だと判明した8つのうちから3つを、もう片側にのせる。これが正解への手順である。もし、両者が釣り合えば、残り2つのいずれかが重さ違い。もし、釣り合わなければ、5つから選んだ方の3つのいずれか1つが、重いか軽いかがこの時点で判明することになる。
 このように、パズルの基本とは、与えられた条件や、自分が選択した行為によって、自分が何を知ったか、を見極めることにある。問題が解けない理由の多くは、問題の条件を把握していない、自分が知っていることに気づかない、という点にあるといえる。


2006年06月17日(土曜日)

【HR】 のんびりインプット

 朝から晴天。スバル氏が出かけていったので、パスカルと留守番。しかし、今日だけで宅配便が日中6つも届いて、受け取りが大変だった。まあ、しかし、ほとんどは自分のおもちゃなので、こういうのは、嬉しい悲鳴というのだろう(わざと書いてみた)。

 夕方から雨になる予報だったので、午前中は、庭で線路の工事をした。以前からある小さい機関車を走らせるための円形の線路だが、これの線路自体をすべて取り替えることにした。というのも、今まではレール間隔が45mmだったけれど、32mmの車両も走らせたいので、デュアルゲージの線路をイギリスから取り寄せ、これと交換することにしたのだ。工事は昨日半分済んでいるので、その続き。庭でハンダ付けなどをした。
 1時間ほどで開通したので、45mmと32mmの機関車を両方走らせて試運転をした。レールをハンダ付けしたため、ジョイント部がスムーズになった。

 午後は、パスカルが暑そうだったので、クーラをつけて、リビングで読書。中公のN倉氏から、参考資料としてとある漫画が25冊ほど届いているので、それを少しずつ読んでいる。面白い。
 それから、イギリスへ鉄道旅行に行かれた星野氏から、お土産の荷物が夕方に届いた。古いレトロな機関車と、雑誌と、それからイギリスの鉄道員の帽子などなど。氏が向こうで撮影されたビデオもいただいた。いつも、これも見るのが楽しみ。

 スバル氏がいないので、パスカルの世話をしなければならないのだが、夕方、雨が降るまえに散歩にいこうと思っていたのに、つい読書に熱中しているうちに、3時半頃気づいたら、もう雨が降っていた。いつも、5時過ぎに散歩にいくので、パスカル自身もまだ寝ていたのである。しかたなく、雨の中を、200mほど歩いてやった。その後も、ほとんどリビングにいて、パスカルとひっついたまま。
 久しぶりにインプットの多い一日だった。老後はこんな生活が良いな、と考えたりもする。たぶん、長続きしないとは思うけれど……。

【社会】 少ない縦長

 国旗の長方形は、だいたい横長である。あれは何故だろうか。日本古来の旗は、どちらかといえば、縦長が多かったのではないか。
 国旗というシンボル・マークが必要なことはたしかだし、別に日の丸が悪いとも思わない。愛国心などがどうこうと、昨今話題になっているけれど、どちらでも良い。なんとも思わない。
 そういう問題ではなくて、どうして世界中が決まった形の横長の長方形になったのか、ということは少々不思議だ。もちろん、ネパールだったか、例外の国はあるけれど、しかし、例外があまりにも少なすぎる。
 旗というものは元々は、軍事的なものだったと思われる。旗印とか、旗色とか、いずれもその意味に使われているので、想像である。紋とか、エンブレムなども、同様だろうか。
 話は変わるが、紙幣は何故、横長の長方形なのだろうか。何故縦長の紙幣がないのだろう? 自販機の紙幣投入口だって、縦に入れるではないか。
 文字を縦書きにする文化を持っている日本こそ、縦長紙幣を作れたのではないか。こういう場合、縦長紙幣を作れる国の最右翼だ、と書くのがけっこう高等な洒落である。
 クレジットカードも、縦長のものは見たことがない。不思議だ。テレフォンカードなど、絵や写真が入るものならば、わりと縦長があるけれど。
 切符なども横長だ。古来、御札(おふだ)などは縦長だったのに……。


2006年06月16日(金曜日)

【HR】 報道による抑制効果

 昨夜は大雨だったが、今朝はもう晴れていた。日中は30度近くにもなる。
 午前中に2件、人に会う用事。ミニで走った。同じスピードなのに、ミニやビートは体感速度が速くて、非常に楽しい。用事の1つは書類を書いたりする事務処理だったが、事前の打合せが綿密だったため、簡単かつすっきりと終わった。事務処理がてきぱきとこなせる人は本当に尊敬に値する。そういう人ばかりだったら、あちらこちらの窓口がもっと明るくなるだろう。

 午後は、久しぶりに沢山工作ができた。ときどき庭に出て、線路の工事もした。汗ばむ陽気だが、これくらいの方が体調が良いようだ。蚊がいるけれど、腕に電池式蚊取り機を付けて作業をしたので、刺されなかった。パスカルにも付けてやった方が良いかも。もう1つ買ってこよう。しかし、あの毛なので、蚊が狙うとしたら、鼻くらいか。
 漫画の新人賞の採点と講評を編集部へ送り、これは終わり。そろそろ7月の仕事の順番などを考えている。長編の執筆も予定している。

