2006年05月31日(水曜日)

【HR】 ミニ・ハンズ・エッチング

 朝、パスカルが猛烈に喜んで飛びついてきた。毎日のことなのだが、今朝は一番強烈だった。どんな理由でエキサイティングになっているのか不明。「母を訪ねて三千里」の夢でも見たのだろうか。
 午前中に研究関係の仕事を片付ける。午後はスバル氏とハンズへピンポイントで出かける。といっても、ハンズに用があったのは僕で、彼女は近所の商店街を歩いていた様子(どこに行っていたのかは聞いてない)。

 ミニを運転したので気持ち良かった。モビリオをときどき運転するから、ミニやビートの良さがわかる。ホンダのかつてのシティとか、最初の頃のシビックは、これくらいごつごつしていた。乗り心地がふわふわした車はどうしても気に入らない。疲れるのだ。日本の新しい車がほとんどふわふわしている。タクシーに乗っているみたいだ。運転しないで乗せてもらうならまだましかもしれない。ミニは2万kmを超えている。2回目のタイヤ交換がそろそろ。「車高が低くなってきているので、ゴムを変えないといけない」と工場の人が言ったらしい。サス関係だろうか。
 そうそう、行きの車中、スバル氏は国土交通省のシールを貼ろうとしていた。フロントガラスに貼る例のナンバが書いてある車検のシールである。昔は大きかったが今は切手みたいに小さくなった。
 出かけるまえにシールが郵便で届いたので、彼女はそれを持って乗り込んできた。僕が「今のうちに貼ったら」と言うと、「説明を読まなあかん」と言う。「読んだら」と言うと、「気持ち悪くなる」と言い訳していたが、しかし、そのうち、シールを貼るための説明書きを読みながら、「谷折りだとぅ? 嘘つけ」とか呟いているので、「マニュアルを読みながら、嘘つけと言うようになったら、もう年寄りかもしれないよ」と言ったら、そうだそうだと頷いていた。

 ハンズは、エッチング液を買うのが目的。最初に、画材コーナへ行ったら、エッチング液処理材など、周辺のものはあるのに、肝心のエッチング液が置いてなかった。係の人にきいたら、五分ほどかかったが持ってきてくれた。たぶん危険物だから、わざと売り場に置いていなかったのだろう。500円もしないものだが。
 そのほか、いろいろ素材を買った。ちょっとした金属の丸棒とか六角棒とかを、10cmなんて短い長さで売っている。値段はべらぼうに割高なのだが、こんな少量では普通買えないから、重宝はすることは確か。あと、インチのスパナを1本。糸鋸の刃とか、グリスとか、いろいろ購入。ホームセンタにはなくて、ハンズにはある、というものが、まだけっこうある。
 ロッテリアのシェイクが半額だったので、これを飲みながらミニでまた走る。僕は苺で、スバル氏は抹茶。道路は空いているし、気持ちが良いドライブだった。
 帰宅して、すぐエッチングの実験をする。金属を溶かす液体なのだが、溶けては困るところにはマスキングをして、液体に浸ける。時間がかかるので、その間に水やりなどをする。パスカルは散歩に出かけていた。今でも水の中へ口を入れたがるが、「駄目」と言うと諦める。
 工作室の室温は26度だった。暖かい。どうして温度を見たのかというと、エッチングをしているからだ。化学反応と温度は関係がある。また、エポキシという接着剤を練るときも温度計を見る。温度計を見るのは、これくらいしかない。自分が暑いか寒いかは、温度計を見なくてもわかるし、温度を知ったからといって影響がないので見ない。

【社会】 仕事と報酬

 なんらかの作業をして報酬をもらう。これが一般的な仕事である。普通は事前に、作業によって得られる結果と、それに対する料金が比べられ、お互いに契約を結ぶ。いちいち書類を交わさないものもあるけれど、暗黙の了解はある。
 ただ、料金を支払った側が、あとから「この結果は想像していたものとは違う」と感じ、この落差があまりに激しくなると、問題が表面化する。クレームがつき、あるときは争うことになる。
 自動車や家などを買う場合は、その商品がどれくらいの機能を持っているか、事前にデータで示され、そのとおり機能するかどうかが問題となる。
 また、不具合がある自動車や家を修理してもらう場合にも、機能が戻ることが予想される結果であって、もし、修理代を支払っても、機能が戻らない場合には、やはりクレームになる。たとえ、作業として同じだけ労力がかかっていても、結果が出るか出ないかで報酬が異なる。
 しかし、世の中には、クレームがつけにくいものがある。美術品やあるいは生きものが商品の場合などがそうだ。ようするに、この世に1つしかないもの、である。
 たとえば、買ってきた生きものが、正常に育たなくても、なかなか文句はいえない。ペットを赤ちゃんのときに購入して、成長して思いどおりのものにならなくても、払い戻してはもらえない(早期の死に関しては保険があるが)。
 病気を治してもらう病院も、病気を完治する行為にいくら、という料金体系ではない。何回診察・治療をしたか、いくら薬等を消耗したか、という料金である。つまり、早く治った方が安く、なかなか治らない場合は高い。結果として治療の成果が上がらなくても返金はない。これはつまり、そもそも、病気を治すのは患者本人であって、医師からはその手助けを受けているだけ、と理解するのが良いだろう。


2006年05月30日(火曜日)

【HR】 幸せのアイスクリーム

 夏のような晴天。実際に昼間はけっこう暑い。Tシャツ1枚でいられる。でも、夕方になると、まだ明るいのに風が少し冷たく感じる。こういうのは良いなあ。どんなに暑くても、夕方が涼しいな、と思えるならば許せるなあ(傲慢)。
 今日は朝から庭掃除をして、あっという間に3時間くらい過ぎてしまった。そのあと、小説の仕事を2時間くらいしたら、もう午後1時だった。「λ」は完成度25%でクオータ。「虚空の〜」のゲラは60%まで。

 午後は、暖かいガレージで工作。昨日の機関車の修理とか、新しい機関車の工作も少し進んだ。それから、洋雑誌を読みながら、アイスクリームを食べた。自分からすすんでアイスクリームを食べるというのは、1年にせいぜい4回くらいではないだろうか。稀である。
 まず、体調が良くないと食べないし、また気分も良くないと食べない。もの凄く腹が立っているときはたぶん食べない。いらいらしていたり、悲しいことがあったりするとき、あるいはめちゃくちゃ忙しいときにも食べない。だから、これを食べるときは、それなりに良い状態のときといえるだろう。幸せのバロメータかもしれない。ただ、アイスクリームを食べることによって幸せになるわけではないので、なんというのか、確かめるためのものだろうか。酸性だとわかっているのに、つい塩酸にリトマス試験紙を入れて赤くしてみました、みたいな。
 ヨーグルトは、それに比べるとかなり頻繁に食べる。2週間に1度くらい食べると思う。冷蔵庫の中にそれがあるから食べるわけで、冷蔵庫の中に入れたのはスバル氏なので、これは仕組まれたものといえる。賞味期限を見て、「あ、食べなきゃ」となることが多い。アイスクリームが天才だとすれば、ヨーグルトは秀才だと思う(意味不明)。これも体調が悪いときは食べない。気分がある程度良くて、元気もまあまあのときに、弾みをつけるために食べているような気がする。仕事をしながら食べることの方が多い。

 アイスクリームもヨーグルトも、食堂のテーブルで食べることはまずない。つまり、カップとスプーンを持ってどこかへ移動して食べる。だいたいは、ガレージか書斎。あるいは庭で食べることもある。この「持っていく」という行為の特殊性の起源については、現在検討中である。
 コーヒーも持ち歩く。食堂で飲むことは滅多にない。カップを持ったまま100mくらい歩くと思う。ずっとカップと一緒に生活しているようなものだが、常に「あれ? どこに置いたっけ」となるし、キッチンへ行ったついでに新しいカップに注いで、それを持ってまた歩くために、家の方々に僕のカップが置かれたままになっている。
 コーヒーは、残念ながら幸せとはあまり関係がなくて、常に飲んでいるから燃料みたいなものだ。でも、本当に体調が悪いときは飲まないから、やっぱりゼロよりはプラスの状態のバロメータである。平民か豪族ということか(解読困難)。

 太鼓の片側の皮がないような構造で、空気の低周波振動(パルス)を放つ波動砲みたいなおもちゃがある(説明が凄いな)。あれでカラスを脅かして、追っ払うことができないものか、と自分で作るにはどうしたら良いか、特に膜を何で作るのが最適かを考えているのだが。そうこうするうちに、この頃カラスは減ってきて、どこかへ行ってしまった。惜しい。

【理科】 プロペラのピッチ

 竹とんぼを作ったことがある人は、プロペラの回転方向と傾斜角の関係がすぐに理解できると思う。そうでない人は身近の扇風機を見てみよう。飛行機のプロペラも、扇風機のファンも、あるいは船のスクリューも同じ役目のもので、つまり回転して、周囲の気体や液体を一方へ押す機能を持っている。
 斜めになった板が平行移動すると、その傾斜した面によって、反射するように気体や液体が押される。この傾斜角度のことをピッチといったりする。動く方向に対して、角度が大きいものをピッチが「大きい」「深い」「きつい」などといい、プロペラならば空気を沢山押すことができる一方、回転する抵抗が増す。
 たとえば、モータに電池をつないでプロペラを回すと、ピッチが0では風は起きない。ピッチを少しずつ増していくと、風はだんだん強くなる。しかし、ある角度を超えると、今度はモータの回転数が下がって、風は弱くなる。だから、モータの能力に対して、最適のピッチが存在することになる。これは、回転数が変わったり、また空気の密度や流れが変わると、当然変化するので、プロペラで飛ぶ飛行機などでは、このピッチを変える機構(ピッチ・コントロール)を備えているものが多い。
 ところで、プロペラの中心よりも、プロペラの先端の方が、同じ回転数でも長い距離を走る。つまり、速度が速い。高速ほど一般にピッチは浅い方が効率が良くなる。したがって、プロペラは、根本ほどピッチが深く、先へいくほど浅く作られ、捻れた形をしているのが普通だ。扇風機のプロペラでも、よく見るとこのような形に作られている。
 竹とんぼを作るときは、これを念頭に置いて削ろう。


2006年05月29日(月曜日)

【HR】 つい機関車

 朝から晴れているので久しぶりに水やりをした。パスカルがまた絶好調になってきて、庭で走り回っているが、興奮して葉っぱを喰いちぎるので、朝ちゃんと叱った。はしゃがないようにした方が本人のためである。
 午前中に小説の仕事を片付けた。「λ」は完成度20%まで。まだ3日めだが、快調。今回はミステリィっぽいのでさくさく書けるような気がする(嘘みたいに書いてみました)。7月刊の文庫「虚空の逆マトリクス」は今ゲラを50%ほど読んだところ。短編集は良いな(ゲラがという意味ではなく、読みものとして)、と自分では思う。カバーのラフもpdfで見せてもらった。「フラッタ〜」は校了したとの連絡があった。新聞の執筆依頼は締切が8月になったので受けることした。
 お昼過ぎにホームセンタへ行く。パスカルやスバル氏も一緒。ついに、バキュームクリーナを購入。2台めである。またリョービの製品だが、少し上位機種にした。1万円くらい。帰ってきて試したら、もの凄く吸う。やっぱりまえのは弱っていたのだ。掃除機みたいに、古くなると駄目になるものかな。一度今度分解してみよう。吸えないこともないので、2台とも使うつもり。今日は庭に蚊がいたので、スキンガードをした。
 外がけっこう爽やかだったので、ガレージの外に機関車を出して、分解整備。ずっと調子が悪いからだ。これが原因か、という部分を発見して、そこを直したら、すぐにでも走らせたくなった。そこで、また石炭を入れて火をつける。

 蒸気機関車というのは、ボイラでお湯を沸かし、その蒸気の圧力でピストンを動かす。ボイラは5〜10気圧にもなる。これは相当に高圧だ。このまえは、水面計のガラス管が割れて、蒸気が漏れたが、もう近づけない状態になる。なにも見えない。布を被せたりして、なんとかコックを締めることができた。なんだか、子供の頃に見た潜水艦の映画を思い出す。
 水は蒸気になってどんどん少なくなるから、ボイラに水を補充してやる必要があるけれど、蓋を開けて水を入れるというわけにはいかない。高圧なので、蓋のネジを外したら吹っ飛んでしまう。だから、それ以上の圧力で押し込まないかぎり水が入らないわけである。
 小さい模型の蒸気機関車は、この仕組みがないものが多く、最初に入れた水がなくなったら、それで終わり(完全になくなったら危ないので、その手前でやめる)。しかし、大きな模型になると、水をボイラへ入れる装置を幾つか備えている。
 4月に初運転に成功し、その後もずっとああでもないこうでもないと直していた。この古いイギリスの機関車は、水をボイラへ押し込む装置に問題があって、連続運転がこれまでできなかったのである。
 ベテランの人にきいたり、本を読んだり、あちこちHPを調べたりした。たとえば、本には、「チューという音がしたら正常に作動している」なんて書いてあるのだが、そのチューという音は実際にどんな音なのかわからない。シューとか、ジュワーとか、いろいろな音がするのだ。結局は、あれこれ試してみて、自分の感覚を養う以外にない。
 この種のことは、途上の技術にはありがちだけれど、しかし逆にいえば、こうして人が育つのだな、こうしなければ育たないのだな、ということもわかる。
 いずれにしても、今日は上手く作動した。いや、まだよくわからない部分もあるし、新たに直す箇所も幾つか見つかった。ただ、手がかりが掴めたことは喜ばしい。なんとかなりそうだ、という感じ。どんなものでもそうだが、「なんとかなりそうだ」と思ったときは、既に峠を越えたことを意味している。あとは、なんとかするだけなのだから。自分の中の下層に任すことができる。上層はもう頭を悩ます必要がないので、別の課題に取り組めるだろう。

 よしもとばななさんが、また変な写真、もとい、素敵な写真を送ってくれた。「ドラえもんの9巻の中の1話分だけに出てくるツチノコの正確なフィギュアです」とのこと。こういう著しくマイナなものを作る人も作る人だし、またそれを買う人も買う人だ。作る人も買う人だし、買う人も作る人だ、と書いても、ほとんど違和感がないほどだ。

