2005年11月30日(水曜日)

【HR】 機関車蘇る

 落ち葉は一網打尽にした。しかし、少し寒くなった。
 ケーブルテレビの人が来て、デジタル放送対応の機器に交換していった。スバル氏が申し込んだらしい。リモコンのボタンが不調で、それをなんとかしたいとまえから言っていた。「そんなの、借りている機械なんだから、電話すればすぐに交換してくれるよ」とだけ言っておいたのだが、彼女はそういう「ただの主張や意見」ができない人なので、この際だからデジタルにしたようだ。
 27日に書いた古い機関車の続き。毎日少しずつレストアをして、ようやく完成。大した修理はしていない。特にメインの動力系はまったく健全だった。一番大変だったのは、連結器を作り直したことくらい。機関車の塗装はかなり傷んでいたので、これもやりなおした。緑一色だったが、白と赤のツートンになった。まあ、塗り直すとなったら、違う色にしたいのが人情である(普通の人情の範囲外だと思うが)。
 外は寒そうだったので、ガレージの中に線路を敷いて、さっそく試運転。勾配はまったく駄目で、水平であることが絶対条件。カーブは半径750mmをクリアして、人を引っ張って走った。もっと急カーブでも台車や連結器は対応するが、トレーラの抵抗が大きくなって、機関車の動輪がスリップする。
 機関車製作部にこの古い機関車のことを紹介して以来、ベテランモデラから幾つかメールをもらった。いずれも、「30年まえにこれを作ったということに感銘した」という内容だった。まさにそのとおりで、感動せずにはいられない作品である。残念ながら、作った人を知っている、というメールはまだ来ない。人を乗せて引っ張ることも凄いが、人の心を引きつけることが、模型の最も大切な性能である。
 もう1つ偶然にも、工作室ではこのところ、約100年まえにイギリスで作られた機関車の塗り直しをしていた。エナメル塗料を筆で少しずつ塗っていた。文字が書いてあったり、マークやラインがあるところは、そこを残して、周囲を塗る、という面倒な作業。塗ることで綺麗になるし、また何年かさきまでこれが大事にされるだろう。僕のまえにも誰かが塗っているようだ。壁画や絵画、仏像などの修復作業をしているみたいな気分になる。少しだけ想像した。
 しかし美術品は別として、車や建築や、その他いろいろな実用品(おもちゃも含む)の場合、それをレストアをするときには、オリジナルの状態に戻そう、色や質感を最初のものに似せようと考えることが、必ずしも正しいとはかぎらない。それを使う人の好みによって、また時代によって、違ったふうに直せば良いのではないかと思う。つまり、単に再現するのではなく、自分が愛着を持てるように変える。それが、オリジナルに対する真の敬意だとも考える。箱に入ったまま保存されたおもちゃよりも、遊ばれて傷つき、変形したものの方が、愛された証拠であるのと同様に。

【国語】 差別用語

 これは難しい問題で、あまり深くは考えたことはない。「差別用語」の定義さえ知らない。もしかして、国語じゃなくて社会か。
 ただ、差別をしようという意志がなくても、使うだけで非難するのはどうかと思う。明るくやんわりと注意する、あるいはお願いする、くらいではどうなのか。目くじらを立てて、がなり立てるから話が捻れることもあるだろう。
 差別が言葉によって根づくことは、ある程度はあると思うけれど、だからといって、その言葉を無差別に消し去ってしまうことには、僕は反対である。
 人によっては、夫のことを「主人」や「旦那」と言うことに抵抗があるだろう。夫のことをそう呼んでいる人は、しかし、ご主人様や旦那様という本来のイメージを夫に対して持っているわけではない。既に、語源がどうであったか、というレベルの問題である。僕は、スバル氏のことを「家内」とか「女房」と書くことに抵抗があって、だいたい「奥様」と書いているが、これは単に実態というか、気持ちの問題だ。しかし、目上の人に紹介するときは、「家内です」と言う。目下の人に話すときは、「僕の奥さん」とわざと言っている。
 「子供」という漢字に不快感を示す人もいるし、小説を書いていると、「ジプシィ」や「エスキモ」などは、必ず校閲でチェックされる。しかし、ある時期には、その用語は普通に(当然ながら差別の意識などなく、それどころか愛着や憧れさえ抱いて)使われていた。「藪睨み」もチェックされる。それによって不利益を被る人がいるのだから、という言い分はたしかにあるだろう。そうなると、近い将来、「女」だって使えなくなる日が来るかもしれない。
 テレビでは「美人○○」なんて抵抗なく使っているけれど、差別用語を気にするマスコミなのに不思議である。差別用語と決められた言葉さえ使わなければOKだという感覚なのだろうか。それよりも、差別意識の有無こそが問題ではないのか。
 たとえば最近では、看護婦ではなく、看護師というようになった。それは正しい呼称だと思う。しかし、教科書ではなく小説の中で、病院の待合室にいるおじいさんが、「あ、ちょっと、そこの看護士さん」なんて口にしたら、それは変だ。それだけで、もう僕は読みたくなくなる。
 差別用語の是非、あるいは、正式な名称はともかく、その時代、その人物、その場面によって、相応しい言葉が使えないことは、素直に理不尽だと思えるし、人類にとって著しい不利益である。


2005年11月29日(火曜日)

【HR】 

 朝方、小雨。その後は晴れたが風が強く肌寒い。だから、今日は外の作業はしないことにした。葉が沢山落ちているけれど、明日一網打尽にしよう。
 午前中は隣の県まで実験を見学しにいった。お昼過ぎに戻る。それから、スバル氏とパスカルを乗せてミニでドライブに出かけた。知らない道を走ろう、ということで、川沿いの堤防の上をどんどん走った。橋を渡っている途中、曲がれるところがあったので、そこからまた堤防へ出たのだが、なんと舗装されていない砂利道である。ミニのタイヤは特別に太い。あまりオフロードには適していない(一応オンロードだが)。砂利を踏んで走る音を不審に思ったのか、パスカルはうぅうぅと唸り始める。スバル氏は、引き返そうと言ったが、幅の狭い道で切り返すのも面倒だ。ミニはステアリングが国産車のように大きく切れないため、小回りが利かないのである。
 そういう状態で2kmほどのろのろと走り続けたが、「君と一緒に乗っていると、こういう道をよく走る」と散々いやみを言われた。思い起こせば、そんな山道を何度走っただろう。穴を避けならがジグザグ運転をしたり、車の両側に草木が迫る小道を前進したこともある。しかし、人生の道に比べればいかほどのことか、などと、一応気の利いた台詞を思いついたものの、口にせず。小説のようにはいかない。
 パスカルは、もういい加減大きいのに、車の中では人の膝に乗っていないと気が済まないらしい。後部座席に一人でいるように教えているのだが、ミニだとエンジン音が煩いのか、怖がってシートの間からすぐに前へ来てしまう。もちろん、助手席でも一人では駄目だ。つまり、人間が運転手一人だけの場合は、パスカルを連れては走れない(ハンドル操作の邪魔になるから)。

 昨日書いたとおり、鶴田謙二氏のイラストを見ることができたので、新作を書き始めた。まずは3000文字程度書いた。極めて快調な滑りだしだと思う。もう、だいたい世界は見えてきた。IN☆POCKETのゲラも終わり。日経パソのゲラも見た。スバル氏は、日経も、IN☆POCKETも、メフィストも、野性時代も、イラストを無事に終わらせた模様。今は、1月の講談社ノベルスのイラストを描いている。描くのが速い。家事をこなしながらだから断然凄い。締切まえに描き上げるなんて、プロのイラストレータらしくないけれど。
 考えてみると、同人誌のときからスバル氏はそうだった。一番早いのだ。ちなみに、彼女のほかに誰がいたのか、というと、山田章博、荻野真、水記利古、コジマケン、杉浦守、et al.。コジマ君は若いときから締切を守った。人は変わらないものだ。そうそう、最近、杉浦君から彼の本が2冊も届いた。活躍しているようで嬉しい。

【算数】 方程式

 連立方程式、微分方程式など、専門的なことはともかく、この「方程式」というのは、かなり一般の方が使う言葉だと思う。なんとなく、難しいもの、という印象を与えるものの、でもちゃんと答を割り出すために努力をしている、あるいは精密さを強調したい、というニュアンスだろうか。
 方程式というのは、equationの訳語で、等式のこと。一般に、未知数を含んだ関係式を示すようだ。未知なものが存在するのに、ある関係が成立することが既知である、という条件である。その関係から、未知数がいくつかを割り出す。こういった例は、実現象でも非常に多い。というのも、たいていの場合、観察されるものは、「関係」なのである。未知なるものの実体が直に明らかになる例は少ない。
 身近な例を挙げれば、人間関係がそうだ。ある人と自分との関係、あるいは、その人とその他複数の人々との関係を観察することができる。それらの連立方程式から、その本人の人間性なり、性格なりがだんだんと掴めてくる。本人をいくら観察しても性格を直に見ることはできない。もちろん、すべての人間関係は、一対一の方程式ではない。多元である。だから、そうそう簡単には解を見極められないだろう。
 ミステリィでも、方程式のように犯人を割り出す、といった表現がときどき使われるようだ。しかし、今のところ、方程式のように明解で論理的な推理に出会ったことは一度もない(当然ながら自作も含めて)。やはり、数のようにはいかないようである。


2005年11月28日(月曜日)

【HR】 「やった!」という瞬間

 今日は朝から暖かい。庭の芝が少し緑になった気がする。いつも、朝1時間半くらい庭仕事をする。そして、9時半頃に出かける、というパターンが多いか。
 午前中は研究関係の打合せと、実験機器の試作品を見た。90%の実験は、こうなってほしい、という目標が明確で、それに向かって手法を検討する。何が起こるかわからない、といった実験は滅多にない。しかし、いくらやっても思いどおりの結果が得られない、変だな、と考えた結果、新たな性状を発見することは、稀にある。
 研究の途上で、素晴らしい思いつきをした場合、「やった!」と歓喜するすることは絶対にない。そういうのはドラマの話である。そうではなく、「本当か?」「待てよ」「嘘だろう」と迷い、とにかく間違っていないかを確かめる、確かめる方法を考える、というステップになる。間違っていないことを確かめる作業に、数年かかることだって普通だ。だから、いつが「やった!」という瞬間なのか、全然わからない。
 さらに、そうした結果、素晴らしい論文が発表されても、それを読んだ者もまた、「嘘だろう」と懐疑的になり、すぐには飲み込めない。検証するか、納得するのには時間がかかる。
 つい最近、フェルマーの最終定理が証明されたが、あれも検算に1年以上かかったと聞く。実験を伴うような分野は、時間がもっとかかるし、検証が事実上できない、つまり再現不可能なものも多い(たとえば、計算機ではじき出された結果などは、同じプログラムがないと無理)。
 久しぶりにビートを運転して気持ちがリフレッシュされたので、夕方、また青の6号を1時間ほど動かした。本当に楽しい。
 そうそう、昨夜、中央公論新社から「鶴田氏のイラストが取れた!」というメールがあった。なんだか、果物が実るのを待っていたような感じであるが、こういうのは、「やった!」の瞬間が明確な仕事である。
 で、『ダウン・ツ・ヘヴン』(ノベルス版)は2カ月遅れで、12/15に発行できることになった。お待たせしました。そのイラストを見たら、シリーズ第4話を書き始めよう、と考えていた。こちらは、タイトルは『フラッタ・リンツ・ライフ』でフィックスしている。
 写真は、自動車でよく通る踏切。踏切というのは、どうしてあんなに凸凹なんだ? といえば、線路がカーブしている部分などは、線路自体が傾いている(カントという)し、しかも複線だから、どうしても凸凹になる。だけど、もうちょっとなんとかできないものか、と常々思う。あ、そうか立体交差にすれば良いのか。

【社会】 大陸移動説

 僕が小学校で歴史を習ったとき、教科書の最初にあったのは、日本列島と中国大陸が北と南で陸続きになっていて、日本海が湖だったという昔の想像図だった。こんなふうだったので、ナウマン象などが、日本に渡ってきたのだ、と教えてもらった。そうか、日本海は湖だったのか、では淡水だったのだな、とか、そうか、ナウマン象は泳げないのだな、と考えた。
 この当時は、マントルの対流で、大陸が移動する、という説(ウェゲナーだったかな)はまだ発表されていなかったのか、というと、そうではない。発表されていたが、定説として認められていなかったのだ。
 大西洋を挟んで、ヨーロッパやアフリカ大陸と、南北アメリカ大陸が、どうも海岸線の凸凹具合が似ている、昔はくっついていたんじゃないのか、という発想は、なかなか凄い。こんなに大きな証拠品は(地球上においては)ちょっと例がないかもしれない。
 中学校になると、最初の天皇は推古天皇だった、と教えてもらった。それを家に帰って両親に話したら、「でも、仁徳天皇陵っていうのがあるでしょう」と言われた。前方後円墳だ。話がかみ合わない。
 子供番組でタイムトラベルして、戦前の日本へ行く、というテレビを見たことがあるが、そこで、その当時の人たちが「第一次大戦のあと」なんて話していたのでびっくりした。「第一次」になったのは、「第二次」が起こったからだ。
 それより、大陸が移動していると、タイムトラベルして大昔へ行ったら、そこは海なんじゃないか、という不安はないのだろうか。いやいや、それどころではない。大陸よりも、地球や太陽系や銀河系の動きの方がずっと速い。地球は1秒で30kmほど動く(マッハ100くらい)。半年後には、太陽の反対側(約3億kmのかなた)にいるのだ。


2005年11月27日(日曜日)

【HR】 小春日和

 暖かく爽やかな日曜日だった。工作室に籠もっていたら、スバル氏が、どこかへパスカルを連れていきたい、と言うので、車で緑地公園へ出かける。緑地公園は、近所にいっぱいあるのだ。全部、緑地公園あるいは森林公園と呼んでいるので、「ほらあそこの緑地公園」とか「このまえ行った森林公園」などと区別している。
 帰宅してから、庭の掃除をしながら、電車を走らせた。実際には、掃除をしながら電車は走らせられないので、掃除をして、それを一旦中止して、その合間に電車を走らせた、と書かないとアンフェアかもしれない。しかし、日記はいわゆる「地の文」ではないので、嘘を書いてもアンフェアではない、との解釈が一般的だろう。
 機関車製作部の最新レポートにも少し書いたが、30年まえに作られた古い模型のリストアをしている。どこかのモデラが自作したもので、フルスクラッチビルド(キットなどをまったく利用していない全自作のこと)でフリーデザインの機関車。レール幅45mmの線路を走るのだが、驚くべきことに、人間を乗せる専用車両があって、機関車はこれを引いて走る。モータは2つ。乾電池は10本。このほか、ライトが6つもあるし、小型掃除機まで付属している(意味がわからないが、線路上のゴミを吸ったのか、あるいはキーンという音をホイッスルに利用したのか、今となっては不明)。
 最初は動かなかったものの、この数日、電気配線をやり直して、直線線路の上で試運転をしたところ、ちゃんと人を引いて走った。スバル氏が見物にきたので、「どこのじいさんが作ったか知らないが、これは凄いよ」と説明した。「馬鹿じゃないの、その人」と言わんばかりの彼女の顔だった。しかし、どうして「じいさん」だと決めつけたのかは、我ながら疑問である。
 非常に緻密なデザインがされている。ボディやフレーム内にはほとんど隙間はなく、ギア、コネクタ、ウェイトなど、いろいろな部品がぎっしり。よほど、正確な設計図を描いたか、あるいは、幾つかの試作品があった上でここへ至ったのか、と知らない個人の技術力を想像する。
 どちらにしても、世界に1つしかないモデルである。作った人は亡くなったものと思われるが、作品は捨てられずに、骨董屋へ売られたわけだ。「誰かが価値を見出す」と考えたのだろう。それが巡り巡って、もう一度修理して動かしてみようという人間がお金を払って(何万円もした)手に入れる。それもこれもすべて、作品が持っていた力、すなわち、作り手が込めたエネルギィによるものであって、見る者が見れば「ただものではない」と感じる力の作用である。そういう作品を作ることが、人間の目的ではないだろうか、とさえ思える。
 夜もこのレストアの没頭していた。ボディも再塗装することにした。
 写真は、デッキを走る庭園鉄道に乗りながら撮ったもの。ずいぶん葉っぱが減ったので、遠くまで見えるようになってきた。

