2008年05月09日(金曜日)

【国語】 鈍っていく言葉

 既に書いたとおり、「ちょー嬉しい」や「美味しすぎ」という言い回しは、最近では単に「とても嬉しい」「非常に美味しい」という意味でしかない。強調しているだけである。もともとは、前者は「超」であり、後者は「過ぎ」だ。これは、適切なレベルをオーバしてしまった状態を意味した表現である。たとえば、「超自然現象」というのは、「とても自然な現象」ではなく、「超能力」も「とても能力がある」ことではない。この従来の使用法だと、「超嬉しい」は、嬉しさを通り越して、もう素直には喜べない、気持ちが悪いくらいでむしろ嫌だ、という意味になる。また、同様に「美味しすぎる」というのも、現在の年寄り世代には、美味しさを通り越して、無闇に食べてはいけない、なにか躰に悪影響のある味だ、という意味に受け取られかねない。若い世代には、本来のその意味を知らずに使っている人が見受けられる。
 それは、まあ、べつに良いのだけれど……。
 このように、言葉というのは、表現がどんどん過激になる。逆にいうと、その言葉の持っていたもともとの意味は、しだいに控えめになっていく。オーバにオーバに言う方が面白いから、誰かが使う。すると、それをみんなが使いだし、普通の表現になってしまう。こうして、言葉は「鈍っていく」のである。鈍ってしまうからこそ、さらに鋭い表現が欲しくなり、よりオーバなものが使われることになる。例を挙げるなら、「非常に」も「とても」も「絶対」も「凄く」も、今では、多少強調しているだけで、「ありえないくらい」ではない。「ありえないくらい」も、全然ありえる範囲になった。
 この逆に、もともとの意味よりも、オーバになっていく表現はないだろうか、と考えた。まえに書いた「微妙に」とか、あるいは、「ちょっとねえ……」などは、今では「かなり」に近い。でも、鈍くなる例ほど多くはないようだ。


2008年05月04日(日曜日)

【国語】 文字の大きさ

 ワープロで文字の大きさが自由に変えられるようになったのは、つい最近のことだ。ほんの10年ちょっとまえまで、まだ「倍角」なんてやっていた(Macは最初から文字サイズが可変だったけど)。
 ネットの文章は、比較的簡単に文字サイズが変えられる。個人のブログなんかを見ても、強調のために大きな文字を使う人は多い。そういう僕も、HP「浮遊工作室」の「近況報告」のページを見てもらえばわかるが、文字サイズが不統一なこの「賑やかな文章」が好きな方だ。かつての日記は、ボールドを多用した。今は、その名残が「機関車製作部」のレポートにある。このMLAで、それをやめたのは、シンプルな方が読みやすいという人が多数だったからだ。
 強調したいときは、かつてはアンダーラインや傍点などが使われた。カラーの時代になると、文字色を変えて強調することが増えた。文字サイズを変えることは、読み手の方に抵抗があったものと思う。でも、だんだん増えつつあることは確か。読みにくいという人がいる一方で、読みやすいという人も増えているみたいだ。
 今後は、「動く文字」がどんどん増えてくるだろう。踊っていたり、揺れていたり、回っていたり、各種のパターンが考え出されて、さらに目まぐるしく賑やかになることだろう。「鬱陶しい!」と年寄りは感じるにちがいないが。
 強調以外にも、たとえば人の会話などで、大声のときはサイズを大きく、囁くときは小さく、というテクニックも面白い。そんなこといちいちやっていられないかもしれないが、非常に直感的な気はする。既に常用している作家はいるだろうか。


2008年04月29日(火曜日)

【国語】 国語の先生

 先生シリーズの最後。国語の先生は普通の社会人だった。担任になったのも、国語の先生が多い。次が英語の先生だったかな。
 漢文の先生だけは少し変わっていた。もう60歳を越えたおじいさんで、いつも腰に白い手拭いをぶら下げているのだが、朝は、若い女性が赤いフェアレディで彼を送ってくるのだ。校門で目撃した生徒が沢山いる。「あれは誰なんだ?」という話が広まった。まあ、順当なところでは「お嬢さんだろう」くらいだったが。ほかの先生にきいてもわからなかった。
 この漢文の授業は非常に面白く、僕は国語の中ではだんとつに漢文が好きだった。なにしろ、言葉に切れがある。ようするに美しい日本語というか、鋭い日本語は、こういうところから生まれたのだな、といった感じがした。次に好きだったのは、古文である。試験はまったくできなかったけれど、古文を読むのは大好きで、作文を古文で書いたことがあるほど、真似をしたりもした。だけど、漢文の方が凝縮されている印象で、やはり歴史の長さが違うな、と思った。
 先生に関しては、特にどうという特徴もなかった。そうそう、沢山のクラブに入ったけれど、その顧問も国語の先生が多かった。ワンゲル部もそうだったし、高校のときの漫画同好会も国語の先生が顧問だった。運動部の先生が理系が多かったのと対照的だった。クラブの顧問の先生の家へ遊びにいったことも何度かある。国語の先生というのは、そういう「友達になりやすさ」を持った人が多かったのだろうか。それとも、国語を学ぶことの意味はそこ(たとえばコミュニケーションとか)にあるのだろうか。


2008年04月24日(木曜日)

【国語】 ルビの影響で?

 ルビというのは、漢字の読み方を記したものである。「振り仮名」「読み仮名」ともいう。2006年7/22と、2007年5/15に書いたので参照のこと。一般の書籍では、小さい「っ」や「ゅ」などがルビには使われない。僕もデビューするまで気づかなかった。
 縦書きの場合、ルビは漢字の右横に記すが、1つの漢字が、仮名にすると3文字、4文字になることがあるので、スペース的に苦しくなる。漢字の大きさよりも、ルビの方が長くなってしまう場合も多い。漢字が1文字のときは、少々ルビがはみ出しても支障はない。しかし、熟語などで漢字が並んでいて、ルビも連続するときは困ったことになる。
 もともと、漢字と読みが対応した位置に記す方法が多いみたいだ。たとえば、「西之園」などのルビは「にしの その」のように並んでいる。「之」だけがルビが1文字だから変な間隔になる。「台詞」のように熟字訓のときは、「せ り ふ」と等間隔にルビが並ぶ。「だいし」と読むときとは、並び方が異なる。
 たとえば、「山吹早月」は「やまぶきさ つき」である。なんだか、ルビだけを読むと「やまぶきさ」が姓で、「つき」が名前に見えるが、ルビというのはあくまでも補助的なものなので、そんなに目くじらを立てることもないだろうか。ここまでは、べつに問題はないとしよう。
 ところが、「海月及介」の場合は、さらに変だ。ルビは「くらげきゅうすけ」と普通なのに、なんと本文の漢字の方が「海月及 介」になる。これは、「きゅう」が長いから、漢字の方でスペースを入れて調節したのだ。どうなんだろう、これっておかしくない? 補助的なものによって元の方が変わってしまうって、不自然な気がするのだ。本を沢山読んでいる人が築き上げたシステムだから、これで良いと思う人が多いのだとは思うけれど、不思議な美的センスだな、と僕は感じる。


2008年04月19日(土曜日)

【国語】 英語と国語

 小学生に英語を教えることになったそうだ。かなり以前から提案されていたことではある。「国際化」が叫ばれたのは、いったい何十年まえのことだっただろうか。しかし、この頃の若者を見ると、海外の文化に憧れたりする人は、割合としては減っているように思う。それだけ、日本が居心地の良い国、もしかして美しい国になったのかもしれない。
 英語を少し習ったり、あるいは数年間外国で生活したり、といったくらいのことで身につく英語力は、まったくスペシャルなものではないから、それでたとえば同時通訳ができるとか、難しい交渉や契約の作文ができる、といったレベルにはなれない。そんなスペシャリストは、けれど、大勢は必要ないのだ。
 たとえばの話、海外へグループで出かけていって仕事をするとき、全員英語が堪能であるに越したことはないけれど、英語のスペシャリストである必要は全然ない。そもそも、なんらかのコンテンツをその人間が持っているから海外へ派遣されるわけであって、そちらのスペシャリストであることの方が重要だ。そして、そのグループに1人だけ英語のスペシャリストがいれば充分である。
 国際化というのは、外国へ遊びにいっておしゃべりをすることではない。世間話ができて楽しんでもしかたがない。世界に通用するなんらかの技能を持っていることがまず第一条件であり、そういう人材を育てることが、国際化指向の教育だろう。したがって、技術も英会話も平均的な人よりも、技術か英会話のいずれかが優れている人材が必要といえる。という観点から、大学に入ってから進路が分かれるような今の教育は、多少スペシャリストを育成する期間が短いと感じる。
 小学生にまで英語を教えることは、いろいろ議論があるとは思うけれど、日本語以外の言葉の存在を知ることで、言語が単なるメディアであり、その表現に対する客観的な見方を意識させることに価値がある、と僕は思う。そして、この意味では、英語に限らず、幾つかの外国語を教えても良いと思うし、それを国語の学科の中に取り入れるべきだとも考える。


2008年04月15日(火曜日)

【国語】 表現力とは

 日本語は英語に比べると、誰でも書くことができる、といえるくらい作文が簡単だ。単語の順番を間違えても、だいたい通じてしまう。こんなに沢山の人がテキストを書いてネットで公開しているのも、そのためだろう。また、ある意味で、文学的な文章が特に簡単な言語といえる。英語を文学的に書くことに比べたら、という意味だ。しかし、ものごとを緻密に説明することにかけては、日本語は非常に難しい。文章だけで細かいことを正確に説明するのには向いていない。どうしても、図や写真の補助が必要になる。これもしかし、最近のネット文化を見れば明らかかもしれない。
 文章の表現力というのはどんなものか、というと、一言でいえば、相手がどう受け取るかを想像する力のことだ。語彙が豊富である必要は必ずしもない。何故なら、少ない単語でも、言葉数を尽くせば、誤解を避けることができる。スマートでなくても、最低限、間違いなく伝わる文章は可能だからだ。
 たとえば、ハサミを見たことがない人に、それを文章で説明し、どんな形のもので、どのように使うのか、などを伝えてみよう。フライパンでも良いし、ネジでも良い。誰もが知っている身近なものが良いだろう。説明したことなど一度もないからだ。さて、上手く説明できるだろうか? 絵を描けば簡単に伝わることでも、言葉だけで説明するのはけっこう難しい。実際にやってみないと気づかない難しさである。
 目の前に相手がいるときは、「ほら、ここで、こうしてね、こんなふうになるでしょう?」と身振りを交えて示すことができる。大衆の大多数は、目の前にいる人間だけを相手にする生活なのだ。そういう人が使う言葉は、ほとんど代名詞だけで用をなす。しかしこれでは、本当に日本語を操っているとはいえないだろう。英語でもまったく同じで、ネイティブの人であっても、本当に英語を操れる人はごく少数である。
 目が見えない人に、「透明」を説明してみよう。耳の聞こえない人に、「静けさ」を説明してみよう。


