2006年02月28日(火曜日)
【HR】 仕事量
奢れるものは久しからず。気がつけば、ゴディバもピエールマルコリーニもパスカルカフェも、箱だけになっている。一日雨が降りそうな天気で寒々しかった。午前中は、大曽根まで長女M氏を送っていった。パスカルも一緒。
この時期は道路工事が多く渋滞しがち。年度内に予算を執行するための工事である。だいたい、国家予算などは、その年度に使う額を決めるための審議を、その年度の中頃になってもまだしている、という子供でも呆れるような悠長なことを当たり前にやっていたりする。だから、予算が来るまえに、見込みで物品を発注しないと仕事にならなかったり、まだ終わってもいない(始まってもいない)のに、結果を予想して報告書を作ったり、という極めて歪んだ仕事をするはめになる。こういうのを「建前」と称し、「運用上は別で」なんてことを真面目顔で言うのである。情報公開の時代である。もうそんな二重構造が通用する時代は終わった、と認識してほしいものだ。
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「野性時代」の連載原稿は推敲したら13300文字になった。メールで発送して終わり。これで、3月の締切分で残ったのは「ラピタ」だけになったが、これは締切が15日以降なので、長編執筆のあとで書いても間に合うだろう。結局、3月は書き下ろし長編1つ、連載エッセィ1つ、長編の手直し(「フラッタ〜」)の3つが主な仕事だ。もちろん、ゲラは3つや4つは来るものの、短いものばかりである。4月に新刊がないため、少し楽なはず。そうそう、対談の仕事が1つ入っているくらいか。
講談社ノベルスが年3回出るし、中公のスカイ・クロラシリーズも毎年1冊出ている。だから、デフォルトで長編は1年に4作書かなくてはならない。これにさらに、1作か2作が加わるから、もし6作になれば、2カ月に1作長編を書く勘定になる。長編は最低、2週間はかかるし、手直しにも2週間はかかる。すると、1カ月は消費される。
1年に平均すると20冊近くは本が出ているから、1カ月に見るゲラは平均、3冊分くらい。2回見る必要があるものももちろんある。そのうえ、隔週連載1つ。月刊連載が2つ。隔月連載が2つ(1つ終わった)、季刊連載が1つ。その他不定期連載もある。さらに毎日ブログを書いているわけである。
これでも、仕事は半分以上は断っている。みんな、「小説を書いてくれ」「長編を書いてくれ」「書き下ろしを書いてくれ」と言ってくる。書きたいものは、あることにはある。しかし、時間はどこにもない。
「模型を作っている時間があるではないか」という意見もあるかもしれない。それに対する答は簡単だ、「は?」である。問題外。そういう発想もなければ、そんな価値観も僕には存在しない。たとえば、10年後にも研究は続けているだろうし、模型は当然作っているだろうけれど、小説は書いているかどうかわからない。きっぱりやめている可能性も高い。これから時間を削るとしたら、小説以外にないのである。
書きたいものがある、と書いたが、つまりどういうことかというと、書くことで得られるものを、もしかしたら発見できるかもしれない、という予感がある、という意味だ。それは、他人による評価ではもちろんない。自分が見つけられるかどうか、である。
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【理科】 プロペラ
飛行機は後ろでプロペラを回す方が効率が良い、ということを前回書いた。では、どうして多くの飛行機は、タケコプタと同様に、プロペラが前にあるのか。押すよりも引っ張る方が安定している、という理由も多少はあるものの、しかし、たとえば船のスクリューは後ろで押している。ロケットもジェット機も噴射口は後ろにあって、やはり推進させているのである。
飛行機のプロペラが前にある理由は、主として3つである。
まず、初期の飛行機はエンジントラブルが多かったため、操縦しながらエンジンの面倒を見てやる必要があった。すると、運転席の前にエンジンがある方がレイアウトとして都合が良く、エンジンが前にあれば、プロペラも前になる。
次に、非常のとき、操縦士がパラシュートを背負って脱出する際、後ろにプロペラがあると巻き込まれる危険があった。
さらに、離陸するとき、飛行機は機首を持ち上げる姿勢になるが、このとき、後ろにプロペラがある飛行機では、プロペラが地面に接触しやすい。プロペラは高価な部品だし、接触して欠けたりすると、バランスを崩し、エンジンも駄目になる。危険が非常に大きい。これを防ぐためには、タイヤが付いている脚を長くする必要があるが、飛行中には役に立たない脚を長くすることは重量的にも大きなデメリットになる。
以上のような問題のためプロペラが前にあったのである。
もちろん、主翼や舵にプロペラの風を積極的に当てて、別のメリットを引き出す手法もあるけれど、いずれにしても、ジェットエンジンになって、上記の問題点はすべてクリアされ、後方噴射オンリィになったわけである。
ところで、ヘリコプタのロータも上にあるが、もし機体の下で回っていたら、乗るのが命がけである。
2006年02月27日(月曜日)
【HR】 有効な攻撃と信じて
晴れたが風が強い。でも暖かくなった。この冬は12月が一番寒かったのでは。
午前中は一人で出かけて、研究関係の打合せを1つ。お昼頃戻る。スバル氏と長女M氏がミニで出かけていき、その間はリビングで仕事をした。仕事というのは、「日経パソコン」のイラストの下書きと文字のペン入れbyロットリング。それから、「野性時代」の連載12000文字も書き上げた。推敲は明日。
パスカルは、スバル氏が出かけているときは、甘えてはくるものの、ボールを投げても持ってこない。今はそんな遊ぶ気分じゃない、ということのようだ。寂しくて意気消沈なのである。
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かつての日記では、今よりは言いたい放題書いていたように思う。若かったのか、それとも、読んでいる人が少数であった、あるいはそう僕が認識していたためだろう。かなり具体的に愚痴あるいは悪口を書いたこともあったかと思う。
ただし僕の場合、非難する先は個人ではない。それは、仕組みであり、組織である。その仕組みや組織の下で甘んじている人たちにも、間接的に非難が及ぶ(つまりそう受け取られる)かもしれないが、少なくとも個人の顔を思い浮かべて悪口を言うことはない。
何故かというと、そのような個人に対する悪口が有効だと考えていないからだ。僕自身、個人的な悪口をもし言われても、影響を受けない。それを言っている人から離れる程度のことだ。悪口を言う行為とは、つまり言う人間自身を貶める以外に効果がない、と考えている。
それでも悪口を言う人が沢山いるのは何故か、というと、そういう人は自分が悪口を言われることをもの凄く恐れている、つまり悪口に弱い人格なのである。他者から悪口を言われると非常に気にして、落ち込んだり、逆に怒りだしたりする。できれば悪口を言われたくない。そういう人だからこそ、他者に対しても悪口が効くだろう、と思っているのである。
知らない人間から「お前は嫌いだ」と言われても、いったいどれほどの被害があるというのか、と僕は思うけれど、誰からも好かれていたい、「嫌いだ」と言われるだけで滅入ってしまう、という人間は数多い。そういう人が、他者を個人攻撃する傾向にある、というのが僕の観察である。
これは、子供のときに発見した。「馬鹿」と言われるだけで泣く子がいたが、そいつは、他者のことをもの凄く罵倒するのである。なるほど、有効だと信じる武器で攻撃しようとするのだな、と思ったのを今でも覚えている。
このこと自体は非難でもなんでもない。裏返せば、自分が嬉しいことを他者にしてやれる人でもある。褒められると嬉しい人ほど、他者を褒める傾向にあるだろう。これなんかは、少しは見習った方が良いと自覚している。僕は褒められても嬉しいと思わない人間なので、人を褒めることがほとんどないからだ
【国語】 腹芸
メールによると、やはり【国語】が一番人気があるようだ。信じられない。一番どうでも良いことしか書いてないと自己評価していたのに。そうか、どうでも良いから面白いのかな。
今回も、もう本当にどーーでもいーーですよ、ということを書こう。
「腹芸」という言葉があって、たとえば、ベテランの役者が、台詞回しでもなく、大きな素振りでもなく、逆になにもしないで、微妙な心理をうまく表現するようなときに「あの役者の腹芸は見物だった」なんて使う。また、そこから転じたものと思うが、仕事などでも、やはりベテランが、勘と経験で、局面を打開するようなときに、「あの人の腹芸一つで解決した」なんて使う。
しかし、この頃は、こういった意味はもう死語というか、あの、腹に顔を描いて踊る宴会芸が圧倒的な印象で広がってしまい、みんな、腹芸といえばこれしか思い浮かべない。否、知っている人でも、これを一瞬思い浮かべただけで、笑ってしまうから、とにかく使いにくいのである。「幹事長の腹芸が自民党を救った」なんて書けないのだ。
調べてみたら、「仰向けに寝ている人間の腹の上で演じる曲芸」という意味が書いてあったが、これが最も最初の「腹芸」だったみたいだ。仰向けの人間の腹の上? ガラスとかを食べたりする危ないおじさんの類か。
ところで、背中に顔を描いて踊る「背芸」はないようだ。やはり背に腹はかえられない。
2006年02月26日(日曜日)
【HR】 電池
わりと大雨。家から一歩も出ず。パスカルがやはり膨らんでいる。トトロくらい膨らんでいる、といったら言い過ぎだろうか。トトロの毛が実はどれくらい膨らんでいるものか、測定しないかぎり評価できないだろう。これと同じで、「僕は東京ドームよりも沢山ビールが飲める」と言っても、東京ドームは1滴もビールを飲まないので、嘘ではない。
こんな日には充電をしよう、ということで、iPodを初めて充電した。それから、庭園鉄道の機関車のバッテリィも充電した。そうそう、比喩ではなくて、文字どおり、そのままの充電である。「日曜日は充電していました」と言っても、絶対別の意味に取られるのが普通だ。
機関車のバッテリィは、全部で10個以上ある。充電器は2つなので、満充電になったら、次へ移るわけだが、すべてを充電するのに2日間かかる。ついでに、青の6号やミニのバッテリィもチェックしておく。
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バッテリィといえば、僕が子供の頃に比べて、乾電池の性能が著しくアップしている。長持ちするし、瞬発力もある。それから、ニッカド電池が僕が高校生くらいから普及し始めて、これがもう驚異的に凄い電池だったのだけれど、今はもっと凄いリチウム電池とかがあって、さらに、モータの性能も全然違うから、ときどき新しい製品を手にするとびっくりする。
性能もさることながら、とにかく安くなった。本当に技術の進歩って素晴らしいと思う。でも、自分の趣味は、ある程度の技術レベルで停滞している。あまり最新のテクノロジィを駆使しようとしていなかったりするから不思議だ。基本的に趣味というものは、子供の頃、若い頃の憧れがベースにあるわけで、ようするにノスタルジィだといえる。
そういえば、26歳のときだったか、アメリカへ一人で出かけたとき、僕はSONYのウォークマンの新型を持っていった。それは単3電池1本で駆動し、モータは500円玉と同じ大きさだった。カセットテープのケースと同じサイズ。もちろん世界最小。空港でも、「これは何だ?」と係員から尋ねられたくらい。アメリカ人には信じられない大きさであった。
そのアメリカ人がiPodを作ったのだ。当時のウォークマンは、壊れやすかったし、バッテリィも長持ちしなかったけれど、そこには明確な「思想」があった。今のiPodにも、それと同じものを感じる。結局は、「思想」の有無がデザインの高さを決めるということか。
「MORI LOG ACADEMY 1」の第2校を見た。「野性時代」の連載第3回めも6000文字ほど書いた。
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【算数】 球
荷物の大きさの制限で、縦+横+高さが1mまで、などというものがたまにある。どうして、縦と横と高さを足すのか、その理屈がよくわからないが、おそらく単純化した結果なのだろう。たとえば、人間だと、身長+胸囲+ウエストが幾つ、という制限をするようなものである。
では、縦+横+高さがちょうど1mの場合で、最も(体積が)大きいものは、どんな形か。それはもちろん、1辺が33.3cmの立方体である(立方体というのはサイコロの形のことです)。
同様に、縦+横が1mの四角形で面積が最も大きくなるのは、一辺が50cmの正方形である。このように、和が一定の場合は、変数が等しくなる方が積は大きくなる。
紐の両端を結んで輪を作る。これでいろいろな形を作ったとき、どうすれば面積が最大となるか。この場合も長方形よりも正方形が面積が大きい。周囲の長さが一定ならば、n角形では正n方形が最大面積になる。また、nが大きくなるほど面積は増し、予想されるとおり、円が最も面積が大きい。
また、同じ表面積で比較すると、直方体の中では立方体が最大体積であり、すべての中でやはり球が最も大きくなる。バランスが良いものが効率が良い、ということ。
球形のガスタンクがあるが、同じ体積ならば、あの形が最も鉄板を少なくできる(その理由で球にしているわけではないが)。
宅配便では、球形の荷物は受け付けてくれないのだろうか。
2006年02月25日(土曜日)
【HR】 ぽかぽか
朝から晴天で風もなく暖かい。午前中はスバル氏と一緒にまずダイエーへ。看板を直していた。食料品売り場は、例の200円分の値引きシールが先着何名かにもらえる日で、非常に混んでいた。200円でこんなに人が集まるのだ。300枚配布しても、たったの6万円だから、新聞広告よりはるかに安いうえ、効果は大きいだろう。こういうのは現金主義というのだろうか。
しかし、わざわざ20円引きのシール10枚を印刷して、それを商品に貼らせなくても、レジで10品あれば200円引いてくれる、というだけで良いのではないだろうか。あのシールだけ再利用する客がいるような気がするのだが……。
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お昼頃戻った。庭でパスカルのブラッシングをするため、スバル氏がパスカルを抱え込み、長女M氏がお腹にブラシをかけていた。パスカルの言葉を代弁しよう。「ブラシが痛いんじゃなくて、お母さんのその押さえつける手が痛いのです」
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これは、ノコギリで木を切るときなどに、ノコギリではなく、木を掴んでいるもう片方の手に力を入れなければならない教訓に似ている。プロの技と言わざるをえない。
庭園鉄道も運行した。パスカルも乗せて走った。車輪がきいきいと鳴ると、首を傾げたりするから面白い。
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さて、「メフィスト」に続き、別册文藝春秋に連載している「少し変わった子あります」シリーズ第8話を書き上げた。13000文字。最終回である。これは8月に単行本になる予定。ずっとスバル氏がイラストを描いてくれていたが、単行本にはイラストは収録されない。文春で小説の単行本を出すのは初めてだ。
2月もあと3日。次は角川の「野性時代」の連載か。3月締切のものを前倒しで片付けているところ。ほかに、小学館と日経BPの連載がある。3月に入ったら、いよいよ長編を執筆する予定。すべてを片付けてから、というのは無理なので、どれかは執筆の途中でやらないといけなくなるだろう。気分転換には良いかもしれない。また、3月後半は、12月に書いた「フラッタ・リンツ・ライフ」の手直し作業を予定している。何度も書いているが、こうやって自分の志気を高めているのだろうね、きっと(不明)。
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【社会】 IT産業
なんだか、知らないうちにこの言葉が方々で普通に使われるようになった。どうも、「インターネットに関係した業種」くらいに認識されているように観察される。具体的に、どんな範囲をITと呼ぶのか、専門外なので知らないが、information technology(情報工学)のことであるならば、たとえば、ライブドアや楽天やYahooなどは含まれないだろう、と僕は思うのだが。
インターネットやコンピュータを利用した業種のことではない。それは、自動車を利用しているタクシー業や運送業が、「自動車産業」と呼ばれないのと同じ理由である。では、「IT関連」なのだろうか。そんなこといったら、ほとんどの業種はITに関連しているし、タクシーや運送業は「自動車関連」になるだろうか。