 今日のスバル氏は、「病気の親を乗せて病院への送り迎えはしているけれど、口では早く死ねばいいのに、と言う娘と、長生きしてほしい、と言いながらも、病気の親の面倒をちっとも見ない娘と、どっちが親不孝だろう?」と言っていた。まあ、それは人や時や場合によるだろう。「私が容疑者になったら、あとで何を言われるかわからんなあ」とスバル氏はご心配の様子である。
 こうしてみると、ときどきかっとなり、きれたりすることがあったり、日頃からけっこう言いたい放題、素直なもの言いをしている人などは、TVを見て、「あんなふうに言われるのか。こりゃあ、人殺しはできんなぁ」と思うかもしれないので、犯罪の抑止になっているだろうか、と心にもないことを書いておこう。
 心にもないことを口にする機会は非常に多い。自分の親のことを、「いやあ、もう長くはないよ」と言ったりするのは、ごく普通のことだ。話し方にもよるだろうけれど。
 何を言っているのか、などほとんど問題ではない。大事なのは、何をしているか、である。どちらかというと、満足に行動していない人の方が、綺麗な言葉でカバーしようとするものだ。

 昨日は、夕食のときに、サッカーの試合がTVに映っていた。スバル氏が観ている。コートの中にファンが1人入ってしまったが、カメラはそれを写さなかった。つまり、これが「マスコミの良識」である。さすがに先進国は違うな、と思った。川に飛び込むファンをカメラが待ちかまえているのは、どこの後進国のマスコミだっただろうか。
 たとえば、自分はもの凄い不幸で、世の中の誰も自分を相手にしてくれない、と常々不満を抱いている人間は、殺人を犯せば少なくとも大勢が注目してくれる、自分の過去の話も聞いてくれる、と考えるかもしれない。マスコミが願いを叶えてくれるのだ。TVを見ていて、もうあれしか道はないな、と思う人間はいるだろう。彼らにはそれが起死回生なのだ。
 事実を伝える以外にも、報道の仕方次第で、社会にとってマイナスの行為を少しは抑止することができるはずである。それこそが、報道の使命ではないだろうか。

【図工】 デッサン

 絵を描く人は、「デッサンの狂い」がないかを気にする。これは、絵を描かない人には、意味が通じない言葉だ。デッサンというのは、物の形、明暗を描いた素描のことであるが、普通のデッサンは、対象物を見て、それを紙に写すので、つまり、実際に見ているものとの差が「狂い」になる。
 ところが、漫画などでは、実物の対象物は存在しない。すべて想像で描いているわけである。それなのに、どうして「デッサンの狂い」が生じるのだろうか、と不思議に思う人がいるわけだ。
 絵を描く人にとって、デッサンが狂っている、とは、文法が間違っている、と同じくらい(絵心がある人間ならば)誰が見ても明らかなものである。ただ、描いた本人が、描いた直後には気づかない。これは、文章でも、書いた直後は間違いに気づかないことがあるのと似ている。
 ようするに、客観的な目で見直さないと、デッサンの狂いはわからない。逆にいえば、それくらい、描いている最中は主観的になり没頭している。主観的にならなければ、良い絵は描けないが、ときどき、視点を変えて客観的な目で、デッサンの狂いがないか、すなわち、他人が見たときに変な状態に映らないか、ということを確かめるわけである。
 デッサンが正しいものが、本もののとおりであるとか、美しく魅力的であるという意味では全然ない。非常に下手な絵で、まったく魅力がなくても、デッサンが正しいものもある。逆に、デッサンが少々狂っているけれど、そこに味があり、魅力的な絵もある。こういったものは、作者が意図して、デッサンを狂わせている場合が多いが。


2006年06月15日(木曜日)

【HR】 パスカルの散歩範囲

 朝はまだそれほど降っていなかった。気温も低く、パスカルも元気。
 昨日余分にしたので、今日は小説の仕事をしないことにした。午前中は、スバル氏とホームセンタへ。いろいろ見て回ったが、買ったものは殺虫剤くらい。寸法を見たり、カタログをもらったりしてきただけ。
 午後はガレージの2階で昼寝。ちょうど良い気温で気持ちが良い。古い洋雑誌などを眺めているうちに眠ってしまう、という寝方がベスト。
 起きてから工作を少しする。1時間ほどひたすらヤスリで材料を削っていた。これも、昼寝の延長みたいなもので、頭が休んでいるので気持ちが良い。

 外は雨というよりも風が強くて、嵐みたいだった。パスカルは、そんななか元気に散歩に出かけていった。この頃、よく歩くようにはなったけれど、家の前の道をまず東へ200mほど行く(少し長くなった)。そこで、急に立ち止まって、「この先は知らないところです」という顔でじっと振り返る。しかたなく、同じ道を引き返し、家の前を通って、今度は西へやはり200mほど行くと、同じように「さあ、もう引き返しましょう」という顔で立ち止まるのである。だから、合計800mは歩いているが、何が面白いのかは不明である。知らない道へは行きたがらない。
 もっとも、庭の中を走り回っているので、運動不足ということはないはず。食べものは、ドッグフードだけで間食は犬用のボーロが1日に7、8個くらいか。そのわりにまるまるしているので、みんなに、「食べ過ぎじゃない?」と言われているが。この頃は、食べものにはさほど興味がなく、人が食べていても、ねだったりはしない。どちらかというと、食べものをもらうよりも遊んでもらいたい方だ。いつも、人のそばにいるし、躰を寄せてくるので、まるで(甘えるときの)猫みたいである。
 書き上げた「λ」は既に編集部に送ってある。手直しは、来週することにした。「日経パソコン」のイラストがまだ2枚しか描けていないので、あと2枚(下書き)を近々描こう。
 本日、パスポートは無事発見された。どこかにあるはずだが、というものは多い。まあ、二度と出てこないものもあるだろう。
 書斎や工作室の散らかり様を見ていると、「ああ、巣だな」と思うことがある。鳥やビーバみたいに、あちこちから集めてきて、自分の場所を作っているのかもしれない。