2008年04月10日(木曜日)

【国語】 ピンクくない

 「赤い」「青い」「黒い」「白い」などは、色の名称に「い」がついて形容詞になる。しかし、ならないものもある。「紫い」はない。「黄色い」と「茶色い」はあるのに、「桃色い」「こげ茶色い」「肌色い」はない。もちろん「ピンクい」もないし、たぶん「灰色い」もないはずだ(言いそうな気もする)。
 「い」で形容詞になるものは、否定では、「赤くない」のように「い」が「く」になって「ない」がつく。近頃の若者言葉だと、「これ、赤くね?」も否定文(反語)のはずだ(使っている本人が気づかない場合もあるだろうが)。
 たとえば、「これ、ちょっと灰色くない?」とか、「ちょっとピンクくない?」は文法的には間違いだけれど、わりと耳にする言い回しだ。つまり、大勢が既に使っているかもしれない。
 「汚い」は形容詞だから、「これ、ちょっと汚くない?」はOKだが、「綺麗」は最後に「い」がつくけれど形容詞ではないので、「綺麗くない」とは言わない。当然、「綺麗くね?」も変だ。「綺麗だ」という形容動詞はあるから、「綺麗でない」「綺麗でね?」が正しい。しかし、「これって、違うくね?」みたいに、かなり無理矢理な活用がまかり通っている昨今だから、「綺麗くね?」もまあありか。特に、「きれいくね?」ではなく、「きれくね?」と発音するのは、最後の「い」を「く」に活用しているし、既に耳にするし、努力は評価したい。
 ちなみに、「青い」があっても、「緑い」がないのは、グリーンを日本人が「あおあお」や「青葉」のように「あお」だと認識していたためだろう。


2008年04月06日(日曜日)

【国語】 言わず

 動詞の未然形には、今ではほとんど「ない」を接続するけれど、ときどき「ず」が使われる。「ず」でないと困る言い回しが幾つかある。
 「言わずにおく」は「言わないでおく」と言い換えられる。「ずに」は「ないで」になるようだ。しかし、「ず」や「ない」の後ろに名詞が来る場合に、「走らざる人」というのは少々古くさいので、「走らない人」が普通だろう。つまり、「ず」の活用の「ざれ」や「ざる」は、今ではもうほとんど使われないみたいだ。
 慣用句では、「言わずと知れた」みたいなものがあって、これは「言わないでも知っている」なんて現代的な言い回しにすると冴えない。せいぜい「言うまでもなく」くらいか。
 「言わず語らず」という言葉も、最近はあまり使わなくなった。これは「言わないし語らない」という意味ではあるけれど、「暗黙の了解」の「暗黙」に近くて、つまり、「言わず語らずのうちに伝わる」というように用いる。
 「言わずもがな」は、もうこの頃では死語だろうか。2種類の違う意味がある。知らない人は辞書を引こう。まだ使う人はいる。「がな」は願望を表す助詞だそうだけれど、「喰わずもがな」とか「読まずもがな」なんてあまり聞いたことがなく、「言わずもがな」でしかお目にかかれなくなってしまったのだろうか。こんなこと、書かずもがなだったかな。


2008年04月01日(火曜日)

【国語】 漢字の生物学

 お気づきの人は多いと思うが、漢字の偏に「虫」がついても虫ではないもの、「魚」がついても魚ではないものが多い。
 たとえば、蛙(カエル)は、虫ではない。鰐(ワニ)は、魚ではない。しかし、昔は両生類や爬虫類なんて分類はなかったかもしれないし、まあ、カエルは虫かな、ワニは魚かな、くらいは許せる範囲である。蛸(タコ)だって虫偏だし。
 鯨(クジラ)や鯱(シャチ)はほ乳類だけど、魚偏である。蜘蛛は、昆虫ではないが、まあ虫だろうか。蚯蚓(ミミズ)は虫かなぁ。しかし、蜥蜴(トカゲ)は虫ではないと思うし、蛇(ヘビ)だってかなり違う。ワニだけが魚で、ヘビは虫か。もっと凄いのは、蝙蝠(コウモリ)だ。これはほ乳類だが、せめて鳥偏にしてあげたい。そういえば、鳥類は、たいてい鳥偏で例外を思いつかない。やはり見た目で明らかだからだろうか。
 獣の場合も、獣偏がついているのは、狼(オオカミ)、猿(サル)、狸(タヌキ)、狐(キツネ)くらいで、熊(クマ)、虎(トラ)、象(ゾウ)、豹(ヒョウ)は獣偏がつかない。家畜では、猫だけ獣偏で、犬、牛、馬、豚などはつかない。キリンは、麒麟のように鹿偏だが、別に馬偏の字もある。
 ところで、虹(ニジ)はどうして虫偏なのだろう?


2008年03月28日(金曜日)

【国語】 本の並べ方

 棚に本を並べるとき、右からか左からか、どちらから並べるだろう。やはり左から右へ並べる人が多いかな。
 書店では、どちらも見かけるけれど、左から右へ並べている方が多いと思う。CD屋ではほぼ例外なく左から右へ並んでいる。しかし、これは、縦書きの文章の並びと反対である。縦書きは右から左へ書く。この方向は日本古来の並びである。日本語の本は、背表紙に縦書きの文字が書かれているわけだから、本来は右から左へ並べる方が相応しいかもしれない。
 たとえばの話、1巻が「わたしは」で、2巻が「あなたを」で、3巻が「愛している」というタイトルのシリーズものだったら、右から左へ並べると背表紙が「読める」ことになる。
 また、本を右から左へ並べると、背表紙が横文字で書かれているとき具合が良い。頭を右へ傾けて、背表紙の横文字を読むわけだが、こうすると、右は上になり、左は下になるから、上から下へ流れる方向になる。シリーズ1巻から4巻までの本を4冊まとめて棚から取り出したとき、背表紙の文字が読めるように水平にすると、上から順に並ぶ。逆に、左から右へ本を並べた洋書をまとめて棚から出して背表紙の文字が読めるように水平に置くと、下から1、2、と上へ並んでしまう。
 漫画のコマは、日本の縦書きの方向に準じて、右から左へ流れるが、これは国際的なフォーマットではない。美術館の絵は、どちらへ並んでいるだろう。いわゆる「順路」である。右から左だろうか、左から右だろうか。気になりだすと、いろいろな並びが気になる。
 僕は雑誌を沢山購読している。最初はベッドなどの横に積んでいく。そのとき、やはり自然に表紙を上にして積むのだ。すると、古い号は下に、新しい号は上になり、これをそのまままとめて棚に立てて入れると、左から右の順になる(僕の読む雑誌が、例外なく横書きで左綴じだからだ)。しかし、雑誌をまとめてバインダで綴じる場合は、中のページの順番が並ぶようにするから、結果的に右から左へ並ぶ。
 横書きの左綴じの本では、本の背から見ると、ページは右から左へ流れている。逆に縦書きの右綴じの本は、背から見ると、中は左から右へ流れている。この流れに従うと、洋書は右から左へ並べ、和書は左から右へ並べるのが、良いだろうか?
 結論は出ない。


2008年03月24日(月曜日)

【国語】 お任せ下さい

 街にある看板でときどき見かけるものに、「○○ならお任せ下さい」というフレーズがある。しかし、よく読んでみると変なものが多い。たとえば、うちの近くには、「交通事故ならお任せ下さい」という保険会社のものと、「雨漏りならお任せ下さい」という修繕業者の看板がある。べつにおかしいと感じない人も多いだろう。これが、「交通事故に遭ったときはお任せ下さい」「雨漏りの場合はお任せ下さい」なら少し和らぐ。「ならば」だったら良いようにも感じる。しかし、「ならば」が良くて、「なら」だったら変なのも、おかしい。
 「○○ならお任せ下さい」は、○○に入る名詞の商品を売る用意がある、あるいはそれをすることができる、という意味に普通は使われる。だから、「交通事故のときの処理ならお任せ下さい」「雨漏りのときの修繕ならお任せ下さい」が正しい記述である。これを省くから、まるで、アタリ屋のように交通事故を請け負っているみたいに聞こえるし、また屋根に穴をあけて雨漏りを演出してくれるみたいに想像してしまうのだ。
 おかしくない、という人はたぶん、「あなたがお困りのことが交通事故なら、(当社に)お任せ下さい」という読み方をしているのだろう。こうなると、たしかにおかしくない。
 微妙なものもある。たとえば、歯医者さんが「虫歯ならお任せ下さい」という看板を立てた場合、これは変だろうか? 「虫歯」は商品ではないが、しかし、そんなにおかしくない。でも、たとえば病院が「病気ならお任せ下さい」という看板を出したら、これはかなりおかしい。
 「お部屋探しならお任せ下さい」はおかしくないが、しかし、ただ探してくれるだけで、貸してくれない、売ってくれない、では困る。これも、「お部屋探しのときはお任せ下さい」の方が誤解がない。
 車に乗ったとき、カーナビが「道案内ならお任せ下さい」としゃべったら面白いが、「当たり前だろう」「だから買ったんじゃないか」とつっこみたくなる。カーナビは、「目的地周辺」で突然案内を放棄してしまうから、任せっ放しにできないと思うし。


2008年03月17日(月曜日)