「情報工学」はかなりまえからある言葉だが、これを「IT」と略して使ったのは、いつからだろう。公の言葉としては沖縄の博覧会のときに初めて聞いたような気もする。そんなに昔のことではない。
ただ、かつてはハードに重心があったものが、今ではソフトがほとんど、という推移はあるだろう。それはつまり、メディアからコンテンツになっただけのことで、本来の姿である。テレビもインターネットも同じく単なるメディアだ。電線は大切だが、電線に重要な価値があるわけではない。
2006年02月24日(金曜日)
【HR】 振込騒動
朝から、スバル氏とパスカルも乗せて、郵便局へ行った。今日は、親父A氏の郵便局の通帳からとある先へ振込をする、という用事である。親父A氏の代理で行くわけなので、いろいろ証明するものを持っていった。駐車場でスバル氏はパスカルと待っている。「短気を起こさないように」とアドバイスを受けた。
まず、郵便局からは銀行へは振込ができない、ということがわかった。大垣共立銀行ならできるが、UFJはできない、という。「何なんだ、それは」と思ったが我慢。金融機関のくせに馬鹿げた話であるけれど、まあ予想はしていた。ネットでも、銀行から銀行は振込が簡単だが、郵便局へは、ワン・ステップ多い。しかたがないので、大金を現金で下ろし、それを持って銀行へ行こうと思った。
ところが、印鑑と通帳だけでは駄目で、委任状がいるとか、保険証がいるとか、いろいろ言われた。1人目の人は駄目だといったが、2人目の人は、僕の本籍が同住所だったので、なんとか認めてもらえた。人によって見解が異なるようだ。
とにかく、現金を下ろすことができた。ちなみに、本人がくれば、こんな手間はない。だが、本人だとどうやって確認するつもりなのか? 普段はそんな確認をしているか? 理解に苦しむ。通帳と印鑑だけで普通みんなお金を出し入れしているのではないか。
さて、次は振込先がUFJ銀行だったので、これを探す。本当はもうUFJ銀行ではない別の名前になっているらしいが、このまえまで東海銀行だったところである(遡ってどうする)。僕が通帳を作った支店は支所になり、まえに利用していた駅前の支店は消えてなくなった。だから、近くにないかナビで探し、そこへ向かったが、到着したら、アイスクリーム屋になっていた。もう1つ探してそちらへ向かったが、そこも外車のディーラになっていた。ナビのディスクは3年まえのものなので、最近店がなくなったらしい。バブルの頃なんか、どこにでもあったのになあ。あの状態が「多すぎた」ということか。あんなことしていたから潰れたのか。
しかたがないので、いつも行っているUFJまで戻り、現金を振り込もうとした。パスカルが乗っているので、今度はスバル氏に行ってもらい、駐車場で待っていた。ところが、振込み人が本人でない。また、本人の確認が必要だという。つまり、金を支払うのが、代理人ではできないらしい。電話で呼ばれて僕も店内へ。
郵便局はこれだけの証拠で金を出してくれた、と郵便局の通帳や書類をいろいろ見せても駄目だ。親父のUFJの通帳も持っていたが、それは住所確認がされていない、とかなんとか言われてやっぱり駄目だった。「その人が生きている証拠が必要」だということらしい。
支払人の名前を僕かスバル氏にすればできる。しかし、受取先では、親父A氏からの支払いを待っているのだ。どう考えても、金が引き出せるのに、支払えないとは不思議な道理である。
事情をいろいろ話し、散々粘ったところ、なんとか認めてくれて、あとから電話で保険証の番号を知らせることで話がついた。郵便局も銀行も、つまりは粘って話せば認めてくれたが、これも、変な話だと思う。
帰宅したら、3時間もかかっていた。いつも、送金はすべてインターネットでやっている。2分もあれば終わってしまうことが、ガソリンと時間を消費して、しかもこんなに疲れてしまうのだから、やっぱり誰も店にいかなくなるわけだな、と思った次第。よくみんな我慢しているものだ。世間の人たちは優しいのだなあ、と感心させられる。
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【図工】 色の水
水彩絵の具を小学生のときに初めて使うことになった。それまでは、色鉛筆かクレヨンしか使ったことがない。それに比べると、中間色を作り出すことができる、という大きな利点がある。これでもう、どんな色でも作れる。つまり、どんなものでも描けるはずだ、と考えた。
最初は、色を混ぜること自体が面白くてしかたがない。思いどおりの色にはならないが、できる色、できる色、どれも目新しいから、これでも良いかな、と途中で妥協してしまう。乾くと全然違う色になったりして、あとでびっくりしたりするのである。
それから、もっと面白かったのは、筆を洗う水の色だ。透明な水に最初に筆を入れたとき、これが実に綺麗である。絵の具が流れるように沈んでいく。筋を作りながら、捻れたり、広がったり。筆を動かしてみると、均質にはなるものの、透明で美味しそうな色になったりする。
はて、この透明で綺麗な色は、どうして画用紙の上に再現できないのだろう、と不思議に思うのである。ためしに、その色の水を紙に着けても、全然薄い。かといって、原色に白をいくら混ぜても、その透明さが再現できるわけでもない。
子供のときのこのような疑問については、しっかりとは解決していない。今でもときどき悩んでいるのである。
2006年02月23日(木曜日)
【HR】 ガーデニング
風が吹いているものの比較的暖かかった。午前中に雑用をあらかた片づけ、お昼頃にパスカルとスバル氏とホームセンタへ行った。パスカルはこの頃はカートに乗るのにすっかり慣れた。しかし、屋上の駐車場しかあいていないときは、地階へ降りるまで、パスカルをだっこして店内のエスカレータかエレベータに乗ることになる。しかたがないからそうしているが、ホームセンタの中はペットがOKでも、スーパなどのほかの店もあるわけで、エレベータに犬を乗せて良いのだろうか、と心配になる。
今日は、花を沢山買った。そこで、帰宅してからスバル氏と一緒に2時間ほどガーデニング。これは非常に珍しいことだ。しかし、スコップが1つしかないから、協力することはできない。だから、彼女が穴を掘っている間は、水をまいたりしていた。
もうチューリップの芽があちらこちらに沢山出てきていて、いよいよスバル氏が植えた200個の球根の威力が発揮されることになる。4月くらいだろうか。
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昨年作って、森の中に置いてあったモルタル製の建物模型を、移設することにした。樹の実が落ちて汚れるのと、盛り土が近いため、大雨のときに泥が跳ねて汚れてしまうから、どこかへ移した方が良いな、とは考えていた。
「ここに置いたら」とスバル氏が言ってくれた場所がとても良い場所だったので、願ってもないことである。おまけに、「この近辺にミニチュアの街とか作ったら」なんて言うのである。どうしたのだろう、彼女の中に天使が降りてきたのかもしれない。たしか、こういう状況を、「どういう風の吹き回しか」と表現する。「吹きだまり」とか「吹き流し」ではない。あまりにうまい話なので、にわかには信じがたいほどである。今日のところは、工場をそこに移すだけで、具体的な構想はまだなにも練っていない。想定外のことなので、即時対応ができなかったことが悔やまれる。こんなことがあるならば、いろいろ用意しておくべきだった。明日になれば、「やっぱり、これ退けてくれない」とか言われるかもしれない。こういうのを、「明日は明日の風が吹く」などと言う。英語では、Tomorrow is another day.
水をまいていると、パスカルが水の中に飛び込んできて、たちまちずぶぬれになる。これから夏が思いやられる。
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【理科】 ヨット
だいぶまえになるが、ラジコンのヨットに凝ったことがある。マストの高さが2mくらいある船を作り、池で走らせて遊んだ。スクリューはなく、舵の左右だけでコントロールできる。もう少しレベルがアップすると、帆の角度を変えられるようにするサーボも搭載するが、これはなくても走らせられる。だから1チャンネルでOK。
不思議なことに、コントロールをしないと、どんどん風上へ向いてしまう。風下へ流されることは滅多にない。ここがグライダとは少し違う。
さて、よくある問題だが、無風のときはヨットは動かない。そこで、ヨットに大きな扇風機を乗せて、自分の帆に向けて風を当てる。帆は風を受けて膨らむだろう。この状態でヨットは動くだろうか。
答は、後退する。前進はしない。つまり、扇風機を帆に当てない方が効率が良く、扇風機を後ろへ向けて回せば前進する。これがプロペラボートの原理だ。
この例から明らかなように、機首でプロペラを回している普通の飛行機は、翼や胴体にその風を受けるため損失が大きい。プロペラは飛行機の後ろに付け、風を後ろへ送る形が理想的である。現に、ライト兄弟の飛行機はそうなっていた。最初は理屈どおりの最適のものを作ったわけである。
2006年02月22日(水曜日)
【HR】 自宅で接近遭遇
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晴天、非常に暖かい。朝からメールを沢山処理。10時頃ひとりで出かけて、買いものをしてから、親父A氏を病院へ連れていった。それから書店に行ったり、ホームセンタへ行ったりしてから、また迎えにいく。健康診断をしただけ。親父はAB型だった。初めて知った。妹もAB型だ。
帰宅したら2時頃。まだ暖かかったので、機関車を出して走らせた。30分ほど遊ぶ。それから、久しぶりに落ち葉をバキュームで拾った。スバル氏はこの頃、庭いじりをしているようだ。直接目撃はしていないが、庭に出ると方々にその痕跡がある。庭で会うことは一度もない。
だいたい、家にいても、滅多に会うことはない。電話をしたり、メールを書くことがあるくらいだ。通信内容の8割は「パスカルどこにいる?」である。
夕方、パスカルも乗せて、長男S氏を駅まで送っていった。スバル氏も一緒。子供がいると、どうも料理が豪華になって、胃がもたれるから、今晩は軽いものにしよう、という話をした。でも、ありあわせのもので作ったので、けっこう豪華になってしまい、二人では半分も食べられなかった。ちなみに、食事ができたら、キッチンからガレージを呼び出すインターフォンで知らせてくる。
東京の模型屋さんが送ってくれた荷物、自分でホテルから送った荷物などが届く。模型のキットや本がほとんど。これをまたこつこつと消費していこう。
「メフィスト」にスーパ・ショートを5編書いてメールで送った。スーパ・ショートは、「アイソパラメトリック」や「悪戯王子と猫の物語」以来で、久しぶりである。「メフィスト」は今度の号が出たあと、1年くらいだったか、しばらく休むらしい。
「日経パソコン」のゲラも見た。新連載になって、もう11回目のもの。早いな。それから、宝島社から「森博嗣本」文庫版の見本が届いていた。なかなか渋い表紙である。西尾維新氏のファンの方は必見かも。
「MORI LOG ACADEMY 1」の表紙やオビも見せてもらった。羽海野チカ氏の絵が表紙。僕らしい人物と、パスカルらしい犬が描かれていた。デジタルで着色されたものではない。
さて、今月中にあと、文春と角川の連載を片づけなければ……。
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【国語】 洒落とギャップ
漢詩もそうだし、また英語の詩(たとえば、歌詞なども)すべてといって良いほど韻を踏んでいる。ロックでもパンクでも、律儀に韻を踏んでいるものが多い。これは伝統的な儀式ではなく、単に、それがリズミカルだから、という自然なものだ。
日本の文学には、音の数をしばったもの以外には、こうした音のリズムでしばるようなものがあまりない。しかし、童謡などには、繰り返しの音もあるし、また、和歌などは応酬といって良いくらい洒落まみれだ。後者は、リズムというよりは、可笑しさ、つまりインテリジェンスな含み笑い、のような感覚だっただろう。
しかし、英語や中国語で韻を踏むことが非常に難しいように、日本語で洒落た駄洒落(あえてこう表現せざるをえないが)を操ることもまた適度に難しい。相当に語彙が豊かでないとできない。国語教育において、洒落の教育をしないのは、やはり難しすぎて教えられないからだろうか。
詩の面白さとは、音やリズムにしばられるために、普段は絶対に用いない言葉を持ってくることで生じるイメージ的なギャップにある。これをジャンプする快感が、詩を読む醍醐味だ。
小説もまた同じ。やはり、思考をジャンプさせなければならない事態に出会う楽しみがあるだろう。こういったものは、クイズやパズルのような論理的な(すなわちジャンプしない)思考プロセスでは絶対に得られないスリルである。
2006年02月21日(火曜日)
【HR】 映画とiPod
朝、まず、「ジャーロ」K村氏と同じく光文社の文庫担当のY野氏に会う。連載の「ZOKUDAM」のゲラを渡し、今年の文庫についての打合せ。それによると、「ZOKU」が10月、「猫の建築家」が12月に文庫になるそうだ。
そのあと、「ダ・ヴィンチ」のI子氏、それから、電通の方々多数と打合せ。例のドラマになる書き下ろし小説の件。こんな話になりそうです、という内容を説明した。キャストを早く固めたいからだそうだ。
その後、銀座へ出て、天賞堂で買いもの。主に洋雑誌。そこへ、中央公論新社のN倉氏と、バンダイビジュアルのT梨氏も来て、一緒に渋谷へ。
押井守氏の最新作「立喰師列伝」の試写会である。これがまた、もの凄くマイナでプライベートで新しくも古くもあって、ユニークで実験的で、とにかく面白かった。僕は演劇でも映画でも、マイナなものが大好きだから、観られて良かった。しかし、名古屋とかでは公開されないようである(と思っていたら、「やりますよ!」というメールを数通いただいた。4/15公開らしい。感謝)。僕は押井映画では、「アヴァロン」が一番好きである。
それから、東京駅へ戻って、中公のM松氏も合流して打合せを。「スカイ・クロラ」ハードカバーの重版(第4刷)は大変嬉しい想定外だったようで、盛り上がった。既に今年6月の「フラッタ・リンツ・ライフ」の原稿が、鈴木成一デザイン室や鶴田謙二氏のところへは持ち込まれているらしい。今度はどんなカバーになるのか、ノベルスのイラストはいつできるのか、という話題は人ごとのようで面白い。
今日乗ったタクシーでは、運転手さんがみんな「メダルが取れませんねぇ」と言っていた。「別にいいじゃないですか、取れなくて、応援してあげれば」と言うと、「いやあ、行くからには、取ってもらわないと困る」と言う。そういうものなのか……。メダルを是非取ってもらいたいと思う人は、一人1000円ずつ寄付をしたらどうだろうか。効果はあると思うが。
帰ってきたら、パスカルが気が狂ったように喜んだ。1日いなかっただけなのに、犬は律儀である。可愛いからよしよしする。しかし、スバル氏が気が狂ったように喜んだら引いてしまうだろう。そこが不思議ではないか。
そうそう、iPodを持っていったが、本当に薄くて、どこのポケットにあるかわからなくなる。ホテルのカードと同じくらいの感覚なのだ。携帯電話の5分の1くらいの薄さだけれど、逆にどうして携帯電話をこの大きさにできないのかが疑問である。機能を詰め込むのも良いが、不要なものを削れば薄いものができるはずだ。是非作ってもらいたい。この頃の携帯電話は異様に大きい。外国へ行くと、小さいのをみんなが持っているから羨ましい。
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【算数】 数える
紙の枚数などを数えるとき、何枚ずつ数えるだろうか。
もちろん、1枚ずつ数える人もいる。しかし、多いのは2枚ずつ、に、し、ろ、は、と、と数えるパターンではないだろうか。ところが、もう少し紙を数える機会が多い人になると、5枚ずつ数えることもあるらしい。目で5枚を一度に認識して数えるのだ。これが、さらに数える機会が多い人になると、一度に10枚を認識できるようになり、さらにまた年季が入ってくると、20枚ずつ数えるようになるという。新聞配達をする人などから聞いた実話である。
こういったことは、訓練によってかなり上達するようだ。何百という数を僅か一瞬で数え上げる、という人は実在する。また、数だけでなく、重さや量を目分量で見極めたり、指先の感覚で、100分の1の段差を感じ取ったりできるベテランもいる。
しかし、人間が通常一度に認識できる数は7つくらいが限界だ、と書かれたものが多い。7人、7つ、7種類、というものが世界中にあるのはこの理由らしい。
子供に、お風呂の中でお湯に浸からせるために、声を出して数をかぞえさせたりするのだが、そのうち、逆順に数えるようにもなる。しばしば指摘されるのは、いち、に、さん、し、ご、と上がっていくときは、4は「し」なのだが、ご、よん、さん、に、いち、と下がるときは、「よん」になる。これが算数か?