【理科】 エンジン

 シリンダの中で燃料を爆発させるタイプのエンジン(いわゆる内燃機関)には、2サイクルと4サイクルがある。
 2サイクルエンジンは、ピストンが1往復するたびに爆発する。爆発の力で、ピストンを押し排気をしながら、ほとんど同時に次の燃料を吸い込む。そして、惰性で戻ってきたピストンで圧縮して、また爆発させる。機構が非常に簡単で、今でも草刈り機のエンジンなどに多く使われている。ただ、排気と吸気を同時に行うため、無駄が多い。
 4サイクルエンジンは、機械的に弁を動かし、吸気と排気を別々に行う。爆発はピストン2往復に1回で、同じ回転数では、2サイクルの半分しか爆発しない。このため、音が低く静かになる。弁を動かすためのメカニズムが余分に必要なので重くなるし、その部分にもオイルが必要になる。メリットは効率が良く、つまり燃費が良いこと。現在では、エンジンと呼ばれるものの多くは4サイクルである。
 ちなみに、4サイクルエンジンには、吸気と排気を行うための弁が、シリンダのヘッドに2つある。なるべく沢山吸排気をしたいわけだが、弁の穴を大きくすることは無理だ。そこで、吸排気の弁を2つずつ、つまり、ヘッドに4つの穴を開けたものが、いわゆる4バルブ・エンジン(4気筒ならば16バルブになる)。
 この弁を動かすカムは、もともとはエンジンの回転軸にあったが、ベルトなどを使って、このカムシャフトをエンジンのヘッドまで上げたものをオーバ・ヘッド・カムシャフト(OHC)エンジンといい、さらに、吸排気のカムシャフトを独立させて2本にしたものが、ダブル・オーバ・ヘッド・カムシャフト(DOHC)である。昔は「ツインカム」などとも呼んだが、厳密には意味が異なる場合もある。たとえば、シリンダ配置がV型や水平対向になると、DOHCは4カムシャフトになる。
 自分の家の車がDOHCだったら、かなりの車好きが1人いると見て良い。


2006年06月14日(水曜日)

【HR】 ファン倶楽部統計

 今日は朝が涼しく、睡眠も充分で、ここ数日では一番体調が良かった。パスカルも涼しいと元気で、庭ではしゃぐ。午後から風が出たが、まあまあの晴天だった。
 午前中に、「λ」を書き上げた。結局107%くらいで終わった。今日だけ、少し余分に書いたけれど、ちょうど20日で書き上げた。毎日1時間ほどしか時間を使っていない。この書き方を試してみたのだが、予想どおりで、良い感じだった。無理をしないため、力を抜けるのが良い、と思う。
 今月は、この作品の手直しを1週間ほどかけてするのと、パズル本のエッセィを書くことくらいになった。明日から少し工作に力を入れられるだろうか。

 午後は、PHPの「文蔵」のインタビューを受けた。K南氏とO山氏、それからライタのT本氏が来宅。ミステリィのこと、小説のことなど、一般的な話。8月売りの号に掲載されるらしい。お客さんが来ると、パスカルがもの凄く甘えるので、スバル氏に別の部屋へ連れていかれている。

 ファン倶楽部が毎年6月になると、会員の統計分析の結果を知らせてくれる。現在1万人以上の登録があって、これだけの母数のデータは滅多にないので貴重。
 会員の男女比は41:57(%、性別不詳の人がいるため100%にならない)である。ファン倶楽部の最初の頃、1999年の統計では、男女比が35:45だったので、僅かであるが、男性の比率が高くなっている。インターネット人口が、昔ほど男性比率が高かっただろうから、この傾向はその逆になる。
 また、年齢では、26〜30歳が最多で約29%、次が21〜25歳で26%、次が31〜35歳で17%、下は10歳以下、上は70歳以上まで、綺麗な分布曲線になっている。年齢別で見ると、年輩者の方が若干男性比率が高くなるが、大きくは変わらない。
 さらに、地域別で見たときは、東京が18%、神奈川が10%で、3位が愛知で8%という順番。大阪よりも愛知が多いのは地元だからだろうか。小説に地元が関係するのか、よくわからない。ちなみに、会員が少ない40位以下の県は、秋田、宮崎、徳島、高知、島根、沖縄、佐賀、鳥取で、これらよりも、アメリカ合衆国在住の会員の方が多い。インターネットらしい分布である。

 このファン倶楽部の「森ぱふぇ」の愛称は、「森ミステリィ・パーフェクト読者の会」という正式名称を略したもので、つまり、著作をすべて読んでいる、というニュアンスがあったようだが、もう、とてもそんな完全読者は珍しいはず。すべてを読めるほど、統一感もなく、つまり、バラエティに富みすぎていて、普通の感覚では無理だと思われる。
 入会費や会費というものはない。そのわりには、たとえば、著作に関する情報が詳しくかつ正確であったり、会員の特典は多い。まったくのボランティアの人たちが、完全に合議制で運営している(会長がいない)が、よくこんなに長く続いていると感心する。とにかく、感謝をしているしだい。あまり例がないのではないか、とよく編集の人からも言われている。できるかぎりの協力はしたいと常に思っているのだが、あまり力にはなれていないだろう。せめて、ここに書いて、紹介するくらいのことか。

【算数】 平均

 ものは言いようというか、統計は使いよう、である。
 たとえば、「平均点に1点だけ足りなかった」「順位は、第2位でした」といっても、次のような場合がある。問題は1問で1点満点のテスト。クラス全員が正解したのに、1人だけできなくて0点だった。
 平均点というのは、必ずしも、中間的な位置を示したものではない。たとえば、1人だけが100点で、ほかの全員が0点だった場合、クラスのほとんど全員が平均点以下となる。
 また、最も多数が分布する領域を示しているわけでもない。クラスの半分が40点で、残り半分が80点であれば、平均点は60点になるが、誰も平均点付近の点を取っていないことになる。
 平均のほかに、順位が中間の人の点数を取り上げることもある。また、合否を判定するような場合には、上位から人数を数えて、ある決まった順位の人の点数をボーダとして取り上げることもある。
 順位が中間の人が、必ずしも平均点を取っていない例は多い。分布の曲線がどのような形状をしているかによる。
 「一昨年も昨年も0%の成長だったが、今年60%成長できれば、平均毎年20%の成長という目標を達成できる」のように、比率を平均する人がいるが、毎年20%成長すれば、1.2×1.2×1.2=1.728となるので、平均20%の成長率を取り戻すためには、今年は一気に73%成長しなければならない。逆にいえば、3年間で73%成長したとき、73÷3=24.333で1年で平均24%成長した、とするのも誤解を生む。