【国語】 言葉の出入り

 有栖川有栖です。お招きいただき、モリログにお邪魔します。五日間、どうかお付き合いください。
 初日は国語にしました。テーマは言葉の出入りについて。出入りというのは、新しい言葉が生まれたり、古くなった言葉が消えていったりすることです。森博嗣さんと私には、「助教授」を探偵役にしたシリーズを書いている、という共通点がありますが、この「助教授」が学校教育法の改定に伴って、あれよあれよという間に「准教授」に変わってしまいました。言葉に出入りが生じたわけです。
 言葉は生き物ですから、新陳代謝は必然です。しかし、世の中には意図して「自分が新しい言葉を創ってやろう」と考える人がいます。自然科学で新しい事実や知見が見出された場合、発見者・発案者による名づけが行なわれるのは当然のことです。が、社会科学や人文科学の場合は、そうとは限らない。生煮えの仮説を提示した上で「私はこれを×××と呼んでいる」なんていうのを聞くと、「いい気なもんだ」と鼻白んでしまいます。本人は「このタームが流行ったらいいな。定着するとすごいなと」思っているのでしょうけれど。
 本当に「いい気」になれるかどうか試してみましょう。マスコミを通じて広まり、ある程度の期間、新語として流布しそうな言葉を二つ考えました。
 その一。安全性を欠いた工業製品や農産物を輸出したり、毒性を帯びた黄砂を撒き散らしたり、資源を確保するため他国(たとえばスーダン)の政情を混乱させたり、このところ中国発のトラブルが増えています。中国政府の責に負うものもあれば、大きな国が急速に発展することで生じる悩ましさもあるでしょう。それやこれやをひっくるめて、「私はこれをチャイナ・ハザードと呼んでいる」。
 その二。人口減少社会に突入したというのに、まだ「道路や橋を作ってくれ」「空港や新幹線を」と求める声があります(無論、中には必要なものもあるでしょうが)。利用者も税収も減少することが目に見えているのに。そのうち「新しいものはいらないから、せめて今の道路を維持させてくれ」となりそう。そんな事態が予想されるので、言葉を用意しておきましょう。「私はこれを維持苦と呼んでいる」。
 ……実際に流行らないと、いい気にはなれませんね。
 そうそう。国際化が進み、海外からの移民の子供たちの増加が見込まれていますが、教育の現場では、言語の問題をどう解消するかがすでに課題となっています。ある言葉の出入りが避けられないでしょう。将来、「国語」の授業の呼び名は「日本語」に改められると思います。


2008年03月11日(火曜日)

【国語】 ぶつ

 「ぶっちゃけ」について、かなりまえになるが、2006年4/20に書いているので参照のこと。
 「ぶつ」というのは、「叩く」とか「殴る」の意味だ。ときどき、「演説をぶつ」というのも聞くけれど、これも「打つ」という意味で、同じだろう。
 「ぶつ」を動詞の前につけて動作を強調した言葉が多い。「打ち壊す」が「ぶち壊す」になり「ぶっ壊す」と使われる。これは、「ぶっ殺す」、「ぶっ放す」、「ぶっ飛ばす」、「ぶっ込む」などが同じだ。「ぶち」が「ぶっ」にならないものもある。「ぶち当たる」、「ぶち抜く」、「ぶちまける」などがそうだ。発音しにくいからだろう。
 逆に「ぶっ」しかないものもある。「ぶった切る」は、「打ち手切る」なんだそうだ(「ぶっ切る」もある)。「ぶちたぎる」は聞かない。「ぶっちぎる」は「打っ千切る」だが、これも、「ぶちちぎる」は言わないようだ。
 関西では、「ぶっちらかす」なんてよく耳にする。お嬢様なら「打ち散らかす」と言った方が良い。「ぶっこく」なんていうのも聞くが、これは下品な響きである。
 紛らわしいのは、きざっぽく演説をしている人に、「ぶってんじゃないよ」って言った場合だ。この「ぶって」は、「きどる」の意味の「振る(ぶる)」なのか、「演説をする」の「ぶつ」なのか区別できない。きざっぽく演説しながら頭を叩いている人に、「ぶってんじゃないよ」といった場合は、さらに紛らわしい。


2008年03月06日(木曜日)

【国語】 ちゃうとじゃう

 こんなものは辞書に載っていないだろう、と思ったら、広辞苑には「ちゃう」も「じゃう」も両方あった。つまり、「てしまう」の略が「ちゃう」であり、「でしまう」の略が「じゃう」だ。この「〜してしまう」の「しまう」というのは、「仕舞う」「終う」と書くもので、完了させる、なしとげる、という意味が加わる言葉だ(英語の完了形とほぼ同じ)。
 ちなみに、「買っちゃう?」や「買っちゃわない?」を、「買おうか」「買おうよ」という意味に使う会話が最近急増していると感じる。「買ってしまう?」「買ってしまわない?」ももちろん同じ用法で昔からあったわけだが、ここまで広くは使われなかったと思う。
 「書いてしまう」が「書いちゃう」になり、「読んでしまう」が「読んじゃう」になる。「ちゃわない」「ちゃいます」「ちゃう」「ちゃうとき」「ちゃえば」「ちゃえ」「ちゃおう」のように、五段活用しているし。
 「では」の略で「じゃ」がある。「ではないか」を「じゃないか」という。また、助動詞の「である」が「じゃ」になった。西の方で多い。「わしはいやじゃ」の「じゃ」である。
 これらを組み合わせると、「読んでしまうのではないのである」は、「読んじゃうのじゃないのじゃ」になる。「ちゃうちゃう飼ってしまう」は「ちゃうちゃう飼っちゃう」になるし、「ジャガでは邪道であるが、ではどうだ?」は「ジャガじゃじゃどうじゃが、じゃあどうじゃ?」になる。面白いからやってみただけじゃ。


2008年02月29日(金曜日)

【国語】 ニュアンス

 これは、まえにも書いたことがある。「ニュアンス」という言葉はフランス語だが、辞書によれば、「色、音、調子、意味、感情などの微妙な差異」とある。用法として、「微妙なニュアンスが伝わらない」が挙げられている。同じものではなく、違うものなのだが、その差がわかってもらえない、という意味だ。また、辞書には「陰影」「濃淡」ともある。「ニュアンスをつける」といった使い方になるだろう。これは「アクセント」や「コントラスト」とも似ている。
 ところが、実際に会話に登場する「ニュアンス」は、これらとは違う意味に多く使われているようだ。「違い」という意味ではなくて、単に「微妙な意味」「より精度の高いイメージ」の意思伝達のような意味合いではないだろうか。「わかるかな、僕の言っているニュアンスが」とか、「そういった意味ではなくて、もっとこれこれこういったニュアンスなんだけれど」とか、そんなふうに使われている。小説を読んでも、この意味で使われている方がむしろ多い。僕も、「これは違うんだけれどな」と思いながらも、そちらの意味で「ニュアンス」を使うことがある。何故なら、ほかに適当でずばりの言葉が日本語にないのだ。
 そもそも、文芸というのは、文章の芸術なのであって、言葉を辞書にあるとおりの正しい用法で使う必要はどこにもない。これは、最初に作家になったときに担当編集者から言われたことだった。夏目漱石だって、独自の誤用を多用していたことは有名である。言葉を普通と違う意味で使うことで、新しいイメージが生まれる場合も多い。
 それでも、「ニュアンス」が出るたびに、「違うな」と後ろめたい。だから、「イメージ」や「雰囲気」に直すこともある。ただ、どうしても「ニュアンス」しかないな、と思うときがあるのだ。わかってもらえるだろうか、このニュアンス。


2008年02月20日(水曜日)

【国語】 最薄

 ケータイのコマーシャルで、「世界最薄」というのがある。これは、普通なら「さいはく」と読むところであるが、わざと「さいうす」と変な読み方をしているのだろう。しかし、それが変だと気づかず、日本中にこの用法が広まる気配があり、大いに心配している(嘘)。
 こうなると、「最強」は「さいつよ」になるし、「最高」は「さいたか」になるし、「最長」は「さいなが」になるし、「最速」は「さいはや」になる。これらは、案外いけそうな気がするから、やっぱり広まりそうだ。
 でも、「最大」を「さいおお」では、「最多」と区別がつかない。「最小」は「さいちいさ」、「最少」は「さいすくな」で、これは逆に区別がつくが、かなりシュールになってくる。
 「最終兵器」は「さいおわへいき」になるし、「最前線」は「さいまえせん」になるし、「最高値」は「さいたかね」になるだろう。あ、最後のはこれで良いのか……。そう、「最安」なんかも、「最安値」があるから、既に「さいやす」で使われているかもしれない。
 たしかに、「最広」を「さいひろ」といえば、通じやすいと思う。「最硬」を「さいかた」といえば、これもなんとか通じるような気もする。「最若」を「さいわか」、「最細」を「さいほそ」というのもわかりやすい部類ではある。いずれも、音読みだと伝わらないだろうから、これらは使う価値はあるかもしれない。
 さらに出てきそうなのは、「最ヤバ」「最マジ」「最キモ」くらいだろうか。


2008年02月16日(土曜日)

【国語】 富士山だけ違う

 「富士山」だけが、人間の「富士さん」のように呼ばれていることに気づいた。
 たとえば、「磐梯山」と「番台さん」は、アクセントが違う。つまり山の「阿蘇山」と人間の「阿蘇さん」では、必ず区別ができるように発音されているのに、「富士山」だけが、人間の「富士さん」と同じアクセントなのだ。この理由は何だろう? 富士山だけが、擬人化されるほど親しみを持たれているのだろうか?
 ここで思い出したのだが(そして、書くのは3回めだ)、僕は3歳のとき、保育園に行き始めた。その頃、平仮名を教えてもらい、数字も教えてもらった。「富士山」という言葉を聞いて知っていたので、それを僕は「ふじ3」と書いた。それが保育園の先生には、とても印象的だったらしく、家庭訪問のとき、僕の母にそのことを話した。僕はそのとき、恥ずかしかったのか、テーブルの下にいて、そのテーブルの天板の裏に、白いクレヨンで「ふじ3」「やまもと3」と書いた。山本さんというのは、先生の名前である。
 その後、漢字の読み方を教えてもらったときも、「人が人りいます」のように、同じ読みなら、適当に使って良いものだと考えた。つまり、「3」のときと同様に、平仮名よりも簡単に書ける漢字にこそ存在理由を見出したのだ。保育園の先生は、間違っていることは教えてくれたけれど、どうしていけないのかは、上手に説明してくれなかった。
 平仮名もアルファベットも「表音文字」だが、漢字と数字は「表意文字」なのである。数字の3を平仮名で「さん」と書いても間違いではないが、その逆はできない、と説明してくれたら良かったのに。


2008年02月12日(火曜日)