【理科】 真空

 地球上であれば、なにもないところでも、空気がある(ナ・バ・テア)。これは、地球に空気が(引力で)吸い寄せられているから。地球から離れると、空気は少なくなり、真空に近づく。たとえば、月面は真空だ。
 よく、宇宙は無重力だ、宇宙は真空だ、というが、そう聞くと、地球は宇宙ではないのか、と問いたくなる。それはさておき……。
 真空というのは、なにかもの凄い力を持っているかのように考えられているふしがある。それはたぶん勘違いで、特に力を持っているわけではない。
 真空パックというものがあって、袋に食べものや布団などを入れて、中の空気を抜く。すると、袋がぴったりと中のものに吸いつくか、あるいは小さく縮めてしまう。しかし、これは真空が吸いつけているのではなく、周囲の空気(大気)が押さえつけているだけのことで、単なる圧力差だ。たとえば、真空パックされたものをそのまま月面まで持っていくと、あんなに袋がぴったりくっつかなくなるし、布団ももとの大きさに戻ってしまうだろう。
 月面で、コップに入れた水をストローでいくら吸っても、飲むことはできない。水は上がってこない。あたかも、真空がものを吸引する力があるように見えるのは、大気圧の中にいるときにだけ観察される錯覚である。
 真空飛び膝蹴りという技があったが、真空にはまったく関係がなかった。月面宙返りの方がまだ多少関連がイメージしやすい。


2005年11月26日(土曜日)

【HR】 階段パスカル

 昨夜は、レンガ積みをしたせいか早く眠ってしまった。毎日、だいたい7時間は寝ている。忙しいときでも6時間は寝ている(徹夜をすることなんてない)。
 今日は朝から天気も良く、快調。固まった花壇のレンガも確かめる。うん、なかなかの出来。コンクリートの研究を長年してきたが、このように自分の技が直接家族の役に立ったのは初めてだし、喜ばしいことである。
 お昼頃、パスカルを連れて車で公園へ。今日もリードで歩く練習。今回は、階段に初挑戦した。パスカルは今のところ、家の階段も上れない(能力的には明らかに上れるはずだが)。今日は石の階段で人間でも歩きにくいところだったが、簡単にクリアした。

 昨夜だったか、パスカルをだっこして体重を測った。「あ、太ったかな」と思ったが、そのあと自分の体重を測って引き算したら、太ったのはパスカルの方で、なんと7.3kgもあった。6kgくらいだと思っていたのに。1カ月まえにも、スバル氏がだっこして体重計に乗って、悲鳴を上げていたが、そのときは5.5kgだった。4kgくらいだと予想していたので、彼女が驚いたわけだ。
 獣医さんのところで、8月末にフィラリアのワクチンをもらった。最初に出してくれたのが、体重が5.5kgまで使える薬だった。当時パスカルは3.7kgだったから、11月に5.5kgになるかな……、「もし万が一なったときは、こっちの錠剤を」と別の薬ももらった。もらっておいて良かった。
 しかし、すっかり大きくなった。
 紅葉が綺麗で、写真を撮ったけれど、こういうのは、誰でも目を向けるものだから、あまり価値はないなあ、と思いながらいやいや撮った感じが出ているだろうか。今年は昨年よりも寒いから、色は綺麗みたいだ。香嵐渓とか今日あたり混んでいるだろう。そういう混んでいるところへ行く人は、自然と同じくらい善良だと思う。嫌みではない。

【国語】 重複

 これも何度も書いている。誰もが使うので、話し言葉ならば、ほとんど違和感がなくなってしまった。しかし、文章に書くと明らかな重複で、少し恥ずかしい思いをすることになるから、気をつけた方が良いだろう。
 多いのは、「まだ未定です」とか、「まだ未完成です」だ。これは本当に多い。テレビのアナウンサでも使っているのを何度も聞いた。
 「あらかじめ予約する」とか、「あらかじめ予定に入れておく」など。同様のものでは、「あらためて改善する」などがある。「あらたな新作」くらい変だが。
 書いた文章でも散見されるものに、「古来より」と「従来より」がある。もう、これが普通か、と思えるほど、沢山の人が間違えている。「古来より伝わる」などが間違った使用例。「従来から存在した」のように「から」をつけるのも重複になる。
 「もっとも最重要な問題」とか、「ふたたび再現した」とか、「最後の結末」とか。
 「今、書き下ろしを執筆中です」というのも、変だと思うが、「書き下ろしています」も大根をすっているみたいで気持ち悪い。


2005年11月25日(金曜日)

【HR】 手頃な課題

 午前中は車で一人出かける。帰りにホームセンタに寄って、急に思いついてセメントを購入。午後一番で、スバル氏の花壇のレンガをモルタルで固定した。彼女は並べただけで完成と認識していたようだが、どうにも落ち着かない雰囲気だったので、いつかモルタルで固めようと考えていた。
 身の回りには、数々の課題が山積している。誰でも、同じだと思う。課題がない人なんていないはずだ。重要なものから、どうでも良いものまで、また、達成が困難なものから、やればすぐにできる簡単なものまで、いろいろなレベルで取り揃っているのが普通である。
 毎日、「さて、今日は何をしようか」と自分で仕事が選べる人は、大変な幸せ者である。自由とは、結局そんなものだろう。なかなかそういった立場に立つことは難しい。だいたいの場合、自分ではない人間から「これをしろ」「はやくやれ」と指示あるいは命令される。せかされる。そこで、しかたなくやるのだ。
 ところが、自発的にやる場合も、なんらかの圧力を受けてしぶしぶやる場合も、最も重要な課題に即座に取り組むようなことはまずない。普通は、手頃な課題をさきに消化する。「今日はひとまず、これを片づけよう」という気持ちである。そちらの方が、簡単にできるからだ。少なくとも、なにもしないよりは、仕事をした、問題が多少は解決した、前進した、という達成感が得られるし、また、自分に圧力をかけている人間に対しても、ある程度は良い顔ができる。
 世の中を見回すと、このように「最重要ではないものの簡単にできるとりあえずの仕事」の成果と思われるもので溢れている。ベストが尽くされたものは滅多になく、おおかたはベターへ逃れた結果に見受けられる。個人の仕事に限らない。公共事業でさえ同様の傾向がある。一番大切な問題は、各方面のしがらみがあって、実現に時間がかかる。最も望まれているものは、ちっとも出来上がらない。
 社会に対しても、自分に対しても、人間は常にこう呟く生きものといえる。「もっとやるべきことがあるだろうに……」
 今日の花壇の左官仕事は、これは今の僕の最重要課題ではないな、と感じながらやった。でも、楽しかったし……。

【算数】 2乗や3乗

 普段、身の回りのもので、2乗、3乗しなければならない数は滅多にない。経理や家計簿などにも出てこないだろう。例外的に、正方形や円の面積、あるいは立方体や球の体積を求める場合に用いられるけれど、しかし、正方形や円の面積や立方体や球の体積を普段求める機会などまずない。たとえば、正方形の玄関に色を塗る、立方体の水槽に水を入れる、といった場合に計算が必要だが、しかし、普通の人は計算なんかせずに、いきなり塗ったり、水を入れる。理系の人間だったら、計算するかもしれないが。
 ところが、2乗に比例している物理現象は、意外に沢山ある。だから、機械や建築の設計をしようとすると、数を2乗、あるいは3乗することは珍しくない。
 照度は距離の2乗に反比例しているから、スタンドを倍の距離へ離すと、明るさは4分の1になる。遠心力は速度の2乗に比例しているから、スピードが2倍になると、4倍の力が作用する。鉄板を2枚重ねても、曲げの強度は2倍になるだけだが、2枚を接着して厚みが2倍の板にすると、曲げ強度は3乗の8倍になる。
 4乗になると、かなり珍しくなるし、5乗はもう滅多にない。


2005年11月24日(木曜日)

【HR】 子供と子犬

 またまた晴天。少し風が冷たいけれど。午前中はスバル氏が出かけたので、パスカルと留守番。といっても、ずっと庭で掃除をしたり、工作をしたり。
 午後、中公のM松氏、N倉氏、W辺氏が来宅。スカイ・クロラシリーズの今後のことで打合せ。
 3時頃、よしもとばななさんが来宅。ご主人とご子息もご一緒。名古屋駅でレンタカーを借りて、ご主人の運転でいらっしゃった。天気が良かったので、まずは庭園鉄道にご乗車いただいた。ダントツで沢山乗ったのは、もちろんご子息。そのあと、スバル氏が作った味噌おでんなどを食べながら歓談。
 よしもとさんのご子息は2歳半。8月に東京で開催された国際鉄道模型コンベンションでお会いしたときは、ほとんどしゃべらなかったのだが、今回はもうしゃべりっぱなしくらい言葉がつぎつぎに出てくる。このまえは、メルセデスにぞっこんだったが、今はウルトラセブンみたいだった。片手を真っ直ぐ上げて、何度か変身を試みていた。もう少し修行しなくては。
 パスカルはうちへ来てからは、子供と接する機会がなかったので、もの凄く不思議そうだった。ずっとついて歩いていたが、しかし、ちょっかいを出すわけでもなく、どちらかというと、目を反らしている。明らかに気にはなっているのに、知らんぷりをしているみたいな感じ。自分のおもちゃを取られても、取り返そうとしないし、いつもよりも大人しいのである。自分の方がお兄さんだと思って我慢していたのかもしれない。
 犬を飼うときに、家族に子供がいる家の方が犬が優しくなると聞いたことがあるが、本能的に幼い子の面倒を見ようとするためだろうか。日頃は自分が甘える側なのに、それ以上に甘える子供を見ると、急にものわかりの良い大人になるようだ。
 ちなみに、よしもとばななさんは、蒸気機関車の絵のオレンジのスカートだった。ちなみに、メルセデスというのは、ベンツの上得意先の娘の名前である。ちなみに、味噌おでんのほかに、味噌串カツ、手羽先、カレーパン、天むす、チーズケーキなどを食べた。
 写真はお昼頃のガレージ。

【社会】 博物館の展示物

 イギリスやフランスの博物館へ行くと、その博物館の所有物として、ヨーロッパ以外の文明の発掘品が沢山展示されている。ミイラや宝石や彫刻、とにかく圧倒される量だ。しかし、当然ながら違和感がある。何故、これらの品々はそれが出土した国で展示されていないのか。
 もちろん、かつてはイギリス領、フランス領だった場所かもしれない。戦利品かもしれない。正式に購入された物品かもしれない。単に展示しているだけで、ちゃんとした契約が結ばれているのかもしれない。だがしかし、普通に見て、それは不自然なのである。
 戦争に勝って、これらを持ち帰った、というのも一つの歴史である、との主張ももちろん聞いたことがある。しかしそれでも、不自然は不自然である。
 たとえ、イギリスやフランスが所有しているものでも、それがもともとあった国で展示されるのが自然だ。大国ならば、無償で貸し出せば良いのではないか。アカデミズムならば、そう考える。少なくとも、展示を見るたびに、返してやれよ、と呟きたくなる。
 歴史的な価値とは、その物体にあるのではない。物体から引き出される情報にある。物体がどこにあっても、物体を誰が所有していても、情報は世界中のものである。
 その土地にできれば近い場所に保管されるのが自然だ、という感覚は非常識だろうか。


2005年11月23日(水曜日)

【HR】 遊んでばかり

 朝は寒いが、落ち葉の掃除をしているうちに上着を脱ぎたくなる。日差しが暖かいせい。パスカルは黒いからもっとぽかぽか。
 庭園鉄道は、普通は自分が乗って運転を楽しむのだが、鉄道だから線路があるわけで、運転手がいなくてもずっと線路の上を走り続けることができる。こういうのを、きっと「線路がずっと敷かれている」と形容するのだろう。自動的なのだ。だから、勝手に走らせておいて、自分は暖かいところで椅子に座って、パスカルを裏返しにだっこしつつ眺める、といった楽しみ方もできる。風情があるというか、趣があるというか、まあのんびりしていてグッドである。ただ、自分の庭だからできるわけで、近所の子供がいたりしたら危険だ(パスカルがではなく、鉄道が)。
 5分ほどで家の周囲をぐるりと回ってくる。スピード調節ができないので、下りは早く、上りは遅い。脱線しないよう、下りに合わせて設定しておくと、上りがまどろっこしい。
 ここで思い出したが、名古屋を走る中央線は、名古屋行きが上りだ。しかし、東京へ通じているはずで、どこかから、東京行きが上りになるわけだ。昔からそうだったかな。
 話を戻す。1台だけだが、ラジコンで動く車両を作った。これは、乗っていなくてもスピードのコントロールができて、ちょっとした成功だった。客観的な視点で眺めつつ運転ができるので、まるで、鉄道模型みたいである(まぎれもない鉄道模型だが<エンタテインメントなので書いた)。
 欠伸軽便鉄道弁天ヶ丘線のレポートを読んでいる方はご存じだと思うが、この車両は、ccdカメラを搭載していて、映像を電波で発信する。それを受信してテレビで見ることができるので、室内にいても運転が楽しめる。ccdカメラは、サーボモータで左右に動かせるようになっているから、見たい方へ向けることもできる。
 インターネットを利用すると、世界のどこからでも、この機関車を運転して、うちの庭を散策することが可能だろう。そういうシステムを作ってみようか、という発想でこれをデザインしたが、残念ながら、今のところ実現していない。けっこう(自分でやると)面倒な問題がある。もう数年かかることだろう。まあ、そのうちに。
 今日は、公園でゴム動力の飛行機も飛ばして遊んだ。それから、骨董品店から買った30年まえの古い模型を分解して、油をさし、モータを回してみた。面白そうなのでレストアすることに決めた。わくわくする。そんなわけで、遊んでばかりだ。
 ドライブもしたかったのだが、あっという間に日が暮れてしまった。遊びに熱中していると、日が暮れやすい傾向にある。ドライブはまた今度。

