2006年02月18日(土曜日)
【HR】 客観性について
今日も朝から小説の仕事を片付けた。まず、「ジャーロ」のゲラを見る。それから、同誌に掲載する近況200文字を書いてメールで送る。次に、「アイソパラメトリック」の2校を見て、修正点をメールで発送。これで午前中は終わり。
午後は、長男S氏とパスカルに留守番を頼んで、スバル氏と某所へ出かける。とある契約を交わすためで、30分で終わると思っていたら、詳しく丁寧な説明があって、結局3時間もかかってしまった。でも、スバル氏がいてくれたおかげでいらいらせずに済んだ。一人だったら、絶対に「ちょっと時間がないので、適当に切り上げて下さい」と途中で言いだしていたところである。彼女がいると、彼女につき合わせて申し訳ない、という心理が働くため、腹を立てないのでは、と自己分析。いろいろ終わって良かった。
長男S氏が帰ってくると、必ず焼き肉になる。帰りに肉を買った。
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このところ、毎日機関車の部品作りで金属をヤスリで削っているが、この工作という、物質を相手にする実に具体的な作業をしていると、非常に客観的になれる。これがメリットだ。人は多かれ少なかれ主観的にものを見るのが普通で、判断の大部分は主観的である。「客観的に言って」などと口では言っていても、そのあとに続く文句の70%以上は非常に主観的である。たとえ、客観的な論理が述べられていても、そのまえに主観的評価があって、単にそれを補強するために客観的理由が持ち出されているにすぎない。
たとえば、ある部品を差し入れるために穴を開けたとする。その穴をじっと観察して、「僕は、ここにこれが入ると思う」という判断を、世間では毎日しているのだ。しかし、それは無意味である。入るか入らないかは、僕(人)がどう考えるかには無関係なのである。実際に入れてみれば、入るか入らないかは判明する。大きいか小さいか、ノギスを当てればわかることだ。
「幽霊はいると思う」「相対性理論は間違っていると思う」なども同様に、人が「思って」もしかたがない問題だといえる。
それでも、たとえば、10mmの長さとはどんな範囲か、を決めるのは主観である。さらに、9.99〜10.01mmと自分で決めていても、それを測定するときの誤差が介在するわけで、自分の測定結果を信じるかどうか、という主観も混じる。そうした見えない主観が少しずつ入り込み、それが重なって、客観性はしだいに失われていく。工作途中あるとき、「あれ、どうして合わないのだ?」という場面に出くわす。工作とは、客観的なものを目差して、なんとかそれに近づこうとする行為でもある。
ニュースで報道されていることも、本などに書かれていることも、客観的な観察事例は意外に少ない。また、客観的な観察に興味のない人が大多数である。
客観的なデータは、普遍性を持っているし、また地域や時代を超えて、多くの人に対して価値を生じる可能性が高い。客観視するには自分から離れる必要があるわけだが、そういった視点を持つために必要なことは一つだけ、すなわち想像力である。想像という極めて主観的な能力によって、客観的視点が得られることは興味深い。
主観を排除しろ、といっているのではない。ただ、主観さえも、客観によって初めて際立つものであろう。
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【国語】 二重否定
子供はあまり使わない。大人でも年輩になるほど多くなる傾向にある。政治家が多用する。なんとなく、表現を和らげる効果、不完全性を含め、防御を高める効果、があるのだが、しかし、わざわざわかりにくい表現をしている、という印象を若者に与えるかもしれない。
たとえば、「これは美味い」と言えば済むところを、「美味くなきにしもあらず」「美味いと言わざるをえない」「美味い場合がありえなくもない」「美味くなかったためしがない」「美味くないといえば嘘になる」「美味いことは否定できない」「美味い可能性がまったくないとはいいがたい」「美味くないなんて誰が言えようか」といった感じ。非常にバラエティがある。
子供が使うとなかなか斬新であるから、小さい子に教えてみよう。
「いくつ?」「僕は3歳であるといわざるをえない」
「誰と来たの?」「お母さんといえなくもない人と来ました」
「何が好き?」「チョコレートが嫌いだと言ったら嘘になります」
「幼稚園はどうですか?」「楽しいと言っても過言ではありません」
なかなかどうして、幼児に相応しくないと否定するにはあまりにも根拠が不明確だと言わざるをえないのではないか、と問わずにはいられないのではないでしょうか。