【国語】 いるかあるか再び

 2005年10/20の【国語】で「いるかあるか」を書いた。この問題は、その後も何度かことあるごとに思い浮かぶ。TVでアナウンサが、「現在、現場付近は規制されてあります」なんて言っていると、「それは、います、だろう」と突っ込みたくなる。「いる」なのか「ある」なのか、わりと難しい。みんな無意識に使い分けているのだから、日本人って凄い。
 「道具は片づけてある」はおかしくないが、「道具はかたづけている」はおかしい。「道具は片づけられている」は良いが、「道具は片づけられてある」はおかしい。やはり、主語が人間であれば「いる」が多く、ものであれば「ある」が多い。でも、「看板が立っている」であって、「立ってある」ではない。しかし、「看板が立てている」は変で、「立ててある」である。
 両方使える場合も多い。「綺麗にしてある」「綺麗にしている」などがそうだ。これは、意味が少し違う。「店は開けてある」「店は開けている」なども両方可だ。前者は今の状態を、後者はいつもそうしている、という意味合いが感じられる。
 これが、「います」「あります」になると、少しわかりにくくなるかもしれない。「靴はどこに置いていますか?」と「靴はどこに置いてありますか?」は、どう違うだろう? 前者では、相手の日頃の置き場所を尋ねているが、後者では、今の状態を尋ねていて、自分の靴がどこに置かれたかをきいているように聞こえる。
 微妙な日本語を使えることを誇りに思おう。


2008年02月07日(木曜日)

【国語】 まめ

 このまえ節分だったので、「まめ」について書こう。豆ではない。漢字で書くと「忠実」である。
 「そういうことには、まめだよね」というふうによく会話に現れる。意味としては、「労苦をいとわずよく勤め働くこと」だろうか。これは広辞苑にあった2つめの意味だ。ちなみに、1つめには「まごころがあること」とあるし、3つめは「生活の役に立つこと」、4つめは「身体の丈夫なこと」の意味が書かれていた。僕が知る限りでは、この4つめの意味は、年輩者にはわりと使われている。でも、まごころや役に立つの意味では聞いたことがない。節分で豆を撒くのは、躰が丈夫になることを願ってだと子供の頃に学校で聞いたが、間違いかもしれない。「魔滅」に音が近いという説も聞いたことがあるが、本当かどうかは知らない。
 「まめまめしい」という言葉もあって、誠実であることを強調した表現だが、これも今はほとんど聞かないように思う。
 さて、現在では、「まめ」という言葉は、完全な褒め言葉ではなく、少々嫌味が込められているように感じる。特に、第三者のことを、「あいつは、まめだから」と言うときは、かなり嘲弄しているイメージが伴う。似たものに、「器用」とか、「真面目」とか「優等生」などがあるかも。
 さて、「まめですね」と言われて素直に嬉しいかどうか、きっと年齢によって違うだろう。


2008年02月03日(日曜日)

【国語】 名文か迷文か

 日本語は韻を踏まなくて良いから、名文は誰にでも書ける。簡単にいうとリズムだ。しかも、平仮名で発音される1文字はほとんど母音を含んでいるから、つまり文字数である。
 今はもうないかもしれないけれど、昔の歌謡番組では、歌(たいてい演歌だが)のまえに、ナレーションというのか、司会者による曲紹介が入る。あれが、非常に調子が良かったりする。基本的に、七五調であるが、だいぶ幅を持たせることができる。その文字数の言葉を適当に入れると、自然にそれらしくなる。やってみよう。

 さざんかかおる ふゆげしき
 ゆめをみました いつのひか
 うしろすがたが なみだあめ
 うたいあげます おんなごころ
 
 みたいなやつである。最初7字5字で、最後は字余りにしてみた。講談なんかも、こんな調子で話が続くようだ。では、少し応用してみよう。

 やじろべいでも すましがお
 やじってみても みずすまし
 つたないけれど とうがらし
 こがらしふいて やまあらし
 あすはわがみか かがみもち

 意味はないが、同じフレーズ(発音の並び)を使うと、なんとなくまとまってくる。いい加減だなぁ……。
 言葉遊びというのは、感性のものだけれど、ルールがある方が簡単だ。洒落や文字数、また韻も1つのルールであって、わりと気軽に取り込める。結局、そうでない(ルールにならない)部分が一番難しいのだが。


2008年01月29日(火曜日)

【国語】 新しい諺

 素直に普通のことを諺にしてみた。

 二階で目薬 (二階で目薬を差しても牛にならない)
 長いものは巻ける (比較的巻きやすいというだけ)
 能ある鷹には爪がある (鷹にはたいてい爪がある)
 蛙の子はオタマジャクシ (卵はまだ子ではないか)
 雨降って地ぬかるむ (グラウンドに砂を撒いたり)
 腐っても鯛 (賞味期限切れでも別の魚にならない)
 帯は長いし襷は短い (帯とか襷とか知らないから)

 なにか意味がありそうなふうにしてみた。

 二階でも目薬 (同時多発目薬か、という心配に)
 長芋にはマカロン (食い合わせでは、と心配に)
 能ある鷹は爪を噛む (臍を噛む、といいたいが)
 蛙の子がさきか卵がさきか (特に面白くないね)
 雨降って血固まる (血の雨が降ったのか、心配)
 腐ったら鯛 (腐るまえはもっと凄かった、の意)
 ルビは短かし漢字は長し (お化け漢字みたいな)


2008年01月23日(水曜日)

【国語】 会話と文章の違い

 人と話した内容を録音し、これを文章に起こす機会が、僕の仕事ではわりと多い。たとえば、講演や講義を録音し、それを文章にしたものがある。聴いている人たちがその場にいて、その人たちにわかるように話す。ところが、あとで文章になったものを読んでみると、情報が欠落していたり、代名詞が多くて曖昧だったり、誤解を招きやすい表現だったり、酷いときには、まるで間違っていたりする。しかし多くの場合、その場ではそれで通じてしまっているのである。
 記録を前提として話をすることもある。対談などがそうだ。文章になることを意識して話をするわけだが、それでもやはり話したとおりそのままでは、読めたものではない。手を加えて、読める文章に直さなければならない。
 書く文章と読む文章に差がない、という人が沢山いる。あるいは、話が上手い人は、そのまま文章も書ける、と考えている向きもある。これらは、完全な思い違いで、書く文章は会話とはまったく別物といって良いし、また、話が上手い人はえてして文章が下手だ。
 何が違うのか?
 会話はその場にいる人にだけ伝われば目的が達成される。相手の顔を見て話ができたり、あるいはレスポンスがすぐにあったりして、話す内容にフィードバックできる。
 文章でも、読む相手や読む時間が限定されているものは、会話に近いものでも目的を達成できる。しかし、読み手が特定できない、いつ読まれるかわからない(20年後かもしれない)場合であっても意味が伝わるように書くことは、それなりの難しさが伴う。
 相手がどう受け止めるのか、という発想が常になければならない。間違えて読む可能性をいつも考える必要がある。頭の半分は、いかに表現するかを考え、もう半分は、それがどう伝わるのかを予想する、それが文章を書く作業だ。実は、会話でも同様の処理が行われている。ただ、相手の可能性をどこまで広げられるか、という範囲の差が極めて大きい。


2008年01月19日(土曜日)

【国語】 「その」と「あの」

 「見かけない人を見たら、その人は誰?と声をかけ合いましょう」という標語を街で見かけた。これは、たぶん「あの人」の間違いだと思う。英語だったら、「その」なのだが、日本語ではおかしい。
 「その」と「あの」あるいは、「そこ」と「あそこ」は、どう違うのか?
 子供のとき、自分に近いものは「この」「ここ」であり、少し離れていれば「その」「そこ」であり、ずっと遠くだったら「あの」「あそこ」を使う、と習った。しかし、これは正確ではない。
 たとえば、電話をしているとき、相手のすぐ近くにあるものは、「それ」である。自分からはるかに遠いところにあっても、「あれ」ではない。
 上の標語の例では、怪しい人が、お隣の人と話をしているとき、少し離れたところから、お隣の人に「その人は誰?」と尋ねたイメージになる。その2人のところまで自分が近づくと、「この人」になる。いずれにしても、お隣の人と怪しい人は距離的に近い。「あの人」になるには、話している相手から対象が遠くなければならない。
 自分が名古屋にいて、東京にいる相手と電話をしているとき、名古屋は「ここ」であり、東京は「そこ」である。静岡の話をすると、「あそこ」になる。この場合、「そこ」よりも「あそこ」の方が距離的に近い。
 自分と相手が川の両側にいれば、「こちら」と「そちら」しかない。相手も自分と同じ側にいれば、「こちら」と「あちら」しかない。


2008年01月13日(日曜日)

【国語】 文字の不完全性

 英語は話すことは簡単だが、書くことが難しい。発音ができても、スペルが不規則で間違いやすい。とにかく覚えるしかない、という点では、日本の漢字に近い。しかし、日本には平仮名や片仮名があるから、この点では有利だ(発音記号がこれに相当するが)。仮名さえ知っていれば、言葉の発音どおりほぼ文字にすることができる。単純な表音文字がないところでは、文字の読み方の教育は、人間(あるいは機械)が発音して聴かせるしかない。日本人は、仮名を覚えれば、あとは独学で漢字の勉強ができるし、ルビがあれば、少なくとも漢字を読むことはできる。文字の読み書きができない人の比率が、世界でも日本は圧倒的に少ないが、これは平仮名のおかげである。
 さて、しかし厳密にはこんなに簡単ではない。たとえば、「先生」「宣誓」は同じ「せんせい」だが、アクセントが違う。関東と関西でも読み方は違う。また、同一の言葉であっても、単独の「切符」と「記念切符」の「きっぷ」はアクセントが違う。前後にあるもので発音は変化するのだ。これらは、文字には表れない。アクセントを独学で習うことは日本の場合はとても難しい。
 文字は、「意味を伝える」ことが主目的であるため、その方面では分解能を高め、情報量が多い。発音された言葉よりも、書いた文章の方が意味的にはより厳密になる。「せんせい」と聞いても「宣誓」か「先生」かわからないが、漢字にすればその誤解はない。しかし、実際は、前後の関係やアクセントによって、聞き分けられている場合がほとんどである。
 アクセントは時代とともに変化している。若い人の話し方を観察していると、いつも新しいものに出会う。でも、それらを文字では表せないことが多く、残念だと思う。
 もちろん、歌をうたっていても、そのメロディは文字には表れないわけで、元来文字は不完全な記号といえる。


2008年01月09日(水曜日)