2006年06月13日(火曜日)

【HR】 郵便局と銀行に期待すること

 9時起床。今日も曇空。雨は降っていない。庭に水やりをした。可燃ゴミを出した。
 午前中に小説の仕事。「λ」は95%まで。「少し変わった子〜」のゲラを最後まで。「日経パソコン」は第19回のイラストをスバル氏が描いたので編集部へ転送。今回は4次元世界の話。小論文の問題で引用された「大学の話を〜」だが、その問題を今度はWeb掲載したいと許可願いが来た。また、「TOOL BOX」のやはり問題集への掲載願いも。試験問題への引用は、最初承諾なしに行われるが、あとあと印刷などで許可が必要になってくる。面倒なことではあるが、しかたがない。エッセィの依頼も来た。この頃、仕事が多すぎるので、大変申し訳ないけれど、できるかぎりセーブしたい。
 お昼頃、スバル氏とパスカルと一緒に郵便局へ振込みをするために出かけ、買いものもついでにしてきた。現在珍しくゲラがないので、駐車場では読書。

 わざわざ郵便局へ足を運んだのは、郵便局の口座へはネットから振り込めない場合があるからだ。銀行からも振り込めない。とにかく、郵便口座というのは非常に不便である。自分だけで使う場合は良いかもしれないが、人から送金してもらうとき、相手に手間をかける場合がある。民営化したら、これくらいはまず当然改善してもらいたい。
 それから、銀行の場合でも同じだが、営業日の3時や4時までしか処理されない。ネットの銀行は24時間、いつでも手続きが自由だ。同じネット銀行の口座どうしならば、即座に送金できる。どこに対しても、24時間すぐに送れたら便利だ。いずれ改善されるだろうか。
 ペイオフが解禁されたので、1000万円を超える預金は保証されなくなった。そのためか、銀行から、投資・運用の案内がいくつか来ている。ただ、さらにリスクが大きなものを紹介する傾向にある。分厚いパンフレットのどこを探しても、「決済用預金」のことは書かれていない。決済用預金とは、無利子だが、預金保険制度により全額保護の対象になる預金のことで、銀行が破綻した場合も、預金が失われることがない。利子なんかいらないから安全が欲しい、という場合には、普通預金から簡単に移行できる。いつでも普通預金へ戻すこともできる。
 この決済用預金については、ネットの銀行ではHPでちゃんと案内されていて、ネット上で簡単に移行手続きができた。ところが、普通の銀行では、こうした案内がないところが多いのだ。郵便を使って、投資の案内の分厚い手紙を送りつけてくることが「サービス」だと考えているのは、考えがいかにも古いものと思われる。
 もう一点。今のところ、外国へまだ簡単に送金ができない。制度的な問題なのだろうとは思う。しかし、カードならば世界中で買いものができる時代なのに、買いものをしたとき、代金が銀行振込できないのは、いささか遅れているような気がする。
 お金を移動するごとに数百円の手数料を取られているわけで、1カ月に手数料だけで5000円以上は確実に支払っている。それに利子もない。だが、僕が銀行に期待することは、安全で便利な「金庫」あるいは「財布」であり、当然有料のサービスと認識している。

 夕方、文藝春秋のI井氏が来宅。「少し変わった子〜」のゲラを取りにきてくれた。これは8月後半の発行になる。表紙は鈴木成一氏に依頼したらしい。それから、絵本の打合せもした。「STAR EGG 星の玉子さま」に続く第2弾「STAR SALAD」を10月に予定している。8月末までに絵を描けば大丈夫とのこと。来月くらいから、作画に入りたい。
 夕方は晴れ渡り、爽やかな空だった。まだまだそんなに暑くないのが良い。しかし、パスカルは暑いみたいだ。

【国語】 けどけれどけれども

 辞書によると、「けど」は「けれど」のくだけた言い方であり、「けれど」は「けれども」と同じ、とあった。形容詞の活用で已然形の語尾「けれ」に、助詞の「ども」が付いたものらしい。
 接続詞として初めにつく場合ではなく、文章の終わりに助詞としてつく場合のこと。
 通常は、そのあとに来る文章が、流れから予想されるものではない、逆の方向であることを示唆する役目の接続助詞である。しかし、たとえば、「誰ですか?」に対して、「私ですけど」と答える。このときの「けど」には、特に逆の意味は含まれていない。これは、辞書によると、「ためらったり相手の反応を待ったりする柔らかい表現」と書かれている。
 注意深く人が話すところを聞いていると、「けど」がほとんどである。「けれど」と言う人は非常に少ないし、まして「けれども」はさらに少ない。「けれど」を使うだけで、少々上品な口調に聞こえる。
 口癖のように、「けど」を多用するしゃべり方もある。「あいつだけど、このまえ会ったんだけど、別にいいけどって、思ったけどさ、ちょっとだけど、いや、変だって感じたけど」という感じですけれども。
 ためらいを表す使用例。「本アカデミィはエッセィであって、作者が思いついたことを適当に書いているだけの読みものである。したがって、学術的にどうこう言うものでもなく、ましてなにごとかを論証し、あるいは間違いを正そうといった意図もないのだけれども……」


