2005年12月05日(月曜日)
【HR】 よけいなデザイン
天気は良かったもののとても寒い。そんななか、ほぼ一日出かけていた。そうそう、青の6号にオイルを足した方が良い、とここに書いておけば忘れないだろう。足した方が良いと気づいたのは、1週間くらいまえで、実際に足すのは、たぶん今度の週末になるだろう。悠長なメモである。
出版界に首を突っ込んでそろそろ10年になるけれど、「それにしてもこのデザインはないだろう」という目に遭うことがわりと頻繁だ。どうしてそんなことになるのかといえば、簡単である、才能のない(あるいは見る目がない、あるいは経験が著しく乏しい)人がデザインを担当しているか、それとも、デザインがまるでわからない人が注文をつけているか、のいずれか。
こういったことは言葉になりにくい。どんなものが変なデザインか、というのは、どんなものが変な形か、変な色か、といった類の組合せであって、マニュアルになりにくい。
一番多いのは、とにかく、変なものを足そうとする行為である。
写真を撮ってそれを送ると、その写真の周囲にラインを入れたり、額縁みたいに飾ったり、浮き上がっているように影をつけたり、そういう余計な加工をしたがる。なにか仕事をしないと、自分の存在理由が危うくなる、という立場上の問題かもしれない。単純に愛なのかもしれない。もちろん悪気はないわけで、良かれと思ってやっていることと想像はするけれど、いずれにしても余計なことであることは確か。
写真やイラストというのは、撮った人、描いた人の作品である(当たり前だ)。たとえば、勝手にトリミングしたり、縦横の比率を変えたり、デジタル処理で大幅に色を変えたりすれば、それは明らかな「侵害」である。しかし、このいずれもが、ごく普通に行われているのだ。特に、雑誌関係で多い。おそらく、新聞と同様に、写真やイラストは「説明をするための補足」と認識されているのだろう。文芸の編集部でも、イラストはオマケだと考えられているので、基本的な理解にズレがある。
一番酷かったのは、『猫の建築家』が中国で翻訳されたとき、本来のカバー画を使わず、別の絵(中身の1ページ)を部分的に使い、しかも色をまったく変えてカバーとしていた。見本が届いて、即座に抗議したが、その後音沙汰がない。外国で出る本は、カバーなどは事前にチェックができないのが普通らしい。
挿絵やトビラなどでも、せっかくのイラストなのに、周囲を変な模様で囲った「下品な額縁」に入っているものが散見される。額縁に入れるならば、せめて作者に相談してはいかがか。どこの世界に額縁を気にしない絵描きがいるだろうか? どんな額縁であれ、飾ってもらっただけで喜ぶ絵描きがもしいたら、それはまちがいなく三流以下である。
カバーなどの案をまず見てくれ、といってくることもあるのだが、そういったとき、文字やレタリングが仮のものだったりする。文字はデザインに含まれていない、と考えているらしい。デザインとは、何の絵が描かれているかではなく、その視野すべてのバランスである。キリンと象のカバー案に対して、キリンを選ぶと、「あ、キリンがお好きならば」と別のキリンの絵を持ってきたりする。そういう問題では全然ない。絵が良いからではなく、絵と文字と配置と色とすべてのマッチングを見ているのだ。
とにかくいろいろありすぎて、書ききれない。いまだに少しもこちらの(実にシンプルな)感覚が理解してもらえないため、イラストや写真を送るときには、常に「なにも足すな」「加工するな」と注意しなくてはいけない。
デザインの語源は「削る」という意味である。不要なものを消して、最適なものを選ぶことだ。けっして「足して飾る」ことではない。
こんな写真を撮った場合、どこにキーポイントがあるのか、というと、それは地面の影。何を撮ったのかを知らない人がトリミングをしてはいけない。
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