【国語】 「たしか」の信頼度

 会話によく登場する「たしか」という言葉、皆さんもよく使われることと思う。
 「え、本当にそうなの?」ときかれて、「ええ、たしか、そうでした」と答えるのと、「ええ、たしかに、そうでした」と答えるのと同じだろうか。後者の方が信憑性が高いように感じる人は多いはず。
 「たしか」は、もともとは「たしかに」と同じ言葉だっただろうし、もちろん「確かに」という意味だから、「確実に」と言い換えられる意味だったはずだ。それが現在では、「たしか、このまえの日曜日じゃなかったっけ」と言ったときの「たしか」は、「たぶん」や「おそらく」と言い換えても同じくらい「不確か」である。 
 「たぶん」も、「多分」だから、「多分に」から来たものと思う。これも、もともとは「多くの場合」とか「かなりの確率で」という意味だが、今では「たぶん」はかなり頼りない感じに成り下がっている。そもそもは推量を述べる言葉ではなかったはずだ。「たいてい」や「おおかた」も似ている。「おそらく」は「恐らく」であって、もともとは「思うに」とか「心配するのは」みたいな感じの言葉だったのでは、と想像する。
 こうなると、確率が高いことを伝えるには、「きっと」になる。これは「屹度」と書いてあるものを見かけるが、当て字かもしれない。睨みつけるときにも使うけれど、そういう意味では「しっかり」とも似ていると思う。
 「明日、頼むよ」と言われたとき、返事が「たぶん」「おそらく」では叱られる。「たしかに」なら大丈夫だろうか。


2008年01月05日(土曜日)

【国語】 「自主」について

 「自主」というのは、「他人の保護や干渉を受けず、独立して行うこと」と辞書にある。「自立」や「独立」が状態を示しているのに対して、「自主」はなんらかの行動を伴うイメージだ。「自主的」となってもほぼ同じ意味である。「自主独立」と状態を強調することもあるし、また、行動することを強調して「自主独往」という言葉もある。反対語は何だろう、と考えてみたが、適当なものが思い浮かばなかった。「他力本願」とか「なりゆき」とか「強制的」だろうか。
 この時期、プロ野球の選手が「自主トレ」なるものをする。よく耳にする言葉だ。「自主トレーニング」のことである。ということは、普通のトレーニングは自主的ではない、ということになる。つまり、契約期間外に、チームとしての活動ではなく、個人の自主で行っているトレーニング、という意味らしい。仕事のためになることだからと、自費でパソコン教室に通うようなものだろうか(喩えが悪いぞ)。
 そもそも仕事というのは、自主的にしているものだ、と思う。違うかな。誰かに「お前はこの仕事が向いているから、これをしろ」と命令され、拒否権もないまま就職した人はいないはずだ。プロ野球の選手だってそうだと思う。だから、トレーニングも試合も、本当はすべてが自主的なのではないか、という意見もあることだろう。
 「まあ、断ることはできるけれど、無理に断って波風を立てたくないから、気は重いが参加するしかない」というようなものも、「自主的」のうちらしい、町内会の活動みたいに(喩えが悪いぞ)。解雇されたのと、自主的に辞職したのと、ほとんど区別がつかない場合も散見されるところだ。つまり、「追い込まれた自主」とか「ほかに選択肢がない自主」というものが世の中には多いため、このように意味の幅が生じるのであろうか。狭義の「自主」、すなわち本当の自主を勝ち取りたいものである。


2008年01月01日(火曜日)

【国語】 あやまって、はやまって

 「あやまって転落した」というのは、「誤って」であって、「謝って」ではない。これを誤ると、恥ずかしい。「あやまって済むと思うな」は、「謝って」であって、「誤って」ではない。これを誤ると……、あれ? 通じるな。難しいが、通常は「誤った」ことに対して「謝る」のである。「謝った」ことが「誤り」であったという場合もなくはない。相手を「誤って」「謝って」しまうこともあるだろう。相手が謝っているのを認めないことを「謝りを認めない」と使うと仄かに変だ。「誤り」と「過ち」は似ているが、少し違う。
 ゲームなんかで、相手が間違えたら自分が勝てるという場面で、「誤れ!」と叫んでも、きっとその意味では取られないだろう。
 「はやまった」というのは、「早まった」であるが、「早まったことをしてくれた」といった場合には、思慮が足りない行為をいう。自殺なんかに対してもいったりする。予定が変更になって前倒しになった場合も「早まった」というけれど、予定を早めたことに対して、「早まったことをしたな」とはいわない。それは「早めたな」である。
 自殺しそうな人に、「早まるな!」と止めることがある。これは、「まだその時期ではない。もう少しあとにしろ」という意味だろうか。かわりにこう叫んだらいかがか。「はやまって済むと思うな!」


2007年12月27日(木曜日)

【国語】 年末年始の注意

 12月のことは「師走」という。そこで、人から「先生はやっぱりこの時期忙しいのでしょう?」と言われることが多いのだが、師走の「師」は僧侶のことで、お経をあげる機会が多くて忙しかったらしい。「師走坊主」という言葉もよく聞かれるけれど、ときどき「12月に忙しいお坊さん」という意味に使っているのを見かける。これは間違いで、「貧乏な人」という意味だから注意が必要。忙しいのにどうして貧乏なのか不思議だが、理由は調べよう。
 年が明けて、「来年もよろしく」と書いてくる年賀状が必ず1枚はある。まあ、素直というか、正直ではある。普通の手紙では、書いた時点を「現在」として記述し、届く時点を「現在」とするような配慮はなされないので、たしかに特殊といえる。
 「一年の計は元旦にあり」という言葉を、元日に善行をすればその一年が恙なく過ごせる、「初めが肝心だ」という意味に使っている人も見かける。「計」は「計画」のことだと思う。初めに計画を立てろ、という意味だ。ちなみに、もう書いたけれど、「元旦の朝」と言わないように。
 「一年発起して、今年は頑張ります」という誤字も多い。気持ちはわかるが「一念発起」であり、べつに年始でなくても、いつでも好きなときにすれば良いと思う。


2007年12月23日(日曜日)

【国語】 変則的な読み方

 漢字の熟語には、ときどき変則的な読み方がある。もちろん、それなりに経緯や理由があるのだろうけれど、こうした例外があるだけで、国語が嫌いになってしまう子供も多いことだろう。
 たとえば、「女房」は「にょうぼう」と読むが、漢字からすれば「にょぼう」ではないか。普通「女」は「にょ」なのに、どうしてここだけ「にょう」になるのだろう。「女王」も大勢が「じょうおう」と発音しているが、これは辞書には「じょおう」とある。大勢がそう読んでしまったから「にょうぼう」に変わったのだろうか。
 「相殺」は「そうさつ」と読みたくなるが、「そうさい」が正しい。でも、どうして「殺」を「さい」と読むのだろう。「風情」の「風」はどうして「ふう」ではなく「ふ」なのだろう。「読経」は何故「どくきょう」ではなく「どきょう」なのだろう。「遊説」の「説」は、どうして「ぜい」なのだろう。そんなこといったら、「左右」はどうして「さう」じゃないのか。「発足」なんかも、近頃もう「はっそく」が多数になってしまったのは、やはり変則的すぎたからではないか。
 まあ、それは良いとして……。
 「老若男女」は、「ろうにゃくなんにょ」である。言いにくかっただけかもしれないが、やりすぎではないか。「ろうにゃくだんじょ」でも発音は難しくないと思うのだ。
 なんか、わざと読み間違えやすくしている気がしないでもない。けれど、こういうのが、いわゆる「文化」なのだろうなあ(しみじみ)。あんまりこの方面には関わりたくない、と思っていたのに、作家になったりしたので、この歳になって毎日が「国語」の勉強である。小学校の先生よりは、ATOKの方が少し「人に優しい」けれど……。


2007年12月14日(金曜日)

【国語】 中毒と禁断

 「私は活字中毒です」と自称する人が、この分野には多い。どちらかというと、あまり文字を読まない人の方が世間では大多数で、そういう人は、ときどきなにかの気まぐれで本を読もうとしても、ちょっと活字が目に飛び込んできただけで気持ちが悪くなったりする。こっちの方がむしろ「活字中毒」に相応しいような気もするがいかがか。いや、これは「急性活字中毒」かもしれない。あるいは、「活字あたり」といった方が良いか。
 「活字中毒」は、「アルコール中毒」や「ニコチン中毒」と同じようなイメージで使われているようだ。つまり、活字を摂取していないと落ち着かなくなる、という症状を訴えたいものと思われる。しかし、辞書によると、「中毒」というのは、「飲食物または薬物などの毒性によって生体の組織や機能が障害されること」とある。だから、やや意味がずれているような気がする。「活字依存症」の方が伝わるのではないか。活字を読まない人には、特に伝わりにくいと思う。たぶん、活字を読み過ぎて目が痛くなる症状のこと、くらいに想像されてしまうだろう。
 「禁断症状」などもよく使われるフレーズだ。つまり、「活字中毒」の人が、忙しくてなかなか本が読めないときに、禁断症状になるらしい。摂取を中断することで起こす症状のことだ。一方、「禁断の実」というときの「禁断」は、神様が禁じていた、との意であるけれど、転じて、「今までになかったほど魅惑的な」というイメージで使われている。つまり、神様が禁じていたのは「快楽」である、という信仰心の欠如した解釈だ。だから、「禁断症状」も「禁断の症状」というだけで、なんだか人知れず素晴らしい感じになってしまう。


2007年12月10日(月曜日)

【国語】 熟字訓

 1字の漢字ではなく、熟字(熟語ともいうが)の漢字に訓読みをつけたものをいう。たとえば、よく例に挙げられるのは、「今日」と書いて「きょう」と読むようなもの。「今」が「きょ」で「日」が「う」と、文字に読み方が当てられているのではない。ここが特徴だ。ほかにも、「大和(やまと)」「七夕(たなばた)」「欠伸(あくび)」「煙草(たばこ)」などがあり、地名や人名にもかなり多い。また、名詞以外でも、「可笑(おか)しい」「相応(ふさわ)しい」など、小説によく登場するような例も多数。熟字訓は、当て字とは違う。また、訓読みが漢字ごとに明確に分割できるものも、熟字訓ではない、とされている。
 音読みができるものもあるが、訓読みしかないものも多い。外国人にとっては、例外的な読み方と捉えられるから、「日本語は難しい」というときに、よく槍玉に挙げられるところだけれど、日本人にとっても難しいだろう。特に、音読みすると、少々意味が異なるような場合もあって困る。「今日」を「きょう」と読むか「こんにち」と読むかで意味が違う。あるいは、「浴衣」を「ゆかた」と読むか「よくい」と読むかでも違う。
 自分の書いた小説がゲラになると、編集部がつけたルビがある(基本的に、最初の原稿の段階でルビを振るようなことは僕の場合はほとんどない)。このとき、小さなルビが、漢字の横のどの位置にあるか、という細かい点に着目すると、熟字訓が意識できることがある。つまり、熟字全体に均等に割り振られているか、それとも1字ごとにルビが振られて間隔が不揃いか、の違いだ(もちろん、わからない場合もある)。
 僕の登場人物の名前には、熟字訓がけっこう多いかも。小鳥遊(たかなし)や海月(くらげ)がそうだ。