2006年06月12日(月曜日)

【HR】 完成と予感

 午前中から出かけて、お昼頃戻ってきた。半日潰れてしまったが、大事な用件だった。
 曇り空。ときどき太陽が覗く。お昼から小説の仕事を2時間半ほどする。「λ」は90%まで。「少し変わった子」を95%まで。「ラピタ」は推敲して発送。終わり。まあまあの仕事量。

 工作をする時間がないので、かわりに、新しい機関車の試運転をした。既に何度か試運転を重ねているけれど、コントローラの回路を替えてからは初めてだし、ボディに色を塗ってからも初めて。メインラインをぐるりと一周走らせた。電子的にしゅっしゅっと音がするので、楽しい。なかなか良い感じだった。そのあと、庭に水をやったりした。のんびりした夕方。

 5日まえに、「完成はない」と書いたけれど、模型飛行機は、最初にフライトしたときには、大いに達成感がある。飛行機と比較すれば少ないものの、機関車ならば最初に線路の上を走ったとき、人を引いて走ったときなどは、やはり同様の達成感がある。動くものは動くことで機能を果たす。だから、最初に思いどおりに機能したとき、少しは出来上がったという感覚が味わえる、ということか。
 ただし、完成する以前にも、試験的に何度も機能させる。飛行機だけは、なかなか未完成のものを飛ばすことができないので、その分、初フライトに成功したときの満足度は大きい。しかし、それでも、それが「完成」とはなかなかいえない。飛ばすと、不満な部分が見つかるからである。
 そうやって、機能させながら、使いながら、完成に近づけていく、という手法が一般的だが、使えば、今度は消耗する。ここらへんが、デジタルのものと少し異なっている。プログラムなどでは、調整をすれば限りなく完成度が高くなるけれど、機械はけっしてそうではない。調整を繰り返しても、ある一定以上のコンディションにはならないのだ。
 「今のフィーリングが最高だな」と思った次には、どこかの部品が消耗してしまい、そこを直して再調整をしなければならない。特にぎりぎりの性能を引き出そうとすると、調整と消耗が常に釣り合っているような状態を維持することが、いわゆる「ベストの状態」ということになる。たぶん、一流のスポーツ選手などはそんな状況なのだろう、と想像する。
 しかし、最上のコンディションへ持っていくことが目的というわけでもない。別に故障ばかりして、手がかかる機械でも、それを触っているだけで面白いものだってある。ここを間違えてはいけないと思う。

 半年かけて1台の機関車を作った。これは、この分野では、本当に軽工作の部類である。こんなに手間のかからない工作をしているモデラはむしろ珍しい。もっと時間をかけ、労力を注ぎ、もの凄いものを作っている人が沢山いる。
 ただ、どんなものを作ってもいえることがある。もし「完成」と呼べる場面があるとすれば、その場で得られる最上のものとは、出来上がったものの価値ではない。「次はもっと良いものが作れそうだ」という新しい予感である。

【社会】 商売の勢い

 新しい角地に洒落たジーンズショップが建つ。新聞広告も出し、店員も10人くらいいる。なかなか流行っているように見える。一方、近くに昔ながらの洋品店がある。ずっと同じ洋服がぶら下がっていて、店員は老婆が1人。木造の店もなかり古そうだ。
 両者を比べれば、誰が見ても前者の商売の方が勢いがあるように見えるだろう。
 当然ながら売上げは100倍以上も違うはず。しかし、ジーンズショップは、土地を借りている。その賃貸料が月に80万円。雇っている店員のバイト料が150万円。広告費もかかる。仕入れもかかる。それに、その店を建設したときの資金も回収したい。1日に平均100人の客が3000円の買いものをしても、安売りをしているため、利益は2割しかなく、1日6万円。つまり1カ月で180万円にしかならない。これでは、借金は増えるばかり。いずれ潰れることはまちがいない。
 老婆の洋品店は、持ち家なので、家賃はない。また年金をもらっているので、最低限の収入もある。既に豊富な在庫を持っているので、1カ月に4、5人、近所の顔見知りが1着でも服を買えば、老婆はその売り上げで贅沢ができる、と考えている。
 一見、じり貧だと思えるものが、実は意外にしぶとい。


2006年06月11日(日曜日)

【HR】 梅雨入り宣言

 小雨、曇、夕方から少し晴れる。カラスが多い。涼しいので長袖を着ていられる。庭掃除も少しだけできた。
 相変わらずのペースで、「λ」を85%まで。「少し変わった子」の初校ゲラは80%まで。「ラピタ」のエッセィも最後まで書き上げる。推敲は明日。「日経パソコン」のイラストの下書き2回分を終えて、スバル氏にバトンタッチ。あと2枚は後日。

 昨日の捜索によって、コピィのトナーカートリッジや、ポストイットなどの消耗品のストックが発見された。こういうのは文学的にいうと「ひょんなことから見つかった」だろうか。まだまだ、探せばあるような気がする。ホッチキスの針とか、スティック糊とか、プラスティック消しゴムなんかも新品がどこかに仕舞ってあったりするはず。仕舞ったままにして、肝心のときに出てこない。すっかり忘れているならば、まだ良いが、どこかにあるはずだ、という中途半端な記憶があると始末が悪い。
 どうも、収納スペースというものが悪いように思う。引出しとか押入れとか、いろいろ仕舞えるようになっているからいけない。全部見えるところに置いておけば良いのだ。それとも、「ハ行の引出し」のようにして、その中にはハ行のものしか入れないように限定する手もある。しかし、「ホッチキスの針」は、ハ行だろうか。ステプラの針かもしれないし。針じゃなくて弾かもしれないし。