【理科】 建築の構造

 日本の住宅は、構造の種別で、木造と鉄骨造と鉄筋コンクリート(RC)造の3種類に分かれる(大規模なビルの場合は鉄骨鉄筋コンクリート造が加わる)。ようするに、構造材料は、木か鉄かコンクリート。この3つしかない。例外的に、アルミなどの非鉄金属、あるいは、レンガや石、それに竹などがあるものの、もの凄くマイナなので、無視できる程度。
 さて、特徴をいくつか紹介すると、木と鉄は火に弱い。鉄は火に強いと思っている人がいるが、実際には400度くらいで強度が半減するため、事実上、木造と同じくらい弱いと考えて良い。だから、耐火被覆が重要になる。RC造だけが火事に強い。事務所ビルが鉄骨で造られるのに、人が住むマンションなどがRC造なのは、主としてこの優れた耐火性と、もう一つは、重いせいで音が響かないという利点からだといわれている。
 鉄骨造は、工期が短い、大きな空間が作り出せる、といった特徴がある。木造は、改築が容易だ、という利点がある。値段は、グレード(あるいはデザイン)によるが、小規模なものは木造が有利で、少し大きくなるとあまり変わらない。
 耐久性も、それぞれに工夫をして上げることが可能なので、大差はないが、木は虫害や腐朽、鉄は錆、そしてRCも内部の鉄筋の錆が耐久性に影響する支配的要因となる。
 また、耐震性も、いずれも充分に上げることができるので、大差はない。
 今現在、僕は木造の家に住んでいるが、構造はまあどれでも良いと思う。「木が暖かみがある」なんて全然思わないし、健康に良いとも思わない。そういうことは、建築の構造とは無縁である。どうしても木が必要だという人は、室内の表面だけ仕上げ材として木を貼れば良い。それだけのことだ。


2005年11月22日(火曜日)

【HR】 月刊雑誌フリーク

 今日も晴れ。雨っていつ降った?という感じ。朝からずっと出かけていた。文系学部から非常勤を依頼されたが、何を話せば良いのか、方法論みたいなものがないだけに、とても困る。しかし、興味はあるところなので、引き受けても良いかも、と思案中。
 書店に寄って、本を沢山買った。僕の場合、月刊誌を月に20〜30冊は購入する。もう立派な雑誌フリークである。月刊誌でないものもある。隔月で出るものや、季刊のもの、あるいは、月刊誌の別冊なども含まれる。ただし、週刊誌は買ったことがない。
 たとえば、鉄道模型は3誌あって、全部買う。ところが、「鉄道ファン」とかの実物の鉄道の雑誌は買ったことがない。自動車は模型も実車も両方コンスタントに買う。ラジコン飛行機は模型雑誌が2冊あってどちらも買う。プラモデルはときどき。実機の雑誌は1年に2回くらい買うだろうか。「子供の科学」は毎月買うが、そのほかの科学雑誌もときどき買っている。建築の雑誌は1年に1度買うか買わないか。木工などの工作関連の雑誌は買う。電子技術やコンピュータの雑誌もときどき。
 こうしてみると、毎月欠かさず、という雑誌は10冊に満たない。あとは、ぱらぱらと中を見て、面白そうな図や写真を見つけたら買う。文章を立ち読みすることはない。あらゆる分野のものを買う。デザイン、ファッション、映画、ゲーム、園芸、ペット、芸術、カメラ、グッズ、あるいは一般紙も。
 小説の雑誌は10種類くらいが送られてくるから家に溜まる。でも読むことはない。自分で買ったことは過去3回くらいならある。
 さらに、洋雑誌を20冊近く買う。これはすべて模型関係だ。これらをすべて含めると、1カ月で40〜50冊になるだろうか。
 単行本や文庫は読んだら捨てる(読めないので捨てられないけれど)が、雑誌のうち半数は捨てない。特に模型関係の雑誌はもの凄い量になっているし、ときどき新しい雑誌が気に入ると、バックナンバをすべて注文したりする。ほとんどは、まえの家に蓄積されている。
 毎晩、洋雑誌を1冊手にしてベッドに入る。それを読んでいるうちに眠くなる、という習慣。1年で365冊しか読めない。
 ちなみに、電化製品の中では、掃除機に愛着がある(どうちなんでいるんだ?)。掃除機を何台も買ってしまう。掃除機だけは好みのものが欲しい。スバル氏ではなく僕が選んで買う。書斎(ガレージ)にも4台専用の掃除機がある。掃除機フリークについては、またいずれ。
 写真は、道路脇にある壁。コンクリートにH型鋼の柱をとめて、その上に防音壁を立ち上げている。H型鋼にはブレース(斜め材)も入っている。ちょっと不思議な構造である(普通の方には何が不思議なのかわからないと思うけれど)。

【国語】 漢文

 国語は大嫌いだったが、そんななかでは、漢文が好きだったし、古文もまあまあ嫌いではなかった。漢文は、まず書いてあることが面白い。それに、それを日本語にして読むと、なんとなくリズミカルで格好が良い。ようするに、漢文とはいっても、古い日本語の言い回しが面白いわけである。なにしろ、音読みにして中国の発音を習うことは一度もなかったのだから。
 漢文を読んでいると、やはり文学とは詩なのだな、と感じる。中国では明らかに詩が文学の最高峰だったのではないか。詩が詠める才能が高く評価されていたことは確かだ。それに比べると、物語を作ることなんて誰にでもできる。文字が書ければ、それを記述することも容易い。このあたりが「小説」が「小」なる所以だろう。
 これは、日本でも昔は同様で、男子たるものが書く文章といえば、それは漢文であり、嗜みで詠うべきものは歌であった。物語など、書くほどのものではない。婦女子が趣味でこっそり書くもの、楽器とともに語る芸のひとつくらい、の感じだったみたいだ。芸自体が、卑しいものと考えられていたかもしれない。
 現在の日本語の文章は、話し言葉とほとんど一致していて、本当に誰にでも書ける。日本語ほど小説が書きやすい言語はないのではないだろうか(比較対象は英語のみなのでわからないが)。「日本語は難しい」なんて聞くが、とんでもない。英語で小説を書ける才能は、英語がネイティブでも滅多にいない。たぶん、日本の方が100倍は作家になりやすいだろう。


2005年11月21日(月曜日)

【HR】 公園デビュー

 秋晴れ。風もなく暖かそう。でも朝はかなり冷え込んでいた。
 8時過ぎにスバル氏とパスカルを乗せて車で5分ほどの緑地公園へ。リードをつけて、知らない場所を歩くのは初めて。しかし、尻尾も上がっているし、なかなか楽しそうだった。静かだから良かったようだ。自動車の音や、工事の音がすると怖がって家に入りたいと言いだす。
 途中で猫には二匹遭遇したが、犬は近くにはいなかった。すれ違う人間が自分に寄ってこないので、不思議そうだった。自分が先頭になっては歩かない。人が歩くとついてくる、という感じ。10分ほど歩いた。

 帰宅するとまず家の中へ飛び込んでいき、トイレへ直行。それからまた外に出て、庭で走り回っていた。明らかに自分の庭の方が楽しそう。
 疲れたのかパスカルが寝たので、留守番をさせて、スバル氏とスーパへ。大きなタッパを4つ買った。これは模型のため、それから、運動靴を一度に3足も買った。ときどき、こういうまとめ買いをしてしまう。スリッパも冬用のものを500円で買った。家に帰ってからパスカルにそのスリッパを見せたら、突進してきて、いきなり戦闘態勢である。特に歩くと、必ず横から襲ってくる。2匹いるのが気に入らないのかもしれない。それにしても、内弁慶である。

 夕方は、2時間ほど、庭でペンキ塗りをした。刷毛で塗るだけの作業だが、いろいろな体勢になるので、けっこう疲れる、というか良い運動になる。ペンキ塗りは大好きだ。塗ったのは、庭園鉄道の橋の手摺り。ガレージや母屋の色が変わったから、以前に塗った正門の鋼鉄製のゲートも塗り替えても良いな、と思い至る。今はチョコレート色だが。
 ペンキは水性のものが最近は増えて、これがとても便利。今回特に、錆止めを兼ねたもので、下塗りも上塗りも兼用だった。においはほとんどしないし、刷毛は水で洗える。もちろん、一度乾燥したら、水には溶けない。それでも、油性の塗料がまだあるということは、そちらの方が優れている面があるわけだ。模型の塗料も油性の方がきめが細かく、仕上がりが綺麗なので、ここぞというときは、油性を使う。

【算数】 比例

 「この割合でいくと……」という予想をすることが日常には多い。たとえば、ある作業をしていて、2時間で50個を完成させることができた。すると8時間ではどれだけか……。計算式は、50÷2×8=200 となり、200個が完成すると予想できる。50を2で割って、1時間当たりの個数を求め、それに8時間をかける、と考えても良いし、8時間は2時間の何倍か、を求めてから、個数にその倍率をかけても良い。順序が違うが、式は同じになる。
 空の月にめがけて腕をいっぱいに伸ばし、その手に持った定規で月の大きさを測ってみよう。どれくらいの大きさか?
 腕の長さが人によって違うが、だいたい4〜5mmくらいに見えるだろう。意外に小さいものである。5円玉の穴くらいの大きさ、とよく言われる。5円玉を手に持って、腕を伸ばしてみると、月も太陽もだいたい穴にちょうど入る。夕方の太陽とか満月とかが異様に大きく感じられることがあるけれど、客観的に測定すれば、これくらいの大きさである。
 ところで、月は地球の4分の1の大きさだ。地球が直径12000kmくらいなので、月は3000kmくらい。この数字から、月までの距離を概算すると、3000000(月の直径)÷0.004(5円玉の穴の直径)×0.5(腕の長さ)=375000000となって、だいたい37万kmくらいだとわかる。


2005年11月20日(日曜日)

【HR】 ドライブ

 久しぶりに青の6号を出動させた。2カ月ほど乗れなかったので、バッテリィが危なそうだったため、まる一日かけて充電しておいた。息子を大曽根駅まで送ってから、あとは一人で郊外へ。やっぱり走るとこれが良いな、と感じる。なんというのか、固有周期がぴんと来るフィーリング。
 近頃の車は、とても便利になっている。たとえば、鍵穴に入れなくてもロックしたり解除したりできる。シートのレイアウトが変更できて、荷物を積んだり、人を沢山乗せたりできる。ああ、つまりモビリオのことだ。ホームセンタへ行くのにこんな便利なものはない。
 僕が車に乗り始めた頃は、まだカークーラがそれほど一般的ではなかった。ウィンドウは手動だった。ラジアルタイヤもオプションだったし、間欠ワイパも珍しかった。しかも、燃費は悪いし、音もうるさかった。どんどん、車がコンビニエンスでエコノミィになっていることは確かだと思う。
 ポルシェだって、今はパワーウィンドウだ。エアコンだってちゃんとある。根っからのポルシェ・フリークは、「ポルシェにパワーウィンドウがどうして必要なんだ?」と言う。そのとおり。しかし、料金所でお金を払うとき困るじゃないか。でも、今はETCがあるからね。いや、大学のゲートはETCでは開かないのだ。などなど、いろいろな声が聞こえてくる。
 馬力がどうとか、加速がどうとか、そういう問題でもない。そんなものを確かめるために乗っているのではない。競争をするわけでもない。できれば、誰もいないところで、ただひたひたと走りたい。そう感じることがドライブの魅力だし、つまりはスポーツカーだと僕は考えている。走ったら気持ちが良い、というだけの非常にシンプルな性能なのだ。たぶん、乗馬がこんなふうだろう。ジョギングも似ている。山登りも近いと思う。
 道は真っ直ぐじゃない方が良いし、アップダウンがあった方が面白い。前後や左右にほかの車はいない方が良い。できれば、誰にも見てほしくない。
 僕は車を洗わない。買ってから一度も洗車をしていない。外から見られることは、内側にいる僕には無関係だし、乗り心地にも影響がないからである。

【社会】 消費税

 もう10年以上言い(書き)続けていることだが、ここが森博嗣の最初だという人が半分くらいいるようなので、改めて書く。
 僕は、消費税というシステムに賛成だ。当初から、これは合理的な税制だと思えたので、早く導入してほしかったし、3%や5%では少なすぎると考えている。10%でもまだ少ないと思う。
 ただ、すべての品物に対して一律の税率にすることはどうかと思う。基本的な生活に必要なものは安く(0%でも良い)、そうでないものは高くすべきだ(たとえば、高級な自動車、宝石、ブランド品、旅行関係などは、50%以上かけても良いだろう)。
 つぎに言いたいのは、消費税を含めた値段でものを売った人(店)などから、税務署はちゃんとそれを回収してもらいたい、ということ。過去には、年間売り上げが3000万円以下の場合は回収されていなかった。つまり、消費税分はその人(店)の儲けになっていたにすぎない(おそらく、消費税導入のための方便だったのだろうが)。
 消費税に賛成だ、と書くと、「いやそれよりも、税金の無駄遣いをやめさせるべきだ」と反論する人が多い。税金の無駄遣いはもちろん良くない。しかし、どんな税制が適当かという話をしているのであって、税金がどう使われるかを議論しているのではない。消費税を上げるならば、所得税を減らすべきだ、という論理は正しいと思う。所得税というシステムに不合理さがあるからだ。
 「消費税は収入のない子供や老人からも税金を取る悪いシステムだ」と反論する人も多い。収入のない子供や老人はなにも買わないから、消費税を払うことはない。もし、なにかを買うのだとすれば、その子供や老人にお金を与えた人がいるわけであり、その人が消費税を支払うだけのこと。
 「所得がなければ税金は払わなくて良い」という考えから、なんでも経費でどんどん落とし、無駄遣いをしてまで所得を減らす会社や商売が多い(全部だといっても良い)。これはもう当然というか、常識になっている。さらに、あの手この手で所得を誤魔化して、税金逃れをしているところは少なくない。そんな不明確な所得に対して税をかけるよりも、使ったときに税金を払うというシステムは、少なくとも簡単で明確である。


2005年11月19日(土曜日)

