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2005年04月19日

sekainisonzai2.jpg単行本情報・5月13日(金)発売決定!

この本が、世界に存在することに
角田光代 メディアファクトリー 1470円
本への愛情をこめて角田光代が描く新境地!

泣きたくなるほどいとおしい、ふつうの人々の“本をめぐる物語”が、あなたをやさしく包みます。心にしみいる九つの短編を収録。単行本書下ろしの角田光代自身の本にまつわるエッセイもあります。お楽しみに!

小説、エッセイなどが20〜30代の女性を中心に人気を集めている、第132回直木賞受賞作家・角田光代が書き下ろす「本」にまつわる短編小説。連載は好評のうちに終了いたしました。ただいま、連載をまとめた待望の単行本を準備中です! こちらのページでは、連載された短編の中から1編をお読みいただけます。


『さがしもの』-1

12Poto.jpg
撮影/角田光代

 その日のことはよく覚えている。私は中学二年生だった。
 学校から帰ると、ダイニングテーブルに着いた母が泣いていた。ひ、と思った。泣いている母なんて、見たことがなかったから。
 おばあちゃんね、もうだめなの。もうだめなのよ。母は泣きながら、その場に立ち尽くす私に言った。おばあちゃんというのは母の母である。死んじゃうってこと? と思ったけれど、口には出さなかった。母をもっと泣かせるような気がして。
 おばあちゃんは数週間前に入院していた。四人部屋の、一番奥のベッドだった。ベッドサイドに座ると、すごく広い空が見えた。
 泣く母を見た次の日から、私は毎日のように病院にいった。たいていは学校帰りにいったけれど、ときどきは学校を抜け出して病院にいった。おばあちゃんはもうじき死んでしまうような人には見えなかったけれど、きっと母の言っていたことは本当なのだろう、面会時間外に病室にいっても、看護婦さんたちはとがめたりしなかった。
 午後の早い時間に病院にいくと、母もおばさんたちもきていなくて、おばあちゃんはひとり、ベッドに横たわっている。テレビを見ていることもあれば、隣のベッドの人と話しこんでいるときもあった。私を見ると、
「ああ、きたの」とおもしろくなさそうに言って、矢継ぎ早に用を言いつけたりした。
 紙パックのぶどうジュースを買ってきて。ゴシップがいっぱいのった週刊誌を買ってきて。これ、入院患者用の洗濯箱に入れてきて。葉書を三枚買ってきて。
 用がすんでしまうと、私はベッドサイドに置いたパイプ椅子に腰かけて、おばあちゃんとテレビを見たり、ゴシップ記事ののった雑誌を読んだりし、おばあちゃんが眠ってしまうと、そこで宿題をしたり、窓の外のひろびろとした空を眺めたりした。
「ねえ、羊子、本をさがしてほしいんだけど」
 あるときおばあちゃんはそう言った。
「いいよ、何。買ってくる」
「下の売店にはないよ。大きな本屋さんにいかなくちゃないと思うよ」
「わかった。明日放課後いってみる。なんて本?」
 おばあちゃんはじっと私を見ていたが、ベッドのわきに置かれた机の引き出しから紙とペンを出し、眼鏡を掛け、なにやら文字を書きつけた。渡されたメモを見ると、私の知らない名前に、私の知らないタイトルが、殴り書きされていた。
「えー、聞いたことないよ、こんな本」私は言った。
「あんたなんかなんにも知らないんだから、聞いたことのある本のほうが少ないだろうよ」
 おばあちゃんは言った。こういうもの言いをする人なのだ。
「出版社はどこなの」
「さあ。お店の人に言えばわかるよ」
「わかった。さがしてみるけど」
 メモをスカートのポケットに入れると、おばあちゃんは私に手招きをした。ベッドに身を乗り出して耳を近づける。
「そのこと、だれにも言うんじゃないよ。あんたのおかあさんにも、おばさんたちにも。あんたがひとりでさがしておくれ」
 おばあちゃんの息は不思議なにおいがした。いいにおいかくさいにおいかと言われれば後者なんだけれど、嗅いだことのない種類のものだった。そのにおいを嗅ぐと、なぜか、泣いている母を思い出すのだった。
 おばあちゃんの言葉通り、次の日、私はメモを持って大型書店にいった。そのころはコンピュータなんてしろものはなくて、店員は、分厚い本をぱらぱらめくって調べてくれた。
「これ、書名正しいですか?」店員は困ったように私に訊いた。
「と、思いますけど」
「著者名も? 該当する作品が、見あたらないんですよね」
「はあ」
 私と店員はしばらくのあいだ見つめ合った。見つめ合っていてもしかたない、ひとつお辞儀をして私は大型書店を去った。