 今、キッチンへコーヒーを取りにいってきたら、パスカルがスバル氏の足許で座っていたので、「あ、散歩にもう行ってきたの?」と彼女に尋ねたら、「そうや、もう行ってきたでぇ、今からご飯もらうところや」と関西弁で答える。パスカルの腹話術をしているのである。こういう機会が非常に多いため、パスカルは完全に大阪の犬になってしまった。
 今日も、スバル氏と長女M氏がミニで出かけたので、留守番だった。留守番になると俄然、いろいろ活動的になる。仕事を次々と片付け、工作もする。不思議である。なんとなく、今のうちに、と無意識に思ってしまうようだ。

 スバル氏は、今日みたいなちょっと雨が降る日だったらずっと続いても良い、とおっしゃっていた。つまり、水やりはしなくて良いし、パスカルの散歩には行けるし、暑くもないし、ということらしい。今は、洗濯も乾燥機があるから、そんなものかもしれない。二酸化炭素が増えたら、未来にはこんな天候が多くなるのではないだろうか。
 毎年書いているような気がするが、どうも「梅雨入り宣言」というものの意義がわからない。その宣言を聞いたら、どうしてみんな「そうか、梅雨になったのか」と思えるのだろう。その宣言さえ出ていれば、「まあ、雨が降ってもしかたがない」と諦められるのだろうか。逆に、梅雨入りしたのに、晴れたりすると、「どうなっているんだ?」なんて落ち着かない人もいる。逆恨みされるのがオチだから、そんな宣言はやめてしまえば良いと思う。誰が考えても、今日から梅雨、さあ明日から梅雨明け、といった明確なボーダが自然界にあるなんてとうてい思えない。たとえば、夏宣言とか、冬宣言だってないではないか。明日の天気も正確にわからないのに、どうしてそんな無理なことを宣言したりするのだろうか。つまり、僕が言いたいのは、「宣言」という言葉が不適切だ、という意味である。せめて、「梅雨入り確率60%」くらいにしてはいかがか。

【理科】 パイプ

 探偵が持っているパイプではない、管のことである。
 ストローのように中に穴が通っているものは、自然界にもわりと多い。血管のように、液体を通す場合もあれば、鳥の骨のように、軽量化が目的で芯が抜けている場合もある。マカロニや竹輪みたいに、食品でもパイプ状のものがある。火を通しやすい、味がつきやすい、あるいは、製法から来る理由もある。
 同じ直径のとき、中が詰まった丸い棒と、中に穴が開いたパイプとでは、どちらが強度が高いか、といえば、もちろん中が詰まっているものの方が強い。曲げに対しても、引張や圧縮に対しても有利だ。ただ、欠点としては重い、材料が余分に必要、などが挙げられる。同じ重さで比べれば、パイプが有利になる。
 パイプを曲げるとどうなるか。工作をしたことがある人はすぐに想像できると思うが、通常は、パイプの円形断面をそのまま維持して急な角度に曲げることはできない。折り目がつくように、ぺしゃんこになって、中の穴もふさがってしまう。ホースが折れ曲がって、水が通らなくなった経験はないだろうか。
 では、どのようにしてパイプを曲げれば良いだろう? 折れ曲がるときには、横方向にはみ出る。したがって、横方向にはみ出ないように、パイプをきっちりとした溝にはめたままで曲げると、折り目ができにくい。この理屈で、パイプを曲げる道具がある。
 また、パイプの中に、非常に融点の低い金属を流し込み、それが冷えて固まったあと、一体として曲げる。曲がったあとで、もう一度温めて、中の金属だけを溶かして出す、という工法もある。
 組織や人間の間に入って両者の情報交換の役割をすることを「パイプ役」などというが、あまり径が大きくなりすぎると、「筒抜け」あるいは「トンネル」などと揶揄される。


2006年06月10日(土曜日)

【HR】 さがしものは何ですか?

 曇り空。よく寝た。水やりもしなくて良さそう。スバル氏がミニで出かけていったので、パスカルと留守番。昼寝もする。
 「λ」は80%まで。「少し変わった子」70%。「ダ・ヴィンチ」「日経パソコン」はもう一度見直して発送。終わり。「ラピタ」はまだ。だいぶ片づいてきた。
 昨夜は、久しぶりにビデオカメラを出して充電をした。それで、パスカルが赤ちゃんのときの映像をスバル氏と見た。
 テレビの裏は、ビデオやDVDやケーブルTVの受像器やプラズマやアンプからの配線がスパゲッティ状態になっているので、もうこの世のものとは思えない複雑さだった。最初、なかなか映らないので、僕はハードから攻めようと、ケーブルを辿ったのだが、スバル氏はソフトから攻め、リモコンのスイッチを手当たり次第押しているうちに、どういうわけか映った。二人の人生を象徴するかのようである。
 このビデオカメラを買ったのは昨年で、パスカルを撮るためだったが、それも20分のDVD1枚分しか記録されていない。もう1枚、鉄道模型コンベンションで放映するために撮った映像がある。つまり、今のところこの2枚が記録のすべて。
 今年もコンベンションがあるから、新しい映像を撮ろうか、それとも昨年と同じものを使おうか(昨年は東京だったが、今年は大阪なので、お客さんの大半が違うだろうから)と考えていたが、その当のDVDが1枚見当たらない。
 それで1時間ほど、家の方々を探した。すると、ふと、切符の改札バサミのことを思い出した。行方不明が認識されたのは5/14である。そうだ、「ハサミは道具であり、ペンチと解釈しよう」と決めて、工具箱に入れたのだった。それで、工具箱のペンチの引出し(ペンチが30個くらい入っている)の中にそれを発見した。
 改札バサミが見つかったので、昨夜は気を良くして寝ることにした。今日になって、朝からDVDを探したが、これもスバル氏が留守中に発見した。最も目につく場所に置いてあったのだが、その前に、本を重ねて置いてしまって見えなかったのである。E.A.ポー以来よくあるトリックだ。これで、森家にはもう謎はなくなったのか、というと、そうでもない。探している途中で、数々のものが発見され、それに纏わるもので、「そういえば、あれをこの頃見ないな」というものを4つほど思いついた。たとえば、穴の開いたパスポートが出てきたが、一番新しいパスポートはどこへ仕舞ったのだっけ、みたいな(つづく)。