【HR】 原稿料と解説

 風の強い土曜日。午前中はスバル氏とスーパとホームセンタへ。スーパとホームセンタが一緒になっている超大型店が郊外にあって、どこも客が意外に入っている。1000台くらい駐まれる駐車場がいっぱい。車を誘導するおじさん(おじいさん?)が赤い棒を持って、あっちへ行け、こっちへ行けと一所懸命なのだが、「そのまえに貴方が邪魔です」と言いたいことが多い。おそらく、近所の隠居老人が休日だけ働いているのだろう。地域貢献の形か。
 昨日の続きで、原稿料のことを書こう。メールで質問してくる人がわりと多く、きっと、作家志望、ライタ志望の方だろう。
 原稿料の規準は、400字詰め原稿用紙の枚数で、小説雑誌では、1枚だいたい4000円〜7000円くらい。小説以外の週刊誌、月刊誌などでは、10000円やそれ以上のところもある。新聞はさらに高い。これは、イラストや漫画に比較すると、かなり高いと思われるが、それだけ文章の価値が認められている証拠だろうか。
 漫画でも、1枚は10000〜20000円だと聞いている。漫画の1枚は、文章の20倍は時間がかかるだろう。しかもアシスタントも必要で、漫画の場合は原稿料だけでは、ほとんど黒字にならないそうだ。
 漫画は、しかし、部数が多いだろう、というのも、かなり過去の話であって、この頃は厳しいようだ。なにしろ、1冊の単価が安いので、同じパーセントの印税でも、小説の単行本の4分の1くらいになってしまう。
 原稿用紙で500枚の小説作品を雑誌に連載すれば、トータルで250万円ほどの原稿料になる。それが本になって出版されれば、印刷とほぼ同時に印税がもらえる。1冊も売れなくてももらえる。また、人気が出て沢山売れれば重版になり、そのつどまた印税が支払われる。ノベルスになったり、文庫になったり、形態が変わって出版されれば、本代×部数×0.1の印税がもらえる。
 こうして書くと、非常に良い商売みたいに思えるが、そんなに簡単だったら、みんなやっているだろうから、どこかに難しさがあるのだと思う。それをこれから発見していきたい。
 11月はもう1冊文庫が出るのをすっかり忘れていた。中公文庫で『ナ・バ・テア』である。単行本が昨年だったから、普通よりも文庫化が早い。大変シンプルなデザインで洒落ている。それよりもなによりも、今回の解説がよしもとばななさんだ。
 文庫には解説なるものがつく。今まで、僕は自分の本の解説を同業者である小説家にお願いすることを極力避けてきた。例外として、筒井康隆氏、島田荘司氏、綿矢りさ氏他数名がいるけれど、大部分は別の分野の方である。また、書評家と呼ばれる方にお願いすることもできるかぎり避けてきた。その理由は、小説家や書評家の書く解説は、文字どおりの解説で、すなわち作品が作られた裏舞台を分析する傾向にあるからだ。これは、作品世界に浸った直後の読者が読むのに相応しいとは思えない、とかつて読者だった僕自身が感じていたためである。
 しかし、それでも、筒井氏や島田氏や綿矢氏の分析の深さと鋭さは、それ自体が創造的な領域だったし、また、今回のよしもと氏の文章は、そんななかでも本当に凄いと思った。何が凄いのかというと、やはり「文章の力」である。彼女の作品を読むたびに圧倒されるものだ。難しい単語や言い回しをまったく使わずに、これだけの力を発揮できる書き手はまずいないだろう。英語に訳しても、力は衰えないにちがいない。だからこそ、世界中で読まれているのだとわかる。
 というわけで、これは幸運な本になった。

【理科】 鉄と炭素

 親父からもらった日本刀(鑑定書によれば、室町時代末期のものらしい)を昨日、戦国マニアとして名高い講談社のK木氏に見せた。僕自身は、それを抜くのは20年ぶりくらいだった。錆びているのではないかと想像していたが、曇りもなく錆もなく綺麗だ。刀は古いものほど錆びない、といわれているが、それは、錆びないから今まで残っている、という意味でもある。
 鉄の強度は、炭素の含有量によって大きく左右される。製鉄の過程で、炭素量をコントロールする。炭素量を増やせば、高強度の鋼になるが、しかし高強度なものほど脆く、欠けやすくなる。つまり、ガラスみたいなもので、硬いが割れやすい性質になる(ちなみにガラスは鉄よりも硬い)。逆に、炭素量を減らすと、強度は低いが軟らかく粘り強い鋼になる。
 日本刀は、一本の刃の中で、周囲と芯に異なる鉄を用い、硬いけれどしなやかな性状を求めようとした、いわばハイブリッド構造だ。炭火にかざして叩く工程で、炭素が含まれ、経験的に強度をコントロールする技術が生まれたものと思われる。
 建物などで用いられる鋼材のほとんどは、炭素の含有量が低く、軟らかい鉄(文字通り軟鋼という)である。加工性が良く(とくに溶接ができる)、また変形したとき、破断するまでに沢山伸びるのが軟鋼の特徴。


2005年11月18日(金曜日)

【HR】 700万部突破記念パーティ

 昨夜は消えたデジカメのことで頭がいっぱいだった。その後も、自分の行動を思い出して、ずっと考えていた。寝る直前、歯を磨いているときも、考えていた。電車を運転しているときのこと。そのときの自分の姿勢。すると、走っているとき、一度後ろを振り返った映像が頭の中で再生された。何故振り返ったのか……、と疑問に思うと、急に、キンとほんの小さな音を聞いたことを思い出した。そのときは、レールのつなぎ目が軋んだのか、あるいは、車両の連結器の音か、と思ったようだ。あとで調べてみよう、と考えたかもしれない。
 そこで、そのキンという音を聞いたあたりへ、懐中電灯を持って探しにいった。夜の1時頃である。線路は高架の部分で、その付近の草をすべて掻き分けて探した。そして、まさにその場所で草の中深くまで入り込んでいたデジカメを発見したのだ。
 そうか、探すということは、歩き回るだけではない、思い出すことなのだ、と再認識。すなわち、見つからないものは、必ず頭の中にある。このように、最後は記憶の中を探して発見した経験が、これまでに5回ほどある。それなら、最初から考えれば良いではないか、とは思うのだが、簡単には思い出してくれない。特に今回は、音の記憶だった点が、時間がかかった原因だ。視覚の記憶に頼っているためである。
 そういうわけで、今日は朝から、デジカメを探さなくても良くなって、とても晴れ晴れとした気持ちで、庭の掃除をした。スバル氏から頼まれて、ダンボール箱を10個くらい解体して燃えるゴミも出した。鉄道の整備もできた。

 花がいくつか届いた。チョコレートも届いた。それから、お昼頃には蝶ネクタイの人が来て、料理が沢山運び込まれた。お酒は2日まえに清洲から酒屋さんが持ってきてくれた。
 午後、次々にお客さんがやってきて、パーティが始まる。これは、700万部突破記念パーティで、集まったのは、各社の森博嗣担当者。つまり、本を作った当事者だ。25人が出席したので、スリッパの数だけでも凄い。玄関は靴でいっぱいになった。パスカルは大喜び。

 700万部というのは、デビューしたときは、はるか遠い数字だと思えた。まあ死ぬまでに400万部くらい出せたら良いな、と考えたことがある。ちなみに、現役の作家でも億の単位の部数を出版されている方もいる。凄い数字だ。
 本の値段の平均を1000円とすれば、70億円の売り上げがあったのか、というとそうともいえない。何故ならば、売れ残っている部数があるからだ。しかし、印税は売れる売れないに関わりなく出版後に10%が著者に支払われるので、7億円か、というとそうともいえない。何故なら、書き下ろしは印税率が12%であることが通例で、これよりも多くなる。また、書き下ろしでないものは、つまり雑誌で原稿料をもらっているのだから、これを加えるとさらに作家の儲けは多い。アシスタントもいないし、マネージャもいない。小説家はたった一人で稼ぐ、今どき珍しい職種である。
 料理もケーキもとても美味しかった。以前よりも良い。食べるだけのパーティで、スピーチも一切ないので、なにごともなく無事に終了。残った料理を目当てにしてか、息子と娘も遠路帰宅。しかし、それでも食べきれなかった。パスカルは家族が増えて大喜び。

【国語】 読書感想文とネタバレ

 読書感想文には、読んだ感想を書く。当たり前のことだ。しかし、本のあらすじを書く人が圧倒的に多い。どういうところが面白かったのかを書かなければわからないから、しかたがないように思えるけれど、それは、その読書感想文を読む人はその本を読んでいない人である、という前提で書かれているせいではないか。
 学校の課題であれば、先生に読んでもらう。先生はその本を読んでいないだろう、と想定して書く。だから、説明的になり、ついついあらすじを書いてしまう。既読の人に向けて書くならば、「ほら、後ろの方の、主人公があの人を見てびっくりした、あそこが、良かったよねぇ」で充分通じる話なのに。
 「書評」と称するものも、おおかたは未読の人を対象に書かれている。だから、あのようにあらすじを説明する内容になるのだろう。なかには、自分はこれを読んだ、という事実を証明したいだけなのでは、と思えるほど、長々とあらすじが書かれているものある。大半は明らかなネタバレだ。
 あらすじを知ってから、本を読んでみようという人がいるのだろう、たぶん。僕は、そういうことは絶対にないので、つまり書評は無縁である。人からすすめられて本を読むことはまずない。すすめられるほど読みたくなくなる。
 ところで、「以下、ネタバレがあるので未読の人は読まないように」などと書かれたものがネットに散見されるが、明らかにナンセンスだ。何故なら、未読と既読ではなく、知りたいか知りたくないかで読まれるかどうかが決まるわけだし、未読者の大半は知りたいから、当然読むだろう。もちろん、警告をしておけば文句が出ないので、被害はないと考えているかもしれない。しかし、作者に対しては大変な失礼(あるいは妨害)に当たるわけで、その配慮がないのは非常に問題といえる。


2005年11月17日(木曜日)

【HR】 消えたデジカメの謎

 午前中はガーデニングと工作。秋晴れで風は冷たいが日差しは暖かい。今日も鋼材を切って、溶接をした。塗装もした。
 午後、平井憲太郎氏が来宅された。彼は、江戸川乱歩の孫に当たる方で、小説雑誌などでも幾度か登場されているけれど、そんなことよりも、モデラとして、また写真家として、あるいは雑誌「とれいん」の編集長として有名な人物。はっきりいって、こちらの世界では、江戸川乱歩よりも知名度は高い。こちらの世界というのは、鉄道ファンの世界のことだが、もちろん、小説ファンの何倍もいるので、やはりメジャである。
 庭園鉄道の運転をしたり、写真を撮ったりしていかれた。帰るときは、隣の駅にいる凸型電気機関車を撮影していく、と話されていた。僕もときどき見にいくやつだ。
 彼を駅まで送っていってから、ふと気がつくと、デジカメがない。いつもポケットに入れているし、ついさきほど、平井氏が庭園鉄道の機関車を運転しているところも撮影したばかり。パスカルも撮った。そのデジカメがないのだ。やっぱりプリントしとかなきゃ、という話ではない。
 これはよくあることである。だいたいは、どこかに無意識に置いてしまった結果だ。しかし、今回はその後1時間探しても出てこなかった。自分の家の敷地内には必ずあるはずなのだが、見つからない。さらに1時間、庭にも範囲を広げて探したが見つからない。
 そうこうするうちに、講談社のK城氏が来宅。パーティの打合せなどをする。デジカメがないと話したら、「では、明日パーティの出席者全員で大捜索しましょう」「なにか懸賞をつけましょう」という提案があった。そうなるまえに見つけたいところだが……。
 自分が歩いたところを思い出して、幾度も見回ってみたがどこにもない。ここまで探して見つからないのは、かなり不思議。
 残された可能性は、どこかに落ちたところを、パスカルがくわえて持っていったか……。ストラップがついているから、紐の好きな彼はくわえるかもしれない。その場合は、家のどこか見えにくい場所にあるかもしれない。それとも、デッキで落としたら、木と木の隙間から下へ落ちた、という可能性もある。念のために、デッキの下もざっとは歩いてみたが発見できなかった。
 暗くなったあとも、懐中電灯を持ち出して、さらに探し続けたが、結局見つからず、本日の捜索を断念。明日また探すことになった。
 だから、今日は写真がありません。と思ったが、しかたがないので、パスカルがまだ小さい頃の写真で我慢して下さい(こっちの方が良いか)。写真はクリックすると大きく見られますよ。

【理科】 摩擦

 物体と物体が擦れ合うときの抵抗のこと。
 摩擦は、物体が触れ合っている面の面積とそこに働く圧力にほぼ比例している。この比例係数を摩擦係数と呼ぶ。通常、0.1〜0.3くらいではないだろうか。
 たとえば、体重が100kgの人がいて、足の裏の面積が500cm2だとすると、摩擦係数が0.2の床の上で彼を引きずるためには、どれだけ力が必要か。
 圧力は、100kg/500cm2=0.2kg/cm2になり、0.2(摩擦係数)×500cm2(面積)×0.2kg/cm2(圧力)=20kg(摩擦抵抗)と計算されるので、つまり、20kgの力があれば引きずることができる、とわかる。
 気づいた方もいると思うが、圧力を求めるときに面積で割り、そこへまた面積をかけている。結局、水平面であれば、接している面積には関係がなく、重さ×摩擦係数で求められることがわかる。ということは、足の裏の面積が大きくても小さくても、摩擦抵抗は同じだ、ということ。
 自動車の場合もこれと同じで、タイヤを太くしても細くしても、摩擦抵抗は同じ、つまりグリップは同じである。じゃあ、どうしてレーシングカーはあんな太いタイヤをはいているのか、考えてみましょう。


2005年11月16日(水曜日)

【HR】 乳母車

 秋晴れ。今日は、研究者の友人が午前中遊びにきたので、3時間ほどアカデミックな話をした。なかなか面白い内容だったが、役に立つ話ではない。午後は、庭師さんが来て、庭でポンプのフィルタを付けたり、落ち葉が排水槽に入らないように金網を取り付けてくれた。池の水も一旦全部入れ替えて掃除をした。夕方は、庭にバンドソーを持ち出し、鋼材をさくさく切断してから、溶接をした。屋外の工作は気持ちが良い。すべて含めて1時間くらい。溶接は自分でもだいぶ上手くなったと思う。200本入りの溶接棒がまだ半分くらいあるから、初心者ではある。
 スバル氏はパーティに備えて部屋の模様替えをしていた。主として、パスカルの寝床やトイレを移動した。犬の本によれば、トイレを移動すると犬が混乱して失敗をするので、毎日少しずつ移動せよ、とある。しかし予想どおり、スバル氏は隣の部屋まで一気に7m近く移動させた。しかし、パスカルはちゃんと理解したようで、問題なかった。
 そういえば、この頃、パスカルが庭で遊んでいると、近所の犬が挨拶していく。みんな友好的である。しかし、飼い主はかなりの確率で、「パステル君だよ」と間違った名前を教えている。
 乳母車を買った。まえからこのタイプを探していたのだが、ようやく見つかって購入。買ったあと、スバル氏に「もうすぐ乳母車が届くよ」と話したら、予想どおり彼女はパスカルを乗せようとすぐに発想したようだ。しかし、この乳母車は本ものではなく、人形を乗せて子供が遊ぶために作られたいわばおもちゃである(といっても、非常に精巧な作りなので値段は本ものと変わらない)。「いや、小さいからね、乗らないかもしれないよ」とは言っておいた。
 それでも、スバル氏はパスカルに「もうすぐ、ばぶばぶだよ」と話しかけていて、赤ちゃんが頭につけているひらひらの布(なんていうのだ、あれは?)とか、アメリカのアニメだと必ず赤ちゃんが口にくわえているゴム(ほ乳瓶の先みたいなの)とかを買ってこようとしていた(渾身の努力で思いとどまらせた)。
 現物が届いて、箱から出したら、「これなら乗る乗る」と彼女が言いだすので、パスカルをなんとか抱きかかえ、後ろ向きにお尻から入れようとしたけれど、彼も「お願いですから、もう勘弁して下さい」と切ない顔をするので、一緒にスバル氏を説得した結果、諦めることになった。もう1カ月早かったら乗っていたかもしれない。
 夜は、パスカルシャンプー。水やりのときは飛び込んでくるくせに、風呂場のシャワーは嫌いみたいだ。