2006年02月20日(月曜日)
【HR】 模型屋さん巡りと銀座
朝から雨。冷たい感じ。iPodを持って出かける。新幹線の中でコーヒーを飲み、雑誌をずっと読んでいた。池袋から西武に乗って、富士見台の新額堂に2時すぎに到着。模型のキットを5箱くらいと、洋雑誌7冊くらいを購入して、いつもそうなのだが、持って帰れないくらい買ってしまうため、宅配便で送ってもらう。しかし、今夜読みたい雑誌数冊だけを持って帰ることは忘れない。この新額堂は、アメリカのナローゲージに強い模型屋さん。
次に、同じ沿線の石神井へ出て、メディカルアートという模型屋さんを初めて訪ねた。最近、メールでいろいろお世話になっているところで、イギリスの模型に強い模型屋さん。だが、店に来たのは初めて。ここでも、キットを3つほど購入した。
新額堂さんは、本業は額作りの職人さんだし、メディカルアートさんも、名前からして、他分野が本業のようである。どちらも、名前がまったくモデルっぽくない。それをいったら、天賞堂もそうか。
外はずっと冷たい雨が降っていた。ホテルに荷物を置いたあと、幻冬舎のS儀氏と一緒に銀座に出てイタリアンを食べる。なかなか美味しかった。久しぶりでまた面白い話も。あと、水柿君シリーズのこと、それ以外の来年、再来年の仕事の話なども。
銀座は、東京で最もタクシーを利用するのが不便な場所である。道路には、空車のタクシーがずらりと並んでいるのに、それは何百メートルも先にあるタクシー乗り場に並んでいるタクシーなので、乗れないのである。タクシー乗り場へ歩くまで、空のタクシーが延々と道路の両側に並んでいる光景を見なければならない。実に理不尽である。どこでもすぐに乗れるのが利点なのに。
タクシー乗り場まで歩いたら、もうホテルまでの道のりの半分くらいだったので、このままホテルまで歩こう、という話になって、雨も上がっていたので話をしながらぶらぶらと歩いた(銀ブラ?)。ホテルに帰ったのは11時半頃。健全。
写真は、ホテルの部屋のデスク。これで、コンピュータがMacだったら申し分ない(たぶん、1カ月くらいいられる)。どんなに、設備が完璧でも、Winマシンを触っているといらいらするのは私だけでしょうか、と常套句を言いたくなる僕です。
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【社会】 株
僕は株をやらない。しかし、親父が株をいくらかやっていた。したがって、話は聞いているし、どちらかといえば、身近に知っている方だと思う。ただ、やらなかったのは、親父が「お前は絶対にやるな」と言ったこともあるし、また、自分でもやりたいと考えたことがないからにすぎない。
近頃は、日本でも個人投資家が増えたという。また、それとは別の方向性だが、コンピュータなどを使った取引が可能になり、短時間のうちに売り買いして利益を得ている人がいる、という報道もしばしば耳にする。ゲーム感覚で、大金が手に入る。もちろん、リスクはあるが、上がり下がりするものであるわけで、下がったときに買い、上がったときに素早く売る、という操作で、じっと集中していれば、たしかに利益が得られるだろう。
これは明らかに投資ではない。少し高い視点から見れば、いったい彼らは何を生産しているのか、どうしてそんなことで利益が得られるのか、という疑問につながるだろう。だがしかし、それは株式という仕組みが作り出す「隙間」あるいは「遊び」に寄生しているようなものであり、悪い行為だとは思わない。もし、間違っているとすれば、それを許すシステムに責任がある。
そういった人たちが儲けを得ている分、では、誰が損をしているのか。それは、市場全体で平均的に損をしている。したがって、彼らが儲ける分だけ、「普通では株は儲からない」というイメージが生じるだろうし、株が上がるのを妨げることになる。寄生生物が多くなれば、母体が不健康になるのと同じである。
本当に利益を得ている人は、絶対に利益を得たことを公にしたくない。もらしたくない。そう考えるのが普通である。
2006年02月19日(日曜日)
【HR】 散らかった工作室
朝起きるのが少しずつ早くなっているのは、明るくなるのが早くなった、つまり太陽に対する地球の回転軸の傾斜のせいだろう。そのおかげで朝、1時間ほど小説の仕事をした。3月の書き下ろし小説の登場人物とだいたいのあらすじを書く、というもの。登場人物は、ドラマのキャストのために必要なので、早めに欲しい、ということを最初から聞いていたので、普段よりはある程度、内容を確定しておかなければならない。これは、メールでダ・ヴィンチへ発送。そうそう、本の方は、メディアファクトリーから出る。
半年ほどさきだが、講演を2箇所から依頼された。スケジュールの関係で1つだけ受ける予定。相変わらず原稿依頼はあるが、今はまったく対応ができない。
それからスバル氏と買いものに出かける。暖かくて良い日だった。昼頃戻り、お好み焼きをスバル氏が作ったので食べた。お好み焼きは久しぶりだ。ひと頃、たこ焼きに凝ったこともあるが、もう何年も焼いていない。
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午後は工作をのんびり3時間ほど。工作机の上がすぐに道具や材料でごちゃごちゃになってしまう。掃除機は頻繁に使うので、削り粉などはないのだが、だんだん、ものが見つからなくなってくる。探す時間が長くなるので限界を感じたら、すべての道具を一度片付けて、整理整頓をする。これが3日か4日の割合である。それから、また一つずつ道具を出して、次第に散らかってくるのだ。
1つの道具を使い終わったらすぐに片付ける、という人もいるが、そういうのは、ちょっとできない。すぐにまた必要になることが多いからだ。したがって、ある程度散らかっている方が効率が良い。同じ作業をずっと続けるならば、この状態がベターである。また、おそらく、設計図があって、作業するものがしっかりと決まっている場合は、必要な道具も予想ができるので、そんなには散らからないはずだ。
けっこう、片付けるのも楽しいので、ときどき気分転換で片付けている。
夕方、古い雑誌を何冊か読んだ。40年とか50年くらいまえの雑誌は、言葉遣いが今と微妙に違っていて面白い。たとえば、「〜するとよい」ではなく、「〜するとよろしい」と書いてある。
ついに、iPodを箱から出した。いつ買ったんだっけ……。とりあえず、CDを5枚ほど入れる。僕の場合、5枚もあれば、1年くらいは充分である。
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【理科】 反動トルク
回転椅子に座って、上半身を右へ捻ると、椅子が反対に回ろうとする。これが反動トルク。
前回のタケコプタのところで書いたが、飛行機がプロペラを回すと、プロペラとは反対方向に飛行機の胴体を回転させようとする反動が生じる。たとえば、プロペラをどんどん大きくしていくと、ついには、プロペラはほとんど回転せず、胴体がぐるぐると回ってしまうのだ。
回転しているモータの軸を指で止めれば、モータの方が回ろうとするだろう。複葉機の時代の初期の星形エンジンでは、エンジンがプロペラと一緒に回っているものもある。これはシリンダの冷却が目的だった。
飛行機は、主翼などによる空気抵抗で、この反動トルクを打ち消しているが、ヘリコプタには主翼がないため、反動トルクで胴体が回転しないように、後ろにアームを伸ばし、その先で小さなプロペラを横に向けて回し、これで、胴体の回転を止めている。
船の場合も、スクリューの回転と逆方向に船体が傾く。これを防ぐため、スクリューを2機にして、お互いに逆回転させてトルクを打ち消すタイプのものも多い。
つまり、プロペラが2機ある、いわゆる双発の飛行機では、左右のプロペラが逆回転しているのが普通である。
自動車も、タイヤとは反対向きにボディが回ろうとする。前輪駆動でも後輪駆動でも同じであるが、タイヤを回し始めたときには、ボディは前が持ち上がり、後ろが下がる。バイクのウイリィ走行が、これを利用している。短距離で加速スピードを競うホットロッドなどでは、後輪のさらに後ろに、転倒防止の補助輪を付け、反動トルクに備えた車もある。
2006年02月18日(土曜日)
【HR】 客観性について
今日も朝から小説の仕事を片付けた。まず、「ジャーロ」のゲラを見る。それから、同誌に掲載する近況200文字を書いてメールで送る。次に、「アイソパラメトリック」の2校を見て、修正点をメールで発送。これで午前中は終わり。
午後は、長男S氏とパスカルに留守番を頼んで、スバル氏と某所へ出かける。とある契約を交わすためで、30分で終わると思っていたら、詳しく丁寧な説明があって、結局3時間もかかってしまった。でも、スバル氏がいてくれたおかげでいらいらせずに済んだ。一人だったら、絶対に「ちょっと時間がないので、適当に切り上げて下さい」と途中で言いだしていたところである。彼女がいると、彼女につき合わせて申し訳ない、という心理が働くため、腹を立てないのでは、と自己分析。いろいろ終わって良かった。
長男S氏が帰ってくると、必ず焼き肉になる。帰りに肉を買った。
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このところ、毎日機関車の部品作りで金属をヤスリで削っているが、この工作という、物質を相手にする実に具体的な作業をしていると、非常に客観的になれる。これがメリットだ。人は多かれ少なかれ主観的にものを見るのが普通で、判断の大部分は主観的である。「客観的に言って」などと口では言っていても、そのあとに続く文句の70%以上は非常に主観的である。たとえ、客観的な論理が述べられていても、そのまえに主観的評価があって、単にそれを補強するために客観的理由が持ち出されているにすぎない。
たとえば、ある部品を差し入れるために穴を開けたとする。その穴をじっと観察して、「僕は、ここにこれが入ると思う」という判断を、世間では毎日しているのだ。しかし、それは無意味である。入るか入らないかは、僕(人)がどう考えるかには無関係なのである。実際に入れてみれば、入るか入らないかは判明する。大きいか小さいか、ノギスを当てればわかることだ。
「幽霊はいると思う」「相対性理論は間違っていると思う」なども同様に、人が「思って」もしかたがない問題だといえる。
それでも、たとえば、10mmの長さとはどんな範囲か、を決めるのは主観である。さらに、9.99〜10.01mmと自分で決めていても、それを測定するときの誤差が介在するわけで、自分の測定結果を信じるかどうか、という主観も混じる。そうした見えない主観が少しずつ入り込み、それが重なって、客観性はしだいに失われていく。工作途中あるとき、「あれ、どうして合わないのだ?」という場面に出くわす。工作とは、客観的なものを目差して、なんとかそれに近づこうとする行為でもある。
ニュースで報道されていることも、本などに書かれていることも、客観的な観察事例は意外に少ない。また、客観的な観察に興味のない人が大多数である。
客観的なデータは、普遍性を持っているし、また地域や時代を超えて、多くの人に対して価値を生じる可能性が高い。客観視するには自分から離れる必要があるわけだが、そういった視点を持つために必要なことは一つだけ、すなわち想像力である。想像という極めて主観的な能力によって、客観的視点が得られることは興味深い。
主観を排除しろ、といっているのではない。ただ、主観さえも、客観によって初めて際立つものであろう。
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【国語】 二重否定
子供はあまり使わない。大人でも年輩になるほど多くなる傾向にある。政治家が多用する。なんとなく、表現を和らげる効果、不完全性を含め、防御を高める効果、があるのだが、しかし、わざわざわかりにくい表現をしている、という印象を若者に与えるかもしれない。
たとえば、「これは美味い」と言えば済むところを、「美味くなきにしもあらず」「美味いと言わざるをえない」「美味い場合がありえなくもない」「美味くなかったためしがない」「美味くないといえば嘘になる」「美味いことは否定できない」「美味い可能性がまったくないとはいいがたい」「美味くないなんて誰が言えようか」といった感じ。非常にバラエティがある。
子供が使うとなかなか斬新であるから、小さい子に教えてみよう。
「いくつ?」「僕は3歳であるといわざるをえない」
「誰と来たの?」「お母さんといえなくもない人と来ました」
「何が好き?」「チョコレートが嫌いだと言ったら嘘になります」