【算数】 三角形の内角の和

 三角形の内角の和は180度である。この証明は、底辺に平行で、頂点を通る直線を引くとわかる。平行のときに錯角が等しい、という定理から導ける。
 さて、どんな場合でも三角形の内角の和は180度か、というと、それは、三角形が平面上に存在する場合に限られる。いや、どんな三角形もある平面上に存在するはずなので、普通これは正しい。
 ところが、こんな例がある。
 北極点から、まっすぐに進む。どっちへ行っても方角は南になる。地球を1周すると4万kmだが、その4分の1,すなわち1万kmだけ真っ直ぐ進んだら、そこでストップ。ちょうど赤道上にいるだろう。
 ここで左へ90度曲がって、また真っ直ぐに1万km進む。赤道上をどんどん東へ進むことになるだろう。1万kmの地点で止まり、また90度左へ曲がる。今度は北を向いているはずだ。そして、また1万km真っ直ぐに進む。すると、再び北極点に戻ってくる。
 さて、最初の地点と最後の地点は同じで、途中で2回曲がった。あとは真っ直ぐだ。だから、辺は3つで、いずれも1万kmである。これは、地上にいる人には、巨大な正三角形として認識される。この巨大な正三角形の3つの角度はいずれも90度であり、内角の和は270度になる。
 興味のある人は、非ユークリッド幾何学で検索されると良い。理系の人には常識だが。


2006年05月28日(日曜日)

【HR】 自分勝手

 日曜日は朝は雨だったが、午後からは日が差した。パスカルの散歩に2回だけ家を出た。というのも、昨日からスバル氏が東京へ遊びにいっているからだ。
 山の中の一軒家で、自分一人で生活することができるだろうか。できる人とできない人がいる。たとえば、食事が作れないとか、洗濯や掃除ができない、などの不可能事があるかどうか、という話ではない。そんなものは小事であって、その場になれば、誰でもすぐにできるようになる。ただし、毎日レストランで食事をする生活しかできない、したくない、という人は少し困るかもしれない。
 僕自身はできると思う。人と会うことがなくても、特になんともない。友人に会いたいと思うようなことは若いときからなかった。おそらく、スバル氏もそうだろう。犬くらいいた方が良いかもしれないけれど、基本的に一人でいることが好きだ。
 人間関係ができるだけ少ない方が良い。大勢でわいわいがやがやとすることに価値を見出せない。そういう時間がもったいないとさえ感じる。世の中にはそういう人がどれくらいいるのか。かなりいるだろうと思うが、しかし、我慢をして人とつき合っているにちがいない。特に、若いときには、つき合わないと立場が守れないことが多いのだ。早く自分の立場を築き、そののち、周囲の人間関係を整理すると良い。最初から関係を切ってしまうと、立場自体が不安定になって、結果として逆に一人で生きられなくなるように感じる。変な話だが、だいたいその傾向がある。

 話はここで変わるが、「個人主義」という言葉がある。これは近代社会の一つの基本になっている考え方だ。社会において、個人が尊重されるようになったのは、まだせいぜい数百年まえのことである(日本はもっと短い)。今は、ほぼ世界中で個人を基本とした社会が作られつつある。individualismの訳語である。
 よくこの言葉を、「あいつは個人主義だよね」と間違って使っている人がいる。単に「自分勝手な人」というだけのニュアンスなので、明らかな誤用だ。しかし、「個人主義な奴」「自分勝手な奴」のいずれも、人からそう思われることに僕は抵抗を感じない。
 できれば、自分勝手になりたい。自分勝手になれるように、若い頃から努力してきたつもりだが、これがなかなか難しく、ちっとも自分勝手になれない。自分勝手に憧れて、これまで生きてきた。もっと自分勝手に近づきたい、と今も考えている。
 世間で非難されるところの自分勝手というのは、むしろ他人にだけ厳しい人間のことである。自分だけ勝手にすれば良いところを、周囲の人間を巻き添えにする。たとえば、自分はなにもできないのに、調子が良いときだけ威張り散らし、他人に命令する、他人を非難する、というビジョンだと思う。これは、自分勝手というよりも、他人に干渉する、他人勝手ではないだろうか。
 そういうわけで、夕方にはスバル氏が帰ってきて、自分勝手な生活はひとまず終わってしまった。パスカルが悪魔の手鞠歌といわんばかりに喜んだ。

【国語】 おかえりなさいとおやすみなさい

 家に帰ってきた人に向かって、「おかえりなさい」と言う。今まさに帰ろうとしているのに、これ以上どう帰れば良いのか、と不思議な気持ちにならないだろうか。
 京都で、「おはよう、おかえり」という言葉を耳にした。「おはよう」と「おかえり」が一緒になっているなんて、朝帰りの人を出迎える言葉か、というとそうではない。これは、「早く帰ってきてね」という意味だろう。だから、世間でいうところの「いってらっしゃい」と同じく、出ていく人に対してかける言葉だ。
 出ていこうとしているのに、「いってらっしゃい」と言われるのも、妙な感じがする。「だから、今から行くんですよ」などと反応したくなる。たぶん、「ご無事でいってらっしゃいませ」のように、前に肝心の部分があったはずだ。
 「おかえりなさい」も、「元気でおかえりなさいました」とか「よくおかえりなさいました。私は嬉しゅうございます」というような意味だったはずである。
 肝心の部分が省略されているものといえば、「こんにちは」や「こんばんは」や「さようなら」もそうだ。どんな場面でも使える「どうも」が究極だろう。具体的な部分を省略することで抽象化し、汎用的になる、というメカニズムである。
 子供のときに一番不思議だったのは、寝るときに大人に「おやすみなさい」と言うこと。自分が寝るのに、どうして起きている人に言うのだろう、と思った。不思議だったのも当然で、これは誤用である。「おさきに、休ませていただきます」が正しい。「おやすみなさい」は本来、目上の者が「下がれ」という意味で使う言葉であり、「ごくろうさま」と似ている。「ごゆっくりと、おやすみになられますよう」くらいならば、目上にも使えるだろうか。


2006年05月27日(土曜日)

【HR】 期限を守らない人

 今日はミニを運転した。車検後初めて。やっぱりこれも面白い車だ。コーナを回るときの感じがなんともいえない。同じく、ビートもコーナが面白い。フィーリングは対照的で、やはりFFとMRの違いだろうか。ポルシェはこの点では完璧過ぎて、きっともっと高速にならないと面白さがわからないのだろう。街をとろとろと走っていても面白いという点では、ミニとビートは僕が乗ったうちでは双璧だと思う。恐いのではなく、面白いと感じさせるセッティングとはどういうものだろうか。
 新作の「λ」を1万文字ほど書いた。完成度10%。「虚空の〜」文庫のゲラは現在40%。

 さて、話は違うが、人と人は約束をする。そして、約束の条件の1つは時間である。いつまでに、と決められた期限がある。「締切」あるいは「納期」は、ビジネスにおいても重要なファクタだ。いくら素晴らしく、いくら安く、いくら親切で感じが良くても、納期が守られない仕事は、残念ながら受け入れがたい。それが許されるのは芸術作品だけであり、そもそも契約が結べない、お金が関与しないものになる。
 しかし、それでも期限を守らない、守れない人が多すぎる。そして、そういった人のうち、最もたちが悪いのは、遅れそうであること、遅れたこと、今後どうするのか、を連絡してこない人だ。これは、もう最低限の社会人としての信頼を失う行為である。
 つまり、期限まえの段階であっても、締切に間に合わない可能性がある、と感じたら、すぐに連絡をすべきだ。「もしかしたら、遅れるかもしれません」と。この連絡をすることが信頼を得るうえでマイナスだと考えている人は、まちがいなく大馬鹿者である。

 次に、期限を過ぎてしまった場合。もうどんなことがあっても、ただちに連絡を取るべきである。まず謝り、そして今後の見通しを正確に告げるべきだ。この連絡をしない人間も多い。一所懸命仕事を進めることが自分の使命だ、などと都合の良い勘違いをしている。締切を遅れても連絡をしない人間は、大馬鹿者よりもさらに悪い。人間のクズだと思われてもしかたがない。犯罪者に限りなく近い、と認識すべきである。
 連絡をするよりも、今は黙ってとにかく仕事を仕上げ、それを持っていった方が良い、という考えのようだが、これは全然間違っている。締切が過ぎた仕事というのは、そもそも、やる必要があるのかないのかを依頼者に問い合わせるべきものだ。締切を過ぎても勝手に仕事を続けていることで、新たな間違いを犯している。
 ある人間に依頼をして、どうもその人が遅れそうだ、となれば、ほかの手を打つのが有能な依頼者だろう。締切を過ぎれば、すぐに切換えをして、ほかの手配をする。それがビジネスだ。
 期限に遅れる人間のほとんどは、「遅れたこと」を叱られる、と考えているが、そうではない、遅れそうなことや、遅れたことを「連絡しなかった」点に最大の罪がある。そこに気づかない人は、いつまでも間違いを繰り返すだろう。
 いくら遅れた理由を説明しても無駄である。つまり、そういった理由さえあれば、またいつでも遅れる人だ、と理解されるだけだ。残念ながら、期限が守れない人は、なかなか直らない。怒ってもしかたがない。その人間でなければならない場合はやむをえないが、そうでないときは、その人とは関わるのを避けるしかない。担当者を変えてもらったり、取引先を変えて自己防衛しよう。

【社会】 自殺2

 社会科というよりも、道徳に近いような気もしてきた。僕自身は、自殺や尊厳死について、一般的にこうだ、という意見はない。そういったことを一般的に考えていない。すべて、個々に対処すべき問題であって、一般論として概略的あるいは平均的に議論することの価値はそんなに大きくないのでは、と感じている。
 前回、自殺者を救うことは、病気を治療することと同じだろうと憶測を書いた。しかし、「自殺は自由意志であり、死にたいと本人が判断しているものだ。その点が病気とは違う」という意見が、当然ながら予想されるところである。少し考えてほしかったので、わざとここまでしか書かなかった。
 病気は、病気にかかった当初は、たしかに意識がある。自分の病気を治したいと本人も願っている。しかし、病状が悪化し、苦しくなり、その末期になれば、昏睡し、意識はとぎれとぎれになるだろう。死ぬ直前になれば、本人がどう思っているのかはわからない。
 僕は、自殺がこれに似ていると想像したのだ。つまり、まず悩みの初期の段階では、本人もなんとか解決したい、と願っている。この段階では死なない。それが末期になって、死にたいと考えるようになる。
 病気の場合、常に本人は治りたいと思っているだろうか。苦しくてもう死にたいと考える人もいる。あるいは、治してほしい、ほしくないが言えない病人だっている。本人の明確な意志が確認できない場合は多い。それでも、たいていの場合は治療をすることになる。本人が治りたいと言わないのならば治さなくて良い、という意見は、たとえば幼児の病気は治療するな、という意見に等しいかもしれない。もちろん、その意見が必ず間違いだと言っているのではない。
 自殺の多くは衝動的なものである。その一時に決意をし、すぐに実行する。一日待てば、しなかったかもしれない。手近に方法がなければ思いとどまったかもしれない。人の意志とは、測定や問答で判断できるほど明確なものではない。本人でさえ、正確に把握していない場合がある。
 ただ少なくとも、自殺したいという精神は、不治の病ではないはずだ。


2006年05月26日(金曜日)

【HR】 買い溜めの心理

 曇り空。今日もカラスが多い。
 朝、まず青の6号を1時間ほど運転した。一応目的地があって、そこまで行って戻ってきたが、その目的よりは、乗ること自体の方がはるかに大事だった。あまり乗る時間がないし、持っている車は多いし、場所も維持費もかかるから、2台くらい車を減らしても良いな、とときどき考えるのだけれど、乗ると駄目だ。これにもう乗れなくなる、と思うだけで辛い。とても手放せない。そういう車だ。会っていないときは鬱陶しくて手を切りたいと考えているのに、いざ会ってしまうと言い出せない、みたいなものだろうか(小説家みたいに想像で書いているだけです)。
 パスカルは昨日だったか、スバル氏にハサミでお尻の毛を切られた。普通のハサミではなくて、ペット用の毛を少なくする(梳くというのかな)ハサミだ。これでお尻がだいぶ小さくなって、後ろ脚が見えるようになった。尻尾も長くなったように見える。少しは夏バージョンの軽快な感じになったかも。

 スバル氏は食料品をほとんど買い溜めしない。その日に食べるものをその日に買いにいく。溜めるといえば、僕はなんでも溜める方だ。ネジ類や接着剤や各種素材を常備している。たとえば、歯磨きクリーム(ていうのかな?)などは、5つくらい買っておいても損はないと発想するのだが、スバル氏はこれをしない。だから、なくなるとすぐに買いにいかなければならない。僕は、家の電球のどれが切れてもすぐに交換できるよう、電球を十数種類蓄えている。
 子供の頃は、プラモデルを買ってきたら、その日のうちに作ってしまった。だから、家に組み立てまえのプラモデルが存在したことはなかった。それが大学生のときだったか、生まれて初めて、すぐに作らないものを買った。いつか作ろう、と思って買ったわけだ。自分でも、それは珍しい行為だとそのときに思った。そのプラモデルは結局今でも作っていない(既に作る気がない)。
 現在は、ラジコン飛行機の組み立てまえのキットが30箱以上あるだろう。鉄道模型のキットも百くらいあるにちがいない。このように、消費せずに備蓄するようになったら「マニア」と見なして良いのではないだろうか。
 僕は雑誌マニアだと自覚しているが、買ってきた雑誌をあとで読むということはしない。その日のうちに全部消費してしまう。模型関係の雑誌は、のちのちで眺めることがあるが、普通の雑誌は一度読んだら捨てることになる。また、小説なども、買ってきてすぐに読まないということはまずない。買えば必ずすぐに読む。だから、僕は読書のマニアではないといえる。スバル氏が本を備蓄しているかどうかは、残念ながら知らない。毎日数冊は読んでいると思う。読んでいないものが溜まっているようには見えない。
 本を買って読まずに溜めておく人の心理は、僕には理解できない。キットと同じではない。キットはすぐに市場から姿を消すので手に入らなくなる。だから手元に置く必要があるけれど、小説は数年間なくなる心配はまずない。どうして溜めたりするのだろうか。
 もうそれは完全に自分のものになった、という気持ちに価値を見出しているとも想像できるし、また、読んだり、組み立てたり、味わったりという中身のコンテンツ以外に、その外側のメディアに愛着を感じるから(ここが極めてマニアックだが)、とも分析できる。
 箱や封を開けないで保存したりする人も多い。あとで人に売ろうという腹積もりかもしれないが、そういうのは、僕には単なる「死蔵」だと感じられる。
 ただ、もう少し自分が成長してから消費したい、という理由はもっともだと思うことはある。それを消費するには、現在の自分が未熟だ、受け入れ態勢ができていない、という判断だろう。それだったら、もっとあとで買えば良いだけなのだが……。
 そうか、いつ読む気になるかわからない、ということかもしれない(これも極めてマニアックな心理だと思われるけれど)。