【算数】 背理法

 Aであることを証明するために、「もしAでないならば」と仮定し、その結果もたらされる明らかな矛盾を示す。「したがって、最初の仮定が間違っている」と証明する手法。
 有名なものを2つ紹介する。まず、「素数は無限に存在する」の証明。
 もし、素数が無限に存在しない、つまり有限だと仮定すると、素数の中で最大の数があることになる。この数をPとする。今、P以下の素数すべてを乗じた数をMとして、これに1を加えたM+1という数を考えると、この数は、いずれの素数で割っても1余り、割り切れない。ということは、この数を割り切ることができるPよりも大きい素数が存在するか、あるいはそれが存在しないならば、M+1が素数であるか、のいずれかになるが、これはPが素数の最大値であることと矛盾する。したがって、素数は無限に存在する。
 「ルート2は有理数ではない」の証明
 有理数とは、分数で示すことができる数のことなので、もしルート2が有理数ならば、ルート2=a/bと書ける。この場合、a,bはともに公約数を持たない整数である。この式の両辺を2乗すると、2=a2/b2となり、2b2=a2が成り立つ。これは、a2が偶数であることを示している。2乗して偶数になるのは元の数aが偶数だからだ。つまり、a=2nと書ける。これを代入すると、2b2=(2n)2=4n2となり、両辺を2で割って、b2=2n2が得られる。これは、b2やbが偶数であることを示している。すなわちaもbも偶数だと証明できるが、両者が公約数を持たない整数であることと矛盾する。したがって、ルート2は分数で表示できない数である。
 最初に背理法を教えてもらったときは「なんか狡いな」と感じた。最初に背面飛びを見たときも「それはないだろ」と思ったが、どちらも正当な手法である。


2005年11月15日(火曜日)

【HR】 下手な運転

 3時間くらい庭で作業をした。掃除をしたり、線路の確認をしたり。朝は寒かったが、午後から暖かくなった。葉っぱがだいぶ落ちた。枝に残っている方が少ない樹が増えている。
 ラピタと日経パソのゲラを確認。1月の短編集のゲラを読み始めている。紙に書かれた文字を読むと目が疲れるような気がするのは、不慣れだからだろうか。角度の問題かもしれない。もともと遠視なので、老眼かどうかがわからない。視力はだいぶ落ちて、今は両眼とも1.5しかない。
 車の運転をしていて、最近思うこと。少し細い道などで右折する車がいるために、その後ろの車が前へ出られなくなって、渋滞することがある。右折車線があればこの問題は起きない。この20年間で右折車線がどんどん作られたから、それは評価できる。しかし、右折車線なんてものがなかった時代には、右折する車はできるだけ右に寄って、あるときはセンタラインを少し跨ぐくらい中央に寄って、後ろの直進車を通したものだ。なるべくみんなに迷惑をかけない、という優しさがあったと思う。それが、右折車線ができたことで失われたのだろうか。
 「自分は右折するのだから、しかたがない」と堂々と車線の真ん中でウィンカを出している車が増えた。もう少しだけ右に寄ってくれれば、みんなが通れるのに、と思うことが多い。おそらく後ろなど見ていないのだろう。そういう人にかぎって、馬鹿でかい車に乗っているものだ。
 もちろん、そんなことでいらいらする方もどうかしているだろう。別に待ってやれば良いではないか。そう、そのとおりだ。
 左折するのに、反対の右へハンドルを一旦切り、少し膨らんでから左へ曲がると、左後輪を歩道の角にぶつけないで済む。それを律儀に守る車も多い。そんなハンドル操作が不要なところでも右へ膨らむのだ。左へ曲がるときはまず右へ出る、という条件反射だろうか。対向車がびっくりしてブレーキを踏んでいるのにも気づいていない。そういう人にかぎって、馬鹿でかい車に乗っているし、細い脇道へ入ろうとする。
 もちろん、そんなことでいらいらする方がどうかしているだろう。良いではないか、事故がなければ。そう、そのとおりだ。
 結局、運転技術の問題ではない。そういう人は、歩いていても、あるいは生活していても、周りのことを気にせず、小さな迷惑をかけているのにちがいない。まあ、小さなことだし、悪気があるわけでもない。良いではないか。うん、そのとおりだろう。

【図工】 ペイントとドロー

 デッサンは苦手だった。自分はラインで絵を描く習慣だったので、明暗でものを見ていないことがわかった。中学のときの美術の先生が、プロの画家だったので、デッサンを上手に教えてくれて、以来、ものを明暗で捉えられるようになった。写真に興味を持ったのも、これがきっかけだと思う。つまり、明暗で捉えるならば、写真の方が良い、と自分なりに思ったからだ。カメラのメカニズムを見ればわかるが、実に簡単な処理で実現できる。
 逆に、線で描くということは、非常に高等な画像処理だ。通常は、色や明るさが変化する境界にラインを引くわけだが、実物ではそれほど劇的な変化ではない。もっと変化している部分に線を引かず、むしろ物体の存在や形状を頭脳が処理してから線を引いていることの方が多い。この画法は、歴史を見れば東洋的なセンスといえる。
 ペイントとドローは、いずれが人間にとって初歩だろう? コンピュータにも(特にMacには)最初から、ペイントとドローがあった。似ているが、相容れない技法といえる。ちなみに、僕は、ペイントは左手を、ドローは右手を使っている。動いている脳が別かもしれない。


2005年11月14日(月曜日)

【HR】 形を認識する

 曇り。研究関係で朝から出かけていた。モビリオが車検だったので、工場に出してから行く。2時頃に帰宅して、1時間ほど庭で遊んだ。午後は風もなく暖かかった。朝顔がまだ咲いているし、ときどき蚊も飛んでいる。
 夕方、小説の仕事を2時間ほどした。野性時代の連載の初回12000文字を仕上げて送る。最初は短編を10作書くつもりだったけれど、ネタを合わせて1つの話になりそうな予感がしたので、自分を信じて長編にした。3000文字くらい書いたときにこの変更をした。いつもそうだが、最初、3000文字くらいが1作の山で、ここまで来ればあとは下り。時間はかかるけれど悩むことは少ない。なんというのか、一番高いところで、見通せるようになる。といって、すべてが見えているわけでは全然ないが。ストーリィの形を一瞬で見る、に近い。
 先日の講演会で、「ストーリィの先はまったく考えていない」と言い、また「女王シリーズ3は日本が舞台で一番面白いだろう」と話したら、「考えていないと言いながら、舞台も決まっているじゃないか。面白いと何故わかる?」というメールをいただいた。しかし、このとおりなのだ。ほとんど何も考えていないが、ぼんやりとした雰囲気や、ぼんやりとした全体の形がある。その雰囲気や形に合うように、書きながら考える。たとえば、誰でも人の顔を認識する。しかし、それを絵に描くことはなかなかできない。雰囲気やぼんやりとした形は知っているのに、ディテールはまるで表現できない。描きながら、こうかな、いやちがうな、と考えるしかない。
 ここで話題が変わる。ものの形を人間の頭脳が認識する素早さといったらない。画像処理の高速チップ並みだと思う。一番顕著なのはやはり人の顔で、ぱっと見てそれが誰なのかを即座に認識できる、その処理の速さは驚異的だ。また、分解能というか、ほんの少し違っているだけで、別人だと判断できるのも凄い。表情が変わっていてもその人だとわかる。
 ただ、大きく口を開けて、もの凄い怒った顔だったりすると、わからないだろう。そんな顔のままで銀行強盗すれば、ばれないかもしれない(笑)。
 自動車の車種をほんの小さな子供が言い当てるのも、同じだ。幼稚園児なのに、走っている車をすべて識別できる、なんていう男の子は珍しくない。興味のない大人から見ると、「あんなに、似たり寄ったりのものをちゃんと識別できるなんて凄い」となる。だが、車には表情がないので人間の顔を見分けるよりははるかに簡単である。ただ、普通の人は、自動車の形を、人の顔のように見ようとしていないだけだ。つまり、大人はそれだけ興味の対象を自分で絞っているし、能力を閉ざしている。
 自分の経験だが、見慣れない車が駐車場にあったので、どこの車だろう、と近づいて確かめたら、事故のため僅かに歪んでいただけだった、ということがある。その僅かな違いで、別の車に見えたのだ。
 一方、人の認識は不思議なもので、たとえば、顔が上下反対になっていると、もう誰なのかわかるまでに時間がかかってしまう。文字も裏返しになるだけで、すぐには読めなくなる。こういう面は機械の方は処理が早いし、正確さという点でも機械が上だろう。
 映像だけではない。声や音色の認識などでも、機械の処理速度と精度は上がってきている。ただまだまだ人間には及ばない領域がある。

【社会】 作られた歴史

 ちょっとまえのことだが、遺跡発掘のときに、古い石器などの破片をポケットに忍ばせ、いかにもそこで出土したかのように振る舞っていた研究者が摘発された、というニュースがセンセーショナルに報道されたことがある。その人が各所で同じ事をしていたため、過去にわたって多くのデータが再検討になった。
 こういったことは、きっと昔からあっただろう。名声を得るために、あるいは、重圧から。たとえば、借金を抱えて実現した調査だったり、それとも自説をどうしても証明したい一心だったり。
 考えてみれば、かなり簡単にできる詐欺行為といえる。昔ほど多かっただろう。そういった間違ったデータの上に歴史は作られているかもしれない。数々の文献に書かれていることは、どこまで本当だろう? 最初のものが嘘ならば、それを知らずに多くが嘘をコピィする。後世になれば、複数に記述されている信頼できる情報、となりえる。
 それ以前に、そもそも、正しい記録というものがあるだろうか。どんな記述にもそのときどきの利害が絡み、客観性は極めて乏しい。客観的であることの価値などそもそもないからだ。正確な記録を残そう、といった動機には理由がない。真実を伝えたい、という動機にも理由はない。
 記述すること自体が、正確ではなく主観的な主張を含ませる行為にほかならないからだ。これは、現在のマスコミにも根底に流れているシステムといえる。ジャーナリズムが抱える矛盾である。誰も、真実を知りたいわけではない。自分に都合の良い情報を手に入れたい、あるいは広めたいだけであり、そこにしか情報の価値はないといっても良い。
 元来、歴史とはそうやってできたものである。


2005年11月13日(日曜日)

【HR】 文庫

 曇りがちだったものの、暖かい一日。朝はクリーナで庭の掃除をした。パスカルは走る走る。夕方は、リードをつけて散歩に出た。家から200mほど離れることができた。胴輪はすでにぎりぎりで、もう大きいものを買ってこないといけない。少し胴回りが太すぎるように思う。
 この時期、各方面から、「ベスト何某」のためのアンケートが送られてくる。この1年間に発行されたものの中から、これはという作品を選べ、というものだが、今までに一度も答えたことはない。そんなに本を読んでいないし、偏った読書をしているので、純然たるデータにならないだろう、と思うからだ。
 もう1つ非常に抵抗があるのは、「今年出た文庫」ではない、という点。ご存じの方は少ないと思うが、多くの小説はまず単行本になって、約3年後に文庫になる。小説ファンはこんなこと常識だと考えているが、普通の人は知らない。僕も知らなかった。
 新聞などで賞を取った本が紹介される。ベスト○○なんてものも目にする。しかし、書店に行って探してみると、そんな本はないのだ。棚を回っても、そんな作者さえ見つからないことが多い。何故か?
 つまり、小説を文庫でしか読まないからである。大多数の人は文庫しか読まないのであって、こちらの方がはるかにメジャなのに、ほんの一部の人たちが「新作」を選んで、騒いでいるように感じる。ずっとそう感じていた。自分の小説が本になって、初めてこの仕組みがわかったものの、しかし、やはり単行本を読む層はマイナで少数であることには変わりない。そもそも、書評を気にしたり、ベスト○○を気にしたりするのも、この少数の層なのだし、その内輪でやっているのだからこれで良い、といえるだろうか。
 11月に出る文庫の写真を撮った。「いよいよVシリーズが完結ですね」というメールを沢山いただいている。Vシリーズの装丁は、鈴木成一デザイン室。装画は、いとう瞳さん。素晴らしいデザインに恵まれて10冊を揃えることができ、とても嬉しい。「黒猫の三角」のとき、鈴木さんとメールでかなり議論した結果生まれたもので、それも懐かしい。個人的には最も好みのデザインだ。
 一方、メディアファクトリーでは初めての文庫になる「100人の森博嗣」は、単行本のカバーに書いた僕のイラストをなかなか上手くアレンジして作ってくれた。中のデザインも気が利いていた。
 個人的には文庫が大好きで、本は全部文庫になれば良い、と考えているけれど、しかし、大きな本も欲しい人がいる。単行本を出している理由は、「望む人がいるから」だ。そもそも、望む人がいるから本が出るのだし、作家も書いているのだと思う。

【国語】 漢字か平仮名か

 漢字を使うかどうかの基準は、はっきりいってない。できるかぎり漢字にしていると、読めなくなるし、かといって、できるかぎり平仮名にしていると、これまた読みにくくなる。読みやすさで決めれば良いが、前後の文章などでも条件が違ってくるし、同じ語句を漢字で書いたり、平仮名で書いたりしているのも鬱陶しい(実際にはそういうものがとても多いが)。
 だから自分なりに、これは漢字、これは平仮名、とだいたい決めている。接続詞はできるだけ平仮名にしている。「また」「しかし」「したがって」などだ。
 しかし、かなり微妙なものもある。ほんの一例だが森博嗣のルールを紹介しよう。
 時間を示す「まえ」「さき」は平仮名。しかし、位置を示す場合は「前」「先」と漢字。
 手は「振る」だが、首は「ふる」と書く。前者はシェーク、後者はスウィングに近い動きなので使い分けている。
 「良い」は必ず「よい」と発音する場合にしか使わない。「いい」の場合は平仮名。
 「歌をうたう」「一歩あるく」のように、同じ漢字が近くで重なるときは、動詞を平仮名で。
 漢字かカタカナか迷うものもある。「眼鏡」か「メガネ」とか。
 あるいは、こんなこともある。
「はじめまして、僕は小鳥遊練無といいます」
「こんにちは、小鳥遊練無さんですね。どんな字を書くのでしょうか?」
 漢字の書き方を知らない人がしゃべっている台詞なのに、漢字で書いても良いのだろうか。これってアンフェアじゃないか……、とか。


2005年11月12日(土曜日)