「幼稚園はどうですか?」「楽しいと言っても過言ではありません」
なかなかどうして、幼児に相応しくないと否定するにはあまりにも根拠が不明確だと言わざるをえないのではないか、と問わずにはいられないのではないでしょうか。
2006年02月17日(金曜日)
【HR】 新作完成
晴れたが、風が強いため寒かった。朝のうちに小説の仕事をした。まず「ラピタ」のゲラを片付け、それから、「εに誓って」の手直しも終わって、講談社へメールで発送した。予定より1日早い。これは、5月にノベルスになるGシリーズ第4弾。
続いて、明日は「ジャーロ」のゲラを読む予定。大きな山を越えたが、次の山も近い。かぎりなく山岳地帯である。
「スカイ・クロラ」のハードカバーが重版で第4刷になる、という連絡があった。単行本がこんなに売れるのは、この本だけの特徴だ。非常に珍しい。このシリーズの第4弾「フラッタ・リンツ・ライフ」の手直しをまだしていない(3月後半の予定)。少し寝かせてある。ワインと同じで、寝かせる期間が長い方が良い。
「星の玉子さま」の第4刷の見本も届いた。これも最近重版になったもの。1000人に贈呈する、という企画は、既に募集を締め切った。送る作業はまだ1000人には達していないが、応募下さった方々には感謝したい。
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スバル氏と一緒にホームセンタへパスカルを連れて出かけた。パスカルはカートに乗って店内を回っているが、ときどき不審な音に反応して、ワンと1回だけ吠えるので、店のどこらへんにいるかがわかる。僕は、ネジ類など細かいものをいろいろ購入。
そのあと、スーパへ寄って、スバル氏が買いものをしている間、近くを散歩させていた。この頃は、知らないところでも、歩けるようになったパスカルだ。今日は新しいリードを買ってもらった。
工作もできた(詳しくは欠伸軽便鉄道の掲示板を参照)。スバル氏は花の苗を植えていた。チューリップの芽が沢山もう出てきている。凄いことにならないかと心配しているが、今のところそんなには多くない。それどころか、彼女が球根を埋めていないところから芽が出てきていて、それは野性のチューリップなのか、2年越しのものなのか、わからない。春は近そうだ。
毎日、コーヒーと一緒に、チョコレートを食べているが、いっこうに減らない(物理的に嘘だが)。「嬉しいが悲鳴を上げている」と「嬉しい悲鳴を上げている」の中間くらいだと思うが、ただ、悲鳴を上げたことは一度もないし、聞いたこともない。
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【社会】 日当たり良好
不動産関係でよく聞かれるフレーズは「日当たり良好」である。古来、太陽光に当たっていられることが、いかに庶民の幸せだったかがわかるというものだ。
外国の本を読むと、ヨーロッパなどでは、夏休みに南へバカンスに出かけたりする。「暑いときに、どうして南へ行くのだ?」と思ったのだが、太陽だけではない。海の近くの方が涼しかったりすることもある。
傾斜地だと、「南だれ」が売り文句になる。つまり、南へ下がっている土地の方が人気が高いのだ。これも、太陽光をもっと浴びたいという欲求である。明るいものは無条件に良い、と日本人は信じているふしがある。
大通りが東西に通っているとき、道路の南側と北側では、どちらの土地が人気があるだろう?
普通は、北側である。つまり、入口が南向きになるからだ。なんとなく明るい感じがする。
ところが、この頃では、マンションなどの高層建物がどんどん作られていて、問題になるのは日照権。つまり、他の土地へ影をなるべく落とさないように工夫して建物を造らなくてはならない。すると、道路の南側の土地は、建物の影が道路に落ちるため有利になる。北側の場合は、さらに北側に住宅が隣接している場合が多く、高いマンションが建てられない。したがって、土地の利用価値は、道路の南側の方が高い、ということになる。
ちょっと観察してみると、片側2車線程度の道路の場合、南側は12階建てくらいが沢山建っているのに、北側はせいぜい6階建て止まり、という例が多い。これくらい違うと、土地の値段にも響くだろうか。
2006年02月16日(木曜日)
【HR】 ジャブのように
一日雨だった。気温は高め。朝、パスカルを見たら、たしかに膨らんでいた。「めちゃくちゃ大きいなあ」という感じ。この頃は2階で目覚ましが鳴ると、パスカルが階段を駆け上がってきて、スバル氏を起こしにくる。そういうことならば、パスカルの近くに目覚ましを置いておく方が良いかもしれないが、それでは、パスカルが起きるだけ、という気もする。
朝から一人で出かけ、昼頃に戻った。午後は、スバル氏がミニで出かけていき、留守番中は、パスカルと遊んだり、工作をしていた。このところ、工作で削ったり、切ったりという体力仕事をしているため、少々筋肉疲労気味。それでもやってしまう。
「ラピタ」のゲラがメールで送られてきた。一般雑誌などでは、この頃はゲラがpdfだ。小説関係だけは、まだ紙である。ゲラというのは、出版社が作っているのではなく、印刷所が作っているようだ。だから、デジタル原稿を出版社に渡しても、印刷所がそれを見て手で打ち直していたこともあった。ままならない世の中だが、しかし、何事も改善される方向には進んでいる。合理化すれば、みんなが得をするはずだ。一時的に仕事がなくなる人が出るけれど、仕事とは本来そういうものである。
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大学の事務から駐車許可書の発行願いの書類が来ていた。N大は現在、職員でも駐車場は有料である。実は10年以上まえに、僕は交通委員会に有料化の提案したのだが、当時はまったく無視された。遠方の人だとか、理由のある人だとか、もの凄く複雑なルールを作って、その審査に莫大な労力をかけて、自動車の数を制限しようとしていた。あっさりと有料になったのは、4年ほどまえだったか。
主任や委員長などの役職に手当をつけることも提案したことがある。これも最近、部分的に実現した。
大学で多いのは、市民参加型のイベントだ。いろいろ企画され、最初はテレビや新聞に売り込んで(現在のマスコミというのはニュースを自力で嗅ぎつけることはまずないので)、取り上げてもらい、それで「反響があった」と満足している。実態は、人が集まらないから、学生や職員を無理に動員しているだけだ。「一学科から何人出せ」というようなノルマが来る。まったく下品なことである。
だから、テレビで流れているそういった映像を見たら、「ああ、単位が欲しくて学生が来ているのだな、眠そうな顔をしているなあ」と哀れに思っていただきたい。人が集まる有意義なイベントは、マスコミに売り込む必要がないから、ニュースにはならない。報道が形骸化しているのは、このメカニズムである。
さて、そういう無駄なイベントをやめるように、といくら提案してもちっともきいてもらえないのだが、しかし、数年すると、知らない間になくなっている。やめることをどこで決めたのだ?と驚くくらい自然に消える。
もちろん、宣伝効果がなくなるためである。「既に使命は終わった」などと説明されるのだが、「有意義な地域貢献である」などと言っていたのは、何だったのか、そんなに有意義ならやめるなよ、と逆に反発したくもなる。やってみないことには、無駄だとわからないから、まあ良いか、というのが大人の判断か。
たぶん、企業でも似たり寄ったりの部分はあるだろう。だから、意見は通らなくても、一応言っておいた方が良い、ということはある。ようするに、こういった相手(組織)は鈍いのだ。ジャブのように手数を出せば、忘れたころに効いてくるようである。
【算数】 漢数字
漢数字の中では、四が非常に特別だと思う。一、二、三、と来て、次に四という文字が来るなんて、いきなりではないか。びっくりものだ。そのあとの五が順当なだけに際立っている。
画数で見ても、四が最も多い。六、七、八、九、十、など、どこを見ても、四ほど複雑な記号はないのである。しいていえば、六が、どうしてなべぶたなのか、という不思議さはあるが。
数をかぞえるとき、一、T、と書いて、正を作って5つずつまとめることがある。クラス委員を決めるときの開票などで使われる。昔は、正ではなく、玉を書いたそうだ。この玉という漢字は、五に似ている。だから、五は画数は多くても、なんとなく由緒がありそうなのだ。
10年ほどまえ、小説を書き始めて、自分の書いた文章が縦書きに印刷されるという特殊な体験をしたのだが、一番違和感があったのは漢数字である。普段、数を示すときに漢数字は使わないからだ。特に、縦書きになっていると、一二と三が間違えやすい。手書きの住所などで、特に危険性が高い。こんなシステムで日本が成り立っていたのは、よほど人間のレベルが高かったのだな、と感心する。
三角形や四角形は漢数字だが、二百五十八角形はどうだろうか。単一電池と書くと、一つしかない電池みたいである。どこが算数なのだ? これは国語だろう。
2006年02月15日(水曜日)
【HR】 映像化について
今日も午前中は晴れていて暖かかった。機関車で30分ほど遊ぶことができた。すぐ近くに遊び場があることは幸せなことだ。午後は曇って、夕方はまた小雨。でも寒くはない。工作もできた。
「ジャーロ」の新連載のゲラが来た。週末に読めるだろう。「εに誓って」の手直しも50%を超えている。順調。しかし、今月はあと、「メフィスト」「文春」「野性時代」にそれぞれ1万文字ずつくらい書かなくてはいけないし、「日経パソ」と「ラピタ」も片付けないと、来月前半をあけられない。ちょっと苦しいかも。
時間を作って、3月前半に書く予定の長編は、書き下ろしで、9月頃にテレビドラマになる。そういう企画の仕事だ。もちろんその前後に出版もされる。これが、昨年の12月に電通の人たちが来た、と書いたときの打合せのもの。つまり、スポンサ付きの仕事である。
そのスポンサは、僕とスバル氏が大好きなブランド、という伏線を張っておいたし、さらに、そのものズバリの写真も既にアップしてあって、映像伏線も張ってあったりする。もう、わかった人も多いだろう。
作品が漫画化されたものは過去に幾つかある。ラジオドラマになって放送されたものもある。しかし、映像化されて放送されたものはないので、これが最初になるだろう。まだ書いていないから、大きなことはいえない。こういうことは、大きいとは思わないのだが。
講演会などでよく話していることだけれど、小説を書いているときには、映像化されにくいものを書こう、という意思が常にある。たとえば、シーンで迷ったときには、ドラマにはない展開、映像化しにくい展開、という方を選ぶ。他のメディアでは描写しにくいものを書こうと考える。小説であることの価値を、できるだけ大切にしようと考えているからだ。したがって、今回、逆に、映像化を前提にして書くのだから、いつもと一味違ったものにはなるだろう。
そのほかでも、映像化の話は常にある。常になにかが進行しているのだが、今のところ、実現はしていない。やはり難しいのだろう。難しいと思う。難しいように書いているのだから。今も、上記のものとは別に、映画とドラマとアニメの企画があるけれど、さて、どうなることか。
ファンの人から、映像化について作者としてはどうなのか、とよく質問を受ける。僕は、そう、「まあ、そういうものができたら、見てみたい気はする」という程度かな。特に、積極的でもないし、消極的でもない。映像化作品に口を出すつもりはないし、自分が制作に関わりたいとも考えていない。
暖かいため、冷却の目的でパスカルはこの体勢になることが多い。
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【理科】 タケコプタ
タケコプタは頭の上でプロペラを回している。もし、あそこで空気を下方へ押し下げているのだとすると、全身に風を受けるので、効率が悪いうえ、もの凄く寒いだろう。
せめて、躰の軸から外して、両耳の斜め上くらいで、2つのプロペラを回すデザインにすべきだ。両方のプロペラを逆回転させることで、トルクも打ち消される。
プロペラが今のように1つだと、離陸したとたんに、躰が反対方向に回転してしまい、目が回ってしかたがない。
他にも致命的な問題がある。頭に取り付けているわけだが、人間の首は、その下の躰をぶら下げるだけの強度があるだろうか。サーカスではあるかもしれないが、それは加速度が小さい場合である。試したことがないので、非常に心配だ。せめて脇を支える構造にすべきだろう。