【理科】 ドリルの形

 漫画やアニメで、ドリルがときどき登場する。問題集のことではない。穴をあけるドリルだ。ロボットの手がドリルになっていたり、ドリルの角を持った怪獣がいたり、あるいはサンダーバードのジェットモグラみたいに地中へ潜ることができるメカが出てきたり。
 こういったところに現れるドリルは、ほとんど円錐形をしている。そして螺旋状に刃が付いている。しかし、現実には、ドリルはこんな形をしていない。
 金属に穴をあけるドリルの刃は、棒状(円柱形)である。先端だけは、かなり扁平な角度だが、いちおう円錐だ。この主な理由は、回転初期に中心がずれないようにするためである。それ以外の真っ直ぐな部分には、螺旋の溝があり、これは、削られた材料(切りこ)を外へ運ぶためのものだ。
 木材に穴を開けるドリルは、中心をずらさない目的で先端に木ネジのような部分があるが、あとはおおむね同じ。
 また、実際のトンネル工事に使われるシールドマシンなどの刃は、まったくの扁平な円盤で、やはり円錐ではない。
 すると、あのドリルの形状は何から来たものだろうか。
 1つ考えられるのは、木ネジだ。木ネジは穴を開けながらめり込んでいく形であり、たしかに動作は近い。しかし、全体が入ったところで、しっかりとホールドするための形だ。ようするに穴に入るほど固くなり、動きにくくなるように円錐形なのだ。穴をどんどん開けるためのものではない。
 また、リーマという、穴を整える道具のうち、先ほど細くなっているテーパ・リーマがある。これは、穴をあける能力はないが、既にある穴を大きくすることができる。深い穴ではなく、板などに開けた穴を大きくする道具だ。ただし、螺旋ではなく、軸に沿ってまっすぐ刃がついていて、これは錐(キリ)と似ている。


2006年05月25日(木曜日)

【HR】 網戸を張り替えた


 清々しい晴天。溢れんばかりの紫外線。
 1週間ほどまえだが、パスカルが網戸に飛びつき破いてしまった。日頃から鳥類に挑んでいる彼だが、デッキに野鳥がいるのを見つけると、ガラス戸に飛びつき威嚇していた。それが、たまたま網戸だったため、見事に破れた。本人もびっくりしていたらしい。
 この頃、近所で「網戸1000円で取り替えます」とスピーカを鳴らして車が周回しているのを耳にしたスバル氏が、「1000円で取り替えていちゃあ、商売にならないんじゃない?」と言うので、「まあ、その夜に忍び込むための目星をつけているのかもしれないし」と答えておいたら、怖がって頼まなかった。
 後日、今度はポストに「網戸1000円!」というビラが入っていた。スバル氏が誇らしげに持ってきたが、よく読んでみると、小さな文字で「5枚以上」と書いてあったし、「一部、規格外のものは3000円より」とも書いてあった。5枚も取り替えたくないし、うちは絶対に規格外だ。「3000円より」というのは、30万円取られても文句はいえない、ということである。
 さらに後日、スバル氏がNHKの趣味のなんとかという番組で、網戸の張り替え方をやっていた、と話す。それを見たのなら、自分でやれば良いと思うが、彼女は、「本屋で、そのNHKのテキストを売っているはずだから、それを読んで研究しよう」と言う。誰が研究するのかな。
 「まあ、別にエアコンを常に使っていれば、網戸はいらないけどね」などとも言っていた。さらには、家の南側で滅多に開けない戸についている網戸を、パスカルが破いた網戸と交換してはどうかと言い出した。これが昨日のことである。メジャで測ってみたら、幅が10cmも違う。高さは同じなので、はまらないこともないが、戸を全開したとき網戸が10cmもはみ出ることになって不便だ。
 はなから、夫の工作能力を信じていないのか、あるいは、面と向かって「網戸を張り替えて下さい」と依頼することに抵抗を感じているのか、よくわからない。
 本日、久しぶりにホームセンタへ出かけて、網戸の網を買ってきた。周囲はゴムバンドを押し込んで止めるだけだ。このゴムも新しいものを買った。もう1枚、スバル氏の部屋の開かずの戸の網戸も長年破れたままだったので、今回、2つの戸を直せるだけの材料を購入した。合計1500円くらい。それを、デッキで30分ほどかけて取り替えた。

 まあ、これでも建築が専門なのである(しかし、こんな教育は受けていないが)。網戸は以前は張り替えがけっこう難しかったが、最近は、網自体も伸縮性が増し、またゴムのパッキングも良い材質になって、非常に簡単になった。技術が進歩した成果である。1枚を取り替えるだけなら、材料費は500円くらい。パッキングを押し込む専用の工具が150円くらいだ。たしかに、1枚1000円で5枚以上の仕事を1日に2つも取れれば、商売にはなる。
 ピンと張った新しい網戸が2つ完成して、スバル氏は非常に驚いていた。「使えるように直せるんだね」とおっしゃっていた。普通、直すとは使えるようにすることではないのか。しかし、いくら思い出しても、過去に家の役に立つようなことは、たしかに一度もしなかったかもしれない。すると、今日が初めての奉仕活動だったのか。

 「λ(ラムダ)」を今夜から書き始める。まあ、最初は引用、次に人物表、それくらいだろうか。少し遅れているが、完成は6月末を目指している。「ナンプレファン」のゲラも来たので見た。新聞社から原稿依頼があった。出版社からもムック本の執筆依頼があった。その他、講演会の依頼もあった。いずれも、スケジュール的に厳しいが……。

【算数】 ケーキの分け方

 円形のケーキに上から包丁を入れて、まず体積が半分になるように切った。次に、ケーキを90度回転させて、同じようにもう一度ケーキが半分になるように切った。この時点で、ケーキは4つに分かれている。
問題1:もう1度だけ包丁を入れて、ケーキを8等分しなさい。
問題2:最初の2回の包丁の断面が互いに直角でない場合はあるか?
 こういった問題がよく算数クイズに出るのだが、ケーキは上面や側面に通常クリームがついていて、これが均質であることはまずない。また、内部のスポンジにも何層かクリームや果物が入っている。したがって、どんなふうに切っても、厳密に等しい条件にすることは極めて困難である。
 絶対に喧嘩にならないケーキの分け方とは、切った人ではない人がどちらが良いかを選ぶ。複数人いるときは、1人ずつ1人分を切り出していき、最後に残った人が、まず自分の分を選ぶ。あとは、切った順とは逆に、順番に好きなものを選べば良いのでは?


2006年05月24日(水曜日)

【HR】 映画のこと

 朝から素晴らしい晴天。風が少々強いけれど、爽やかだ。庭掃除をした。パスカルも走り回っていた。こんな日に遊べる人は幸せだ。
 午前中は研究関係の打合せで出かけていた。論文査読の依頼が来たが、残念ながら読んでいる暇はない。機関車を走らせる暇はあるのに、と言われそうだが、それは単純に優先順位の問題である。たとえば、「ご飯を食べる暇があったら勉強しろ」とか「呼吸する暇があったら仕事をしろ」と同じである。

 「ジャーロ」へ近況文を書いて送る。「日経パソコン」は2校も済み。ゲラは「虚空の逆マトリクス」を15%ほど見た。スバル氏がスーパで買いものをしている間、駐車場でパスカルと待っているときに、5%ほど見ることができた。スライドドアを両側開けて、風を通しているから暑くはない。とても気持ちが良かった。
 車でどこかへ出かけていき、そこでゲラを読む、という習慣にしようかと考えているほどだ。たとえば、大きな川の畔とか、登山道の途中の駐車場とか、港とか飛行場とかである。そうすれば、ゲラを読むのが楽しくなるかもしれない。残念ながら、電車や飛行機に乗っている最中や、車を運転しているときは読めない。動いている景色は面白すぎる。景色が止まっているときなら読めるだろう、という意味だ。京都のお寺の境内でゲラを読むとか。大きな教会の中とか。それとも、トンネル工事をしている現場とか。原子力発電所のコントロールルームとか。「男たちの前にゲラが立ちはだかった」とか呟くわけだな、と。

 このところ、映画を観ていない。最後に見たのは、押井氏の「立喰師列伝」か。「ダ・ヴィンチ・コード」が酷かったと友人たち何人もがわざわざ(きいてもいないのに)教えてくれた。それだけ評判が悪いとなると逆に少し見たくもなる。これと同様の衝動は、最近では「デビルマン」のときにあった。人々の噂にはマイナスを乗じて受け止めることにしているからだ(「人々」と複数の場合のみ。特定の人からもたらされる噂は例外である)。
 そもそも、トム・ハンクスは、「フォレストガンプ」を(あれも試写会だったが)観て以来、敬遠している。「グリーンマイル」もハンクスでなかったら観たかもしれない。まあ、このように、わりと思い込みが激しい質である(ハンクスがではなく、僕が)。
 映画は、やはり映画が盛んだった頃のものが面白いように思う。新しい試みがあり、そして自由だった。この頃は、お金がかかるためか、スポンサを探すのが難しくなっているからなのか、どの映画を観ても、結局は、家族愛とか、一致団結して立ち向かうとか、悪い奴はちゃんと後悔してからやられるとか、同じところへ持っていこうとしていて、そこが実につまらない。設定は面白いのに、着地が同じなのだ。最後の30分を見なかったら、それなりに面白いだろう(現に、予告編はどれも面白い)。八方美人でどんな年齢層にも、どこの国にも、どの宗教にも人種にも受け入れられるものしか作れない傾向にある。大量消費されないと元が取れない映画の宿命だろうか。小説なんか、数千部売れれば元が取れるわけだから、このマイナさは非常に貴重だ、と再認識できる。
 「ダ・ヴィンチ・コード」はメディアファクトリーが出しているものと思っていたが、そうか角川だったのか。この本は、いつか読むことになるだろう。したがって、その意味でも映画を観ない方が良い。お袋が死ぬまえに最後に読んだのがこの本で、「面白かった」と聞いたからだ。これくらいの影響は受けても良いのでは、と思いつつ。

【国語】 「い」のない形容詞2

 今日も国語。形容詞の最後の「い」をつけない話を昨日書いたが、名古屋弁では、否定文のときにも「い」をつけない。これは、アクセントは違うが、関西弁でも観測される。ほかの地方ではいかがか。
 たとえば、「面白くない」ではなく、「面白ない」と言う。以下、「うまない」「おいしない」「楽しない」「悪ない」などなど。また、もともと2文字の「良い」「濃い」などを否定するときは、「ようない」「こうない」のように「う」が入る。そういえば、時代劇でも、「ようございません」なんて聞くから、昔からあった言い回しなのだろう。
 色でも例外ではなく、「赤い」「白い」は、終止形では「赤!」「白!」と使われ、また、否定形では、「なに言ってりゃあすだ、ちっとも赤ないでいかんわ」とか「そんでも、先生が白ないって言わしたも」というように使う。これを例文にして「赤」や「白」の品詞を問うと、名古屋以外の人は名詞と答えるだろう。
 「もうそんなに赤ないよ」と言うと、標準語では、「赤いものは既にそれほどありません」という意味になるが、名古屋では「(かつて赤かったものが)既にそれほど赤くなくなった」という意味になる。これで叙述トリックが書けるか……。


2006年05月23日(火曜日)

【HR】 エレクトロニクス

 一日中雨。家の中を黒いチャウチャウが歩いていた。
 スバル氏と大須へ出かける。大須は、2人の行きたい気持ちが一致する数少ない街だ。スバル氏はファッション関係およびブランド中古品を、僕は電子パーツや工具を買いにいく。駐車場で別れ、駐車場で落ち合う。
 まあ、だいたい6、7軒のパーツ店を渡り歩いて、探しながら少しずつ買う。スイッチ、コネクタ、ダイオード、LSI、その他いろいろ。ジャンクもときどき見る。ネットで購入できるようになったといっても、いちいち指定するのが面倒なので、買いたいものが多いときは、店に行った方が早い。

 僕たちの世代は、子供の頃にエレクトロニクスが一世を風靡したこともあって、電子工作に親しんだ。小学校4年生のときに、本を見て、ラジオを幾つか作った。最初はトランジスタだった。
 中学に上がると、パワーのある真空管を使うようになった。アマチュア無線の免許も取得して、無線機を自作した。自分の作った送信機や受信機で、海外と交信ができたりした(モールス信号だが)。 ラジコン飛行機のエンジンが、初めの頃、燃料にひまし油を使っていたから、あれが燃焼するときの独特の匂いに今でもノスタルジィを感じる。しかし、それよりももっと古い匂いの思い出といえば、やはりハンダのヤニが焼けるあの匂いだろう。子供の頃は、火傷も何度かした。危ない工作である。
 今日もハンダ付けをした。近頃はあまり匂わない(匂わない方が良いのだが)。やはりハンダ付けをすると元気になる。
 ちなみに、鉄道模型のキットも、真鍮をハンダ付けで組み立てるが、こちらはもう少しあとになってからで、ノスタルジィというほどでもない。模型では、プラモデルの接着剤の匂いの方が順番として古いはず。
 電気配線といえば、なんでもハンダ付けだったものだが、この頃は、アルミのパーツを押し潰して圧着する方式が安全でしかも信頼性が高いため、ハンダ付けはほとんど行われなくなった。ハンダ付けって何十年もすると劣化して駄目になるものが多い。
 プリント基板をエッチングで作ったりもしたけれど、今はもうしていない。僕自身の中でも失われた技術があるなあ、と思う。写真の抵抗は100本で50円だった。この頃、本当にパーツが安い。信じられない安さである。
 そうそう、中学、高校のときに出入りしていたジャンク屋が、今は大須にあって、そこのオヤジがまだ生きている。あの商売は不思議だ。何が売れて、どうやって利潤を上げるのだろうか。「ジャンク屋は何故潰れないのか」という本が出たら買いたいものである。アンティーク小物の店も同様だ。きっと裏で別の商売をしているにちがいない。あれは、世を忍ぶ姿なのだ。まあ、小説家というのも、世間から見れば、「どうやって食っているのだ?」という部類である。きっと、講演会とか、小説の書き方教室とか、タレントのゴーストライタとか、裏でなにかやっているのだろう、と思われているだろう。