【HR】 100円ショップ

 朝は雨上がりだった。毎朝、パスカルを庭で30分くらい遊ばせる。今のところ、リードをつけて外へ出ようと言ってもあまり行きたがらない。散歩は10mくらいで、1分もできない。すぐに「帰る」と言いだす(言わないが)。庭ではまあまあ長時間遊べるようになった。池を飛び越えることもできるようになった。
 ボールを投げて、それをくわえて持ってくる、という遊びが一番好きだ。家の中でも、いろいろ持ってくる。各種ボールを20個くらいパスカルのおもちゃとして与えたが、そのほとんどは最終的にはソファの下に入って取れなくなる。
 スバル氏が猫っ可愛がりしているので、とにかく甘えん坊。おやつも沢山もらっている。ササミか、ボーロか、ジャーキだ。ボーロはこの頃は、「かうかう」と呼ばれている。食べるときに、かうかうと音がするからのようだ。日々新しい言葉が生まれている。
 ウェットな写真ばかりだったので、たまにはドライなものを。まだ、後ろ脚を投げ出す格好でふせをする。

 午前中一番でホームセンタへ行き、僕は塗料とアルミ素材などを購入。スバル氏は種と球根を買っていた。クリスマス用のイルミネーションが沢山並んでいた。発光ダイオードが普及したおかげで、昔よりも省エネにはなっているようだ。しかし、森家はクリスマス装飾はしない。もしやるなら一年中いつでも好きなときにやれば良いと思う。どうも季節限定で、みんなで示し合わせてするイベントには引いてしまいがち。
 しかし、クリスマスのときだけ買えるグッズがあって、特にベルは各サイズ、いろいろ出回るので、模型で使うために購入してストックしておく。
 今日は100円ショップへも立ち寄ったが、いつもどおり眺めているだけで買えなかった。100円だから買う、という、値段で購入を決意するような判断をそもそもしないためだと思う。値段を知って、買うのをやめることはあるけれど、値段を知って買う気になるものは、僕の場合はほとんどない。そういう買い方をすると、さほど欲しくないものを「買わされる」という感覚になるものと想像するのだが。
 野性時代にシリーズものを連載するので、それを書き始めた。今日は4000文字ほど書いて、ストップ。最初にしては滑らかなすべりだし。
 昨夜からお風呂に入っている。これも半年ぶりくらい。一年の半分はシャワーなので、湯船に浸かると、ああ冬が来るな、と思う。

【理科】 落ち葉

 見慣れない葉っぱが落ちていて、見上げてもそれらしい樹がない。しかしよくよく観察すると、大木の枝の内側、幹に沿って葉っぱの色が違っている筋がある。その樹の葉は黄色いのに、その筋だけは赤い。落ちている葉っぱも赤いのだ。
 樹に巻きついている蔦の葉だった。大木は高さ10m以上軽くあるが、あそこまでぐるぐると伸びていった蔦も凄い。根は地面にあるのだと思う。水を吸い上げているのだろうか。寄生しているわけではないだろう。
 葉が緑のときには、気づかなかったものが、このように、両方の葉が散る頃になると、突然目立ってくる。そういうものが、そう、人間社会の中でも多々観察される。
 黄色になったり、赤くなったりするのは、同じ樹の中でも同時ではない。また、落ちる葉も、枝によって時間差があるし、さらに同じ枝でも先と根本では違う。雨が降ると沢山落ちるが、それは、雨が当たった衝撃だろうか。しかし、風が吹く日よりも雨の日の方がずっと落葉は多い。
 葉っぱの数も以前に一度数えたことがあって、1日に平均して1500枚くらい拾うことがわかった。1カ月だと45000枚だ。おそらく、庭にある樹の葉っぱの総数はこの10倍はあると想像できるので、50万枚くらいになるだろう。1枚を0.5グラムと仮定すると、25万グラム、つまり250kgだ。なかなか良い線ではないだろうか。もちろん、これらが1年でほとんど全部散る。秋に散らなくても、春に散る。動物が食べる量も相当あるだろう。


2005年11月11日(金曜日)

【HR】 Macばかり

 今日も午前中は出かけていた。夕方から3時間ほど工作ができた。1週間ぶりくらいで、やはり晴れ晴れとする。
 ダ・ヴィンチから「100人の森博嗣」(文庫版)が届いた。メディアファクトリーでは文庫はこれが初めて。装丁がなかなか良い(絵が良いという意味ではない)。
 この頃、電子出版というものがある。10年もまえからあるが、なかなか普及しない。僕の著作も何冊かは、デジタルのメディアになっている。ただ、それを自分で読んだことがない。今日も、CDが送られてきたのだが、ウィンドウズ対応のソフトなので、Macでは見ることができない。漫画の電子出版も毎月届くが、これもMac非対応。自分の作品が連載しているときは、これでは困るので、プリントアウトを送ってもらった。情けない話である。著者が自分の作品を見られないなんて(この場合、情けないのは著者ではなく、出版元のことである)。
 こういったことは、これまでにも数知れずあって、自分の作品に限らない。いろいろ送りつけてくるもの、あるいは宣伝の類でも、Macでは見られないものが多い。宣伝効果は明らかにマイナスである(送らなかった方がまだ良かったという意味)。
 ウィンドウズのパソコンを買えば良い、というのが一般的な解決かもしれないが、残念ながら、僕にはそんな気は毛頭ない。現在のこの状況に大いに不満を感じるけれど、しかし「不便」だとは感じない。不便を感じてほしいのは、相手方である。もし森博嗣に読んでほしかったら、Macにも対応したものを送ってほしい。それだけのことで綺麗に解決する。
 実は、MacはWinをエミュレートすることができるので、不可能ではないのだが、しかし、わざわざエミュレートしてまで使いたいソフトがWinにはなかった。Winを使うメリットをまったく感じないので買わない。
 Macを使い始めて15年になる。研究の数値計算もすべてMacだ。今のところ、Macユーザで不便を感じたことは一度もなく、不具合を感じたこともない。逆に、恩恵が非常に多い。2000年問題も無縁だったし、ウィルスの心配もない。使いやすいし、15年昔の文章だって、図面だって、すべて使える。データが生きている。15年まえはWinはまだなく、MS-DOSだった。形だけMac OSの露骨な真似をして、Winが作られた。
 食わず嫌いではない。研究室でMacを100台買えば、1台くらいの割合でWinマシンを買ったことがある。触ってみたこともある。ホテルに据え付けのマシンをしかたなく使うこともある。そしてそのたびに、「ああ、世の中の人はこんなもので我慢しているのだな」と感心する。
 ブラウザも、ネスケの4.7をまだメインで使っている。僕が見たいサイト(海外が多い)は、これですべて見られる。ときどき、safariを立ち上げることもあるし、エクスプローラが必要なこともあるけれど、だいたい、エクスプローラは途中で挙動不審になって自分で勝手に終わってしまう。
 ノートはすべてスリープしているわけで、リスタートすることは滅多にない。現在、書斎では、4台のノート(Power Book)を同時に使っている。1台が執筆用で、3台はブラウザがメイン。自宅にはほかに7台くらいMacがある。スバル氏はもちろん、娘も息子もMacを使っている。
 しかし、けして人にはすすめない。自由である。自分の好きなものを買えば良い。現在では性能にそんなに差があるわけではないだろう。差があるとすれば、それは思想だ。
 写真は、とある建物の階段室のサイン。こんなに大きい文字が必要とは思えないのだが。

【算数】 確率

 数学の中では、幾何が好きだったし得意だった。それから、確率も好きだ。どうしてかというと、計算が楽だから。論理さえ思いつけば、数字の計算がそれほどややこしくない。式をそんなに長く書かなくても良い、という点が好ましい。式を展開しているうちに、うっかり計算ミスをすることがあって、そういう正確さが苦手だったので、できるだけミスの機会が少ない方が良い、という意味だ。幾何が好きなのも、同じかもしれない。
 確率や組合せの問題は、それを解いたときに、答が正しいかどうか、という判断が難しい。何故なら、考え方が間違っているかどうか、ということが、答の数ではチェックできないからだ。検算をしても、その論理の筋道が間違っていれば意味がない。そのあたりが、逆に醍醐味である。
 1列に1000人の行列が1000列。前後左右に1mずつ離れて、きちんと100万人の人間が整列している。その一番端の角にいる人から、距離にして1km以内にいる人数はおよそ何人か?
 円の面積を求めるときは、半径を2乗するが、この場合は人数を2乗することになるか……。


2005年11月10日(木曜日)

【HR】 ガーデニング

 今日も晴天で暖かい。朝から、スバル氏が花壇を作るのを手伝った。土を掘り返し、レンガを並べただけのもの。モルタルで固めたわけではないので、仮設置みたいな気もするけれど、これで完成形らしい。
 パスカルは庭を走り回っている。「脱兎君」と呼びたくなる。ホースで水を撒くと、相変わらず、口を開けて突入してくるので、すぐにびしょぬれになる。これがすぐに乾くから、不思議。

 昨日落ちた池でも、また水を飲んでいた。まったく懲りていない。学習していないように思えるが、毎日リセットして新鮮な喜びが味わえる人生(犬生?)だとすれば、それはそれで羨ましいかも。

 スバル氏の友人が訪ねてきて、庭で紅茶を飲みながらおしゃべりを始めたので、その間に小説の仕事を片づけた。ラピタは推敲して発送。日経パソコンも4回分を送った。そのあと、イラストの下書きをして、文字をロットリングでペン入れした。あとの作業(絵はデジタル)はスバル氏なので、僕の仕事はもう終わり。片づいた。日経の連載は、以前は自分で写真を撮っていたので、文章とは別に写真のギャラがもらえた。新しい連載では、写真の替わりにイラストになったので、そちらはスバル氏の取り分になったが、僕としては下書きをして文字のペン入れまでしているので、写真のときよりも作業的がにずっと大変になっているにもかかわらず、ギャラが減ってしまった(笑)。写真よりイラストの方が高いので、森家トータルとしては増えているのだが。まあ、使い込んだ古いネタばかりなので(編集部からの指定<言い訳だが)、文句をいえる立場でもない。
 夕方はまたホームセンタへ行った。今日も苗をいろいろ買ってきた。穴を掘って植えるのは僕の仕事。まだまだ植える場所があって、足りない感じがする。スバル氏が大量の球根をすべて植え終わっているので、どこに穴を掘っても、球根に当たる。庭中が危険地帯の状態だ。

【社会】 手当再び

 たとえば、三重大から名古屋大へ転勤すると、都市手当というものがもらえるようになる。ある程度大きな都市だけで支給されるものらしい。すべての手当を合わせた合計の4%くらいだった。これはわりと大きな金額だと思う。支給される理由は、都市は物価が高いから、というもののようだ。
 しかし、名古屋に住んでいて、三重大へ通勤している人はもらえない。三重に住んでいて、名古屋大へ通勤している人はもらえる。すなわち、どこに住んでいるかではなく、勤務先がどこにあるか、でこの手当が支給されるかどうかが決まるのだ。どう考えても理不尽である。
 名古屋大には、キャンパスからは離れた市外に研究所がいくつかある。そちらへ転勤になると、都市手当がもらえなくなる。よく覚えていないのだが(また、今でもそうなのか知らないが)、大都市から転勤した場合は、都市手当は2年間だったかはそのまま(あるいは80%かな)もらえる、という特例がある。急に給料が減額されては大変だから、という理由らしい。そこで、この市外へ転勤になった人は、2年経つと、また市内へ戻される。そうやって、2年でみんなで順番に交代して勤めれば、誰もが都市手当をもらえる。「不公平がないように、個人の不利益がないように」という配慮だ。悪いことをしている意識はまるでなく、逆に良いことをしている、そうしなければ損だ、と考えているみたいだった。これに類することは、数え切れないほどあるだろう。
 ようするに、公務員というのは、このようにして無駄な金を(有効に使っていると信じて)平気で使う感覚を、長い年月の間に養うのである。国民が民営化に賛成する道理だ。


2005年11月09日(水曜日)

【HR】 パスカル池に落ちる

 午前中は所用のため一人で出かける。昼過ぎに戻ると、庭でスバル氏が雑誌を読み、パスカルが遊んでいた。絵に描いたような平和。
 今日も、朝は1時間ほど手で落ち葉を拾い、昼からまた、クリーナで落ち葉を吸い取った。手で拾うと、その場所その場所の乾湿がわかるので、得られる情報は多い。あちこち手で拾った上で、クリーナを使うのが合理的だと気づく。
 スバル氏とパスカルをつれてホームセンタへ行き、苗と土とレンガを購入。帰宅して、その苗を植えていたら、どぼんという音がした。「パスカルが池に落ちた!」とスバル氏が慌てている。彼女がすぐに救助したが、底に脚がついたらしく、水面から顔だけ出して、立っていたという。「助けて下さい」という顔だったとか。そのあと、もう庭にいたくない、とでも言いたげに、急いで家の中に入ろうとする。タオルで躰を拭いてやったが、かなりショックだったようだ。
 しかし、10分ほどしたら、なにごともなかったかのように立ち直っていた。この頃、走るのが速くなったし、日に日に大きくなっている感じ。それでも、シェルティとしてはまだ小さいように思う。
 ここ数日、少し忙しくて工作はできず。小説の方は、1日2時間くらいは割ける。幻冬舎ノベルスのゲラがもう少し。「ラピタ」の連載は書けた。「日経パソコン」はイラスト4枚がこれから。次は「野性時代」の新連載に1週間をかける予定。タイトルは「もえない」に決めた。遅れている中公ノベルスの「ダウン・ツ・ヘヴン」はまだ発行日は決まっていない。今日、講談社文庫「赤緑黒白」が届いた。この頃、メールの感想はVシリーズが最も多い。世の中文庫がメジャなのだ。
 毎日、色づいた葉っぱを眺めて「綺麗だな」とつい呟いてしまうのだが、このように、秋に葉っぱが色づくことを表す言葉は? 「紅葉」では、赤くなったものだけで、黄色いものには使えない。「黄葉」という言葉はあるが、一般には使われていないように思う。赤くなるものと、黄色になるもの、どちらが多いだろう。うちの庭では黄色の方が多い。

【算数】 行列

 現在のカリキュラムではどうなのか知らないが、行列(マトリクス)はたしか中学で習った。2×2のものだけだったように思う。しかし、このマトリクスなるものが、いったい何に利用できるのか、まったくわからなかった。もし、工学部や理学部へ進まなかったら、一生わからないままになっていた可能性が高い。ベクトルも同様だし、さらには、テンソルなんかもマイナだ。
 大学生になって、線形代数を習っても、まだ何に使うものかわからない。単に、数字をこねくり回しているだけの印象だ。しかし、大学院に上がって自分の研究に利用するようになると、とたんに、視界が開ける。「ああ、なるほど、これがマトリクスか」と、あるとき感じた。
 どう感じたのかというと……。マトリクスを、地球人の僕たちは、複数の数字が並んだセットとしてしか認識できない。しかし、思考回路が異なる高等生命体であれば、このマトリクスを1つの数字として扱うだろう。そういうふうに発想したとき、マトリクスの存在理由がわかった。
 ちなみに、マトリクスとは「子宮」という意味だ。映画で有名になったかと思う。なにかの材料に、他の材料を少量添加するとき、もとの材料のことを「母材」と呼ぶが、これも、matrix materialの訳語だ。古くは「マトリックス」と表記した。今でも「ッ」が入っているものは多いが、少々レトロな語感である。アルファベットの「X」を「エクス」ではなく「エックス」にした後遺症であろう。