2007年12月06日(木曜日)

【国語】 会話の表現

 会話文を「」の中に入れて書くことは、小説を読む人ならばごく当たり前だと認識しているだろう。しかし、慣れていない人間にとっては、ちょっとしたギャップがあるものだ。たとえば、
 「青天の霹靂という漢字が書ける人はいますか?」と先生が言った。
 という書き方は、まあおかしくないだろう。しかし、
 「先生、青天の霹靂って、何ですか? どんな意味なんですか?」と太郎は尋ねた。
 というのは、どうだろう? 太郎はこの言葉を知らないのに、難しい漢字で書いても良いものだろうか?
 「先生、セーテンノヘキレキって、何ですか?」
 と書くべきではないか。しかし、この文章を書いている人間が、その言葉を認識しているのであって、太郎の知的水準が文章に反映するのも変な話だ、という見方も当然ある。ただ、もしそうだとしても、
 「bubble」とタラちゃんは言った。
 などと書いておいて、タラちゃんが英語のスペルまで知っているわけではないが、観察者にはそう聞こえたのだ、と主張できるだろうか。そもそも記述者はその場にいるとは限らない。では、誰かからの伝聞であるか、想像かもしれない。その場合は、どの時点でその言葉を認識したのか。
 記述者の認識で表記が決まるのであれば、記述者が誤解をしたとき、その時点ではそのとおりに書くべきだ。たとえば聞き間違えた場合も、そのまま書かねばならなくなるが、それは事実に反する記述でであり、ミステリィとしてはフェアかどうか、という議論になる。聞いた時点と書く時点を分けるべきなのか。それがいつ観察し、いつ記述されたものなのかが明記されていない文章では、フェアもアンフェアも議論できなくなる。
 外国人が、一つ覚えの日本語で、「ありがとう」と言った場合、彼は平仮名も認識していないのだから、「arigato」と書くべきだろうか、というのも同様の問題だし、さらに、なにも認識などしていない動物や機械がしゃべった場合は、どう表記するのか、なども興味深い。


2007年12月02日(日曜日)

【国語】 「ので」と「から」と「ため」

 理由と結論を結ぶときに、「ので」や「から」といった助詞(だと思う)を使う。理由が反対のときは、「が」や「けれど」になる。
 「美味しいので好きです」も、「美味しいから好きです」もまったく同じ意味だ。ただ、まったく同じかというと、そうでもない。「綺麗なので」と「綺麗だから」のように、前の接続が少し違う場合もある。これは、何だろう? 「ので」は連体形で、「から」は終止形か? うーん、難しいな。「から」は漢字だと「故」で、これは「ゆえ」とも読む。
 たぶん、「ので」にするか「から」にするかは好みの問題だと思う。僕の場合は、「ので」の方が圧倒的に多いはず。理由は特にない。
 また、「ため」という言葉もある。これは「為」だ。「ゆえ」に似ているように見受けられる。「美味しいため好きです」というと、なんとなく仄かに違和感があるが、通じないことは全然ない。「美味しいゆえ好きです」だと貴族っぽいが、違和感はまだ少ない。
 また、「雨が降っているので行けません」と「雨が降っているため行けません」のように、「ので」と「ため」がそのまま交換できる場合もあるし、「雨なので行けません」と「雨のため行けません」のように、やはり前の接続が違う場合もある。「ため」は、「の」の後にくるし、動詞に続く場合も、動詞が連体形だ。つまり「ため」は名詞なのか? おお、きっとそうだ。
 意味的には、「ので」と「から」はほとんど同じだが、「ため」はちょっとだけ違う気がする。結局、全然整理できなかったので(から、ため、ゆえ、いずれも可)、気にしないように。


2007年11月28日(水曜日)

【国語】 「作り方」へのちゃちゃ

1)箱のフタをあけ、中身をすべて取り出す。(たいていは、蓋を開けないと取り出せないだろう。フタと片仮名で書いてある意味は?)
2)麺を箱にあけ、液体調味料をムラなくかける。(この「あけ」は、1)の「あけ」とは意味が異なる。ムラは「斑」のことだが、何故片仮名?)
3)液体ソースをかけ、最後にレトルト調理品をかける。(この「かけ」は、1)2)の「あけ」と韻を踏んでいるのだろうか?)
4)フタを閉め、下記の表を目安に電子レンジで加熱する。(「あけ」は平仮名だったのに何故「閉め」は漢字なのか?)
5)よく掻き混ぜて出来上がり。(掻き混ぜるためには、蓋を開ける必要があるが、1)で書いたのにここで書かれていないのは、開けずに箱ごと振り回せという意味だろうか?)
 生きていくためには、適度な読解力が必要である。


2007年11月23日(金曜日)

【国語】 目についた慣用句

 「彼は目もくれないでノートを取っている」と学生が言っていた。それはちょっと変だ。ノートは黒板を見ながら取るものだから、目もくれないでは無理なのではないかと思ったのだ。まあしかし、意味としては間違っていない。「目もくれない」は、「メモをくれない」ではなく、「脇目もせず」という意味だが、「脇目」がわからないと、また困る。「脇目」は、「よそ見」のことだが、あ、だったら、よそ見をしないでノートを取っているのだから、良いのか。いや、違う。目もくれないは、そちらを見向きもしない、の意味だから、ノート以外を見ない感じがするわけだ。ちなみに、「脇目もくれない」は間違いで、「脇目も振らない」と使う。
 こんな簡単な慣用句を間違えて使うと目も当てられない。これは、呆れてしまったときなんかに、「まったくもう、目も当てられない状態」などと使う。見るに耐えない、見ることも我慢できない酷い状態という意味だ。「目に入れても痛くないほど可愛い」なんて言うから、その反対で、目に当てたら痛いのか、と想像すると間違い。目を当てるは、たぶん、視線を向ける、という意味だと思う。
 「目」を使った慣用句は多いが、ちょっとわかりにくいものを幾つか思いつくと、「目をかける」「目を奪う」「目を皿にする」「目を白黒させる」くらいだろうか。比較的わかりやすいものは、「目を配る」「目を疑う」「目を肥やす」「目を覆う」くらいか。
 さて、では「目を立てる」はどういう意味だろうか? 案外答えられないのでは。わからない人は辞書を引きましょう。答を知って悔しがる人が、30%くらいいるかな。


2007年11月19日(月曜日)

【国語】 反語が通じない

 反語という表現法があるが、最近の若者に通じないことがあって困る。
 反語とは、強調するために、意味を反対にして(通常は肯定と否定をひっくり返して)、多くは疑問形にした表現のこと。たとえば、「とても不味い!」という代わりに、「これが美味しいのか?」とか、「誰が美味しいと言うだろう」といったふうに言う。あるいは、単なる皮肉を反語という場合もある。たとえば、遅刻してきた人に、「早いね」と言ったりする。
 これが通じないというのは、どういうことか。11/9の【国語】で、「ご遠慮下さい」が通じない話を書いたが、つまり、その言葉の意味どおりにしか受け取られない、ということである。
 「僕の気持ちを誰がわかってくれるだろう」と主人公が独白すると、「まだ誰にも話していないのに、どうしてこんなことを考えるんだ?」と不思議に思う。あるいは、「こんなことで良いのだろうか?」と書かれていると、「いいえ、そんなことでは困ります」と真剣に意見を言う人がいたりする。皮肉も皮肉に受け取られない。さきほどの例でいうと、「早いね」と言われて、「そうか、これでもまだ早い方なんだ」と素直に解釈するのである。
 ようするに、通常の会話にはもうほとんど登場しない言い回しなのだろう。少なくとも、その人の周囲ではそんな言い方をする人間がいない。本を読まずに育つと、そうなる。そういう人が、「一度くらい、本でも読んでみようか」と読み始めると、書いてあることが全然わからない。つまり、「読めない本」がとても多い。
 さて、これを、「困ったものだ」で済ませてしまうのか、それとも、そのレベルに合わせてコミュニケーションが取れるものを書くのか、は自由だと思うし、作家はある程度、この選択をしなければならないだろう。


2007年11月14日(水曜日)

【国語】 「直」について

 「すぐ」は、漢字だと「直ぐ」と書く。もともとは、「曲がっていない」「正しい」の意である。今では、「真っ直ぐ」という言葉でしかその意味は使われていないように思う。昔は「直ぐなる者」とか、「直ぐにない者」なんて使ったようだ。「直し」と書いて、「すぐし」という形容詞もあった。
 一方、副詞で使われる「すぐ」は、「直(ただ)ちに」という意味で、時間的に間をおかないことだが、位置的に間をおかない場合にも用いる。「すぐ行きます」や、「すぐ近くで」などがこれ。
 発音が似ているものに、「過ぎる」があるし、古い言葉だが、「次」と書く「すがい」がある。過ぎたら、すぐ次に、というように、どことなく似ているので、語源が同じなのかも。優れるや、勝れる、選るなども、「すぐ」の読みで、似ている。
 ところで、「直」には、「じか」という読み方もあって、間になにもおかないこと、「直接」の意味で使われる。たとえば、「直談判」などがこれだ。だから「直に会う」は、「じかに会う」と普通は読むが、これを「すぐに会う」と読んでも間違いではない。もともとは、「すぐに」にも、「じかに」の意味があったらしい。「直付け」という言葉があって、これは「すぐづけ」と読むが、意味は「じかづけ」のことだ。
 この頃、会話では「じかに」のことを「ちょくに」と言う人が増えた。たぶん、「直接に」の略だと思う。それとも、単に「直に」を読み間違えているのだろうか。


2007年11月09日(金曜日)