 「εに誓って」が重版になる。例の誤植と、もう1箇所直る。新作はまだ手をつけていない。ゲラがあと2冊分あるので、同時にやるか、どうしようか、で迷っていたり。今日は、「ラピタ」と「日経パソコン」の連載のゲラを見た。

【国語】 「い」のない形容詞

 名古屋弁では、形容詞の最後の「い」を省いて、強調したり、単独で感嘆の意を込めることができる。たとえば、「甘い!」と言わず、「あま!」と言う。味が濃いことを「から!」と言う。これは、すべての形容詞に適用できるので、「情けな!」とか「気持ちわる!」とか「こわ!」とか「たる!」とかは使えるが、例外として、もともと2文字の形容詞には適用できない。たとえば、「よ」とか「こ」とかは言えない。
 最近、この名古屋的形容法がかなり全国に広まっているようだ。ときどき、ほかの地方でも(特に若者が話しているのを)耳にする。
 さて、そういったものとは別に、「面白い」という形容詞は、何故か昔から、「おもしろ」だけで用いる。名古屋弁でいう「面白ぉ!」ではない。たとえば、「おもしろグッズ」や「おもしろサイエンス」などである。標準語として使われている。「面白いグッズ」とはあまり言わない。「おもしろ」には、なんとなく古めかしい響きがあって、情緒を感じる。
 ただし、僕が観察した範囲では、この「おもしろ〜」というもので、本当に面白いものは滅多にないので、注意が必要だ。どちらかというと、「馬鹿馬鹿しいけれど無害が取り柄な」や「昔から誰もが知っているから今さらな」や「暇な奴が考えたとしかいいようがない」という意味で用いられているようだ。


2006年05月22日(月曜日)

【HR】 古い車が好き

 曇と晴。お昼頃一度出かける。戻ってから、今度はスバル氏が出かける。
 ミニが車検で、今ガレージにない。スバル氏は、ミニをとても気に入っている。僕も気に入っている。自分のミニがもう1台欲しいくらいだ。しかし、ステアリングは重いし、オイルは漏れるし、変な音がよくするし、故障は多いし、維持費もかかる。ガソリンもハイオクで、燃費が悪い。性能的なことは、古いデザインの車なのでしかたがない。一番心配なのは、面倒を見てくれる工場の存続である。トヨタやホンダならば、その点大丈夫だけれど。外車はこれが最大のネック。長く乗りたいと思うほど心配になる。車の耐久性の限界よりもさきに買った店がなくなる。10年も続きそうな工場も滅多にないからだ。
 スバル氏はことあるごとに、ワーゲンバスが欲しいと言っている。まあ、飾っておくには良いと僕も思うけれど、乗り回すにはちょっと大変なのでは、と答えている。もの凄く昔のでっかいベンツにも乗りたいとよく言う。金子國義先生が、ロールスっぽいグリルの白いベンツに乗られていたので、感化されたものと思う。あれも、維持が大変だろう。故障したら、パーツがもうないのではないか。まだ、東京近辺ならなんとかなる。地方では難しい。
 自分でいろいろいじる暇があれば良いのだが、なかなかそうもいかない。それに、この頃の車はいじれるほど単純ではない。
 よく街を走っていて、「あ、あれが良い」とスバル氏が指さす車があるが、だいたいは、少しまえの型だ。つまり、国内メーカのものでも、幾つかまえのバージョンは、もう新車がない。ときどき、どうしてなのか、と思うことがある。
 どんどん技術革新がある時代は、最新のものが常に最良のものだった。しかし、もうそんなには進歩していない。技術は成熟し、頭打ちになる。まえの型のスタイルが好きだというニーズに、「中古車をどうぞ」としかいえない(販売店を紹介したりさえしない)のが、現在の販売システムだ。
 これは、車だけに限ったことではない。大量生産で、在庫を抱えないのがこれまでの商売のやり方だったけれど、これからの時代はもっと多種多様で、スペシャルな商品が増えてくる。現に、自動車も同じ性能で形の違う車種が多く出ている。それだったら、モデルチェンジしたとき、まえの型を少し残しておく手だってあるはずだ。
 今はまだ無理だろうとは思う。でも、いつかきっとそれが当たり前の時代になるような気がする。空冷のポルシェが新車で欲しい人はいつの世にもいるだろう。規制があるから無理なのだが。

 「ZOKUDAM」のゲラも見た。「フラッタ〜」は電話で1時間ほどかけて修正箇所を伝える。僕としては校了。表紙も既にできているのを見せてもらった。このシリーズのカバーは毎年楽しみだ。一方、「スカイ・クロラ」の台湾版は、鶴田氏のイラスト(ノベルスのカバー)でいくらしい。
 日が長くなったので、沢山のことができる。夕方は、蒸気機関車に火を入れて、圧力を上げ、給水系のテストをした。毎日なにか発見がある。考えていて進まないときは、行動するとなにかはわかるものだ。
 久しぶりに水やりもした。朝夕は少しまだ寒い。まあ、これくらいが一番良い環境。

【社会】 自殺

 自殺が悪いとか、そういう話ではない。数を客観的に見てみよう。
 人が死ぬ原因を分類すると、自殺はかなり上位になる。たとえば、10代や20代では、不慮の事故と1位を争うほど多い。つまり、病気で亡くなる人が少ないためである。過去には、若者の自殺が多かった時期(1960年頃)があったけれど、現在はその半分以下に減少している。
 一方、数を単純に比較すれば、自殺者が多いのは、年輩者、つまり老人である。これは男女を問わない。人口あたりの割合で比較しても、老人の自殺者は若者よりも多い。
 性別で見ると、男性の自殺者が多い。女性の倍以上である。しかし、他の先進国では、男性の自殺者が女性の4倍くらい多いので、それと比較すれば、日本人は女性の自殺者が多い、と分析できる。
 日本は、世界でも自殺者が多い国である。これは、宗教的なもの(キリスト教が少ない)があるかもしれないし、あるいは、死に対する美的なイメージを古来持っている文化があるためかもしれない。たとえば、「心中」といった日本独自のタームがある。
 病気を治療するように、自殺もある程度は減らすことができるだろう。これは確かなことで、データ的にも証明されている。何故死のうとしている人間を助けるのか、という問いに対する明確な答を僕は思いつかないが、少なくともそれは、何故病気を治すのか、と同じ問いだろう。


2006年05月21日(日曜日)

【HR】 維持のすすめ

 よしもとさんから、追い打ちと焼き討ちと仇討ちをかけるように、マンモの写真が届いた。けっして要求したわけではない。しかし、清水の舞台から飛び降りながら泣いて馬謖を斬る思いで、ここに掲載しておく。「参考までに、風水上とても良い位置に置かれていますね〜」との解説付きだった。僕は建築が専門なので、もちろん鬼門などには注意をする方だが、風水には今のところ手を出していない。

 今日は強烈な晴天だった。外に出ると暑い。麦わら帽子をかぶって庭の掃除をした。バキュームクリーナが調子が悪く、頻繁に詰まってしまう。そろそろ寿命だろうか(まだ1年経っていないが)。庭の地面を覆っているリシマキアの黄色い花を発見した。サイズを示すため、パスカルの鼻とともに撮影。

 ガレージでは、車や機関車のメンテナンス。あれこれ点検しているうちに時間が経ってしまう。別になにをしているわけでもない、ただ現状を維持しようとしているだけだ。この「維持」という行為に日本人はほとんど理解がない。そういう行為を認めていない人もいるくらいだ。つまり、「発展」しないものは生きていないに等しい、と考えている。人間でいえば、まあ15歳くらいまでの人生はそのとおりだと思う。つまり、これまでの日本の歴史というか、社会というか、あらゆる組織がそれだけ若かったのだ。

 「維持」することは、発展させることより技術的に難しい。エネルギィをかけるわりに、成果が増加しないので、なんとなく寂しい感じはする。この状況を、日本人は「じり貧」などと言う。客観的に見て、これからの日本はもう発展はしない。維持をする時代なのだ。「このままでは、日本はじり貧になる」と年寄りたちは言っているけれど、そんなに発展がしたいのなら、一度じり貧になった方が良いのではないか。

 今は、自動車がマニュアルではなくなったのでピンとこないかもしれないけれど、スタートのときはローギアでダッシュする。スピードが上がるにしたがって、セカンド、サードとギアを換え、トップギアに入れる。トップギアとは、ようするに「力が出ない経済的なギア比」である。既にスピードが出ているときに、「昔のあの発展(加速)を今一度」などと言い、いきなりローギアに入れたりするのは、非常に危険でもある。現在のスピードも失いかねない。せめて、ダブル・クラッチくらい踏んでもらいたいものだ。
 どこでギアをシフトするか、ということがリーダの判断である。みんなの声を聞いていては、判断を誤る。みんなは、遠い先を見ていない。みんなは、今と過去を見比べているだけだ。リーダだけが、遠い先を見ていなくてはならないだろう。だから、リーダなのである。

 「フラッタ〜」のゲラを最後まで見た。続いて、「ZOKUDAM」第2話のゲラを読んでいる。新刊が出たこともあり、しばらく外出して溜めていたこともあって、この2日ほどで1000通近いメールをリプライした。1分間に4つとして、250分だから、だいたい、4時間ちょっとになるか。さすがに肩が凝る。
 大半は、短くて簡単にリプライできる。たまに困るのは、意味がわからないメール。それから、多いのは、とっくに周知だと思っている事項をきいてくるメールである。それだけ新しい読者が多いということで、悪い状況ではない。ただ、別にメールで個々に答える必要はないな、と感じることは確か。
 それから、「少々間違っているようなので」と指摘してくるメールも幾らかあるのだが、読んでみると8割方は、僕が書いたこととほぼ同じ内容で、つまり間違いではない。ようするに、「Aです」と書いた内容に、「あなたは間違っている。私はこれについて大変詳しいのだが、実はAなのです」と書いてくる。「大変詳しい」という点に重きがあることは自明だ。このように、誤解の多くは、誤解したいために生じる、ということがわかる。
 夕方は、近くの池までパスカルを連れていった。沢山の犬が来ていた。

【理科】 水中の風船

 お祭などでよく売っている水風船(ヨーヨーなどともいう)を水の中に入れる。普通は空気が多いから浮いてしまうだろう。しかし、重いものを吊り下げれば、水中に沈むようになる。その重りを加減して、ちょうど水中に停止するようにできるだろうか。
 理論的にはできそうな気がするが、これがなかなか難しい。何故ならば、少しでも沈むと、水圧が増して、風船は小さくなる。中の空気が押されて縮むからだ。すると風船の体積が減少するため浮力が減り、風船はさらに沈もうとする。逆に、少しでも上がると、水圧が減るため、風船が大きくなり、ますます浮き上がる。
 そっと釣り合う深さに停止させることはできるかもしれない。しかし、低気圧が近づいたりして、外気の気圧が変わると、風船の大きさに変化が出るため、やはり動き始めるだろう。
 基本的に不安定な状態といえる。これとは逆に、ある深さを自立安定的に維持するメカニズムを考えてみると面白い。


2006年05月20日(土曜日)

【HR】 あるシティギャルのこと

 今日は、ゲラを読んでいる。「ZOKUDAM」のゲラも来た。「虚空の逆マトリクス」のゲラも来た。1時間半もぶっ続けで読もうものなら、ゲラゲラ90分だ。
 栃木のバンダイにあったウルトラマンの写真だが、よしもとばななさんのところへ送った手前、ここでは公開しないつもりでいたのだけれど、彼女から「この写真のウルトラマンはオーストラリアで撮影された『ウルトラマングレート』です。全編海外ロケ、登場人物全員外国人というもの凄い無茶な内容でした。(注:メールをそのままのコピィではない。表記に多少変更あり)」という(別にきいてもいないのに)非常に丁寧なリプライがあったので、この情報を独り占めしては申し訳ないと考え、今日、断腸の思いで写真公開に踏み切った。

 しかも、その文のあとに「この写真だけでそれがわかる自分がとっても悲しいです。数年まえまでオタクを横目で見ていたシティギャルだったのに。」と自己評価されている。まあ、この「〜〜な自分がとても悲しいです」という自己完結傾向の表現は、何故か、僕の周囲の女性陣がかなりの頻度で使うので、僕まで悲しくなってしまい、もらい泣きすることがあるほどだ。北風小僧の寒太郎みたいに、一陣の風が吹き抜けた。
 さらに、よしもとさんは、「今日自分のためにギャートルズのマンモス『マンモ』のフィギュアを買ってしまいました。あまりにもよくできていたのです。毛とか。輪切りにして食べたいくらい。」と書かれてきた。駄目押し(既に土俵を割っている相手を、土俵下へ突き落とすかのごとく)である。おお、まさかここまでとは、と持っていた箸を落としてしまった(食事中?)。
 なんというか、チタン合金の筋が一本以上入っているのではないだろうか。歩くだけで、シャキンシャキンと音がする(ロボコップか)みたいな。
 しかし、それだけでは終わらない。さらにさらに、「風水を考えて『ゾウだし茶色いから南』というあたりがせめてまだギャルの名残でしょうか。」という文面で締めくくられていた。いや、そっちの方がむしろ超オタクでは、と思ったのは僕だけではないはず(しかし、メールを読んだのは僕だけか)。
 そういえば、つい昨日のメールには、メルクリンミニクラブ(Zゲージ)のトランク入りレイアウト(ここまでで、既に日本人の95%は脱落していると思うが)を買おうかどうか迷ったけれど、値段が、420,000万円とあったので「まだ、早いと思うよ」とご子息に思いとどまらせた、と書いてあった。
 いくらなんでも42億円もしないだろう(ライブドアの粉飾決算でもあるまいし)。しかし、僕が子供のときは、たこ焼き屋のおじさんが必ず「はい、50万円」と言ったし、中学に入った頃通っていたジャンク屋のおやじさんも、なにか買うごとに「それは五百億円、ひひひ」と笑ったので、子供心にどきどきしたものである。
 よしもとさんがその手のギャグを使われているのが、けっこうシュールで素晴らしいと思う一方、シティギャルの皮を被ったオ○○ではないかとの懸念も心の隅に生じた(答:オ嬢様)。ところが、今日、「間違えました」というメールが来た。間違えるのは、フロイト的に「無意識の恐怖がよく出ている」とまたも(こちらが指摘するより早く)自己分析されていた。
 まあ、はっきり言わせてもらうと、スバル氏と同じくらい愉快なシティギャルだと思う。
 そうそう、よしもとさんで思い出したが、東京ばな奈の黒いやつを一昨日食べた。「傷んだ東京ばな奈」という商品名ではない。たしか「黒ベエ」とかである。中のクリームがチョコ味か、と想像したら、普通のバナナクリームだった。目を瞑って食べたら、普通の東京ばな奈との区別は難しい。いっそ、「東京キウ異」とか「東京マン瑚」とかの方が飛んでいるような気がする。「秋葉原バナナを嫁に食わすな」という早口言葉を口ずさんでしまったのは、僕だけだろうか。今思いついたオリジナルだから、僕1人だと思う。