安全装置にも疑問がある。まず、頭がかゆくて手をうっかり上げてしまったとき、ロータに触れて大怪我をする危険がある。大惨事だ。
同時に、動力のトラブルをどうリカバするのかも、性能として問われるべきだろう。実物の飛行機やヘリコプタは、エンジンが停止しても滑空することができる。タケコプタは、少々怪しい。パラシュートくらいは持っていた方が良いのではないか。
というわけで、こんなこといいな、できたらいいな、とは思うものの、このままでは試したくない。
2006年02月14日(火曜日)
【HR】 目先の仕事と名古屋だけのもの
今日は、朝起きてすぐに小説の仕事を1時間ほどした。それから出かけて、戻ってきたら、暖かくて良い天気だったので、庭で小さな機関車を走らせた。走っているときは熱くなるから、パスカルに鼻を近づけないように教える。快調に走った。
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その後、天気が急に崩れて午後は雨になった。ダ・ヴィンチのI子氏が来宅。「MORI LOG ACADEMY 1」のゲラを取りにこられた。ついでに、いろいろ打合せをする。1週間後にまた会う約束も。
出版社の担当者は、よく「営業の者が〜」という話をする。この営業の人というのは、書店の相手をしている人のことらしい。つまり、彼らのお客様は読者ではなく書店である、ということが、どの話からも感じられるところだ。仕事とはそういう目先のものだから、正しいとは思う。
作家が、読者よりも、出版社をお客様だと思うこと、目先の締切に追われること、なども同様である。自然ではある。
しかし、キリンだって、草や葉っぱを食べているばかりではない。ときどきは、遠くを見るではないか。
「さすがのI子さんも、今日はチョコを持ってこざるをえないんじゃないかな」とスバル氏が言っていたが、チョコは既に多いだろう、と避けて別のお菓子を持ってきてくれた。事実、チョコはもう沢山ある。どれも高級ブランドらしい。よくわからないが、スバル氏はそう言っている。
I子氏を駅へ送りがてら、パスカルも乗せて買いものに。スバル氏がたこ焼きを買ったので、それを食べた。彼女は「鬼まんじゅうは名古屋にしかないんだよ」と力説していたが、名古屋にしかないものは沢山あって、単にそのうちの1つが鬼まんじゅうなのだな、と思った程度である。「たこ焼きで、しょうゆ味とかソース味とか、いろいろ選べるのも名古屋だけじゃない?」とも話していたが、それも、鬼まんじゅうと五十歩百歩で、地下鉄で名古屋駅へ出るとき、東山線と桜通線を選べるのは名古屋だけだ、程度のことではないだろうか。
なんだか、風の噂に、オリンピックをやっているような、やっていないような、そんな話を耳にした。またやってるんだ、という程度のことで、「またコミケをやっているんだ」くらいの感じだろうか。
【国語】 会話のテスト
留学生が受ける日本語の試験というものが大学で実施されている。そのなかには、日本語の会話能力を試す、という趣旨で、たとえば、こんな問題が出る。
次の質問に、日本語で答えなさい。
1)「今からどちらへ行かれるのですか?」
2)「私の財布を拾ってくれて、ありがとう」
3)「どんな犬が好きですか?」
これに対して、それらしい答を日本語で書くのである。たとえば、
1)「わかりません」
2)「すみませんでした」
3)「知りません」
などの答を書くと、たぶん満点はもらえない。しかし、
1)「わかりません、ちょっと今、道に迷ってしまって」
2)「すみませんでした、私がすったのです。許して下さい」
3)「知りません、犬の種類なんて興味ないからね」
だと正解にちがいない。
「大変申し訳ありませんが、私は日本に来たばかりで、まだ言葉がよくわかりません。もう一度ゆっくりと発音してもらえませんか」だったら、どの問題にも適用できるが。
面接も実施して、そこでも日本語の能力をチェックするが、その結果が、上記のペーパテストの評価とほぼ一致していることから、試験としての機能は充分にはたしているようである。
2006年02月13日(月曜日)
【HR】 タブー
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午前中は一人で出かけ、お昼に戻った。午後はスバル氏と長女M氏が出かけて、パスカルと留守番。
日差しが暖かかった。庭に出て、バキュームで掃除をしたり、池の落ち葉を拾ったりした。それから、45mmゲージの機関車を走らせて遊んだ。コースが新しくなって、とても快調だ。以前より沢山走れるようになった。こうなると欲が出る。もっと線路を延長したい。引き込み線も作りたい。建物も近くに建ててやりたい、などなど。
パスカルも今では機関車に慣れて、大人しく眺めている。
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夕方、パスカルを散歩に連れていった。犬に対してはまったく吠えたりしないが、空を飛ぶものには敏感で、鳥や飛行機を見つけるとワンと一度だけ吠えたりする。
「悪戯王子〜」については担当のM澤氏に電話で訂正点を伝える。「εに誓って」の手直しを今日は20%まで進める予定。
小説を書き始めた頃、最初の担当は講談社のK木氏だったが、彼からアドバイスを受けた。「なにをお書きになってもかまいません。ただ、やってはいけないことが2つだけあります。1つは、モハメットの絵を描かないこと、もう1つは、小説のタイトルに『京都』を入れないことです」と。
前者はまったく知らなかった。そういえば、萩尾先生の漫画にも、キリストやブッダは登場するが、モハメットは姿が出てこない。「描いたら、命を狙われますよ」と言われた。「まあ、特に描く動機がないから大丈夫です」とは応えたが。メフィストに漫画を描いたことがあるから、このアドバイスを受けたのだろう。小説だけならば関係がない。
「京都」の方は、当時、K木氏が某有名女流作家の担当でもあったので、たぶん洒落だと思う。今のところ、こちらもそれをタイトルに使いたいと思ったことはなく、不自由はしていない。
それ以外ならば、なにを書いても良い。ルールはなにもない。どんな言葉遣いも、文字遣いも、文法にのっとっていなくても、意味がわからなくても、問題はない。それが小説です。ということだった。ミステリィになると、いささか窮屈な暗黙のルールが存在するように見受けられるけれど、それもまったく気にすることはない、と言われた。
たしかに、小説は、自分の意見、立場などを超えて、かなり自由に書ける。ところが、小説を読み慣れない人たちは、そうは受け取らない。知り合いが小説を書いたから一度読んでみようか、という人間が僕の周囲にはいて、そういう人たちは、「お前はこんなことを考えていたのか」と人格を疑ったりするのである。小説家というか、芸術家はみんなそうだが、人格を疑われてなんぼの商売だな、と思った。
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【社会】 会議費
学会の委員会などには、年間予算が割り当てられている。そのほとんどは、会議のために遠くから来る委員の足代、つまり運賃である。また、次に大きいのは、会議のときに食べる食事代である。つまり、夜に行われる委員会が多いため、夕食を出す習慣になっている。その次には、郵送などの通信費、あとは報告書を印刷する費用、くらいだ。
あるとき、正義感あふれる委員が、会議費を食事代に使うとは何事だ、会議がなくても食事はするではないか、そんなものは自前が当たり前だ、という正論を述べたため、誰も反論できず、その後、その委員会は食事もせずに行われることになった。
別に、豪華なものを食べたり、酒を飲んだりしていたわけではない。千円くらいの弁当を食べていただけである。会議がなければ、その時間にもっと美味い食事がゆっくりとできるわけだが、会議があるせいで、不味いもので我慢しなければならない。さらにそれさえもなくなって、夜遅くまで食事もできなくなったのだ。誰も、やりたくて委員になっているわけではないが、そもそも、学会の会員になった時点で、無償で勤労奉仕をすることを承諾しているわけである。こうなると、これは趣味の時間だと割り切る以外になかった。正論はあくまでも正論である。
これはかなり良心的な会議費の例だ。世の中には、もっと豪華で美味い会議費もある。講演費、資料代など、違う名称になっているものもある。腹を空かせていると、まとまる話もまとまらない、という下品な習慣らしい。
2006年02月12日(日曜日)
【HR】 ショッピング
晴れていたが風が冷たく、昨日よりも寒い。長女M氏とパスカルに留守番をしてもらって、スバル氏と街へ出てショッピング。スバル氏が僕の服を買いたい、否、買った方が良い、と言う。「日曜日なのに?」と難色を示すと、「2月のデパートは嘘のように空いているから大丈夫」「バーゲンが終わって誰もいない」「私が買っているファッション雑誌なんか2月と8月は休刊になる」といろいろ主張する。工作をしたかったのだが、まあ、そうまで言うのならば、と出かけたのだ。
彼女が自分の服を買うときは、僕はつき合わない。僕は自分の服を滅多に自分では買わない。毎日同じものを着ているから、しばらくするとスバル氏がいらいらするようだ。
デパートはまあまあ人がいた。できるだけ空気を吸わないように、呼吸を我慢した。インフルエンザに気をつけているつもりだ。
最初に入った店で気に入ったジャケットがあったので、これを一枚買ったら、30万円以上もするものだった。高い服である。値札を見ずに買っているから、こういうことになる。「30万円の機関車ならば、別に高いともなんとも思わない(というか安いと思う)けれど、いくらなんでも服で30万は高いと思うよ」とスバル氏にあとで話すと、「それは、一般常識とは逆だ」と言う。まあ、いいけど……。
それから、バッグも買った。それは15万円くらいかな、と思っていたら、6万円だった。わりと安いな、と感じたのだが、実は、そのバッグについているアクセサリィが別売で、それが8万円だった。だから、だいたい合っていたようだ。アクセサリィは別のものにしてもらった。スバル氏は、その店で自分のためにアクセサリィを2つ買った。ドクロである。同じものを2つ買おうとしているので、「どうせ買うなら、1つはクマにしたら?」と提案したが、まったく聞く耳持たぬ、という反応だった。
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駐車場へ戻る途中に、思い出したように、「あ、これ、バレンタインのプレゼントだから」とスバル氏が言った。ついでにお返しも買ったわけである。まあ、いいけど……。
すぐ車に乗って、途中でコンビニに寄って、そこでホットティーを買って、それを飲みつつ、ミニを運転して帰った(運転しているのは僕)。車の中でスバル氏は、「気持ちの良い買いものだった」と満足げだった。買いものをすること(すなわち、お金が減ること)で気持ちが安定するのは、実に不思議な現象だが、模型のことを想像すると、理解できなくもない。
それで、僕の部屋のクローゼットには、けっこうそういう高いジャケットがぶら下がっているのだけれど、あまり着ない。いつもはダイエーで5000円で買ったダウンを着ている。工作するときもこれを着たまま。ペンキ塗りもこれを着たままなので、油や塗料が飛んだしして、既にだいぶ汚れてしまった。このまえ、まったく同じ色のダウンを、またダイエーで6000円(半額セールだった)で買ってきて、そちらをよそ行き用と決めて、出かけるときはその新しいダウンを着ることで僕なりに差別化を図っていたのだが、スバル氏には通じなかったようだ。もう少し妥協をして、2万円くらいの別の色のものを着ていれば、こんな無駄遣いをしないで済んだかもしれない、と思う。
「MORI LOG ACADEMY」のゲラを読み終わった。「悪戯王子と猫の物語」の3校を見ている。明日から6日間で「εに誓って」の手直しをする予定。
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【算数】 時計の針
腕時計は、僕が中学生の頃にデジタルが出始め、最初はアナログよりも高級だった。その後、値段が下がって、一気に若者に広がった。しかし、またアナログの方がお洒落なイメージになって、今ではアナログの方が多いのではないだろうか。そのアナログの時計について考えてみよう。
お昼の12時には、長針と短針が重なっている。次に長針と短針が完全に重なるのは何時か? また、午後の間に、長針は短針を何回追い抜くか?