【国語】 遠慮と慎み

 「遠慮」のもともとの意味は、「遠いさきざきまで考えること」である。しかし、この意味ではもう使われていない。
 普通は、「行動を控えめにすること」の意で用いられる。ほかの言葉でいうと「我慢」に近い。我慢は、自分の気持ちを抑えて行動を取りやめることだが、遠慮の場合は、控えたことがしたかったことかどうかはわからない。もともと、遠慮したくて遠慮する場合が多い。そこが違う。したがって、ものごとを「断る」という意味で用いられることもある。食事に誘われたときなど、「遠慮します」といえば、辞退するという意味で、これなどは「我慢します」とはだいぶ違う。
 遠慮には程度がある。遠慮が強い場合には「深い」という。逆の「浅い」はあまり耳にしない。遠慮が少ない場合は、単に「ない」といわれるだけである。これは、「慎み」も同じ。「慎み深い」はあるが、「慎み浅い」はない。「慎み」も、自分に対して、「今後、慎みます」といい、「行動をしない」という意味で用いる。「遠慮します」と行動的には同じだが、気持ちが違う。慎むのは、やりたくないからではなく、やってはいけないことだからだ。この点では、さきほどの「我慢」に近いけれど、悪いことをしたとき、「今後は我慢します」では叱られる。我慢するのは、まだやりたい気持ちが残っていることを示している。そういった気持ちも消し去るのが「慎む」だろうか。
 「遠慮」も「慎み」も他人に対して強要する言い方がある。非常に日本的だ。「ご遠慮下さい」や、「慎んで下さい」といえば、「するな」の意味である。本来はその意味だったが、近頃、「ご遠慮下さい」を、「控えめにしろ」→「少なめにしろ」→「できればしないで下さい」→「してもいいけれど、あまり喜ばれません」というように解釈している人が増えた。「近頃の若者は……」と文句を言うまえに、きちんとコミュニケーションが取れているか確認する必要がある。言葉が通じていないのだ。「ゴミ捨てご遠慮下さい」と書いても、遠慮がちに捨てられるだけなのである。


2007年11月05日(月曜日)

【国語】 表記の統一

 一般の人が、ごく普通に書く文章では、この「統一」はほとんど問題にならない。そのときどきで好きなように書けば良い。僕の場合もずっとそういう人生だったが、論文を書くようになると、先生から細かいチェックが入るようになり、「統一せよ」と指導された。
 つまり、漢字にしたり、平仮名にしたり、カタカナにしたり、といったことから、数字や記号の使い方(たとえば括弧のうち何を使うか)に至るまで、「気まぐれ」であってはいけない。もし複数の表記が混在するならば、どういう場合がこちらで、どういう場合がこちらなのか、その理由を明らかにしなければならない。明確な理由がないならば、どちらかに統一せよ、ということだ。
 小説になると、論文ほどきっちりとしていない。それでも、あまりにばらばらだと、読む方が首を傾げることになるだろう。つまり、意味があって使い分けているものだと誤解される。
 しかし、世の中の文章をちょっと注意して読めばわかるが、表記が統一されていないものの方が圧倒的に多い。「下さい」か「ください」か。「君」か「きみ」か、それとも「君」か「くん」か。「沖縄」にはルビがあるのに、「東京」にルビがないのは差別なのか、とか。
 もっとも、どれだけ神経を使ってチェックをしても、表記の統一が完璧になることはありえない。必ず見過ごしがあり、また例外もある。ここだけはどうしてもこの表記にしたい、ということもあるのだ。
 あまりにルーズだと文章の品位に関わる問題となるが、躍起になって神経をすり減らすようなことでもない。適当に統一するのが良いと思う。


2007年11月01日(木曜日)

【国語】 イチが付く場合

 数字を口でいうとき、10は「十」だが20は「二十」といい、つまり十の前の一が省かれる。これは百でも千でも基本的に同じ。ただ、「一百」は言わないけれど、「一千」の方はたまに言う。たいていは「千」だけだ。が、丁寧に言うときだけ、「一千五百」のように言うようだ。
 ところが、「万」になると、「一」を省くことはない。10000は必ず「一万」と言う。どういうわけか、万は特別らしい。またさらに、「十万」、「百万」には「一」をつけないのに、何故か「一千万」にだけは必ず「一」をつける。「千万円のダイヤ」などとは言わない。ただし、「千五百万」のように、後ろに万以上の単位がつくと「一」がなくなる。
 これより上は、だいたい法則が繰り返される。「億」は「万」と同様である。しかし、「千億」は「一」がなくても言いそうな気がする。このくらいの単位になると、多くの人は口にする機会がほとんどないので、サンプル自体が少ない。
 西暦を言うとき、このまえまで「千九百〜」がついていたわけだが、今は「二千〜」がつく。11世紀から20世紀までよりも、21世紀から30世紀の方が、つねに「二」だけ発音も文字も余分になるので、その分エネルギィが必要だ。


2007年10月28日(日曜日)

【国語】 座右の銘

 色紙なんかに、好きな言葉を書いてほしいと頼まれることがある。あれは、本当に困る。
 小学校4年生のときに、僕が好きな言葉は「未完成」だった。どういうわけか、この言葉の響きが気に入って、好きな言葉を書かなくてはいけない場合には、これを書くことに決めた。だから、友達が転校していき、お別れ会をしたときなんかの寄せ書きにも、「未完成」と書いてやったのだ。習字の時間に、クラスで一番字の上手な女の子に頼み込んで、「未完成」と書いてもらい、それを持ち帰って、自分の部屋の壁に貼っておいたくらいだ。このまま大きくなっていたら、卒業文集にも「未完成」と書いただろうし、友達が結婚するときのメッセージにも「未完成」という言葉を贈ったかもしれないし、小説家になって、「未完成シリーズ」なんて書いていたかもしれないが、残念ながら、その未完成ブームは1年ほどで終わってしまった。
 しかし、それ以来、好きな言葉というものはなくなり、その後は、これだと決めたことはない。座右の銘もない。「もう誰にも止められない」とか、「当たって砕けろ」とか、「一網打尽」とか、「母を訪ねて三千里」とか、そういうのをメッセージに書くと、ちょっと面白いかもしれないけれど、誤解を招くのがオチである。結婚式のメッセージに、「次回も是非呼んで下さい」なんて書くのも気がきいているけれど、冗談のわからない人は多いので気をつけた方が良い。
 そういうわけで、「座右の銘は?」ときかれたときには、「なにものにも拘らない」と書くことにしている。「座右の銘などない」というのが座右の銘だ(数学的に矛盾)。


2007年10月23日(火曜日)

【国語】 間違ったカタカナ表記

 英語をカタカナで表記する場合、書き方がいろいろあって困る。検索するときに特に困る。「ミステリー」も「ミステリィ」も「ミステリ」で検索できるから、まだ被害が少ない。
 「アタッシュケース」は、本当は「アタッシェケース」が正しいが、たいていの人は「ュ」の方を使っているようだ。僕もそうだと思っていた。小説を書き始めた頃、校閲から指摘されて初めて知った。
 「エンタテインメント」は、「エンター」と伸ばす方が多い。「エンターテーメント」と「ン」を省いて言う人も多数だ。戦闘機や車の名前にある「マスタング」は、昔は「ムスタング」だった。もっといえば、「フィルム」を、年輩の人は「フイルム」と言う。でも、「イギリス」とかはそのままだ。天使の「ガブリエル」は、「ゲイブリエル」だろうか。お金の「ドル」は、どうしてドルになったのか不思議だ。どう聞いても「ダラ」だと思う。
 よく間違えに出会うのは、「シュミレーション」である。正しくは「シミュレーション」。「コミニュティ」も、「コミュニティ」が正しい。
 映画のことを昔は「キネマ」といったようだ。cinematographのことだが、これは、kinematographという単語がちゃんとある。英語で「ch」なのに、「チ」ではなく「シ」と読むものも多い。たとえば、「Chicago」がそうだ。どうして、「チカゴ」じゃないのだろう。
 ビールを飲むときの「ジョッキ」が、「ジョッキー」か「ジョッキィ」かどちらだろう、と思ってスペルを探したら、そんな英語がなかった。これはまったくの和製語らしい(水差しのjugが語源)。


2007年10月18日(木曜日)

【国語】 へとに

 場所を移動する場合の目標地点を示す助詞として、「へ」がある。「学校へ行く」の「へ」だ。しかし、この頃ではこれを「学校に行く」と言う人が多数になった。僕が観察したところでは、ほとんどの人は、「へ」ではなく「に」を使っているようだ。「外へ出る」か「外に出る」か、「ポストへ入れる」か「ポストに入れる」か、ちょっと考えていただきたい。意識すると、どちらでも良いと思えるほどだし、べつに「へ」を使っているよ、と思うかもしれない。でも、実際の会話では、思いのほか使われていないのだ。
 どうしてだろう。1つ思いつくのは、「へ」という文字表記であるのではないか、ということ。発音は「え」なのに、文字は「へ」と書く。これは、子供たちには非常にわかりにくい約束事だ。もともとは、「へ」に近い発音をしていたのに、その名残はもうほとんどなくなった。文字だけを残したのは、「へ」と書いた方が平仮名ばかりの文が読みやすい、という利点があったからだろう。同様のものに「を」がある。これは今でも、「お」の発音とは違い、「wo」と発音する人が多いと思う。
 僕は、最初に小説を書き上げたあと、もう一度読んで手直しをする。そのとき、「に」を「へ」に直すことが多い。1作のうち、10箇所以上直す。つまり、ついつい「に」を使ってしまうけれど、「へ」の方が、日本語として美しいな、とまだ思っているためだ。
 ただ、会話では、「へ」はあまり使えない。さらに、会話のほとんどは、既に助詞が省略されている。「東京へ行ってきた」ではなく、「東京行ってきた」と言う人が増えた。助詞をきちんと入れることが、「丁寧語」に聞こえる昨今である。


2007年10月13日(土曜日)

【国語】 「出す」か「だす」か

 走り出す、思い出す、吹き出す、逃げ出す、など、ほとんどの動詞には「出す」をつけることができる。これは、大きく分けると2つの意味がある。1つは、「出す」の意味が含まれ、どこかから外へ出ていく動作を表現するもので、「走り出す」であれば、「走って」「出ていく」という意味だ。「思い出す」ならば、「思って」記憶を頭から「出す」ことを示している。
 そうでない意味もある。たとえば、「突然彼は笑い出した」のような場合。これは、笑うことを表に出したわけだが、つまりは「笑い始めた」という意味である。「走り出す」は、「出る」動作が伴わず、単に「走り始める」の意味で使われる場合が多い。「雨が降り出した」という場合も、降って出ていくわけではなく、「降り始めた」ことを表している。また、「思い出す」でも、「話を聞き、そのときから少し変だな、と思い出した」という場合は、「思い始めた」という意味だ。
 僕は、この両者を区別するために、前者は「出す」と漢字で書き、後者は「だす」と平仮名で書くことにした。同類のものでは、「食べて行く」と書かず、「食べていく」のように書く。「書いて来た」も「書いてきた」と書く。これらも同じ理由である。


2007年10月09日(火曜日)