【算数】 12進法

 人間の指が6本だったら、おそらく確実に12進法が地球を支配していただろう。
 この場合、10進法の10と11は、1桁の数字になり、固有の名称や記号が与えられる。今はそれがないので、仮に10を「A」、11を「B」としよう。10進法の12が、12進法では「10」と表記されることになる。そもそも、12進法という呼称が、もう違うものになる。12は10と2でできているが、12進法では、単なる「10」となり、2のニュアンスは潜まない。
 こうなると、3は、まさにクオータで、キリの良い数になる。そもそも、3分の1や4分の1が、キッチリした数になる。逆に、5という数は、きりの悪い半端な素数として、10進法における3みたいな存在になる。
 10進法では、各桁の数字を足した和が9で割れる数は、それ自体が9で割れる。たとえば、594は、5+9+4=18で、18が9で割れるから、594も9で割り切れる、と判断ができる。
 同様に、12進法では、各桁の数字を足した和が11(「B」)で割れる数は、それ自体が11で割り切れる。たとえば、「3A9」は、3+10+9=(10進法の)22で11で割れる。「3A9」とは、10進法に直すと、3×122+10×12+9=561であり、11で割れる。
 今よりも、5割増しくらい、九九(「BB」と呼ばれるはずだが)が難しくなっていたはずだ。


2006年05月19日(金曜日)

【HR】 おもちゃつづき

 ホテルのラウンジで、ダ・ヴィンチのI子氏と、電通の人たち(10人くらい)と打合せ。例のスポンサ付きの仕事の一環で、今回は、TVドラマ以外のネット展開の企画についてだった。本は「カクレカラクリ」として8月刊行で進んでいる。
 新幹線に乗って名古屋に2時半頃戻る。パスカルが今までで一番大暴れして喜んだ。だんだんエスカレートしているような気がする。手はだいぶ良くなったようだ。ますます膨らんでいるし。

 今日も、写真で、昨日のバンダイ・コレクションを幾つかご紹介。まず、メリーゴーラウンドは、直径9mくらいで、動力は手動。組み立て式のもので、街から街へ移動して、お祭などで使われたものらしい。木製であるため、実際に動かしたり乗ると消耗するから、今はそっと展示されていた。

 怪獣は、2mくらいの大きさのもので、空気圧で動くようにできている。どうしてこんなものが、ここにあるのかよくわからないが、館長さんのコレクションらしい。ウルトラマンもあった。その写真は、よしもとばななさんのところへメールで送ったので、ここでは紹介しない(価値を高めるため)。

 倉庫の中のスチール棚に並んだ古いおもちゃ。こういった棚が延々と並んでいるわけで、まだまだ整理・分類を待っている状態。デジカメで1つずつ写真を撮り、リストを作っているとか。気が遠くなるほどの労力だ。ここにこれだけコレクションされているなら、もう個人で集める必要はないな、とみんな思ってもらいたい(笑)。みんながここへ寄贈してはどうだろうか。
 まあ、しかし、ときどき気に入ったものもあるわけで、手元に置いておきたいな、というものももちろんあるだろう。だから、「死んだらここへ寄贈しろ」という遺言を書いてはいかがか。
 国内のおもちゃのコレクションは、ここ半世紀くらいのものが多く、ネットオークションでもよく見かけるものも多数。それほど高価でもないだろう(せいぜい数十万円)。

 一方、イギリスから来ているコレクションは、かなり凄い。もともとは、ロンドン・トイ&モデル・ミュージアムにあったもので、それがそっくり日本にある。日本にあること自体が恐ろしく奇跡的なものだ。まえに、軽井沢のミュージアムのことを紹介したが、あそこにあるのが、全体の10分の1くらいのもので、残りがこちらに眠っている。直さなければならないものが多いし、どんな品かを見極めることさえ難しいものもあるだろう。
 資産価値は極めて高いけれど、公開、展示して人気を博しても、元が取れるようなことはない。管理に費用がかさむ。そもそも、おもちゃとはそういう存在である。本当は、こういった文化的なものに対しては、財団や公共が支援をすべきだと思える。
 さて、「もえない」のゲラは昨日終わり。今夜は「フラッタ〜」のゲラを読む。長編の執筆は、来週から始められるだろうか。

【国語】 文章における客観性

 よく行く駅のロータリィの入口に、「空車タクシーのみ」と大きく黒い文字で書かれ、次の行には「右折禁止!」と赤で書かれている。これをどう理解して良いものか、見るごとに考えてしまう。
 つまり、空車タクシーのみが右折禁止なのか、あるいは、空車タクシーのみはOKで、ほかは右折禁止だと言いたいのか。書いた人間はこの疑問を抱かなかったのだろうか。だとしたら、客観性のない人間である。
 わかりにくい文章、間違って解釈される恐れのある文章は、ひとつには、書き手に客観性が不足していることが原因で生まれる。自分が言いたいことを書く、という素直さは失いたくないが、しかし、伝わらなければ、文章を書く意味がない。文章とは、そもそも伝達を目的に出力されるものである。
 一休さんの話に出てくる「このはしわたるべからず」にしても、立て札の文句を書いた人間が、そもそも一休さんの発想があるまえに、誤読されることに気づくべきだったかもしれない。それくらいの慎重さが求められる場面がビジネスではままある。小説では滅多にないが。


2006年05月18日(木曜日)

【HR】 おもちゃ大集結

 朝は、ホテルで比較的のんびりとネットサーフィンなど。
 11時にホテルのロビィで中公のN倉氏と待ち合わせ、上野へ出る。そこから宇都宮行きに乗って、栃木へ。ひたすら真っ直ぐ走る電車だ。降りた駅は、宇都宮の少し手前の石橋というところ。
 ここは、おもちゃ団地というものがある。各おもちゃメーカの工場や開発部、研究所などの大きな施設が集まっている。その1つであるバンダイを見学させてもらった。
 まず、だだっ広い敷地(1万5000坪あるとか)の一部に全長300mの線路が敷かれていて(うちの庭園鉄道と同じ幅の5インチゲージ)、星野氏をはじめモデラの皆さんが既に蒸気機関車を走らせていた。いきなり、N倉氏とともに乗車、まず2周。そのあと、1周は運転をさせてもらった。爽快。そうそう、東京は雨だったが、何故かここは降っていない。雨を降らせない恐ろしい力が働いているのだ。

 でも、もっと凄いものがここにはある。レトロなおもちゃのコレクションだ。国内のものと、ロンドンにかつてあったコレクション。いずれも、非常に貴重なものが、もう山のようにある。整理がなかなかできないほどの量だ。最初は、綺麗にガラスケースに入って展示されているものを見た。軽井沢にあるワールドトイミュージアムは、ここから厳選された一部が展示されている。量的には、こちらの方が何倍、何十倍とある。さらにそのあと、別棟の倉庫の中も見せてもらった。こちらがまたもの凄い量だった。たとえば、日本のおもちゃならば、誰が見ても、きっと子供のときに遊んだおもちゃに再会できるだろう。

 ただし、まだミュージアムとしてはオープンしていない。オープンして一般公開されるのは来年の4月のことらしい。今は、そのための準備をしている段階なので、もうしばらく待たなくてはならない。
 せっかち君、おとぼけ君、お使いブル公(上の写真)、おしゃべり九官鳥(下の写真)があった。超合金関係、ソフビ関係も勢ぞろい。ゲームセンタにあった懐かしいマシンや、空気圧で動く等身大(?)のウルトラマンや怪獣もあった。それから、おもちゃではないけれど、発明王エジソンに関するコレクションも凄い。今は関西で展示会が開かれているため出張中だったのに、それでも凄かった。蓄音機なども実際に動かしてもらった。
 見学しているうちに夕方になり、最後にまた、庭園の鉄道を1周だけ運転させてもらい、石橋駅まで館長櫻田氏に送ってもらう。上野までは1時間15分くらいで到着した。

 夜は、角川書店のK子氏、M浦氏と晴海へ行き、中華の創作料理。とても空いていたが、味は美味しかった。お店はwakiyaで、このまえ赤坂で入ったのと同じお店だった。スープを飲んでいるときに、独特の味で「あ、同じ店だ」気がついた。その後、ホテルに戻ってラウンジでまたお話の続き。いろいろディープな話題が尽きない。「どきどきフェノメノン」のノベルスが10月発行予定で、カバーイラストをスバル氏にお願いしたいと依頼された。

【社会】 国際化

 国際化という言葉は、既に充分に使い古された感が強い。30年以上まえから、「これからは国際化の時代だ」と叫ばれてきた。仕事を獲得するためにビジネスマンが積極的に海外へ進出した。しかし、日本の文化は、いったいどれだけ世界に対して発信されただろう。国際化というのは、商売ばかりではないはずだ。
 世界に向けて積極的に宣伝する必要はない。たとえば、インターネットで調べたとき、「それがある」ということが確認できるだけでも良い。それが第一歩である。せめて、世界が読めるページが1枚用意されているだけでかなり違う。
 あるいは、日本の言葉や文字で書かれていても、それを見ることができるなら、それでも良い。読みたい者は、自分の辞書を調べれば読めるだろう(そのかわり、文字をグラフィックスにして表示しておく程度のサービスは必要になるが)。
 たった、それだけの姿勢が、なかなか示されていないように思う。英会話がどうこうとか、世界進出がどうこうとか、そういったことのまえに、やるべきことがあるのではないか。
 これまたたとえばの話だが、個人でHPを持っている人たちが、自分の町にある文化を、あるいは自分の得意な分野を、少しだけ紹介する英語のページを1Pでも作れば、あるいは、写真のキャプションだけでも英語にすれば、それが情報の発信になる。それらが集まって、日本の文化が世界に示せることになるだろう。たった、それだけのことである。
 もちろん、コンテンツがなければならない。世界の誰かにとって価値があるだろう、というものを見つける必要はある。そういったものが身の回りにないだろうか、自分自身の中にないだろうか、と探すことが、すなわちグローバルなスタンスなのだ。
 国際化というのは、海外に出かけていくことではない。海外の人を受け入れることでもない。人と人の交流だけでもない。たった1つの標識、たった1枚の看板、たった1つのウェブページに、小さく英語を入れるだけで良い。そういった内を向いたベーシックな姿勢のことのように思われる。


2006年05月17日(水曜日)

【HR】 銀座で打合せ

 小雨だった。パスカルは一段と元気になっている。
 午前中に雑用を片付け、午後から電車で出かける。名鉄と新幹線に乗った。東京へ到着。
 まずは、銀座の天賞堂へ。しかし、これといって欲しいものはなく、洋雑誌を8冊ほど購入した。昔だったら絶対に買っているな、という品はあるけれど、この頃は「まあ、これくらいでは僕に買われない」というものが増えた。その分、節約をしているのか、というと、そうでもない。ようするに高いものをときどき買ってしまう傾向にあるようだ。特に、海外のものを買っている。いけないいけない。
 夕方、ホテルで講談社のK城氏とM澤氏と待ち合わせ、銀座へ食事に出た。最近多い創作系だった。少しずつ多種出てくる。なかなか美味しかった。中国料理でもなく、イタリアンでもなく、日本料理でもないが、しかしそのいずれでもあるような感じ。あ、韓国系も少し混じっているし、最後の締めは小さなカレーライスだったりした。これはなかなか斬新な……。
 Gシリーズの今後のことや、メフィストのことなどを話した。Gシリーズの読者の50%は、Gシリーズで初めて森博嗣を読んでいる、との分析で一致。いろいろな数字からそういう感じがだいたいわかる。
 それから、M澤氏は文庫の担当で、秋に予定されている「四季」文庫版を4分冊で出す話をした。4冊がまとまっている箱入りも少数作りたい、とのこと。どちらがさきか、同時か、はまだ決まっていない。現在読者から募集している解説(感想)だが、今のところまだ届いているものは数人らしい。少しずつ読む方が良いかもと思うので、今度読ませてもらおう。
 外国へ取材旅行にいく話もまた出た。また、2人が変身してしまう恐れがある、と心配。
 ここからは一般論だが、担当編集者と会って話をすることは、創作の良いきっかけとなる。これはお世辞とかよいしょではなく、客観的に確かだと感じる。極端な言い方をすれば、作家(特に僕)は、担当編集者のために書いている、といっても良い。話をしているうちに、こんなものはどうだろう、と思いつくことも多い。編集者の方から、こんなものはどうですか、と提案してくることもある。そのまま、はいそうですね、ということは滅多にないけれど、何が求められているか、という種は蒔かれるし、そうではない、という反発もまた創作の動機になるだろう。
 銀座はこの頃活気があるように見える。ひと頃(10年ほどまえ)よりも、ということだが。

 写真は、「数奇にして模型」の台湾版。上下巻になっている。海外で売れる冊数は、まだまだ数千というオーダではあるけれど、しかし、日本の出版社がそういった数を拾いにいかないのは、少々消極的に思えるがいかがか。いつの時代でも勝者となる条件とは、コンテンツを持っているもの、オリジナルを生産できるもの、である。