 「MORI LOG ACADEMY 2」の見本が届いた。羽海野氏に3カ月に1度カラーのイラストを描いてもらうのは申し訳ないと思い、「同じ構図でファッションだけ変えて、たとえば、次は消防隊員とかでは、どうですか?」などと提案しておいたのだが、まったく新たに書かれた絵だ。着色も、デジタルではないらしい。「これくらいでいいですから」という甘い言葉を律儀に守って言われた以上のことはしないイニシャルS.S.のイラストレータさんとは大違いである。

【算数】 13個の玉

 同じ大きさで見た目も同じ玉が13個ある。ただ、この中に1つだけ、重さが異なる玉がある。ほかの12個は同じ重さだ。さて、天秤を3回だけ使って、その違う重さの1つを発見する方法を考えよ。
 この問題はよく知られているものだが、少々難しいので、玉の数が12個になっていたり、9個になっているものをときどき見かける。14個あると、3回ではできない。
 数学では、「幸運」というファクタが入り込まないので、このような問題で「3回でできる」と表現されるのは、「どんなことがあっても確実に3回で発見できる」方法であることを示している。
 たとえば、天秤の両側に6個ずつ玉をのせて、それが釣り合ったとすると、ただの1回で、天秤にのせなかった玉が重さ違いであると発見できるが、そういった幸運を期待してはいけない。
 基本的なことを考えよう。玉が3個だったときは、どうするのか。とりあえず1つずつを天秤の両側にのせてみる。釣り合えば、のせなかった1つだとわかる(この時点で重いか軽いかはわからないが、正常なものと比べればそれも判明する)。釣り合わなかったときは、片方を取り替えれば良い。結局、2回で、異常な玉が見つかるし、それが重いか軽いかも判明する。
 このような問題が成立する背景には、「異常な玉はただ1つである」という情報が得られているためだ。このようなことは実際にはちょっとありえない。しかも、現実には、どの玉も微妙に重さが違い、異常な玉だけが許容量を超えている、という場合が普通である。それでも、「天秤が3回だけしか使えない」という条件もまずありえないので、解決できないことはないだろう。


2006年06月09日(金曜日)

【HR】 当たり前が毒舌か

 午前中は雨が降っていた。雨降りは、持ち時間が長い。庭に出ないからだ。その分、仕事が捗るのか、というと、どうもそうでもない。雨の日は雨の日なりに、したくなることがある。「λ」は75%まで。「少し変わった子」のゲラは60%まで進捗。「ダ・ヴィンチ」「日経パソコン」の文章の推敲もした。「ラピタ」のエッセィも少し書き始める。
 お昼頃は、パスカルも乗せて買いものに出かけた。駐車場でゲラ校正をした。

 スバル氏が熱心にニュースを見ていて、逐一事件の報告をしてくれる。局によって、容疑者を姓で呼んでいるところと、名前で呼んでいるところがあるようだ。「マスコミに対して怒りを露わにする容疑者」というシーンが繰り返し放映されるらしいが、寄ってたかってカメラやマイクを向け、煽っているマスコミがいるのだから、普通の神経の持ち主ならば怒るだろう。
 いつも感じることだが、むしろ、あそこでカメラやマイクを向けている人間の方が異常だ。「動機を明らかにしてほしい」などと繰り返しているけれど、自分に関係のない他人の不幸にそこまで立ち入りたい人間たち、カメラやマイクを向け、無礼な質問をし、それで番組を作り、エンタテインメントを捏造する者たち、またそれをTVで見ている人々、彼らの動機こそ明らかにしてほしい。
 もちろん、知りたがるのは自由だ。知りたがる人に知らせるのも自由だ。しかし、少なくとも「使命」と誇らしげにいえるほど格好の良いものではない。ひと言でいえば、その自由も使命も「下品」である。

 また、これもスバル氏から聞いた別の話。TVの悩み相談室(彼女はそんなものを見ているのだ)に、老人が電話をかけてくる。夫に先立たれ、子供も病気で死んだ。自分一人になってしまった。それが寂しい。昼食と夕食は届けてもらえるが、朝食はないのでパンを食べている。友達は、近所に2、3人しかいない。これを見ていたスバル氏は、「長生きしたのがいけなかったんじゃない?」と言っていた。僕もそのとおりだと思う。なに不足ないその状況を悩みだと思い込めるのは、もうぼけているのだろう。なにをどうしても、解決はない。
 TVのスタジオで、「自分が長生きしたんだから、しかたがないじゃない、そんなの」と言えないのは、どうしてだろうか? 普通に考えられる当たり前の言葉が、TVでは言えないらしい。みんな、優等生というか、馬鹿みたいにわざとらしいコメントしか吐けない。もちろん、きっと例外はいるだろう。そういう人間は、お笑いの人で、たぶん「毒舌」なんて呼ばれているにちがいない。そこまで簡単に想像できるくらい、すべてが定式化しているのである。こんな窮屈な世の中に誰がしているのだろうか?