「おばあちゃん、なかったよ」
 そのまま病院に直行して言うと、おばあちゃんはあからさまに落胆した顔をした。こちらが落ちこんでしまうくらいの落胆ぶりだった。
「本のタイトルとか、書いた人の名前が、違ってるんじゃないかって」
「違わないよ」ぴしゃりとおばあちゃんは言った。「あたしが間違えるはずがないだろ」
「だったら、ないよ」
 おばあちゃんは私の胸のあたりを見つめていたが、
「さがしかたが、甘いんだよ」すねたように言った。「どうせ、一軒いってないって言われてすごすご帰ってきたんだろ。店員も、あんたとおんなじような若い娘なんだろ。もっと知恵のある店員だったらね、あちこち問い合わせて、根気よく調べてくれるはずなんだ」
 そうしてふいと横を向き、そのままいびきをかいて眠ってしまった。
 私はメモ書きを手にしたまま、パイプ椅子に座って空を見た。季節は冬になろうとしていた。空から目線を引き下げると、バス通りと、バス通りを縁取る街路樹が見えた。木々の葉はみな落ちて、寒々しい枝が四方に広がっている。
 すねて眠るおばあちゃんに視線を移す。私の知っているおばあちゃんより、ずいぶんちいさくなってしまった。それでも、もうすぐ死んでしまう人のようにはどうしても見えない。また、もうすぐ死んでしまうのだと思っても、不思議と私はこわくなかった。きっと、それがどんなことなのか、まだ知らなかったからだろう。今そこにいるだれかが、永遠にいなくなってしまうということが、いったいどんなことなのか。

 その日から私は病院にいく前に、書店めぐりをして歩いた。繁華街や、隣町や、電車を乗り継いで都心にまで出向いた。いろんな本屋があった。雑然とした本屋、歴史小説の多い本屋、店員の親切な本屋、人のまったく入っていない本屋。しかしそのどこにも、おばあちゃんのさがす本はなかった。
 手ぶらで病院にいくと、おばあちゃんはきまって落胆した顔をする。何か意地悪をしているような気持ちになってくる。
「あんたがその本を見つけてくれなけりゃ、死ぬに死ねないよ」
 あるときおばあちゃんはそんなことを言った。
「死ぬなんて、そんなこと言わないでよ、縁起でもない」
 言いながら、はっとした。私がもしこの本を見つけださなければ、おばあちゃんは本当にもう少し生きるのではないか。ということは、見つからないほうがいいのではないか。
「もしあんたが見つけだすより先にあたしが死んだら、化けて出てやるからね」
 私の考えを読んだように、おばあちゃんは真顔で言った。
「だって本当にないんだよ。新宿にまでいったんだよ。いったいいつの本なのよ」
 本が見つかることと、このまま見つけられないことと、どっちがいいんだろう。そう思いながら私は口を尖らせた。
「最近の本屋ってのは本当に困ったもんだよね。少し古くなるといい本だろうがなんだろうがすぐひっこめちまうんだから」
 おばあちゃんがそこまで言いかけたとき、母親が病室に入ってきた。おばあちゃんは口をつぐむ。母はポインセチアの鉢を抱えていた。手にしていたそれを、テレビの上に飾り、おばあちゃんに笑いかける。母はあの日から泣いていない。
「もうすぐクリスマスだから、気分だけでもと思って」母はおばあちゃんをのぞきこんで言う。
「あんた、知らないのかい、病人に鉢なんか持ってくるもんじゃないんだよ。鉢に根付くように、病人がベッドに寝付いちまう、だから縁起が悪いんだ。まったく、いい年してなんにも知らないんだから」
 母はうつむいて、ちらりと私を見た。
「クリスマスっぽくていいじゃん。クリスマスが終わったら私が持って帰るよ」
 母をかばうように私は言った。おばあちゃんの乱暴なもの言いに私は慣れているのに、もっと長く娘をやっている母はなぜか慣れていないのだ。
 案の定、その日の帰り、タクシーのなかで母は泣いた。またもや私は、ひ、と思う。
「あの人は昔からそうなのよ。私のやることなすことすべてにけちをつける。よかれと思ってやっていることがいつも気にくわないの。私、何をしたってあの人にお礼を言われたことなんかないの」
 タクシーのなかで泣く母は、クラスメイトの女の子みたいだった。母の泣き声を聞いていると、心がスポンジ状になって濁った水を吸い上げていくような気分になる。
 あああ、と私は思った。これからどうなるんだろう? 本は見つかるのか? おばあちゃんは死んじゃうのか? おかあさんとおばあちゃんは仲良くなるのか? なんにもわからなかった。だって私は十四歳だったのだ。(つづく)

投稿者 davinci_blue : 18:35