【理科】 年輪

 切り株の年輪を見れば方角がわかる、という裏技は昔から有名だが、輪の幅が広がっている方向が正確に南かというと、必ずしもそうではない。地形や周囲の状況による。
 樹には必ず年輪があるのか、というと、ないものもある。たとえば、ヤシ、シュロ、などには年輪がない。竹にも年輪はない。
 木材の表面に曲線的な木目が現れるのは、丸太(幹)から板を切り出すときに、平行に何枚も取り出したからである。このような切り出し方を「板目(いため)」という。一方、板を、幹の半径方向に放射状に切り出せば、木目はほとんど直線となる。このような板を「柾目(まさめ)」という。柾目に取ると、無駄が多く出るため、材木の価格が高くなってしまう。しかし、水を吸ったときの変形が均質で、反ったりしにくい高品質な木材が得られる。
 表面だけに薄皮のように別の木材を張り、中身は安い木材が接着剤で集成されている人工の木材が最近は使われている。家の柱や梁(はり)も、一本の樹から切り出したものではないことが多い。ちょっと見た感じではほとんどわからないし、また力学的に劣っているわけでもない。


2006年05月16日(火曜日)

【HR】 本の評判

 朝から曇り空、ときどき小雨が降る天候。午前中は研究関係で出かけていた。午後に戻って、雨上がりの庭を少し掃除した。パスカルはもう、庭を歩いている。まだ本調子ではないが、少しずつ良くなっているようだ。
 「ZOKUDAM」は手直しをして30000文字になった。発送して終わり。ゲラは来週らしい。「フラッタ〜」のゲラは現在30%まで見た。「もえない」のゲラはスバル氏に読んでもらった。これはイラストのため。僕はまだ読めていない。明日にも読む予定。

 清涼院氏の「秘密室ボン QUIZ SHOW」が届いた。メフィスト賞関連の歴史について巻末に書かれていて懐かしい。そういえば、そんなふうだったな、といった感じか。清涼院氏は、デビュー作でかなり叩かれたなどとご自身で書かれているけれど、それは誰でも同じではないだろうか。
 僕のこれまで出した本の中で、どれが一番叩かれたか、といえば、それは間違いなく、最初の「F」である。もう散々だったと記憶している。「コンピュータ用語の羅列で意味がわからない」「単に知識をひけらかしたいだけだ」「登場人物には感情がない」「キャラクタに魅力が全然ない」「ヒロインが嫌い」「こんな人間は世の中にいない」などなど。
 そんな散々なシリーズだったが、Vシリーズの1作目を発表すると、とたんに、「前のシリーズの方が良かった」という声が増え始める。Gシリーズが始まれば、「Vシリーズを続けてほしい」という要望が多くなる。

 基本的にいえることは、読者が作家よりも保守的である、ということだ。それから、一度統計をとってみたいものだが、酷評される本の方が結果的に売れる傾向にあるように感じるほどだ。少なくとも、出たばかりの頃の評判は、本当に売れ行きとは反対だと思う。したがって、評判が良いときにはあまり嬉しくなかったりする。「駄目だ、これだけ褒められたら、きっと売れないだろう」となる。
 新しいものを出せば、古いものを知っている人は反発する。しかし、何度も書いているところだが、作家は、料理を出す店ではない。料理を出す店は、美味い料理を長く作り続ければ、何度でも同じ客が来る。しかし、作家が作るものは、同じ客が何度も経験できるものではない。基本的に1度だけなのだ。ここが決定的に違っている。また、いつまでも商品は古くならない。一度作ったものは、常に新しい。
 「あの店は昔はもっと美味かったんだ」と嘆くファンもいるだろう。それは、その店でもう昔の料理が食べられないからである。しかし、作家の作品はいつまでも世にある。新しい客はいつでもそれを(1度だけだが)味わうことができる。エラリィ・クイーンもアガサ・クリスティも今は新作は出ていない。しかし、「もう駄目になった作家」ではない。作品の味は衰えない。
 もちろん、「F」が優れた作品だと自分で認識しているわけでは全然ない。この作品は一番沢山売れている。しかし、これが本当に面白かったら、2作目がもっと手に取られるだろう。1作目だけが売れるのは、それだけの作品だったからだ。
 いろいろなタイプの読者がいる。いろいろなニーズがある。まず、手近なもの、タイトルでぴんと来るもの、最後まで読めそうなもの、が手に取られる。まあ、それがそこそこの内容であったとすると、もう1冊この作家のものを読んでみようか、と少し思う。ここで「もう1冊読ませる」かどうかが、商品としての最も大事な機能といえる。
 ノベルスの部数で見ると、現在1位はもちろん「F」だが、2位はなんと「φ」である。次の本をどれだけ読ませたか、という点では、後者の方が圧倒的に成績が良い。Gシリーズの不完全さのためだろう。

【算数】 13日の金曜日

 不吉な日として知られている「13日の金曜日」だが、どれくらい珍しいものだろうか。
 簡単である、13日が金曜日になる確率は1/7だ。曜日は7つしかないのだから、大まかにいえば、7カ月に1度は13日が金曜日になる。
 金曜日が13日である確率は、約1/30だ。月によるが、どの月にも13日はある。確率は1/28〜1/31とややばらついている。
 では、特定のある日が、13日の金曜日である確率はどれくらいか。それは、1年に13日が12/365の確率で存在すること、金曜日が1/7で存在することから、12/2555である。おおよそ213日に1度の割合になる。つまり、約7カ月に一度、という上記の数字と一致する。
 ちなみに、悪魔の日である6月6日や、お正月やクリスマスや子供の日や文化の日が、13日の金曜日になる確率は0である。13日の金曜日が休日になる可能性はお盆休みくらいだ。 


2006年05月15日(月曜日)

【HR】 パスカルレントゲン

 昨日、お客さんが大勢いたため、パスカルは良いところを見せようとして、庭を走り回り、途中で足をくじいたか、どこかで打ったかして、きゃんとひと声を上げたあと、歩けなくなってしまった。右手が下につけない。以前にも、そちらの手を痛めたことがある。体重が重くなったのをよく認識していないためだ。長女M氏がいるときも、はしゃいで池に落ちた。ようするに、おっちょこちょいなのだ。
 ちょうど来ていた中公のN倉氏は獣医学部出身なので診察してもらったところ、骨に異常はない、とのこと。ご飯も食べるし、そんなに痛がらないので、夜は様子を見ていた。ただ、歩くのがけっこう大変そうではある。
 それで、今朝は行きつけの獣医さんへ連れていった。いろいろ精密検査をしてもらい、腕と指のレントゲン撮影もしてもらった。なにかが刺さっているふうでもない。脱臼ではないか、とのこと。腫れてはいないし、触ってもそんなに痛がらない。腱か靱帯かもしれない。しばらく様子を見ましょう、ということで、いちおう薬はもらってきたが、まあ飲ませるほどでもないだろう。午後には、庭を歩くようにはなっていたし、散歩に行きたがる。階段も上り下りするし。

 今日の午後は、機関車の掃除をする予定だった。ガレージの横に2台の蒸気機関車を出して、メンテナンス。しかし、両方とも一応水を入れて、石炭を入れて、火をつけて圧力を上げた。熱くなったあとの方が掃除がしやすいからだ。圧力を上げると、どうしても走ってしまうので、古くて大きい片方はメインラインを3周。新しくて小さいもう片方は10周ほど走った。合計で1.5kmほどになるか。大きい方は、どうもまだ調子が悪い部分が幾つかある。いろいろ試してみるしかない。小さい方は絶好調で、よく走る。
 今、庭園鉄道には蒸気機関車は3台在籍している。ちなみに、バッテリィとモータで動くいわゆる電気機関車は8台、ガソリンエンジンで動くものが2台である。現在、電動のものを1台製作中。また、蒸気機関車はあと3台ほど増える予定がある。足りないのは、線路か……。

 「ZOKUDAM」は書き終わった。約28000文字。明日手直しをして発送する予定。15日を締切だと思っていたところ、23日と聞いただけで1日余分にかかってしまった。気分の緩みというのは恐ろしいものだ。恐ろしくて身が引き締まる思いがするけれど、言葉で書いているだけのことで、全然緊迫感がない。
 「MLA 2」の羽海野チカ氏の表紙イラストが届いた。このところ毎日「ハチミツとクローバー」を読んでいるので、いつもより余分に嬉しい。

【国語】 するもの

 「電話をする」という言葉は、標準語だろうか。この言葉に違和感を感じる人は、日本人のうちどれくらいいるだろうか。僕の周辺では、この言葉は自然である。しかし、小説を書き、校閲のチェックが入ると、たいてい「電話をかける」に直しませんか、と指摘される(エンピツという)。だから、この頃では、最初から「電話をかける」と書くようになった。言葉で話すときに、「電話してね」と言う人は多い。「電話下さい」「電話ちょうだい」もある。
 「メガネをしている人」はどうだろう。これは「メガネをかけている人」が正しいと思われるが、会話では、「メガネしてる」はわりと使う。「マフラしてる」「マスクしてる」「エプロンしてる」も普通に耳にするが、小説にはあまり出てこない。標準語ではない、ということか。
 もちろん、「ワープロしている」も直される。僕の周辺では「ワープロしている」というのは、パソコンのワープロソフトを使っている、という意味だ。でも、校閲は、「パソコン」なのに「ワープロする」のは変だ、という指摘をしてくる。文系では、ワープロは、ワープロというマシンのことだと認識されているらしい。理系では、ワープロなるマシンは使わない。過去にも使ったり、使っているところを見たことが一度もない。同様に、僕の周辺では「タイプする」のもパソコンを使ってする。もう20年くらいまえからそうである。
 「コンピュータをする」も使う。「エクセルをする」も使う。もちろん「インターネットをする」も使う。「プログラムをする」という言葉は、「プログラミングをする」に直されたことがある。おそらく、「スイム」や「ラン」をすることはないが、「スイミング」や「ランニング」をすることはある、という認識からだろう。
「帽子をする」「鞄をする」「靴をする」はぎりぎり変な感じ。でも、「ヘルメットをする」「イヤリングをする」「口紅をする」「入れ墨をする」などは自然に聞かれる。


2006年05月14日(日曜日)

【HR】 来客多数

 今日は、庭園鉄道のオープンディだった。週間予報ではずっと雨マークだったのだが、昨日から急に晴の予報に変わり、朝からさわやかな晴天となった。オープンディは小さいもの(ゲストが数人)は頻繁にあるけれど、今日は参加者13人ということで、今年では最大のイベントになった。
 朝から、線路を見て回り、車両の準備を始める。といっても、いつものとおり庭掃除をしたくらい。線路の状況は、一度ゆっくりと走行してみればわかる。車輪が滑るようにオイルを吹きつける。これは、走行音を静かにさせるため。
 車両を整備しつつ、走らせているうちに、最初に中央公論新社のN倉氏が来宅。スバル氏が絵本を出そうとしていて、その絵がおおかたできたので、N倉氏に見てもらったりしたようだ。僕も見せてもらったが、今までの絵本では一番素晴らしい出来だと思う。
 さて、ゲスト10人くらいが集まったところで、運転を開始、最初だけ僕が運転し、次はN倉氏が運転したが、あとは、運転のし方をゲスト全員に指導し、各自に運転してもらった。手があいたので、僕は蒸気機関車の準備を始める。暖かいせいかすぐにスチームアップし、快調に走った。同時に列車が4つも走行するような場面もあった。沢山の機関車を走らせることができて嬉しい。日頃不足しているのは、運転手ということか。
 SF作家の野尻抱介氏もオープンディに参加された。お会いするのは今日が初めてだが、彼のHPは何年もまえからときどき拝見している。マニアックな内容で素晴らしい。模型飛行機をはじめ、いろいろ楽しまれている趣味人だ。今日はお土産でフリーフライト用のタイマをいただいた。極めて珍しいマニアックな部品で、現物を見たのは初めてだった。
 こういう言い方、考え方は、あまりに平均的というか、面白くないとは思うけれど、庭園鉄道のおかげで、いろいろな方と知り合いになれた。別に、沢山の人と知り合いになりたいから、庭園鉄道を作ったわけではない。だから、これは二次的な(あるいは三次的な)ものである。ただ、自分だけの楽しみに、このような要素がほんの少し添加される、というのも、ご飯にふりかけをかけているみたいな感じで、美味いかもしれない、と思うことはある。これは、家族の理解についても同じことがいえる。けっしてそれがメインではないが、少しくらいあっても悪くはない、ということ。ここを取り違えている記事が非常に多いので、注意が必要だ。友との語らいのために、趣味はあるのではない。しかし、語らいが不要だとか悪いというわけでもない、ということ。

 この頃、この近辺にはカラスが多い。電信柱の上に沢山とまっているのを見かける。以前にも同様のことはよくあったが。ところが長くはいない。知らないうちに姿を見かけなくなる。集団で移動をしているようだ。カラスの声が聞こえている間は、ほかの鳥の声が聞こえない。カラスがいる間は鳴りをひそめているような印象だ。
 鳥の集団というのは、不思議なもので、別の種類の鳥が混ざることはあまりないようだ。同じ種類のものをちゃんと識別している、ということか。そういえば、魚も同じだ。群れをなしているのは、全員血縁関係というのであれば、わからないでもないけれど。
 やはり、どう考えても今年は虫が少ない。今のところ庭に蚊がいない。殺虫剤なども買い揃えているが、まだほとんど使わない。何が影響しているのだろうか。それとも、単に遅いだけで、これからなのだろうか。もうしばらく観察してみたい。

【社会】 ブルジョア

 「ブルジョア」という言葉は、単に「金持ち」という意味に使われていることが多い。しかも、「セレブ」が良い意味で使われるのに、「ブルジョア」は、人を揶揄したニュアンスが含まれていることがほとんどだ。
 もともと、ブルジョアとは、「城郭の住人」という意味であり、中世ヨーロッパにおける都市住民のことを示すが、そのなかで、貴族や僧侶などの高層でもなく、また下層の平民でもない、中産階級の呼称となった。しかし、まあ、日本の社会に照らし合わせて訳すならば、市民あるいは町人のことである。
 近代においては、資本家階級を示す言葉になった。資本家階級というのは、生産するシステムを持っている人たちのことである。つまり、単に雇われている労働者ではない、といった意味になる。ところが、今の社会では、かなりこの境界が曖昧になった。大会社の社長だって、単なるサラリィマンであり、いつ株主に突き上げられてクビを切られるかわからない。一方では、手に職を持ったクリエータや独自の商品を持つ小さなお店の経営者は、ネットを通じて自分の生産システムを活用できる時代だ。いずれがブルジョアか。
 それにしても、「金持ち」や「ブルジョア」といった言葉がマイナス表現として使われていた社会が貧しかった、ということだけは確かだろう。