2005年11月08日(火曜日)

【HR】 石炭を燃やす

 晴れた。朝から庭に延長コードを延ばしてバキュームクリーナで掃除をした。濡れた葉っぱを吸い込んでだんだん重くなる。クリーナを持っているだけの作業なのだが、知らないうちに汗がぽたぽたと落ちている。健康的なエクササイズかも。
 午前中は3時間ほど仕事をした。午後は天気が良いので、機関車を走らせることに。先日の土曜日に、素晴らしい機関車がここを走ったので、やりたくなったのだろう。3月に走らせて以来、半年ぶりだと思う。まえのとき、水をボイラへ送るポンプが不調だったので、まず、30分ほどかけて分解し、それを調整し直した。
 石炭を入れて火をつける。土曜日のシェイは木炭を使っていたのでまったく臭わなかったけれど、石炭は独特の臭いがする。スバル氏が玄関前で日向ぼっこしながら本を読んでいた。パスカルも外にいる。火をつけて20分ほどで蒸気の圧力が上がり、走りだした。ポンプは最初はやはり不調で水が漏ったが、これはジョイントの締め不足だった。後半は快調。
 スバル氏が写真を撮ってくれた。こういうことは非常に珍しい。彼女は、ちょうど自分のフィルム・カメラで庭(黄色や赤の葉の樹)の撮影をしていたところだったのだ。この頃、自分の写真はできるだけ載せないようにしているが、夫の晴れ姿を撮ろうという彼女の愛情あふれるショットだけに、無駄にするわけにもいかない。異例のことではあるけれど、ここにアップしよう。これでもう面が割れてしまったな。
 20周くらい回ったから、3kmくらい走ったことになるか。いつも機関車の調子が出てくる頃には、運転手が疲れてしまう。
 このあと、スバル氏の買いものにつき合い(駐車場でパスカルと待っている役)、戻ってきてから、ようやく冷えた機関車の掃除をした。煤払いをして、掃除機で吸い取る。電気機関車みたいに簡単に動かないし、後かたづけも面倒なのだが、その分少し面白い。

【国語】 カタカナ表記について

 森博嗣の作品の中で使われているカタカナ表記がよく巷で話題になる。「読みにくい」とか「自己中心的だ」とか。しかし、これはオリジナルではない。工学分野ではごく普通の表記であって、JIS(日本工業規格)や学会・協会でも標準にされているものだ。
 特に、長音のこと。英語で最後が「er」や「or」になる単語で、カタカナにしたとき3文字以上になるものには長音をつけない、というルールがある。「センサ」とか「モニタ」とかだ。2文字以下の場合は英語でも後ろの母音にアクセントが来ることが多く、長音をつけることにしたのだろう。新聞などは、たぶん国語審議会のなにかを標準にしているから伸ばすのではないか。ようするに文系だ。
 しかし、「コンピュータ」「トランジスタ」などは伸ばすことは滅多にないし、「プリンタ」も伸ばさないことが多い。これを伸ばす人がいたら、かなり古い感覚だと思える。さらに、「スリッパ」などは誰も「スリッパー」と書かない(もちろん言わないし)。というわけで、普通は、伸ばしたり伸ばさなかったり不統一である。それを統一しているだけ。伸ばさない方が実際の発音にも近い。「スーパ」とか「マイナ」とかを、「スーパァー」「マイナァー」と伸ばして言う人はお年寄りには多いが。
 加えて僕の場合、子音+yで終わる単語は「ィ」を用いることにしている(有名な固有名詞など、例外はあるが)。「ミステリィ」と書くのはこのルールに準拠している。一般的には、長音をつける派とつけない派が2分しているようだ。論文では長音は付けない。「エネルギー」ではなく、「エネルギ」である。しかし、分野によって異なる。
 どうして「タクシー」や「デビュー」などは伸ばすのか、という質問が絶えないが、英語のスペルを思い浮かべてもらいたい。上記のルールに当てはまらないものは長音をつけている。
 どちらにしても、こだわりでもなんでもない。表記など大したことではない、と考えていて、こんなことで頭を使いたくないので、単純なルールを決めているだけのことだ。


2005年11月07日(月曜日)

【HR】 濡れ落ち葉

 昨日は大雨で、朝方ようやくあがった。久しぶりによく降った。庭には沢山の落ち葉。綺麗といえば綺麗だ。昨年までは放置しておいたのに、今年は拾っている。手で一枚ずつ拾うときは濡れている方が効率が良い。摘みやすいからだ。逆に、電動のバキューム(つい最近8000円で購入)で吸い込むときは乾燥している落ち葉の方がうまくいく。今朝は1時間ほど手で拾った。周りをパスカルがうろうろしている。ときどき、大きな葉っぱを口にくわえて持ってくる。何をしているのかわかっているのだろうか。

 枝に残っている葉っぱがとてもカラフルで楽しい。この季節は写真の枚数が増える。このまま散らずにずっと枝についていてほしいところだが、そうもいかない。秋限定バージョンということ。赤と黄と緑で、シグナルのようは派手な配色。ガレージも白くなったので、ますます映える。
 緑の葉っぱはまだ大丈夫、黄色は少し注意、赤くなったらもう終わり、という自然の色の変化から、シグナルの色が決まったのだろうか。
 また、秋から冬にかけては、この地方は日差しがクリアで、これも写真に向いている。眩しいほどで、サングラスをかけていないと昼は目が疲れるくらい。こういうのは、飛行機を飛ばしているとき空を見るから感じることだろうか。

 午前中は研究の打合せがあったので、2時間ほど出かけた。その間、パスカルは留守番。家の中を自由に行き来できる状態なので、信頼されている証拠。人間の子だとこうはいかない。午後は、パスカルのいるリビングで仕事をした。パソコンをしていると、両手の間から顔を出したりするので、そのたびに遊んでやらないといけない。とにかく遊ぶのが好きなのだ。
 スバル氏が帰ってきたら、玄関から飛び出していって、ミサイルみたいだった。大喜び。こんなに喜ぶなんて、気持ちがリセットできているからだろうか。朝も2階から下りてくると、階段のところで尻尾を振り回して大喜びする。毎朝なのだから、少しは慣れても良さそうなものなのに、不思議だ。

【理科】 地震

 地震の予知は可能か。それは、将来的にはある程度可能になると思う。ただ、地震にもいろいろなタイプがあるから、対象を限定して、お金をかけて観測をすれば、かなりの確率で事前に察知できるだろうが、日本には無数に地震の原因になりそうな危ないところがあるわけで、そういった場所にすべて高価な観測機器を据え付けるわけにはなかなかいかない。それよりは、地震が起きたあとの対処を考えておいた方が合理的、というのが現在の基本的なスタンス。
 ここでいう観測の対象というのは、地層の運動のことで、動物とか、雲とか、超能力とか、占いとかではない。いろいろまことしやかに地震を予知できると書かれている(あるいはTVで取り上げているだろうと想像する)ものがあるが、すべて嘘である。
 科学では解明できないものがある、という言葉はそのとおりだが、そういったものが、科学以外のもので説明できるなんてことはもっとありえない。Aの地震のときも、Bの地震のときも、空に太陽があった。だから、空に太陽が出たら地震が来る、というレベルの統計を真に受けないことである。


2005年11月06日(日曜日)

【HR】 また留守番

 朝、スバル氏がよそ行きの服を着ているので、「あれ、どこか行くの?」ときいたら、「東京」とのこと。そういえば、娘が今年も代官山でグループ展をするので、見にいくと言っていたことを思い出す。何の展覧会か詳しくは知らない。絵か写真かどちらかだとは思う。
 スバル氏を駅まで送って、戻ってきたら雨が降りだした。だから、パスカルとずっと家の中にいた。昨日が晴れで良かった。一日ずれていたら、大変だった。
 パスカルはずいぶん大きくなったので、久しぶりにビデオを撮ってやった。家の中でボールを投げて、それを持ってくるところを撮影。あと、「おて」と「かえて」も録画した。しょうがないなあ。これが親バカというやつか、と思う。これを来客みんなに見せたら危ない。でも、よしもとばななさんには見せたことがあるぞ、と反省。
 留守番なので、パスカルを残してガレージに籠もるわけにもいかず、パソコンを持ってきて、リビングでほとんど過ごす。執筆主力マシンは持ち運ばないことにしているため、予定を少し変更して、ゲラをさきに読むことにした。最近、ゲラを読むのが画期的に速くなって、小説だと5日くらいで読める(1回しか読まないのだが)。以前は2、3週間かかっていたので、実に4倍速である。
 それから、リビングにはテレビがあるので、DVDとかを見たくなってしまう。あと、ケーブルで映画を見たくなる。
 コロンボを見てしまった。久しぶりだ。当時は感動したけれど、今見ると、非常にあざといというか、わざとらしい展開で、無理があるなあ、と感じてしまった。これは作品の劣化ではなく、文化の発展と解釈しよう。なにしろ、最初にコロンボを見たのは中学生のときで、あのときの衝撃は忘れられない。NHKでゴールデンタイムに放映していたが、試験の前日でも見たものだ(一夜漬けしかしない子供だったので、前日は勉強に集中していたのに)。ピータ・フォークは、最初の頃は眼孔が鋭く、本当に格好良い。
 あと、インスタントのラーメンも食べた。久しぶりで新鮮だった。留守番すると、このようにいつもと違う日になるから面白い。
 写真は、2日まえに撮ったもので、ポーチのベンチの位置が変わったところ。紅葉が赤くて、家の色に映える。

【社会】 手当が多すぎる

 給料をもらっていて感じたこと。通勤手当とか扶養手当とか、いろいろオプションがついている。これのために書類が増えるし、それを計算する事務員も増える。そんな面倒なことはやめて、一律にしてはどうか、と考えた。なにしろ、同じ仕事をしているのだ。同じ成果を期待して給料を支払っているのに、結婚しているか、家が遠いか、何を使って通勤するか、でもらえる報酬が違うのはどうしてだろう。いや、これは報酬ではない、という理屈だとは思う。しかし、そんなことを言い出したら、親が借金を抱えているとか、子供が重病だとか、もっと手当が必要なものが考えられないか。
 国会議員には、秘書を雇うための費用が支給されるようだ。会社の重役は、関連企業の人と接待名目で旅行や食事をする費用が会社から出るだろう。こういったオプションの制度があるから、「使わないと損だ」という発想になる。悪用して不正も起こる。そんなことは一切やめて、その代わり、国会議員には、今の給料の3倍くらい支払う。一流企業の社長ともなれば、何億円という給料を支給するべきだ。そのうえで、自分の地位を保つために、自分の金でブレーンや秘書を自由に雇えば良い。接待も自由にどんどんすれば良い。自分の金だから有効に使うだろうし、不正も起こりにくい。使わないで丸儲けできる人は、それはそれで有能なのだから、もちろんそれで良い。
 通勤手当を支払うのは、自動車ではなく、交通機関に乗って欲しい、という政治的配慮だろう。しかし、それならば、運賃を下げる、という方向で実現すべきだ。扶養家族が増えて、生活が大変ならば、それも社会制度として組み込むべきもので、夫の勤務先から給料に含まれて支給されるのは納得がいかない。主人が働かなくても、奥さんも子供も生活しなければならないのだから。
 要求されたものに対して、その場限りの応急措置的な「手当」をしてきた、継ぎ接ぎだらけの制度ではないだろうか。もっとシンプルにできるはずだ、と思えてしかたがない。


2005年11月05日(土曜日)

【HR】 モデラ集う

 1年で一番晴れてほしかった日。1週間まえの予報では雨だったけれど、3日まえには曇りになり、当日はもの凄い秋晴れになった。今日は、模型界の神様のような方々、そして一流のモデラたちが、当欠伸軽便鉄道弁天ヶ丘線を訪れた。こんなことはもちろん初めてである。8月に国際鉄道模型コンベンションに参加したことで実現したもの。
 一番のお楽しみは、大阪の木内氏が製作したシェイという機関車。T型というボイラを装備している。この型式では日本で初めてのものではないか、という非常に珍しい機関車で、製作に7年もかかっているとか。それが、今日初めて火を入れる、という、ちょっとそんなのありえないくらい凄いイベントなのだ。
 素晴らしい作品で、間近に見られるだけでも感動もの。水を入れ、木炭を焚いてなんなく動きだし、集まった9人全員で拍手をした。とても力強い走りっぷりだった。代わる代わるみんなで運転を楽しんだ。とにかく最高に楽しかった。一番嬉しかったのはもちろん木内氏自身だろう。弁天ヶ丘線にとっても、開業以来の特別な日になった。
 写真は、そのシェイのスチームアップをしているとき(走るための準備段階)のもの。レンガサークルにもなんとなくマッチしている。ご覧のように、シリンダ(オイルをさしているところ)が、機関車の右サイドに集中していて、しかも縦置き。ボイラは逆に左側へ寄っている。完全な左右非対称だ。動力を台車へユニバーサル・ジョイントで伝達し、ギアで全輪を駆動する。この天才的なデザインを考えて製品化した人がシェイさんだったので、この名で呼ばれている。アメリカの森林鉄道などで大活躍した機関車で、僕が最も好きなタイプの1つ。少なくとも何十台もシェイの模型を持っているけれど、こんなに大きいものはもちろんない。運転もさせてもらって大満足の一日(当日のディテールは、浮遊工作室の機関車製作部のA&Bレポートを参照のこと)。
 そういうわけで、お客さん8人と一緒に日中はずっと庭園鉄道で遊んでいた。庭にテーブルと椅子を並べて、枝豆を食べた。パスカルも皆さんに遊んでもらい、夕方は疲れてばったり横倒しで眠っていた。主人と同様、刺激的な一日だったようだ。

【算数】 0の計算

 小学生の場合、まだマイナスが出てこない。だから、マイナスの数で割ったり、マイナス乗にしたり、という考えにくい計算は出てこないが、しかし、それでも0という数字は、かなりやっかいな代物ではないだろうか。
 それが「ない」のに、0と「数える」ことがまず不思議なのである。たとえば、こんな問題があったとする。500gの重さのものが0個あったら、合計で重さはいくつ?
 はて……、1個もないのに、どうして重さが量れたのか。そうか、まえの日にはあったのだな、と。つまり、ないわけではない。ちゃんと存在していて、みんながよく知っているものだけれど、たまたま今ここにないのだな、と。そういうわけで、0をかけることに対しては、なんとかぎりぎり自分なりのイメージを持つことができる。
 どんな数字であれ、0をかければ、答は0になる。つまり、任意の数字nに対して、n×0=0が成り立つ。
 次なる壁は、0のわり算である。0でわる、というのは、いったいどういう場合なのか?
 答をさきに書けば、0以外の任意の数字nを0でわると、答は∞(無限大)である。n÷0=∞。ようするに、もの凄く大きな数だと思えば良い。お金が50円ある。1日に5円使えば、50÷5=10で、10日でなくなる。1日に0円使えば、50÷0=∞で、無限大日後になくなる(いつまで経ってもなくならない)。
 では、0を0で割るとどうなるか? 0÷0=? 同じ数なのだから、答は1だろう、という憶測ももっともらしい。いや、どんな数でも0で割れば答は無限大だ、という気持ちもわからないではない。しかし、答えは、「不定」である。不定というのは、「どんな数でも良い」ということだから、1でも、∞でも、0でも、2でも、100でも良い。テストの場合、どれを書いても正解、という意味ではなく、不定と書かなければならない。もちろん、最初のn×0=0から、左辺の0を右辺へ移項した、n=0÷0が、任意のnについて成立するからだ。
 しかし、これはなかなか考えにくいシチュエーションだ。それが適用できる具体的な例がなかなかイメージしづらい。算数がどんどん現実から離れていくその入口といえる。