長針と短針の速度比は、12:1である。もし仮に、長針と短針の速度比が2:1だったとすると、長針が1周する間に、短針は30分進む。長針がもう1周すると、短針もちょうど1周して重なる。途中で一度も追い抜かれていない。速度比が3:1の場合は、長針が1周する間に、短針は20分進み、次に長針が一周する途中で短針を(30分のところで)1度追い抜き、もう1周すると一致する。すなわち、3倍だと途中で1回追い抜くわけだ。したがって、12倍だと途中で10回追い抜くことがわかる。
12時間のうちに、途中で10回追い抜いて、最後でまた一緒になる。だから、最初と最後の12時の位置を含めなければ、針は10回重なる。
2本の針は同じところを一定の速度で動いているので、一度重なってから、次に重なるまでの周期は常に同じでなければならない。10回追い抜くわけだから、12時間を11分割すれば良い。つまり、12/11時間ごとに重なる。これは、1時間と60/11分であり、約1時間5分27秒である。
2006年02月11日(土曜日)
【HR】 わかってもらえなかった
午前中は晴天で暖かかった。そこで庭でペンキ塗りを3時間ほどしていた。一応、今回の工事分はすべてを塗ることができたので、次のステップへ移れる。
ペンキを塗っているときは、いろいろなことを考える。ヤスリをかけているときは、削り面に集中していて、あまり考えることができない。それに比べると、ペンキ塗りはより単純な作業なのかもしれない。
作家みたいな仕事を10年まえから始めたために、僕が話したこと書いたことに関する感想を受け取るようになった。趣味でやっていることならば、そういったものは無関係であるが、仕事なので伝達効率的なものを多少は把握しておきたい。自分が書いたことがどれくらい他人に伝わるものだろうか、と。
そうしたことをするうちに、自分と他人との違いにも詳しくなる。うすうすは感じていたが、価値観の違いが浮き彫りになることがある。たとえば、正しく伝わらなかった場合の多くは、基本的な価値観が相違していたためだ、ということもわかる。
もともと、ノンフィクションを読む意義というのは、自分とは違う価値観に触れることにある。違うものに触れることで自分を確かめ、修正し、自分を築く。ところが、小説などのフィクションを主に読む読者というのは、自分に似た価値観、自分が好きな価値観を探して読んでいる。だから、違う価値観に出会うと、「これは違う」「これは自分には合わない」と拒否してしまう傾向がある。
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ところで、僕は、子供のときから、自分の考え方がなかなか他人にわかってもらえない、と常に感じてきた。これは仕事をするようになっても同じだった。しかし、ここが重要な点なのだが、「わかってもらえない」と感じはしたけれど、「わかってもらいたい」と感じたことはほとんどなかった。
もし僕が、自分の意見や考えをもっと理解してもらいたい、と本気で願っていたら、きっと出世しただろうし、政治的な領域にも踏み出しただろうし、リーダにもすすんでなっただろう。自分の意見を通すためには、社会的立場が必要だからだ。
わかってもらえなかった、というのは、別の言葉で表現すれば、僕の考えがわからなかった人たちが多くいた、という単なる現実把握(観察)である。もし他人が僕の考えを理解してくれて、それで僕のことを認めてくれたとしても、僕に利益はまったくない。ただ、僕の意見を採用すれば、もう少しみんなが得をした場面が少なからずあったはずだ。その機会を逃した人たちがいた、というだけのことである。その人たちは損をした。僕は別に損はしていない(自分が組織の一員だと、間接的、部分的な損が及ぶときもあったけれど)。
人にわかってもらっても、わかってもらえなくても、いずれにしても僕には無関係なのである。もう少し僕が優しくて他人のためになりたいと願っている人間だったら、もう少し歩み寄って、説得をしただろう。僕はそれが面倒でしなかっただけである。認めてもらって褒めてもらうことに価値を見出していないからだ。
こういった価値観がわかってもらえない基本的な部分だと思うが、別にわかってもらいたいとは思っていない。では、何故書いているかというと、わかったら得をする人たちがいるはずだ、と想像するからであって、もう少しくらい優しくしようと思っているわけである。
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【理科】 翼形
世の中には、理屈を言葉で記号化して、それで理解してしまう(理解したつもりになる)人が多い。数学ならば、「法則」だ。「それは〜の法則だからだよ」が最終理由になるのだ。
「どうして丸い地球から南半球の人は落ちないの?」と子供に質問されたら、大人は「引力があるからだよ」と答えるが、これは、「引力」という単語1つを知っているだけのアドバンテージであり、科学的には、子供とほぼ同じ理解度といって良いだろう。引力とは何か、何故それが生じるのかを答えられなければ、レベルは同じだ。
飛行機が何故飛ぶのか。それは「主翼の断面がこんな形になっているからだ」とものの本に書いてある。そこには、上面が曲線で、下が比較的フラットないわゆる「翼形」が描かれている。その形にすると、上面の方が下面よりも空気が早く流れるため気圧差が生じて、飛行機は浮き上がるのだ、と教えている。
しかし、紙飛行機を想像すれば明らかだが、別に翼形になっていなくても、飛ぶものはある。たとえば、ベニヤ板の端にエンジンを取り付け、プロペラを回せば、それは飛んでいく。重心を合わせ、舵をつければ、コントロールも自由だ。立派な飛行機になる。翼形が単なる長方形でも、飛行機は立派に飛ぶことができる。ただ、効率が悪いだけだ。
世に数ある翼形というのは、揚力(浮き上がろうとする力)が大きく、そのわりに抵抗力が小さい形の例にすぎない。飛行機が何故飛ぶのか、という説明をするとき、あの形を理由として持ち出すのは、明らかな間違いである。
2006年02月10日(金曜日)
【HR】 地の文のアンフェア
早朝から出かけて、とある施設の見学をした。お昼頃戻って、またスバル氏とパスカルを連れて出かける。夕方に戻り、天気が良かったのでペンキ塗りを1時間ほどした。久しぶり。まだまだ工事中。
昨夜から「MORI LOG ACADEMY」のゲラを見ている。1Pに、1〜2箇所は訂正するところがある。この訂正は、ウェブのデータには反映されない(できないことはないが、その暇がない)から、サイトの本文と出版された本は微妙に違うものになる。これは、小説の場合もまったく同様で、パソコンで書いてデジタルデータを送るが、ゲラに赤を入れて直すため、結局、最終的に出版された文章は、デジタルで手元に残っているものとは異なる。そのうち、これは改善されるだろう。
ミステリィ・マニアはよく、地の文で「彼」と書いてある、あるいは「男」と書いてある、といったことを気にするようだ。そういった読者はごく一部ではあるけれど、しかし書く方もできるだけ、フェアになるように気をつけて書いてはいる。ところが、地の文に「幽霊が出た時間」「超能力を持つ男」と書いてあっても、誰も気にとめない。本当は幽霊でも超能力でもないのに、アンフェアとはいわないようだ。この判断が不思議である。
もっというならば、「運を引き寄せる男」であるとか、「女を黙らせる男」であるとかも、実際にはアンフェアではないだろうか。もちろん、冗談で書いているので本気にしないように。
先日デジタルに切り換えたので、もう使っていないが、まえにあったケーブルテレビのリモコンがもの凄く不調で、ボタンの反応が極端に悪かった。だから、爪を立てて力一杯押したり、もう息を止めて渾身の力を込めて押さないかぎり、チャンネルとかが切り替わらなかった。スバル氏がいつも苦労をしていた。テレビまで行ってボタンを押した方が早い。そういうのを見ていると、「あれははたして便利な機械なのか」と疑問に感じるのは当然だろう。同様に、スプーンを曲げるくらいのことで数秒間も精神を集中させねばならないようでは、超能力も大したものではない。目的を見失っている。
笑いごとではない。仕事でもよくある。徹夜をして締切のぎりぎりに仕上げてくるものも、自分の不注意で招いたミスをカバーしただけのものなども、これと同じである。無駄に力んで、エネルギィを使っている。こうした苦労を演出したものが非常に多い。
小説家が、原稿用紙を丸めてゴミ箱へ投げ捨てる、という苦悩の演出も頻繁に見かける。実際にはたぶんないだろう。これよりは、廊下でぶつかって、荷物を落としてしまって、それを拾おうとした手が触れてしまったことがきっかけで……、なんて例の方が少しはまだ可能性が高い。
以前の恋愛ものでは、ちょっとしたアクシデントですれ違いになって会えない、というシチュエーションが常套であったが、この頃は携帯を持っているからすれ違いはなくなってしまった。どうしているのだろう、とスバル氏に尋ねたら、「携帯を水の中に落とすんだよ」と簡単に答えられてしまった。
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【国語】 四文字熟語
「熟語」というのは、複数の単語、または漢字が結合して1つの語になったものである。したがって、必ずしも漢字に限ったものではない。辞書には「夜明け」などの例が示されていた。
ということは、「四文字熟語」といった場合、「あさやけ」とか「どくしょ」なども含まれることになる。国語のテストの出題者は気をつけた方が良さそうだ。
英語では、イディオム(idiom)とか、フレーズ(phrase)などという。ようするに慣用的な言い回しを「熟語」と呼んでいる。となると、日本で「熟語」といったときには、英語の慣用表現も含めなければならない。ただ、さすがにこの場合、4文字は難しいだろう。
「熱田神宮」「名古屋駅」などは、固有名詞と普通名詞が結合しているが、四文字熟語とはいわれないようだ。
また、「一」と「二」を使った四文字熟語を書け、という問題で「二十一円」と答えても、たぶん駄目だろう。「一□一□」の□を埋めろ、という問題で「一個一円」「一万一千」も駄目だろう。「弱□強□」に入れるならば、「弱軸強度」だが、これも駄目だろう。「一□□千」だったら、「一十百千」も順当なところだが、やはり駄目だろう。
2006年02月09日(木曜日)
【HR】 つぎからつぎへと
久しぶりに晴れたけれど寒い。午前中は、会計士さんが来て、確定申告のことで打合せ。スバル氏に任せっきりで、僕はほとんどわからない。消費税の取扱いが今年から変わって、ようするに所得に含まれている消費税分をすべて国へ納めるという、もの凄く当然の計算方法になった。これまでは半額くらいだったのだ。
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そのあと、パスカルを連れて、買いものに出かけた。今日はスバル氏が食料品売り場へ行き、僕は駐車場でパスカルの毛をといていた。3枚の写真はいずれもそのときに撮ったもの。
買いものリストに「ソース」と書いたのに、スバル氏は無意識に「マヨネーズ」を買ってきた。目で見て掴んだものがマヨネーズであっても、頭ではそれをソースと認識していたのだ。こういった思い込みは(特に歳をとると)よくあることで、お互いに気をつけよう、と大笑いした。
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天気が良かったので、「ラピタ」の写真を撮って、それから文章もついでに書いて送った。次々片づけていかないといけない。畦道に立って、ばったばったと斬り倒していく武蔵の心境だ、というのは明らかに言い過ぎである。
ついに「MORI LOG ACADEMY 1」のゲラも届いた(さすがにヤマト便で)。これから、3ヶ月に1度なのだなあ。これは大変だぞ。毎日書くことよりもゲラを見る方が大変に思えてしまう。
今日も夕方頃に1時間ほど旋盤を回した(お盆を回したわけではない)。外国製のためか柄が大きい。それで僕は台の上に乗って操作している。その台が小さいから、身動きができないので疲れる。もう少し大きい(広い)踏み台を作った方が良いだろうか、と思えてきた。今度作ろう。
よしもとさんから杉本博司展のパンフレットが届いた。パンフレットと聞いていたので、薄い冊子だと思っていたら分厚い。5cmくらいあるし、それに巨大。写真集、しかも高そうな、そんな豪華本だった。大多数は白黒写真で、とても好み。シャープにぼけている(?)のなんか良かった。やっぱり、写真は抽象画だ、と思う。
さて、2月の連載の締切はすべてこなした。『εに誓って』の手直しは来週いっぱいを当てる予定。以後は3月が締切のものを前倒しで今月中に片付けるつもり。
この頃、ちっとも東京の模型屋さんへ行けないので、ネットでいろいろ注文をしてしまった。散々散財。
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【社会】 仕様規定
現在の数々の法律や条例などにおける規定は、すべて細かい事項、数値などの条件によって定められている。本当に大切なのは、そうした「仕様」ではなく、発揮すべき「性能」である。たとえば、障害者用駐車場をいくつ作れ、という数が大事なのではなく、障害者に対するサービスが機能しているか、が重要なのである。ただ、これを公共機関がチェックするだけの能力を持たないため、簡単に白黒はっきりする条件で仕様規定されているだけだ。
『アンチ・ハウス』に書いたことだが、僕の家は風致地区に指定された地域にあるため、道路から2m以内に高さ2m以上の樹を植えなければならない。これは、自然環境や景観を維持するためのものである。本来の精神は道路のぎりぎりにまで家を建てないように、という配慮だったはず。
僕は、道路から2m以内では、樹が大きくなったら通行の邪魔になるから、もう少し奥の日当たりの良い場所に、もっと大きな樹を植えることを提案したが、結局認められなかった。「邪魔になれば枝を切れば良い」「枯れてもいい、なんでもいいからとにかく植えろ」という考え方である。現に、どの街でも、街路樹は莫大な予算を使って毎年枝を払っているのだ。
仕様規定は必要なものであるが、本来の目的を見失って、ただ数字だけを堅持しようと頑なになっては困る。大事なのは精神であり、常にそれを問い直すべきだろう。数値を守っていれば良い、守らないのは絶対に悪い、といった短絡的な判断が正しくないときも必ずある。
2006年02月08日(水曜日)
【HR】 生産する仕事
今日もあまり良い天気ではないものの、雨はほとんど降らなかった。一度だけ買いものに出ただけ。パスカルは留守番だった。
「ジャーロ」の連載用に、28000文字ほどを昨夜書き上げて、今日はその推敲をして、もう送ってしまった。次は、「ラピタ」のエッセィ。この「オモチャイング・ライフ」という連載は、そろそろ始めて2年になる。この2年分を取りまとめて、6月に単行本にすることが決まった。小学館からは初めての本になる。
世の中にはいろいろな仕事があるが、一般に多いのは、物質なり情報なりを生産するメーカだろうか。なんらかの特殊技能でもってサービスをするものも、まあ、広い意味で生産をしているのと同じである。このほかに、金融などのように、金を貸して利子を取る業種もあるし、投資のような仕事もある。
地道に生産をしても、作ったものが売れないこともある。逆に、なにかの拍子に人気が出て、労力をはるかに超えた莫大な利益が転がり込むこともあるだろう。そういったギャンブル性はビジネスにはつきものかもしれない。しかし、だからといって、そのギャンブル性に目を向けて仕事をすることは、切り株で2匹目のウサギを待つようなものである。そうなると、もはや仕事とはいえない。
さきを読むこと、広く見通すこと、普遍的な傾向を見出すこと、これらは大切ではあるけれど、しかしそういった計算をいくら行っても、それに基づいてなにかを作り出さなくては価値が生まれないし、仕事としても長くは成立しない。やはり、生産することが仕事の基本だといえる。少なくとも、生産する人間、生産し続ける人間は、どんな社会においても価値がある。だから、そういう人間をどれだけ抱えているかが、すなわち企業の価値になるのだろう。