2006年05月13日(土曜日)

【HR】 雨降りのホビィルーム

 雨、降りすぎ。気温も低すぎ(今風に書いてみました)。
 雨が降っているのに、パスカルが濡れていなかったので、「あれ、まだ外に出ていないの?」とスバル氏にきいたら、「これくらいの雨で濡れるようなパスカルではない」と言っていた。あの毛は蓑(みの)だったのか。
 午前中に小説の仕事を片付けた。「ZOKUDAM」は18000文字まで。「フラッタ〜」のゲラを20%まで見た。続いて、7月発行の「虚空の逆マトリクス」のゲラが来るらしい。「もえない」のゲラも来る。次々に来る。迎え撃つ以外にない。
 今日は、海外から買った鉄道関係のDVDを1本見たが、全編に音楽が流れていて、列車が走る音が聞こえないのでがっかりだった。飛行機のDVDでもそうだし、たぶんレーシングカーやラリーカーでも同じだが、バックグラウンドミュージックを入れる人間は、おそらくその内容に興味がないのだろう。あるいは、録ったものに自信がないから音楽でカバーしようとするのか。ドラマも同じだと思う。音楽で感動させようという手法が多用されすぎている。結果的に安っぽい感動しか得られない。

 久しぶりにホビィルームで1時間ほど遊んだ。1カ月に1回か2回しか遊ばない。あちこち壊れているところを発見し、接着剤で修復しながら遊ぶ。特に、模型の建物の雨樋が頻繁に取れる。僕が通って服に引っかけることもあるし、南向きの部屋で紫外線が入るため、接着剤が劣化することもある。
 ここはもう6年くらい線路が敷きっぱなしなので、そろそろ、一旦片づけて、新たな配置にするか、それとも別の部屋とコンバートする手が考えられる。たとえば、床に線路を敷いてしまうから一部屋が占有されるが、沢山テーブルを並べて、その上に線路を敷けば、少なくともテーブルの下にスペースができるので、模型が収納できる。などなどいろいろ思案している。収納できるとなれば、心おきなくまた増やせるというものだ。しかし、そうなると、また床にも線路を敷いてしまい、2段構造になるような気もする。

 そういえば、よく本を買いにいく書店で、初めて自分の本が並んでいるのを目撃した。気持ちの良いものではない。並んでいたのは、「四季」のノベルス4冊だった。現在、最もメールが沢山来るのはVシリーズで、読者の多くは、今それくらいのところに平均があるのか、と思われる。もちろん、Gシリーズから読んでいる人も多い。
 一昨日と昨日と、少し沢山書きすぎたので今日はセーブしておこう。

【理科】 ステンレスの不思議

 ステンレスという金属は、鉄を錆びにくくしたものだ。この名称は、stainless steelのことで、stainとは錆のこと。錆びにくい鋼、という意味である。錆びにくいことが最大の特徴だが、反面、鉄に比べると、加工性が低下する。切削や溶接が難しい。
 鉄に他の金属を混ぜて、いろいろなタイプのステンレスが作られる。主としてクロムやニッケルを混ぜる。
 不思議なことがある。金属の中で、磁石にひっつく性質があるのは、鉄とクロム鋼とニッケルなどだが、これらを混ぜ合わせたステンレスの中には、磁石にひっつかないものがある。たとえば、台所のシンクなどに多く使われるステンレスの代表格ともいえるSUS304は、磁石につかない。混ぜ合わせる割合によって磁性を打ち消しあって相殺されるメカニズムらしい(自分で確かめたことはないのでよく知らない)。
 工作では、ステンレスは非常に使いにくい。値段も高いし、とにかく削りにくい。いくら錆びないからといって、これで機関車をすべて作ることはできない。


2006年05月12日(金曜日)

【HR】 禁則処理

 寒々しい曇り空の一日。午前中は研究の打合せで外出。午後は庭掃除などをした。虫がいないのは寒いせいだろうか。
 パスカルをシャンプーした。3週間ぶりくらい。風呂場でスバル氏と二人がかりで20分くらいかかった。洗ったあと、家の中を走り回るので(スバル氏がではなくパスカルが)、それが大変。耳の形がわかるようになるので、「耳がある」ばかり言われている。
 毎日ブラシをかけてもらっているが、抜ける毛が凄い(僕がではなくパスカルが)。それでも、全然減ったようには見えない。密集しているというか、掻き分けても肌が見えない。もっさもっさである。写真は2枚とも、洗った直後でまだ濡れていて、躰が細く見えている状態である(耳がちゃんと識別できる)。この3時間後にもの凄く膨らんでいた。

 重版のことは、ここには書いていないが、ときどき、編集部から重版のメールをもらって、それをエクセルに記録している。「F」の文庫が一番多くて、今日第26刷の知らせがあった。そうそう、「探偵伯爵と僕」も第3刷になる。ミステリーランドが好調なのだろう(U山氏、良かったですね)。
 「εに誓って」の誤植指摘メールは200通を超えたので、リプライだけでも大変かというと、決まった文面をコピィして応えているので、そうでもない。誤植の修正は、すべて読者からのメールに頼っていて、僕自身も、編集部も、本になったあとは読んで見つけたことはない(僕は読まないから見つけられない)。ありがたいことだ。

 「悠々おもちゃライフ」のゲラ2校が届いて、1校で直した部分がちゃんと直っているかをチェックした。2箇所直し忘れがあった。それから、校閲の疑問にも答える。これを修正するとまたフォーマットが狂うから、結局最初に禁則処理を直したことが一部無駄になってしまう。もう少し合理的な方式で進められないものか、と理系の人間は考えてしまうが、どんな場合にも努力を重ねることが重要であり、それが最も大事である、という信念を文系の人は持っているようだ。つまり、少ない労力で確実な成果を目指そうとしているのではなく、労力を投じることに意義がある、という思想なのだろう。これは、スポーツみたいな感覚だ。結果が問題ではない、「全力を尽くしたのだから良いじゃないか」となる。どうも、文芸界というところに、僕が今ひとつ肌が合わない理由がこのあたりにあると思えるのだが、いかがか。
 「フラッタ〜」のゲラも10%ほど見た。実は、「少し変わった子〜」のゲラも5%ほど見ている。「もえない」のゲラが明日にも届くかもしれない。執筆では「ZOKUDAM」が現在12000文字まで。小説の仕事が多すぎて、2日ほど工作はできない。非常に困った状況である。
 何度も何度も書いていることだが、僕は行の最初に「ー」や「…」が来るのが嫌なので、これを禁則処理してもらっている。雑誌の連載時には諦めていて、指摘しないことが多いが、せめて自分の本くらいは、自分の好きなフォーマットにしたいと思って、編集部に要求している。
 しかし、これが簡単にはできないのだ。そんなこと、プログラムで処理すれば良い(現にパソコンのワープロはできる)はずなのに、出版界では残念ながらこの処理ができない。だから、僕自身がすべて赤を入れて、こう直してくれ、この文字を送れ、ここで詰めてくれ、と指定をしている。しかし、どこかを直せば、新たに禁則が生じることもある。だから、それも見越して修正を指定している。それでも、完璧には直らない。
 もし、この禁則処理の作業を僕がしなくても良い時代が来れば、1年でもう1作長編小説が書けることは確実だ。とにかく、この作業が嫌で嫌でしかたがない。何年もまえからすべての編集者に対して訴え続けているのに、現在も誰も完璧には処理ができない。
 「一所懸命やっています」という声は聞いている。しかし、一所懸命やるような仕事ではないのだ。単純に(そして確実に)処理をすれば良いだけなのに……。
 もう1つ、ついでに書いておくと、自分が書いた本のテキストデータを自分で持っていないことが不思議だ。最初の原稿は手元にある。しかし、ゲラ校正で赤を入れ、直した結果の最終原稿というものが、デジタルテキストとして存在していない。印刷所にはあるのだろう。でも編集部と作者は持っていない。印刷された本しかない。プリンタで紙に印刷したら、もとのファイルを消去してしまうのと似ている。この感覚も僕には信じられないことである。
 これに類する出版界の不合理さをときどき書いているが、非難や愚痴ではない。むしろ、このようなシステムで回っていることに対する驚嘆である。多くの作家、多くの編集者がこのシステムでこれまでやってきたのだし、今もやっている。そして、大きな問題が起きていないようなのだ。僕は、この仕事で賃金を得ているが、労力の割りに不当な賃金しかもらっていない、というわけでも全然ない。したがって、文句をいう筋合いではない。ただ、全体として不合理な点があることは確かだと思えるし、改善されれば、出版界の利益率が上がる、と予想される(僕自身にはほとんど影響はないけれど)。

【算数】 賃金の計算

 Aさんは、5時間で12平米の土地を刈ることができる草刈り機を持っている。Bさんは、3時間で8平米を刈れる草刈り機を持っている。
 Cさんは、40平米の土地の草刈りを15000円の賃金でこの2人に任せることにした。同じ時刻に、AさんとBさんは草刈りを開始し、休みなく働き、ちょうどすべての草が刈れた時点で仕事は終わった。さて、Cさんは、15000円の賃金をAさんとBさんに、いくらずつ払えば合理的だろうか。
 以下、解決編。
 時間あたりの仕事量は、Aさんが12/5、Bさんが8/3であるから、2人が協力すれば、12/5+8/3=76/15の能力で仕事が進む。したがって、40平米の土地は、40÷76/15=150/19時間(約8時間)で終了することになる。このとき、Aさんが刈った面積は、12/5×150/19=360/19、Bさんが刈った面積は、8/3×150/19=400/19である。つまり、仕事量(面積)に比例して賃金を支払うのならば、9:10の賃金が相応しい。しかし、それはそもそもの機械が持っていたパフォーマンスの差である。
 通常、このような場合には、働いた時間に対して賃金が支払われるので、Cさんは、7500円ずつを両者に与えるのが自然である。


2006年05月11日(木曜日)

【HR】 身近なものはメジャに見える

 昨夜、ダ・ヴィンチのI子氏と電話で打合せをし、「MLA 2」のゲラの修正箇所を伝えた。一部だけ、今日、直ったものがPDFで届いたので、これから確認をする予定。この本はこれで終わり。「悠々〜」の2校と「フラッタ〜」の2校が宅配便で届いた。ゲラだらけである。「ゲラダラゲ」という居酒屋なんかどうだろうか。
 「ジャーロ」の連載小説は、5000文字ほど書いた。どうも締切は23日らしい。秘書氏もそう言っている。先崎さんの文庫が届いた。表紙の似顔絵が似ていない。本人はもっと若々しい。しかし、たしかにこの絵の方が将棋指しらしいけれど。

 午後からは晴れた。久しぶりの日差しである。庭で2時間ほど落ち葉を拾った。昨年のこの時期は蚊が多くて、庭で仕事をするのに虫ペールが必要だったが、今年は今のところ、それほどでもない。池を作ったから蚊が増えるよ、とのスバル氏の予測は外れた。蟻も少ないように思う。蜂は毎日午前中は定位置でホバリングをしている。縄張りなのだろう。どうして午後は飛ばないのだろうか。季節は同じように繰り返すようで、興味を持って見ていると、それなりに違いがある、ということ。

 なんでも同じだが、その分野へ飛び込んでいくと、近辺のものに詳しくなる。識別できるようになる。外から眺めていたときには、同類だと思われたものが何百種類にも区別されるようになる。植物だってそうだし、たとえば野鳥などもそうだろう。山菜を食べるような生活にすれば、おのずと食べられる植物に詳しくなるはず。一般の人が「電車」としか認識していないものを、マニアは何百種類にも分類し、そのなかに気に入ったものと気に入らないものができるのと同様である。
 これは、文芸の世界にもいえる。仕事でつき合いのある人たちは出版社の人、文芸の人である。そういう人にとっては、村上春樹や宮部みゆきは超メジャだ。でも、小説に関心がない人(大多数の日本人)には、小説家、という職業が存在するという認識しかない。知っている小説家の名前といえば、今でも、夏目漱石と森鴎外を挙げる。たとえば、模型関係の人と話をしていると、江戸川乱歩が既に通じなかったりする。ノーベル賞の川端康成だってもう名前が出てこない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、客観的なデータとして実感しているところだ。

 テレビ関係の人は、テレビでやっていることがメジャだと思っている。新聞関係の人は、記事になったものを、日本中の誰もが知っていると勘違いしている。かつては、そうだった。日本中の人間が、1つのことに注目した時代があったのだ。マスメディアが世間に広まった時代である。オリンピックもプロレスもプロ野球も、ヒット曲もアイドルも紅白歌合戦も、みんなが見ていた。それは、ほかに見るものが少なく、つまり貧しかったからである。
 今は、誰もが自分の好きなことをしている。豊富な物質と情報に溢れている。自分の楽しみの対象がいくらでもある。そのなかで、ほんのときどき、たとえば1週間か1カ月に1度くらい、「あ、今、世間では何が流行っているのかな」と周囲を見渡す。そうしたときに、たまたまテレビや新聞の記事に目をとめる。情報はそんなふうにして広がっていくので、非常にのんびりとしたペースでしか世間に伝播しない。短時間で一気に大勢に広まったり、また一時に同じものに人が殺到するようなことは滅多にない。
 今でも、昔のあの大ブームをもう一度、と煽っている人たちがいるけれど、その考えは明らかに古い。インパクトで大勢を引きつけるものがないからではなく、多すぎるからなのだ。宣伝の仕事をしている人は、この点に注意する必要があるだろう。宣伝の効率は低い。それは低迷ではなく、自然なことである。

 新刊の誤植については、既にメールが30通以上来た。ご指摘に感謝。第2刷では直ります。しかし、ここに書いても、あまり効果はないだろう。メールをくれる読者のうち、MORI LOGを読んでいる人は2割くらいだと推定されるので。