 礼節は大事である。思いやりも当然のことである。黙っているのが上品だ。わかっている人はきっと我慢しているのだろう。勇気のある人間が本音を漏らすのではない。我慢が足りない未熟者だから、僕みたいに余計なことを書くのだろう。

【国語】 色の話

 信号機の進めの色が「緑」か「青」かという議論は昔からよくあった。日本人は、緑を「あおあお」と言う。そもそも、青と緑を区別しなかった、という文章も多く目にするところだ。空も山も海も青いから、「三重」というのだ、と津に住んでいるときに聞いたこともある。「三翠」などともいうらしい。あれが同じ色なのである。若い人を、青年、青二才、青臭い、などと言うが、これは英語だとgreenである。
 あの人は色が白い、黒い、というのも、本当は白や黒ではない。せいぜい、薄い肌色とか、茶色くらいだ。また、酒を飲んで赤くなる、も、せいぜいピンクか紫ではないか。赤ちゃんだって赤くはない。夕焼けも、オレンジ色が多い。真っ赤になることなんて滅多にないだろう。
 赤と朱と紅はどう違うのか。人によって微妙にずれている。紅は少し黒ずんでいたり、紫っぽかったり。朱色というと、クレヨンでは赤のオレンジ寄りの色だったり。そう、神社の鳥居が朱色だ。
 紫も、人によってかなり違う。特に僕とスバル氏では、この紫が最も意見が合わない。「それはピンクだよ」「えぇえ〜、そっちは茶色じゃない」ということが多い。だから、紫には注意をしている。
 赤々、青々、黒々、白々と、その色が著しい場合に表現される。著しいものがあるのだから、著しくない赤や青や黒や白があるのか。白々しいくらい白い、というのは強調になるだろうか。
 まあ、なにしろいろいろである。


2006年06月08日(木曜日)

【HR】 常識の中の非常識

 朝は水やりをしたが、曇空で、夕方には少し降り始めた。風が強く、肌寒いくらい。
 午前中は研究関係の打合せで外出。午後は少し工作。庭掃除もした。
 夕方頃に小説の仕事を2時間ほどする。「λ」は70%まで。「日経パソコン」の次の4回分を一気に書いた。イラスト下書きは後日。幻冬舎コミックスから新人賞の応募作品が届き、審査のために漫画を読んだ。講評は後日。「少し変わった子〜」のゲラは40%まで。

 漫画の審査は、もう何年もやっているけれど、やはり、一番重要視するのは、オリジナリティ。つまり、「ああ、こういうのは今までになかったな」と思わせてくれるものが有利。絵かプロットか、あるいはそれ以外、なんでも良いからオリジナリティが出ているとアピールする。その次に大切なのは、バランスだと思う。これは、こじんまりまとまっている、という意味のバランスではない。むしろその反対。新しいものを前面に出し、それなりのバランスを取ることは難しいとは思うけれど、新しいものを出したからこそ、カウンタウェイトが必要になる。
 自分が描きたいものを描く、というのは、失敗する確率が高いだろう。描きたいものであれば、思いが強すぎて、最初の短編では消化が難しくなる。これを描きたいのだろうな、とはわかるが、それがわかりすぎて、物語として感情移入できない。
 どこにでもありそうな設定で始まったら、見たこともない展開を期待するし、見たこともない設定で始まったら、どのように定着させるのかを期待する。常識的に始まり常識的に終わればつまらない。非常識に始まり非常識に終われば見向きもされない。この両者で挑戦するには相当な力量が必要。したがって、常識的に始まり非常識に終わるか、非常識に始まり常識的に終えるかが、常套的な狙い目ではないだろうか。ようするに、そういうバランスのこと。

 今日はあまりこれといって面白い話題はないのだが、リビングを通りかかったとき、スバル氏がテレビにリモコンを突きつけながら、「なんで、みんな、いっぺんにしゃべってんねん」と呟いていた。副音声を消そうとしていたわけである。これくらいの可笑しさで、許していただけるだろうか。
 パスカルはおもちゃが好きな犬で、沢山のおもちゃを持っている。おもちゃで遊んでほしいので、つぎつぎおもちゃを持ってくる。一番気に入っているのは、ゼンマイで走るペンギンだ。これを走らせろと要求するが、走らせるとたちまち飛びついて、口にくわえるので、ペンギンは本来走れる距離の1割くらいしか実力が出せない。
 あと、ウサギのぬいぐるみも持っている。ペンギンもそうだし、そのウサギもそうだが、色が黒と白なのだ。もしかして、自分のボディカラーを知っているのだろうか。

【社会】 古くなれば許せる?

 古戦場のことを前回書いたが、たとえば、戦国武将は、世間ではそんなに悪いイメージではない。世界に目を向けると、ジンギスカンやアレキサンダーは、ヒトラーに比べると、そんなに悪くは言われていない。どちらも、武力で他国を支配しようとしたのに、どうしてだろうか?
 織田信長を尊敬している、と政治家が言っても非難されない。しかし、明治以降の軍人の名前を挙げれば、ただでは済まないだろう。これは、どうしてだろうか?
 ヒトラーの圧政に苦しんだ人々がまだ生きている、あるいはその人たちから直接話を聞いたり、また生活に影響があった子孫が生きている、という違いだろうか? もしそうならば、将来は、ヒトラーや山本五十六の人気も復活するのだろうか?
 モンゴルは日本を攻めようとしたことがあるし、日本は朝鮮半島へ出兵したことがある。何年くらいすれば、帳消しになるのだろうか?
 国境の問題についても、「古来日本の領土である」などいった表現がよく使われるが、もともとは国家なんてなかった。ただ、人が住んでいるところと、住んでいないところがあって、力の強い者が、ここは自分のものだと勝手に決めただけである。
 どうやら、コツは、都合が悪いときは昔を忘れ、都合の良いときだけ昔を持ち出す、ということらしい。


2006年06月07日(水曜日)

【HR】 完成とは

 8時起床。体調が良くなってきた。まずは水やりをする。ようやく、芝が少し伸びてき