道具には、測るものと加工するものがあると書いたが、人間の場合、えてして測る人が尊ばれる傾向にある。何故なら、加工する人だけでは、良いものが作れないからだ。けれど、だからといって、全員が測ってばかりではなにも生産されない。
以上のように、短編を1作書いたくらいで、こんなにも高ぶったことを書けるものか、と自分でも感心するくらい、生産する行為とは尊いものだと感じる。
牛のスリッパは、旧書斎の椅子の上に普段は置いてあるのだが、その部屋のドアが開いていると、その隙をついて、パスカルが入り込み、必ず持ち出されている。だから、もう2匹ともパスカルがいる場所の近くの椅子の上に置くことにしたら、この3日くらい、パスカルはまったく手を出さない(口だが)。自分の近くにあれば満足のようである。ちなみに、この牛たちは、「ブルーマール」と呼ばれている。パスカルは兄弟が皆ブルーマール(白と灰色のブチ)で、その中で彼一匹だけが黒かったのだ。お母さんもブルーマールなので、大きくなったら自分もブルーマールになると信じているかもしれない(絶対考えていないと思うが)。
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【算数】 加減乗除の記号
加減乗除の記号だが、+と−はなんとなく対になっていて、プラスの+に対して、1本少ない−がマイナスだというニュアンスも直感的でわかりやすい。また、+に対して、これを45度回転させた×が乗算であることも、なかなか優れたサインだと思われる。すなわち、加算を繰り返すことが乗算であるから、その関連性も伺える。これら、3つの妥当性に対して、除算の記号÷が、やや弱いように思えるが、いかがだろうか。
おそらくは、+に対して−と来たのだから、当然、×に対して/が候補になったのではないか。これは、分数の表現、1/2などのスラッシュとも共通するし、乗算の×から1本を引いたもの、との統一性も美しい。何故、この/が除算の記号にならなかったのだろうか。
ということを小学生のときに僕は考えた。どうも、割り算の記号だけが、画数が多く、漢字の「母」の中に入っている一部みたいな異質さがあったためだろう。小学校の先生に尋ねたところ、割り算のこの記号は、分数の棒の上下に数字がある、つまり分数の形を示しているのだ、と教えてもらった。パーセントの記号%も同じだろうか。
その後、だいたい同じという意味の「≒」が登場して、これは除算の記号に似ているな、とも思ったが……。
ちなみに、コンピュータのプログラムでは、乗算は「*」であり、除算は「/」を用いる場合が多い。半角の記号に「+」と「-」はあるが、「×」や「÷」はないからだ。乗算と除算の記号は、メールやウェブでも海外へは伝えられない。
2006年02月07日(火曜日)
【HR】 満たされること
雨だった。パスカルが見るからに膨らんでいるので、「どうしてこんなになったの?」とスバル氏にきいたら、「雨だからじゃない」とのこと。「人間だって、雨の日は頭が膨らむでしょう」と言う。そうかな……。人によるような気もする。
パスカルは、フードが新しくなって、お皿がぴかぴかになるまで嘗めるようになった。それから、ジュースを飲んでいるとき、すぐ足許にやってきて、「お願いですから、その蓋を嘗めさせて下さい」という目で見なくなった。自分の食事に満足したのか、急に性格が穏やかで上品になった気がする。
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人間もそうだが、生活が豊かになり、不自由が少なくなるほど、だいたい良い性格になる。物質的に恵まれていることは、人間を良くする。これが道理である。それなのに、豊かになることで人間性が失われる、という言い方をする人がいて、どうも納得がいかない。戦争だって、貧困さから脱しよう、もっと富を得よう、として起こるものが多い。たとえ宗教的なものが絡んでいても、平均的にみんなが豊かになっていくほど、争いは減るだろう。人間は、そこまで好戦的ではない。それは歴史が証明していることだ。けっして楽観的ではなく、平均的で客観的な見方である。
犯罪も、社会が豊かになることで減る。これも事実だ。したがって、平和で安全な社会を作ることと、生産効率を高めて豊かになることは方向性としては一致している。ただ、それが完全に比例していない、豊かになっているわりには、精神的な成長が見合っていない、という意味で使われた言葉が、いつの間にか一人歩きしているだけだろう。
一方では、豊かになって満たされることで、たとえば芸術を推し進めるハングリィな精神が失われる、という面はたしかにあるかもしれない。特に若いときには、物質的なハングリィさが、クリエーティブな動機に結びつく例もある。人によるとは思うけれど。
いずれにしても、人間は、一般に完全に満たされることはない。そのときどきで、ある程度の満足、達成を味わうことはあっても、すぐにもっと大きな容器を用意して、まだまだこれからだ、と思おうとするものだ。
ゴールすることに重きをおくか、その手前のゴールを目差す状況に重きをおくか、という違いは人によってあるだろう。前者が大多数だと思う。社会は結果を求める。勝敗に拘る。他人に認められるのはあくまでも成果だ。
ただ、僕は明らかに後者であって、ものごとを達成することにはほとんど意味を見出していない。勝負が決まることも、結果が明らかになることも、特に重要なことだとは考えていないようだ。したがって、満たされつつある池の水位よりも、そこに流れ込む小川を眺めていたい方である。
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【理科】 ハレー彗星
長い尾を引いている彗星だが、宇宙はほぼ真空なので、あの尾は進む方向の逆にたなびいているわけではない。ハレー彗星は76〜79年くらいの周期で地球に接近し、そのときには、長い尾の中を地球が通り抜ける。でも、特になにも天変地異は起きない。地球の大気の方がずっと密度が高いせいだ。
あの尾は、ハレー彗星が太陽に接近したときに発生し、常に太陽の反対側に向けて延びている。だから、太陽へ向かっているときは、後ろに出るが、太陽から離れるときには、前に出ている。こういうコメットの絵というのは、いささかトリッキィではないだろうか。
ハレー(Halley)というのは人の名前だ。この人が18世紀に周期の計算をして、次はいつ地球にやってくるかを予測した。彗星がこのようにまた戻ってくるものだとは当時まだ考えられていなかったので、彼の言ったとおりに再びやってきたとき、敬意を表して名前をつけたみたいだ(ハレーの死後であったが)。
ちなみに、ハレー彗星は大きさのほとんどは気体らしいが、中心に核があって、それが最近、探査機によって確認されている。核の大きさは20kmもないという。
2006年02月06日(月曜日)
【HR】 チョコレート
面白い夢を見ていたので、起きないで、寝過ごした。いつもより1時間多く寝ていた。僕の場合、夢は非常によく覚えているし、一度起きても、寝直して続きが見られる。とても面白い。でも、小説の役に立つような面白さでは全然ない。もっとマイナだ。夢を小説に書いて、もし世間に受け入れられるならば、僕も少しは小説が面白いものだと思えるかもしれない。
午前中は、研究関係の仕事。昼頃戻って、午後はパスカルを連れて、ホームセンタへ。それから、ペットショップへも。
パスカルがフードを何度か吐いたからだ。1カ月くらいまえから、すぐに食べなくなって、口に入れても、器の外にいくつか出しながら(選り好みして)いやいや食べている。別のものを与えると、なんでも喜んで食べる。フードの袋をキッチンに置いているから、室温も高いのでフード自体がいたんだのかもしれない、ということになって、ペットショップへ買いにいったのである。
しかし、まるまる太っているのだから、栄養は足りているはずだ。そんなに食べていないのに、どうしてこんなにまるまるしているのか、実に不思議である。まあ、人間でもそういう人はいるから、食べもののせいではないのだろう。ライオンの方がずっと脂っこいものを食べているのに、ベジタリアンの象の方がはるかに太っているのだから。
どちらにしても、もの凄く元気なので、体調が悪いわけではなさそう。
今日は工作は20分くらい。読まないといけないものがあったり、ネットで連絡をしたり、細かい仕事を処理したため。
小説の方は、ゲラをだいたい片付け、今は、「ジャーロ」の新連載を書いている。今、15000文字くらい。今週は、「ラピタ」もある。3月の講談社文庫2冊の表紙案が来たし、もうすぐ「MORI LOG ACADEMY 1」のゲラも来るはず。
チョコレートがもう沢山(十個以上)届いている。しばらくスイートな日々を余儀なくされる。嫌いではないが、多くは食べられない。これも何度も書いているが、2月に集中しない方が良いのではないか。1年中いつ送っても良いことにしてほしい。知らない人がいるかもしれないので、念のために書いておく。僕はこれまで、お返しをしたことは一度もない。しっぺ返しもしないけど、期待をして送った人がしっぺ返しを食らったと感じることがあるかと想像するだけで一瞬寂しくなる。ほんの一瞬だが。
ファンレターの返事も一切書かない。書く紙がうちにはないし、プリンタもないし、封筒もないし、切手もない。メールはだいたいリプライしている。もし、森博嗣にメールを出しても返事をもらったことがない、という人は、きっと失礼なことを書いたか、それともサーバの不都合で届かなかったか、のいずれかだろう。悪戯メールの類は、自動的にゴミ箱へ行くように設定しているので、一度でも悪戯メールを出した同じアドレスでは、心を入れ替えて真面目なメールを出しても無駄である。信用とはそういうものだ。
現在、1日に届くメールは、(悪戯メールを除外して)多いときは200通くらい。すぐその日のうちには読めないこともあるけれど、数日の間にはすべて読むようにしているし、必要なものはリプライしている。
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【国語】 「〜」を使って短い文を作れ
小学校のときに、よく出た問題である。「こしたことはない」を使って文章を作れ、とあったので、僕は、「ここ数年は引っこしたことはない。」と書いたら×になった。
もし、×にするのならば、どういうふうに使うのかということを、もっと問題できちんと規定し、できれば例を示すなどして、説明してもらいたいものである。そんな暗黙の了解事項のような主観的な問題をテストに出すとは何事だろうか、と子供心に思った、かというと、もちろんそこまで考えたことはない。
たとえば、「〜」を使えという問題に対し、「『〜』の意味が僕にはわからないので、文章を作ることができません」という文章を書いたらどうか。これは×になる。では、×になる理由は何か?
意味がわかっていないからだ。という理屈ならば、では、何故意味を書かせないのか。文章を作れとあるが、文章とは、必ずしも個々の語句の意味を完全に理解したうえで書くものではない。現に、ほとんどの子供は語句の意味を曖昧に捉えたままで使っている。意味を知らないから、使えないということはないのである。一例を挙げるならば、「ならば」を使って文章を書くことは容易いが、「ならば」の意味を説明することはきわめて難しい。
「僕は『〜』の意味を知っていますが、僕らしい文章の中で自然に使うには、多少抵抗があるため、普段はほとんど使う機会がありません。国語辞書によると、これは「○○」あるいは「△△」という意味だそうですが、そのような意味で使われているのをあまり耳にしません」という文章ならば、×にできるか?
2006年02月05日(日曜日)
【HR】 失敗とは
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朝は雪景色。積雪は2cmくらい。しかし、天気は良いため、日向はすぐに解けてしまいそう。スバル氏がいないので、パスカルにご飯をやったり、庭に出して遊ばせたり、面倒を見る。黒いから雪景色のときは写真が撮りやすい。
気温は久しぶりにかなり下がった。でも、12月のことを思えば、寒くはない。慣れたせいもある。なにより、日が長くなり、太陽も高くなった。つまり日差しがもう春だと感じる。
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午前中は、パスカルをリビングに残して、工作室で金属を削った。今日はフライス盤とボール盤。
工作をしていると、よく失敗をする。寸法を間違えて切ったり、穴を位置を間違えて開けたり、など頻繁にやる。うっかりミスだ。加工途中で、固定が不完全で材料がずれたり、あるいは刃が噛んだり、ドリルが折れたり、ということも稀にある。いずれも、手を抜いたせいである。
ここは絶対にミスが許されない、という場面ではそれなりの慎重さで臨むけれど、いつもは、そこまで緊張していないから、失敗は日常茶飯事である。
そもそも、失敗しないためにはどうすれば良いだろうか。
常に緊張し、集中していれば良いのか。そんなのは、疲れてしまうように思う。失敗しないために、最も重要なことは、失敗を予測することだ。どんな失敗をするか、あらかじめ想定しておく。すると、失敗してもダメージがさほどない。さあ、もう一度やりましょうね、と思うだけだ。失敗を覚悟してやると、成功したときに嬉しいし。
そうなると、本当の失敗とは、予想外のものになる。予想外の失敗というのは、すぐに気づかない。すぐに気づくような失敗は、予想ができるからだ。そのときは見逃して、しばらくしてから発覚する。つまり、その失敗が顕在化するために時間がかかる。そういうのが、本当の失敗だ。今でも、ときどきある。ダメージを受けるというよりは、感心してしまう。「ああ、その手があったか、敵ながらあっぱれ」と思えるほど、素晴らしい失敗なのである。
そういうわけだから、成功しても失敗しても、結果としては楽しかったりする。これは、僕が他人を相手にする仕事をしていないためだろう。相手は物質であることが多く、つまり、失敗をしても迷惑は自分にしか及ばない。失敗しても、頭を下げる相手は自分しかいない。結局のところ、そういう仕事を僕は選んだみたいだ。
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【社会】 元号
年を書くとき、役所などの公式文書は、すべて昭和とか平成とかで書かなければならない。だいぶまえから、「西暦にすれば良い」ということを繰り返し書いてきたが、今のところ改まる気配はない。
計算がしにくいし、間違いも多いだろう。しかも、世間では西暦が広く浸透しているのだ。数え方が2つあって、不統一なのは、とにかく不便である。たとえば、35年住宅ローンなどを組んだ人は、きっと「えっと、昭和90年まであと何年ある?」なんて考えないといけないはず。大学に外国から留学してくる学生は、書類では生年月日を日本の元号で書かされるのだ。
天皇制を非難するつもりもないし、日本古来の習慣を守ることもあっても良い。ただ、公式文書は、西暦にすれば良い(あるいは自由にすれば良い)、という意見である。そもそも、月も、曜日も、時間も、さらにいえば、長さや重さの単位も、既に古来のものではないのだから。
書類などでは、昭和をS、平成をHと略しているのを見かけるが、あれはさらに不格好だ。非常に醜い。略すくらいなら、西暦にしてはどうか。横書きで、算用数字で書いているのだから。
伝統を守る、ということは、このように部分的に無理やり不便な習慣を押しつけることではない。まったく別問題である。
2006年02月04日(土曜日)
【HR】 労働
スバル氏が東京へ遊びにいったので、パスカルと留守番。パスカルは一番甘えられる人がいなくなったため、しかたなく僕にもの凄く甘えてくる。頭の上から飛びついてくる感じ。面白い。目がうるうるしている感じ。可愛い。
午前中は、工作室でヤスリがけをしていた。合間に、機関車を出して、列車を走らせる。1カ月ぶりくらいだけれど、別に問題なく走れた。メンテナンスはなにもしていない。最初の一周だけゆっくりと走って、線路の石ころを車輪がどければ、2周めからはもう大丈夫。