【国語】 会話文

 鉤(かぎ)括弧でくくられた、人がしゃべっている文章を何というのか、辞書で調べてみたら、「会話文」と呼ぶらしい。そうでないものを「地の文」といい、区別するようだ。しかし、一人で呟く場合もあるわけで、会話文とはこれいかに。
 さて、会話文は小説にはつきものである。ただ、難しいのは、誰がしゃべっているのかを読者に示さなければならない点である。そこで、「と誰某は言った。」というような説明が鉤括弧を閉じたあとに加わることになる。ところが、ながながと話す奴もいるわけで、たとえば、探偵などは、3ページくらいしゃべり続けることも珍しくない。いつ呼吸をしているのか、喉が嗄れないか、と心配になるほどだ。
 読んでいる人も不安になる。特に、登場人物が多い場合には、先に話し手が誰なのかを示してもらいたい。そこで、「誰某は言った。」をさきに書き、その後ろに会話文を書いたりする。この手法もわりと多く使われている。
 僕の場合は、小説を読み慣れていないせいか、このさきに話し手が誰かを書く方式をしばらく使えなかった。どうしても、不自然さを感じてしまうからだ。というのは、実際の場面で、黙って手を上げて、「あ、この人が今から話すのだな」と相手に認識させてから話を始める人が滅多にいないからだ。つまり、言葉は、まず最初に耳に飛び込んでくる。その僅かのちに、誰がしゃべっているのかを認識する。それが現実の順番だ。
 そこで、
「あ、君……」と彼は言った。「ちょっと、いいかな」
 というように表現すると、認識の順になる。特に、聞き手がそちらを見ていなかった場合には、声を聞いて、初めて彼を見る。だから、
「あ、君……」と彼は笑いながら言った。なんだか嬉しそうだ。「ちょっと、いいかな」
 というように、彼がどんな様子かを認識してから、残りの言葉を解釈する。ようするに、その順番で情報を受け取るのが自然だと思ったので、採用しただけのことである。
 英語がこのような表記になっているのも、現実認識からして自然だったためと思われる。


2006年05月10日(水曜日)

【HR】 懐かしいおもちゃ

 8時に起きた。小雨の天気。昨夜から、ずっとおもちゃの修理をしている。
 実は、小学校の1年生のときに買ってもらったものだから、今から40年もまえのおもちゃだ。ただし、これは僕が持っていたものではない。僕はそれを分解して、壊してしまったので、残っていない。しかし、非常によく遊んだから、しっかりと記憶していて、もしオークションでこのおもちゃが出たら、必ず買おうと思っていた。そう思って6年くらいになる。
 それが最近、ようやく出品され、比較的安価に入手することができた。ネット・オークションに出ないものはない、というのは、それほど間違いでもない。綺麗な状態だが、安かったのは、スイッチのプラスティック部品が割れているため動かない、つまりジャンクだったからだ。
 昨夜届いてから、夜中の1時まで4時間、今日は朝から3時まで7時間ほど、修理に没頭していた。11時間もかかったのは、一筋縄ではいかないレストアだったから。

 最初は、新しいタミヤのスイッチを組み込もうとした。ところが、いろいろ改造して調整してみたが、どうしても、このおもちゃの動きに合わない。走っている機関車が、自分の力でスイッチを切り換え、進行方向を変えるのだが、その力加減とストロークが微妙に合わない、という意味だ。
 タミヤのスイッチを諦め、古い金具をすべて再利用し、割れたプラスティック部品と同じ形のものを再製することにした。ようするに、もとあったスイッチそのままの形を再現する方針に、切り換えたわけだ。
 走るようにはなったものの、今度はタイヤのゴムが劣化していて、坂道ですべって上らない。そこで、車輪のゴムを削り取り、そこに新しいゴムを薄く捲いて、摩擦を高めた。
 最後には、好調に動くようになり、11時間の工作は報われた。
 とにかく、どこかを変更すると、ほかのところで辻褄が合わなくなる、ということの連続で、こんな単純なおもちゃを直すだけで、いかにもとの設計が考え抜かれていたかがわかる。
 機関車が押している貨車は、一番高いところへ来ると、上部が横へ傾き、中身をシュートの中へあける。機関車はバックし、突き当たりまで行く。このとき、ポイントを自動的に切り換える。スイッチバックで、今度は坂を下っていく。この突き当たりで、シュートの底が開いて、中身を貨車の中へ落とす。再び、機関車はこれを上まで運ぶのである。写真では、パスカルのおやつが荷物になっている。
 この種のメカニズムは、考案するのは容易い。しかし、これを確実に実現することは、非常に難しい。自分で一度でも作ってみるとそれがわかる。上手くいかない。トラブルの連続なのである。こういった苦労を経験することで、どうすれば確実にものごとが成し遂げられるのか、という知識ではない技量が人の中に生まれる。
 プログラミングでもある程度このようなことがあるけれど、しかし、実物の工作ではもっと予想外のことが起こる。ものを設計する人間は、是非とも自分の手でものを作る経験を積むべきである。そうすれば、画面の作図しかしない設計者のために、製作現場がどれほど泣いているか、ということを多少は理解できるだろう。

 講談社ノベルスの新刊が出た。新刊は全然嬉しくない。今回もやはり誤植があって、既に何通もメールで指摘があった。人の名前が1行の中で2箇所も間違っている(そこにいない別人になっている)。これは、第2校のときに僕が見つけたミスで、出版社の校閲部は2回も見逃したものだった。「このミスが一番大きかったです」と指摘して、直すように電話で伝えたが、同じ行の違う人の名前を直してしまったため、ミスが2倍に広がった。そこに誰がいて、何をしている場面かを少しでも考えれば、こんなミスは起こらない。また、校閲部がこういったものを簡単に見逃してしまうのも問題だろう。世の中に蔓延しているのは、花粉でも黄砂でもない、節穴だ。最終稿だったので、その後の確認をしなかった。直ったかどうかを、もう一度見ていれば、こんなことにはならなかっただろう。
 どうすれば良いか。それはやはり、確認を僕が自分でするしかない、ということだ。執筆の時間を減らし、もっとゲラに時間を取る必要があるだろう。ようするに、本を出しすぎなのだ。もう少し、ゆっくりとしたペースに落とした方が良い、と反省している。4カ月おきにノベルスを出すペースをもう7年も維持してきたのだが。
 「MLA 2」の2校が昨日届き、今日確認をして、このあと電話で打ち合わせる予定。「悠悠〜」と「フラッタ〜」の2校は明日届くらしい。

【図工】 模型飛行機の教え

 模型飛行機はバルサという軽い木で作るのが一般的だ。ゴム動力で飛ぶ小さな飛行機から、エンジンで飛ばすラジコン飛行機まで、同様である。
 丈夫であり、同時に軽量でなければならないが、それらは、設計の段階で見積もられることである。工作の段階において、最も重要なことは正確さだ。真っ直ぐなところは真っ直ぐ、対称なところは対称。常に、捻れていないか、曲がっていないか、を確かめながら組み立てる。
 工作台や治具に固定して作れば、だいたい正確にできるものだが、それでも、知らない間に狂いが出る。気づいたときには、「あれ? いつの間に」という驚きと落胆に襲われる。
 20年ほどまえに1つ気づいたことがあった。あるパーツを接着するとき、ぎゅっと押し込んでぴったり一致する大きさにするのは良くない。もっとすかすか、ゆるゆるの大きさが良い。押し込まないと入らないのは、大きすぎるからだ。固定されているときはそれで良くても、そういったストレスが最後には全体の歪みになる。
 日常生活のいろいろな場面で、小さな引っかかりを無視して、ぐっと押し込むことがある。うまく入ったから「ラッキィ」とその場では思う。でも、あとできっと歪みが出るだろう。人事でも同じだ。組織の中へ人を組み入れるとき、最初のちょっとしたストレスが、結果的に全体の歪みを生む可能性がある。


2006年05月09日(火曜日)

【HR】 睡眠の哲学

 7時まえに起きて、スバル氏とパスカルと一緒に小雨の中、ゴミを出しにいった。今日も一日雨らしい。
 午前中は3時間ほど一人で出かけていた。
 午後はガレージの中で吹きつけ塗装をしつつ、小説を書く。「野性時代」の連載は推敲して発送。「ラピタ」も同じく送った。2つ終わり。明日から「ジャーロ」。1週間後が締切だと認識していたところ、担当編集者からメールが来て「あと2週間に締切が迫りました」と書いてあったので、あらら、と思ってしまった。これは、第2の締切のことではないだろうか。

 夕方、ダイエーに行った。パスカルを乗せていったので、スバル氏が買いものをしている間、車の中で「少し変わった子あります」のゲラを読んだ(締切は6月中旬)。眠くなったので、5分ほど昼寝をしたところ、非常に爽快になった。
 スバル氏が戻ってきたので、このことを話すと、「そうだよ、それはね、一番眠いときっていうのが、一番眠いからなの」と言う。だいぶ考えてみたが意味がわからない。何度尋ねても、「だからね、もの凄く眠いときが、すなわち最も眠いときなの」と3回も繰り返すので、「あそうなんだ」と折れたら、「これが私の睡眠の哲学だ」と言う。その哲学の中の第一法則らしい。
 「ほかにはどんな法則があるの?」とさらに尋ねると、「たとえば、そうね、眠っている最中には、実は眠くない」と言う。どうも、当たり前のことをわざわざ言葉にしているだけの哲学のようである。さらに、「もの凄く眠いときには、1時間寝ようとか、そんなことを考えないで、とにかくすぐ寝るわけ、どれだけ寝られるか、ということは無関係なんだな」と誇らしげにおっしゃっていた。何が何に無関係なのだろう。「そうじゃなく、起きたときに、少し寝足りない、と感じることがあるんじゃない?」とさらに尋ねてみると、「寝足りない状態で起きることが、もう哲学に反している」と一蹴された。
 最後の部分はいちおう理屈の道筋がおぼろげながら垣間見えた。「あとね、もの凄く眠いときっていうのは、もう眠っているのも同然なわけね」ともおっしゃっていたから、その状態も睡眠時間に含まれる、という解釈らしいが、その結果、どんなメリットがあるのかは不明であった。
 それから、毎日毎食回転寿司でも生活ができるか、ということで少し議論をしたが、大した結論は導かれなかった。これは、ダイエーで、トンカツ巻きという寿司を売っていて、久しぶりにこれが4切れだけ入っている小パックを買って二人で食べたからだ。つまり、カレーでもシチューでも、なんでもお寿司のご飯で食べられるか、というところから発した問題提起であった。ちなみに、大阪の人は、いなり寿司のことを必ず「お稲荷さん」と言うし、キャンディのことは絶対に「飴ちゃん」と言う。「お稲荷」とか「飴」といった体言止めができない人になっている。大阪の人でない人は、稲荷寿司も滅多に食べないし、常日頃から飴を持ち歩き、人に配ったりもしないので、こういった親しみがわかないのだと分析できる。

 そうそう、ペーパバックでもマガジンでもそうだが、外国のものは、片手でぱらぱらと1ページずつ本が捲れない。たぶん、製本の精度が悪いのだと思う。日本ではこういったものは滅多にない。だから、おのずとページを捲るときの指使いが違ってくるだろう。同じ体勢で読もうとすると読めないのである。躰の姿勢まで変わってくる。ちょっとしたことで、こんなに影響があるのだな、と思った。
 「スカイ・クロラ」のシリーズも台湾版が出ることになりそうで、既に出版されている3作品のタイトル案が送られてきた。「空中騎士シリーズ」というらしい。ちなみに、タイトルは、「空中殺手」「衝上藍天」「墜入天堂」だった。

【理科】 目と耳

 目と耳は、たいていの動物にあるが、小さい動物ほど、躰の割りに目が大きくなるし、耳もまあまあ大きい。躰が大きくなると、相対的に目と耳は小さくなる。どちらかというと、目の方がこの傾向が顕著だ。ゾウやサイなど、目は小さい。ネズミの100倍近くあるのだから、目が直径15cmくらいあっても良さそうなものだが、そんなに大きくはない。鯨もそうだ。
 耳は、音を捉える器官なので、耳の外に出ている部分や穴自体が大きければ、それだけ沢山の音を集められる。ただ、音を感じる鼓膜や振動を捉える骨の部分は、大きくてもしかたがない。大きいと、低い音には有利だが、高い音が逆に聞き取りにくくなる。つまり、振動数によって、だいたい大きさが決まってしまうからだ。
 目もこれと同じ。目は、電磁波を捉える器官であり、いうなればアンテナと同じ役目のものだ。アンテナは電波をキャッチするもので、周波数が高いほど小さくなる。すべての動物が同じ周波数の電磁波を捉えているならば、目の大きさも、そんなに変わらなくて良いはず。ただ、大きい方が、沢山の光を集められる。
 もっとも、すべての動物が、同じ周波数の音や、同じ周波数の光を感じているわけではない。人間には聞こえない音を聞き、人間には見えない光を見る動物もいる。
 TVや映画では、何十メートルもある巨大な怪獣が現れるが、一般に、目が大きすぎると思われる。あれが、目ならばだが。


2006年05月08日(月曜日)

【HR】 連載とゲラ校正

 朝、雨が上がった。パスカルが庭に飛び出して、走り回るが、勢いでハーブに飛びついて何本も引き抜いてしまったので、叱られた。叱られると、もう金輪際そんなことはしません、という顔つきをするのだが、学習するかどうかはわからない。既に3株ほどハーブが全滅している。
 午前中は、研究関係で2箇所で打合せ。夕方に戻る。暑い日だったようだ。
 夕方は涼しい風が吹いていて、庭の掃除を1時間ほどした。今のところ、今年は虫が少ないように思う。蟻も少ない。芝は少し弱いような感じ。サルスベリは葉っぱを揃えた。雑草は毎日沢山抜いている。チューリップはすべて終わり。蔦系のものが伸びるのが今は楽しみ。
 工作も2時間ほどできた。地道な作業だが、実に面白い。大きなボール盤が戦力に加わって、非常に頼もしい。良い道具を使うと、自分の腕が上達したように錯覚できて嬉しい。今は欲しい工具がない。充実している。

 「野性時代」に連載している「もえない」を昨日に引き続き書いた。12000文字まで。今回が4回めで、現在、合計5万文字ほどになっている。まあまあのペース。「野性時代」では、前回、「どきどきフェノメノン」を連載した。1つの物語を長い間にときどき執筆するというのは、この作品で覚えた感がある。過去には、「ダ・ヴィンチ」の「奥様はネットワーカ」があったけれど、これは細かいパーツを集めた作品だったので、連続性がそれほどでもなかった。「もえない」が同じシステムの2回め。このほかの連載は、ほとんど1回読切りの短編を集めたものだ。「もえない」4回分は明日にも推敲して終了できそう。続いて、「ジャーロ」の「ZOKUDAM」の第2話になる。こちらは、3カ月に1回の連載で、合計5回