2005年11月04日(金曜日)

【HR】 のんた君

 今日も朝から晴天。落ち葉拾いもした。午前中は一人で出かけ、お昼に戻る。今日もビートが好調。午後は研究関係の打合せを3時間ほど。この約束がなかったら、今日も飛行場へ行ったかもしれない。
 光が綺麗な日なので「ラピタ」のために写真を撮る。夕方に、庭園鉄道を20分ほど運行。それから、バキュームで掃除をしていたら、講談社のK城氏が来宅。
 500万部突破記念(講談社オンリィ)のグッズで、のんた君のぬいぐるみを作っているのだが、先日東京でその試作品を見せてもらい、いろいろ注文をつけた。それらが修正された第2バージョンができたので、彼女が持ってきてくれたというわけ。立体はメールでは送れないから。ほかにも、700万部突破記念パーティの段取りや、メフィストのゲラ渡し、それから、1月の短編集の打合せなどをした。
 のんた君は、かなりイメージが似てきた。あと、鼻の位置が1cmくらい下で、顎を1.5cmほど引いてほしい、という要求を出したのみ。もともとは、浮遊工作室のミステリィ制作部のトップページにある絵だけから起こした人形なので、それを思うとよくできている。一流のぬいぐるみ師(?)が手がけているらしい。
 当初、お世話になった編集者と、僅かな友人たちにプレゼントするだけの数(50匹くらい)を製作するつもりでいたが、数が多くなるほど単価が下がるので、もう少しだけ作っても良いかな、というような話も出た。どうなるかはわからない。でも、500匹も作るなんてことには絶対にならないので、もし少しだけ販売をするようなことになっても、かなり高い値段(3000円くらい?)になるだろう。どちらにしても、売ったところで利益など出ないわけで、そんな高いものを売るなんて、と思う気持ちと、しかし欲しいという人は少数だがいるだろうな、という気持ちと、まあ半々か。
 ところで、本ものののんた君(「の」が3つ連続)は、今でもちゃんとソファに座っている。1年に2回ほど衣装替えをしている。ブライスは一度も着替えないのに比べれば、優遇されている方である。

【国語】 難しい漢字

 小説を書くようになって以来、難しい漢字にだんだん慣れてきた。それまで、ほとんど自分とは無関係だった漢字が、自分の作品の中に出てくるからだ。ワープロなのでしかたがない。漢字にするか平仮名にするかは、本当に悩む。デビューした頃は、どの言葉を漢字にするか、どれを平仮名にするか、という紛らわしい言葉の一覧表を作っていたほどだ。今はそれはもう使っていない。
 鬱憤(うっぷん)、鼾(いびき)、嘴(くちばし)、跨る(またがる)、辣韮(らっきょう)、なんか、変換されたとき、どきっとする。それから、ワープロで出る字よりもさらに難しい本当の字があったりするものもある。蝉(せみ)とか嘘(うそ)とか掴む(つかむ)がそうだ。こういうのは、齋藤さんとか、渡邊さんなんかが詳しいと思う。
 読むのは簡単だが、書くとなったら絶望的というものも多い。辛辣(しんらつ)とか、顎(あご)とか、纏う(まとう)とかである。
 送り仮名も、振り仮名も、ルールは自分で決めないといけない。最初に担当編集者に、「とにかく、作家が好きにすれば良い」と教えられたので、しかたなく、自分なりのルールを模索している。
 論文を書いているとき、一風変わったルールがあった。動詞を繰り返すような言葉、「繰り返す」「叩き割る」「押し上げる」「練り混ぜる」などでは、それが動詞として使われる場合の表記はこのままだが、名詞の場合は「繰返し」「叩割り」「押上げ」「練混ぜ」のように最初の送り仮名を消す。どうしてなのかは知らないが……。


2005年11月03日(木曜日)

【HR】 庭園鉄道運行

 午前中はなんとか天気がもったので、久しぶりに庭園鉄道を運行した。工事のため長らく線路が不通だったが、昨日ようやく全線復旧したから。最初はゆっくりと走ってみる。不具合はなかった。しかし、方々整備の必要はありそう。
 午後は、11/3なのに雨がぱらついた。庭師さんが夕方に来て、最後の仕上げをしていった。これで一応工事は終了。来週もう一度、水を抜いて掃除をするとのこと。そのあと、さらに少し経てば、魚も入れられる。水草などは来春に植える、ということだった。
 スバル氏は新しい花壇を計画していて、レンガを買ってこい、と指令を出している(僕に)。紅葉も赤くなったし、ほかにも黄色に色づいた樹も多く、庭園はカラフルな風景になっている。毎日落ち葉拾いをしているのでそれほどでもないが、緑の草の上に点々と赤い紅葉がトッピングされている光景は、それなりに趣がある。少しだから良いのだろう。ちなみに、落ち葉を拾っている理由は、下の草の光合成を少しでも助けたいから。それから、落ち葉の下に虫がいることが多いので、害虫が減るのでは、と勝手に推定してのこと。しかし、一枚一枚葉っぱを拾うという行為自体が面白く、精神衛生上よろしい、と感じる。この理由が最も大きい。
 夕方、パスカルを連れてホームセンタへ行ったが、スバル氏はまたチューリップの球根を買おうとしていた。「もう200個も買ったでしょう?」と言うと、「別の色が欲しくなった」とのお答。これは、洋服のときと同じシチュエーションだ。僕は工具を少し買った。
 小説の方はメフィストのゲラが来て、これは2日で読んだ。今週は「ラピタ」と「日経パソコン」の4回分を片づけるか、あるいは手をつける、くらいの予定。そのあと、「水柿君2」ノベルス版のゲラを読んで、角川の連載初回の原稿を書く、といったあたりが来週の計画。1日3時間のペースでなんとか乗り切りたい。

【理科】 酸化

 この頃、焚き火は空気が汚れる、二酸化炭素が出る、といった理由であまり歓迎されない。昔は、この季節は落ち葉を集めて火をつけ、暖を取ったり、芋を焼いたりしたものだが、燃やす理由は、ゴミを小さくするため、あるいは害虫駆除だったと思える。
 燃えるというのは、酸化をすることであって、空気中の酸素を消費する。動物が呼吸をしても、植物が呼吸をしても、やはり同じように酸素を消費する。その意味では、火が燃えるのも、生物が生きているのも、環境的には同じである(動物は沢山植物を食べるからずっと悪いが)。
 植物の中には光合成をするものが多く、これは例外的に酸素を作るので、日が当たっている時間で、若い葉っぱを持っている植物は、酸化の反対の作用をしている。ただ、夜はやっぱり呼吸をするし、老木や枯木になると、酸素を減らす方になる。
 金属が錆びるのも酸化で、これもゆっくりと燃えているようなものだと思えば良い。また、生物が腐ったりするのも、酸化に近い。焚き火をしないで、そのまま放っておいても、物体は劣化する。腐って朽ちるわけだから、このとき酸素を消費する。つまり、早いか遅いかの違いともいえる。したがって、燃やさないことが特に重要なのではない。燃やさなくてもゴミはゴミである。リサイクルして活用したところで、物体は消えない。いずれはゴミになる。ゴミを減らすためには、新しいものをなるべく生産しない以外にない。


2005年11月02日(水曜日)

【HR】 球根

 もの凄い晴天だった。朝から日差しが大盤振る舞いで、あっという間に暖かくなる。3日くらいまえに買った花の苗を植えた。いつも適当にやっている。適当というのは、計画性がない、という意味と、いい加減な作業で、という意味である。
 スバル氏は、だいぶまえにチューリップの球根を200個買ったのだが、それをときどき、あちこちに植えている。適当に植えているように見える。「50個くらいで良いのではないか」と進言したのだが、「去年も150個くらい植えた」とのこと。今年の春は見事にチューリップが咲いたが、でも、せいぜい30本くらいだったように思う。そういう確率らしい。もう少し、「一球根入魂」でいってもらいたい気もする。
 パスカルが邪魔をして、植えている目の前に座り込んでいる。水をやるときも、その水のシャワーの中に口を開けて飛び込んでくるため、このようにびしょぬれになっている。オヤジ的に言うところの、「水も滴るいい子犬」だが、絶対に口にしたくないワードである。思いつくだけで背筋がぞっとする。

 ペンキ屋さんは、昨日で仕事が終わったのにもかかわらず、今日も来て、昔、駄菓子屋さんなどにあったガラスの陳列棚を持ってきてくれた。このまえも、子供が遊ぶ2輪車(トンボと言ったように記憶している)をもらった。うちに古いガラクタが沢山あるのを見て、持ってきてくれたのだ。普通ならば捨ててしまうようなものが、ときどき大事なものになる。

 もの凄い晴天なので、気持ちが良すぎて、落ち着かない。それで、飛行機を飛ばしにいった。これは、普通の人には意味が通じない。飛行場へ行く、という言葉も普通とは違う意味合いで使っている。つまり、模型飛行機を飛ばしにいく、という意味だ。久しぶりで面白かった。一言で表現すると、ふわふわでわくわくする。
 ガレージは1階のドアを開けておくと、蠅や蜂などの虫が中に舞い込む。そうすると、天窓の明かりの方へ上がっていく。こうなると、もう彼らは絶対に逃げ出せないようだ。つまり、低いところへは戻ろうとしない。
 河川工事は、最後の仕上げで、午後から庭師さんが2人来て作業。エッジの芝を戻し、石を貼ったりした。草が伸びて、来春にはコンクリートをすっかり覆い、小川らしくなるだろうか。

【社会】 古い体質

 ある程度大きな組織が長く存続すると、その中でいろいろな暗黙のルールが作られる。この役職は、こことこことここから一人ずつ順番に出すとか、これを勤めた人はそのあと何年かしたら、これになる、とか。不文律の場合もあるし、門外不出の申し合わせ事項として明記されているものもある。これはいわゆる、「平等」という表現で押し進められるシステムで、喧嘩をしないように、誰かが損をしないように、仲良くやりましょう、というものだ。
 こういうものが民主主義だと考えている人が多いが、それは違う。議論をしたうえで、どうしても合意が得られない場合には多数決を取る。そこで喧嘩になったり、損得が生じてもしかたがない。一時的に不平等になることもあるだろう。
 こういったおかしな平等意識が非常に根強い。特に、「官」という組織には強固にはびこっているだろう。それを強引に壊そうとする改革に対して、「そんなものは独裁政治だ!」と彼らは叫ぶのである。
 民主主義は、総理大臣や大統領という独裁者を民意が選ぶことができるシステムであり、その独裁者を民意で下ろすことも保証されている。それに選ばれた人は、大いに特権を行使し、官にはびこる意味のない平等ルールを壊してほしい。


2005年11月01日(火曜日)

【HR】 車談義

 「THE911&PORSCHE MAGAZINE」の取材を1時間ほど受けた。この雑誌は全国紙で、これまでに何冊か買ったことがあった。珍しいことに編集部が名古屋にある。しかもうちのすぐ近所だ。空冷のポルシェを選ぶならどれが良いか、というマニアックな話題だった。あまり詳しくは知らないので、適切な返答はできなかったものの、もう1台ポルシェをという想定でも、空冷エンジンの車種に乗りたいとは思う。

 久しぶりにビートを運転した。先月1年点検を受けたあと、ずっと遠くのガレージに置いたままだった。しかしバッテリィが新しくなっているので、一発始動。快調に走った。もうこの車は購入して14年になる。今まで乗った中でも一番長い。これを手放して、新しい車を買おうと幾度も考えたが、どうしても手放せない。そういう車である。

 庭の 河川工事も終盤。今日は実際に水を入れて、ポンプを動かしてみた。水中にあるためか、意外にもポンプの音はまったく聞こえない。静かに水が流れ、落差のあるところで落ちる音が耳を澄ませれば聞こえる。まさにせせらぎで、これは素晴らしい。住んでいる場所が静かであることの貴重さを感じる音だった。この土地は、野鳥の囀りが何種類も聞こえるし、市内なのに信じられないくらい夜はしいんと静まりかえっている。昨年までは、小牧へ降りる飛行機が上空を通ったのだが、それもセントレアができてから減った。まえに住んでいた家は、大通りに面し、隣がコンビニだったので、それに比べると宇宙のように静寂である。生活で一番の変化は、音楽をあまり聴かなくなったことだろうか。
 700万部突破のパーティの段取りを講談社のK城氏がしてくれている。これまでは、いずれも名駅の高島屋で料理のデリバリィを頼んでいたのだが、そういったサービスをもうやめたとのこと。方針が変わったということだろうか。それで、今年は松坂屋に発注することになった。グラマシーニューヨークのケーキでなくなるのが、少し残念だ(ほんの少しだが)。

【図工】 子供の感性

 絵を描くことが好きで、自分一人で絵を描いて、誰にも見せない、ということが子供のときからよくあった。人に見せないのは、その絵が上手に描けたかどうかは、自分で判断ができたからだ。逆に、大人に見せても、ちゃんとした評価をしてくれない、という思いが強かった。小学校の低学年のときには、既にそうだった。たまに、ここが良い、ここが悪いとずばり的を射る指摘をしてくれる大人がいて、「あ、凄いな」とこちらが大人を評価する、という立場なのだ。思い上がった子供である。
 しかし、ちゃんと見てくれる大人は、例外なく自分でも絵を描ける人だった。プロの絵描きのような人も多かった。小学校の担任は、国語も算数も教えてくれる先生で、でも絵を見てくれる先生ではない、ということは理解できた。どこにでもあるような、こじんまりまとまった、全然つまらない絵を褒めるのだ。無難な配色で、楽しそうにしている人たちを描いた絵だけが褒められる。明らかに大人が描いてほしい絵であって、子供にしか描けない絵ではない。それは作文でも同じだったし、音楽でも同じだった、と思う。たとえば、小学生がむちゃくちゃなパンクを歌っても、褒めてもらえないのである。
 大人は、空が綺麗だ、森林が美しい、花が可愛い、といった既成の平凡な価値観を子供に押しつける。子供たちは、大人に認められたい、親に褒められたい、良い子になりたい、という一心で、持っていた個性と感性を捨てていく。
 動物を見たら怖いと感じる。臭いと思う。それが自然である。「ほら、可愛いね」という大人のなにげない一言、その押しつけの繰り返しが、芸術家を少数にしているのではないか。

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