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遊んでいたら、『森博嗣本』の2校が届いたので、1時間ほどかけてゲラをチェックした。2校では、初稿時に指摘した訂正箇所が直っているか確認するだけ。90%はちゃんと直っていた。メールで再度指摘をして、この仕事は終わり。「ジャーロ」向けの連載第1話も2000文字ほど書いた。これは来週一杯で仕上げるつもり。「MORI LOG ACADEMY」のまえがきとあとがきも編集部へ送った。
花壇にまた黄色の花が咲いている。スバル氏はたしかポピィだと言っていたような気がする。ポピィって、ケシじゃなかったかな。
パスカルの散歩を午前と午後に2回。冷たい風の中、連れていった。近所の犬と出会っても、鳴かないし、友好的である。誰とも友達になれるようだ。こういうのも性格らしい。みんながパスカルの名前を呼ぶ(犬ではなく飼い主が)。知らないうちに有名だな。
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午後は、電動ノコギリを外に出して、鋼材を8本くらい切った。出し入れと後かたづけ、掃除を含めて、20分くらいの作業。でも、手で切ったら、2時間くらいは優にかかるから、効率的。夜だと、これができない(寒いから)。まとめて何本か作業をした方がさらに効率が良いのだが、残念ながら、設計図もなく、作りながら考えるので、そういうわけにはいかない。
工業製品が、ちゃんと設計図があって、別々の人が作ったものが、最後にきちんと組み上がるのは、当たり前だが、凄いと思う。それが技術とか精度というものだろう。逆にいえば、それが設計図の役目だ。
一人で作っている分には、図面はなくてもなんとかなるし、逆に、考えながら作った方が面白い。工作の醍醐味が味わえる。完璧な設計をして、図面を描いてしまうと、あとは労働のみが残ってしまうのである。労働だけの方が楽ではあるが、面白くない、という意味だ。しかし、単純な労働をすることが楽しいと感じるときもたまにあるから、労働が悪いというわけでもない。ヤスリをかけているときなんかは、明らかに労働だが、楽しい。よくわからない。
【算数】 10進法
現代ほど10進法が世界に広まったことは歴史的になかったと思う。
1ダースは12本だし、1日は24時間だし、1時間は60分だし、1周は360度だ。このように、12で上のケタ(単位)になるのは、12が、2でも3でも4でも割り切れる便利な数字だからである。10は、3等分や、4等分ができない不便でキリの悪い数字だったわけだが、人間の指の数が5本だったために、こんなにメジャになった。
電子レンジの残り時間などで、2.50とあれば、これは、2分50秒のことだ。しかし、数学で、2.50分といえば、それは2分30秒のことである。このような小数点以下の表示で誤解を生みやすい。
そもそも、日本には12進法があまり馴染みがない。1ヤードは3フィート、1フィートは12インチだが、日本の場合、1丈は10尺、1尺は10寸である。不思議なことに、日本は古来10進法なのだ。
欧米では、クォータ、つまり4分の1という表現が、ハーフの次によく使われる。クオータは0.25のことであるが、これは10進法だからそうなるだけで、3カ月のことだったり、3インチのことだったり、15分だったりする。日本に馴染みがないのは、2500円札や25円玉がないことでわかる。
2006年02月03日(金曜日)
【HR】 節分とフライス盤
スバル氏が「豆まきをしよう!」と今日だけで3回も言った。そんなことをしたら、大変なことになる。パスカルがお腹を壊すか、もっと太るかだ。
風が強くて寒かった。午前中は、ずっと金属にヤスリをかけていた。お昼過ぎに、講談社のM澤氏が来宅。『アイソパラメトリック』の初稿と、『悪戯王子と猫の物語』の2校を手渡した。3月の講談社文庫はだいたいこれで終わり(あとは表紙)。
それから、パスカルを連れて車で出かけて、買いものをして帰ってくる。食料品売り場には、巻き寿司が沢山出ていて、みんなが何本もそれを手に持っていた。「今日は巻き寿司の大安売りだったみたいだよ」とスバル氏に話したら、「節分だからね」と言う。そういう風習は、僕が子供の頃のこの地方にはなかったように思う。別に良いが。
なかったといえば、たこ焼きやお好み焼きにソースをかけるのも、あれは西の方から来た文化ではないだろうか。子供の頃にはなかった。たこ焼きはお皿になんかのっていない、紙の袋に入っていた。ソースがないから、指で持ってもべたべたしなかった。
ソースはもともと日本にはなかったもので、それが来るまえから、お好み焼きもたこ焼きもあったのではないだろうか。関西は、なんにでもソースやマヨネーズや、とにかくいろいろかかっている方が美味しい、という文化かもしれない。嫌いではないけれど……。
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夜はフライス盤を回していた。フライス盤というのは何かというと、横向きに切り進むドリルみたいなものだ。うちにある電動工具の中では一番大きくて、重さは500kgある。工作室でこれを回すと、母屋でパスカルが唸っているらしい。「怪しい音がしますよ」と言っているのだ。
モータツールというの多くは材料を削るものだ。削ることが一番の手間だから、動力化したのだろう。工具は、加工をするものと、測るものに分かれる。これは、人間も同じかもしれない。
日記シリーズ第5弾『数奇にして有限の良い終末を』の文庫版(幻冬舎)の見本が届いた。2/10発行予定のもの。萩尾望都先生の素晴らしいカバーイラストをいただいた、僕としては最高にお気に入りの装丁であるし、このシリーズは自分では最も力を使ったものなので、こうしてようやく文庫が出揃ったことは非常に嬉しい。
MORI LOG ACADEMYも、このシリーズが超えられるように、じわじわと力を尽くそうとは思っているのだが……。
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【理科】 気球
数年まえに、薄い紙を糊で貼り合わせて気球を作ったことがある。熱気球だ。直径は1m以上あった。この中に、ドライヤで暖かい空気を送り込むと、浮き上がる、というおもちゃである。ただ、紙も糊もそれなりに重さがあって、室内では結局浮き上がらなかった。寒い屋外で挑戦したら、なんとか成功した(機関車製作部の2003/1/2のレポートに詳細あり)。
容積はだいたい1立方メータくらいだったかと思う。この大きさの空気の重さは1kgくらいである(空気は水の1000分の1の重量)。だから、もしも、丈夫な材料を1kg使って、この気球の大きさの容器を作り、しかも中の空気を抜くことができたら、それは空気よりも軽いものになって、浮き上がることになる。
ところが、地上というのは、深く空気が溜まった底なので、空気の重さによる圧力を受ける。深海で受ける水圧と同じだ。これが、だいたい1平方cmあたり1kgの力だ(1気圧という)。この圧力に耐えられないと、容器は潰れてしまう。
つまり、真空にしても潰れない容器を軽く作ることができないために、しかたなく、中に軽い水素とかヘリウムを入れて、圧力を相殺しているのである。ようするに、これが気球。暖かい空気も冷たい空気よりは少し軽い。
水素やヘリウムであれば、入れてしまえばエネルギィは必要ないが、熱気球は温度で浮力を調節できるので、コントローラブルである。
2006年02月02日(木曜日)
【HR】 写真
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久しぶりに朝から晴れた。それに暖かい。パスカルが庭を走り回った。雨が降ったせいか、気温が高いせいか、植物が元気になった気がする。山茶花も相変わらず満開。もう超満開。なかなか散らない。
こういう光が綺麗な朝は、写真を撮りたくなる。横から光が当たると影が綺麗だからだ。もちろん、曇った日の影がないシーンもそれなりに面白いけれど、やはり陰影があると、コントラストそのものが楽しい。
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僕は、写真を抽象画に近いものだと捉えているので、ピントがずれていても気にならないし、手ぶれも面白いと感じるし、それこそ何が写っているのかわからなくても、写真として(絵として)綺麗だったらそれで良いと思っている。
ようするに、その人がどういう目で普段ものを見ているか、ということを示すのが写真だと思う。ぼうっと見ている人も、ぼうっと綺麗なものを捉えるし、周辺を気にせず、ピンポイントで見つめる人もいるし、顔を近づけて観察する人もいる。そういうことではないだろうか。
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もちろん、記録をするための写真の話ではない。記録をする、あるいは、人に説明するための写真というものもある。同様に、自分の記憶を助ける写真もある。
たとえば、僕は鉄道が好きだが、実物の鉄道にカメラを向けようと思うことは滅多にない。飛行機も大好きだけれど、飛行機の写真を撮ることもあまりない。それの模型を作るようなときは、あとで客観的な寸法を割り出すために資料として写真を撮ることは稀にあるけれど、それ以外ではまずない、といって良い。
だからもっぱら、地面に落ちている石とか、葉っぱとか、踏みつぶされた空き缶とか、道路にできたひびとか、不思議に歪んだ影とか、そういうものへレンズを向けてきた。人物の写真を撮ることも滅多にない。旅先で自分の写真を撮る(撮ってもらう)こともほとんどない。
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僕は子供たちの運動会や学芸会や授業参観には一度も行ったことがなかった。だから、そういう写真も森家にはない。もちろん、それ以外にも、数々の思い出はあるわけで、そちらで充分である。たとえば、自分が小さいときにはビデオカメラなんかなかったけれど、いろいろなシーンをちゃんと記憶している。思い出をカメラやビデオに収めてしまうよりは、僕は頭の中に持っている方が好きだ。
今日は、集英社のC塚氏とW邉氏が来宅。少しさきのことで打合せ。パスカルが大喜びしていた。今日も金属を切って、削った。体調は良くなった。
【国語】 小説やドラマの台詞
小説の台詞を書くとき、女性ならば女性らしく、男性なら男性らしく書くのが上手な書き方だ、という人がたまにいる。英語では男性も女性も同じだが、日本語は違う。だから、「彼は言った」「彼女は言った」などといちいち説明は不要である。そのキャラクタの話し方で、誰の台詞かわかるようにすべきだ、という。
こういった文化がたしかにあったようだ。老人は、「〜じゃ」とか、「〜おるわい」などと言う。女性は、「〜だわ」とか、「〜なのよね」と話す。一人称も、「わし」とか「わたし」とか「ぼく」をキャラクタによって使い分ける。
この記号化がもっとエスカレートすると、赤塚漫画のように、「ミー」とか、「ざんす」とかになるのだろう。
少なくとも、僕の周囲には、「〜じゃ」と話す老人はいない。「〜だわ」という女性も珍しい。洒落で言う人はいるが、数的には確実に少数派である。また、一人称は、会話には滅多に現れないのが普通であり、現れるときにも、相手によって使い分けるため、いつでも決まった一人称が使われるわけではない。
口癖はもちろんあるけれど、人は話し方を意志でコントロールできるのである。
そういったごく普通の感覚で小説やドラマに接すると、舞台の演劇にしか見えないような話し方にびっくりさせられる。あまりにも現実とかけ離れていて、リアリティがない。まるで、歌舞伎を見ているようなものだ。もちろん、それも一つの文化ではあるし、見慣れている人にはその世界が良いのだろうとは思う。自覚さえあれば問題はないが、普通でないことは確かだし、そういった伝統的ルールに従わないものが新しく感じられるようではどうかと思う。
2006年02月01日(水曜日)
【HR】 工作員
3日続けて雨とは珍しい。気温は高め。午前中は研究関係の打合せのため出かける。帰りに郵便局へ寄り、1つ書類が終わった。書類作戦の進捗は9%達成。この勢いで頑張ろう。
午後は、体調が良かったので、金属工作を5時間ほどした。ようするに、金属(真鍮、鉄、アルミなど)を金ノコで切って、ボール盤で穴を開けて、ヤスリで削って仕上げる、という作業。
電動のノコギリもあるが、セットが面倒なので今日は手動で切った。金ノコは数百円のもの。ノコギリよりも、固定側の万力の方が大事。ボール盤は、15年ほどまえに1万円くらいで買った安物で、いつも不満を言っているものだ。しかし、実は電動工具の中ではだんとつにこれが活躍している。頑張っているわりに悪口を言われる可哀相な役回りか。ヤスリは万力に材料を固定して手でかける。ヤスリは高いものを使っている。
旋盤とかフライス盤は今日は動かしていない。使えば楽なのだが、材料を固定するまでが大変。一度固定できてしまえば、あっという間に加工できる。それが電動工具というもの。なんとなく、超エリート社員みたいなもので、周囲がお膳立てをしてやって、さあどうぞ、と拍手で迎えてやらないと、働かない。実働時間は短いのに、高いし場所を取るし、といったところか。しかし、ときどきこれらがないとどうにもならない場面があるわけで、やはりいてもらわないと困る。
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『アイソパラメトリック』のゲラを読み終わった。こんどは、『悪戯王子と猫の物語』の第2校が来た。次は、「ジャーロ」に『ZOKU』の第2弾となる連作短編を書くが、こちらは、キャラクタはまえのままなので、新しく造形しなくて良い分、気が楽。ただし、設定などはまったく違うものにするつもり。タイトルはまだ決定ではないものの、今のところ『ZOKUDAM』になりそうな雰囲気。
『MORI LOG ACADEMY 1』も、デザイン案がいろいろ上がってきていて、そろそろゲラになる見込み。カバーイラストは羽海野氏にお願いしている。今夜はこの本のまえがきとあとがきを書くつもり。
今月は、もうすぐ日記シリーズ第5巻の『数奇にして有限の良い終末を』が文庫になる(幻冬舎)。表紙のカバーを萩尾望都先生に描いていただいた記念すべき本だ。この本には、2001年のウェヴ日記が収録されている。4年近くも日記を中断していたが、3月に『MORI LOG〜』が出ることで、文庫としては、計ったように連続する。
僕がウェブ日記を書き始めた頃(1996年)は、まだ、掲示板も珍しいくらいだったし、一般の人が日記を公開する、ということも滅多になかった。当然ながら、ブログという言葉もなかった。
最近になって、この「ブログ」という呼び名が広まった。htmlを知らなくても、あるいは、ホームページ作製ツールやftpツールを使わなくても、個人のウェブサイトが構築できる、という簡易入力システムのことを示しているのだが、しかし、ほとんどの人は、「ウェブ日記=ブログ」と認識している。けれど、ブログが出回るよりもずっと以前から日記を書いている人たちは沢山いて、少なくとも、そういう人たちの日記の方がはるかに面白い。古いか新しいか、面倒か手軽か、という差ではなく、他人が読んで価値があるものを知っているかどうか、の違いであろう。
【社会】 ホームレス
12/30の【国語】で、ホームレスではなく、アドレスレスではないのか、と書いたが、公園の住所で住民票を申請することを裁判所が認める判決を下したらしい。的確な判断である。つまり、役所は、ホームレスの人が、自分がここに住んでいる、と主張して申請してきた住所で住民票を登録しなければならないし、郵便局もそこへ届けなければならない、ということになる。ただ、そこに住む権利はもちろん与えられてはいない。
戸籍の本籍は、どこでもかまわない。奈良の法隆寺の住所を本籍にしている人が沢山いるという話も聞いたことがある。住民票は、現在、実質的にそこで生活をしていれば、その住所で登録ができる。そこで生活する権利があるかどうかとは無関係、という判断だ。
ただ、これは、日本の国民に限られるだろう。外国人がこれを申請しても認められない、と思う。その理由は僕にはよくわからない。日本に住む権利が与えられていなくても、上記の道理で、実質住んでいれば、住民票を発行しなければならないような気もする。
まえにも書いたが、住所を1つしか登録できな