【国語】 字間

 僕は原稿用紙というものを持っていない。400字詰め原稿用紙、という言葉をよく耳にするが、原稿用紙はすべて400字詰めなんだろうか。どうして500字詰めにしなかったのだろう。そちらの方が数えやすいのに、と思ったりする。
 この原稿用紙を見ればわかるとおり、日本語では文字は大きさが同じだ。文字と文字の間はあまり開けない。行と行の間を開ける。1行に入る文字数はほぼ決まっている。ときどき、禁則処理などのために、文字間を詰めたり開けたりして調整することがあるが、基本的に、単語の途中であっても改行して良い。
 英語は、そもそもフォントが1つずつ大きさが違う。iなんか幅が狭いし、Wは広い。タイプライタなどで、等幅で活字を打つものがあるけれど、それは素人臭いフォントに見える。コンピュータはもともと等幅のフォントだったが、Macは早い時期からプロポーショナル・フォントだったので、英文を打つととても綺麗だった(フォントのサイズも自由だったし、画面で見るのとプリンタ印字が一致していた)。英語は基本的にワードとワードの間にスペースがある点が日本語と異なる。
 ところで、手書きの文字を書いているときは、平仮名ばかりが続いたり、区別したいけれど読点を打つほどでもない、という場合に、ちょっとスペースを開けて書いたりしたものだが、そういうことは活字のシステムにはない。特に、この頃の話し言葉では、「てにをは」が省かれる場合が多い。「朝俺起きたらあいつ飯食ってて」みたいなふうだ。これを「朝に俺が起きたら、あいつが飯を食っていて」と書けば読みやすくなるけれど、残念ながら現代風の文章とはかけ離れてしまう。一方、「朝、俺、起きたら、あいつ、飯、食ってて」と書いても良いが、それでは「森博嗣みたいだ」と言われるかもしれないので、抵抗がある。「ちょっと開けるスペース」みたいなのを作っても良いかも、と思ってみたりもする。


2007年10月05日(金曜日)

【国語】 全角と半角

 ワープロが普及して、日本語を簡単に活字にできるようになった。僕は、ちょうどこれが普及した時代に生きてきた。学生の頃には、日本語の活字を扱うことは、素人にとって和文タイプという方法しかなく、それも今のパソコンよりもずっと高価な機械だったし、時間は100倍もかかった。まさか、こんなに早く手軽に日本語が入力できるようになるなんて考えもしなかった。
 さて、活字を扱うようになり、「フォント」というものがメジャになった。それまでは「字体」と読んでいたものだが、普通の人が意識するようなものではなかった。コンピュータは最初、255文字しか扱えなかったから、アルファベットと数字とカタカナと、あとは記号だけだった。これが、今では「半角文字」と呼ばれているものだが、当時はもちろんそれしかないわけで、「半角」なんて言葉もなかった。のちに、漢字を扱うようになり、2バイトを使ったコードが定められ、また、ドットの解像度を稼ぐために、横に2倍にして漢字を表示した。これが今でいう「全角」文字だ。全角ができて、初めて従来の半角文字と区別されるようになった。
 今は、その両方が混ざって用いられる。特に、アルファベットと数字とカタカナは全角と半角の両方の文字がある。カタカナの半角はもう忘れよう。なかったことにして、使わない方が良い。しかし、アルファベットと数字は、なくすわけにいかない。何故なら、外国の人とコミュニケーションを取るには、この文字しかないからだ。
 全角で表示されたウェブサイトは、日本のコードを認識するシステムでしか見ることができない。だから、外国の人には読めないし、その形さえ見ることができない。アルファベットや数字も全角を使うと伝わらない。
 僕は、数字の1桁は全角にすることが多い。これは、縦書きになったときに横を向かないようにしているためだ。小説の場合は、そもそも算用数字を使わない。漢数字が基本なのである。非常に抵抗があったが、慣習に従った。新聞なんか、西暦も漢数字である。
 このMLAでは、【算数】のときは、数字をできるかぎり半角にしている。混ざっていると見にくいからだ。論文などは横書きなので、アルファベットと数字はすべて半角に統一している。


2007年10月01日(月曜日)

【国語】 「微妙」の微妙さ

 「微妙」を広辞苑で引いてみよう。意味が2つ書かれている。「美しさや味わいがなんともいえず優れているさま」と「細かいところに複雑な意味や味が含まれて、なんとも言い表しようのないさま」と。前者の例として、「微妙な調べ」があり、後者の例としては、「微妙な関係」が挙げられていた。
 さて、しかし、最近の若者が使う「微妙」はこうではない。「新曲は、微妙だよね」といえば、あまり良くない、感心しない、ぱっとしない、今ひとつである、という意味だ。これでは、「微妙な調べ」と言っても、逆の意味に受け取られてしまうだろう。
 ちなみに、今、「ぱっとしない」ではなく、「ぞっとしない」と書こうと思ったのだが、この「ぞっとしない」も最近は別の意味に使われることが多い。もともとは、「感心しない」「今ひとつ面白くない」の意味だ(広辞苑にもそう書かれている)が、「そんなに恐くない」とか「悪くはない」という意味に使っている人がけっこういる。
 話を戻そう。「微妙」と同じ発音で、「美妙」がある。これは文字どおり「美しくたえなること」「麗しくなんともいえず優れていること」とある。つまり、「美妙」よりは、微かになっているが、やはり「たえなるさま」が「微妙」なのである。類似のものに、「絶妙」があって、こちらは、「この上なく巧みなこと」の意になる。
 「微妙」の意味が変化したのは、「微妙だけれど、面白くなかった」→「微妙に面白くなかった」となって、この後半が省略されたものと想像する。「微妙ですね」と聞いたとき、どちらに受け取るのかは、発言者の年齢や雰囲気から読むしかなく、いずれにしても微妙である。


2007年09月19日(水曜日)

【国語】 くしくも

 よしもとばななさんのメールのサブジェクトが「くしくも」だったので、「お、これは【国語】が書けるぞ」と思ったら、ご本人も、「くしくもで【国語】を書きそうって思いました」とのこと。くしくも見破られていた。
 最近はあまり使わないから、若い人の中には「くしくも」の意味がわからない人がいるだろう。また、学生なんかが「きしくも」なんて言っているのを耳にしたことがある。漢字では「奇しくも」なので、その読み方もありがちだ。また、「苦しくも」と書きそうだが、それは「苦(くる)しくとも」である。
 「奇し」とは、文字のとおり、「奇怪な」「不思議な」という意味であり、「くしくも」は、「不思議にも」と同じだ。そこまでいかないまでも、「偶然にも」「たまたま」「予想していなかったのに」みたいなときに使われる。すなわち、自分が意図し、計画したものでないのに、どういうわけかそうなってしまった場合に用いる。
 「娘のために書いた小説だったが、くしくも、それが出版され、ベストセラになった」というように使うわけだが、多くの場合は、影で努力していたりするわけで、「くしくも」を謙遜で用いることも多いだろう。特に、政治家が「くしくも、皆様のご声援を得ることができました」などと言うときは、ほとんど意味を持たない、枕詞だと理解して良い。このあたりが、英語のstrangelyとはだいぶニュアンスが異なる。
 「くしくも」不本意な結果になってしまう場合と、「おしくも」そうなってしまう場合があるが、客観的に見れば、実はまったく同じ現象である。


2007年09月15日(土曜日)

【国語】 強調表現

 英語のveryのように、後ろの言葉を強調する表現が沢山ある。
 会話では、ついつい強調したくなる。「美味しいね」と言えば伝わることを、「凄く美味しいね」と言う。その方が、相手により気持ちが伝わるような気がするからだ。したがって、会話の場合には、一般に強調表現は過剰になりがちである。
 若い頃、自分の書いた論文を偉い先生に見てもらったとき、「こういった指摘は非常に少ない」や「この点に留意することが今後非常に重要となる」の「非常に」を削りなさい、と指摘されたことがある。「君は、どういう定義で『非常に』を使っているのか」と尋ねられた。以後、気にして使用するようになった。
 たとえば、「もの凄く美味しい」と「死ぬほど美味しい」はどちらが美味しいのだろう? 人それぞれ、ケース・バイ・ケースであるが、使いすぎて効果がなくなったものを使い捨て、どんどん新しい表現が生まれているようにも見える。
 思いつくものを挙げてみよう。
 とても、かなり、明らかに、非常に、絶対に、大いに、凄く、もの凄く、著しく、過激に、顕著に、素晴らしく、めちゃくちゃ、とんでもなく、限りなく、はてしなく、比較にならないほど、言葉にならないほど、宇宙的に、この世のものとは思えないくらい、びっくりするほど、おどろくほど、やみつきになるほど、最高に、一番、だんとつに、断然、空前絶後に、今までで一番、信じられないくらい、ありえないくらい、死にたくなるほど、死ぬほど、これらを全部合わせたよりもさらにもっと……。


2007年09月10日(月曜日)

【国語】 の授業 by 太田忠司

「先生、教科書から『ら』が落ちました。ちゃんと見れません」
「またですか。最近の『ら』は弱くなってしまいましたね。落ちた『ら』は拾って貼りなおしておくように。それと『見れません』ではなく『見られません』と言うようにね」
「先生、『い』も落ちちゃいました。みんな混乱してます」
「『い』も昔から弱い字でしたからねえ。強力な接着剤を用意しましたから、これで絶対に剥がれないようにしっかりと貼り付けてください。それから『混乱してます』ではなく『混乱しています』と言うように」
「でも『混乱してます』でも意味が通じますけど」
「駄目です! 私たちは正しい日本語を使うための授業を行っているのですよ。まったくおみゃあさんたち……いえ、君たちは自覚がなくて困ります」
「先生、今度は『さ』がたくさん乱入してきました。これでは授業になりません。家に帰らさせていただきます」
「待ちなさい、帰ってはいけません。『さ』を追い払えばいいことです。それと『帰らさせていただきます』ではなく『帰らせていただきます』ですよ」
「わかりました。帰らせていただきます」
「そうじゃないってば。帰っちゃ駄目なの。まったくもう、最近の国語はやりにくくていかんがね。まともに本も読めれん」
「先生、それは『れ』が余分です。『読めん』が正しいです」
「ええんだて! わしは名古屋の人間だで、昔から『読めれーせん』と言っとったの。そんだで『読めれん』でもええんだて」
「でも僕らは正しい日本語を使うための授業を――」
「名古屋弁が正しい日本語でにゃあだと? そんなことあらすか。どこのたーけだ、そんな言っとるのは。ここに出てこやあ。まーあかん、授業がわやになってまったがね。だゃあてゃあだな、名古屋弁はよお信長様の昔からニッポンの……」

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